ザク、ザクと雪を踏みしめる音だけが響いている。銀世界の中に、私の足跡と私の息だけが存在していた。白い息が空気の中に現れては消えていった。凍てつくような道を、私は歩いている。手には白い花束があった。
教会から少し離れた場所にある墓地。小高い丘にあるそこに、私は向かっていた。振り返れば、雪に埋もれたドイツの田園地帯が広がっている。春になり、雪が溶ければ緑の世界が広がるのだろう。ベートーヴェンはその景色を見て、田園を書いたのだろうか。
12月の終わり。間もなく年も切り替わる。そんな時に私はヨーロッパにいた。楽団との契約のためである。12月の24のクリスマスイブにアンサンブルコンテストを終え、見事関西大会進出となったのを見届けてから旅立った。その前に希美に渡すべきモノを渡せたので、最低限やるべきことはして出て来れたと思う。
こんな真冬の日に来るべき場所じゃないのかもしれないが、それでも来るべきだと思っていた。しんしんと降り積もる雪の中で、目的の場所にたどり着く。ここに来るのに、こんなにも時間がかかってしまった。もっと早く来るべきだったのかもしれない。それでも現実を受け止める力が無かった。喪失が、いよいよもって私の身を包みこんでくるような気がして、足を運べなかった。
大きな石には、名前と人生が刻まれている。十数年で終わった短い人生。生きてさえいれば、きっともっと活躍していただろう。私なんか、ずっと遠くに置き捨てて。世界は一つの可能性を失った。欧州トランペット奏者は、いつまで経っても彼女を超えられないでいる。それは、私ですら。まだ追い付けないまま、今に至っている。きっと生涯追い付けないのかもしれない。追いかけ続けるだけの人生になるかもしれないが、それでも意味はあるだろう。
花束を置く。すぐに雪が降り積もって、白い花弁と雪が交じり合っていった。
「よう、元気か」
答えのない問いかけを、物言わぬ墓石に告げる。
「空の上はどうだ。ベートーヴェンとかいるのか? いるなら私の曲をどう思うか聞いといてくれ」
灰色の空は雲で満ちている。雪は私の頭の上にも降り続けていた。
「まだ誰もお前に追い付いてないよ。しばらくは私の天下が続きそうだ」
私が一番であり続けている間は、私に勝った彼女の地位も名誉も守られ続ける。私が負けた時、それは今は亡き一番手への挑戦権が遷り変った事を示すのかもしれない。ただ、この場所を譲る気はしばらくなかった。私が一番のライバルだった。今でもそう思ってる。ぽっと出の奴にとられるのは、我慢ならないものがある。
「北宇治の演奏は聞いてたか。良いだろ、自慢の部活だ。高校生だから出せる煌めきを持ってる。我々にはもう出せないモノだ。巧拙だけが音楽じゃないんだと、改めて思い知らされている」
上手いだけならプロの方がそりゃ上手いに決まっている。それでも、人を感動させることは出来る。下手したら粗削りですらある高校生たちの演奏に、多くの人が心を動かされていた。それは、巧拙だけでは測れない、芸術が持つ奥深さなのかもしれない。
「逸材の卵は見つけたぜ。中々のじゃじゃ馬娘だ。まだまだ粗削り。大会に出てもボコボコにされるだろうよ。だけどそのうち、何年も先かもしれないが、私も負けるかもしれない。もし負けるなら……あの子が良いと思ってる。きっとお前も気に入るさ。あの面倒くさい感じはな。不肖の弟子だが見守ってやってくれ。未来のエースをな」
高坂さんは上手くなった。それでもまだまだ足りない。壁は高く、世界は広い。彼女はまず、自分の親父より上手くならないと私には勝てないだろう。ただ、それもきっと遠い日ではない気がする。彼女がどこの大学に行くのかは知らないが、ヨーロッパだったらちょっと面白いと思っている。
「そういや、恋人が出来たんだ。名前は希美。希望を持ってる美しい人って意味の名前だ。名は体を表すじゃないけど、真っ直ぐで優しくて明るくて。でも意外と冷静で合理的で。頑固だけど一本筋の通った子だ。仲良くなれそうだな、生きてたら」
教会の鐘が鳴り響く。もう大分時間が経ったようだった。
「また来る。今度は仲間全員で来るさ。もしかしたら、希美を連れてるかもしれない。まだまだそっちに行くには遠そうだ。まぁのんびり待っててくれ」
