「と、言うことで、間もなく北宇治高校に取材が来ることになりました」
部長の声にざわめきが音楽室の中に満ちていった。その気持ちはよく分かる。普段過ごしているとあまり感じない世間からの注目というモノの一番分かりやすい例がテレビなどの取材だと思う。数字にならないと取材は来ない。少なくとも、一定数の人が数字になると判断して、企画が通ったのだろうから、北宇治の存在はその程度には知れ渡っていると考えるべきだろう。
滅多にない事態のため、普段の統率はどこへやら周囲と話し始める部員たち。女子ばっかりなのもあるかもしれないが、どんな髪型にしようとかちょっとメイクに気合入れないととか言っている声ばかりだ。画面に映って全国放送されるからには綺麗な見た目でいたいと言うのも納得できる。しかし、あまりにざわざわしていると次に進めない。カツン、と私が足で床を軽く叩くと、少しずつざわめきは収束していった。
「はい、それで日程は配った紙の通りです。ここからが大事なんですが、今日帰ったら家族に同意書を書いてもらってください。これが揃わないと、受けられません。今日から三日以内に提出するようにお願いします。本番では練習風景の他に、演奏会のリハの様子も撮ってもらう予定です。なので、デパート演奏の曲目は完璧にするように、改めてしっかり練習しておいてください。特に今年大会で演奏してない三日月は。また、リズは清良との演奏でも使ったフルバージョンの方になります。気を付けてください」
「「「はい」」」
「あと、今回の取材は引退した三年生も一日だけお招きすることになります。優子先輩が今走り回ってくれてますが、現状だと全員参加してくれることが確定しています。練習と翌日のデパート演奏会も含めての参加ですので、その点を頭に入れておいてください。何か、質問はありますか?」
「編成はどうするんですか」
「秋の演奏会での全員演奏をある程度そのまま使用するそうです。その他詳しいことは、この後行われる全体練習で、先生と先輩からお話があるので、それを聞いてください。他に何かありますか? 無いようなら、桜地先輩、お願いします」
「分かりました」
部長から話を引き取り、前に立つ。当日はここに三年生も加えて、久しぶりのフル編成での演奏になる。演奏者では無い加部も、最後のマネージャー業ということで参加してもらった。実質の主役がいなくては始まらない。元々、取材を受ける事に前向きなのは、彼女がいるからという部分も大きいのである。いなくても受けたかもしれないが、いる以上理由としては大きな比重を占めてくる。
「この後五時から先生がいらっしゃるので、そこから全体練習を始めます。それまではパート練習とします。ですが、その前に先ほど質問にもあった編成を決めていきたいと思います。まず、リズの方から。二年生・一年生でソロなどを担当していた人はそのまま据え置きでいきます。また、1stや2ndと言ったパート内での担当分けは基本秋と同じで行きます。変えるパートはこの後別に指示を出しますので、それを聞いてください。そしてここからが肝心なんですが……」
私は少し間を開けて、再度口を開く。
「三年生がソロをやっていた場所をどうするかは悩みどころです。三年生がそのまま行けそうなら、そのまま行きますが、しかしブランクはあります。万が一交代となった場合は、現在のメンバーでいきますので、その心積もりはしておいてください。特にフルート桜地さんとオーボエ剣崎さんは」
「「はい」」
「次に三日月の方です。こちらはソロ関連はほぼ去年の奏者が揃っているのでそのまま行きます。ユーフォは黄前さんがやってください」
「はい」
「最後の先ほど述べた担当分けをいじるパートですが、トランペットだけ改変します。これはこの後のパート練練習で指示します。以上、何か質問はありますか? 無いようでしたらパート練に移ります。あぁ、余談ですが今回は私も出ますので、よろしくお願いします」
最後に軽く触れて終わろうと思ったのに、爆発的な喧騒が音楽室を包む。終わるに終われない雰囲気に、私はちょっと困惑したまま前に立つしかなかった。指揮台から降りようとしている最中で固まっているので、非常に滑稽な姿だっただろうけれど、それを指摘する人は今はいなかった。
「パート練に行きなさい!」
「「「は、はい!」」」
