音を愛す君へ   作:tanuu

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第十ニ音 サンライズフェスティバル

 油断したのは間違いない。周りに人なんかいないと思っていた。日曜日のこんな夕方に学校に残っているのはそれこそ吹奏楽部の関係者くらい。教頭先生と話していた時間も考えれば、既に帰宅組も帰っていると思っていた。

 

 が、よく考えてみれば着替えをする時間も必要だった。女子の着替えは少し時間がかかる。今ちょうど終わるくらいでもおかしくない。全くもって油断以外の何物でもない。

 

 面倒なことになったと内心では思いながらも、外面には出さないようにする。

 

「お疲れ様です、斎藤先輩。お帰りですか?」

「うん。塾行かないといけないから」

「なるほど。お気をつけて」

 

 強引な社交辞令で片付けようとしてみる。この人は空気の読めない人ではないはずだ。だとするならば、私の意図も察してくれるだろう。誰もいないと思って呟いた私の黒い心情など、存在していいモノではないのだ。少なくとも、関係者に聞かれるわけにはいかない。

 

 自分の迂闊さを呪いつつ、先輩が察しの良い人間であることを祈った。しかし往々にして自分が危機にある時の祈りは聞き届けられないもの。何度目か分からぬ神への嘆きを謳う羽目になった。

 

「それで……何が現金なの?」

「……なんのことでしょうか」

「それはちょっと強引すぎない?」

「はぁ……確かに、私の落ち度ですね、これは。今度からは周りに気を付けることにします」

 

 肝心なことに答えないまま、私はどう誤魔化したものかを思案する。正直に言うことも出来る。だがそれのメリットが見当たらない。少なくとも、斎藤先輩は私の考えていることを知ってもそれを無遠慮に周囲に言いふらしたりはしないだろう。だとしても、私の正しくない感情を知られているのは良くないことである。

 

「もしかして、吹部に対して」

「……だとしたら?」

「別に、そうなのかって思うだけかな」

「そうですか」

「まぁ、気持ちは分からないわけじゃないから」

 

 昇降口を出れば、西日はいよいよ沈みかけている。その強い茜色に照らされて、私には彼女の顔がはっきり見えた。思いつめたような表情が目立つ。口調に反して、その顔はあまりにも暗い。鞄の紐は固く握られていた。

 

「結果が出たら、ちょっといい演奏が出来たら、去年までの事全部無かったみたいに練習して、その上残ってやろうなんて提案が出る。そんな姿は、確かに現金だと思うし。そうさせた側がそれを言うのは、あんまり他の人に聞かれない方が良いとも思うけど」

「だから先輩にも聞かれたくなかったんですけどね」

「それは桜地君のミスだから、私のせいじゃないよ。でも……そういう矛盾を持ってるって分かって、ちょっと良かったかも」

「どういう意味ですか?」

「去年あんなことがあって、それで何か思うとこはあるはずなのに、それでも戻って来て、私たちをドンドン練習させる方向に誘導している君の事が正直よく分からなかったから。あの子たちを責めたり、守れなかったりした、そんな私たちを頑張る方向に誘導するなんて、何を考えているんだろうと思ってた。のうのうと一生懸命頑張りますなんて言わせようとしていることが、理解できなかった。去年は、決定的に壊れるまで何もしなかったのに」

 

 その声は冷たい声だった。私を責めるような、そんな声。確かに彼女の言っていることは間違いじゃない。頑張るなんて言葉の存在しなかった部活。その空気を変えようとしていることは、現金な人間を作り出す作業に他ならない。

 

 前を向いている、過去を忘れて踏み出すと言えば聞こえはいいが、それは結局去年の問題から目を背けているだけ。あの一連の事件はあまりにも大きく、重く、この部活に影を落としている。

 

 そして先輩の声に隠されたもう一つの意思。それは私への糾弾だろう。何で去年やらなかったんだ。お前なら出来たはずじゃないか。今の空気を作り出すことだって、出来たはずじゃないのか? それをしていたなら、あんな事にはならなかった。自分も、中世古先輩も苦しまずに済んだ。それなのに……、という弾劾。私はこれを受け止めるしかないだろう。拒む資格など、あるはずがない。この人は二度も、思い出作りを選んだのだから。少なくとも、自分は去年の事を忘れないという意思表示も込めて。

