本日は晴天。そして、希美たちが遊園地に遊びに行く日だった。それはもう、楽しんできてくれればいいと思う。仲がいいのは良いことだ。一生モノの友達と出会えることは少ない。そう言った存在と出会えたのは今後の人生に必ず良いはずだ。ついでに言えば、今まで部活三昧であまり遊べていなかったので良いと思う。
彼女たちを車で送ってから、車のオーディオをつける。軽快な音楽が流れ始めた。入っているのは親が好きだったCD。両親の名残をこんな場所に感じながら、宇治への道を走った。
そして私にとっても今日は大事な日だ。今まで二年間。吹奏楽部の指導者として職務を行ってきた。その全体指導を行う最後の日である。間もなく私は完全に部活から身を退く。その覚悟が出来たのは最近のことであった。それというのも、高坂さんが仕上がったことが大きい。これならばもう、来年度以降やっていけるだろうという目算が出来るくらいにはなっている。
今日を最後に身を退き、次に音楽室を訪れるのは卒業式の前に予定されている卒部会だろう。卒業式もあと半月ほどに差し迫っていた。この時間は何とも言えない。これまでずっと働いてきたからこそ、休めと言われても何をするか迷ってしまうところはある。
とは言え、私の身近には予定が埋まっているの大好きな彼女がいるので何とかなることだろう。今週の週末にはお宅訪問が待ってる。正直今から緊張しているが、考えても仕方ないのは分かっているので、なるべく考えないようにしていた。そうしないと頭おかしくなってしまいそうだったと言うのもあるが。
そろそろ春の空になってきてはいるけれど未だ雪も積もっている二月の月末。晴天の空の下、私の役目に終止符を打ちに向かった。
最近の練習は専ら春休みに行われるコンサート用の曲だ。難易度的には決して簡単とは言えないけれど、難しいというほどでもない、という具合になっている。演奏曲の中には無論リズと青い鳥も存在しているので、こちらの練習も欠かせない。大会の時とはメンバー構成が変わっているから、それに合わせた指導を考えないといけないのだ。
今日が最後という話は特にしていない。する必要が無いと思ったから、というよりむしろしない方が良いと思ったからだ。演奏に変に影響が出ない方が良い。だから誰にも知らせずにいる。とは言え、妹は知っているだろう。私の予定が明日入っているのを知っているからだ。けれど言い触らすようなことはしない子だと思っている。練習時間が最後に近くなり、私は指揮棒を置いた。
「高坂さん」
「はい。全体のバランスは調整されていますが、オーボエに遅れがあります。鎧塚先輩の穴を埋めるのは難しいかもしれませんが、決して不可能な要求ではないと思います。後、一年生のミスがたまに散見されます。ミスしても落ち着いて、何事もなかったかのように演奏を続けて下さい。もちろん、ミスしないに越したことはありませんが」
「よろしい。私からも同じような感想です。とは言え、上達していますよ。この調子ならば大会でB編成だった者も十分な演奏が出来るはずです」
ここで解散の指示を普段なら出している。先生は学校としての仕事が多く忙しいので、練習に関しては監督している部分が大きかった。もちろん学校内に存在してはいるが。解散の指示を出さずに黙っている私に部員たちは不審そうな顔をしていた。
このメンバーに対して教えるのも今日が最後と思うと、寂しい気持ちがある。今年も色々な事があった。希美やみぞれのことだけでなく、小さなことでは色々。でもそれは当然だと思う。十人十色で生活しているのに、何の問題も無い方が不自然だ。大きくなる前に潰されているだけで、トラブルなんて幾らでもあった。
練習中もかなり厳しいことを言ってきた。優しい事、調子のいいことをいうのは簡単だ。けれどそれでは良くはならない。言い方を考えながらも、手厳しい事は言ってきたつもりだった。まぁ先生がいるので相対的に優しく見えていたかもしれないが……。しかしいつまでも感慨にふけっている訳にはいかない。
「私は本日を持ちまして全体練習の指導を終わります。ソロコン・アンコン出場者を除いて練習を見ることはありません。皆さん、一年間ないし二年間お疲れ様でした」
私の言葉に対し、音楽室内に大きなざわめきが生まれた。部長や高坂さんすら固まっている。こうなる可能性があったから言わないでおいた。慕ってくれるのは嬉しいが、余計な感情は練習に持ち込んで欲しくなかった。向き合って欲しいのは私では無く、自分と自分の奏でる音なのだから。