一喝したことでやっと動き始めるけれど、ざわめきは収まる気配を見せない。そんなに騒ぐことなのだろうか。私はイマイチ彼らの心情を掴めないまま、パート練習に割り当てられている教室に向かった。とは言え、そこで安泰になるかと言えばそういう訳でもなく。パートリーダーに就任した吉沢さんが興奮気味に問いかけてくる。
「で、出るってどういうことですか!?」
「そのままだけど」
「一緒に演奏できるってことですか?」
「まぁ、そうなるかな」
目を爛々と輝かせている彼女の横で、高坂さんがほら言ったでしょう、という顔を私に向けてくる。確かにトランペットパートのメンバーが私と演奏したいと思ってる、という話をしたのは彼女だった。その言葉は嘘ではないようで、吉沢さん筆頭に他の面子も喜色を浮かべている。そんなに喜ぶようなことでもない気がするが、敢えて水を差すのも無粋だと思って黙っていた。
「嬉しいです、私、ずっと二年間先輩に教わったのに、結局大会でも他の演奏会でも一緒に演奏出来なくて、それが心残りで……」
「私がお願いしたの。一緒にやってくれないかって。今回の取材は、加部先輩のためでもあるし、同時に先生のためでもあると私は思ってたから」
「麗奈ちゃんマジ女神……」
頼れるはずのパートリーダーは半泣きだ。そこまで喜ばれると言うのは指導者冥利に尽きると言っても過言ではない。弟子二人と演奏できるのは、師匠目線でも嬉しいところがある。私のヴィクトリカも久々に学校で日の目を見ることになるのを喜んでくれるだろう。元々母親の楽器だったあのトランペットは、学校で演奏している時が一番輝いている気がする。
「ただし、加部には内緒にしてるように。OK?」
「「「はい!」」」
「じゃあ、担当を分けよう。高坂さんと吉沢さん、さらには小日向さん。1st担当だ。2ndは優子と滝野、浅倉さんにやってもらう。残りは3rd担当ということで行くつもりでいる。何か質問は?」
「せ、先生が3rdなんですか!?」
高坂さんは先ほどまで吉沢さんに見せていたドヤ顔はどこへやら、非常に驚いた顔になっている。こんなにザ・驚愕という顔を見せているのも珍しい機会なんじゃないだろうか。とは言え彼女以外の全員も大なり小なり驚いた顔をしていた。
「3rdも大事な要素だよ」
「それはもちろん百も承知です。でも、先生の真髄は高音にあるのに……。もし吹きたいと仰るなら、今すぐソロの席も渡します」
「いや、それじゃあダメなんだよ。三日月もリズも、私はずっと指揮する側、指導する側だった。もちろん、吹けと言われれば演奏できる。でも、この二曲について知り尽くしているのは演奏していた方。私は今回飛び入りで参加した側だから、今まで吹いてきた人がやるべきだと思ってる。あのソロだけは私より上手く吹け。私は去年、そういう課題を出して、君はそれをクリアしたと思っていたけれど?」
私の挑発的な物言いに、高坂さんはハッとしたような顔をする。去年の目標はそれだった。プロヴァンスの風と三日月の舞だけは、私よりも上手く演奏する。それを目指して去年彼女は走っていた。当然、後から始めた吉沢さんも同様に。なので、この二人が今回の1stを担っている。押しも押されぬトランペットのエースと言えばこの二人。最強の二人という感じからはどことなく初代プリキュアを思わせる。どっちが白でどっちが黒なのかはよく分からないが。
「はい、ということでこの分け方でいきたいんだけど……大丈夫かな?」
「あ、あの……私、その、1stは……。期待してくださってるのは嬉しいんですけど、私、そういうのはホント無理で……」
小日向さんのその言葉に何かを言おうとした高坂さんを目で制止する。彼女の強気な発言は時に人を励ますけれど、逆に小日向さんには重荷になりかねない。
「小日向さん」
「は、はい」
「未来の事を考えましょう」
「未来……?」
「来年のトランペットパートはそれでも良いのです。高坂さんと吉沢さんがいる限り、安泰でしょう。この二人に1stをやってもらえば間違いありません。ですが、再来年はどうでしょう。小日向さんは最上級生です。そこでもソロを譲りますか? 1stを譲りますか? このままだと、高坂さんと吉沢さんが卒業した場合、ソロのお鉢が回って来るのはあなたです。譲った末に大会で負けたら、それで納得できますか? あなたが納得しても、譲られた他の奏者はどう思うでしょうか」
