舞台袖は静まり返っている。多くの緊張に満ちた吐息だけがあちらこちらから聞こえていた。彼らの心臓に今聴診器を近づけたら、凄まじい鼓動が聞こえるのではないだろうか。胸を撫でる人、目を瞑っている人、最後に楽譜をもう一度見返す人。こういう時にどうするかは個性が現れる。
「今日まで二年。よく私のレッスンについてきた。君たち二人の二年を見せて欲しい」
「「はい」」
「大丈夫。他の学校の演奏を聞いたけれど、北宇治より上手いトランペットパートは存在しない。この私が教えてるんだ。そのツートップが他に劣るわけがない。そうでしょう」
「「はい!」」
「よし、その意気だ」
上手くなるためには、上手い演奏をどれだけ聞けるか、そして上手い奏者に師事出来るかが大きい。北宇治のパートの中で平均値が高いのはクラリネットだが、突出していると言えばトランペットパートになる。当たり前と言えば当たり前だ。去年の四月から約二年。プロフェッショナルが付きっ切りで毎日教えていたのだから。
この二人の演奏は、他校に劣ることは無いだろう。それどころか、どの学校でも諸手を挙げて歓迎するレベルのはずだ。事実、清良女子も羨ましいと言っていたのを記憶している。
「続いての演奏は、プログラム十三番、関西代表、京都府立北宇治高等学校吹奏楽部の皆さんです」
アナウンスが入り、部員たちが移動を始める。舞台袖と舞台の境目。暗幕と光の境界に立って、彼らを一人一人送り出す。滝野や後藤とはグータッチで。優子や夏紀はハイタッチ。一年生や二年生の多くは握手を求められた。その度に彼らの目を見て頷きながら、送り出す。さながら政治家みたいだった。
妹は軽く手を振って歩いて行く。名古屋に来る前、ずっと仏壇の前で祈っていたのを知っている。神様なんていないと言っていたあの子だけれど、両親に報告はしたかったのだろう。私の胸の中では、今日も銀色の十字架が揺れている。
希美が私の前に来る。何かを言うことは無いけれど、その目だけで言いたいことは伝わった。確固たる意思を感じる瞳が少しだけ緩くなって、手が胸元に伸びる。彼女が制服の下からチラリと取り出したのは、去年彼女の誕生日に送ったネックレス。小さくウインクすると、彼女はまた制服の下に銀色のチェーンと紫の宝石をしまって舞台に歩き出した。その姿を見送りながら、やられたと苦笑する。どうやら、私は彼女に敵わない人生が続くらしい。それも、悪くないのだろう。
「課題曲Ⅳ、自由曲は卯田百合子作曲『リズと青い鳥』、指揮は滝昇です」
泣いても笑ってもこれで終わり。そう考えると、寒気すら覚えた。三年間が終わろうとしている。自分が駆け抜けた三年間が。どれだけ苦しんでも、ここで全て出し切らなくてはいけない。指導者とはもどかしい。自分があのスポットライトの下にいたのなら、どんなに気が楽だっただろうか。
ここで見守る事しかできない。その事実は演奏に必死な奏者よりも何倍もキツイ。かつては奏者で、今は舞台袖で見守るしかなくて、そして来年には奏者に戻ろうとしている自分だからこそ言えたことかもしれない。名古屋のこの舞台の袖で見守れるのはこれが最後だろう。来年以降は見れたとしても観客席からになってしまう。それによって聞いている演奏に変化がある訳ではない事など重々承知だけれども、この特等席を失うのは少しだけ残念だった。
煌々と輝くスポットライトが彼らを照らす。私の恋人を、友人を、後輩を、妹を、そして先生を照らしている。その姿は頼もしい。全国出場の強豪としての風格があった。それを見て、目を細めた。
先生が指揮台に登れば破裂音のような拍手がその背中を殴る。関西の時よりも何倍も大きい。そしてその手が大きく振り上げられる。音もなく楽器を構えた彼らは号令を待つ。最後の一回。その覚悟が研ぎ澄まされた刃のような鋭さ現れる。集中は一点に収束する。そしてその腕は振り下ろされた。
金管のけたたましい音が静寂を切り裂く。ここは掴み。故に重要視するように口を酸っぱくして言ってきた。私の最高傑作と言える後輩は、その唇から吐き出した息を素晴らしい練度の音として観客に届ける。楽器は幾重にも積み重なって音の層を作る。雄大だけれども飄々としたトランペットの音。優子も一年生の時と比べれば格段に良くなった。高坂さんと吉沢さんは安定して綺麗に音を出せている。滝野も二年から挽回した成果が表れていた。小日向さんも今日は前を向いている。いつもの怯えた表情はここからは感じ取れない。