「明日から、私は来ません。皆さんは、先生と部長、そして音楽的なことに関しては高坂さんの指示に従いながら練習を行ってください」
「そんな……」
「もっといて下さい!」
「お願いします!」
あちらこちらから残留を求める声がする。私のやってきた事にもそれなりの成果があって、それをありがたいと思ってくれる存在がいることは嬉しいことだった。しかしここで妥協してはいけない。私はいなくなることで、ここの音楽は完成する。私はいつまでも北宇治にいて皆をサポートする妖精じゃない。この二年間、北宇治が進化していく土台を築く二年間だけ存在していたお助けキャラだ。
「ありがとう。そういう声を貰えるという事は、私のやってきた事を評価してくれるという事だと思います。それは嬉しい。けれど、私は去らねばならないのです。皆さんは十分に成長した。そして、私がいなくてもやっていかないといけない。私はいつまでもここにいてはいけない。もちろん、相談には乗りましょう。困った事があれば言ってください。けれど、ここで指揮棒を振るうのは今日で終わりです」
泣き出す生徒がいる。そんなに!? と自分が驚いている。私はそんなに別れを惜しまれるような存在だったのだろうか。
「最後に伝えたい事があります。私は、皆さんを誇りに思います。皆さんに二年間、ないし一年間教えられたことを誇りに思います。私と先生の教えは決して簡単ではなかったでしょうし、曲だってかなり難しかったはずです。それでも皆さんは食らいついてきた。素晴らしいことです。良く頑張りました」
大勢の瞳が私を見つめる。私はその中で、一人手を叩いた。
「世界は結果が全てだ。良くそう言います。確かにその通りでしょう。結果を出せない存在は、認められない。どれだけ頑張ったとしても結果が全てになってしまう。私たち指導者は特にそうです。結果を出せない、もしくは持っていない存在に偉そうに教えられたいと思う生徒はいないでしょう。先生は結果を出した。私は実績という名の結果を持っている。だからこそ偉そうに色々と言えるわけです。では、結果が出せない努力は無駄だったのでしょうか。無論、無駄だ、意味が無いのだという人もいるでしょう。しかし私はそうは思いません」
言葉を区切って全員を見つめる。去年、一昨年の春には不安そうな顔だった子が立派な顔をしている。戦える顔だ。戦う相手は、自分。未来の自分であり、過去の自分。自分の最大の敵はいつだって自分。そして彼らは自分と戦う覚悟をしている。
「皆さんが時間を削って、身を削って、ずっとずっと努力して、積み上げて、戦って、もっと楽しいことが出来たはずの時間を使って、もっと楽な道があったはずなのに選ばず、ここまでやって来た努力が無駄であろうはずがありません! 今置かれた環境で、出来る限り最大限の努力を皆さんはしている。私はそう思っています。結果はもしかしたら今年のようなものかもしれない。けれど、そこまで努力したことが今後の人生で皆さんを背中を押してくれるはずです。あの時あんなに怒られて、悔しい思いをして、必死になったんだからこれくらい行けるはずだ。そういう風に思える日が、必ず来るはずです。努力しても何も変わらないかもしれない。けれど、努力しなきゃ何も変わる訳がないのですから」
私にもあった。努力したことは幾らでもある。私は天才なんかじゃない。努力しなきゃ、スタートラインにすら立てないような存在だ。色んなことで苦しんだし努力してきた。トランペットもそうだし、言葉もそうだし、それ以外にも色々。そしてその中にはいまいち実らなかったものもある。けれどきっといつか役に立つはずだと私は信じている。そうできるかは、自分次第だろう。
「だから今を必死に生きて下さい。必死に頑張って下さい。皆さんを阻もうとするものに、努力という拳を叩き込んでください。そしてもし失敗してしまったら……私と先生を責めなさい! 決して自分を責めないように。皆さんが必死に努力して言う通りに頑張って、それで失敗したのならばそれは導いた私や先生に責任があります。そして、私たちはその責任を負うために存在しているのです。でなければ、偉そうにする権利などないのですから」