「私は、あんまり嬉しくない」
「僕も」
浅倉さんが間髪入れずに言った。それに貴水君も続く。今年トランペットパートで唯一一年生ながら激戦を勝ち抜いた彼女。その実力は同期の中でも抜きんでている。にも拘らず、譲られるというのは嬉しさ以前に屈辱が勝るんじゃないだろうか。滝野さんもちょっといい気分ではない顔をしている。誰だって嬉しいわけがない。ふと、オーディションでの一幕を思い出した。夏紀はきっと、あの時今の彼らのような気持ちだったのだろう。
「小日向さん」
高坂さんが小さい声で呼びかけた。
「譲られるのは悔しい。私はそれを、よく知ってるから分かるけど、凄く悔しい」
「え……?」
「私は去年、先輩に勝ってソロになった。ソロコンでも今年の大会でも、吉沢さんに勝ってソロになった。もちろん嬉しかったし、誇りに思ってる。でもどこか心の奥底で思ってた。これは先生がいないから座れている席なんだって」
珍しい高坂さんの言葉に、小日向さんだけではなく全員が少し驚きながら、彼女の話に耳を傾けていた。
「私以外にもきっと思ってた。去年のソロ争いだって、先生の二番手を決める戦いだった。トランペットパートならどこかで、常に持ってたと思う。桜地先生がいないから、演奏者として存在して無いからっていう想いは、必ず。先生が譲ってくれているからこの席に座れてる。それは、誇りだけど同時に悔しい。この人に及ばないって分かってるのに、その人が座るべき場所にずっといるのは、苦しい」
まぁ、それでも止めはしないけど。と彼女は彼女らしく締めくくった。俯いていた彼女は、高坂さんの言葉に顔を上げる。私も高坂さんも別に怒っているわけでは無い。ただ、これが吹奏楽部のために最善だと思っているだけだ。彼女の実力は間違いなくこれからの北宇治に必要なピースになって来る。音量も音質も技巧も問題ない。そんな奏者がデバフを背負ってるのは、望ましい状態ではないだろう。この一年、多少は自信を付けてくれたんじゃないだろうかと勝手に思っている。
「ねぇ、夢ちゃん」
「は、はい」
「失敗しても良いんだよ。何回失敗したって良いし、それで誰か責めてくる子がいたら、ウチのこわーいドラムメジャーがボコボコにしに行くから問題ないと思う。逃げてもいいんじゃないかな。自分の人生なんだし。でもそれは、立ち向かってからじゃないと。本当に大事な事からは、特に」
「で、でも……」
「私は、去年麗奈ちゃんに負けてた。今でも勝ててないけど。あの時諦めそうになって、どうせ勝てないんだって思ってた。始めた時期も、才能も、何もかも違うから。でも、どうしても諦めきれなくて、桜地先輩の門を叩いた。何か、変えられると思ったから」
静かに穏やかに、それでいて力強く。吉沢さんの言葉はきっと小日向さんに届いているだろう。それは、誰よりも鮮烈な同期に一度は絶望しながらもそれでも前に進み続けた、この部の中で一番のチャレンジャーが出した、心の底からの言葉だったから。そこには一切の諦観も悲哀も無い。ただ純粋に、自分はいつかライバルに勝てると信じている、蒼い炎が灯っているだけだった。
「私は、夢ちゃんの力を貸して欲しい。一回戦ってみよう。それでどうしても無理なら、それはしょうがないよね。そういう事だってある。でも、まだ夢ちゃんは、戦場にすら立ってないんだよ」
「わ、私は……頑張って、みます。ダメかもしれないですけど……」
「そっか。嬉しいよ」
吉沢さんは小日向さんの肩をポンポンと叩いている。これで何となったのだろうか。そういう目線を向けてくる高坂さんに、私は肩をすくめる。実際この荒療治じみたモノがどこまで成功するかは分からない。それでも私にとって一つ喜ばしく、そして大事なことがあるとすれば、それはこの説得に高坂さんを始めとする他のメンバーが協力し、見守ってくれているということだった。吹奏楽部はチームだ。吹奏楽は人の和が織りなす芸術だと思っている。この様子ならきっと来年も、このパートは大丈夫だ。その様子を見守れないことが、少し残念だった。
何とか小日向さんを説得できた翌日。私は音楽室の椅子に座っていた。隣には滝先生がいる。その向こうには松本先生。いつものオーディションの態勢だ。これから行われるのは、ソロコンに向けた代表選考オーディションである。今年は29名が希望を提出している。このメンバーの中から、5人を選ばないといけない。
