日曜日がやって来る。天候に恵まれて、と言えば聞こえはいいが、その実かなり暑い。熱中症にならないように細心の注意を払う必要があるだろう。特に我々指導陣ではなく部員が。健康上の問題で大会に支障が出るのは一番避けたい事態だ。サンライズフェスティバルはあくまでも通過点。ここで躓くわけにはいかない。
だがいきなり練習とはならない。その前に届いた衣装たちの試着がある。男子勢は対して時間もかからないのだが、女性陣はそうもいかない。中々時間がかかるものだ。その間、男子は音楽室の外で待ちぼうけである。吹奏楽部は基本女性社会。故に、男子が目立つことは少ない。なので男子の部長などがいたら余程卓越した腕か人望を持つと思って差し支えないのだ。
「なぁ、こんなに女子がいんのにハーレムにならないのはおかしくないか?」
微妙に暑い廊下と暇さ加減に耐えかねたのか、滝野が呟く。いきなりとんでもないことを言い出したので呆れた顔で彼の方を見たが、至極真面目な顔だった。しかも同意者がいるので救えない。サックス担当の一年男子である瀧川君だ。
「俺、高校行ったら勝手に彼女できるって思ってたっすけど、全然そんな事無いっすね。モテるはずだったのになぁ……」
「人数比で言えば、一人に対して十人だぞ、誰も告白してこないのはなんでだよ! 優しくしてんのにさぁ」
滝野は憤りながら言う。先輩男子組は生温かい目。中でも彼女持ち(吹部)な野口先輩は余裕そうな顔をしている。何だかんだで上手く続いているらしい。どういう感じなのか詳しくは知らないけれど、決して悪い関係じゃないのだろう。別にそれに口を挟む気は無い。彼女である田浦先輩が私への当たりを柔らかくするよう言って欲しいと思わないでもないが。
「下心丸出しだからだろ」
「はぁ? 上手く隠せてるわ」
「どこが……」
寡黙なチューバの後藤が呆れた声を出す。彼と滝野と私が吹部二年男子の三人組だった。そして彼は彼女がいる。同じチューバの長瀬である。それも相まってか、他の女子からは好意的に見られていることが多いようだ。彼女の人望が彼氏の人望に繋がるケースもあるのだろう。
「優しくは意識してしてるとバレるぞ。ねぇ?」
「はい」
話しかけたトロンボーン一年の塚本君も私と同じような感想を抱いていたようで、同意を返してくれる。滝野の問題点は押しつけがましさと見え透いている下心ありきの優しさだ。たまに素で行動しているときもあるので、その判別が難しい。後、目を見て話した方が良いと思う。
「ケッ! 彼女持ちとイケメンは余裕だな!」
「え、後藤先輩彼女いるんすか」
瀧川君が滝野の言葉に反応し、後藤を巻き込んで彼の彼女の話を始めている。滝野は音楽室の扉が比較的分厚かったことに感謝するべきだろう。
「どっちからだったんですか?」
滝野には呆れていた塚本君も後藤の方には興味があるようで、好奇心を目に浮かべながら尋ねている。その視線に気圧されたのか、後藤は視線を彷徨わせた後小さく呟いた。
「……俺からだけど」
「やっぱりそういうのって、男から行くべきなんですかね?」
「さぁ? でも、向こうから来ないならこっちから行くしかないし」
「先輩、勇気ありますね」
「そうか?」
「そうですよ。俺、イマイチ踏み出せないですもん」
おや、と後藤は思ったようだ。同じようなことを私も考えている。踏み出せない、ということは踏み出したい相手がいるということ。踏み出せない理由は何か。考えれは幾つか候補がある。まずは全く向こうが彼を認知していないパターン。二つ目は関係値がそこまでじゃないパターン。三つ目は逆に関係値が深すぎるパターン。大体これのどれかだろう。
「お前、まさか中世古先輩じゃないだろうなぁ!」
滝野はグイっと塚本君に顔を近づける。
「なんでそうなるんですか」
「じゃあ高坂だ」