 

「去年の私の選択は、確かに間違いでした。私は希美の強さを見誤って、甘えていた。きっと大丈夫だろうとどこかで楽観視していた。だからきっと、年度が替わって面倒な人がいなくなるまで耐えれば問題ないはずだと、そう思っていました」

 

 もっと寄り添うべきだった。もっと話を聞くべきだった。辛いという言葉を、引き出すのが遅すぎた。部活がほぼ休止状態なのをいいことに、仕事をして何とか家計を守ろうとしていた私のミスだった。大事なものを天秤にかけて、そして片方を失った。

 

 けれど私にだって反論はある。私がどうして部内の改革にまで乗り出さないといけないのか、ということだ。確かに出来たのかもしれない。たらればの話に意味はないけれど、決して不可能という訳でもないと思う。だけれどそれにはきっと、多くの犠牲を伴ったはずだ。その過程で、私だってノーダメージではいられないだろう。

 

 私に、普通の生活を送る自由は無いというのだろうか。出来るから、やらないというのは間違ってはいないか。私はそう反論したい。けれどそれをしていいのは、無責任に責めてくる相手にだけだ。この先輩は何とかしようと動いていた。そういう人に、言うべきではないだろう。

 

「ですから、せめて今年の一年生にはそんな思いをさせないようにと思いましたので。そういう理由で、私は今ここにいます。現金だと思ってはいます。それは否定できません。ですがそれでも、自分で決めたことですから。先輩が黙っていてくれるなら、私は私自身の感情を誰にも言わないままでいるつもりです」

 

 呪縛はまだ消えない。きっと一生消えないのかもしれない。私はこういう後悔を死ぬまで抱きながら、その生を終えるのだろう。だとしても、今はやるべきことがある。黒い感情を抱いていても、それを呑み込んで、押さえつけながら使命を果たすまでだ。そうすると決めたのだから。

 

 あんな理不尽な環境を作り出さないために。社会が理不尽だったとしても、少なくとも今この時だけは後輩にそんな思いをさせないために。私は今、そのためにここにいるのだと思う。あの時見た、高坂さんの目の中にあった情熱の炎を信じて、その火を消さないために。

 

「……そっか。やっぱり、あすかと同じだね。桜地君は強くて、特別だ」

「それは、音楽において?」

「それもそうだけど、それ以外も」

「だとしたら、それは勘違いだと思います。私は普通の人間ですよ。矮小で、臆病で、愚かで、後悔ばかりの、普通の高校生です。人間性においては、先輩と比べて劣っているかもしれません」

 

 特別だなんて大きな勘違いだ。私にその称号は似合わない。そしてきっと、この高校にいる誰にも。本当の意味での特別が何なのかは分からないけれど、少なくとももっと優れた存在は多くいる。或いは、誰かにとっての特別になら、誰にでもなれるのかもしれない。だとしても私は、彼女にとっての特別な存在にはなり得ないだろう。なる気も無い。

 

「ま、音楽においては否定しませんが。空気の振動に人生賭けてるんだ、特別じゃなきゃ困ります」

「……」

「それはそうと、お聞きしたかったことが一つあります」

「何かな?」

「どうして、二回とも手を挙げなかったんですか?」

「……アリバイ作りかな」

「そうですか。おっともうこんな時間。引き留めてしまいました。塾に遅れてしまいます」

「そうだね」

「受験は大変ですからね」

「まだ二年生なんだし……あぁ、そっか」

「まぁ、経験者なんで、一応は」

「凄いね、やっぱり」

「いえ、そんなことは。……それでは、さようなら」

「うん、さようなら」

 

 ここで話を切り上げた。聞きたかったことは聞けた。これ以上、こちらがもっと醜い何かを露呈する前に話を終わらせたかったのだ。彼女は優秀な人間である。私は自分の考えている事を見透かされたくなかった。

 

 先輩も話を終わらせるにはいいタイミングだと思ったようだ。校門に向かって歩き始める。その背中には、彼女の煤けた自尊心が見える気がした。彼女は私の挑発には乗っていないように見えた。けれどもしそれが間違いだったらどうだろう。

 

