卒部会というものがある。卒業生を祝う会であり、全体で行う三年生を送る会とはまた別物。吹奏楽部内だけで行う内輪の会である。三年生全員が参加できる日を見計らって行われており、その日程はその代の三年生によって異なる。今年は私が海外にいたりと色々あったため、二月の終盤にずれ込むこととなった。
去年は見送る側だった会に、見送られる側として参加するのは些か変な気分であり、時間の経過を感じさせられる。大分しっかり頑張ったと聞いている。自分たちの門出のために時間を割いてくれるのは嬉しいことだ。
「卒業生の入場でーす!」
華やかな掛け声と共に扉が開かれる。大きな拍手の中、私たちは迎え入れられる。笑いながら応えてあげるのが私たち卒業生に出来るお礼だと思う。なので、楽しく朗らかに笑いかけて応えた。思い思いに手を振ったりしながら、私たちは席に着く。
和やかに会は進んでいく。笑いあり、涙ありだ。それはまるで、私たちのこれまでを象徴しているようでもある。ビンゴ大会はみぞれが一番最初の景品を獲得していた。こういう時に強運なのが強い。逆に優子は惜しいところで外れまくり、夏紀に煽られる。いつもの風景だ。希美は良い感じに貰っていた。私は優子と同じ外れ組。ドヤ顔の希美に肩をすくめて返すしかなかった。
そしてお待ちかねはスライドショー。部屋のカーテンが閉められ、プロジェクターで映像が映し出される。音楽が卒業ソングなせいで臨場感が誘われる。悲しくもあり、懐かしくもある。この気持ちを、去年の先輩方は抱いたのだろう。そして、来年は今の二年生たちが抱く。そうやって色々な物は受け継がれていくはずだ。想いも、願いも。
合宿で寝ぼけている優子の映像。しっかり者と思われている部長の秘蔵映像に、後輩からは驚く声も聞こえる。夏紀がギターを構えている映像では嬌声が飛ぶ。みぞれの時はダブルリードの後輩たちが声を上げていた。他にも多くの映像が流されていく。その都度おぉ! っとなったり、あったなぁ~という声が響いた。
私の映像もバッチリ取られており、どこから採取されたのか希美とのツーショットがぶち込まれている。妹が今朝ニヤニヤしていた理由が分かった。映像編集をしたのは彼女なので、この画像を使うことも決まっていたのだろう。場所は関西大会の会場。確かに全国進出出来た嬉しさで溢れていた記憶がある。その時に勢いで撮った写真だ。二人で横ピースをしながら写っているややパリピ感のある写真に、希美は真っ赤になっている。
更に映像は進んでいく。幹部陣はやはり写真の数も多い。優子と夏紀や希美とみぞれはセットの写真も多かった。私は後輩と写っているものが多い。そんなに撮ったかなぁと思うものもある。合間合間に挟まれる録画では、意外な一面も多く撮影されていた。
後輩につられて謎の挙動をするみぞれ。ポテチでアヒルの口になっている希美。可愛いかよ。他の生徒に可愛さがバレるからやめて欲しいという気持ちが半分、そしてもっとほかにも知れ渡れという気持ちが半分。何とも矛盾した感情を抱いてしまう。私は男子で親睦を深める目的で行ったカラオケの映像がバッチリ映されてる。ノリノリでアイドルソングを歌うんじゃなかったと反省した。希美に小突かれ、ニヤッとした顔で見られる。恥ずかしい。
会の目玉としては三年生による後輩へ向けた演奏がある。今年の三年生は色々あったせいで人数が少ないが、それでも最低限の楽器の人数はいる。これならば普通に演奏は出来るのだ。指揮台に立ち、棒を取る。後輩たちの拍手を受けながら、指揮棒を振り下ろした。
軽快な音楽が奏でられる。どこか明るく前向きになれるような曲調。曲名は『吹奏楽のための「エール・マーチ」』。マーチなので躍動感はひとしおだ。吹奏楽のための、とあるように吹奏楽で吹くことを前提に作られている曲。まさに私たちにぴったりの曲に思えた。選曲した理由はそこにある。明るく前向きで、かつ我々らしい感じを。そう思って選んだ。
マネージャーの加部はトランペットを吹けないので、打楽器系統に何かないかと探して渡してある。思った以上にはまっていたので良しとしよう。彼女もこの一年間頑張ってくれた。私も、幾度となく助けられたと思っている。その恩を返すべく、この前のテレビ取材にかこつけてサプライズしたのだが、正直それだけでは足りないとは思っている。
この部活で三年間過ごした者にはそれゆえの想いが。途中で戻ってきた私と希美にもそれぞれの想いがある。それをこの曲に乗せて奏でる。色々な事があったけれど、それでも私たちは幸せであったし努力してきてよかった。そういう風に三年生は皆思っている。それを後輩に伝えるために。
最後のメロディを奏で終えて棒を降ろす。いい演奏だった。腕前は落ちていない。このメンバーで来年も挑めれば、絶対金賞は取れるはずだ。そういう風にすら思える。何が足りなかったのか。それは私でも分からない。けれどもし可能性としてあるならば、一年生の時。あの時を無駄にしていなければ。今でも時々そう思ってしまう。それくらい、彼らは上達していた。