イントロは各楽器のキャラクター性に気を配った。どう動くか、どう動かすか。それだけで音楽は変化してしまう。そして旋律と伴奏の音量。これも一層気を遣うようにした。この音量の差に遠近感が生まれるのだ。そしてそれは風景のように音楽を彩っていく。
Fのトロンボーンは上手く嵌っていた。各音の音程が聞こえるようにと言って指導していたが、塚本君なんかは流石の演奏を見せている。赤松さんの苦戦していたハーモニーも頑張りすぎないようにという難しい注文をしっかりこなしている。岩田も医大受験と並行しながらここまで必死にこなしてきただけのことはあり、パートリーダーに恥じない音を披露している。
Tiroの後半からはテンポが落ちるのがこのマーチの特徴だ。木管楽器にはしっかり音を鳴らすように口を酸っぱくしたが、その効果が出ている。他の音を聞けと言うのも何回も言ったが、最初は詰まっていた福井さんや森田なんかが出来るようになっている。去年の斎藤先輩の置き土産は一年の時を経てついに開花を迎えていた。
後半Lの部分で鳴らされるフルートは音色感はソロでと指示されている。複数で吹いても構わないがどうするかはかなり悩んだ。要するに、複数で吹いても一人で吹いているように一体化した音を出さないといけないのだ。我が部のフルートパートでメインを担っているのは希美と妹と井上。この三人ならいけるということで、三人で吹いてもらっている。いい具合にぴったり重なり、楽譜通り完璧に出来ていただろう。
そして曲はクライマックスに向かい、盛大に締めくくられた。問題は現状一つもない。そして真の戦いはここから。観客も審査員も課題曲は聞き飽きている。だからこそ、身構えて聞くのは自由曲だ。審査員の目が鋭くなった気がする。
自由曲が始まる。先生の目を真っ直ぐに見つめる希美がその口火を切った。完璧。その言葉を私は滅多に用いない。音楽で完璧であると思った瞬間成長が止まってしまうからだ。完璧と言う褒め言葉は成長の余地を奪う劇薬でもある。しかし、今ここでだけは言わせて欲しかった。完璧だと。
リズと青い鳥。二人の少女が出会い、そして別れるまでの日々。物語をなぞるようにして、音楽の場面は次々と展開していく。序盤は爽やかな森の朝のシーンだ。朝の鳥のさえずりのようにピッコロの小田さんが甲高い音を奏でる。そしてこれは曲全体を支える青い鳥のモチーフでもある。
そこからホルン。岸部と森本さんがまず音を奏でて下支えをする。始まりを予感させる開幕は、そして金管楽器のファンファーレへ繋がるのだ。後ろでは東浦さんと前田蒼太君が細かい演奏をしながらリズムを作っていた。
そして穏やかな日常を終わらせる大嵐が吹く。不穏な音を奏でるのはコンバスとファゴットのユニゾン。川島さんは去年より磨きのかかった演奏を披露している。良い師匠に恵まれた月永君も、自己流だった演奏が改善されて音の響かせ方が段違いになっている。兜谷さんと籠手山さんのファゴットコンビも、みぞれによく指導されていた成果が出ている。
ウインドマシーンを奏でるのは前田颯介君だ。その後東浦さんによるティンパニソロが雷鳴を奏でる。トランペット・フルートとトロンボーン・低音・サックス・クラリネットが交互に演奏し、地鳴りのような荒れ狂う音を示していた。
長い嵐の音をどう表現するかは大事な課題だ。起承転結の承に当たる部分。物語を転に繋げるためのパーツなのだ。サックスの華麗な音が響き渡る。瀧川君の演奏は相変わらず上手い。音が伸びやかに響いていく。平尾の演奏も大分良くなった。牧さん共々、音量を出せるようになっている。遠藤君は丁寧すぎ、鈴木君は雑過ぎるというのが課題として指摘されていたが、見事に修正されていた。鮎川さんや松本さんも一年で伸びていることを示すが如く、フルートを支えていく。
びゅうびゅうと唸る風の音は次第にやみ、リズと少女の幸福な時間が始まる。第二章の喜びに満ちた豊かなメロディー。激戦区フルートに入り込んだ高橋さんは希美に師事した結果かなり上達している。来年の大会出場も固いかもしれない。中野さんも穏やかな音が出せるようになった。
