音を愛す君へ   作:tanuu

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第百十四音 切符 Viewpoint from 希美

 光陰矢の如し、という言葉を思い知るのは青春の特権なのかもしれない。ふと、そんな事を思った。私たちの三年間は、今度こそしっかり終わった。テレビが取材に来ての演奏会。それ自体は凄く良いものになったし、私としても区切りがついたような気がする。それでも、心のどこかで寂しさを感じてしまう。

 

 全てはあっという間に過ぎていった。演奏会が終われば後は勉強、練習、勉強、練習。その繰り返し。日常のほとんどはこの二つの動作に埋め尽くされてしまった。受験生で破局するカップルが多いのも今なら納得できる。会えない期間が長いのは、そこら辺の一般カップルには耐えられないのかもしれない。

 

 だけど私は違う。誰に誇っているのかもよく分からないし、そもそも誇るべきことなのかも分からないけど、私は平気……ではないけれど少なくとも気持ちが消えたりなんかしない。むしろ、雪のようにどんどんと積もっていく。今これなら、もし彼が渡欧してしまったらどうなってしまうのだろう。ずっと会えない寂しさで、私が音を上げてしまいそうだ。

 

 毎日電話はしている。防音室を使わせてもらうこともある。でも、あんまり時間はとれない。お互いに暇では無いから、あんまり会えない日は夜のほんの少しの時間にだけ、10分と区切って通話している。本当はもっと話したいけど、もっと電話越しだったとしても繋がっていたいけれど。自分の夢と、恋と。この二つを両立するためにはしっかり守らないといけないことがある。それに、自分で決めたルールも守れないようでは、今後困るだろう。

 

 同棲後の破局原因は生活における価値観の違いとルールによるものだとどこかの記事で読んだ。だとするなら、も、もし仮に結婚、とまでは行かなくても同棲とかしたときにしっかり決めたことを守れるようにしないといけない。そう思っている。

 

 アンサンブルコンテストとソロコンテストの関連で彼は色々と忙しい。ついこの前、免許を取れたという話をしていた。時間の無い中で何とかやりくりして通っていたのはよく知っている。後輩の育成、練習計画の作成、自分の練習、ソロコンの伴奏、高坂さんの指導。そういう色んな作業に追われながら、それでも歩みを止めないで歩き続けている姿は、私の尊敬するモノだった。

 

 ベッドに座りながら、電話口の声を聞く。一分一秒でも長く話していたい。その声を聞き逃したくない。膝を抱えてベッドの上に座りながら、私は窓の向こうの雪景色を眺めた。

 

「何日に出ちゃうんだっけ」

「年越す前にかな。オーディション自体は年明けなんだけど、それまでにしないといけない事が多くて。それに、挨拶回りもしたいし。具体的な日付は……多分12月の29とかだと思う」

「……そっか。関空?」

「そうだけど、見送りとかは全然来なくていいよ。そっちはそっちで忙しいだろうし、勉強の邪魔したら悪いから」

「でも……」

「大丈夫。しっかり帰ってくるから。多分1月の17くらいには帰国するし。だからしっかり勉強と練習して、しっかり受かるようにしてて。それが私からの希美へのお願いだから」

「分かった。頑張ってね!」

「そっちも」

 

 彼に精一杯の激励の言葉を送る。私にはこうすることしかできない。私には想像もつかない世界だ。天才たちを集めた音大の、その更に選りすぐりの一部しか行けないのが楽団。彼の目指しているのはそういう頂き。世界の中で競い合う天才たちの目指す場所。凄い以外の言葉は私の貧層な語彙力では出てこない。だから私は褒めるのではなく願う事にしている。彼の努力が報われますように、と。

 

 

 

 

 

 

 

 クリスマス。一年に一回のこの日も、受験生は机に向かうだけだ。昨日は久しぶりにデパートでの演奏会に参加してしまったので、その分の巻き返しをしないといけない。去年はパーティーとかしていたけれど、今年はそんな事をしている余裕もなかった。寂しいと思いながらも、こうしてる間にも他の人は頑張ってるはずだからと心が折れないようにしている。

 

 多くの高校生の青春の最後には、受験という壁が待ち構えている。それは、最後の子供だった期間から卒業するための試練なのだろうか。これを努力して乗り越えるからこそ、もっと言うなら辛い時期があればあるほど、楽しかった時間が輝いて見えるのかもしれない。

 