喝采が鳴り響く中、私は後輩に一礼した。私たちにもう一年は無い。その分を君たちに託すという思いを込めて。
「先輩たちが私たちにくれたものは、言葉では表せないくらいに大きく、そして大事な物です。私たちはそれを決して忘れることなく、来年以降の北宇治を作っていきたいと思います。そして、来年の秋、先輩たちが私たちを誇りに思ってくれるような演奏と共に、全国大会金賞を必ず持ち帰ってきます」
黄前さんの勇ましい言葉に、拍手が起こる。どこまでやれるかは未知数だ。高坂さんは大分鍛えられた。ドラムメジャーとしても頑張ってくれるだろうし、成果も出してくれるだろう。とは言え、苦手な人間関係に関しては一朝一夕でどうにかなるものではない。故に、黄前さんや塚本君、吉沢さんのフォローが必須になってくる。
これまでとは違い責任ある立場で動くことでの戸惑いや苦労も黄前さんにはあるだろう。彼女のヒアリング能力は高いと思っているが、立場が変わればまた変わってしまうものもある。それでも個性を捨てずに行って欲しいとは思っている。彼女には彼女の良いところがあるのだろうし。
塚本君は優しいところがある。それは良いことでもあり、悪いことにもなってしまう。けれど、引き締める役である高坂さんがいれば、それは良い方向に働くのではないか。無論、高坂さんに悪役をやらせる気はない。ただ、バランス面を考えた際に塚本君は必要だと判断した。来年はこの三人が部を回していくだろう。
現在の一年生も多分大丈夫だ。久石さんは人間関係は得意だし、剣崎さんとのコンビも悪くない。ウチの妹も良くやっている。鈴木美玲さんもいるし、妹が大変になることもないだろう。あそこも最近仲良くしているようだ。来年の一年がどんな子なのかは分からないけれど、よっぽど変なのがいない限りは上手くやれるはずと思う。
「私たちの決意を込めて、先輩方に曲を送ります。それでは聞いて下さい」
黄前さんは一礼して、席に着く。壇上で指揮をするのは松本先生がやっていた。確かに、去年は私や希美など指揮が出来る存在がいた。もちろん今年もいるけれど、例えばウチの妹は希美の代役をしないといけないし、他の生徒も抜けたところを埋めるために出来ない。なので先生にお願いしたのだと思う。
曲は予想通りリズと青い鳥。希美とみぞれというトップエースが抜けたのが大丈夫だろうかと思って聞いていたが、全くとは言わないもののほとんど問題は感じられない。私が思っているよりもずっと、彼らは成長している。そしてこれからもまだまだ伸びていくだろう。
希美みぞれのコンビが演奏していた時とはまた違ったテイストで第三楽章は送られる。剣崎さんとウチの妹がソロをやっていた。割としっとりしていた本番と違い、どこかのんびりとしていて別れもそこまで深刻じゃない、また会えるよね~くらいの感じがする。私はそれでも良いと思っている。あの二人で相談して、こういう感じで行こうと決めたのならば、その解釈もまた正解だ。
揉めたところ、注意しまくったところ。それを皆しっかりと吹いている。これならば安心。そう私たちに思わせるかのように、しっかりと確かにその音は響いていた。トランペットソロはどんどん磨きがかかっている。いつ追い抜かされるか戦々恐々としないといけない時期が来たようだ。私もうかうかとはしていられない。
きっとこれは私たちの一年の象徴。ここでの努力はこの曲を聞けば思い出せるはずだ。人生の長い時間の中では刹那の煌めきかもしれない。けれど、心に永遠に残り続けるならば、その存在はきっととても大きく素晴らしいものであるはずなのだから。
渾身のフィナーレを聞き終え、演奏が終わる。万感の思いを込めて私は手を叩いた。
大盛り上がりだった会も終幕の時を迎える。別に詳しい式次第がある訳ではないが、去年の流れだと現役生の演奏の後は終了だったはずだ。名残惜しい時間もこれまでか……と思っていると、どうも終わる気配はない。優子と黄前さんが何やら話をしていた。まだ何か出し物があるらしい。そう思って座っていると、周りの三年生が移動を始めた。私だけ何も知らされていないのだが? と思い困惑した。
「え、何、なんかあるの?」
「良いから良いから、座ってて」
希美に言われ、これ以上追及するわけにもいかず、どうしたもんかと思う。三年生と在校生はそのまま普段の全体での合奏体形になった。私は事態がいまいち呑み込めていない。観客席には、先生二人と私だけが取り残された。壇上では希美が指揮をするらしい。棒を持って、楽譜をめくっている。その前に黄前さんが立った。私と先生は既に三年生によって席を移動させられ、観客席の中心に座らされている。
「これまで私たちを指導してくださった先生方に向け、ここで在校生と三年生から改めて感謝の意を込め、演奏したく思います!」
