音を愛す君へ   作:tanuu

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第百三音 逃亡

 あれからどうやって家に帰ったのかはよく覚えていない。送迎していくと申し出てきた由良さんを拒否して、鳴り響く鈍痛を無視するように家路を歩いた。人はいつか死ぬ。それはどうしようもない事実として存在している。よくよく理解しているつもりだ。それでも、例え好きではない相手でも、自分の身内が死ぬ可能性が高まっているという事実を前に冷静でいられるほど、私は人間性を捨てていなかった。

 

 それでも心の底から悲しめない自分もいる。鎖が消えるんじゃないか。そういう風に期待してしまう自分がいる。そしてこれは、誰にも言うことのできない、言うべきではない感情なのだろう。身近な人の死を経験して、悲しみにくれた経験を持ちながらもなおこんな感情を抱いているのは、どう考えても正しくない。

 

 こんな感情が外に露呈してしまえば、私の周りから人がいなくなってしまう。私は孤独になってしまうのだ。それだけは嫌だった。手放すには、今私の周りにある環境は温かすぎる。

 

 私の帰還を待っている大学の友人がいて、気を抜いて話せる同性の友人がいて、部活の仲間や後輩がいて、妹や雫さんがいて、そして……いつだって眩しい笑顔を浮かべる彼女がいて。そんな環境を手に入れてしまったら、手放すことなんて出来るわけがない。汚いとか、黒いとか、そういう段階を通り越した醜い自分を露わに何か出来やしない。ありのままの自分なんて、見せられるわけが無いのだ。

 

 まだ蒸し暑い9月下旬の夜は、私を包んでいく。じっとりとした汗が浮かんできた。月も星も出ていない灰色の空は、私の心を示しているように暗い。街灯の光が点滅する。その明滅する光の中を、私はフラフラとした足取りで家に向かった。玄関を開けて、手を洗って、リビングに行く。既にもう時計は8時を回っている。妹も雫さんも、私を静かに待っていた。

 

「……ただいま」

「凛音君……お帰りなさい」

「兄さん! どうだった?」

「どうだった、とは」

「お祖母様」

「先生の話では、今日明日にどうこうなるような話ではないと。別に大病を患っているわけでもないらしい。今回のは眩暈で倒れたのを過剰反応したんだそうで。一応今日は検査入院らしい。ただ、仕事量が変わらないのに年齢は嵩んでいくから、これまでの人生の疲労も合わせて表面化しつつあると。だからいつまでも元気、と言うわけにはいかないんだそうだ」

「そっか……でも無事でよかった」

「ですね」

 

 二人は安心したような顔をしている。どうしてこの二人は、そんなに素直に喜べるのだろうか。散々私たちの人生に干渉してきただけの存在なのに、どうして。私の中に黒い感情が溢れるようにして湧き出てきた。

 

「本当に、そう思ってる?」

 

 口をついて出たその言葉に、妹は困惑したような顔を浮かべた。

 

「本当にって、どういう意味? 兄さん?」

「……いや、何でもない」

「凛音君は、そう思っていないのですか?」

「何でもないです、忘れてください」

 

 私はそう言って、無理矢理話を切った。無事でよかった。そういう感情が一番最初に出てこなかった自分はきっと間違っていて、この二人がきっと正しいのだろう。本当に心の底から安堵しているのかは分からない。そういう風に演じているだけなのかもしれない。それでも、そういう演技だったとしても、取り繕うことすらできない今の私の精神状態は、きっと良くないのだろう。

 

 祖母が嫌いだった。それ以上に、祖母が倒れたという報告を聞いたときに悲しみが浮かばなかった自分が嫌いだった。自分の中に、人間として欠けてはいけない大事な部分がどこかで欠けているのだろう。音楽家はまともじゃない人が多い。どこか一つ、ピースを落としてきたような存在が多いように思う。それは私の勝手な経験則だ。だけれどもしこれが、類が友を呼ぶという現象なのだとしたら、私は彼らと同じように何かが欠けているのだろう。そしてそれは明確に言語化は難しいけれど、敢えて定義するなら今の事態を悲しめない、心配することも出来ないこの非人間性なのだろう。

