音を愛す君へ   作:tanuu

111 / 193
第百四音 希望 Viewpoint from 希美

 練習は日進月歩で進んでいる。それに合わせて、受験の日も近づいて行った。勉強は毎日しているし、学校の授業だってしっかり受けている。それでも少しずつ空気は受験らしくなっていき、余裕、という空気を出している場合ではない空気感になって来た。

 

「そこは音の出し方に気を付けて、まずはゆっくりやってみようか」

「「はい!」」

 

 フルートパートの中でも、三年生である私と調は後輩に教えることが多くなっていった。終わりが近付いていると、自分の持っている技術や経験を伝えたくなっていくものなんだと思う。今の三年生は色々あって二人しかいない。でも、二年生や一年生は合わせて七人もいる。これなら、フルートパートの音が来年になってもしっかり維持できるはずだと思っていた。 

 

 パートの中の状況は比較的良好。けれどそれに反して、あの日以来彼の顔色は日増しにドンドン悪くなっていく。翌日に電話がかかって来て、それから戻ってきた後もっとひどい顔になっていた。その電話が仕事とかではなく、多分家関係のモノなんだろうというのは、すぐに想像できる。

 

 この前は触れて欲しくないのだろうと思ってそうすることにしていた。それでも私は気付いていた。その目の下には黒い隈が存在していて、それを多分お化粧か何かで誤魔化しているのだということに。彼は自分の事を言葉で飾って誤魔化すことがある。高坂さんはまんまとそれに乗せられていた。

 

 でも多分、みぞれや吉沢さんなんかは気付いている。当然、私だって。それでも触れない方が良い方があると思っていた。特に、彼の家に関しては。凛音の家が複雑な家庭環境なのは知っている。ご両親が既に亡くなっていて、お祖母さんとは不仲で。そういう情報は知っていた。

 

 彼はあまり家庭の話をしない。それは、多分色々な感情や理由があるんだろう。そんな状態なのに無理に聞き出すのは良くないと分かっている。時々話してくれるのを待っているだけだった。いつかそのうち、全部を話してくれればいいと思いながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 でもきっとそれではダメなんだろう。「全部、捨てて逃げたい」と彼は呟いているのを聞いたとき、そう思った。清良との演奏会の日。彼は壁にもたれかかりながら、人気の無い場所で下を向きながら吐き出すように声を出していた。その声からは苦しみや痛みを感じる。はち切れそうになっている風船が、最後の断末魔を上げているみたいで。

 

 これを放っておくことなんて、出来るはずがない。恋人だからとか、そういう事だけじゃない。人として、放っておくことなんてしたくなかった。好きな人が苦しんでいるのを見過ごすなんて出来ない。もっと早く話をするべきだった。悩んでいることも、苦しんでいる事も分かっていたはずなのに。

 

 兄さんをよろしくお願いします。そう頭を下げたいつの日かの涼音ちゃんの姿が思い起こされる。あの約束を果たすのは、多分今だった。私に何が出来るのかは分からない。それでも、やらないといけないことがある。私が、私であるために。彼が、これ以上苦しまなくても良いように。

 

 あの時私を助けてくれた人を、助けられるように。

 

「そっか」

 

 私は肯定するように、なるべく包み込めるように言った。これから言うことが正しいのかは分からない。でも、声に出したモノは戻らない。だからこれを言うのは、私なりの覚悟の現れだった。

 

「じゃあ、一緒に逃げちゃおうか」

 

 その言葉に、彼は動揺したような顔をする。そんな顔するんだ。ふと、そんな事を思った。その顔を見せるのはきっと、私だけ。仄かな独占欲がチロチロと私の心の中に灯っていた。

 

 何から逃げるのか、それは分からない。それが例え何からであっても、ついて行く覚悟はしているつもりだった。私は動揺している彼の横に立って、同じように壁にもたれかかる。

 

「何、言って……」

「何って、言ったままだよ」

「……」

「何から逃げたいの? 一緒に行こうよ」

「そんな、軽々しく言わないで。大体、何から逃げたいのか知らないのに」

「うん、知らない。だって教えてくれてないから」

 

 絞り出すような声で言う彼に、私は何でもないかのような声で言った。教えてくれないのはきっと、私に迷惑をかけたりしたくないからとか、そんな理由だろう。もしかしたら、嫌われたくないと思ってるのかもしれない。だとしたら信用されてないなぁと思う。私は嫌いになったりしないのに。私の綺麗じゃない部分も全部受け入れてくれた人の事を拒んだりなんてしないのに。