「二人ともヤバいっすもんねぇ」
多分反応的に違う。高坂さんはありそうな線だと思っていた。同じ中学で同じ吹部。関係値はありそうだ。吹部内で恋愛感情を容姿以外で抱くとすると、同じパートか同じ中学である可能性が高いのだ。
「まぁ、中世古―田中ペアはやめとけ。告っても振られるだけだし、アレは相当な男じゃないと告白しただけで他の女子から袋叩きのパターンだ」
「優子先輩とか、『この身の程知らずのクズめ!』って相手を蹴り殺しそうっすよね。滝野先輩が中世古先輩に告白したら、もう絶対ヤバいことになるっすよ」
瀧川君はサラッと酷いことを言っていく。可哀想な滝野だが、言われていることは真実なので何も言えない。吉川が蹴り殺すかは微妙だが、軽い気持ちだと間違いなくそうなる。本当に心の底から真剣に言ったなら多分慰めてはくれないけれど怒りもしないだろう。彼女はそういう人間だと思っている。
「袋叩きにされない方法、知りたい?」
「知りたいっす!」
このままだと塚本君がいじられるだけなので、話題を変えることにした。瀧川君は勢いよく食いついてくる。
「成功すればいいんだよ。そうすれば、部内ヒエラルキーも一気に上がる。
「それが出来れば苦労しないっすよ」
「はは、その通りだ」
基本後輩相手には丁寧語なことが多いが、それは練習時の話。トランペットパートや男子組などの関係値が他より近しい間柄の人にはそこそこ砕けて話すことが多い。この辺の距離感を間違えるとまた面倒なので、気を遣う。
「先輩は、好きな人とかいないんですか?」
「特には」
「お前は年上だもんな」
「そうなんすか!?」
塚本君との会話に割り込んできた滝野が大暴露を始める。別の話をしていた三年生の先輩までこちらに聞き耳を立ててくる。黙れ、という目線を送るけれど全くもって意に介すことはないようだ。
「そうだぜ。だから同学年とか年下には特に興味無さげなんだよ。俺は中世古先輩を密かに狙っていると見ている」
「いや、まったくもってそんな事はないが」
「怪しいもんだぞ、前他校の文化祭行った時だって……」
滝野の話が続く間、音楽室の扉は一向に開く気配がない。色々面倒なので、ここでの会話が全部中に聞かれていたら面白いのになぁと思った。段々と彼の話の矛先は後藤や野口先輩などの彼女持ち勢に向かっていく。技を伝授してもらいたいらしい。人それぞれのパターンがあるので、全く参考にはならないと思うが、彼にとっては教科書のような存在なのだろう。
ラジオ感覚で聞いている分にはBGMになってちょうどいい。ウザ絡みされてちょっと疲れた様子で窓辺に寄りかかる塚本君の隣に立つ。
「ウザいだろう。すまないね。後で言っておくから」
「いえ、そんなことは……ちょっと、面倒くさいですけど」
「あはは、君も言うじゃないか。もっと言ってやると良いと思う」
「男に見られるにはどうしたらいいですかね……」
音楽室の扉の向こうを見るようにして、塚本君は言う。さっきのパターンと照らし合わせて考えると、関係値はそれなりに深い。恐らく三番目のパターンなのだろう。割と付き合いが長いからこそ恋愛対象として見られているか不安、ということだ。
「相手に嫉妬させると良いかもしれない」
「嫉妬、ですか?」
「そう。ナチュラルに近くにいるのが当たり前だと相手が思っているかもしれない。そういう人は、君が誰かに恋愛的に好かれるようになると嫉妬する可能性がある。そこで相手の感情に何らかの動きがあれば可能性がある。逆に何も思われないで祝福されてしまったら……脈無しだね」
「そうですかぁ……」
がっくり肩を落としながら塚本君はうなだれる。
「第一歩が難しいですね」
「提案しておいてアレだけれど、私もそう思う」
「でも、凄いですね。そういうの思いつくの」