 

 吐きそうなくらい、気持ち悪かった。こんな自分が、気持ち悪くて。そんな自分なのに、あんな綺麗な子と共にいることが許せなくて。

 

「ご飯は、もう出来てるから、二人でチンして食べて」

「兄さんは……?」

「……寝る」

「お風呂は?」

「明日の朝、シャワーで済ます」

「だい、じょうぶ?」

「大丈夫、大丈夫……大丈夫だから、明日も朝から練習だから、しっかり寝なさい。雫さんも、明日はお弁当いる日ですよね? 作りますから、安心してください。それじゃあ、お休み」

 

 二人を振り払って、私は自分の部屋に戻る。疲れた身体は鉛のように重い。鞄を床に放り投げて、思いっきりベッドの上に倒れ込んだ。仰向けに天井を眺める。電気の光がぼんやりと私を照らしていた。ピロリ、と通知音が鳴り響く。まるで違う星にでも来たんじゃないかと思うくらい動かない腕を何とか動かして、私は携帯を開いた。 

 

 そこに表示されていたのは、希美からの心配するメッセージ。それに文字で返信する気力もなく、私は「ごめん」と「おやすみ」と書かれたスタンプだけを送る。そして電源を切って、適当に机に放り投げた。のそっと起き上がって電気を消す。真っ黒になった天井を、もう一度眺めていた。

 

 昔から厳しい祖母が嫌いだった。私と涼音の教育方針を巡って母親と対立していた口うるさい老人。そう思っていた。優しくされたことなんて、一度も無い。昔の写真を見ても、厳然とした姿のモノしかない。私を可愛がっている姿も、そういうエピソードも、一切語られることは無く、同時に存在してもいなかった。だから私は希美や、他の友達の祖父母の話を聞いている時が辛かった。いない両親の話より辛かったような気がする。

 

 母を貶し、父の夢を奪い、音楽を一度は否定し、取り消したとはいえ北宇治をくだらないと言った。妹を縛り変な教育をしておかしくさせかけた。アレは滝野や希美、そして彼女の後輩によって救われただけで、もしそれが無ければ決定的におかしくなっていたかもしれない。もう戻れないルビコン川を、彼女は渡っていた可能性も高いのだ。

 

 両親の葬儀では涙一つ零すことは無く、私に葬儀の差配をさせた。争い合う親族を止めたのは、私や雫さんが彼らに頼ることなく生きていくと宣言した時まで待たないといけなかった。おおよそ、大人らしいことも祖母らしいこともされた記憶が無い。ただもし間接的であってもしてくれたことがあったとしたら、私が夢を追うために必要だった資金は回りまわって言えば、祖母が守った家によって形作られたと言えるかもしれない。

 

 それでも、あんな存在でも、私の心中にある感情はきっと間違っているのだろう。誰にも言えないまま、この自己嫌悪は抱えていくしかないのだ。正しくないのは分かってる。欲しいのは慰めじゃない。この葛藤を誰かに知って欲しかった。でもきっと知られたら私は見捨てられる。だから、誰にも言えない。矛盾は私の中で膨らんでいく。静かに目を閉じた。暗闇の中に身を任せるように、私は眠ることにする。もし、こんな事件など起きずにいられたら。きっと明日も彼女に笑いながら会えたのだろう。

 