フルートと掛け合うようにホルンが鳴らされる。屋敷さんと瞳さんは今年が初参加。去年初心者だった瞳さんは音量と音質が伴っている良い演奏が出来るようになった。森本さんが熱心に教えてくれた結果だろう。
Prestoで盛り上がる曲を、トランペットのファンファーレが鮮やかに染め上げる。高坂さんの音は、私の聞いたことのある彼女の演奏の中で最も素晴らしいモノだった。二年間見てきたのだからこそ、私は彼らの演奏を一番知っている自信がある。誰よりも彼らの演奏をまとめて、教えてきた。演奏は不穏な和音が奏でられ、別れを予見させる。
そして始まる第三楽章。まずはみぞれのオーボエが先陣を切る。合宿の後のあの演奏から変わらない圧倒的な完成度。いや、更に磨きがかかっている。美しさ以外を削ぎ落した音色は聴者に麻薬のような作用を引き起こす。ただ、それだけではこの曲は完成しない。さぁ、行け。今だ。そう願い、手をきつく握りしめる。祈りに応えるように音が鳴った。
そして、そこに世界が顕現する。ステージを、いや、舞台裏までひっくるめた会場全体を巻き込んで、小さな箱庭が現れる。リズと少女の住まう小さな小さな世界。聴衆はそれを見る事しかできない。まるでミュージカルを見ているような物語が目の前で展開される。フルートとオーボエの掛け合いが、朗々と響く。他の楽器が世界の細部に色を付けていく。主役を食わないように、されど、自分達もここにいるのだと言うように絶妙な塩梅で。
最後まで苦戦していた。自信をもって百パーセント問題ないとは言えなかった。それでも彼らは最後の最後で昨日の自分を越えた。一秒前の自分より上手くなる戦い。それが音楽の練習。なのだとすれば、彼らは戦い、そして勝ったのだ。昨日の自分、一秒前の自分に。
オーボエを支えるのはユーフォニアムの滑らかでコクのある演奏。黄前さんを筆頭にオーボエを食わない程度にその音を主張していく。一番伸びたのはどう考えても夏紀。二年前の彼女に、二年後君は全国大会で演奏していると言ったら嘲笑されただろう。それくらい伸びた。同時に久石さんも成長している。雨の中飛び出した頃よりもずっと、その音は大人になった。そして何と言ってもハープだろう。大野憧れのハープが繊細な伴奏で曲に鮮やかな華を咲かせている。
そんな中、離れたくない、一緒に居たいと青い鳥は泣く。井上さんのシンバルが二人の感情に走った衝撃を示す。悲しい、寂しい、つらい。そんな感情が刺すように音に乗る。それに返答するように、リズは包み込む。その身体を抱きながら、きっと翼無き少女は「空を飛べ」と笑う。音色の毛色が少し変わる。嘆くだけだった鳥へ、少女は語る。「先に空の向こうで待っていてくれ、必ずそこへ追いつくから」。翼なき少女は有翼の鳥とは今は対等ではいられない。あまりにも違い過ぎるから。けれど、いつか、いつの日にか二人は共に飛べる日が来るから。
歌うようなフルートがそう語る。諭すようにその音を響かせる。完成した音色が物語を、空想の世界を現実に上書きしていく。きっと、青い鳥は断らないと信じている。例えエゴでも、それが自分だと決めたから。覚悟を決めた少女は、愛ゆえに一時の別れを促す。
フルートの音は切なさを込めながら希望の色も加わった音になる。彼女もまた、愛していた。故に受け入れた。少女の決断を受け入れて、先に飛び立つ覚悟をした。きっと、追いかけてくれると信じているから。対話はいつしか約束へと変わっていく。愛と優しさと、そしてエゴに包まれながらも二人はそれぞれの道を歩むだろう。その先にきっと、交わる日が来ると疑わない。それは未来を信じている若者だからこそ、吹ける音なのかもしれない。可能性を疑わず、走り出せる若者故の約束だ。翼を欲しいと歌うのではなく、翼を下さいと懇願するのでもない。未来と言う可能性を信じた人らしく、己の力で大空へ挑む物語だ。
そして第四楽章。そのタイトルは『遠き空へ』。空の彼方に人は何を見出すのだろうか。希望か不安か。渇望か恐怖か。全てだろう。青春の、先が見えない不透明さゆえの希望と不安の入り混じった感情を、音色は表現していく。