黄前さんが一礼して、席に着く。良く分からないが、私たち三人に感謝してくれるらしい。それはありがたいことだと思い、拍手をした。希美が演奏者たちに向かって軽く頷き、棒が振り下ろされる。
途端にけたたましい音を立てて、トランペットが鳴り響く。それに続くように幾つもの音が連鎖して轟く。軽快で、勇ましい。そんな音楽。私は唖然とした顔でそれを眺めるしかなかった。私の耳に届く音楽。それは、私たちの物語の始まりであった去年を彩った曲。私たちのスタートソング。三日月の舞だった。
春には初心者だった子も、そうでなかった子も。大会メンバーもそうじゃない人も。今は一丸となってこの曲を奏でている。三年生も、在校生もまるで一つの存在のように一体感を出しながら、それでいて個を潰さない演奏をしていた。去年聞いたときも十分上手いと思っていた。演奏会でもたまに演奏していた。それでも、その時よりもずっと上手に聞こえた。場の力などではない。これは実力。そう思わされる。
ソロパートでは高坂さんが華麗に音を奏でている。堂々と、それでいて繊細に。オーディションのいざこざなど遠い昔のようで、それでもまだどこか近くにあるようで。あの時の痛みも、きっと今の自分を作っているのだろう。
音楽はクライマックスを迎える。極限まで高まった音は絞りきった最後の一絞りの一滴を垂らすようにクレッシェンド。そして指揮棒はピタリと止まる。一瞬の静寂が音楽室を包む。回を重ねるごとに上手くなっている。これならば、審査員も黙って金賞を差し出すだろう。昨年度の悔しさを思い出す。あの時、名古屋で誓った。必ず来年は金を取ると。それは果たせなかった。それでも、彼らにはきっと、意味のあるものが残った。
演奏を終えた満足そうな顔を見ていれば分かる。彼らはきっと努力に見合うものを自分で見つけて、そして音楽を楽しんでいた。だからきっと来年は大丈夫。彼らは楽しむ音楽を知っている。努力にはきっと意味があるのだと知っている。松本先生は号泣していた。滝先生も嬉しそうにしている。私は、拍手するしかできない。それ以外に、ここでするべき事を知らなかった。
良いものを聞かせてもらった。最後は優子が在校生に言葉を送って終わる。演奏体形は崩され、また三年生がさっきまでの席に戻ってくる。けれど希美とみぞれと夏紀は戻らず、壁際で優子の話を聞こうとしていた。在校生も楽器を隅に片付けて、椅子を詰めて話を聞く体制を作っている。黒板側の音楽室前方に在校生、後ろ側が三年生だ。優子は側面の壁の前に立っている。さっきまでは対面だったが、今は皆優子の方へ椅子を向けていた。私はその両陣営の丁度真ん中にいて、なおかつ優子の真ん前である。先生方は優子と反対側の壁際に寄っている。松本先生はまだティッシュを使っていた。
「今日は、私たち三年生のためにありがとうございました。私たちの三年間は色々あったけど……今日こうして皆さんに祝って貰えるだけで、全てが報われた気持ちになります。これから苦しい事、辛いことはきっと沢山あるでしょう。でも、諦めないで下さい。きっと進む先に道はあるはずです。私は、この部活で皆さんの部長でよかったと、心から思っています。一年間ありがとう。そして、胸を張って次の曲を奏でて下さい。私たちは、いつでも頑張る皆さんの味方です!」
後輩の中には涙を流している者もいる。これじゃあ卒業式はどうなってしまうんだと思いながらも、気持ちは分かった。それほど、優子という部長はこの部の柱だったのだ。その存在感が大きければ大きいほど、喪失感もまた、大きくなる。
「最後に、私たちにはしっかりと感謝を伝えるべき人がいます。在校生も、三年生も、学年に関係なくこれは言わないといけない筈です。少なくとも、私たちはそう信じています。その人は、私たちを支えてくれました。私たちは頑張れば大会に出れる。けれど、その人はそうでは無かった。私たちの成長がやりがいだったと彼は言いました。でも彼は奏者です。誰よりも出たかったはずです。でも私たちの前でそんな事は絶対に言わず、時に優しく、時に厳しく、私たちを指導してくれた。音楽のことも、それ以外のことも。誰よりも私たちの味方でいてくれた。この場にいる全部員を代表して、お礼を言います。桜地凛音君へ、ありがとうございました!」
「「「ありがとうございました!」」」
急に響き渡るお礼の言葉。私はどう返したらいいのか分からずにいた。在校生からはこの前貰った感謝の言葉。そして今もう一度、私はそれを受け取っている。今度は三年生からも。滝先生もお礼の時に言葉を合わせていた。私はどうもありがとう、と言うのでもなく、どういたしましてと言うのでもなく、ただ座るしかできなかった。私の中を色んな感情が駆け巡っている。そしてその処理が出来無いからだ。
言葉に詰まっている私を見て、優子は微かに笑った。そして、次の言葉を発する。
