音を愛す君へ   作:tanuu

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第百十二音 貴女のための演奏会

 メディアの力とは恐ろしいもので、いつもよりも何倍も練習に力が入っているように見えた。それもそうだろう。自分達の努力の結果、多くの人にそれが認められ最終的には取材まで来るのだから。取材が来るという事は、既に何回も全国区で放送されている立華などと並んだことを意味する。サクセスストーリーも相まっての事ではあるだろうが、それでも実力のない高校にわざわざ来ないだろう。

 

 一層熱の入る現役部員たち。三年生も実力を落とさないようにどうにか時間をやりくりしつつキープしながら、その日を待った。受験勉強の中ではあったが、そのいい息抜きだと好評を得ている。ここら辺は上手く交渉して回ってくれた優子の人徳の賜物だろう。引退しても、我々の世代での部長はどこまで行っても彼女だった。

 

「では、合奏練習を始めたいと思います」

 

 先生が指揮台に立つ。先生が来たと同時に、私は用意してもらっていた椅子に座った。思えば、音楽室でこうして部員に混じって演奏するのは初めてかもしれない。隣に座っている貴水君や浅倉さんは緊張した顔をしていた。何ならトランペットパートの全員、若干顔が固い。そんなに緊張することも無いと思うのだが、そうも言っていられないのだろう。

 

 何なら、トランペットパートの向こうに座っているトロンボーンパートですら緊張の色が見えた。或いは前に座っているホルンや低音にも。そんなに緊張しなくても取って食ったりはしないのだが。先生も心なしかやりにくそうな顔をしている。

 

 とは言え、今回の演奏参加を先生も歓迎してくれていた。一番喜んでいたのは妹と希美かもしれない。ずっと、一緒に演奏したいと思ってた、と言われてしまった。思えば、希美と一緒に演奏したこともほとんどなかったような気がする。去年の卒業式などが数少ない例だろう。妹と演奏するのは、今回が最初だった。恐らく、人生で初めてかもしれない。人生初の兄妹演奏イベントが、まさか加部のための演奏会で起こるとは、人生何があるか分からないモノだ。

 

「トランペット、もう少し気持ち前に出ましょう。特に貴水君と滝野さん。桜地君の音にかき消されないように」

「「はい」」

「桜地君は抑えめで」

「はい」

 

 指示を出されてはい、と返事をするのは吹奏楽部員のあるあるだ。そのあるあるを体験するのはなんだか新鮮ですらあった。今までは返事を聞く側だったので、ちょっと楽しい。普段やらされている方は全く楽しくないと思うが、こういう風景で全体が見えているのかと、目新しい気分を感じていた。卒業を前に、最後の最後でこういう体験が出来たのは良い思い出になるだろう。そんな事を思いながら、私はトランペットを構える。音楽室の照明を反射しながら、私の相棒は久しぶりにその金色を輝かせていた。

 

 

 

 

 

 

 そして迎えた12月22日。全く希美へのクリスマスプレゼントを考えていないことに焦っている今日この頃。そんな今日は取材の日でもあり、同時に演奏会のリハーサルでもある。明日はデパート演奏の本番であり、その前日に予定をセッティングしている。もう既に学校は冬休みに入ったので、他の生徒の邪魔になったりはしない。向こう側の快諾もあり、スムーズに日程が決まった事は喜ばしい。

 

「本日はよろしくお願いします」

「こちらこそ、ようこそお越しくださいました」

 

 テレビクルーの代表者が挨拶に来る。丁寧な対応をしてくれる人だ。テレビだと中には横柄な態度の人間もいたりする。海外ではそういうのにもそこそこ遭遇していたので不安だったが、今回は大丈夫なようだ。尤も、それは応対しているのが私だからかもしれないけれど。どちらにしても、内心がどうあれ対応が良いならそれに越したことは無い。

 

 学校の案内は私に一任されている。注目されているのは吹奏楽部であって北宇治高校そのものではないことに教頭などは残念そうだったけれど、まぁ仕方ない話だろう。吹部で一番手の空いている私が案内役になるのは自然な運びだった。取材経験もメディアへの出演経験も、唯一持っているのでその辺はそつなくこなせる自信がある。

 