 努力する、という事について言えば、私たちはそれを良く知っている。辛さも、その後に待っている最高の景色も。やればやるほど上手くなる。どんどん出来るようになる。勿論壁に当たる事もあるけれど、それは決して乗り越えられないものじゃない。

 

 私は、三年間北宇治で過ごしてそれを学べたと思う。諦めなければ、道は拓ける。もしかしたら上手くいかないかもしれないけれど、走り出してもいないのに悩んでもしょうがない。悩んでいたら、ずっとそのままだ。だから、前に向かって走り出さないといけない。

 

 ちょっとは成長出来たんじゃないかなと自分では思っている。丁度一年前の私は、目の前のことに精一杯だった。恋に盲目で、この先にもきっと幸せだけが待ってると思ってた。当たり前のようにそんな事は無かったけれど、それでも不幸なんかじゃなくて、振り返れば幸せだったと思えるのはきっと、彼のおかげ。

 

「今年ももうすぐ終わりねぇ」

 

 リビングではお母さんがお茶を飲みながらぼんやりとテレビを見ている。呑気だなぁと思う。受験生の家ってもう少しピリピリしてるんじゃないだろうか。でも、多分私がピリピリしててもしょうがないでしょ、と笑い飛ばされてしまうのだろう。テレビ画面の向こうでは一人暮らしをしながら遠距離に通う大学生の話をしていた。

 

「そう言えば希美、あなたのお友達も一人暮らしするんだって?」

「優子のこと? あぁ、うん。そうみたい」

「ウチもねぇ、お金があったらいいんだけど。そしたらあなたの部屋の掃除とかしなくて良いし、ご飯も適当で良いし」

「えぇ……ちょっと酷くない?」

「じゃあ全部自分でやってみる?」

「それは……う~ん……」

「ほらぁ」

 

 まったく、いつまで経っても甘えてるんだからとぼやくお母さんにちょっとムッとしながら、そう言えばとこの前の話を思い出す。

 

「家ならあるんだけどね」

「どこにぃ」

「凛音の家」

「あぁ、彼氏君? え、何いきなり同棲?」

「そうじゃないんだけど……。凛音、春からヨーロッパに行くみたいで」

「留学?」

「就職だよ」

 

 よくよく考えてみれば、私は自分の付き合っている相手の素性をキチンと知らせていなかった。同級生で同じ部活としか言っていない。どこに住んでるとか、そういう話をしてなかった。一から説明するのも面倒だったけれど、伝えないといけないと思って話をした。どういう人で、どういう人生を歩んできたのか、そしてどういう風に生計を立てているのか。

 

「桜地って、あの一丁目のお屋敷の?」

「そうだよ」

「た、玉の輿……」

「怒るよ?」

 

 流石にそういう事を言われるとちょっとイラっとする。別にお金あるからとかそういう理由で付き合い始めたわけじゃない。

 

「ごめんなさいね。でもあの家なら確かに部屋は余ってそうだけど……。ご家族もいるんじゃないの」

「うーん、大歓迎らしいけどね」

 

 社交辞令とかじゃなくて、これはマジな方だと思う。凛音がそういう話をしていたと言ったら、涼音ちゃんは凄く喜んでいた。雫さんも喜んでくれたけど、あの喜びの中に一瞬だけ料理しなくて良い! という種類の喜びがあったのは見逃せない。確かに、桜地家の食は彼がいないと崩れてしまう。現に、彼が大会関連でいない時の食生活は結構悲惨だった。

 

 この前、梨々花ちゃんと久石さんが涼音ちゃんに料理を教える会をしていたけれど、かなり苦戦していたのを覚えている。普段はニコニコしてる梨々花ちゃんが割と真剣な顔で「これは手強いね……」と言っていた。久石さんも疲労していたのを覚えている。横で凛音はもう匙を投げそうになっていた。本人は本人なりに頑張っているので、もう本当に適性が無いだけなのだと思う。

 

「通信費と食費だけ払って、毎食料理すればそれ以外は何もいらないって」

「破格ねぇ」

「考えておいてって言われたけど……まぁ確かに楽しそうではあるよね。ルームシェアみたいな感じで。毎食準備ってのは大変だけど、将来的には持ってても良いスキルだし」

 

 あの二人に比べれば、失礼だけど多分手抜き料理でもそれなりになるとは思う。

 