片手に持っていた楽器ケースを開く。凍てついた唇を、舐めて湿らせる。白い世界の中で金色は非常に目立っていた。マウスピースに口を付けて、音を出した。大会でしか出さない、全力での演奏。それでもまだ届かない音。私の奏でる「アメイジンググレイス」は空の中に消えていった。鎮魂は天に届いているのだろうか。彼女の好きだった、この曲は。
胸にかけたロザリオが揺れる。カチャリと鳴る鎖の金属音が沈黙だけがある世界の中で響いた。また元来た道を歩き始める。私がここまで来た足跡はもう積もった雪で消えていた。帰る時に付けた足跡も、いつか雪の中に埋もれて消えてしまうのだろう。寂しい世界だ。白の中に全てのみ込まれてしまうような錯覚がある。
「じゃあな」
私はそう呟く。もう振り返らない。白い花束も、私がいたという事実も、全ては雪の底に沈んでいくのだろう。それでも構わない。別に誰かに知られて欲しいわけでは無いのだから。今度は緑の頃に来よう。あの、生命に満ち溢れた緑の頃に。
雪を踏みしめる音と私の呼吸音だけが響く。銀世界の中を、私一人だけが歩んでいた。
年が明けてしばらくした後、私は日本に戻った。センター試験で三年生が大騒ぎの中、私は若干のアウェーを感じている。社会の通常のレールから外れると一番困るのは、こういう同世代からの疎外感だろう。キャンパスライフの話も、就活の話も、私は同期と共有できない。これが嫌いな人は、なるべく社会の流れと同じ速度で進んだ方が良いだろうと最近思うようになった。
「明けましておめでとうございます。ちょっと遅くなってしまいましたが」
「おめでとうございます」
戻って来たその日に担任に報告するために学校に戻って来た。ただし、その時はその後に予定があったのと希美に待ってもらっていたので、担任とだけ話して帰った。職員室に滝先生がいなかったのである。担任は随分と喜んでくれた。音楽に特段造詣が深いわけじゃないと自分で言っていたけれど、それでも色々調べてくれたようだ。道から外れまくっている生徒に偏見を持たないでくれているのは感謝しかない。ウチの親族も見習ってほしいモノだ。
翌日、私は再度学校を訪れて滝先生に挨拶をしていた。
「鈴本先生から伺いました。無事、就職先が決まったと」
「はい、おかげさまでどうにか」
「それは何よりです。向こうからのオファーでしたし、あなたの実力ならば問題ないだろうとは思っていましたが、やはり結果が出るまでは心配なものですから」
「ありがとうございます」
「教頭先生も喜んでおられました」
「そうでしたか。後でお話しておきます」
「それが良いでしょう」
今の期間は、三年生の自由登校期間だ。だから、学校に同学年はほとんどいない。何か報告に来ている生徒がチラホラいるだけだ。一二年生は授業中なので、同じように廊下にはいなかった。学校は静かな空間になっている。
「これからは、放課後練習だけ顔を出すことになると思います。朝来ても良いんですが、授業が始まってしまうとすることが無いので」
「音楽の授業でもやってみますか?」
「教免持ってないんですよ」
「冗談です」
先生は小さく笑った。生徒に冗談を言っている姿を、部活中ではほとんど見ない。至極真面目な先生として、生徒の目には映っているのだろう。とは言え、実際こうして時々冗談を言ったりもするのだ。橋本先生なんかが付き合いを続けている理由は、何となくわかる。口は悪いけれど、根は悪い人ではない。
丁度チャイムが鳴り響く。最後の授業が終わった合図だろう。十分もすれば、帰りのHRが始まる。先生も担任を持っているけれど、三年生は誰も登校していないのでこうして椅子に座ったままだった。
「アンコンの関西も近いですし、それが終わればすぐソロコンですから、練習も一層熱を入れないといけませんね」
「えぇ。あなたがいない間に私も指導を行いましたが、今年のクラリネットは非常にレベルが高いです。来年の編成では、クラリネットに期待した曲になる可能性が高いですね。今回のソロコンやアンコンの代表者が活きる曲にしたいところです」
「ですね。そう言えば、クラリネットは南中からトップ奏者が来てくれるみたいですよ、今のところ」
「おや、それは嬉しい話ですね。交流会をした意味もあったというモノです」
南中との交流会は、全国大会の前に二年連続で行われていた。今年の部長も副部長も、当然だが全員妹の薫陶を受けた世代である。張り詰めている、とまでは行かないけれどかなり真面目な空気感が漂っていたのを覚えている。交流会の際に、向こうの二三年生は部長だった妹と副部長だった北山君に最敬礼をしていた。