 遠い日の記憶を思い出す。私のもとから去って行った、二年前の彼女の後ろ姿。それがふっと蘇る。あの背中を、あの表情を、もう二度と見たくないと思っていた。見せなくてもいいように、私が頑張ろうと思っていた。それなのに。ツーっと涙が伝う。こんな人間と彼女は付き合うべきじゃないのかもしれない。それでも、離れたくなんかない。どうしようもないほど、狂おしいほど、彼女が好きだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 寝起きの気分は最悪だった。汗でべとべとした身体が気持ち悪い。目を覚ましたくないという自分の気持ちに反するように、目覚まし時計は無機質な機械音を奏でている。融通の利かないマシーンだと思いながら、身体を起こした。今が冬でなくて良かった。上に何もかけずに寝てしまっていたのだ。もし冬だったら風邪を引いてしまっただろう。そして、その結果迷惑をかけてしまっていた。そうならなかったのは僥倖だった。

 

「……起きるか」

 

 取り敢えずシャワーでもして、着替えて、朝食とお弁当と夕食の準備をして。そして学校に行く。いつものルーティーンだ。どんよりした気分のまま、私は一連の作業を済ませるべく洗面所に行く。すぐ隣に脱衣所とその先はお風呂だ。汗の染みた服を洗濯機に放り込んで、熱いお湯に打たれても、気分は晴れることが無い。

 

 濡れた髪と垂れてくる水滴。その間から鏡に映る自分の姿が見える。どう考えても健康ではない顔をしていた。唇を小さく噛みしめながら、私は自分の頬を張る。パン、と予想よりも大きな音が出た。結局、私は自分の事が好きになれないだけなのだ。自分の考えてしまったことが正しくないことに動揺して、嫌悪して、そしてこんな風になっている。

 

 我ながら、なんて子供っぽいのだろうと吐き気がする。大人になれていると思っていたのに、それは幻想だったのかもしれない。こんな子供じみた悩みを抱いてしまう自分のことも、好きになれなかった。自分の嫌いなところばかり見つかっていく。きっと気分が滅入っているせいだろう。だけれどこんな状態でまともな指導が出来るとは思えない。そして、こんな理由で他に影響を与えたくない。僅かでも。

 

「まだやらないといけないことがあるだろ」

 

 鏡の向こうにいる自分に向かって、私は小さい声で呟く。

 

「お前は、北宇治高校吹奏楽部の指導者だ。もうすぐ清良女子との演奏会もある。南中との交流会も。その後は大会だ。最後の大会だ。私の事情は封印して、絶対に影響を出さない。外に私の感情を漏らさない。そうだろ」

 

 鏡に映る自分は私のことを鋭い視線で睨んでいた。そして、その視線は自分自身が放っているのだということに、数秒遅れて気が付いた。数秒沈黙した後、ため息を吐く。

 

「ご飯、作らないと」

 

 私はそう呟いて、シャワーを止めた。

 

 学校に着いても気分は暗いまま。携帯には何本か連絡が入っていた。それは親族の主だった人から。中には叔父からも連絡が来ている。全員事情の把握をしかねているようだった。取り敢えず分かったことは、祖母関連の情報は我々でストップしているということ。こればっかりは本邸にいる祖母の使用人の人たちがファインプレーだろう。

 

 分かっている状況だけを手短に、簡潔に報告しておく。ひとまず容体は悪くなく、特段今すぐどうこうなることは無いということを伝えれば、それで納得してくれるだろう。恐らく、ウチの家は祖母の死で空中分解する。残された無駄に能力だけはある面子を統轄できる存在がもう、残されていない。けれどそれで良いんじゃないだろうか。そうなればもう、妹のような犠牲者は生まれない。

 

「あ!」

 

 校門のところで私の姿を認めた希美が走って来る。その瞳には心配の色が大きく出ていた。私の手を掴んで、安堵したように胸を撫でおろしている。心配させてしまったのだろう。昨日の返信はあまりにもおざなり過ぎた。自分の過去の行動を反省する。次があるかは分からないけれど、もし次があるなら今度はもっとしっかり対応しないといけない。

 