「前から自分への感謝を示されるのが苦手な彼に、特にお世話になった私たち四人からお礼を込めて、歌を送ります。聞いて下さい!」
どこに隠していたのか、私以外の今年度の幹部四人がマイクを取り出す。待機していたであろう加部がバックミュージックを流し始めた。背景の音を聞いて、すぐにこれが北宇治吹奏楽部の音であることに気付く。私の知らないところで練習して、録音していたらしい。生演奏じゃないのは声が隠れてしまうからだろう。
優子と夏紀は卒業後にバンド演奏するそうだし、希美も人前で歌うのは苦手じゃない。みぞれがやってくれるのが意外だったけれど、彼女なりに勇気を振り絞ってくれるくらいには私に感謝してくれていたのか。そう思うと、全部報われる気がする。優子の言っている気持ちが完全に理解できたように感じた。
金管の低い音が奏でられ、その後にフルートや他の楽器が続く。在校生も三年生も混じっての収録音だろう。これくらいは聞けばわかる。優子がマイクを顔に近付けて、歌い始めた。
「割り切れない想いを 言葉に変えてきた」
優子の良く通る特徴的な声が響く。楽しそうに、弾むように。彼女の持ち前の精神性を表すような歌声。
「無謀だと笑われた 何度も」
みぞれの静かな声が続く。大人しいけれど透き通るような声。優しさと冷たいようで温かい雰囲気。普段はあまり人の目を見ない彼女が、しっかりと私の目を見ていることが嬉しかった。
「毎日が冒険で 青春で」
希美のハキハキとした声。溌溂としていて、皆を前に引っ張ってくれるような雰囲気。持ち前の明るさが前面に出ている。確かに、彼女からすれば毎日は青春だっただろう。いや、他の誰でもきっとそうかもしれない。その青春の中に私がいれたことが、そして彼女の青春の象徴の一つになれたであろうことが嬉しかった。私にとっても彼女は中三のわずかな期間と、そしてこれまでの三年間すべての象徴であったから。彼女と過ごしたここでの日々は、私の中で宝石のようにずっと輝くだろう。これから二人で進む時間がどれほどでも、きっと色あせはしない
「新しい音と出会っては 磨いてるよ」
夏紀のしっかりした声がする。彼女は表で何かをするタイプではどっちかと言うと無かった。それは優子や希美の領分。けれど、彼女はその歌声のようにしっかりと支えてくれる存在だった。彼女がいたからこそ、優子は上手くやれた。彼女がいたからこそ、希美はここに戻れた。私と希美は感謝してもしきれないだろう。
「本気でやったからこそ」
「怖い瞬間もあるけど」
「届けたい」
「伸ばしたい」
「奏でたい」
「叶えたい」
『もう一度息を吹き込む 明日へと』
四人の声が合わさり、一つのハーモニーが出来上がる。彼女たちはみんな違う個性を持っている。それだからこそ、きっとこの部活はうまく回っていた。どれか一つ欠けてもダメだった。代替品などいない。彼女たちは唯一無二であり、だからこそ私は彼女たちを尊敬するのだ。
『タクトに導かれてここまで来たよ あなたと来たんだ』
「あなた」の部分で私を指すように四人が私の方へ手を伸ばす。
「奏でているのは」
「人生だ」
「響くのは」
「感情だ」
『ずっと忘れないからね! 光る音が涙を照らしてくれる 辛いことばかりじゃない だって いつも いつも 楽しかった そうでしょう?』
楽しかったの辺りで涙腺が決壊した。我ながら随分と涙もろくなった気がする。いや、もっと前からそうだったのかもしれない。大学時代は結構泣いていたような気もする。色んな悲しい事が積み重なって、悲しんでいる妹と一緒に泣いている訳にもいかなくて、それであんまり泣けないでいた。弱い自分を妹に見せないようにしていた。
けれど、この部に呼び戻されてからはそんな事も無くなったような気がする。素直に泣けるようになった。これもこの部のおかげかもしれない。私も、確かにここで成長出来ていた。そしてその何倍も彼女たちは前に進んでいる。その姿はとても眩しく見える。
『ヴィヴァーチェ! 歌え 五線の上で』
『ヴィヴァーチェ! 響け ずっと』
『ヴィヴァーチェ! 歌え いまの声で』
『ヴィヴァーチェ! 響け 遠くの春に』
歌が奏でられる。旋律は二番へ突入している。耳でそれを聞きながら、私の目からは次々と涙の粒が零れていた。
『夢があるって素晴らしさを知ったんだ 例えば違う空に旅立とうとも ずっと繋がってる』
「今日という日まで」
「頑張れた」
「明日もさ」
「頑張れる」
『あなたが教えてくれた! かすれた景色に涙が溶けていく 背中に笑顔を送る だって きっと きっとまた会える そうでしょう?』
歌声が私の頭の中に響いていく。私の青春を輝かせていた存在が、それぞれの個性を合わせながら一つの大きな個性を放ってくれていた。どんな歌声よりも、綺麗に聞こえる。どんな歌声よりも、心に響く。私にとって最高の瞬間だった。二年間やってきてよかったと、心の底から思う。