「まぁ、これでも伊達に大学行ってませんよ。恋愛事情と音楽は切っても切り離せないし。とは言え……う~ん、恋愛的かどうかはともかく好意はある程度示しておくと良いかもしれないね。好印象を持たれておくに越したことはないし」
「告ってもダメですかね」
「告白は一発逆転の魔法じゃないからねぇ。どっちかと言えば好意の確認作業みたいなものだし」
難しいなぁと頭を捻る塚本君。青春ド真ん中という感じだ。その悩みや煌めきは、私にとってすれば羨ましく思う所もある。
「ま、頑張りなよ。応援はしているからね」
黄前さんとの間柄を。私はそう書いたスマホのメモを彼に見せた。ビックリした顔でこちらを見ているので大正解だったようだ。近しい間柄の女子ではあるけれど中々踏み出せない。そういう相手をピックアップした時に、彼女がヒットした。同じ中学で家も同じマンションにあるとどこかで聞いた。とすれば、という想像だったわけだが、私の推理力も案外捨てたものではないのかもしれない。
ちょっと焦った顔で目を白黒させている彼を見て、口角を上げる。やはり男同士だと楽でいい。余計なことをあまり考えずに済む。彼の恋愛が上手く行くと良いな、とささやかに思いながら、私は外を見上げる。夏空に近づきつつある雲。女性陣はまだ終わらないらしい。
炎天下、というにはまだ涼しいけれどそれでも暑い昼間。外に出て練習を開始する。テントも立てて気分はさながら体育祭の準備だ。今回のマーチング練習ではドラムメジャーの副部長が中心になって指揮を執る。私は少し楽を出来そうだ。
ドラムメジャーとはマーチングの中心的存在。バトンを持って隊列を誘導する役目を担っている。花形であるが、その分プレッシャーも大きい。尤も、あの副部長の事である。そこまで重荷に感じている様子はない。学校の顔とも言える役目なので、責任重大だ。頑張って欲しいところである。
「今日はまず、楽器を持たずに練習をします。初心者と一年はステップ練習をしてください。他は全員行進の練習から始めます。足が揃ってないとある意味演奏のミスより目立つので、気合を入れるように」
「「「はい!」」」
副部長の指示に大きな返事。これだけ見ると立派な体育会系だ。実際この指示は正しい。大会でもないし外でやる以上演奏のミスは誤魔化せる。勿論無い方が良いが、そうでない場合でも対応はできる。しかし視覚的に目立つ歩幅の方はそうもいかない。去年はまさにそれを露呈したような姿だった。立華高校辺りには悪いお手本の教科書のように見えていたことだろう。眼中にないかもしれないが。
行進は歩幅が62.5センチ。左足から歩き出すことになっている。
「足ちゃんと揃えて、ちょっと身体ブレてるよ」
「前をちゃんと見て」
「背筋伸ばすよ~」
部長と副部長の声が飛ぶ。実はこの行進練習において私の役目はそんなにない。私は別にマーチングの専門家ではないし、隊列を組んだ行進において特段知見があるわけでもない。外から見てどう見えているかは伝えられるが、基本的にそれは部長と副部長がやってくれる。私の出番は演奏が加わってから。それまでは練習の補助だ。白線を引いたり、時々指摘したりである。
全体で動きの確認が終わると、次は各パートに別れての練習となる。勿論外で。外というのは特殊な環境だ。壁による反響が少ない分、一番音が響きにくい。そこも考慮してある程度の音量を出す必要がある。
楽器を吹かずに行った練習だけでかなり疲労するため、休憩時間に入ればあちらこちらに死屍累々の有様だ。飲み物だけはしっかり飲んで欲しい。
そして僅かな休憩時間を経て今度は私も出番がやって来る。楽器を持った練習だ。各パートに分かれて練習、その後に全体で行進しながら演奏する。いつもの流れと基本的には変わらない作業になるけれど、やはり動きがあるだけで大分意識をそこに割かれる。こればっかりはしょうがないだろう。立華から誰か講師を呼んできたい気分だ。