堺さんのチャイムが出航の鐘を鳴らす。船が動き出し、風が帆を膨らます。第三楽章は回想。そういう風に定義付けしたがハッと夢から醒めたような感覚を観客は覚えたことだろう。過去の回想を海風と大海原の波が押し流す。けれど思い出は消えることは無い。少女の胸の中で、確かに生き続けるのだ。
トランペットのソロとクラリネットたちが希望への道を示す。青い鳥にとっては飛ぶべき進路。リズにとっては追うための航跡。愛と希望という翼を抱き、青い鳥は己の道を飛び始める。その壮大さ、その優雅さ。到底人には手の届きそうもない道筋。
かつて希美とみぞれの演奏に硬直していたクラリネットたちだが、その平均値の高さをこれでもかと言わんばかりに見せつけている。島を筆頭に練習を積み重ねてきた。植田さんや高野さんの音は昨年よりも丁寧に。一音一音に拘りが付いている。高久さんは流石の技巧だ。大勢いる一年生組も含めれば圧巻の演奏になる。
特に涼音の懐刀として一年過ごしてきた北山君は突出している。だが他の面子も負けてはいない。端田さんや平沼さんは連符を綺麗に吹きこなせるようになったし、坂崎さんや芦田さん、井村さんも島の技巧に負けないようにくらい付いている。完璧だと思わないように。一年生に何度もかけてきた発破をしっかり彼らは理解してくれている。
走り抜けるフォルティシモが爽やかな風となって駆け抜ける。去り行く羽ばたきの音。そして誰もがその音に、その翼を、明日を信じて見上げる一人の人間の姿を見るだろう。その口元にはきっと笑みがあるはずだ。これは決して別れの物語などではない。例え原作がそうだったとしても、音楽はそれを奏でる者に解釈をする権利が与えられる。これは愛と希望の物語だ。夢を信じて、走り続ける愚かしくも気高い人の物語。未来へと進む、私たちのための物語。我々はそう、この曲を捉えたのだった。
力強く奏でられる終幕のファンファーレ。支えるのは大音量のチューバたち。後藤長瀬の黄金コンビに鈴木さんを加えた三人は、大勢の楽器の中でも確かに目立っている。そしてフィナーレを迎え、高らかに物語は終わりを告げる。希望を、そして明るい未来をこの会場に映し出して。
世界は静かに構築を止めた。止まった指揮棒。それが、箱庭の終焉。聞き手は一気にこの世界に戻される。先生は腕を降ろし、振り返って指揮台から降りる。そして、私たちの作り上げる夢は静かに終幕した。
「ただいまの演奏は、京都府立北宇治高等学校吹奏楽部の皆さんでした」
喝采が鳴り響く。後は、その努力に見合う成果を貰うだけだった。未来への希望は見事に謳われたのだ。きっと、審査員もそれを理解してくれる。私はそう、信じている。
演奏後の廊下で、私は優子と夏紀の前に立つ。去年もこうして小笠原先輩と田中先輩の前に立った記憶があった。あの時何と言葉をかけたのか、今となっては大分朧気だ。しかし、一年後にこうしてまたここに立てていることは、非常に幸運な事だと言えるだろう。今は名前ではなく、敢えて役職で呼ぶことにしていた。それが部活を率いてきた二人への敬意だと思うから。
「部長、副部長。お疲れさまでした。去年が初代だとすれば、今年は道を繋いでいく二代目。舵取りの難しい時期だと思いますが、よくここまで頑張ってくれました。本当に、ありがとう。このコンビに勝るとも劣らないようにしないといけない次の幹部は大変だと、今から思ってます」
「こちらこそ、ありがとう」
優しく微笑みを浮かべ、名補佐だった副部長は私と握手を交わす。横にいる部長はもう限界そうだった。
「あんたにさ、最初に言われたこと忘れてないから。昔の自分に誇れるのかって、そう言われたこと」
「そんな事も言ったね」
「ちゃんと、誇れるわよ。あの時の私に、中学校時代の私に。胸張って、自信持って、ここまでやって来たって」
「そうか……それは、良かった」
遠い日の記憶が蘇る。あの時、わけわかんないと彼女は叫んでいた。でもきっと、今ならそんな言葉を口にすることは無いだろう。迷いが無いとは思わない。それでも自信を持って、彼女は前に進んできた。そしてその後ろに、多くの部員がついてきたのだ。今さらと言えば今さらの話だ。私は彼女が部長に就任したその日から、いやそれ以前から、吉川優子は誇れる人間だと、そう思っているのだから。