指導者の存在意義。それは勿論指導することもそう。けれど、生徒が過ごした時間を無駄ではなかったと思えるようにするための存在だとも思っている。だからこそ、指導者は完璧を目指さないといけない。生徒に時間を使わせたその分、絶対に結果で返してあげないといけない。結果が帰ってくるようにしないといけない。
「私は、指導者として恐らく滝先生よりは下でしょう。こればっかりは仕方がないですね。悔しいですが、年季が違う。それでも唯一、滝先生に勝っている部分があると思っています。それは、私が一番皆さんの成長を見てきたという事です。音楽面でも、それ以外でも。私が先生よりも誰よりも、皆さんの成長と努力を見てきました。これは、誰にも譲る気はありません。だから必ず報われると思っています」
先生の見えないところで、手の廻らないところで、私は一人一人を見てきたつもりだ。直接でなくてもその人の努力は知っている。成長も、まだまだ残っている問題点も知っている。これが私の勲章だった。例え部がどんな結果を出しても、私にはその栄誉は関係ない。それでも私がこれまでやって来たのは、こういうところも大きかった。名顧問滝昇の知らない部分を私は知っている。それが私の誇りでもあったのだ。
「大人になれば、いろんなことを見ないといけない時があります。がむしゃらにやっていればいいという訳でも無いときも。私はそれを嫌というほど学びました。しかし、皆さんは違う。まだ若く、未来は不透明故になんにでもなれる。だから、前だけ向いて走れ! 結果は必ずその後から付いてくる。私が、その努力を保障します。来年の晩秋、皆さんが全国金を掲げているのを楽しみしています。以上、解散!」
部員は様々な反応だ。泣いている者、決意を固めている者、真剣に私を見つめている者。けれど一つ共通することは、誰も席から立とうとしなかった。そんな中、部長である黄前さんが立ち上がる。彼女の目元には小さく光るものがある。
「桜地先輩、今まで本当に、ありがとうございました」
震える声で彼女は頭を下げた。綺麗な最敬礼だった。
「「「ありがとうございました!」」」
音楽室を震わすような声で、全員が立ち上がって頭を下げながら言う。思わず泣きそうになった。涙が出かかったが、間一髪で堪える。泣くのは今じゃない。今するべきは、最後までカッコよく去ることだ。
「こちらこそ、ありがとうございました」
私はファイルを持ってカツカツと歩き、音楽室を出る。その瞬間まで、誰も頭を上げていなかった。音楽室のドアを閉める。夕暮れの廊下が綺麗だった。二年生の春に見た時はもっと嫌な感じがしていた気がする。もしかしたら記憶が改変されてるかもしれないが、ともかくあの時はもっと無情な感じや現実逃避をするための道具のような感じがしたんだ。
けれど、今はどうしてだろう。まるで魚眼レンズで覗いたみたいに曇っているというか。
そこまで考えて気付いた。私の目から涙が零れ落ちていることに。慌てて拭っても消えそうになかった。私はあの空間に居心地の良さと優しさと温かさを感じていた。あそこにいたかった。もっとずっと、何年でも。不老の妖精のように毎年現れては後輩を指導出来たらどんなに楽しいだろう。でもそうは出来ない。私は前に進まないといけない。いつまでもここにいてはいけないのだ。
前に進むのは辛いけれど、私はきっと一人ではない。携帯が鳴る。とりだせば、四人がイルミネーションの前で映っている写真だった。綺麗に撮れている。誰かに撮ってもらったのだろう。希美は明るい顔をして、みぞれはピースサイン。その頬は微かに微笑んでいる。優子と夏紀は割といつも通り。けれど顔はどこか楽しそう。
画面上では会話していると、どんどん話が進んでいく。いつの間にか食事会の話になっている。これは希美なりの気遣いなのだろう。
たとえ部活が終わっても、この繋がりは残っている。これを大切にしよう。そう決めて、返信を打ち込み始めた。
「今日が最後の個人レッスンになりました」
全体挨拶をした後、私は高坂さんと吉沢さんを前にしていた。先ほどまで一時間半ほど、最後のレッスンを終えたばかりである。全体指導が終わるということは、この時間も終わるということ。それは二人ともよく理解していた。目元には光るモノがある。
「今まで二年間、二人ともよくついてきました。この時間は結局最後まで二人だけでしたね。この長い間レッスンをこなした二人は、誰よりも練習していた二人だと思います」
「先輩……」