「大丈夫?」

「問題ないよ」

「……」

「それよりも昨日、あの後大丈夫だった? 優子の事だから上手く運んでくれたと思ってるけど」

「パート練習に移ろうって話になって、それからはパート練。終わりの方に先生の会議が終わったから何回か合わせて、それで解散って感じかな」

「そっか。よかった、問題なく回ってて」

「やっぱり、大丈夫じゃないよね? 何かあったの? 病院で。お祖母さん、そんなに悪いの……?」

「いや全然。取り敢えず今回は大丈夫みたい。ごめんね、変な気遣わせちゃって。こっちは全然問題ないから。まったく、人騒がせで困る」

「辞めたり、しないよね」

「辞めない辞めない。田中先輩みたいな感じにはならないから、安心して」

 

 強引に話を切り上げて、私は行こうと促した。希美は何か言いたそうな顔をしていたけれど、取り敢えず口を閉じる。そしていつものような顔に戻って校舎に向かって歩き出した。朝の学校にはあんまり人がいない。最近は少しずつこの時間は涼しくなってきた。

 

 音楽室に到着してしばらくすると、少しずつ人が集まって来る。集合時間は朝のHRが始まる45分くらい前。そうして朝から音を出したり時には合奏したりして脳を音楽にしていく。この作業を一回挟むことでお昼休みや放課後に練習するときの効率が少し良くなるように感じていた。明確な数値では表せないので気のせいかもしれないが、個人的には意味があると思っている。そして今日は合奏練習の日だった。

 

「先生!」

 

 音楽室の扉を開け放つなり大きな声を出した人が一人。私をその名で呼ぶのは部活にいる何十人もの部員の中でただ一人だけだ。高坂さんの後ろでは吉沢さんが疲れた顔をしている。ここまでの道中どういうやり取りが存在していたのか、何となく察することが出来た。

 

「お辞めになったり、しないですよね」

「なんで皆それを聞くの? 辞めないって。全国大会前に部活放り出して辞めたりしないから」

「良かった……」

「ほら麗奈ちゃん。私の言った通りじゃん。話聞かないで一人で悪い方向に拗らせないでよ」

「……ごめんなさい」

 

 家の事情から辞めるという話に繋がるのは、去年の田中先輩のある意味では呪いだろう。桜地家の本来当主をやっているはずだった両親がおらず、祖母が倒れ、そして私が後継の第一候補と言うのは断片的な情報を繋ぎ合わせればたどり着ける。高坂さんのような賢い人は特に。そして、存外それを杞憂と言うことは出来ない。もし祖母の容態がもっと悪かった場合、本当に辞めさせられていた可能性もあるからだ。そうならなかったのは不幸中の幸いと言えるだろう。

 

「取り敢えず安心して。辞めたりはしないし、特段問題があるわけじゃないから」

 

 その言葉でひとまず落ち着かせる。この調子で説明を繰り返すことになるのだろうか。去年の田中先輩はこういう気分だったに違いない。自分の精神状態がそこまでよろしくない時に質問攻めにされると、確かに割と気分が滅入る。

 

「昨日はご迷惑をおかけしました。このような事は二度と無いようにしますので、またよろしくお願いします。さて、あと数日で演奏会の日となりますが、残った日数を大切にしっかりと仕上げていきましょう」

「「「はい!」」」

 

 全体練習を前に、部員は大きな声で返事をする。この調子なら問題なく演奏会に臨めるだろう。今年は去年よりもパワーアップした姿を見せることが出来るはずだ。去年既に一回交流会を行っている二三年生は特に気合が入っていると思う。去年、上手いなぁと思うしかなかった相手に少しは追い付いているだろうからだ。

 

「では、早速通しでやってみましょう」

 