「この前仮免取れたんですよ」
「そうですか、随分早いですね」
「割といい感じにスムーズに行ったので」
「気を付けて運転するようにな」
「はい、もちろんです」
多分部員は知らないと思うが、オーディションの前は意外とこういう風に雑談をしていることも多い。先生や私だって人間だ。これから起きることの重要性は理解している。だからと言って、張り詰め過ぎているとこっちの空気が向こうに伝わって、いらぬプレッシャーを与える事になる。それは避けたいと思っていた。なのでこうして適度に気を抜いているのである。
カレンダーは12月の中旬を指していた。もうすぐクリスマスである。今年は希美の誕生日プレゼントをクリスマスとセットで渡すと言っているのだが、肝心の内容物が決まっていない。もうこうなったら、本人に直接聞こうと最近では思っていた。サプライズ感は薄れるけれど、確実に用意できる可能性が高い。それは逃げじゃないのか、いや別に良いだろう、などとどうでもいい争いが脳内で起きている。
「そろそろ時間ですね、それでは始めましょうか」
「はい」
「分かりました」
滝先生の言葉に気持ちを切り替える。今集中するべきは、目の前で演奏している奏者の演奏。ただそれだけである。演奏箇所は既に指定していた。アンコンの曲から出しているので、各自みっちり練習する時間は存在していたはずである。
去年よりも増えたメンバーをどう選定するのか。それが悩みの種だった。去年もあんなに揉めたのである。みぞれと希美はいなくなったけれど、その代わりに一年生がドサッと入って来た。その分も考えれば、より選出は難しくなっている。それに、二年生も随分腕を上げた生徒が多い。これも考えると、五枠というのは狭すぎるようにすら感じる。誰が出ても、遜色ない演奏は出来るだろう。そう思わせる実力はついている。
オーディションの時間自体はそこまで長くはかからない。普段の部員の半分ほどなので、当然かかる時間も半分ほどだった。しかし、ここからが問題なのである。
「またこうなりましたか……」
松本先生の少し疲れた声が響き渡る。我々はまたしても選んだ生徒が違うということで紛糾していた。
「ある程度予想はしていましたが、今年も随分と皆さん腕を上げました」
「本当に」
「私としては、一年の成長の集大成を見ているようで大変頼もしくはありますが、しかし選ぶのは相変わらず難しいですね」
滝先生も去年を思い出して疲れた声をしている。とは言え、先生の独断で決めるのもよろしくはないだろう。部の中で来年のエースを輩出するためのソロコンオーディションと言って良い。エースの存在は、チームである部活を引っ張って行く上で大きな作用を果たしていくだろう。それに、来年の自由曲を決める際にも大きな指標になって来る。今年のリズと青い鳥がみぞれと希美の存在によって決定されたように。
「取り敢えず、今年も一致している生徒だけまず先に合格にしましょうよ。そうしないと、どうしようもありませんし」
「そうですね。では、川島さんと高久さんは決定ということで」
先生は名簿に〇をつける。今年も三人揃って選んでいた川島さんは、来年もコンバスとして、そして低音のパートリーダーとしての活躍を大いに期待している。これまでの二年間、特段不調になることも大きな指摘をされることも無く過ごしてきた数少ない生徒だ。プロも認めるその演奏力を、来年も是非発揮してほしい。そしてソロコンにおいてはリベンジということになるだろう。
高久さんは、去年希美と最後の枠を争い、メンタルを理由に敗れたクラリネットのエースだった。激戦区のクラリネットは、上手い奏者が多い。特に一年生は南中で鍛えられた北山君が頭一つ抜けている。それでもなお、高久さんがクラリネットでは選ばれるくらいには卓越した実力を持っているのだ。アンコンとの掛け持ちということになるが、去年もそれで成果を出していたのである程度は大丈夫だろうという判断をしている。そして、残ったのは三枠だった。
「次ですが……どうしましょうか」
「どうしましょうね?」