『おんなじ夢の中を歩いていた ここが青春だよ』
「奇跡は何度も」
「見てきたよ」
「逃しては」
「起こしたよ」
『新しい空が待っているんだ 行こう!』
この軽快なトランペットは高坂さんと優子の連携技。喧嘩ばかりしていた二人の息の合った演奏が背後に流れていて、私の感動を刺激する。
『タクトに導かれてここまで来たよ あなたと来たんだ』
「いつも悔しくて」
「悔しくて」
「幸せで」
「幸せで」
『ずっと色あせないから 光る音が涙を照らしてくれる 辛いことばかりじゃない だっていつも いつも楽しかった』
最後に四人は私をもう一度しっかり見据えてメッセージを告げる
『ありがとう!』
嗚咽を漏らしながら泣くしかできない。対面もカッコよさもどうでもいい。私の中の感情が、ここで泣かないという選択肢を取らせてくれいない。私の理性はもうとっくに職務を放棄して拍手を奏でている。褒めることも、感動を叫ぶことも出来ず、泣くしかない私の前で華麗な演奏は続く。
『ヴィヴァーチェ! 歌え 五線の上で』
『ヴィヴァーチェ! 響け ずっと』
『ヴィヴァーチェ! 歌え いまの声で』
『ヴィヴァーチェ! 響け 遠くの春に』
荒い息を漏らしながらも笑顔の四人を前に、私はただただ泣くしかなかった。
号泣しまくりだった卒部会の次の日は、希美の発案で優子と夏紀のバンド幕を作る日だった。元々急に設定されたので、それは何とも希美らしいと思った記憶がある。あの後色々大変だった。特に、家に帰った後が。妹はメッチャ泣いてたねぇとからかい半分の口調で言ってくる。一年生の間でも
私だって人間だ。後輩の前ではあんまり見せないようにしていたが、普通に泣くことはある。しんどい時とかは涙が出ることもあるが、いつも隠していた。その結果、私の中にある感情は喜怒楽の三つだけだと思われていたみたいである。普通に哀もあるんだけどな、と心中でつぶやいてしまう。
約束の時間は午後一時。けれど私だけは違う。お昼ごはんも兼ねてペンキを買いに行くのだ! と希美から連絡を受けていたので、汚れてもいい服を着て集合時間の午前11時の30分前に集合場所に到着する。まだいないだろうと思っていたけれど、普通に待っていた。早過ぎ、と自分を棚に上げて思いつつ、声をかける。
「待たせちゃった?」
「全然時間前だから問題なし! 早いね」
「いや、これでも30分前には着いていようと思ったんだよ。希美を一人で待たせてると良からぬ輩が声をかけてきそうだし」
「輩って」
「人の彼女に手出そうとする奴なんて輩で十分。で、今日は荷物持ちでOK?」
「ゴメンだけど、お願いします!」
彼女は顔の前で手を合わせつつ、あんまり悪いと思ってなさそうな顔で言う。まぁ元々そのつもりだし、荷物持ちも悪くないと思っている人間だ。もちろん、他の奴の荷物持ちはごめんだし、妹とかでもちょっと遠慮したい感じはあるが、希美ならまぁいいやと思ってしまう。甘いなぁとか考えるが、改善する気は無かった。
お昼はその辺のファストフードで良いだろうという話になり、チャチャっと混む前に食べてしまう。そしてペンキを売っている激安の殿堂でああでもないこうでもないと話ながら選んでいた。優子と夏紀のバンド名は「さよならアントワープブルー」という名前に決まったらしい。私も聞いたことある最近売り出し中のバンド「アントワープブルー」のデビュー曲だった。
青一色に塗るだけなら簡単だし様になるだろうというアイデアだった。私もそれで良いと思う。業者発注では無いのでそんなに複雑なデザインにはできないだろうから、敢えて一色の方が目立つだろう。
「昨日メッチャ泣いてたね」
「うっ、またその話か……」
「涼音ちゃんに言われた?」
「耳にタコが出来るくらいには」
「でもそれくらい感動してくれたんだよね」
「あそこで泣かない奴は人間じゃないだろってくらいには」
「おおう大絶賛。練習した甲斐があったなぁ」
駅前で残りの面子を待っているときにこんな話をした。練習時の話など、私の知らなかったことを話してくれる。最近やけに四人で出かけていると思ったら、練習していたらしい。カラオケなどで頑張ってたそうだ。みんな歌はへたくそじゃなかったから助かった、と希美は笑いながら言う。
「今度優子の引っ越し作業があるみたいで」
「あぁ、そうなの? トラック出させようか?」
「それは予約してるらしいんだけど、家具とか助けて欲しいって。あと家電」
「了解。良さげなのを見繕っておく」
家電をどうするかは結構大事な問題だ。ライフスタイルに関わる部分だし、そういうところで貯めた小さなストレスが回りまわって自分に返って来ることもある。
「希美のお父さん許可くれたんだよね?」
「うん。そっちが良いならって」