特に向こうの部長さんなんてガッチガチだった。尊敬する先輩に成長の成果を見せるんだと張り切っていたのが記憶に新しい。そんな南中は今年全国銅賞。今回は曲選択が悪いと妹がぼやいていた。演奏のレベルは非常に高く、脈々と受け継がれている先輩から後輩への技術伝授を感じる。この結果を受けて、高坂さんは益々妹に熱烈なアプローチをするんじゃないだろうか。今年の南中の成果が去年の影響を多大に受けているのは明らかだからだ。
神社の娘さんだという当代部長は涼音に憧れて北宇治を受験するらしい。らしい、というのは同じパートの北山君経由で聞いたので正確かは不明だから付け足している。希美から妹に、妹から当代部長に。憧れの連鎖は受け継がれている。また南中のエースを引き連れて入ってきてくれれば、演奏も期待できるだろう。
「南中と言えば、あなたの妹も随分と成長しましたね。ソロコンの指導をしていて実感します」
「それは嬉しい言葉ですね、兄としては」
「傘木さんの影響でしょうか、感情表現も良くなったように思います。中学生時代の演奏を聞きましたが、幾分杓子定規と言いますか、譜面通りという印象を受けたので。それでリズと青い鳥のソロも傘木さんにお願いしましたが、感情表現が上手くなった今ならば、あのソロもこなせると思います。元々音量もありますから、なおの事」
「希美とみぞれのあの演奏を受けて、何か感じることがあったんでしょう。別に無感動な子じゃないですから。ただちょっと感情表現が苦手なだけで。理系ですからね、ああ見えて」
「新山先生も振られてしまったと言っていました。一年七組の先生からも小言を言われます。学年トップを吹部に拘束しないでくれ、と」
「あぁ、それは無視しておいてください。あの子はちゃんと自分の進路に必要な事、考えてますから。余計なお世話だと思ってますよ、多分」
実際、面談で色々言われたらしい。雫さんが保護者として出席していた三者面談でも、部活だけに集中しないようにと口を酸っぱくして言われたと聞いている。別に特段成績は落ちていないし、学年トップをキープしているのに理不尽な話だと若干怒っていた。そもそも偏差値的に言えば、相当落としてここに通っているのだから、成績を保つのも難しい話じゃないとは本人の談である。面談の時はチッ、うっせーなと内心で考えながら話を聞いていたらしい。
「分かりました。無視しておきます」
だからと言って、本当に無視しようとする先生もそれはそれでどうなの? とちょっと思うが、もう今更かもしれない。一事が万事この調子なので、もう慣れてしまった。廊下が騒がしくなってくる。そろそろHRも終わったのだろう。
「じゃあ、私は先に音楽室に行っていますね。三月にまた立華とやるんですか?」
「そのつもりでいます」
「了解しました。私は4月の最初の週に日本を発つので、それまではこっちにいます。とは言え、卒業前には部活も引退することになると思いますが……高坂さんのDM指導や個別レッスンだけは最後までやりたいと思っていますから、まだまだ学校からは逃れられなそうです」
「分かりました。お願いします」
「はい、任せてください」
一日一日と、私がここにいられる期間は減っていく。物事が前に進んでいるというのは良いことであると理解しているけれど、寂しさを覚えないわけでは無かった。
人のいない音楽室を見渡す。普段は吹奏楽部員の熱気で満ちているこの教室も人がいないと寂しい。それでもすぐに人はやって来る。一番乗りで教室の扉を開けたのは、高坂さんだった。誰もいないと思っていたのだろう。私の顔を見て一瞬ビックリしていた。
「こんにちは」
「お疲れ様です!」
「本当は昨日帰って来てたから、顔を出したかったんだけどね。ちょっと別の用事があって」
「そうなんですか……結果の方は、その、どうだったんでしょうか」
「無事契約完了。首席奏者でやってくれってさ」
「おめでとうございます!」
高坂さんは大きい声で言う。その目はキラキラ輝いていた。彼女は特別になりたいと思っている。それと同様に、将来的にはプロになりたいと思っているのだ。だからこそ、一足先にプロ契約を結んだ私は、より一層憧れるべき存在になったのかもしれない。