 

「知って、どうするの」 

「うーん、どうにもならないかもね。でも、教えて欲しいかな。そうじゃないと、私もどうしたら良いか具体的に分からないし」

「……」

「嫌じゃないなら、話して欲しい。最初から、全部」

「ヤダ」

「ヤダって、そんな子供みたいに言わないでよ、もう。なんで嫌なの」

「……嫌われたくないし」

 

 そう言って顔を背ける姿は、普段と違って随分と子供みたいだった。親に怒らないか聞いている子供みたい。いつもの姿とは全然違う。高坂さんとか、こんな凛音を見たら失神しちゃうんじゃないだろうか。でも、もしかしたら、これが本当の部分なのかもしれない。

 

 普段の姿が嘘だとは思わないし、そっちも彼なんだと思う。でも、こういうちょっと子供っぽかったりたまに好戦的だったりする部分も彼なんだ。私みたいに親の下でぬくぬくしてるわけじゃない。本当は親に頼ったり、愚痴ったりするような年なのに、そんな事が出来ない。だから、大人になるしかなかった。私だったら耐えられないかもしれない。

 

「私が嫌うと思う?」

「……」

「信用無いなぁ。自分の彼女の事、そんなに信頼できない?」

「そんな事、無いけど」

「それとも、自分が今まで見てきた大人とおんなじだと思われてる? みぞれに聞いたけど、凛音があんまり怒ったりしないのは人に期待してないからみたいだし。でも、私にも期待されてないのはちょっと……ちょっとムカついちゃうかも」

「……ごめん」

「謝らないで。でも、話して欲しい。今抱えてること、全部。考えてること、全部。話してどうにかなるかなんて分からないけど、でも抱えてるよりはずっと良いんじゃないかな、多分」

 

 あの夏の日。水面の近くで、彼は私の中から零れ落ちた泥のような感情を嫌わなかった。私はそれだけで救われた気がした。何回も何回も助けられている。そしてそれだけじゃない。去年の関西大会での約束も守ってくれた。おかげで私は、出戻りなのに全国大会のステージに立てる。 

 

 多くのモノを貰っていると、告白される少し前に彼は言っていた。でも、やっぱり私が貰っているモノの方が多いと思う。だから、今が貰った分を返せるタイミングだと思う。貰いっぱなしは良くない。対等であることが、関係を長続きさせるコツ。私はそう思う。みぞれと色々あったからこそ、より一層そう思うようになった。

 

 私たちは少しの間、無言だった。そして観念したように彼は口を開く。

 

「どこから話せばいいのか分からないけど」

「うん」

「取り敢えず、この前の話からする」

「分かった」

 

 頷きながら、ピンク色の腕時計をチラリと見る。私たちの出番までまだ時間は大分ある。なら、話をしても問題ないはず。

 

「この前、病院に行った。そこで病院の先生から色々聞いたんだけど、取り敢えず今すぐどうこうなることは無いって。ただ、今の仕事量だとそういう日が来るのも遠いことじゃないっていう話だった。まぁそれは正直しょうがないことだとは思う。ただ……ただ私は、悲しめなかった。自分の肉親が死ぬ日が近付いているって言う話をされたのに、鎖が消えるんじゃないかって思っている自分がいた。それは悲しさより、むしろ喜びなんだと思う。そんな事を考えてる自分がたまらなく嫌だった」

 

 私は彼の言葉を黙って聞く。ここで何か言葉を挟んじゃいけない。

 

「祖母が嫌いだ。でも、それ以上に倒れたと聞いて悲しくも無かった自分が嫌いだ。こんな感情を抱いてるなんて分かったら、私はきっと、嫌われてしまうと思った。話したかったけど、話したら軽蔑されると思った。こんな人間としてどうかと思うようなこと考えてるのを、希美には知られたくなかった。これが一つ目」

「あぁ、二つ目とかもあるんだ」

「まぁ、そうなるかな」

「うん、続きを話して」

「……分かった。二つ目は、それに付随する話。祖母が死んだり、何らかの事情で体調が悪くなった場合、次は私が後を継がないといけない。今まで逃げ回って来たモノがやって来る。もしかしたら、音楽だって捨てないといけないかもしれない。それだけは嫌だ。でも私が逃げたら多分、次は妹にお鉢が回って来る。それに、私は家の資金のバックアップでここまでの成果を手に入れた。だからその分を返せって言われたら、何も言えないし、それにお金はあって困るモノじゃないから。将来的にね。それが二つ目。だからこういうのから逃げたいって思った」