希美の桜地邸居候計画は順調に進んでいた。元々ベッドや机は備え付けてある。あとは上に乗っける敷布団とか枕、服に小物なんかを運ぶだけになっていた。既に涼音と雫さんに挨拶は済ませている。いつでも引っ越せる状態になっていた。食費の話や光熱費はこっちで負担する話など、全部傘木家の方と話はつけている。万事問題ない状態だろう。私が向こうに旅立つのと入れ替わりで、彼女はこっちの家にやって来る手筈になっていた。
「改めてよろしくお願いします」
「はい、いらっしゃい。たまーにうちの婆さんが突撃してくるかもしれないけど、適当に流しておいて」
「もう、そんな言い方したらダメだよ」
「はいはい」
そうこうしていると、待ち合わせの10分以上前にみぞれが来た。すんごいダサいセーターを着ている。顔だけの猫が目からビームを出してビルを破壊しているイラスト。しかも深緑色。「ゴゴゴゴゴゴゴ」という印字された効果音もダサい。こんなものを持っていること自体が驚きだった。
「それ、どうした……?」
「お母さんがこれ着なさいって」
「……君のお母さんは何を考えてこれを?」
「分からないけど……お父さんのかも」
「あぁ、なるほど」
みぞれの服は普段お母さんが選んでいると聞いている。たまに見る私服は普通に似合っているので、流石にみぞれ母のセンスがおかしいとは思えなかった。なのでまぁ、お父さんのなら納得できるところはある。それにしたっておかしいけれど。
みぞれの衣装に困惑していると、残りの二人も相次いでやって来た。優子も夏紀も黒っぽいトレーナーを着ている。髪はひとまとめにされていた。髪をペンキで汚すと大変なので賢明だろう。荷物持ちを揶揄われたり、昨日のことを揶揄われたりと私はいじられっぱなしだ。時折すれ違う青年たちが彼女らの顔をチラチラ眺め、その横でペンキ缶を持っている私を不審者のように見ていた。中には嫉妬心のような顔をしている者も。確かに彼女らは整った見た目をしている。ダサい服やラフな服でも素材が良いと似合って見える。それはそうと、一番は希美だろうけど。
到着した場所は河原だった。人気のない堤防。コンクリートの川岸に広場のような部分がある。ブルーシートは文化祭で使ったものを拝借している。シートを敷いている間、私は缶を開けていた。中々力が必要な作業なので、男である私がやるのが自然だろうと思って動く。開けたペンキ缶の中には、青い色が渦巻いている。
自分たちのバンドの準備なのだし、自分たちでやった方が良いだろうと、塗る役目は夏紀たちに任せる。それに、そんなに大きな布でも無いのだから何人もいたら邪魔だろう。後、私は代金&荷物持ち。十分仕事は果たしているつもりだ。純白の布の上に、解き放たれた青が上書きされていく。缶の中にいた時よりもずっと鮮やかな色をしていた。
最初はそう思ってみていたのだが、思った以上に時間がかかっている。看板作りとかはしたことが無かったと今更ながらに思った。
「ちょっと夏紀、ムラできすぎじゃない?」
「そんなもん今更でしょ」
夏紀が口を尖らせた優子に向かいぺろりと下を出した。みぞれはずっと黙々とやっている。ここでボーっとしているのも悪いかと思い、希美を交えて話している三人をよそにみぞれと一緒に手を動かすことにした。なんだか懐かしい気持ちになる。昔こうしてバンド幕を作った記憶が蘇ってきた。あの時は飛び級二人組で仲良くやっていた。
一時間ほどで塗り終わる。もう少し早く終わると思っていたので、随分と時間がかかってしまった。ところどころにムラがある幕は、却ってそっちの方がらしいように思える。印刷された完璧な配分ではない方が、でこぼこな彼女たちらしいと心の中で思う。でこぼこは漢字だと凸凹と書く。二つ合わさって初めて一つの四角になる。それと、優子と夏紀とは同じだと思った。言うとどうなるか分からないから言わないが。みぞれはムフーっと完成した布を見て喜んでいる。確かに彼女が一番頑張っていた気がする。
「夜になる前の空みたい」と希美が告げる。「海の底に似てる」とみぞれは静かに呟く。「夏紀がよく着てるデニムってこんな色じゃない?」と優子が言い、「情緒が無い」と夏紀に笑われる。
「ねぇ、なんかある? 良い表現」
優子がこちらに振ってくる。私は必死についた色を落としていた最中だった。手を止めて塗られた色を見る。何とでも表現できるだろう。他の人が言ったことも、確かにその通りだと思えた。その上で、この色を私は知っている。
「大学の近くに湖とか川があった。そこの色に似てる」
「思い出の色って感じ?」
「そう、だなぁ。多分そう。そこで練習してたから。上手く行かない時も、絶好調の時もただそこにあった色。私の音を全部吸い込んでいた。誰にも聞かれたくないけど、誰かに聞いて欲しいみたいな矛盾した感情を抱えたときに良く行ってた」
希美は優しそうな目でこちらを見ている。みぞれは足と悪戦苦闘していた。夏紀は意外そうな顔でこっちを見て、優子は何かを察したような顔になる。
「それぞれ解釈が違うのも、なんかそれっぽい」