首席奏者は要するに、1番パートを吹く奏者という意味だ。ソロ部分は第1パートに書いてあることが多いから、したがってソロの多くを担当することになるだろう。高音領域担当であることもあり、実力者で無いと選ばれない。パートリーダー的側面も持っており、セクションのまとめをしないといけない。能力が買われているからこそ、こういう契約になったのだと思っている。一応トランペットパートにいる他の奏者は反発していないか聞いたが、私が来るなら仕方ないということで納得しているらしい。成果を出してきた甲斐があった。
「契約金って幾らくらい貰えるものなんですか?」
「私の場合は提示金額が税込み1万ユーロかな。日本円だと1ユーロ122円だから……120万くらい? もちろん月だけど」
「ひゃくっ!?」
「まぁギャラで言えばアメリカの方が高いよ。年収3000万くらいは貰えるらしいし。実際アメリカからもオファーは来てるんだけど、アメリカはどうしてもあんまり性に合わなくて。とは言え一応メリットはあって、ヨーロッパに残ったことで地盤が固くなるからね。おかげさまで、アメリカに行かなかったから向こうの音楽界からはウケが良かった。給料だけじゃないってね。まぁもうちょっと年数を重ねると増えると思うけど」
「な、なるほど……」
「とは言えこれ以外にも、芸大での仕事とか講演料とかCDの収入とかあるから、年収は倍くらいになるんだけどね。問題は税金がなぁ……」
とは言え、私は割と恵まれている方だと思う。音楽系の収入以外にも、成人すれば元々親の遺産だったモノが後見の管理を離れてこっちに戻って来る。株式や不動産収入なんかもドサッと戻って来るはずだ。これを加味すれば、あの屋敷の管理も出来るだろうし、家族も生活させられる。
雫さんもまだ家から出る気はないようなので、その収入も合わせれば大分楽な生活が出来ると思う。車とか家電とか、買い換えたいモノが多い。
今は驚いている高坂さんも、いずれは世界に羽ばたいていくのだろうか。ヨーロッパなら今は割と道が整備されているはずだ。私が焦土にしたからかもしれないが。日本人でトランペットならそれなりに活躍する場所もあると思う。尤も、初手ライバルが私になるという状況でも平気ならば、だけれど。
とは言え、彼女はもう少し愛想を良くしないとウケが悪いだろう。ストイックなのも悪くないが、それはそれとして人付き合いは大事だ。敵と味方を考えて、敵は排除して、地盤を広げる。そうして自分の足元を固めることが余計なモノに邪魔されないで音楽をやるコツだと思っている。本音を見せているフリをしてミスリードさせて、油断したところをカウンターみたいな腹芸は彼女には出来なそうでもある。それが良いと言えば、そうなのかもしれないが。
「夏と10月に休みを貰えるはずだから、そこでまた日本に帰ってくるつもり」
「今より上手くなった状態でお待ちしてます」
「それは楽しみだ。そんな高坂さんにプレゼント」
私は紙袋に入れていたファイルを取り出して、ドサッと彼女に渡す。それは今まで先生が持っていたモノを一時的に借りたファイルだった。
「これは……?」
「中を見てごらん」
彼女はトランペット・高坂麗奈と書かれたファイルを開く。その中にある大量の紙を一枚一枚捲りながら、彼女は一通り目を通していた。
「二年分の集大成だね。基本毎日書いていた報告の集合体。他の子の分も、卒業した先輩の分も、全員分あるから。気が向いたら読んでみて。ただし、幹部以外には見せないこと」
「は、はい」
「ここまでしろとは言わないけど、変化には気付いてあげよう。人間関係とか心情面は他の幹部とかパートリーダーに任せて、音楽的な変化を集中的に観察して。見ててくれている、という印象があるのと無いのとではやる気が変わって来るから。悪い変化は修正を促して、良い変化はしっかり褒めて。そうすることで、モチベーションを維持できると思うから」
「分かりました、頑張ります」
彼女は自分の分のファイルを紙袋にしまう。後で読むつもりなのだろう。それなりに時間をかけて作ってきたデータだ。既存の部員の実力に関して把握するのは、ピッタリの素材だと思っている。上手く役立ててくれれば幸いだった。
「そして変化と言えば……ソロコン組大丈夫? 受かった組じゃなくて、落ちた組の方。特に黄前さんとか」