 頭痛は鈍く鳴り響いている。問題は何一つ解決していない。それでも私は、前に進むしかないのだ。私はこの部活の指導者だ。その役目こそ、現状何よりも優先されるべき事なのだから。この部の夢は、私一人で勝手に見ている夢じゃない。多くの人が同じ夢を見て、そして我々指導者に託して指示を聞いている。自分勝手な行動など、許されないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 授業に集中できていたかは正直自信が無い。それでも、あっという間に時間は過ぎ去って、もう昼休みになっていた。席をくっつけて、希美と向かい合うように座っている。昨日の夕飯の残りを適当に詰めただけの弁当は、いつにも増して適当だった。明らかに手を抜いたことが丸わかりなその見た目に、思わず笑ってしまった。その笑いの中に含まれているのは、間違いなく自嘲。情けない話だった。こんなことで不調になっているなどと言うのは。

 

「それでさ、ウチのお父さん持ってくご飯間違えちゃって。私のお弁当箱会社で広げたんだって」

「そのピンクのやつ?」

「そうそう。家に帰って来た時の顔がもう面白くって。普段あんなに真面目な顔してるから余計にね」

「そう言えば、希美のお父さん会ったこと無いな。お母さんも無いけど」

「えっと……そうだね。会いたい?」

「まぁ、出来るなら」

「そそそ、そっか。実家にご挨拶、大事だもんね!」

「うん? あ、いや、あの、そういう話ではなく、純粋に興味があって」

 

 結婚前の挨拶か何かと勘違いしていたらしい。どう考えても早すぎる。付き合ってからまだ一ヶ月くらいしか経っていないのに、それでそんな将来の事を考えるのは流石に気が早いと思っていた。このままの関係を維持できたのなら、ゆくゆくは考えないといけない話になって来るのだろう。

 

 将来の話。それを考えた時に、私の胸の中でズキズキと痛むモノがある。いつかはいなくなるだろう祖母。そして残された家や財産。そういうモノをどうするか考えないといけない日が来る。きっと、遠くない未来に。家は継がないと吐き捨てた。その思いは変わっていない。こんな家いらない。それでも、金銭的な事を考えれば間違いなくメリットがある。

 

 仮に、もし仮にだ。幸運な事に希美と結婚できたとしたら、その新婚生活や結婚式、そして将来的に生まれてくる可能性が高い子供の事を考えると、財産はあった方が良い。私もいつ死ぬか分からない。もちろん、出来れば長生きしたいが、両親のことなどを考えると志半ばでということもあり得る。そうなったとき、残された家族が暮らしていくためにも財産が必要だ。当主の地位はそれが手に入る。分不相応なほど。同時に責任も付きまとい始める。果たして音楽を続けられるのか。それも不透明になるだろう。

 

 いつまでも反発はしていられないのかもしれない。内心でため息を吐いた。人間性の欠けている自分を嫌いな事、そしてこの現実的な問題。両方が一気に降って来たせいで疲労感が凄まじい。正直、これまで逃げ回って来たツケを払わされている感じはある。だとしたら、自業自得ということだろう。希美の話に相槌を打っていると、携帯が鳴り響いた。発信相手に一瞬顔を顰める。

 

「ごめん、ちょっと電話」

「はいはーい」

 

 一言断って、私はベランダに出る。教室のベランダに出ることはあまり推奨はされていない。何ならやんわり禁止されている。とは言え、松本先生の前など以外でそれを守っている生徒はあまりいない。なので、こういう連絡系だったり単純にぼんやり空を眺める場所としてよく使われていた。今日は幸い人もいない。窓とドアを閉めると、教室の話し声もカットされる。ため息を吐いて、通話ボタンを押した。

 

「はい、凛音です」

「やっと出たか」

 

 電話口の声は疲れ切っていた。中年男性の声がする。相手の名前は桜地怜也。私の叔父だ。雫さんの父親でもある。

 

「何のご用でしょうか」

「母さんのことだ」

「あぁ。それでしたら朝連絡差し上げた通りです。特段異常はありません。もうじき退院したことでしょう。一日だけの検査入院でしたので。ご心配でしたら、直接お越しになれば良いかと」