 

 首を絞められている人みたいな声で彼は声を出した。なんだか商売みたいだなぁと思ってしまう。そういう家なのかもしれないけど。私の知らない世界は多分、かなりたくさんあるんだろう。こんなに身近にも。凛音も涼音ちゃんも、こういう生活を十何年も送って来たのかと考えると、やっぱりスゴイとしか思えない。私ならきっと、どこかで逃げ出している。

 

 もしかしたら、逃げ出そうにも手を差し伸べてくれる人がいなかったのかもしれない。そういう選択肢も無かったのだとしたら。それはどんなに苦しいだろう。

 

「分かったよ。全部ちゃんと理解できたかはちょっと自信ないけど、それでもちょっとは分かったと思う。だから本当に逃げたかったら……傘木になってみる?」

「……はい?」

 

 私の提案に、凛音は素っ頓狂な声を出した。その目にはさっきとは別の動揺が走っている。私を見ている目はかなり戸惑っていた。さっきまでの重苦しい空気は少しだけ軽くなった。あんなどんよりしたままだったら、どんな未来志向の話をしてもなんとなく後ろ向きに感じてしまう。だからぶっ飛んだ話をしたらちょっとは空気を変えられるかと思ったけど、良い感じに成功したっぽいのが分かる。この提案が受け入れられたりはしないだろうけど、私は半ば本気だった。

 

「傘木になるとお得だよ。桜地じゃ無くなるし、家を継がなくていいし。お祖母さんの事は解決できないけど、二つ目の方はどうにかなるんじゃない? 今ならもれなく私も付いてくるし」

「本気?」

「七割くらいは」

「そ、そう……。まぁ話半分には聞いておくけど……」

「でももし、本当に逃げたいんだったらそれでも構わないよ。私はそう思ってる」

 

 この言葉は100%本気だった。傘木凛音。そんなに語感も悪くないんじゃないかなと思った。傘はなんとなく初夏のイメージがあるし、凛って言う字も夏っぽい。彼の誕生日は夏だし、良い感じじゃないだろうか。それは冗談としても、逃げたいなら受け入れるつもりはあった。もし、本当に望むなら。

 

「そんな事出来ない」

「どうして?」

「希美を巻き込むくらいなら、全部引き受けた方がマシだから」

「私は巻き込んで欲しい。いつもそうやって、自分で全部解決しようとして。友達とか先輩後輩ならそれで良いのかもしれない。でも、涼音ちゃんみたいな家族とかまで部外者にしようとするのは止めて。私だって、横で見てるだけなんて出来ない。もし苦しいならそれを少しでも分かち合いたい。何が出来るかなんて分からないけど、一緒にいたい。私は凛音がお祖母さんの事を悲しめないことよりも、そういう風に私に気遣ってるつもりになって、自分だけ抱え込んで勝手に人の気持ちを推測してる方がずっと嫌だ」

 

 強い口調でそう言ってしまう。ちょっと失敗したと思った。でもそれくらい本気だった。遠ざけられているみたいで、どこまで行っても他人みたいで。まぁ確かに他人ではあるんだけど、それでもそういう扱いをして欲しくない。これは私のワガママだと思う。子供みたいなワガママ。大人の話に入り込みたい子供みたい。

 

 けど、言わないって言う選択肢はなかった。これを言わないで黙っていたら、きっと私たちの関係性は変な方向に曲がってしまうと思ったから。それに、考えてることや苦しいことを隠したりしながら進んでいくのは、きっといつか破綻してしまうとも思う。

 

「私が嫌いになるって何? そういう事、一回でも言った?」

「……」

「私だって嫌いな人くらいいるし」

「そうなの?」

「はぁぁぁ? いるよ。凛音は私を何だと思ってるのさ。一昨年の三年生とか、ちょっと嫌いだよ今でも! 多分この先も嫌いだと思う。胸だけしか見てこないのに謎の告白してくる男子も嫌いだし、桜地君の事好きなのって全然話したこと無いのに聞いてきて、曖昧な答え方すると私狙ってるからとか意味わかんない牽制してくる女子もぶっちゃけ嫌いだよ。でも普通じゃん、そんなの」