 最後の方の会話。何気ない態度に見えたその言葉の端々に焦燥と自嘲と、そして悔しさが滲んでいた。それに加えて、私へのほんのわずかな敵愾心と反抗心。彼女の自尊心は確かに傷ついている。では何に? 私のどの言葉が刺さったのか。彼女がこれまでの人生で行った行為が何なのか。その答えが分かれば、きっと私の言葉の何が心を動かしたのか。それも分かるはずだ。

 

 その背中を見送った後、練習に戻った。三十分という時間制限の中、最後の仕上げをしている。疲れている中だが、参加しているメンバーのクオリティはしっかりと上がっていた。これならばやった意味もあっただろう。長く練習するのは大事だが、長くやればいいというモノでもない。量と質、そのバランスが大事なのだ。

 

 練習終わり、私は話さなくてはいけない人の元へ向かう。

 

「部長、ちょっとお時間よろしいですか」

「桜地君。どうしたの?」

「少し、ご相談が」

 

 私が部長を選んだ理由は彼女がこの件において最適だからだ。中世古先輩ではいけない。彼女もある意味では特別な存在だ。この部においては、恐らくかなり。田中先輩はもっと向いていない。私と並んで彼女の名を出したのは、何らか含む所があるから。そんな相手に話をしても有効とは思えないし、何よりあの先輩が動くとも思えなかった。

 

 だから部長だ。同じパートだし、恐らく斎藤先輩に寄り添えるはずだ。もし彼女の持っている感情が劣等感なら、田中先輩にそれを感じているであろう部長こそ、この相談相手には相応しい。

 

「実は、斎藤先輩の事で少し相談が」

「葵の?」

「はい。先ほど少しお話したのですが、どうも、何か思い詰めていらっしゃるようで。お心当たりはありませんか?」

「うーん、どうだろう。あんまり思いつかないかなぁ」

「そうですか。私の思い違い、杞憂の可能性もありますが、一応念のためお伝えしました」

「分かった、ありがとうね。私からもちょっと注意して見てみる」

「はい。お願いします」

 

 アリバイ作り。その意図するところは理解しているつもりだ。しかしそれをそのまま実行されては困る。サックスの代わりの人材はいるけれど、そういう問題ではない。これからが本番だ。サンフェスはあくまで前哨戦。本番はその後の府大会前の練習。

 

 そこでトラブルが発生すれば、誰かしらの心に傷を残す。それは確実に演奏に悪影響を与える。この事態を許容したくはない。それに、今度は間違えるつもりはない。少なくとも、最良とは言えないまでも、後悔しない選択を、今度こそ。そのために、私が取るべき手段は何か。答えは一応思いついていた。確証の無いまま実行する勇気が持てないままでいるだけで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後も何日か練習を重ねて、サンフェスの当日がやって来た。吹奏楽部員のイベント当日は忙しい。朝早くから準備をしなくてはいけない。特に男子部員は楽器をトラックに詰め込むという労働が待っている。

 

「こっちにお願いします!」

 

 校門を潜って校舎前に付けてくれたトラックを誘導し、運転手と話をして運び入れる指揮を執る。楽器は壊れやすいものだ。適当に詰め込んだのでは確実に被害を受ける。高価なものでもある事だし、扱いには細心の注意を要する。

 

 今日まで練習を積み重ねて来た演奏は最初とは比べ物にならない。動きはともかく、演奏だけなら他校にも引けを取らないだろう。それでもまだ全国レベルでは無いのは皆分かっているだろう。だとしても、去年のように府大会銅賞とかいう結果ではないはず。

 

 バスの席は自由。最後まで搬送の点検をしていたらいつの間にか席が無くなっていた。残っていたのは先生の隣だけ。何とも言えない気持ちになるが、否応なしに席に着く。

 

「隣、失礼しますね」

「ああ、はい。どうぞ」

「それで、先生の自信の程はどうですか。強豪校に挟まれて僥倖とは言いましたが、コテンパンにされたのでは私も困りますが」

「私が自信を抱いても仕方ありませんよ。実際に演奏するのは彼らですから。ただ、練習量は自信を抱くのに十分なものだと思います」

「それは同感ですね。去年とは大違いだ。それに、率先して練習の延長を申し出るとは。それだけ、やる気があるということでしょうけれど」

「あれには私も驚きましたよ。こんなにやる気になってもらえるとは思ってなかったもので」

「ご謙遜を。上手くのせていましたよ。空気というものは動かしにくいモノですからね。けれど変えられれば、大きな力を持っている。そのための海兵隊であり、そのためのサンフェスなのでしょう?」