「……そうか」

「えぇ、そうです」

 

 努めて淡々と、私は話をした。叔父の事は嫌いではないが好きでもない。私の味方では無いが明確な敵でもない。とは言え、私の代わりに当主の務めをしてくれるという申し出をしてくれない時点で、戦力として期待するのは諦めている。真っ当な大人なら、若い私や涼音に色々なモノを押し付けるのには反対するはずだ。私の両親がそうだったように。しかし、自分の娘が望む進路を選ばなかったからと言って全ての援助を打ち切って家を勝手に解約する人間に、真っ当さを望むのは難しい話だ。

 

「それだけでしたら切りますが」

「待て」

「では、他にご用件は?」

「母さんからも言われたはずだ。いい加減70過ぎた人を働かせるのには無理があると考えている。今は良いが、体力的にも厳しくなるだろう。病気、認知症などの可能性もある。そうなったときに、お前が継がないと問題になる」

「それは、私に滅私奉公しろと?」

「……」

「申し訳ありませんが、私には私の人生があります」

「その人生は、桜地家の資金によって作られ、支えられてきたはずだ。お前の血は我々の紡いで築いてきた金の上にある。逃げることは出来ないぞ。俺やお前の父親がそうだったように」

「……」

 

 今度は私が黙る番だった。確かに叔父の言っていることは正しい。私の人生がこれまで、少なくとも中三までは資金面でそこまで苦労することなく過ごせていた理由は、叔父の言う通りだ。それに反論することは出来ない。そんな札束で殴るようなことを言って品性の面で恥ずかしくないのかとは思うが、それを言ったところで現実がどうこうなるわけでは無い。

 

「私に、音楽を捨てろと? 自分の娘にそう迫ったように」

「それは……」

「結果を出すことが大事なはずです。雫さんは結果を出しました。既に美術の世界ではそれなりに名が売れている。私が出した結果は今更言うまでもないでしょう。私たちは求められている以上のことを為している。違いますか? その世界で名が売れることが結果ではないなら、何が結果だというのです。ピカソだって、ベートーヴェンだって最初から称えられていたわけじゃない」

「分かってはいる。俺だって、理解はしている。だが同時に思う。お前たちだけ逃げ切ろうなんて許せんとな」

「……そういうの、何と言うかご存知ですか」

「後学のために聞かせてもらおう」

「老害って言うんです」

 

 吐き捨てるように言った。とは言え、彼はまだ親切で正直な方かもしれない。自分の抱いている黒い感情を、私相手とは言えしっかりと主張した。私とは違う。今もなお、心の中にしまい込んで何重にも鍵をかけている私とは。

 

「それともアレですか、自分が逃げ切れなかったからですか。駆け落ちしたくせに資金が尽きたから出戻りしたから」

「その話は今関係ない」

「関係無いわけないじゃないですか。逃げて……何が悪いんです」

「自分がそれで良いのなら、そうすればいい」

「Scheiße!」

 

 自分の言われたくない事を指摘されて、思わず悪態を吐いて電話を切った。逃げている自分を快く思っていない自分がいる事。それは理解している。だから祖母に「逃げるのか」と聞かれた時に「はい」とも「いいえ」とも言わずに「何が悪いのか」と言うしかなかった。それは開き直りではなく、自己肯定をしようとした末に出た言葉だと、自分では分析している。

 

 逃げられるなら逃げたい。だが現実を考えれば難しい。妥協案も、上手く思いつかない。妹は巻き込みたくない。あの子にだけは、せめて自由な人生を。これまで苦しんできた。私が欧州で四年の自由を謳歌している間にも。だからこそ、これから何十年も続くだろうあの子の時間は自由にいて欲しい。この問題は私一人で片を付けないといけないのだろう。携帯が小さく震える。叔父からメッセージが来ていた。

 

「逃げたいなら逃げればいいが、それで大事な存在を守れるのか。金が無ければ、理想は唱えられない」

 