「久美子ですか? いつも通りに練習してました」
「そうか……なら構わないけど」
思ったより平気そうで安心した。部長が何であれオーディションに落ちるというのはそこまでよろしくないかとは思ったが、それでも大丈夫そうなら安心できる。ただ、高坂さんの意見でしかないので、もっと人間心理をしっかり見れそうな子にも後で聞いておく必要があるだろう。親友だからこそ見えないモノがあると思っている。
そろそろ他の部員も音楽室にやって来る。バン、と音楽室のドアを開けたのは吉沢さんだった。高坂さんを視界に入れると、やっぱりここにいたなこの野郎という視線を向ける。
「麗奈ちゃーん、掃除当番ド忘れしてたでしょ! クラスの子が困ってたよ」
「……」
「おいこら、行きなさい」
彼女は冷や汗を流しながら無言で走って行く。その後ろ姿には若干の哀愁が漂っていた。それを上回る面白さが存在しているせいで、ちょっと笑いをこらえてしまう。普段は割と言うか、かなりしっかりしているのだが、焦っていたり違うことを考えているとポンコツ気味になる。もしかしたら、私が今日から練習にまた参加するという連絡を受けていたから、それに意識を向けていたのかもしれない。
「まったく……」
「吉沢さん、お疲れ様」
「お疲れ様です。あの子、先輩が戻って来たからって焦りすぎですよね、もう……」
「まぁまぁ良いじゃないの」
「麗奈ちゃんをあんまり甘やかさないでください。もう十分甘やかされて育ってきたんですから」
「割と辛辣な事言うね君は……」
サラッと吐かれた毒だったが、否定するには吉沢さんの言っていることを裏付ける材料が多い。人間関係スキルが低いのも、そうする必要が無いくらい愛情を注がれていたのだろう。だからこそ、別に学校に友人を必要としていなかった。最近では大分改善されてきているように思うが。こんな毒を吐けるのも、信頼の証なのかもしれない。
「先輩」
「どうした?」
「私は、麗奈ちゃんに勝てますか」
「……」
真剣な目で投げかけられた問いかけは、私にとって回答の難しい問だった。勝てる、と言うのは簡単だろう。だが、確証の無いことを適当に言うことは出来ない。モチベーションを上げるだけならば適当な事も言えるけれど、それでは彼女に嘘を吐くことになる。それは、望ましくないことだ。
「分からない。まだ未知数だと思う。ただし、可能性はゼロじゃない」
「……正直ですね」
「嘘は吐きたくなかったから」
「でも、ありがとうございます。可能性がゼロじゃないなら、頑張れそうなので」
むん、と彼女は気合を入れ直している。取り敢えず自分がコミュニケーションの選択を間違えたわけでは無いことだけは分かった。それだけで割と安堵できる部分が大きい。
「気合入ったなら良かったよ」
「先輩がちゃんと誠実に答えてくれたからですよ。まぁそうしてくれると思ってましたけど」
「信頼はありがたいね」
「先輩を信頼している後輩の好感度は上がりましたか? まだ諦めてないですからね」
その明るさに反してとんでもないことを言っている声にビックリして彼女の方を見たけれど、もうその話は終わったという顔で楽器ケースを開けている。他の部員もドンドンやって来ているので、この話はここで終わらせることになった。マジかぁ、という感情があるけれど、それよりももっと大きく希美を幸せにしないといけないという感情が沸き上がった。吉沢さんの想いを無下にしたのだから。気合を入れ直さないといけないのは、私の方だった。
アンサンブルコンテスト関西大会が無事に突破で終わった数日後。希美の音大受験真っ最中であるが、私は去年と同じソロコンの会場に来ていた。まずは京都予選。目指すは全員関西出場だ。と言うのも、ソロコンには名だたる他校の生徒は来ていない。洛秋も立華も、参加していないようだった。龍聖もいない。となれば、全国出場である北宇治の生徒ならばより上に行ける可能性が高くなる。
今年の出場メンバーは井上さん、川島さん、高坂さん、高久さん、ウチの妹の計五名。一年生三人だった去年とは違い、今年は二年四人、一年一人という構成になっている。その中で三名は去年と同じなので、そうそうトップ奏者が入れ代わったりしないことを示していた。
「今年もこの時期が来ました。皆さんの練習の成果を見せる時です。特に、去年も出た二年生三人はもう慣れているでしょうから、今年こそ上に行けるように頑張りましょう。関西には五人から最大八人ほど出れるみたいなので、頑張れば全員で上に行けますので」