「その通りです。慧眼ですね」

「これでも、空気と戦い続けてきましたからね」

 

 海外という空間。年下という存在。私に降りかかる重い空気、のしかかる視線についてはよくわかっているつもりだ。だからこそ、自分の周りの空気くらいは変えられるように努めてきた。そうすることで、今の私がある。

 

「海外というのは、私にとっても未知の部分ですから、その様相は私の想像を超えているのでしょう」

「まぁ、勿論海外の話もそうですけどね」

「それ以外にも?」

「親戚がうるさいもので。分からないでもありませんけれど。何せ、ろくに小学校も通わずずっと音楽だけやってたわけですから。随分と両親は責められていました。ごく潰し、当家の恥、楽器なんてやって何になると。けれど私が成果を出すとコロッと掌を返しました。やれ神童だ、天才だ、我が家きっての才児だと。その時気付きました。空気を変えて、評価を変える。それがどれだけ重要なのかを」

「なるほど、そうでしたか」

  

 あの時周囲の意見に屈さずにいてくれたことは、私が両親に抱いている大きな感謝の理由にもなっている。

 

「ですが、評価される音楽とはあなた自身の希望とは違うこともあるのではありませんか?」

「確かにその通りです。ですから今は甘んじて受け入れています。いつか、私こそが評価軸になることが目標ですかね。桜地凛音のやっている事ならば評価するべき、という風な風潮が出来上がれば完璧です。そういう存在にならなくては」

 

 バスが動き出す。そうだとも。いつか、私が基準になって見せる。価値を決められる側、評価される側から評価する側、価値を決める側に。

 

「あくまでこれは府大会に出る前のステップです。本当の戦いはこれからになるでしょう。そういえば、課題曲が発表されていますが、既に確認していますか?」

「はい勿論」

「分かりました。今度、自由曲と課題曲の選定について相談したいので、時間をください」

「承知です。……ところで先生。サンフェスは、というより太陽公園は初めてですか?」

「随分前に何度か。ですがもうほとんど覚えていませんね。それがどうかしましたか?」

「迷わないで下さいね」

「……善処します」

 

 不安な間は、この後真実になる。

 

 

 

 

 

 

「良いかお前ら!いよいよ本番だ。手を抜いたら承知しないからな!」

「「「はい!」」」

「練習通りやれば出来る!」

「「「はい!」」」

「気合いを入れろ! 声が小さい!」

「「「はい!!」」」

「よぉし。私からは以上だ」

 

 軍曹先生と名高い松本先生の訓話が響き渡る。他校の生徒の目線も釘付けだ。色んな意味で目立っている。私は軽く挨拶に行くと言って他校の先生の元へ向かった結果、案の定迷子になった先生を引きずっていた。

 

「すいません。ちょっと、迷っちゃいました。先生からは?」

「終わりました」

 

 なんとかギリギリ間に合ったようで良かった。先生の威厳は台無しだが、それは自業自得なので私の関知する所ではない。

 

「はぁ、そうですか。えー、私からは特にありません。皆さんの演奏楽しみにしてます。そちらからは?」

 

 こういう時はビシッと言って欲しいモノだが、これはこれで良いのかもしれない。変に言葉を重ねるより、自然体な方が緊張しないで済む。

 

「私からも特には。演奏技術は格段に上がってます。自信を持って演奏してきてね! としか言いようが無いですね」

 

 締まらない挨拶になってしまったが、今回はこれでいいだろう。実際、他校の演奏にどれだけ気圧されないか。別の意味で言えば、他校に左右されないメンタリティーを手に入れられるかの勝負でもある。実際の大会で上手い学校の演奏を聴いて自信喪失、何てことになったら洒落にならない。

 

 皆はチューニングに入る。ここからは特にすることはない。問題がないかどうか見守るだけだ。予想通り、周りの高校はどこも強豪ばかりで少し萎縮してしまってるようだ。

 