「最後の課題です。私の前で全力で演奏しなさい」
グズグズと鼻を鳴らしながら、吉沢さんは自分の楽器を取り出す。高坂さんは静かに目を伏せながら、先に自分の楽器を構えた。
「先生、先にやってもいいですか」
「どうぞ」
「行きます」
彼女は口を付けて音を出した。演奏されているのは、三日月の舞のソロパート。去年何十何百何千と演奏してきた曲だ。甘く切ない高音が教室の窓を震わせる。その音は何割も良くなった。その成果が二度目のソロコン全国だろう。優雅に華麗に堂々と。その音は優美に奏でられる。苦難、争い、そして懊悩。その末に去年メインを飾ったこのソロを、今奏でている。
「ありがとうございました」
吹き終わった高坂さんは、静かに頭を下げる。その次に鼻を啜った吉沢さんが口を付ける。さて、何を奏でるのだろうと思っていた私の脳髄を、元気いっぱいのメロディーが叩く。ドラゴンクエスト序曲。私が昔好きと零した名曲を、彼女は高らかに演奏していた。高坂さんとはまた違う、勇壮で荘厳な演奏。まさに勇者の行進に相応しい音色。強大なライバルに立ち向かい続ける彼女を、ある意味では象徴する曲なのかもしれない。
「ありがとう、ございました」
吉沢さんがゆっくりと頭を下げる。私は二人を見ながら、告げるべき事を言うために、口を開く。
「二人とも、よく頑張りました。――合格です。来年、北宇治の演奏を牽引してください。そして、自分に負けないように」
「「はい!」」
その返事は大きく確かだ。私は良い弟子を持った。つくづくそう思う。二年間めげずに負けずについてきてくれた二人には、私の方が感謝をしないといけないだろう。今後の教え子はこの二人が基準になってしまいそうだ。多分、もっと下方修正しないといけないだろう。それくらい、優秀な弟子二人だと思う。この二人に教えていた時間は私にとっても大切なモノであり、大きな学びを得た場所でもあり、誇れるモノだ。それは未来永劫、変わらないのだろう。
私は今、猛烈に緊張している。理由は簡単。私の目の前には自分の彼女の家の玄関ドアがあったからだ。私は今、傘木家の前にいる。
前々から一度ちゃんと話をした方が良いとは思っていた。高校生同士のカップルでそんな事しなくても、と言われるかもしれない。けれど私と一緒にいる以上彼女がどこかへ出かけることも多いだろう。友達ならいざ知らず、男と出かけているとあっては相手はどんな人柄なのかと心配するのが親心だと思う。なので、その不安を解消できればいいと思っている。
とは言え、私は世間的にはあくまでもまだ子供だ。どこまで信頼してもらえるかは分からない。けれど、信頼してもらえるように努力しないのにしてもらえるわけがない。それに私としては希美を育ててくれた人には当然感謝の念を持っている。希美を育ててくれなければ、私は彼女と今出会えてない。吹奏楽部に進むのを許してくれなければ、ここまで深い仲にはならなかったかもしれない。だからこそ、私は感謝しているし良好な関係を築きたいとは思っている。
だからと言って緊張しない訳ではないし、当然の如く私はガタガタだ。知らない大人と話すのは慣れている。だが今日のはただの知らない大人じゃない。インターホンを鳴らして希美が出たので、すぐにドアが開くはずだ。
「い、いらっしゃいませ~」
何と返したらいいのか分からないことを言いながら、希美はドアを開けてくれる。和風な家に住んでいるせいで洋風の家は珍しい気分になる。そもそも他人の家に来るのがかなり久しぶりなのでどこかワクワク感も存在していた。それを塗りつぶすくらい緊張感もあるのだが。
「お邪魔します」
丁寧に頭を下げて敷居をまたぐ。気分はさながら結婚報告に相手の実家へ向かう時の気分だ。将来的にそうできれば良いのだが、そうなるともう一回は最低でもこの感情を味わうのだろう。そう思うと結構大変そうに思えてくる。
「いらっしゃ~い。よく来てくれたわねぇ」
廊下の奥から優しそうな感じの女性が出てくる。どことなく希美の雰囲気がある。目元はよく似ていた。希美の顔と比較すると、他の部分はお父さん似なのかもしれない。
「これ、ご家族で召し上がって下さい」
「あらー、クリスマスと言い、わざわざありがとうねぇ」
渡した紙袋を受け取った希美のお母さんは笑いながら上がるように促してくれる。だが気は抜けない。気分は常在戦場。隣にマナー講師がいる気分で行動しないといけない。靴を揃えて、スリッパを履く。些細なミスをしないように細心の注意を払わなくてはいけない。