「「「はい」」」
「最後に。去年も言いましたが、私はあくまでも添え物に過ぎません。皆さんが主役であり、自分がナンバーワンと言う意識で構いません。私は必ず合わせ行きます。普段は他の音を聞けと言いますが、今回は自分の音だけに集中してください。どういうテンポだろうと、どういう演奏だろうと、必ず合わせますから安心してください。自分を全て出し切るように。良いですね?」
「「「はい!」」」
井上さんが今年選んだのは石原勇太郎作曲「若紫の民話」。シロフォンソロ用の楽譜だ。流れるような連打が特徴であり、スピード感のあるメロディーになっている。何がどう若紫で、何がどう民話なのかは個人の解釈に委ねられている部分が大きいように感じていた。井上さんは割と力強かったりスピーディーな演奏をするのが特徴なので、こういう曲は合っているように思う。本人もそう思って選択したのだろう。
川島さんはエルガー作曲「愛の挨拶」である。エルガーは言わずと知れば英国の作曲家である。「威風堂々」や「エニグマ変奏曲」は有名だろう。ヴァイオリン協奏曲、チェロ協奏曲なども作成しており、英国では現在でも人気の音楽家だ。この曲はエルガーが結婚相手に贈った曲であり、文字通り愛を込めて演奏するのが上手く演奏する近道だった。川島さんの朗らかで優しい人間性の為せる技なのか、闊達に弾きこなしてくれている。
高久さんの選んだのは石原勇太郎作曲の「東雲色のヒカリ」。クラリネットの穏やかでたおやかな音を切なさを感じさせるメロディーで引き立てる曲だ。東雲は太陽が昇り始める前に茜色にそまる空を意味する言葉。それをイメージした曲になっているため、朝の訪れる前、夜との狭間を想像しながら演奏することが大事になっていた。高久さんの穏やかな人間性にはよく合っている曲と言えるだろう。伴奏のピアノもクラリネットの音を立てるように、狭間の景色を描いていく。
高坂さんは安部泰輝作曲の「Tomorrow Dream」を選択した。「日々」「夢」「明日へ」の三部から成立している曲だ。朗々と歌う箇所、技術を要する箇所、カデンツァ等々聞かせる場所が沢山ある。元々はコルネットの曲として作成されているけれど、トランペットでも演奏可能だ。コルネットはイタリア語。角笛を意味するcornoに-ettoを付加したものだ。トランペットによく似た楽器であり、実際トランペット奏者が担当することが多い。私も当然持っている。今回高坂さんは悩んだようだが、専門のトランペットで出ることにしていた。コルネットが吹けないわけでは無いけれど、手に馴染んでいるのは彼女の相棒だろう。
ウチの妹が選んだのはV.モンティ作曲の「チャルダッシュ」。去年希美が選んだのとまったく同じ楽曲だ。ソロ演奏の定番であり技巧を示すにはもってこいの曲なのでおかしくはないのだけれど、敢えてこの曲を選んだのは希美を意識しての事だろう。涼音にとって希美は憧れであり、半分恋してるレベルで慕っている。だけれども、音楽で負けたくはないという想いも存在しているようだ。そもそもフルートを始めたのは希美の演奏を聞いたからであり、そんな経緯がある以上同じ曲でよりよい結果を示すことでこれまで教えてくれた希美に応えたいということのようだ。とは言え、希美は関西大会金賞。中々超える事の出来ない壁であるのも事実だ。どこまで行けるのかは、腕の見せ所だろう。
今回の演奏も無事に終了した。去年でも出た三人はよりブラッシュアップされているように思える。今年初出場の二人も問題なく完璧に出来ていた。
「高久さん、良い演奏でした」
「あ、ありがとうございます」
「しっかりと主張することが出来ていましたね」
「はい。ここまで練習に付き合ってくださったおかげです。ありがとうございました」
「いえ、お気になさらず。あなたの努力ですよ」
引っ込み思案とは言わないけれど、大人しくあまり主張しなかった高久さんの演奏はしっかり前に出るような音楽になっていた。
「時に、瀧川君とはどうですか」
私の世間話に、彼女はちょっと緩んだ空気になる。その顔だけで、どういう感じの関係性を維持しているのかがなんとなく分かった。良い感じに関係性を構築しているのだろう。瀧川君は時々間抜けな発言をするが、音楽には真摯だし、意外と恋愛関連では真面目だ。きっと上手くやっていけるだろうと思ってはいたけれど、予想通りだったらしい。