「先輩、平気そうな顔ですね」

「まぁ、私が演奏するわけじゃないし。それに、他校がどれだけ上手くても、私の方が上手いから」

「それ、立華とか洛秋の子に聞かれても大丈夫なんですか? 私はあんまり自信ないですけど……」

「勿論。絶対負けないから。そんな私に教わってるんだから、胸張っていきなさい。高坂さんを見てみるんだ、余裕そうでしょ? あんな風にしていればいいんだ」

 

どんどんと順番は進んで行く。観客の目当ては北宇治の前後の立華と洛秋。我々は眼中に無いどころか、挟まれて可哀想という認識だ。

 

『続きまして、立華高校吹奏楽部です』

 

 アナウンスと共に会場に音が響く。そんじょそこらの学校とはレベルが違う。流石は立華。水色の悪魔と言われるだけのことはある。その完成度の高い音と群衆の歓声に完全に飲まれている。曲はルイージ・デンツァ作曲、アルフレッド・リード編曲の『フニクリ・フニクラ』。イタリアの有名な歌謡曲だ。

 

 元々はベスビオ火山のケーブルカーのCM用に使われていた曲で、歌詞も存在している。歌詞の中身はイタリアらしく恋愛物だ。日本では編曲された『鬼のパンツ』で有名になっている。イタリアは随分と懐かしい。スリがやたら多かった思い出がある。ご飯は美味しかったが。なお、ベスビオ火山のケーブルカーは噴火により今は使用されていない。

 

 そんなことを考えている間にもその演奏力にネガティブなことを囁き合う部員。確かにあれは上手い。座奏だけなら上手いだけで終わりだが、マーチングでこのレベルなので感嘆するしかないだろう。今年も、マーチングの全国金は立華で固いな。

 

 待機列は動揺している。だがこれを乗り越えられないようではこの先厳しい。厳しい方をすれば、負け犬根性のようなものを取り払って欲しいのだ。もし危なそうなら動くけれど、出来れば自分たちの手で。私の期待にこたえるように、ここで完全に動揺しきっていた集団を1つの音が切り裂くように走る。突然出された高坂さんのトランペットに視線が集まった。自然と会話が止まる。

 

「あ、バカ、高坂何音出してるのよ?ここ来たら音出し禁止って言われたでしょ!」

「すみません」

 

 吉川の注意も軽く受け流し、彼女は髪を払った。その姿に部員たちの落ち着きが戻る。良い判断だ。今ので完全に流れを変えた。彼女は良くも悪くもインフルエンサーになれる素質を多く持っている。それを上手く使えばこのように集団をより良い方向へ持っていけるだろう。

 

『続きまして、北宇治高校吹奏楽部です』

 

 アナウンスが入る。そろそろ私たちの出番だ。靴紐を結ぶ先生がゆっくり立ち上がりながら話始める。

 

「本来、音楽とはライバルに己の実力を見せつけるためにあるものではありません。ですが今ここにいる多くの他校の生徒や観客は、未だ北宇治の実力を知りません。ですから今日はそれを知って貰う良い機会だと、先生は思います」

 

 微笑む笑顔が彼らに向けられる。その手はさっと入場口へ向く。

 

「さあ。北宇治の実力見せつけてきなさい!」

「「「はいっ!」」」

 

 笑顔で答える部員たちの顔は晴れやかだ。

 

「頑張ってください!」

 

 色々思う所はある。けれど彼らが努力したのは事実。それは嘘偽りない本当のことだ。ならせめて、笑顔で送ろう。私が振った手に、何人かが振り返してくれる。空気は完全に良い状態になった。

 

 ドラムメジャーの合図で行進が始まる。すぐに入場口の近くの観客の目が北宇治の隊列に向く。空気がクルっと変わるのが肌で感じられた。ここにいて見送る我々に分かるのだ。演奏している彼らにはもっとひしひしと伝わるだろう。それはきっとモチベーションに繋がる。本番に実力を発揮するというのは、簡単そうに見えて難しい。緊張などでどうしても普段通りに行かないこともある。

 

 だが、高揚はそれを消してくれる。緊張をするのは悪いことではないけれど、それは今は不要だ。方々から聞こえる声や、待機列にいる学校の目線などで向けられている意識が驚嘆と歓声であると分かる。

 