「どう? お母さん的には」

「まぁ距離も近いし、私は別に良いけど……ホントにそうしたいなら、お父さんとも話しなさいね?」

「はーい」

 

 ポケットに入れた携帯の音が鳴る。設定していた音楽で誰だかすぐに分かる。ワンコールで電話に出た。

 

「もしもし?」

「今、ちょっとだけ時間良い?」

「良いけど、今どこ? なんか外っぽい音するけど」

「窓、見てごらん」

 

 私の家は南向きで、通りに面している。そう言えばすっかりシャッターを閉めるのを忘れていたと思いながら外を見る。外は雪が降り積もっている銀世界だ。夜の人通りのない静かな住宅街にしんしんと。そして街灯に照らされて白銀になった世界の中、私の家の目の前の道に彼はいた。私と目が合うと少しだけニコッと笑っている。

 

「え、ちょ、今行く!」

「希美、どこ行くの?」

「噂をすればってやつだよ!」

 

 そう言って慌てて携帯を放り投げて玄関に走った。ドアを開ければ一気に寒気が私の身体にまとわりつく。そんな中でも寒さを上回る暖かさが私の中からこみあげてきた。声だけ聴いているのよりもやっぱり会えた方が良いに決まっている。

 

「少しだけ出る用事があって、それでここを通ったんだ。寒いのに呼び出してゴメン」

「いいよ、むしろ素通りされた方が悲しかったかも」

「はい、これ。クリスマスプレゼント兼誕生日プレゼント。あんまり年頃の女子に送るようなものではないけれど」

 

 渡されたのは小さな包み。中を開いてみれば、白い御守りが出てきた。表には金の文字で学業成就。裏には北野天満宮と書いてある。

 

「これって」

「合格祈願、みたいなもの。受験生に送るならまぁ、こういうのが良いかなって。ついでに交通安全のもセットで入れておいたから」

「交通安全?」

「最近は学業成就だけじゃなくて無事に会場まで着いて帰って来れますようにとお願いするのがセオリーって聞いたから」

「そうなんだ! ありがとう……凄く嬉しい」

「ただまぁ、それだけだとちょっと少ないので、この前行った時に色々と買ったので、これも」

 

 渡されたのは紙袋。その中には黒い箱が二つ。開けてみると、手紙を持ったウサギのクリスタルな置物と、イヤリングが入っている。高そうな包装をされているから、きっと良いところのお店なんだと思う。そんなに詳しくないけど、お母さんなら知っているかもしれない。

 

「ウィーンで買ってみた。前にも何回か行ったことあるお店だったから、良いかなって思って」

「綺麗……」

「気に入ってくれたなら良かった。後、こっちはご両親にも」

「ありがとう!」

 

 彼も暇ではないはずだ。もう数日でまた出立の日が来る。今度はベルリン行き。その準備だってあるだろうけれど、それでもわざわざ私のために出向いてくれたのが嬉しかった。勿論、貰えたものもだけれど。

 

「わざわざ貰ったのに、ごめんね。私、受験とかで用意できなくって……」

「別に全然気にしてないから大丈夫。こっちが勝手に用意しただけだから。合格して笑顔で報告してくれれば私としては最高のプレゼントだし」

「うん、それは勿論そうするつもり。ただやっぱりそれだけだと悪いから……価値があるかは分からないけど!」

 

 今度は前回よりは冷静に。そう思いながら私は唇を尖らせる。いわゆるキス待ち顔。これで反応してくれなかったらただの痛い女の子なのだけれど、チラッと薄目で覗いてみれば一瞬だけ驚いた顔をしていた。それでもすぐに唇が触れあう。身体の芯が熱くなるような感覚を覚える。恋の熱で真冬の雪の寒さも消し飛んでしまった。

 

 思えば付き合ってから半年経っている。私たちは特に何か理由があるわけではないけれどもどうも随分とプラトニックな関係だった、と思ってる。キスしかしてないし。それが嫌とかそういう話ではないけれど、他のカップルと比べたら少し異端派だったかもしれない。それで迷惑をかけてしまったとしたら申し訳ないと思ってしまう。

 

 名残惜しい時が終わっても私の中の熱は冷めない。多分今晩はきっとずっとこんな感じだ。私の目は恐らく潤んでいるんだろうなと思う。ダメだ、これ以上一緒にいると変なことを言ってしまうかもしれない。

 

「どう? 彼女さんの味は」

「……ミント味?」

「それ歯磨き粉じゃん。も~そう言うのじゃなくて」

「アハハ、分かってるって」

 

 いっつもそう。私が攻めに出るとこうやって躱されるか揶揄われるか逆襲されて撃沈してしまう。私の恋愛偏差値が低いだけなのかもしれないし、私の装甲が紙なのかもしれないと心の中で良い私が囁いているが、悪い私はそんな事ないと自己弁護している。こんなにも誰かの事を好きになるなんて、これまでの人生で思ったことが無かったから、戸惑っているだけなのかもしれない。もしかしたら他のカップルはこんな感じ……な訳ないか。流石に無いよね……?