「音楽室はこちらの棟の最上階になります」

「練習はいつもどれくらいやっているんですか?」

「そうですね……日にもよりますが、休みの日だと早い時は朝8時頃から昼休憩を挟みながら夕方の6時頃まであったりします。それより早く来て自主練する子もいますし、夜遅くまで残る子もいます。逆に言えば、それくらいしないと全国には行けない。そういう世界であると、私は思っています。もちろん、強要することの無いように気を配ってはいますが」

「なるほど……。辛くなったりはしないんですか?」

「どうでしょうね。私は奏者ではなく教える側の人間なので正確には何とも言えません。とは言え、彼らだって辛くないと言えば嘘になるでしょう。それでも、それを上回るものがあると信じているからこそ、こうして日々の練習を行っています。それに、本番というのは気持ちの良いモノですから」

 

 既に演奏の音が聞こえてきている。時計を見れば、時間通り。三年生は午後にあるリハーサルにだけ顔を出してくれることになっている。上手く全員とコンタクトが取れ、時間の余裕を確保できたのが大きいだろう。人数の少ない三年生の数少ない良いところかもしれない。

 

 演奏の邪魔にならないようにドアを開け、音楽室の中に入る。クルーも静かに入室し、音楽室の後ろから先生の様子や演奏中の部員を撮影している。今日は案内役とは言え、指導役を放棄したつもりは無い。演奏中はしっかり部員の様子に目を光らせる。

 

 後ろから見ていると、前からとはまた違った目線で見えるものだ。指の様子、口の様子等々。そう言うところも、案外役に立ったりする。集中力も丸見えだ。細かいズレは気になる。

 

「何か、気になるところが?」

 

 クルーはかなりの小声だ。このシーン、ちゃんと音が拾えているのだろうか。

 

「少しだけ、音にズレがあったので。あれはクラリネットのところですかね。2ndで少しズレてました」

「全然わかりませんでした……」

「まぁかなり細かいところですから。ですが、そう言うところが命とりになりかねませんので、厳しくいかないといけないんです」

 

 演奏には一旦ストップが入り、先生からの指導が入る。

 

「クラの2nd、Fの始めからもう一度お願いします。少しズレていました」

「「はい」」

 

 少し驚いたような視線がこちらに向けられる。学生と侮って貰っては困る。私とて、この二年間ここを導いてきた一人であるのだから。これくらい出来ないようでは、務まらないだろう。尤も、他校にこんな人間がいるとは思えないので、我が校だけの特殊ケースであることは否定できないが。

 

「彼女が例の?」

「はい」

 

 クルーが指さしたのは壁際にて真剣な顔でストップウォッチで時間を測りながらメモをしている部員。加部だった。マネージャーである彼女は、もう既に引退した身であるものの今日は普通に参加している。午後からでいいと言ったのだが「自分は演奏できないのでその分仕事をさせて欲しい」と頼み込まれてしまっては無下には出来ないというものだ。事実、彼女のおかげで私も大分楽になった側面が大いにある。

 

 今回の取材に乗り気だったのは今まで日の当たらない場所にいた彼女を日の当たる場所に持っていきたかったという意図もある。小日向さんの一件も絡めれば、上手くテレビの画的にも美味しく、こちらにも利益のあるような感じで仕上げられるはずだ。

 

「前にもお話ししましたが、彼女の名前は加部友恵。役職はマネージャーです。三年生なので引退しているんですが、今日はどうしてもという事で」

「吹奏楽部にマネージャーというのは珍しい気がしますね」

「他校さんの事はあまり分からないですけれど、珍しいとは思いますね。元々奏者だったんですよ、彼女。ただ、顎関節症になってしまいまして」

 

 クルーの一人が「あっ……」という顔をしている。管楽器を経験した人ならば誰もが一度は聞いたことのある病名だろう。それは演奏者にとってはかなりの苦痛に他ならない。演奏できない。それは、音楽を愛する強さが強いほど、増していく辛さだ。

 

「私と同じトランペットパートでした。今年こそは大会メンバーになるんだと意気込んでいた矢先の出来事でしたので……その痛みやもどかしさは本人にしか分からないと思います。それでも彼女は私たちのためにとこうしてマネージャーをしてくれていました」

「そうだったんですね……彼女に取材をすることは可能でしょうか」

「本人が許可すれば、勿論可能です」

 

 そうしてくれないと困る。そう思いながら、私は頷いた。私の一番最初に教えた相手でありながら、大したことはしてあげられなかった。もっと出来たことがあるんじゃないか。彼女は私を許してくれたかもしれないけれど、私の中ではそういう後悔がずっと長い間燻っていた。だからこそ、今回の機会を好機と考えたのだ。日の当たる場所に、彼女を持って来ることが出来る。