先生の困った声に私も困った声で返すしかない。先生が書いているのは高坂さん、瀧川君、ウチの妹。私が書いているのは高坂さん、吉沢さん、最後は凄く迷ったが突出しているという意味では希美の後継たるウチの妹。松本先生は鈴木美玲さん、吉沢さん、最後に迷った跡がかなりあったが井上さんと書いてある。
「桜地君はトランペットから二人ですか」
「はい。確かに出来れば一楽器につき一人の方が望ましいようにも思います。ですが、今回はこの二人が甲乙つけがたい演奏をしていたように思いました。曲の違いもあるのかもしれませんが……」
「なるほど」
私は吉沢さんが鬼気迫る勢いで毎日早くから遅くまで練習に励んでいたのを知っている。河の近くに住んでいるそうで、家に楽器を持ちかえって補導されるギリギリまで河川敷で練習していたらしい。その執念が実を結んだとも言えるだろう。
「では、一人ずつ選んだ理由と、逆に選ばなかった理由を話していくことにしましょう。それしかありませんので。まずは私から行きます。高坂さんを選んだ理由ですが、やはりその突出し安定した表現と音量は――」
先生が話し始める。だがしかし、それで簡単に終わるようならば苦労はしない。いやそれはおかしいだろ、という私の反論があったり、私の意見に対してそれは違くないかという先生の反論があったりと喧々諤々の議論が続くことになる。結局終わったのはそこから一時間を経た後だった。凄まじい激論が交わされて、ここにいる三人は全員へとへとになっている。
大会のオーディションではこんなに揉めたりしない。それはやはり、55人分の枠があるからだろう。ソロで多少議論になったりはするけれど、それでも枠が多いので自分の信ずる信条に従っても問題なく編成が決まる。しかしこのオーディションは五人に絞らないといけない。そうなると、自分の信条がもろに出てくることになる。
私の場合は曲に対する順応性。先生はレスポンスの良さ。つまりは求められている音をすぐに出せているかどうか。松本先生は音の出し方の美醜。それぞれ拘る部分が全く違っている。それは今までの音楽経験、人生経験に裏付けされたものなので、何が正しいということは無い。だからこそ余計に時間がかかるのだが。
正顧問の意見をそのまま通してしまうのも選択肢の一つだろう。だが、それではあまりに芸がないし、我々だって自分の主張や選択が間違いだとは思っていない。だからこそ、議論の果てに妥協点を見つけ出すしかないのだが。とは言え、私も滝先生も松本先生も割と頑固だ。それのせいで、喧々諤々の末にこんな時間になってしまうのである。気付けは、もう最終下校時刻はとっくに過ぎ去り、吹部が申請している残れる時間もオーバーしていた。
「随分遅くなってしまいましたね……」
「滝先生、戸締りは私の方で行っておきます」
「松本先生、申し訳ありません」
「いえ。桜地の方を送ってください」
「分かりました」
滝先生に告げると、松本先生は足早に職員室に向かう。きっとあの部屋はもう無人だろう。
「では、行きましょうか。私の車でお送りします」
「いえ、良いですよ、自分で帰りますから」
「そういうわけにはいきません。生徒を遅い時間に帰す原因になったのは私ですので」
「そうですか? まぁ、そう仰るならお言葉に甘えて」
私は先生の後に続いて、その車の助手席に座る。左ハンドルの車なので、助手席は右側だ。
「重ね重ねすみません」
「気にしないでください。大したことではありませんので。ここ、左ですか?」
「はい」
ラジオからは洋楽が流れている。知らない曲だったので、きっと最近向こうで流行っている曲なのかもしれない。どことなくアメリカンな英語なので、アメリカでの流行りなのだろうか。米国ヒットチャートには疎かった。
「今日は色々すみませんでした。ちょっと感情的になってしまった部分もあって」
「それはこちらも同じですから。私は、あなたとああいった風に話すのは嫌いではありません。むしろ、好ましく思っていると言っても良いでしょう。ここは?」
「右です。先生、そんな風に思ってたんですか」
「えぇ。昨年、あなたが部活に復帰し指導役を引き受けてくださってから、随分と色々話をしました。私の一番話した生徒と言っても過言では無いでしょう。必ずしも自分の意見に賛同してくれるとは限らないあなたの存在は、私の部活運営、顧問としての在り方における頼もしい助言役でもありました。良薬は口に苦しと言うように」