「表彰式が始まりますので、各校の代表者は速やかに指示された場所へ移動してください」
全ての学校の演奏が終わり、ホール内には全学校の人間が集められている。願いはただ一つだけ。今年こそ金を。私は金で全く問題ない演奏だったと思っている。贔屓目でもなく、心の底からそう思っているのだ。関西大会の時とは席が違う。隣の希美は私の手を痛いくらいに握りしめている。顔は強張ったまま、前を向いている。
「それではまず、皆さんをここまで率いてくださった各顧問の先生方に指揮者賞を贈呈します」
去年は高坂さんの一人舞台だったここも、しっかり今年は用意している。
「関西代表、京都府立北宇治高等学校吹奏楽部、滝昇殿」
「せーの!」
「「「滝先生、好きでーす!」」」
大きな声で叫ばれるのは去年と同じ文言。尤も、言っている人数が違う。今年は全員でこの言葉を言っていた。明らかに去年のそれをトレースしているのだが、高坂さんは赤い顔になっている。多分、これは北宇治が全国大会に出続けている限りずっと続くんじゃないだろうか。この掛け声の由来になった高坂さんが卒業した、その後でも。受け継がれていくモノはある。どんなモノであろうと、どんな形であろうと。
しばらくして、ステージの上で各校の代表者が並び始める。北宇治の代表者は当然部長と副部長の二人だ。ステージの端の台にはトロフィーや盾が所狭しと陳列されている。進行役が述べるお決まりの注意事項などとっとと飛ばして欲しい。もうどうせ誰も聞いてやしないのに、律儀な事だ。自校も、他校も、みんな祈るようにステージを凝視している。
結果はどんどんと発表されていく。その結果に喜怒哀楽の感情が湧き上がっていく。まだか、まだなのか。誰もが息を止めていた。ゴクリと唾を飲み込み、手を握りしめている。その唇の動きすら、見落とさないように。
そして、その声は響いた。
「十三番、関西代表、北宇治高等学校――――」
「――――十三番、関西代表、北宇治高等学校。銀賞」
どんな結果でも納得しようと思っていた。何が足りなかった。出来る事は全てしてきたはずだ。去年のメンバーよりも明らかに質が向上している。なのに、どうして。ツーっと一本涙が出てくる。
結果だけ見れば素晴らしい成果かもしれない。全国で銀。去年の銅よりも一歩進んでいる。けれど、本当に欲していた色では無かった。悔しい事だけなら何回もあった。異国での四年間の中で何度だって。それなのに、どうしてだろう。今の悔しさはあの時のものとは比べ物にならない。
よく、頑張っていた生徒が結果を出せないと先生の方が悔しいと言う。私はフィクションだと思っていた。だが、やっとわかった。悔しくて、死にそうとはこういう事を言うのだと。誰もが放心状態のままだった。希美は何も言わない。泣くこともなく、ただじっと前を見ていた。けれど、その唇は血が出るくらい噛み締められていることに気付く。
「泣けるのは、ここでずっと頑張ってきた子だけだと思う」
私の視線に気づいた彼女はそう呟いた。思っているよりもずっとずっと強い。何を言ったらいいのか分からない私に、彼女は続けてこう言った。
「でも、今だけはちょっと泣いていいかな?」
問いかけるその目には大粒の涙が浮かんでいる。思えば彼女が泣いているところなど、ほとんど見たことが無かった。嗚咽が聞こえる。希美は頑張ってきた。空回りながらも何とか部活をいい方向に持っていこうとして、そして失敗して。ここを追われて、アウェイな空気を突き破ってもう一度戻って来て。そして実力は申し分ないけれど、しがらみから去年の大会には出れず。どこか疎外感を感じながらも、必死に食らいついて今はこうしてソロを務めるまでになった。
ずっとずっと頑張り続けていた。彼女なりに、ひたむきに。その姿を誰よりも知っている自信がある。これだけはみぞれにも、他の誰にも譲りたくない。彼女の足に水滴がとめどなく零れ落ちる。その背中をさすりながら、私の涙も止まりそうになかった。