「あ、あのね、なんかお父さんが話あるって……」
「え、あ、うん」
「大丈夫? くるみ割り人形みたいになってるけど」
「そのたとえは斬新だね……。まぁ多分大丈夫。多分きっとメイビー」
「ダメじゃん」
「旅行の話したの?」
「うん。ダメだった?」
「あーいや、多分その方が話が早いかも」
「良かった」
「あと、四月からの話もしてみたんだけど……」
「反応は?」
「そうか、だけで……」
「なるほど……?」
こそこそ廊下の端っこで密談をしている二人。片方はこの家に住んでいるのに、なんだか泥棒に入っているみたいだった。私は完全にアウェーなので仕方ない。妹は抜群のコミュニケーションで彼氏宅訪問を済ませたらしい。見習いたいくらいだ。何でも、向こうの親に泣いて感謝されたらしい。なんだかよく分からなかったと困惑していたのを思い出す。
「頑張ってみます」
頑張れ~! 頑張れ~! と小さい声で応援している希美に見送られ、居間に入った。失礼します、と言って入れば、明らかに私用と思しきお茶がテーブルに置かれている。そしてその反対に初老の男性。その人が希美のお父さんであるとはすぐわかる。というか他にいない。凛とした時の希美の顔に似ている。今は皺が少し刻まれているけれど、若い頃は結構なイケメンだったのだろう。希美の顔の大部分はここから来ているように思える。グレーの髪は綺麗にセットされていて、真面目さを感じさせた。
「どうぞ、座って」
「ありがとうございます」
勧められるまでは席に座ってはいけないものだ。丁寧な雰囲気でお父さんは接してくれている。いきなりざっくばらんに来られても逆に困ったので別にそれは良いし、むしろありがたい。
「君が、希美の彼氏かね」
「はい。希美さんとお付き合いさせていただいています。桜地凛音と申します。本日はお招きいただきありがとうございます」
着席するなりいきなり本題をぶつけられたので面食らったが、覚悟を決めて答えることにした。もうなるようにしかならない。希美は二階へ行くように言われていたし、お母さんは味方でも無いけど敵でも無いポジションを貫くようだ。つまり、私は一人でこの重圧と戦わないといけない。
「いつから?」
「昨年の夏頃からです」
「そうか……。では、君が希美を音大へ行くように焚きつけたのかね?」
「お言葉ですが、希美さんは自分の意思で進路を選ばれました。確かに私がその背中を押した部分があります。そしてその責任として、希美さんが大学へ合格できるように精一杯サポートしてきたつもりです。しかし最終的に行くと決めたのは希美さん自身であり、私の意思や望みによるものではありません。希美さんが、自分自身で苦悩し、考え、悩んだ末に出した答えです。希美さんは焚きつけられたのではありません。自分で、その意志で歩み出したのです」
ここはしっかりさせておきたいところだった。彼女が進路を決めたのをまるで私がどうこうしたみたいに思われては困る。それは彼女にとって良くない。確かにアドバイスはした。けれど、悩んで迷って苦悩して最終的に選んだのは彼女自身だ。それは尊敬すべきところだし、誰かのせいなどと思われてはいけないところだと思っている。
「すまない。試すようなことを言ってしまった。君が希美の将来を考えてくれているのはよく伝わった」
「こちらこそ、失礼な物言いになってしまいました」
「私はむしろ本心では感謝しているんだ。私はあまり家庭に積極的な父親ではなかった。けれど無関心でいるつもりもない。なので希美は一時期落ち込んでいたのは知っていた。けれど、丁度二年生の秋くらいからまた部活に戻ってという話を聞いた。その後も君の話は散々食卓で聞かされていた。だから分かっていたんだ。君が、希美を助けてくれたのだとね」
「そんな……私は大したことは」
「君にとってはそうかもしれないが、私にしてみれば大事な一人娘の青春を輝かせてくれた存在だ。ありがとう。娘を助けてくれて」
「私の方こそ、希美さんには何度も救われました」
私はかいつまんで中学の頃の話をする。友人と両親の死に塞ぎ込んでいた私。それを助けてくれたのは彼女だった。同時に家に籠っていた妹を光の当たる場所に連れ戻して、生きる希望を与えてくれた。彼女が話しかけ、前を向かせてくれたからこそ、今の私がある。もしあそこで出会わなければ、もっと私は違う人間になっていただろう。