「お役に立てたならば、幸いです」
「来年、あなたがいないのは寂しくもあり、同時に不安もあります。私は、果たして正しく生徒を導けるのか、と。寄せられている期待はよくよく理解しています。私がそういう方向に焚きつけ、そして導いてきましたから。ですが時々思うこともあります。果たしてこれは正しい選択だったのかと」
暗い夜道を車は走って行く。窓の外には灯りが消えてはまた現れていった。先生の弱音を知っているのは、私だけなのかもしれない。同じ共犯者であった、私にだけ、先生は打ち明けることがある。これを生徒が知ることは無いだろうし、知ってはいけない。指導者が生徒に迷いを見せるのは、望ましくないだろうから。
「正しかったのかは分かりません。これからどうなっていくのかも。ただ、一つ言えることがあるとすれば、失ったモノよりもずっと多く、得たモノがあるはずです。私も、皆も、先生自身も。正しさなんて変化する。ただ一つ変わらないことがあるならば、それは音の美しさでは無いでしょうか。音楽は裏切らない。音の美しさだけは、正しさが如何なる変貌を遂げたとしても、不変であると私は思っています。そして北宇治の音は美しい。それが、一つの答えでは無いかと、私は思っています」
「やはり、卒業してほしくありませんね。こういう答えを返してくれるあなたには」
「光栄です。私も、見守りたい気持ちはあります。ですが、いつまでも同じところにいるわけにもいきませんから。夏合宿の時はお邪魔させてもらうかもしれません。臨時の指導員として」
「そうして頂けると、助かります。その時は、私も桜地先生と呼ばないといけないかもしれませんが」
「それはご随意に。私はちょっと気恥ずかしいですが」
車は見知った住宅街の中を走り始めた。速度は少し低速になる。幾つかの角を曲がり、右手に白い壁が続くようになった。少し行くと門が見える。
「先生、そこの門のところです」
「ここですか。この白い壁は全部……」
「私の家の塀ですね。あ、そこです」
「分かりました」
先生がブレーキを踏み、車は静かに私の家の門前に到着する。希美からは家に帰ってますというメッセージが来ていた。妹たちは先にご飯を食べているだろう。すぐにレンジでチンできるメニューを用意しておいて良かった。絶対遅くなると思ったのだが、予想通りである。
「わざわざありがとうございました」
「それではお休みなさい」
「はい」
「また明日からもよろしくお願いします」
「こちらこそ」
私は車の中で小さく頭を下げて、ドアを開ける。もう冬になった空気が私の肺を刺激した。そろそろ雪のチラつく頃になって来る。もうそんな時期かと、灰色の空をチラリと見上げた。私がもう一度頭を下げると、先生は軽く手で応えて走り去っていく。その車の後ろ姿が見えなくなるまで見送った後、私は門を潜った。
先生とももうすぐ別れの時が来る。二年間共に戦った相手である。名残惜しくないわけがない。色々対立したこともあったし、ムカついたこともあった。それでもここまでやってこれたのは、先生だったからかもしれない。まだまだ頼りないところはあるけれど、それでも尊敬するべき存在だった。残って共に部活を見守りたいという想いはある。ただ、私の生きる場所は北宇治高校じゃない。人生を送るのはこの家であり、もっと別の場所なのだろう。北宇治に人生の全部を捧げることは出来ない。だから今、限られたこの残り少ない時間だけは、持てるモノを全て注ぎ込みたいのだ。
「これより、北宇治高校吹奏楽部の代表としてソロコンテストの予選に参加する五名を発表する。名前を呼ばれた者は大きく返事をするように」
翌朝の朝練の際、松本先生はバインダーを開いてオーディションの結果発表を行おうとしていた。大会と違って全員参加では無いし、非常に狭き門ではあるため、半ば諦めている部員も存在しているが、大半は自分が選ばれているのかどうかを気にしている。今回は希望しなかった部員も、結果がどうなったのかは興味津々と言った様子だった。
この部の現在における最高戦力は誰であるか。その発表が今、行われようとしていた。
「コントラバス、川島緑輝」
「はい!」
「クラリネット、高久ちえり」
「はい!」
