音を愛す君へ   作:tanuu

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お待たせしました。今回から三年生編(アニメ三期時系列)を連載していきたいと思います。タイトルの話数からお気付きかもしれませんが、主人公の凛音が卒業してしまいましたので、ここからの二年分(現在書く予定の奏世代三年生編も含む)は妹である涼音視点で進めていきます。これまでの二年で北宇治はどう変わったのか、どういうストーリーを進むのか、楽しんでいただければと思います。

ここからは流石に前のように毎日投稿は出来ませんが、なるべく速やかに書けるように努力してまいります。お気に入り登録・感想・評価など励みになっております。今後ともよろしくお願いします!


希美√第9楽章 一年の詩
第Ⅷ音 春の日


 凄まじい速度で新幹線は移動していく。小学校も中学校も、修学旅行はバス移動だったので新幹線に乗るのはこれが初めてかもしれない。世間知らず、という言葉がなんとなく自分の頭の中に浮かんだ。

 

 私、桜地涼音が関東で行われたソロコンテストの全国大会に出場したのはつい昨日の出来事だった。普段の演奏は当然周りと合わせるモノばかりだから、自分が前面に出る機会はほとんどない。だから、今回の経験は珍しいモノだったし、自分を全て出せるというのは楽しい経験でもあった。何より、兄さんと演奏するのは、例え兄さんが演奏するのが本業のトランペットで無かったとしても、得難い機会だった。

 

 私たち兄妹は、同じ部活の誰よりも同じ空間にいる事が多いのに、一緒に演奏することはほとんどないままだった。それは去年の夏ごろまで関係性が良くなかったのもあるし、単純に練習する時間が合わないというのもある。思えば、兄さんと希美先輩もあんまり一緒に演奏して無いし、トランペットとフルートはそういうモノなのかもしれない。尤も、兄さんと希美先輩は音楽で繋がっているという感じでもないけれど。

 

 新幹線の座席は二列の席を向かい合わせにしている。まず私と兄さんが隣同士で座っていた。向かいには一緒に大会に出場し、文部科学大臣賞という実質優勝である賞を獲得した高坂先輩と……なぜか自腹で付いてきた吉沢先輩が座っている。

 

 大会に出場するわけではないけれど、良い演奏を聞きに行きたいという名目で吉沢先輩は高坂先輩にくっ付いてきている。ホテルの部屋が私たち兄妹で一部屋なのに、高坂先輩だけ一人ぼっちなのもどうなのかなぁ、と思っていたから丁度よかったのかもしれない。

 

「はい、UNO!」

 

 吉沢先輩が高らかに言う。高坂先輩は難しい顔で手札を眺めていた。一抜けした兄さんは涼しい顔をしている。私は二番目は難しいかもしれないけれど高坂先輩には勝てそうな雰囲気がある。

 

「高坂さん、ヤバいね」

「……はい」

「そんなに悔しそうな顔しないでも」

「別にしてないです」

 

 嘘だ、と誰でも分かる顔をしている。高坂先輩は負けず嫌いだった。それも、結構。優子先輩もそうだったけれど、トランペットは気の強い人が多い。吉沢先輩も穏やかそうな顔をしているけれど、内心で高坂先輩への情熱を燃やしているから多分本質は似ているんじゃないだろうか。

 

 吉沢先輩の鞄からはシロイルカのぬいぐるみがはみ出している。今年のソロコンが終わった後、そのまま帰るのもつまらないということで、兄さんの引率で八景島シーパラダイスに行っていた。なんとなく修学旅行みたいな雰囲気だったけれど、一つ違うところがあるとすれば先輩二人や私の分のお土産だったり入場料だったりご飯代だったりを全部兄さんが出していたことだろう。働いている人が出さないのは良くないから、らしい。

 

 加えて言えば、高坂先輩曰く、去年より泊まる場所が豪華だったということだ。去年は安いビジネスホテルだったのが、今年はしっかりした場所になっていた。なんなら温泉も付いていた。妹を安いホテルに泊まらせるわけにはいかないと大真面目な顔で言っている兄さんを、高坂先輩が複雑な顔で見ていたのが記憶に新しい。吉沢先輩は高坂先輩への扱いが若干雑なので、社会経験だよ~とのんびり諭していた。