「そんな事があったのか……」
「私も妹も、いつも希美さんの明るさに救われてきました。私の方こそお礼をしたいくらいです」
「君が誠実な人間なのは理解した」
「ありがとうございます」
「とは言え、それで娘を任せられるかと言えば別問題だ。娘には幸せになって欲しい。当然、幸せにしてくれる存在と結ばれて欲しい。誠実なのは大事だがそれ以外にも大事な事は多い。高校生の恋愛でここまでするのは過保護かもしれないが……」
「いえ、大事なことだと思います。私にも妹がいますが、彼女の恋人には今仰られたことと同じようなものを要求してしまうでしょうから。それに、私は希美さんとただの高校生の一時期付き合っていただけの存在で終わる気はありません。最終的に希美さんをもらい受けたいと思っていますので」
「……そうか。であれば、私の発言は間違っていなかったようだ」
いずれしないといけない話ならば早くにしてしまった方が良いだろう。私は少なくともそう思っている。
「君のおかげもあって希美は春から志望校に通えるわけだが、君はどうするのかい?」
「私は次年度、つまり今年の4月より楽団に正式契約をいただいています。よって春からはそこの所属メンバ―としてコンサート等で演奏をすることとなります。なお、大学は既に卒業しておりますのでご安心ください。一応こちらが証拠となります」
「そ、そうか……」
私が提示したのは卒業証明書。どこの学校でもこの手の書類は存在している。尤も、日本語では書かれていないけれど。ここからは私についてのプレゼンをしないといけない。私の人柄についてはある程度安心を得られたようなので、向こうが欲しているのはそれ以外のものだろう。確かに音楽系は不安定な職業と見られがちだし、実際にそうだ。なのでその不安を解消できるように経済的に問題ないことをアピールする。一応これでも家事は出来るつもりだし、女性は専業主婦じゃないとダメなどと時代錯誤の意見を言うつもりは毛頭ない。介護問題も関係ないし、親族で疾患を抱えた人もいない。超現実的ではあるが、そういうのが好みの人だと聞いている。
「……分かった分かった」
彼は私の話を遮るようにして言った。そしてしばらく虚空を眺めている。その後、決意したように私の方を向いた。
「希美をよろしくお願いします」
「はい。勿論です」
私は深く頷く。法律上、成人してしまえばその後の恋愛は確かに自由だ。けれど、出来る限り家族関係が良好な方が良いに決まっている。もし子供が出来たときに、祖父母がいる方が良い事もある。父方、つまり私の両親はいないので、必然的に傘木家の二人がそうなるのだろう。希美にも愛か親かなどという苦しい選択をさせたくない。つまり、私と彼女の実家が良好な関係なのは大変に良いことだったし必要なことなのだ。
「どこかへ旅行へ行きたいと言っていたと記憶しているが」
「はい」
「……好きにすると良いと思う。ただし、責任の取れないようなことはしないでくれるかね?」
「肝に銘じます」
「ではまぁ、楽しんできなさい」
「ありがとうございます」
私も深く頭を下げた。お父さんは困ったような顔で笑っていた。どういう顔をしたらいいのか分からなかったのだと聞いたのは、大分後の話になる。
その後は「もう話終わった? 良いでしょ?」と言っている希美に二階へと引っ張られ、旅行計画を立てることになる。その時の私は何とか無事に終わった安堵感で半分抜け殻みたいになっていた。一応話した内容は覚えているが、詳しくどんな話をしたのかはいまいち思い出せない上にどうやって家に帰ったかも記憶が曖昧なほどに。自分でも気づかない部分で相当緊張していたらしい。
私の過去の記憶上、コンサートとかでもここまでになった事は無いのでよっぽどだったんだと思う。記憶が正しければ、ご飯食べて行けば? というお母さんの誘いを、自宅で待っているの家族がいるという理由で丁重にお断りして帰宅できた、はずだ。家で待っていた二人はフラフラッと帰ってきた私を若干心配そうにしていたが、何とかうまく行ったと伝えると安心した顔をしていた。
ともあれ、これで少しは良好な関係になれたと思う。まだその土台を作っている最中だが、最終的には確実な信頼を得られるようにしていきたい。カレンダーに予定を書き込みながらそう思う。三月のところには、新しく城崎の文字が追加されていた。