「いや、そうだけど、そういう人が倒れた時に悲しまないってことは無いでしょ」

「凛音はさ、全く悲しくないの?」

「……どうだろう、そんなことは無いと思うけど」

「ならそれでいいじゃん。真面目過ぎだよ。違う言い方するならなんだろ……潔癖? 何にしたって、そんなことで思い詰めないの」

「そんな事って……」

「嫌いな人の不幸なんて心の底から悲しめなくてもおかしくないでしょ、しかも積もり積もって十八年分なんだし!」

 

 ちょっと声が大きくなってしまう。悩んでいるのは分かった。でも、そこまで思い詰めなくても良いと思う。凛音はちょっと潔癖なのかもしれない。自己評価が低いとか、自罰的とか、そういう言い方も出来るかも。どっちにしたって、自分の感情が正しくないことが許せないんだろう。その気持ちはなんとなく分かった。みぞれに対して嫉妬していた時、私は同じような事を自分に対して思っていた。

 

「みぞれに嫉妬するのがおかしくないって言ってたのに、自分の時に矛盾しないでよ。もしかして、去年あった色んな事もずっと引きずってるの?」

「……」

「去年、色々あったよね。私が戻ってくる前も、来た後も。その時、傷つけちゃったと思ってる相手は、凛音に何か言ってた? 気にしてるのは、香織先輩? あすか先輩? 葵先輩? それとも他の誰か?」

「全員」

「先輩たちは笑って卒業してったじゃん。頑張って良かった、全国に出れて良かった。ありがとうって。その気持ちが最後に残ったなら、間違いなんかじゃないよ。それにその理屈だと、私たちが仲直りしたのも意味なくなっちゃうし。忘れろなんて言わないけどさ、そんな風に思い詰めてるの、相手にも失礼じゃない?」

 

 終わり良ければ総て良しっていう言葉がある。それに全面的に同意することは出来ないけど、半分くらいは同意していた。じゃないと、私たちの関係性だってわだかまりが残ってることになる。でも実際はそんな事無いはずだった。大事なのはどういう経緯を辿ったのだとしても、今どうしているか。先輩たちは後悔なんてしてなかった。私たちも、今に満足している。こんな風になれるなんて思ってなかった。私は、私たちは幸せ者だ。

 

「勝手に私を理想化して、勝手に傷つかないで。私は普通の女子高生なの。ちょっとフルートが得意で、ちょっと他とは違う進路を選ぼうとしてるだけ。そんな潔癖な子じゃない。それに、凛音が思ってる以上に私は凛音のこと好きだから。大好きだよ。だから、そんなに簡単に嫌いにならない。というかむしろ、そんな風に思われてる方が嫌いになりそう」

「希美……」

「どうしても逃げたいなら、助けられるように頑張る。お金のこととか、別に一人で何とかする時代じゃないし。私だって働く気はあるんだからさ。そんな事のために無理にやりたくないことをしろなんて言わない。でも、もし辛くても苦しくても、それでも自分で選んだ道に進むなら、私も一緒に行くから。一人より二人の方が、話し相手がいて良いと思わない?」

 

 私は彼の前に立つ。バシっと壁を右手で叩いたら、少しジンと痛みが走った。それを無視して私は顔を思いっきり彼に近付ける。その長いまつ毛や白い肌、カッコいいと多くの人が囁く顔が間近だった。もうこうなればヤケだと思って、そのままキスしてしまう。二回目も自分から。これはちょっと、何か言われたら言い訳出来ないかもしれない。

 

 数秒後、ちょっと離れる。目を白黒させている彼に、私は畳みかけるように言葉を紡いだ。

 

「私は凛音の何」

「彼女、です」

「そうだね。良かった。じゃあ私の彼氏さんは私と将来的にどうなりたいの?」

「……です」

「聞こえないなぁ」

「ずっと、一緒にいたいです。出来れば」

「はい、よろしい。じゃあこれからは隠し事しないで。悩んでることがあったら言って。どーしても話したくないなら聞かないけど、じゃあそういう風に言って。巻き込むとか余計な事考えないで。嫌われるとか思わなくて良いから。私の事大切にしてくれるのは分かってるから。いつまでも守られてるだけじゃないんだよ」