なるほど、という納得の吐息が聞こえる。この二人の実力がトップクラスなのは、有名な話だった。選ばれていてもおかしくはないだろう。特に、川島さんは去年のソロコンとアンコンの経験者だ。その情報を知っていれば、この結果も予想が付いていたのかもしれない。月永君は流石です、という憧れの目線を向けていた。
「フルート、桜地涼音」
「はい!」
凛とした返事がフルートの席から聞こえる。激論の末に、まず一枠を勝ち取ったのは自他ともに認める希美の後継者であるウチの妹だった。これにはおぉ……! というどよめきが聞こえるが、これは一年でここに食い込んだことへの称賛や感嘆が含まれていて、否定的な感じはしない。それだけ実力面では他の部員に認められていたということだろう。当然、私の贔屓という話にもならない。
南中の部長という経歴とこれまでの実績はキチンと正当な評価を得ているようだ。高坂さんが作った先輩より上手い後輩がいても問題ないという路線をフル活用しているとも言えるかもしれない。私がいなくとも、きっと大丈夫だろう。
「トランペット、高坂麗奈」
「はい!」
これも当然、という空気が流れる。私の後継者にして、ドラムメジャー。ここで落ちるわけにはいかないという確かな気合を感じる。結構危なかったけどね、君は、という言葉は決して口にはしない。結果として選ばれているのだから、経緯は問題ではないだろう。
「最後にパーカッション、井上順菜」
「はい!」
ヨシっとガッツポーズをしている井上さんに悔しそうな顔をしつつも堺さんが拍手を送っている。ここも去年のソロコン出場者ということもあって、あまり大きなどよめきは無かった。
「松本先生、ありがとうございました。今回名前を呼ばれた五人は、北宇治の次代を担うエースです。去年と被っている人は、一層期待されているということを胸に、良い演奏をするよう努めてください」
「「「はい」」」
「そして今回惜しくも落選してしまった人も、決して落ち込むことはありません。もし枠が五枠でないなら全員参加させても構わないと思うくらいには、良い演奏をしていました。我々審査員も非常に紛糾し、喧々諤々の大激論を交わした末に今に至っています。一年生は来年、また是非チャレンジしてください。今回希望を出さなかった人の参加も歓迎していますので、来年是非」
「「「はい!」」」
やはりフォローはしないといけない。それにこれは嘘でも無ければ同情でもない。しっかり事実として言っている。今回の演奏が各員非常に素晴らしかったのは事実だし、もし出せるならば全員出してあげたいと思うくらいには成長していた。これは去年も同様ではあるが。来年からはソロコンのオーディションももうちょっと考えないといけないかもしれない。このままだと枠が狭すぎる。もっと別の大会を探すのも必要だろうか。
私が紹介できるのは一気に日本を飛び越えて海外になってしまうし、そもそも今の部員の水準では出ても予選止まりだろう。資格はあるからと言って出ても勝てるとは限らない。高坂さんでも私のいつも出ている世界大会では予選止まりではないだろうか。本選に絡んでこれるとは思わない。
「では、少ししたら合奏練習になります。それまではしばし休憩ということで」
私が締めくくった後、色んな反応が見える。またしても高坂吉沢コンビは火花を飛ばしている。あそこは毎回あんな感じだった。最近では一番ビビっていた小日向さんも慣れてきたのか、スルーするようになっている。
「おめでとう」
「ありがとう」
「来年の大会。そのソロで勝負だよ」
「分かった。でも譲る気は無いから」
「譲らなくていいよ、奪い取りに行くだけだから。首洗って待ってて」
「待ってるのは好きじゃないの。先に走って行くから、頑張って追い付いてこれるなら追い付いて来ると良いよ」
いざ尋常に勝負、という声が聞こえてきそうな雰囲気だ。一見すると、高坂さんに挑み続けている吉沢さんの諦めが悪いだけに見えるかもしれない。だが高坂さんは理解しているはずだ。自分の座っている立ち位置が少しずつ、少しずつ吉沢さんに侵食されている事を。気を抜けば、その地位はあっという間に失ってしまうということを。刃を構えたライバルが、すぐ後ろで虎視眈々と隙を伺っているのをひしひしと感じているだろう。だからこそ、前に進んでいる。そのプレッシャーすら力に変えていた。
二人のライバル関係は、いつかの自分に重なって見える。その姿は、とても眩しかった。