 

 

 

 

 

 お昼休憩に入ると、部長やその他の主だった部員への取材が始まる。私の語りは最初の案内の際に済ませているので、今は部長やドラムメジャーといった幹部やパートリーダーに話を聞いているのだろう。先生への取材もこの間に済ませるように時間を組んでいる。トランペットパートに与えられた教室に、三年生も登校してきた。

 

 そんな中、私は小日向さんに相談を受けていた。

 

「先輩……今からでもどうにかならないでしょうか……」

「まだ、怖いですか?」

「それは……はい。ただのリハーサルなら良いんです。全国大会でも、何とか上手くやれました。でも、それでも失敗の恐怖は付きまとっているんです。しかも今日は北宇治の晴れの日ですし、ここで失態をしたら全国区で傷がついてしまうんじゃないかって……」

「別に生放送じゃないのだから大丈夫ですけれど。……とは言え、そのままではよくないですね。小日向さん、失望されるのが怖いですか?」

「先輩は、怖くないんですか」

「怖いですよ。いつだって、怖い。大学入試の時も、大学での演奏会でも、いまでも怖いです。失敗したらどうしよう。ミスったら嫌だ。カッコ悪いと希美に振られる……とか。……今の笑うところです」

 

 少しだけ、彼女の口角が上がった。良い兆候だ。

 

「加部が君の事、ずっと見ててくれたでしょう?」 

「はい。先輩には、ずっとお世話になりました」

「じゃあ、その時彼女は君に失望していましたか? 何回も失敗してたのも、何度もあなたの演奏を聞かされていたのも、私は知っています。それでも、何回も同じ部分を聞かされても、彼女は君を見捨てなかった。君に誰が失望しても、彼女だけは味方です。そうは思いませんか?」

「それは……」

「全ての人の期待に応えるなんで無理です。それは誰にもできっこない。それでも、絶対に裏切りたくない人のために、私たちは努力するのだと思います。その対象は、努力する事柄によっても変わるでしょうし、人によっても変わるでしょう。親、友達、先生、恋人、先輩、後輩……様々です。あなたは、どうしたいですか?」

 

 彼女の目は揺れている。逃げたい自分と、戦いたい自分の間で揺れ動いている。

 

「あなたは、あなたを信じてくれる人のために吹きなさい。それが、あなたが出来る、彼女への最大限の恩返しです。今日は、彼女のための演奏会なんですよ。テレビが来ようが来なかろうがそうするつもりでした。彼女のための演奏会で、あなたが胸を張らなくて、誰が胸を張るんですか」

 

 揺れ動いていた瞳が定まる。彼女は真っすぐ前を見据えた。見なければならないものは、自分の弱さ。越えなければならないのは、恐怖心。恐れてもいい。それでも諦めてそれに屈してはいけない。彼女の中の逃げたい自分が影に隠れた。音楽とは自分との戦い。弱い自分、諦めたい自分、恐れる自分、怠ける自分。そういう存在と戦い続けた先に、大成は待っている。

 

「私、頑張ります」

「今日は私も共に吹きます。楽しみにしていますよ」

「はいっ!」

 

 彼女の返事は、この部活に入ってから聞く、恐らく一番芯の合ってお腹から出ている声だった。オドオドしていた丸まった背中はピンと伸ばされている。きっと、良い演奏が出来るだろう。トランペットパートの与えられた教室の中からは、宣言する彼女の声が聞こえる。取材の終わった加部がやって来たのだろう。

 

「先輩、今日の演奏見てて下さい!」

「おぉっ!? 今日はやけに張り切ってるね。じゃあ、メガネは預からなくて良いのかな?」

「はい!」

 

 彼女は演奏している最中に観客の顔が見えないように眼鏡を外していた。それをしないという事は、決意を固めたという事だろう。これで最後のピースが揃った。彼女の恩に報いるための、そのピースが。

 

「何とかなったのね」

「取り敢えず、恐らくは。これまで加部が積み重ねてきてくれたモノがあり、パートメンバーの協力があり。そういうモノの集大成で、小日向さんも前に進めるようになったと思う」

「良かった……」

 