「1、2、3、4」
私が声に出しながら手を打つリズムに合わせて演奏者はその場で足を上下させる。この時、中途半端に上げていたのではいけない。しっかりと高く上げることが求められる。当然楽器を下に下げていたりするようでは見た目も悪いし音も悪くなる。腕も足も、まさに全身を使って動くのがマーチングだ。当然付随して腰や首もダメージを受ける。若さが故に為しえる競技と言えるかもしれない。
トランペットパートでも何回も足踏み練習はしてきていたが、教室でやるのと炎天下でやるのとではまた違う。しかも、これまでの行進練習でそこそこ疲弊しているのでなおさらだ。同情はするけれど妥協はできない。私も心を鬼にして疲弊している部員に鞭打つ。
「滝野、足上げる。加部、音が弱い。高坂さん、腕上げて!」
合格ラインに至るまで、この調子で注意を続ける。トランペットでこの調子なので、もっと重い楽器になるとそれはもう大変だ。特にスーザフォンなどは最たる例だろう。先生と手分けして色んなパートを見ていく。
パート練習をしている間に午後も既に三時を回る。予定通りに進行しているため、次は全体練習だ。各パートでは大きな瑕疵は無くなった。しかし全体で合わせるとまた違ってくる。
「それじゃあ全体練習に入ります。整列!」
ドラムメジャーである副部長の呼びかけに応じ、部員はサッと列をなす。この並び順はかなり前に作成されたものだ。それこそ北宇治がまだ強豪校だった頃に。あの頃は立華や洛秋と並んでサンフェスの目玉校だったらしい。その頃の物を漫然と使い続けていたのだが、却ってそれが僥倖だったかもしれない。一から考える手間は省けた。
当日は学校名を書いたプラカードを持つ部員を先頭に、続けて旗を持ったガードが来る。その後ろはポンポン持った初心者や一年生などが来る。ドラムメジャーを挟み、そして奏者組だ。その先頭はトロンボーン。スライドするトロンボーンは前に立つ人の頭にぶつかりかねない。そのため先頭だ。その後ろにはクラリネット、サックス、トランペット、ホルン、パーカッション、低音の順になる。
「では始めます!」
合図を送られたので私がグラウンドの中央部に立つ。そして笛を吹いた。それを合図に一斉に隊列が動き出す。隊列を見ながら手を強く叩いてカウントを行う。
「5、6、7、8」
太ももを持ち上げて真っ直ぐな姿勢を維持しているか。これがまず姿勢面の大事な部分だ。ドラムメジャーである副部長にも隊列に参加してもらっているため、そのあたりのチェックはグラウンドの外から見ている先生と内から見ている私で行う。
歩いていると徐々に音がズレてくる。マウスピースがズレて、音が振動で上下しているからだ。座奏では起こらないようなハプニングが起こるし、普段ならミスしないような箇所でミスしてしまう。集中力も普段以上に要求され、五体全てを動かす必要がある。
正直、サンフェスに出るべきかどうかで先生と話し合ったこともある。最終的には部員たちの士気高揚のために出ることが決まったものの、この座奏では使わない部分の訓練をすることに果たして意味があるのかどうかは悩ましい。先生も悩んでいた部分があるようだった。
とは言え、五感五体の全部を使って演奏する経験が無駄であるとは思えないし、またサンフェスのようなイベントに出場することは良い経験にもなる。人前で何かをするのに慣れていない層には訓練にもなるだろう。他校との実力差を比較するのにも使えるし、最終的には出るという結論でまとまった。出ないと今度こそ部内で大反発が起きかねないという私の密かな危機感によるものでもあったが。
「足にだけ意識を向けないでください。ドラムメジャーをしっかり見て!」