「面倒だよ、ウチの家」

「分かってる」

「……絶対分かってないでしょ」

「かも。でも、一人じゃないし。凛音のお母さんもそう思ったから、お父さんと結婚したんじゃないの?」

 

 彼は少しの間、逡巡していた。その目が迷っている。黒い宝石みたいだと思った。私の言いたことは全部伝えられた気がする。なんだか最初に想定していた方向とは大分違う方向に話を運んでしまったけれど、これで良いのだろうか。とは言え、彼の顔色は大分良くなっていた。何か悩みが解決したなら、それに越したことは無いと思う。

 

「分かった。……取り敢えず、婆さんと話してみる」

「そっか」

「私の背中押したの、後悔しないでよ」

「しない……と思う」

「えぇ、最後に不安になるなぁ」

 

 彼は少しだけ困ったように笑った。

 

「最後に一個だけお願いしても良い?」

「うん、いいよ」

「手、握って欲しい。そうすれば頑張れる気がするから」

「分かった」

 

 その手を握る。温かさの奥に、心臓の音が聞こえる。なんだかちょっと恥ずかしかった。それよりももっと恥ずかしいことしてるのに。

 

「ありがとう」

「もう大丈夫そう?」

「またダメになるかも」

「ダメになったらまた話して。何回だって話だけなら聞くから。凛音がそうしてくれたみたいに」

 

 腕時計の針は大分進んでいた。そろそろ戻らないと、時間に間に合わない。

 

「じゃあ、私戻らないと」

「うん、ありがとう」

「どういたしまして。助け合っていくのが大事だって私のお母さんも言ってたし。しっかり演奏、聞いててよね。清良の子よりも上手く吹いてみせるから」

「期待してる」

 

 優しく言う彼に手を振って、私はフルートパートの所に戻る。私を見つけた涼音ちゃんはビックリしながら走って来た。そんな疾走したらスカートの中が見えそうだったけど、全然見えない。どういうシステムになってるんだろう。流石はお嬢様。走っても中が見えないようにする走り方を知ってるのかもしれない。今度教えてもらおう。

 

「希美先輩! どこ行ってたんですか、探しましたよ」

「ごめんごめん」

「私は良いですけど、調先輩が怒ってます」

「うげっ」

「一緒に謝りますから、行きましょう。と言うより、ホントに何してたんですか?」

「うーん、頑固な人とちょっと話し合いかな」

「痴話喧嘩ですか?」

「違うよ!? 結構真面目な話」

「……なるほど。ありがとうございます。喧嘩しないカップルって言うのもあんまりいませんからね。むしろ歪ですらありますし。深く接すれば接するほど、ぶつかることもあるかもしれません。でも、それを乗り越えないと先には進めないでしょうし」

「そうだね、私もそう思う」

「ただ、それはそれとして調先輩への言い訳は考えましょう」

「……うん」

 

 しっかり者の後輩は頭を捻っている。この優秀な頭をそんな事に使わせてしまっているのは申し訳ない。この後言い訳の隙も無く、調に怒られた。まぁこればっかりは甘んじて受け入れないといけないだろう。小言を言われるくらいで、何かが変わるならそれで結果オーライだった。

 

 実際にこの後どういう形になるかは分からない。その決断は凛音に任せるしかない。それでも、少しでも彼の人生の役に立てたなら、それで良い。私に夢をくれた人。そしてそれを叶える力をくれた人。そんな人の人生の役に立てたなら恩返しが出来たと思えるのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 あの演奏会から数日後。凛音の顔色は随分よくなった。どうなったのか、まだしっかりと結論は出ていないのかもしれないけど、それでも前よりはいい感じなのは伝わって来る。全部終わったらまた話してくれるだろう。それまで私は、自分の勉強や練習に集中しないといけない。

 

 そう思いながら家に帰ってしばらくすると、インターホンが鳴らされた。誰だろうと思って玄関扉を開けると、そこにはスーツを着た男の人が立っている。私の姿を視界におさめると、深々と頭を下げた。彼の後ろ、私の家の真ん前には黒い車が停車している。映画の一幕みたいだった。

 

「えっと、あの……」

「傘木希美様でいらっしゃいますか」

「はい、そうですけど……」

「私、桜地家当主の使いでございます」

「は、はぁ」

「今、お時間の方はよろしいでしょうか」

「少しなら」

「当主が少しお話をしたいと申しております。よろしければ、お時間いただければと」

「良いです、けど」

 