 優子は感慨深そうな、嬉しそうな顔で加部と小日向さんを眺めている。元パートリーダーの滝野と現パートリーダーの吉沢さんは何か打ち合わせをしていた。滝野も立派になったし、吉沢さんも頼れる先輩になっている。 

 

 厳の高坂さんと柔の吉沢さんの役割分担で上手く回していけると思ったが、実際良い感じに機能していた。厳しい高坂さんだが、吉沢さんには若干弱い。逆に、優しすぎる所は高坂さんが締めるので問題なく秩序が維持される。良いバランスで動いていた。パート内では最エースの高坂さんでもパートリーダーを立てる姿勢を見せているからかもしれない。これならば、新入生が入っても問題なくパートを維持できる。

 

「アンタと演奏できるのは、これが最後ね」

「まぁ、オフィシャルな場では恐らく」

「そう。正直最初に会った時は何だコイツって思ったのよね」

「だろうね。そんな感じしてた」

「それでいて、演奏したら呼吸できなくなるくらい上手いし、若干イラっとした」

「そうなんだ」 

「昔はこんな風になるとは思ってなかったけど……でもまぁ何だかんだあって今みたいになって、私は良かったと思ってる」

「そっか」

「これまでありがとう」

 

 優子はそう言って、私の方を向いた。その瞳には真っ直ぐな信念が見える。そう言えば、そういう人間だった。どんな時も真っ直ぐに。希美とはまたベクトルが違うけれど、彼女も真っ直ぐに生きた人間だった。例えそれが、間違っていると分かっていても。その生き様は誇るべきだと思う。そういう人間と友人になれた私も、幸運なのだろう。

 

「いきなりどうした、そんな別れの挨拶みたいなこと言って」

「ケジメよケジメ。いっぱい迷惑かけたし」

「それはそうだ」

「否定しなさいよ、まったく」

「ははは」

「今日、友恵のための企画なんでしょ?」

「あぁ、うん」

「そう。じゃあ、良い演奏しないといけないわね。頑張りましょう、戦友」

「そうだな」

 

 彼女は握った拳を私の前に突き出す。私は微笑みを浮かべながら、自分の拳をぶつけた。

 

 

 

 

 

 

 お昼休憩が終わると、楽器を体育館に搬送した。この一回のための搬送。しかし、文句を言うものなどいない。準備が終わり、取材班も体育館の後方でカメラを回している。三年生も登校し終わり、奏者はほぼ全員位置に着いた。

 

 私は、体育館の隅にあったパイプ椅子を無人の体育館の中央にセットする。そこは、たった一人のための観客席だ。体育館に遅れて入ってきた加部は少し戸惑った様子でその椅子を眺めている。先生は定位置に居て、取材班は後方。その椅子は、主がいないかのようだったからだ。戸惑う彼女を私はそこへ誘導する。

 

「ここが君の席だ」

「え……私の?」

「そう。元々、今日のリハーサルはリハーサルじゃない。君のための演奏会として企画していた。そこにたまたま取材が来た。だからメインはテレビじゃない。君だ。君が、今回の主役。そこで聞いていて。世界最高峰の演奏家と、その仲間たちが君のために演奏しようじゃないか。一番弟子への、師匠からの贈り物だ」

 

 この言葉に彼女は少し間を開けて頷いた。

 

「最後に言いたいことがあれば、今言っておくと良いと思うよ」

 

 そう告げ、私は自分の席に向かう。この部活に入ってから、恐らく初めてに近い演奏席に。一年生の時は機会すらなかった。二年生の時は考えを押し殺した。三年生の時は、必要ないと思った。しかし、それでもと私は乞われてしまった。後輩に頼まれて断れる訳もない。そして、そう願ってくれたのは私にとって凄く嬉しい事だったのだ。私の感傷の背後で、加部が大きな声で話し始める。

 

「皆、少し、私の話を聞いてくれますか!」

 

 誰もが静まり返って、彼女の話を待つ。私はその隙に席に座った。

 

「私はずっと、マネージャーとしてみんなの音を聞いていた。みんなの一番近くで聞いてきた自信がある! だから、言いたいことがあります」

 

 身構える部員たちに彼女は言葉を続ける。その額には大きな汗が浮かんでいた。

 

「私はずっと――――みんなのことメッチャ凄いと思ってた! 全国でも、凄いって思ってた。銀賞でも、それだけで凄いんだって。全国に数えられないほど吹奏楽部があって、吹奏楽部員がいて、その中で最高を決める大会で銀。一年生の時の私には、想像なんかできなかった! でも言えなかった。そりゃそうだよ。みんなは全国金を目指してた。私よりももっともっと上を。だから言ったら失礼だろうって」