疲れているところ申し訳ないが、私も指示を飛ばしていく。後列と前列では音の聞こえ方が違うため、リズムが違って聞こえてくる。これは音楽に付き物な悩みだ。場所によって微妙に聞こえ方が変わる。特に合唱祭などでよくあることだろう。指揮者とピアノのズレが生まれるのだ。どの程度かは集団の性質や会場の性質で変わる。その場合はどちらかに合わせないと音楽が成立しない。
演奏では、全ての演奏者のタイミングが合うようにしなければならない。そしてそれは、演奏者それぞれが合っているという認識とはズレている可能性がある。故に指揮者の打点と自分が認識しているタイミングとのズレがどの程度ズレているのが適切なのか、それを意識してタイミングを取る必要があるのだ。指揮者の役目はそういう部分も大きい。マーチングではドラムメジャーが指揮者の役割を担う。
なので合唱で指揮者と伴奏の仲が悪いとコミュニケーション不足で大変なことになるのだが……それはまぁともかく。このズレの修正をしないといけない。
「今度は腕が下がってます。揃ってないと格好がつきませんからね!」
先生と私であちらこちらに指示と修正が行われる。この作業は日が傾くまで行われた。
夕陽が校庭を染めていく夕方。全体揃っての練習が終わる。取り敢えず、予定されていた練習メニューはこれで最後だ。集合した部員を前に副部長が〆を行う。
「みんな、今日はお疲れ。ラスト一回の感覚忘れないで。本番まで日数も少ないから、明日も集中して練習するからね!」
「「「はい!」」」
返事を行う表情は真剣そのもの。本番が来るまで全く合わせることなく、なんとなくで隊列を組んでいたのが嘘のよう。最早去年までと同じ団体であるとは思えない。名も無き有象無象だった過去とは異なり、今年は少なくとも記憶に残るパフォーマンスが行えるだろう。
マーチングは動きも見るが、当然音楽の一形態である以上音も外せない大事な要素だ。音量音程は絶対に欠かせない。その部分も厳しくチェックされていたので、ライディーンに関してはかなりマスターしたと言えるレベルになっているだろう。今日はもう疲れただろうし、高坂さんの個人レッスンもお休みにして体力を回復してもらおう。根を詰めすぎてもよくない。
「では、そろそろ時間ですね」
「はい。じゃあ今日はここまで。片づけに入ります」
「あの、ちょっといいかな。明日からグラウンド使えないんでしょ?だったら、もう少し合わせて置いた方が良いと思うんだけど」
部員の意識は変わった。空気は変革している。その際たる例がこれだろう。こういう声が自主的に上がることは、成長の証なのかもしれない。この声を受けて、先生は時計を確認する。
「分かりました。では、三十分だけ延長します。ただ、帰らないといけない人は帰ってください。続ける人は携帯使って良いですから、家に連絡すること」
三年生は受験学年だ。そうでなくてもだが、学生である以上勉強は本分である。故に塾などに通っている生徒も一定数いる。時間は人それぞれだろうけれど、三年生ともなればそこそこのコマ数を入れている人もいるだろう。進学クラスにはそうした生徒が多い印象を受ける。
吹部の進学クラスだと、三年なら副部長やサックスの斎藤先輩、二年は中川やみぞれ、一年は高坂さんなどが該当するだろう。高坂さんは塾などに行っていないらしいので、その学力は自前だそうだ。素で頭がいい人は羨ましい。
「先生、一応延長許可取ってきます」
「すみません、お願いします」
「いえいえ、これくらいは」
残りの練習の指導を先生に任せ、私は小走りで職員室に向かった。別にいいとは思うし先生もしないつもりだったようだけれど、一応責任者に話を通しておく必要があると思う。部活は先生や部員だけで構成されているわけでは無い。学校の中の組織である以上、学校経営に携わる層から支持されていることは大事だ。