凛音が帰った後、お母さんはずっと上機嫌だった。心情としてはアイドルに会った気分なのかもしれない。お父さんはずっと何とも言えない顔をしている。怒っているでも無く、笑っているでも無い。けれど別に不機嫌ではなさそうなので、特に何もしない事にした。そうしていたら、夕食後に呼ばれた。向かい合って座っている。まるで昼間の二人みたいだった。今度は凛音の席に私が座っている。
「希美」
「うん」
「まぁ、なんだ……凄いの捕まえてきたな」
「そんな釣りみたいな……でもまぁ、確かにそうだけど」
それに関しては本当にそう思う。私には勿体ないような気がする。だからと言って誰かほかの人にあげる気なんてものは全くないけれど。相手と釣り合わないかどうかはまだ分からない。現状特にそんな事を言われた事は無いけれど、もしかしたら今後そういう風に言われてしまうかも。でもそれは仕方ないことと諦めないで、私も努力しないといけない。
「私も昔、少し音楽をやっていた」
「そうなの?」
知らない話だった。お母さんは知っていたのだろうか。
「昔のバンドブームの中でな。大学の頃にやっていたんだ。ライブハウスで演奏したりもした。だが、幸か不幸か才能が無かった。でもみんないつか売れると信じてた。お客さんなんか禄にいないのに。で、ある日気付いてしまったんだ。本当にこれで良いのかって。もしこのまま続けていても何にもならないんじゃないかって。現にその時自分の手元に残ったのは殆ど使い果たした仕送りと、留年しかかっている現状だけだった。それで辞めた。それからは真面目に勉強しなおして、就職も何とかして今に至っている」
「そう、だったんだ」
「だからよく希美には真面目に勉強しろと言っていた。この理由は前にも言ったけれど、その後ろにはこういう自分の過去があった。そして希美がフルートをやりたいと言った時、血は争えないと思ったな。音楽へと惹かれていくんだなと」
フルートに出会って、それをやりたいと言った時お父さんは少しだけ驚いた顔をしていたような気がする。今更ながらに思い出した。あの時の顔は、そういう感情があったのだと思うと、少し変な気分になる。
「結果的に全国大会まで出場することになったし大学もそっち系に進むことになるとは思わなかったが……。それで考えたんだ。お父さんと希美の差は何だったかって。私は確かに音楽をやっていた。けれど、その動機はかなり不純だったし、音楽は手段だった。音楽を愛しているんじゃなくて、音楽をしている自分が好きで、道具としか見ていなかった。だがきっと希美は違ったんだろうと思う」
私の方を見ながらお父さんは語る。普段とは違う姿に私は少し面食らっていた。少し感傷的になっているのかもと思う。私はまだ、嫁に行くわけじゃないんだけれど。そう考えながらも、その姿からは目を逸らせなかった。
「音楽を愛していない奴を、音楽が愛してくれるわけもない。そんな単純なことに、あの時は気付けなかった」
音楽を愛する。凄く抽象的だけれど、凄くしっくりくる言葉だった。
「すまないな。なんだか私の自分語りみたいになってしまった」
「全然良いけど」
「つまり何が言いたいかというとだな……」
お父さんは言葉を詰まらせる。何かいい言葉を探しているようだった。けれどすぐにその言葉は見つかったようで、私を見据える。いつの間にか、皺も増えていたし髪色も随分とグレーになっていた。もっと若く見えていたけれど、気付かないうちにお父さんは年を取っていた。
「幸せになりなさい。彼なら、きっとそうしてくれるだろう。夢も恋も、どっちも叶えて幸せになりなさい。私も母さんもそれを応援しよう。向こうが良いのなら、春からは居を移しても構わない」
「ありがとう。ありがとう……!」
私も最後の方は何だか涙声になってしまった。それでもしっかり伝えたかった。私を育てて、支えてくれた存在に、感謝を。お母さんは黙って優しい目つきでそれを見守っていた。何だか本当に結婚式の前の挨拶みたいになってしまったけれど、私はこれで良いと思う。家族は何よりも私にとっては大事なものなのだから。
卒業式はもうすぐに迫っている。これからの期間なんてあっという間だろう。卒業旅行もある。イベントで盛りだくさんだ。けれど、卒業式はやっぱりその中でも大きい。私はその日、泣かずにいられる自信が今から無かった。