 立華も洛秋も上手いと期待されている。だからこそ、反応はそういうものだ。だが全く期待していないところから予想外のものが出てきたら、人は覚えてしまう。意外性に驚くことで観客の心には必ず印象付けられている。成功という言葉がこの状況を形容するに相応しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「いやぁ~素晴らしい演奏でした。立華北宇治洛秋と、上手な学校が三連続で来たことで、大きな盛り上がりになりましたよ。ありがとうございます」

「いえ、こちらこそ色々ご配慮ありがとうございました。無理ばかり言って申し訳ないです」

「お父様にはお世話になりました。その恩返しと思えば、さしたることではありません」

 

 サンフェスは勿論、主催者が存在している。団体申し込みの件などで色々頼んでしまった。その挨拶をしないといけない。

 

「昔の北宇治が戻ったようでした」

「それは良かったです」

「来年以降も、期待しております。そのつもりでプログラムを組みますから、何卒」

「はい、それは勿論」

 

 クオリティーを維持してくれ、という要請に頷く。来年はまだ私もいる。先生もいるだろう。ならば大丈夫のはずだ。ペコペコと頭を下げ、面倒だったと内心でため息を吐きながら集合場所に戻る。既に演奏は終わり、汗だくな部員一同が集合していた。

 

 空間は心地よい達成感に満ちている。場の空気も熱気に押されて数度上がっているかのようだった。誰もが明確に変化を意識した。第三者の評価によって意識させられた。立華の演奏や洛秋の演奏も認識しただろう。その上手さを。しかし同時に思ったはずだ。追い付けないクオリティーじゃないと。そう感じてくれたなら問題ない。

 

 それに、今回の称賛もまごうことなく彼らの努力の上に成り立っているものだった。その流した汗がそれを物語っている。上手くまとめて〆たいのだが先生はちょっと目を離した隙にいなくなった。また迷ってるようだ。松本先生も探しに行ってしまった。仕方ないので、繋ぎをすることにする。

 

「皆さん、お疲れ様でした。非常に良い演奏だったように思います。観客もそれを実感したでしょう。ですが、ここはあくまでも通過点。目標にはまだまだ遠いです。ですが、その頑張りは決して無駄では無いはずです。現状、確かにまだ立華や洛秋に演奏技術では劣っている部分もあります。ですが、追いつけない差ではありません。これからが勝負です。府大会まで駆け抜けましょう」

 

 息を切らしながら先生が走って来た。

 

「すみません。また迷ってしまいました。えー、全部言われてしまったので、先生からは特に無いです。お疲れさまでした。この後は3時まで自由行動です。3時にはバスに集合してください」

「「「はい」」」

「それでは、一時解散です」

 サンフェスには屋台なども出ているのでそれに行く者もいるだろう。或いは、他校の演奏を聞くという生徒もいる。その過ごし方は自由だ。メリハリは大事である。やるときはやって、休む時は休む。この差がしっかりとついている人が上手い傾向にある。

 

「桜地君、少し時間ありますか?」

「はい、問題ありません。どうしましたか?」

「立華高校の熊田先生に挨拶に行くのですが、桜地君もどうかと思いまして」

「そうですね……分かりました」

「では行きましょうか」

 先生と共に各学校の先生が待機しているテントへと向かう。熊田先生は立華高校の名物顧問である。立華は羨ましいことに多くの顧問を抱えている。先生の移動も無いし、私立高校のなせる技だろう。

 

 私の選択肢の中に、立華高校進学も存在していた。実際、学費免除の話も来ていたのである。しかし悩んだ末に友情を選んで北宇治に進学した。家からこっちの方が近かったというのもある。私がすっ飛ばした高校生活というものをしてみたくなったのは、確実に()()の影響。それをどうこう言うつもりはないが、立華に進学していたらどういう生活をしていたのか。違う世界の自分に少しだけ興味が湧いた。

 

 けれど今自分がいるのはどう足掻いても北宇治だ。置かれた場所で咲きなさいという言葉がある。その言葉通り、今いる場所で出来ることをするしかないのだ。皆そうしているのだから。

 

 今回の演奏はあくまでも前哨戦。本戦はこの後。その前に待っているのは……。迷いはまだある。けれど、為すべきことを為すしかないのだと、自分の頬を張る。空は無駄に蒼かった。

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