大会後の空気は重い。努力してきたからこそ、結果に納得出来ない。その気持ちは痛いほどわかった。私とて、納得できない。一生納得できる事は無いだろう。外に集合してもお通夜のような空気だった。誰もが俯いて下ばかり見ている。言葉を発する者はほとんどいない。
「先生……すみませんでした。私、この席を、ソロを先生の代わりに……なのに!」
「良いんだ、君のせいじゃない。良いか、君は素晴らしい演奏をした。今日のトランペット奏者の中で一番だったと確信している。だから、顔を上げて」
赤い目をしたまま、彼女は顔を上げる。自分に人一倍厳しく練習してきたからこそ、彼女の心の中の痛みは察するに余りあった。
「ありがとう」
この言葉に戸惑ったような表情を浮かべる。
「そんな、私は、お礼を言われるようなことなんて何も……」
「いや、君の演奏は私にもう一度音楽の世界に、吹奏楽の世界に戻るきっかけだった。あの春の日に、私に師事したいとそうがむしゃらに叫ばれた時のことを、私は昨日のことのように覚えている。あの時見た君の瞳の中にあった情熱を信じてここまで来た。そして、今はそうして良かったと思ってる」
それに、と私は言葉を続けた。
「奏者としても頑張る理由にもなった。君に追いつかれたくない。そう心の底から思ったんだ。私は本来何かを教えたり、諭せるような人間じゃない。けれど、この二年間は本当に貴重な時間だった。だから、ありがとう。高坂麗奈という一人の
「来年……必ず、必ず金を取ります。どうか、見ていて下さい」
「ああ。約束しよう」
差し伸べた手を、彼女は固く握り返した。まだ仕事は残っている。彼女を来年の北宇治を導ける存在にしなくてはいけない。それが私に残された最後の課題だろう。いつまでも泣いているわけにもいかなかった。私は彼らに消えない呪いを植え付けた一人だ。そして努力を強いてきた。その責任を果たさなくてはいけない。
元々彼女たちの代が三年生になった時に全国に出る。そういう計画でいるつもりだった。けれど予想外に二年も前倒しになった。そう考えれば、私の当初の想定よりはるかに上方修正された状態が今ある。金賞は、高坂さんたちの代に託すことにしよう。悲願を担ってもらうことになるというのは当初の想定通りだった。ちょっと、皮肉めいたモノを感じる。
「ちょっとちょっと、なにこの空気? お通夜じゃないんだから」
努めて明るい声で、我らが部長は前に立つ。その声に、否応なしに全員が顔を上げる。涙の痕跡は見えない。少し目が赤いくらいだろうか。一年間ここを率いてきた彼女こそ、誰よりも号泣する資格がある。にも拘らず、その素振りを見せず、彼女は自分の悔しさや悲しさを隠してここで部員を励まそうとしていた。
「なに落ち込んでるの? 私たちは今日、最高の演奏をした。それは事実でしょう? これまで私たちを支えてくれた部員のみんな、先生たちや保護者の皆さんのためにも、胸を張って帰らなきゃ! ……確かに望んでいた結果じゃなかった。でも、落ち込む必要はない。私たちはあの瞬間、最高の演奏をした。そしてこの経験は絶対に明日に繋がる! 来年に繋がる! 一年間部長をやった私が断言するよ。北宇治はもっと良くなる。もっともっと強くなる! だから顔を上げて!」
大きな拍手が起こる。今日出場できなかった部員たち。そして、今日の奏者たちから。その姿はとても眩しい。
「今日と言う日は来年のコンクールに向けての一日目。でも、私たち三年生の奏者は今日で引退です。ここからは二年生、そして一年生の皆に託すしかありません。けれど心配しなくて大丈夫。私たち三年生14人の想いを乗せた指導が待ってます。指導員が来年の結果をもっと良くするため、私たちの悔しさをみんなに味合わせることの無いように、頑張ってくれる。ですから、明日からの練習頑張ってください!」
「「「はいっ!」」」
見事に空気は前向きなものに変わった。悔しさはある。喪失感も、無力感も。けれどそれに支配されることなく前を向ける空気を彼女は作り上げた。部長としての才能は私の思っていた以上のものだった。それはきっと、去年の先輩たちも同じだろう。
「最後に。彼は最初、私たちと同じ奏者として入部しました。色々あって、一度去って、戻って来てくれた。けれど、吹きたいと言う気持ちを抑えてずっと私たちを支えてくれました。誰よりも近くで、親身に、真剣に。彼にお世話になっていない部員は一人もいないと私は思っています。ここからの数ヶ月はそんな私たちの特別顧問の最後の指導期間です。全て吸収するつもりで過ごしてください」