 

「……」

「……」

 

 見つめ合ったまま、何も言葉が出てこない。言いたいことは沢山あるけれど、だからこそ絞れない。

 

「ちゃんと戻って来てね」

 

 小さい声で零れ出たのはそんな言葉だった。ふっと、雪の降り方が強くなって光の加減のせいだとは思うけれど彼が消えたような感じになった。それを見て、こんな言葉が出てしまった。もしかしたらどこかへフッと消えてしまうんじゃないか。それが怖かった。

 

 私は、私が世界で一番かわいいなんて言えない。言える自信なんてない。一番の女の子って言えるほど傲慢にはなれない。私より可愛い子が沢山いる子を知っている。だから、時々不安になってそのたびに軽く自己嫌悪してしまう。

 

 きっと私を離さないでいてくれる。そう信じているのに、そんな変な事を思ってしまう自分がいる。それが、今の自分の好きになれないところだった。そんな私を安心させるように彼は私を抱きしめる。耳元で優しい声が囁く。

 

「大丈夫。ちゃんと戻ってくるから」

「……うん」

 

 昔、親に抱き締められたのと同じような安心感をどこかに感じて、私は頭を撫でられたまま、彼の胸に寄り掛かった。雪の中で、まるで物語の中にいるような確かな幸福を私は感じていたのだった。街灯の光が雪の中をポツリポツリと照らしている。その中を彼はゆっくりと帰って行った。その姿が見えなくなるまで、私は玄関先で見送る。白く降る雪は、靄のように彼の姿を段々とぼんやりしたモノにしてしまう。

 

「寒っ」

 

 思わずそう呟いて、私は家の中に戻った。この後お風呂に入らないといけない。それでも身体の中は熱が灯ったように温かかった。

 

「あら、お帰りなさい。急に飛び出して、ビックリしたわよ」

「ごめんなさい」

「別に良いけどねぇ。あら、それクリスマスプレゼント?」

「うん」

「良い彼氏さんね。あの人、若い頃クリスマスとか全然覚えてなかったのよ、全く。ちょっとは見習ってほしいわね」

「お父さん、そういうの苦手そうだしね。あ、これ凛音から。ご両親にって」

「あらぁ、悪いわね……」

 

 両親用にと渡された箱の中には、チョコレートが入ってる。結構高そうな見た目。お母さんはビックリしながら眺めていた。

 

「私、チョコ好きなのよ」

「あぁ、そう言えば前そんな話したかも」

 

 ウチのお母さんが何が好きか、みたいな話をした記憶がぼんやりある。でもそれは随分前。多分、去年の話だった気がする。ちょうど、バレンタインが近かった頃だ。そんな遠い日の些細な記憶を覚えていたんだとしたら、ちょっと驚いてしまう。偶然かもしれないけど、彼の事なのであり得そうな感じがあった。

 

「嬉しいわねぇ。今度連れてきなさいな」

「受験終わったらね、まったくもう」

 

 楽しみねぇ、と私より楽しそうにしているお母さんにちょっと呆れてしまう。希美に彼氏が出来たなんて! と報告した時も驚いていた。お父さんはそうか、だけで終わりだったのに。きっと、お母さんも気に入ってくれるに違いない。だって、あんなにも素敵な人なんだから。

 

 私はそう思いながら、この幸せな気持ちを抱きしめて二階に上がる。窓は白くなっていて、その向こうには雪景色の街がある。さっき彼を見送った時に感じた漠然とした不安や寂しさは消えたりしない。それでも、同じくらいその冷たさを溶かす熱があった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あのクリスマスから数日後。彼はドイツの大地へ旅立った。私のやる事は変わらない。心配する気持ちはあるけれど、それでいて自分のことが疎かになってしまったら本末転倒だし、どんな顔をして次に会えば良いのか分からなくなってしまう。なので、年越しもしっかり勉強と練習に励んだ。音大一本で絞っているわけでは無いから、当然普通の勉強もしないといけない。普通の受験生では無いから、音大の科目の練習もしないといけない。なかなかに大変な期間だったけれど、夢に向かって走っていると思えばそんなに苦痛でもなかった。