何か問題が起きた時に対処が変わるだろうし、今回のグラウンドもそうだが文化祭の演奏時間などで待遇が良くなる可能性がある。それに、おんぼろな楽器が多いウチの学校でその修理や交換をする際に予算を下ろしてくれやすくなる。先生は気にしてないようだが、まだ目に見える結果を残せていない以上、こういう所で好感度を稼いでいくのは大切だと思っているのだ。
夕暮れの廊下を歩き、職員室の戸を叩く。休日と言うこともあり、残っている先生はほとんどいない。教頭先生がデスクワークをしているほかは、特段人影は見当たらなかった。
「教頭先生」
「おや、桜地君」
「お疲れ様です」
初老の教頭はそれなりに長くこの学校にいる。現在の北宇治吹奏楽部に対してどう思っているのか知らないが、応援してくれればありがたい。
「三十分ほど延長することになりました」
「分かりました。受験生は……」
「用事がある人は帰宅するように促していますので、安心してください」
「そうですか。何分、三年生ともなると保護者の方も色々ありますから……」
やれやれといった具合で頭を掻いている。気の弱そうな態度だが、教頭と言えば実質的な先生のまとめ役と聞いたことがある。とすれば、この先生もそれなりに場数を経験しているのだろう。
「今年の吹奏楽部は頑張ってるようですね」
「はい。全国大会を目指していますので」
「全国、なるほどそれで……。練習が大事なのは分かりますが、練習させすぎることの無いように、くれぐれもお願いしたいものです。昨今の部活事情は、昔のように練習一徹を許してはくれませんので」
「ごもっともですが、滝先生に直接仰ってはいかがですか?」
「馬耳東風のようですので」
「それは……まぁ……なんとなく想像は出来ますね」
お互いに苦笑する。他の先生や生徒の目が無いからか、教頭先生も割と砕けた態度だ。滝先生がこういった注意を小言と捉えて聞き流しているのは事実だろう。あの先生はそういう事をする。ある意味では目的の為に手段を選んでいない。私と同じような思考法なのだろう。だからこそ、私を吹部に引き込もうとした。
ただ、その手段の種類はまだ少ないのかもしれない。先生は高坂さんと知り合いなのだから、彼女が私の演奏技術に思う所があるのは知っていたはずだ。それならば、先生自身と高坂さんを使った二つの方面から私を説得することも出来たはず。そういう選択を私ならばしてしまいそうである。尤も私がそれで説得されたかは不明だが……。
「スポコンの時代は終わってしまったのかもしれません。君は、滝先生に頼りにされているようですね。生徒にこんな事を言うのもおかしな話ですが、部活動というのはある種の聖域性を孕んでいます」
「聖域、ですか」
「はい。部員と顧問以外が介入することはほとんどありません。吹奏楽部も音楽室という扉の中でどういう指導が行われているのか、私たち他の教職員は知りませんので。ですから吹奏楽部に限らず、時々パワハラなどが問題になるのです」
「確かに、そういう側面はあるかもしれませんね。人数が大所帯になるほど人間関係は複雑化しますし、問題の温床にはなりやすいのでしょう」
「その通りです。滝先生はまだ若い。熱心が行き過ぎることもあるかもしれません。彼が頼りにしている君なら、忠告を聞き入れるでしょう。適度にストッパー役になってくれると、私としても安心です」
「私も同じ穴の狢かもしれませんよ?」
「それは無いでしょう。少なくとも、君は吹奏楽部で問題が起こることを嫌っています。そして問題が発生していることを冷静に捉える客観性も持っている。だからこそ、去年私に事情説明に来たのではないですか?」
「……そんなこともありましたね」