優子はそう言って笑う。どうやら、この色は気に入ったらしい。元々夏紀の発案でバンド名は決まったという。つまりこの色は夏紀の好みでもあるのだろうか。だとしたらやはり似たところを持っている。ペンキのついた手で頬を拭った優子の顔に、鮮やかな青い線が描かれる。青春ど真ん中。彼女の顔にはそう書いてあるようだった。
乾かすのには塗るのより時間がかかりそうだった。頑張った私は休んでいていいと言われたのでお言葉に甘えて河川敷に腰を下ろす。希美と優子、みぞれは買い出しに行ってしまった。お菓子を食べるんだそう。女子はお菓子で出来ているのかと内心思うけれど、その通りかもしれないと自分の家の女性陣を思い浮かべながら思いなおした。
残されたのは夏紀と私。これもまたあんまりない組み合わせだった。彼女も腰を下ろし、何となく川を見つめている。流れにはキラキラと太陽の光が反射していた。
「昔さ、バンドやってたんでしょ?」
夏紀は問うてくる。
「あぁうん」
「何ていう名前だった?」
「プレアデス。まぁ要するにスバルのこと。メンバーが6人で、名前何にするかって考えた時、たまたま空を見たらスバルがあった。で、その時に6つの星に見えたから。ホントはもっとたくさんの星の集合体なんだけどね。星団だし」
「へぇ」
夏紀はそう相槌を打った。少し感心したような声だった。向こうではスバルは7つの星らしいのだが、知ったのは提案した後。観客も含めて7つ星なんだよ! と強引に突破したのを思い出す。栄光よ、星のようにと銘打ってキャッチコピーにしていた。今になって思えば、ちょっと痛いかもしれない。
「アントワープブルー、好きなの?」
「それは、どっちの?」
「どっちも。色も、バンドの方も」
「色は好きかなぁ。バンドは……前の方が好きだった。メジャーデビューする前。青臭いし暗いけど、響いてた」
「なるほど。だから『さよなら』と」
アントワープブルーというバンドや歌が彼女の青春なのだとしたら、それから去ろうとしている今は確かにさよならなのかもしれない。過去の自分と別れを告げるのか、それともただ単にこの高校生という期間が終わるだけなのか。そこに込められた意味は私には把握できない。彼女自身で来ているかは分からない。
「まぁ、そう言うのはあるよなぁ。どっちが幸せかは分からないけど。バンド全員がそれで納得してるときもあるし、そうじゃない時もある。大体後者だと解散したりする。音楽性の違いってやつとかで。変化するときはやっぱり受け入れられる奴とそうじゃない奴がいるからさ」
「そのバンドはどうだった?」
「私の? あそこは変わりようがないというか、そもそも個性の塊だから。でも、私はそれで良いと思ってた。変に迎合した歌詞とか曲にするくらいなら、そのままガキ臭いままでいようって。個性捨てて生きるようなことが出来る奴らじゃなかったんだろうね。私も含めて。そうできるなら、音楽家なんて目指さない」
「やっぱ凄いわ。私にはできそうもないマインド」
「そう? 君にもそういうところはあると思ってるけど。いや、と言うか本当は誰でも持ってる感情じゃない? 他人と違う存在になりたいっていうのは」
夏紀はハッとしたような顔でこちらを見てくる。何となく、彼女が自己評価と他人からの評価の差に悩んでいるのはある程度だけれど分かっていた。それでも敢えて何も言ってこなかった。こういうのは、自分で解決しないとどうしようもないも問題だし、そもそも言語化するのが難しい。
「自分は自分でいたい。自分の持っている感情は、どんなものであれ他人に知られたくないし、評価されたくない。自分を知ったような口で言われるのは虫唾が走る。そういう風に考えていると私に言われることも、嫌だ。そんな感じ?」
「なんで……分かるわけ?」
「そりゃまぁ。アントワープブルーの歌詞を君が好きだと聞いたら分かる。大体人は自分の感情を言語化してくれるような歌詞を好きになる」
「……はぁ。バレちゃあしょうがないか」
「そう。しょうがない。だから諦めて。私がそういう人間だという事は、織り込み済みだと思うけど?」
「そうだけど。でもやられるとグサッと来る。見られたくないところを見られて、強制的に直視させられているみたい。まぁ、だからこそ……希美には効果てきめんだったんだろうけど」
「どうかな。あれが正しかったのかは私には分からないし、もしかしたら私が彼女のことを変えられたのかは分からない。でも、そうであったら良いなぁとは思っている」
私は優しい人間ではない。どっちかと言えば嫌な人間だろう。その人のためと銘打って、嫌なことを言うし、見たくないものを見せる。いやがらせとかいじめのつもりでやっている訳ではもちろんない。でもだからこそ、あまりよくないのかもしれないと思う時もある。地獄への道は善意で舗装されている。なのだとしたら、私は舗装している側だろうから。