 私は困惑しながら頷く。男性は小さく頷くと、車に戻っていく。そしてその後部座席のドアを開いた。中から着物を着た女性が出てくる。皺の刻まれた顔は年を感じる。けれどその目の光は鋭い。前に会ったことがある、凛音のお祖母さんだった。最初に会ったのは夜、彼の家の前だった。その後は去年の全国大会。どっちにしても、ちょっと緊張してしまう。

 

「ご無沙汰しております。ご多忙のところ、お時間いただきありがとうございます」

「お、お久しぶりです」

「こちら、お口に合うかは分かりませんが」

「ありがとうございます」

 

 渡された紙袋はズシリと重い。何が入っているのかさっぱり分からないけれど、断るのも失礼な気がして、受け取ることにした。

 

「孫がご迷惑をおかけしたようで。感謝申し上げます」

「凛音が、何か言ってましたか?」

「いえ。しかし随分と様子が変わりましたので、恐らくはあなたの影響が大きいのだろうと、そう判断しました。その口ぶりからすると正しいようですね」

「そんな。私がしたのは、大したことじゃないです。結局なんだかとっ散らかっちゃいましたし……それでも力になれたなら、良かったです」

「しかし何故、そこまで」

「当然ですよ、彼女ですから!」

 

 私はそこだけは胸を張って、大きな声でハッキリと言う。どれくらい力になれたのかは分からない。けれど、私の行動理由だけは。それだけは、自信を持って答えられる。

 

「……そうですか」

「はい」

「彼を、よろしくお願いします」

「任せてください。ほっとくと思い悩んで変な方向に突き進んじゃいそうなので、私も心配ですから」

「それは……頼もしい」

「全国大会も是非来てください。今年は私も涼音ちゃんも出るんです。涼音ちゃん、毎日スゴイ頑張ってて、だから絶対来てください。後悔はしないと思います。去年より上手くなってます!」

「分かりました。向かうことにしましょう」

「ありがとうございます」

「桜地家は面倒ですよ」

「凛音と涼音ちゃんでよく知ってます。私の、面倒だけど大好きな人たちです」

「そうですか」

 

 少し柔らかい声でそう言って、彼女は私に一礼して帰って行った。きっと、何か少しだけでも前に進んだんだろう。ずっと止まっていた凛音たちの時間が動き出したんだ。それは去年の夏に、私たち南中組の時間が動き出したように。

 

 車がゆっくりと住宅街の中を遠ざかっていくのを見送りながら、私はそう言えばと貰った紙袋の中を見る。中にはいくつか箱が入っていた。家の中に戻って何だろうと思いながら開けてみると、高そうなお菓子が何個も入っている。デパートの地下とかに売っていそうなクッキーやチョコレートの包装。私はあんまり詳しくないけれど、それでも名前を聞いたことがあった。

 

「あら、なにこれ? どうしたのこんなに!」

「うーん、貰い物」

「貰い物? こんなに?」 

「うん」

 

 凛音のお祖母さん、着物のセンスは悪くないけど、一般家庭に送るプレゼントのセンスはあんまり無いみたいだ。そんな事を思って、ちょっと笑ってしまう。三人しかいない家族でこんなに食べられない。賞味期限は大丈夫か確認しないと。こんなに食べたら太ってしまう。

 

 女子高生の敵はテストとくせ毛と体重だ。一番の敵は体重だと思う。50キロの台に乗るか乗らないかの戦いを繰り広げている身としては、ちょっと危険物の集まりだった。後輩にちょっと分けよう。じゃないと消費できない。でも、あのお祖母さんがデパ地下で悩んだ末に買ったのだとしたらちょっと面白かった。

 

 わだかまりはすぐに消えたりしないだろう。私たちとは違う。私と彼は一年。でも、あそこは十八年。年月の重みが違う。涼音ちゃんも苦手意識はあるみたいだし、やっぱりしょうがない。ならせめて、私はなるべく中立でいられれば、もしかしたら橋渡しも出来るかもしれない。

 

 今は高望みかもしれないけど、いつかきっと。大量のお菓子に困惑しているお母さんに取り敢えずしまっておくようにお願いして、私は二階の自分の部屋に戻った。またここから勉強だ。遠い未来を幸せにするために、近い未来を掴まないといけないのだから。普段は大変だと思う勉強も、モチベーションがあると特段苦しくはない。むしろ、希望を持ちながら私はペンを動かした。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。