 

 誰もが息を呑んだ。彼女は本気の称賛をしている。まじりっけなしに、何の偏見も、ゆがみのない真っすぐな称賛。それを出来る人間が果たしてどれだけいるのだろうか。同じ音楽をずっと聞かされてきたのは彼女も同じだ。いや、その苦しみは私よりも大きいだろう。吹きたいと思っていても出来ず、ただ聞かされる。私とは違う。私はいつでもやろうと思えばできた。そしてそれが仕事だった。でも彼女は仕事なんかじゃない。善意だけで、ここまで来てくれたのだ。

 

 私の方が素直な称賛を彼女に送るべきだった。だからこそ、日の当たる場所に行って欲しかった。そしてこれを計画した。誰も反対しなかった、彼女のための演奏会。たった一人のために、全てを出し切る演奏会だ。今北宇治高校に所属している全吹奏楽部員が揃っている。フルートとオーボエはこの日のためにあの時の演奏を再現するべく練習していた。それ以外の三年生も、時間を見つけては密かに練習を繰り返している。全部、この時のために。

 

「明日、演奏を聴けるお客さんも、テレビの前で聴ける視聴者さんも、凄い贅沢だと思う。それでも、この演奏会は私だけのもの。そんな贅沢、二度とできないと思う。私はここの、北宇治のマネージャーで良かった。ここにいて良かった。ここでの日々をずっとずっと誇りに思う。本当にありがとう!」

 

 夏紀は鼻を啜っている。優子は嗚咽混じりに泣いている。希美はハンカチで目を抑え、みぞれも潤んだ目をしていた。学年も性別も関係なしに、皆が泣いていた。高坂さんは優子の背中をさすりながら、自身も目に涙を浮かべている。私も目頭を押さえながら、空を仰いだ。

 

 彼女の存在は私たち三年生には特別なものだった。後ろめたさは常に感じていた。誰もがそうだっただろう。同じパートだった優子は尚更。同じBチームでやっていた夏紀もそうだ。希美は一度プレイヤーを降りた身として感じるところがあるのだろう。私は、共に部のために走り回った仲間として思う事は多くある。

 

 先生も眼鏡を外して目頭を押さえている。先生だって、彼女に対して何もできなかったことを後悔していた。この演奏会を提案した時にいの一番に賛成していた。

 

 ここでやる曲は2曲。いずれも、北宇治のサクセスストーリーを象徴する思い出の2曲。それをやる事が、きっと彼女への恩返しになるのだろう。多く聞かされてきたからこそ、その完成を見せる事こそが。大きな拍手が聞こえる。我らの観客の、始まりへ告げる拍手だった。先生が目元を拭い、手を振り上げる。誰もが涙を堪えながら、各々の楽器を手にした。

 

「ありがとうございます。こんな機会を頂けて」

「私こそ、ありがとう。おかげで、君たちと演奏する事が出来た」

 

 1stの席に座る高坂さんは言う。私をこの演奏会に加えたのは彼女だ。私が二年間期待を込めて指導してきた。きっといつか、世界規模の逸材になると信じて。私も出ると発表した時、優子が思いの外喜んでいた。彼女は彼女でずっと引け目を感じていたのかもしれない。私を奏者にしないことに。誰もが喜んでくれていた。光栄だという人もいた。私は仲間に恵まれたのだ。それだけは間違いはないだろう。

 

 振り上げた手が下ろされた。最初の曲は「リズと青い鳥」。今年一年を象徴する曲。魂を注いだ曲だ。小さな世界の顕現を部員たちに見せつけた曲でもある。ソロパートはこの後の曲も含め本番のまま。あの日の演奏を、歓声を受けたあの演奏を。或いはそれを上回る実力で披露する。魂を込めて、私たちの仲間に。

 

 リズと青い鳥。二人の少女が出会い、そして別れるまでの日々。物語をなぞるようにして、音楽の場面は次々と展開していく。第二章の喜びに満ちた豊かなメロディーだ。落ちた沈黙を埋めるトランペットのソロが世界を鮮やかに染め上げる。そして演奏は不穏な和音が奏でられ、別れを予見させる。

 