去年。集団退部が起こった時、担任から教えられた。かなりの数が辞めたので、それなりに問題になっていると。去年の顧問がパワハラを行ったのではないか。虐めが起きているのではないかと。確かに後者に関しては正解とも言える事象は発生していた。何を以て虐めとするかは人によるが、少なくとも真っ当な状態ではないだろう。
当事者からの説明が無いまま進行しようとしていたので、私は教頭先生に事態のある程度の説明を行ったのだった。別に去年の三年生を庇ったわけでは無い。万が一廃部などになっては中世古先輩や吉川などに申し訳ないと思ったからだ。確かに真っ当な運営状態ではなかったが、残された部員の事を考えれば公的な裁断を行うのには反対だった。
それに、辞めた部員もそういう事を望んでいたわけでは無い。何故なら、もしそうなら私の説明の後に行われた事情聴取で何らかの訴えをしていただろう。勿論もう何も期待していないから諦めていた可能性も十分あり得るが……。
ともあれ、そんなこんなで私と教頭先生には繋がりがあるのだった。
「勿論、桜地君自身の学校生活も大事なものです。特殊な学歴であろうと、今は我が校の生徒。充実した高校生活を送って欲しいと思っています。今の立場も、君が承諾していなかったら絶対に許可しないつもりでした。何かあれば、力になります」
「ご配慮、ありがとうございます」
私は頭を下げる。無能な味方に沢山いられても困るが、そうでない味方ならいるに越したことはない。教頭先生という校長に次ぐ責任者が吹奏楽部や私に好意的であるのは決して無駄なことではないはずなのだ。
「それでは、失礼します」
「頑張ってください」
「ありがとうございます」
職員室を後にして、昇降口でまた靴に履き替える。昇降口からグラウンドは反対方向だけれど、練習をしている音は聞こえてくる。大層な上達具合だ。去年が最低値に近かったからかもしれないが、比較すれば大きな違いだろう。それはよく実感するが、教頭先生と話したことで再度思わされる。
去年こうだったら。もしそうだったら、きっと誰も不幸にはならなかったはずだ。私は去年の三年生の態度には腹を立てているが、その思想にまでは文句を言う気は無い。確かに頑張ることは面倒なことでもある。去年の顧問が言うように、楽しく演奏することも大事なことだ。
皆がそれに納得して、楽しく部活動を出来るように働きかけて、ほどほどの練習でもそれなりに楽しい音楽を奏でられているのなら、それはそれで理想的な部活の姿だっただろう。だがそうではなかった。実態は考え方の違う存在を排斥しているだけ。理想とは程遠い。皆が楽しく、ではなく自分たちが楽しいことを優先していた、そんな部活だ。三年生は利己的で自己中心的だった。同時に、改革派も自己中心的だった。彼らも、三年生たちの思いを理解しようとはしなかった。
結局、対話と歩み寄りが足りなかったのが全ての失敗だろう。それを導けるカリスマも、或いは全てを破壊する存在もいなかった。だが今年はそれがいる。だからこそ今の状況がある。去年あれだけ声高だった層も、今では練習に励んでいる。まるで人が変わったかのように。
そうなるように導いて、誘導して、そそのかした。今の状況は望んだとおり。描いた通りの絵図が出来上がりつつある。にも拘らず、どうしてこんなにも虚しい感情になるのか。どうしてこんなにもどす黒い何かが心中で蠢くのか。
「現金なことだ……」
「誰が?」
誰もいないと思っていた昇降口。だが私の呟きは聞かれていたらしい。振り返れば鞄を下げ、制服に着替えた斎藤先輩が立っている。彼女は私や先生の誘導には乗らない層だった。理解しながら乗っている田中先輩とはまた違う。
夕陽は私の長い影を地面に映す。暗くなった校内のせいで、先輩の表情はよく見えない。彼女の視線を受けながら、どう誤魔化したものかと考え始めた。