 

 気が付けば時間が経っている、なんていう事もざらにある。多分、一生でこんなに勉強することはもう無いんじゃないかと思うくらいやった。迎えたセンター試験は普通に何とかなった。センター試験利用入試で出願していた学校には自己採点の点数から確実に受かったので取り敢えず行くところは確保できたと思う。それでもまだ試験は終わらない。一般私大の入試、そして音大。その後は国公立。それがまだまだ壁としてそそり立っている。

 

 試験結果を報告に学校へ登校した帰り。放課後になっていたのでもう練習が始まっている。自分達のいなくなった部活はどんな様子なんだろう。それが気になってしまう。もうあの場所に自分がいられないのは寂しい。去年は確か、卒業式や卒部会の曲を練習していたんだっけ。今年はどんな曲なんだろうか。どんどんと卒業という文字が私の足元に迫っている。

 

 この学校での日々を終わらせたくない、という思い。早く大学に行って色んなことをしたい、という思い。矛盾した感情が私の中で渦巻いている。どっちも本当の気持ちで、だからこそ無性に寂しくなったり、胸を締め付けられるような気がするんだと思う。

 

 優子は何をしてるんだろうか。夏紀は? みぞれは? 凛音は? 涼音ちゃんは? 他の後輩や、同級生たちは? 冬の灰色の空の下で、自分だけが一人のような寂寥感を覚えた。いつの日か、私たちの過ごしたこの日々も、この時間も、思い出の中に消えて行ってしまうのだろうか。

 

 それとも、こんなに鮮烈だったのに、いつの日か色あせて昔は良かったね、と呟くだけになるのだろうか。それは、少しだけ嫌だった。この時熱く胸を動かしたことが、感情が躍動した時の感触が、いろんなことに触れた思い出が失われてしまうのはとてももったいなくて、悲しい事のように思えたから。

 

「By making it a song. Can I keep the memory? I just came to love it now」

 

 あの日の熱情を覚えていられるのだろうか。昔凛音が歌っていた歌の一節を思い出す。歌にしておけば覚えていられるのだろうか、たった今好きになった事を。そういう歌詞。英語の歌だったけれど、すぐに覚えられた。夏紀はもっとパンクなのが好きなので多分趣味では無いのだろうけれど、私はこういうのんびりした曲が好きだった。

 

 それに、この歌詞にはどこか心打たれた自分がいる。確固たる日々を過ごしているはずなのに、どこか曖昧な感じがするこの空気感を凄くわかりやすく歌っていたからかもしれない。

 

 センチメンタルな気分になっていたところに、音楽室からの音が一気に転調して現実に引き戻された。練習の音を聞いて色んな感情が一気にこみあげてきたからこんな風に校門への道の途中で立ち止まってしまったのかもしれない。

 

 外へとつながる坂を下りようとして、向こうから誰かが昇ってくるのが分かる。制服じゃない。あれはスーツ。しかも後ろにはキャリーケースを引きずっている。それだけ情報があれば十分だった。それにもし仮にそんな恰好じゃなくても私はそれが誰なのかを見抜けただろう。

 

 こけそうになりながら走り寄る。途中で上を見上げて私を見つけた彼は驚いた顔をしていた。

 

「お帰り!」

「ただいま」

「もう、良いの?」

「もう大丈夫」

「け、結果は?」

「ん、あぁ結果ね。ちょっと待って……」

 

 彼はキャリーケースを開いてその中をゴソゴソと探している。そしてクリアファイルに入った一枚の紙を取り出した。そこには異国の文字でつらつらと文章が書いてある。そして最後には彼のサインらしきものが。

 

「これって……!」

「そう。契約書」

「契約書って事は!?」

「合格だ。やったぜ」

 

 ドヤっという顔をしている。それを見て色々安心したのと、自分の事のように嬉しいので涙が出てしまった。誰よりも部活の事を考えて、今までずっと一生懸命にやってくれていた。いつでも私に優しくしてくれた。色んな人のために、そして何より自分の夢のために頑張り続けていた人。だからこそ、その努力は報われるべきだと、ずっと思い続けていた。それがこうして叶った。こんなに嬉しい事はそうそうない。まるで絵面は自分が受かった人みたいだ。