「え、高久さんそういう感じなの?」
「は、はい」
井上さんに面白いモノ発見! と言う顔で話しかけられている高久さんは、顔がかなり赤くなっている。川島さんも興味津々という感じだ。その様子を見ながら、妹は黙っておこうという顔になっている。恋バナに飢えている川島さんに自分の恋愛事情を話すと面倒そうだと思っているのだろう。高坂さんは耳だけ傾けていた。興味が無いわけでもないのが彼女らしい。黄前さん曰く「意外と女子」な部分だろう。
「そういう井上さんも、どうなの? 私の友達とは」
「え、えっと、あ~それはその……」
「愛です、愛が溢れています!」
急激しどろもどろになった井上さんの顔に、川島さんが大興奮している。よく分かんないキャラクターみたいな事を言い始めた。川島さんは時々壊れるのだが、特に恋バナ関連は壊れやすい。私と希美の話も聞きたがっていた。とは言え別に耳年増という感じでもない。どこまで行ったんですか、と聞いたときに希美が「さぁ、どこまででしょう?」と返事をしたら真っ赤になっていた。あれは唇に指をあてて内緒と微笑みながら言う希美が妖艶過ぎたので無理もないと思うけれど。
そんな話をしている中、全員がいる控室に、審査員の人がやって来た。今回の結果を書いた紙を持っている。
「えー、三月上旬に行われる関西地区大会への推薦を行う人員を、今回は八名読み上げます。まず、2番パーカッション、井上順菜」
井上さんがガッツポーズを決めている。リベンジ成功という具合だろう。思わず返事をしそうになっていたのを私は見逃していない。吹奏楽部の性か、個人名が呼ばれると返事をしそうになるのだ。
「続いて15番フルート、桜地涼音」
大きな喜びを見せることなく、涼音は静かに頷く。ここまでは予想通り、と言う顔だった。桜地の名前に何人か表情を見せている人もいた。やはり、この名前は色々なところでのしかかって来る。彼女がそれに負けない事を祈るだけだった。涼音の後はオーボエの人が一人名前を呼ばれる。
「27番コントラバス、川島緑輝。30番クラリネット、高久ちえり」
次々と名前が呼ばれていく。ここからは後半組。ホルンやチューバが待っている。トロンボーンとホルンから一人ずつ名前が呼ばれた。そして、最後に一人になる。だが、北宇治の生徒は分かっていたのではないだろうか。もし呼ばれるとすれば、我が部のトップエースにおいて他ならないと。
「最後に、48番トランペット、高坂麗奈。以上です」
高坂さんは自信を滲ませていた表情を、喜びのモノに変えた。予選から上に行かせる人数はそこまで厳密に決まっていないようなので、今年は豊作揃いだったことになる。その中でも北宇治が全員出場と言うのは相当な快挙だろう。井上さんは橋本先生、妹と高久さんは新山先生にも頼って練習を何回か見てもらった甲斐があった。去年は部内で完結させたが、今年は外部奏者にも頼ったのが勝因かもしれない。何にせよ、私が去る前にこの結果を残してくれたのは嬉しいことだった。
関西では流石にこうは行かないだろうが、少なくともあと半月くらいはこの五人で練習を頑張らないといけない。高久さんはアンコンの全国もあるので、そっちの練習も忙しいだろうが、それでもマルチタスクに対応してやってもらうことになる。今年の全国大会は尼崎でやるのでその点は楽だろう。去年は香川だし、一昨年は府中市である。
会場を出ても喜色満面という表情の五人を前に、私は話を始めた。
「皆さん、大変素晴らしい結果になりました。まずはおめでとうございます。これは去年を超える快挙と良いでしょう。皆さんの名前が垂れ幕に書かれることになるでしょうね。教頭先生も嬉しい悲鳴を挙げてくださることと思います。よく頑張りました。ですが、この結果に胡坐をかくことなく、全国大会を目指し走り抜けてください」
「「「はい!」」」
「よろしい。では、お疲れ様でした」
「お疲れ様でした!」
良い返事を聞いて、私は満足しながら頷く。同じ空の下で、希美は音大受験をしている。推薦なので結果が出ているみぞれと違って、一般組の彼女は今日が受験日だった。こっちは良い結果だったのだ、どうか向こうも。そう願いながら、楽しそうに学校に向かう五人を引率した。