ただ、染みついてしまった生き方は簡単には変えられそうもない。それに……今の私を好きでいてくれる人がいるのなら、変えるのも勿体ない気がする。
「そっちこそどうなのさ。アントワープブルー。聞いたんでしょ?」
「まぁね。理解はできる。そんなに共感はしないけど。歌自体は嫌いじゃないかな。青い感じがする。色みたいに、真っ青な感じ」
夏紀の目が少しだけ不満そうになっている。共感しないと言ったところに引っかかっているのだろう。隠しているつもりかもしれないが、彼女の眼は結構ものを言う。
「私は代替品なんていないと思ってる主義の人だから」
「そう? 代わりなんて幾らでもいるでしょ。そうじゃなくても、上位互換とか、下位互換なら幾らでも」
「それっぽい事が出来る奴はいるだろうね。そりゃ勿論そうだよ。七十億も人がいるんだから、一人くらいはいる。上位互換とか下位互換ならもっといる。まぁただ……もしそうだったとしても私はそんなヤツのことなんかどうでも良い」
「どうでも良い?」
「そう。どうでも良い。似たような存在や、代わりが出来る存在、上も下もいるだろうけど。でもどうでも良い。例えば、希美に似た存在は多分いる。希美の代わりにフルートを吹いて、皆を引っ張れるような奴もいる。希美の上位互換もいるだろうし、下位互換もいるんだろうね。でも、私はそんな奴はいらない。私が欲しいのは、今ここにいて、考えて、悩んで、笑って、そして傘木希美として唯一無二の人生を歩んできた彼女だけ」
彼女の人生を歩めるのは彼女だけ。彼女の人生において、彼女以外は全員わき役だ。それはほかの人でもそう。夏紀の人生なら夏紀が主演で他はわき役。私でもそう。誰でもそう。自分の人生なのに主役が自分じゃないなんてありえない。私はそう思ってる。
「代替品ってさ。まぁ例えるならば部品だと私は思ってる。例えばこの携帯の中に入ってる部品。壊れてもメーカーが工場で画一的に作った新品と取り換えれば動くでしょ? でも人間関係はそうじゃない。中川夏紀という人間は一人しかいなくて、その人生を全く同じに歩んできて、全く同じ考えた方をして、全く同じ行動が出来る奴なんていない。だから代替品なんていない。と、私は思ってる」
彼女を見据えながら私は言う。彼女は言葉に困っているようだった。とは言え、私は彼女を否定したいわけじゃない。私がただ、そう思っているだけ。それでも、彼女じゃなくてもいいと思ってはいないことを伝えたかった。私以外でもきっとそう。
「まぁそっちの考えを否定したいわけじゃない。けど、夏紀じゃないといけないと思ってる奴は多分自分で思ってるよりもずっと多いと思う。ただそれだけ。例えそれが打算やもっと汚い動機でも、それで救われた存在だっているはずだよ。君が嫉妬に囚われることなく接した黄前さんも。あの日、君が嫌われてでも変えようとした久石さんも。あの時、誰もが拒絶したのに唯一君だけが何とかしようとしてた希美も。君に支えられてここまで来た優子も。君のおかげで結果的に希美ともう一度前を見れたみぞれも。そして、同じ時間を過ごした仲間だと思ってる私も。みんな多分そう思ってる。私たちに必要なのは名前も顔も知らない代替品や上位下位の互換じゃなくて、君だ」
夏紀は何かを言おうとして口を閉じた。そのまま目を逸らす。その頬は少しだけ赤かった。彼女は褒められるのに慣れていない。私以上にずっと、慣れていない。だから目をそらした。でも私はそれで良いと思う。子供っぽいが、それもきっと彼女を形成している一部なのだから。その子供っぽさが彼女を形成しているモノの一つなら、安易に変えない方が良いだろう。大人にならない方が良いことも、確かにあるのだから。
「やっぱ私はアンタみたいになれないわ」
「それで結構。私も、私みたいになって欲しくない」
「あーあ、私ももっと色々考えられたら楽なんだろうけど」
「悩め悩め。そっちの方が良い。私も色々悩んだ。今でも悩んでいる。悩んでいる奴は多い方が気が楽だからね。私は君を引きずり込もうとしようじゃないか」
少しだけ茶化すように言いながら指を鳴らした。重苦しい雰囲気は今はいらない。もっと深く悩んで苦しむときは絶対来る。だからその時までは、楽しくてもいいじゃないか。どうせ悩んだ末に出した答えは間違いの方が多いし、どっちを選んでも後悔することはある。ただ、悩まないで大人になった奴より、悩んだ奴の方が絶対に良い人生だと、私は思っている。
「おーい、買ってきたわよ~」
優子の甲高い声がする。みぞれが袋を抱えている。いったい何を食ベる気なんだろうか。横の希美が買い過ぎた……という顔をしている。これはまた私が消費する回なのか、それとも今度は女性陣が食い尽くすのか。
どちらにしろ、今はまだ楽しいままで良い。夏紀も同じことを考えたのか、顔を見合わせた。そして立ち上がり、やってくる三人の方へ歩き出す。冷たい空気の中に、暖かい日差しがある。春はきっと、遠くない。