「「「はいっ!」」」
「じゃ、そんな彼に話でもしてもらいましょう!」
いきなり話を振られて戸惑いながらも、彼女に代わって前に立つ。
「まず、今まで、至らない私の指導にご協力ありがとうございました。私から何か言う事はあまりありません。皆さんは、素晴らしい演奏とはどういうものだと思いますか? 音が揃っている。表現が豊か。それらも大事です。しかし、人によって素晴らしいの価値観は変わってきます。では、結局何が大事なのか。それは聞いていた人の心を動かせるかどうかだと、私は思っています。例え拙くても、心を動かせれば、その心を動かされた人にとってすれば素晴らしい音楽なのです。だから皆さん、どうか忘れないでください。素晴らしい音楽という物の本質を。大事な誰かの心に響かせるような演奏をしてください。皆さんなら出来ると信じています。最後に」
私は息を吸い込んだ。
「楽しかったですか?」
「「「はい!」」」
「なら良かったです。二年生、一年の頃から必死にやって来たんだ、全員メンバーになるぞ!」
「「「オー!」」」
「一年生、44人もいるんだ、先輩たちから枠を奪いに行くぞ!」
「「「オー!」」」
「厳しい練習にも耐えるぞ!」
「「「……」」」
「いや、頑張ってくださいよ。来年こそ、金獲るぞ!」
「「「オー!」」」
多くの声が木霊する。その声に満足しながら、私はこの場所で何かを残せたのだろうかと、そんな想いにふと襲われた。受け継いでくれるような、何かを。
バスに戻るまでの道のりで、見知った顔を見つける。スーツ姿の人に囲まれながら、私の祖母はいつも通りの顔で近付いてきた。
「……どうも」
「えぇ」
対面しても言葉が少ない。私は相手の要求通り、後継を引き受けた。しかしだからと言って関係が改善したわけでもない。幸運なのは、この場に部員の多くがいない事だろう。今は少しだけの自由時間だった。バス停車場が混んでいて、出発どころか乗車もできないのでしばらく待機となっている。こちらを見ている部員も、どこか遠巻きにしていた。後輩に囲まれている希美は、遠くから頭だけ下げている。
「何の用ですか」
「ただ一言、感想を伝えようと」
「そうですか」
「良い演奏でした。音楽に関する造詣は浅くないつもりでしたが、音楽で涙を流すという経験は人生で初めて行いました」
よく見ると、その顔には涙の流れた痕跡が存在していた。その言葉にしばし唖然とする。まさか泣くなんて思ってもみなかったからだ。
「……そうでしたか」
「別れと、希望、そして再会。そういうメッセージを感じ取りました」
「それは重畳です」
「同時に、鎮魂でもあったのではないですか。私の義娘が訳した物語を題材にしたあの曲は」
「……そうかもしれません。そうでないかもしれませんが」
「夫の、あなたの祖父のことを少し思い出しました。いつか、会えるのかもしれないと、そう思わされたので。何もかもにがむしゃらに走り続けていた日々が、私にもあったのでした。もう戻らない遠い昔に。過去には戻れないけれど、私は今でもあの人を愛している。もう会えないと思っていたけれど、いつか鬼籍に入ればまた会えるなら、それまでは希望を持って未来を生きようという感情を抱いています。もう老い先は短いですが」
「驚いた。あなたも……人間だったのですね」
それは、素直な感想だった。鉄面皮の奥に隠れた、人間らしい顔を始めて見たかもしれない。ある意味で、私の祖母も被害者なのだろう。家に縛られ、唯一の反抗は結婚相手だけ。それでも随分揉めたと聞く。その相手も早くに亡くし、息子とその嫁も亡くし。最後に残された守るモノは自分を縛り続けた家だったのだろう。これまでの行いを認めはしない。ただ、許しても良いかもしれない。そう思った。
「あなたはあなたの信じた道を行きなさい」
「もとより、そのつもりです。一緒に来てくれそうな人も見つけてるので」
「……そうでしたね。帰ります」
「「はっ」」