 始まる第三楽章。まずはオーボエが先陣を切る。美しさ以外を削ぎ落した音色は聴者に麻薬のような作用を引き起こす。ただ、それだけではこの曲は完成しない。大会から日が経とうとも、得た物は全く失われていない。それは、私が良く知っている。

 

 そして再び、そこに世界が顕現する。小さな箱庭が現れる。リズと少女の住まう小さな小さな世界。遠くで取材班が息を呑んだのが分かった。フルートとオーボエの掛け合いが、朗々と響く。他の楽器が世界の細部に色を付けていく。主役を食わないように、されど、自分達もここにいるのだと言うように絶妙な塩梅で。

 

 離れたくない、一緒に居たいと青い鳥は泣く声が響き渡る。歌うようなフルートは諭すようにその音を響かせる。完成した音色が物語を、空想の世界を現実に上書きしていく。きっと、青い鳥は断らないと信じている。例えエゴでも、それが自分だと決めたから。覚悟を決めた少女は、愛ゆえに一時の別れを促す。全く衰えることの無いその演奏は、努力の賜物以外の何物でもないだろう。ソロパートに相応しいのは私たちしかいない、と主張するように希美とみぞれは全神経を注いだ演奏を披露していた。

 

 そこから第四楽章『遠き空へ』。空の彼方を目指す、希望の唄だ。出航の鐘が鳴り響き、未来という行き先を目指す船が出る。もうこの演奏は二度と再現できないだろう。たった一回だけの持ちうる全ての戦力が揃った演奏。それで紡ぐのは、愛と希望の物語。

 

 トランペットのファンファーレがその道を示す。青い鳥にとっては飛ぶべき進路。リズにとっては追うための航跡。それを高らかに奏でていく。私は歓喜していた。この中で、こんな風に演奏できた。それは、まるで夢のような出来事だったのだ。私はもしかしたらずっと、こんな風に皆と演奏する事を渇望していたのかもしれない。何年も演奏会に出ていなくても、消えない思い出が、感触が色を付けて蘇ってくる。

 

 指揮棒は止まり、世界は終焉する。そして、僅かな余韻を残し、次の曲が始まるのだ。次は「三日月の舞」。全ての始まりを物語る、最初の曲。私たちの物語はこの曲と共にスタートした。栄光と、挫折と、悲しみと、そして歓喜。喜怒哀楽の全てを詰め込んだ、一年間の思い出。多くを犠牲にしながらも、それでも前に進んできた証がこの曲だ。

 

 トランペットパートのけたたましい音とそれに続くように音色は次々響き渡る。幾度となく練習でやってきたこの曲こそが、門出に相応しい。春には初心者だった子も、そうでなかった子も。大会メンバーもそうじゃない人も。今は一丸となってこの曲を奏でる。

 

 そして始まるトランペットのソロパート。何度でも思い出される記憶。そのフレーズに込められた思い。万感の思いを込めてと言うべき演奏に聞き惚れる。このフレーズだけは、私でも勝てないかもしれない。研ぎ澄まされた究極は、私を上回っていた。

 

 全ての思い出もいつかは青春の一ページとして、過去の中に沈んでいくのだろう。でも、きっとこの曲を、このメロディーを聞けば、蘇るはずだ。辛く苦しくても、一生懸命で輝いていた記憶が。それに、私は一人ではない。この曲を聴いて、一緒に思い出してくれる人がいる。高坂さんと一瞬だけ目が合う。彼女の堂々とした姿と視線は、私の期待通りの、いやそれ以上のものだった。

 

 そして、過去の追憶に思いを馳せながら、演奏は渾身のフィナーレを迎える。最後の盛り上がり。勢いよく、そして壮麗に締めくくられた。やりきった充実感が満ちていた。楽器を持ちながら、全部員が立ち上がる。そして、一斉にその頭を下げる。正面からは、大きな拍手の音が体育館の天井に木霊していた。

 

 涙ぐみながら、たった一人の観客は叫ぶ。我々に向けた、最大限の喝采を。歓声は何度も受けてきたが、それでもたった一人からのものがこれほどまでの価値を持つ事は、もうないだろう。ウィーンの喝采も、ベルリンの感嘆も、この声に及ぶことは無い。これは、彼女のための演奏会。大したことは出来なかった師匠の、一番弟子に贈る最後のメッセージだ。

 

「ブラボー!」

 

 拍手の音は、鳴りやむことは無かった。

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