 

「おめでとう……!」

「いきなり泣き出さないで。ちょっとビックリした。それにまぁ? 私に言わせればこの程度既定路線だしね。受かって当たり前。なにせ、この私がオーディションを受けるんだからね」

 

 なんだか調子の良い事を言っているけれど、それが虚勢と言っては言い過ぎかもしれないが、結構嘘なのを私は知っている。そんなに自信ありげでは無かったし、最後まで油断なんかこれっぽっちもしてなかった。でもカッコつけようとしてくれているのかもしれない。そんなことしなくても十分カッコいいのに。

 

「これから帰り?」

「うん」

「じゃあ、一緒に帰る? 報告したらすぐ終わるだろうし」

「うん! ここで待ってるから」

「それじゃちょっと行ってきますね。荷物見といてくれると助かる」

 

 そう言うと彼は足早に職員室に走って行った。その背中も足取りも心なしか凄く嬉しそうに見える。彼は夢を掴んだ。後は私だけ。改めて決意を固める。パンパンと自分の顔をはたく。蕩けてる場合じゃない。久々に会ったからって放心してる場合じゃないぞと自分を戒める。そうしないといけない。じゃないと甘えてしまいそうだから。まぁそうなったらお尻叩いてでも彼はやらせてくるだろうけれど。

 

 それでも少しくらいは良いよね。と言い訳しながら彼を待った。この数分間が、会えなかった時間よりもずっとずっと長く感じた。

 

 

 

 

 

 

 そして迎えた第一志望校の当日。朝はいつも通りに起きて、着替え、顔を洗ってご飯を食べる。ルーティーンは崩さずに。最後に受験票を確認して、カバンを掴んで靴を履く。

 

「気を付けてね」

 

 心配するような声でお母さんは言う。普段はいつも朗らかだけれど、今は少しだけ心配そうだ。私の第一志望の受験日って事は当然知っているし、その為に私が勉強してるのを見てきてくれたのはお母さんだ。塾に行くときのお弁当や今日のお昼ご飯だって作ってくれている。 

 

「気を付けなさい」

 

 お父さんは新聞から顔を上げないまま言う。反対されてもおかしくないと思っていた。でも、最終的に私のやりたいことの背中を押してくれた。私は恵まれている。帰る場所がしっかりあって、待っていてくれる人がいる。それだけで、十分すぎるほどに。

 

「二人とも」

「なんだ」

「なに?」

「ありがとうございました」

「! ……そういう台詞は受かってから言いなさい」

「まったくだ」

「さ、ほら気張って行ってくる!」

「うん」

 

 返事をして外に出た。2月の京都はいつにもまして寒いように感じる。私が曲がり角を曲がるまで、お母さんは見送っていた。その後ろにチラッとお父さんの姿も見えた。ありがとう、二人とも。二人のおかげで私は今まで育って来れた。そして、愛する人と巡り会って、夢も出来た。最大限の感謝をする。そして、その二人の期待に応えられるように。私は背筋を伸ばして駅へと歩き始める。地面をしっかり踏みしめて。

 

 試験会場には凄い沢山の人がいる。この人たちが、競う相手。だけれど、凛音はそうじゃないと言っていた。大事なのは、昨日の自分より上にいる事。他の人を気にしたら負け。そうアドバイスをくれた。まずは筆記試験。これもしっかりクリアしないといけない。何一つ、気を抜ける場面なんて存在しなかった。

 

 私たちの中でたった一人だけ大学受験をしたことのある人からの言葉だからこそ、しっかり守らないといけないと思わされる。彼だって緊張したし、合否発表が出るまでは凄い大変だったと言っていた。緊張するのは努力したから。努力したからこそ、それが報われなかったらどうしようと思ってしまうんだ。

 

 だから、私のこの緊張も努力したから。昔の私は、こんなところにいるなんて想像も出来なかっただろう。悔しくて泣いていた、高一の時の私。大丈夫だよ、貴女はきっと、貴女を大切にしてくれる人と、そして自分が叶えたいものを必ず手に入れる事が出来るから。

 

 白い御守りがカバンにぶら下がって揺れている。一瞬だけそれに目をやる。

 

「試験、始め!」

 

 一斉に問題用紙をめくる音がする。少しだけ深呼吸をして、問題用紙を開いた。

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