くるりと私に背を向け、祖母は帰っていく。腕を組み、少しため息を吐きながら私は見送った。中指立てたりはしない。好きか嫌いで言えば嫌いだが、その嫌いの種類は前に比べて少し変わったような気がする。これは私が大人になったのか、向こうが丸くなったのか。恐らくどっちもではないかと思って、少しだけ笑った。
バス乗り場では少しだけ時間に余裕があるので乗る前に軽く喋ったりしていた。バスの裏側、みんなから見えない位置に妹がいる。私のプレゼントしたフルートのケースを抱きしめている。一緒にいる男が誰なのか、顔が見えなくてもわかった。
「悔しいよな……俺も悔しいよ」
「……悔しいです。凄く、凄く悔しいです。中学の時も二年生の時は関西ダメ金でした。でも、あの時よりずっと悔しい! 悔しくて、死にそう!」
「なら、頑張らないとな」
「でも、でも! 純一先輩と一緒に金取りたかったです。一緒に演奏できるのは、これが最後ですから……!」
「俺だってそうしたい。でも、無理なんだ。だから、俺の分まで頼む。涼音ちゃんだから、頼めるんだ」
「……はい。私、もっともっと頑張ります。ソロで、一番目立って見せます。だから、どうか最前列で見ていてください。私の晴れ舞台」
「勿論、約束するよ」
ふぅと聞こえないように息を吐きだす。彼女を慰めたり支える役目はいつの間にか私から移っていたようだ。寂しいような悲しいような。それでいて成長を喜ぶような。そんな気持ちが同居していた。だが、兄として、これは後で言わなくてはいけない。「妹をよろしく」と「受け止めてくれてありがとう」を。
帰りのバスは座ってそうそう動き出す前からぐったりしている子が多い。それもまた仕方のないことだろう。そもそも演奏自体が体力を消費するし、感情の動きが激しすぎて疲れたんだろう。希美も魂が抜けた抜け殻のようになってしまっている。私が隣に座るとやっと顔に生気が戻った。
「大丈夫?」
「まぁ、多分ね。私は泣き尽くした感じあるし」
そう言って希美は笑う。悲壮な笑みと言うよりは未来へ気持ちを切り替えられた笑顔に見えた。これからは彼女も受験に向けて努力しないといけない。私も教えられることはどんどん教えて協力していこう。高坂さんにドラムメジャーの指導をして、希美に音大受験のアドバイス。当然部活全体の指導も。なかなか多忙な日々になりそうなのは分かった。
バスはゆっくり夕暮れの街を走りだす。すぐにあちらこちらで寝息が聞こえる。前に座っていたみぞれと剣崎さんも寝てしまったようだ。みぞれの目の下には涙の流れた痕跡があった。彼女がコンクールで泣いたところは今まで見たことがない。今回の結果は彼女にも重い何かをもたらしたのだろう。滅多に見せない泣き顔を見せるくらいには。
「ねぇ」
「うん」
「私、幸せだったよ。勿論金賞が欲しかったけど、全国に出れてソロも出来て。考えられないくらいに幸せ。ありがとう」
二人だけに聞こえる小さな声で彼女はそう言った。
「こちらこそ、ありがとう。希美と全国に挑戦出来て良かった」
「私は幸せにしてもらえたから恩返ししないといけないと思うんだけど、凛音はこれからどういう事が起きたら幸せ?」
私の幸せだと思える事、か。想像したことはあまりなかった。今を生きるのに必死過ぎたのかもしれない。
「あんまり考えたことなかったけど……幸せを分かち合える人と過ごせれば幸福だと言えると思う。多分」
「そっか。ちなみに、私のココは空いてるからね。凛音専用に」
彼女はいたずらっぽく笑うと、左手の薬指をピンと立てる。唐突な発言に私が口をパクパクさせていると、結局彼女も恥ずかしくなったらしい。赤くなった顔で指をひっこめた。
バスは寝息で満たされている。前も後ろも、斜めも横も、みんな寝てしまった。私も睡魔が襲ってきている。希美も心なしか眠そうだ。
「愛してるよ」
愛おしさに満ちた心を表すにはI love You の言葉じゃ足りない気がして、私は彼女の唇に顔を近づける。最初は彼女から。なら、次はこちらから。触れ合う感触がして、優しい匂いが私の周りの空気を満たした。
「これまで凄い頑張ってきたんだから、今くらいはゆっくり休んで」
そう囁く声に蕩かされながら、睡魔に任せて意識を手放した。この出来事が夢ならば終わって欲しくないと思いながら。