 そこには無機質なフォントでそう書かれている。携帯を地面に叩き付けそうになって、ギリギリでその手を押しとどめる。それもモノがもったいないからとかではなく、買い直すのにお金がかかるからと言うさもしい理由だった。全部放り出して逃げてしまいたい。ふと、そんな事を思った。

 

 

 

 

 

 

 

「本日はよろしくお願いします!」

 

 優子が大きな声で挨拶をしている。10月の初頭、私たちは大阪に来ていた。大阪で開催される清良女子の演奏会。そのゲストとして出演することになっている。学校の方では全体として交流できないか、これを機に探っているらしい。清良は強豪校だけあって大人数を要している。その人数から出される大きな音と、ただ大きいだけではない繊細さ。まさにブランド化した音というに相応しい音色を奏でるのだ。

 

「貴重な機会を与えて頂いたこと、ありがたく思っています。ご期待に沿える演奏を出来るように、部員一同頑張ってきました。皆さんをあっと言わせられるような演奏をしたいと思います」

 

 大きな拍手が清良の方から飛んでくる。演奏会の前にちょっとした交流をする。一年生同士初顔合わせになるので、そこで交流をしてもらい、お互いに何かしらの学びを得ることが出来るという算段だった。清良の一年生はほぼほぼ全員経験者。対して北宇治は初心者も多い。初心者の子からすれば、滅多にない機会なのだ。

 

「どうも、本日はありがとうございます」 

 

 部員たちが交流している間、私は向こうの顧問と話をしていた。そもそも、この奇妙な縁は私の母と向こうの顧問が同期であるからこそ生まれたモノだ。

 

「お久しぶりねぇ。元気にしてた?」

「はい、何とかやっております。今回はわざわざ、申し訳ないことです」

「いえいえ。私も関西の映像を見て、あぁこれはとんでもないなぁと思ったのよ。奇貨居くべしじゃないけど、去年交流しておいて正解だと思ったわ。ウチの子たちにも大きな学びになるし」

「それはこちらも同じです。新入生の子に発破をかけるため、そちらの昨年の全国大会での演奏を使わせてもらいました」

「光栄ねぇ」

「本日は関西の頃より磨きをかけてきました。きっと、ご満足いただけるでしょう」

「楽しみにしています」

 

 音楽の事を考えている間は、色んなことを忘れられる。この時間は無くしたくない。清良の大友先生は私に会釈をして部員の下へ向かって行く。一人になった空間で、私は小さく息を吐いた。いつまで音楽の事を考えていられるだろうか。もしかしたら、もうすぐ終わりかもしれない。逃げられるなら逃げたい。正直不可能では無いと思う。海外に行けば、もう何もかもから逃れることは出来る。私の腕なら、自分で稼げる。

 

 ただそうなったとき、私は希美と分かれなくてはいけないだろう。彼女は日本で夢を掴むために努力している。私の都合で振り回すことは出来ない。今日の清良の演奏も、北宇治の演奏も本当に楽しみだ。純粋に音楽が好きな人間として、楽しみにしている。それでも楽しいことがあると同じくらい、抱えている嫌なことが自分の中で大きくなっていく。風船のように大きくなって、そして破裂しそう。

 

「全部、捨てて逃げたい」

 

 私の小さな言葉は、誰にも聞かれること無く霧散して、どこかに消えていくはずだった。ただ一つ私の予想通りにならないことがあったとすれば、この言葉を聞かれていたということだろう。一番、聞かれたくない相手に。

 

「そっか」

 

 落ち着いた、それでいてしっかりした声は私の前から響いた。その声に驚いて顔を上げる。目の前には、私の好いた人が立っている。私の動揺を知ってか知らずか、彼女は私に向けて言葉を放った。私が目を泳がせるしかない言葉を。

 

「じゃあ、一緒に逃げちゃおうか」

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