 

 控えめに言って過保護だと思う。シスコンこれに極まれりという感じだ。嬉しくない訳じゃないけれど、ちょっと気恥ずかしさもあるのだ。

 

「はい、勝ちです!」

「くぅ……」

 

 何だか人語じゃないような気がする声を高坂先輩が出している。向かい合った私の手札は少ない。一方で先輩はそれなりに多い。順当に行けば私が勝てるだろう。吉沢先輩は勝ったのを機にお手洗いに行ってしまった。兄さんはタブレットで高坂先輩が春から使う練習メニューの草案を作っている。これを元にしつつ改造して使ってもらうつもりらしい。高坂先輩の意見を取り入れつつ、作成していた。

 

「桜地さん」

 

 少しだけ迷ったような声をしながら、高坂先輩が声をかけてくる。目と手はカードに向いたままだ。私はチラリと先輩の顔を見た後、またカードに視線を戻して応える。

 

「はい、どうしましたか?」

「私はあなたなら、きっと北宇治に大きな力をくれると思ってる」

「……ありがとうございます」

「だから、私はあなたに私の補佐役兼来年のドラムメジャーを担ってほしいと思ってる」

「……」

 

 またこの話か、と少し思ってしまった。二年生のドラムメジャーに就任してほしいというお誘いはこれで何回目かの話だ。ドラムメジャー制度の元になった立華高校では二年生のドラムメジャーを置いて、先輩の補佐をさせつつ経験を積む時間にしているらしい。私をその立場にしたいという話だった。

 

 普通に考えれば、協力するべきなのかもしれない。歴代の幹部だって、最初から自信があって引き受けてきたわけではないのだろう。それでも先輩から言われたら最終的には引き受けている人がほとんどだ。それでも私が断り続けているのには、しっかりした理由があった。

 

 この職は背負っている十字架が大きすぎる。今年金を獲れれば最良だ。そうなって欲しいと思っているし、そうなるように出来る事はしたい。でもそうなった場合、来年どうなるだろう。特に私たちの世代はまだ兄の威光が残っている。同じ成果を、と期待されるのは想像に難くない。そして最悪なのは今年全国に行けなかったパターン。激戦区となっている関西を突破できない可能性は冷静に考えるとそれなりにある。旧大阪三強に龍聖、そしてもしかしたらいるかもしれない新たな強豪。そういう存在に一歩及ばなかった場合、三年生の人数が歴代最少で全国に行った優子先輩たちの世代は伝説になる。同時に、学生指導者である兄さんの存在も。

 

 去年と今年と変わってしまった部分を比較したら、存在が大きいのはどう考えても兄さんだった。そしてそうなったとき、私たちの代になって同じ桜地である私に求められることは難しくない。北宇治に来る前にだってそういうことは時たまあった。しかも私は一回全国に行っている。あの時はもちろん顧問が音楽面()()優秀だったのもあるけれど、一割か二割くらいは私だって貢献しているつもりだ。かつての伝説的な学生指導者の地位を、妹が継ぐ。実にウケそうな話だ。

 

 40人以上いる同期。入って来るであろう後輩。そういう存在を導きつつもう一回あの舞台へ導けるかと言われたら、流石に厳しいモノがある。それに、私は高坂先輩や兄さんほど音楽にのめり込んでいるわけじゃないのだ。人生を捧げる気は毛頭無い。音大に行く気も、プロになる気も全くない。だから普通に受験勉強はしたいし、将来だって大切だ。断る理由はざっとこんな感じだろう。これで十分すぎるほどだと思っている。北宇治が上に行けるよう奏者として力は尽くす。でもそれ以上となると、逃げたいのが本音だ。

 

 それに、中学時代の私のやり方が正しかったとは思っていない。同時に、人を率いる資格があるとも、思っていないのだ。兄は天才であろうとも、私は天才ではない。少なくとも、音楽の分野においては。

 

「私としては、美玲さんの方を推挙します。音楽的な知識も豊富ですし、言語化する能力もあります。面倒見も悪くありません。同時に厳しさやストイックさも持ち合わせています。私よりよほど適任でしょう」

 

 彼女は断りませんし、という言葉を内心で呟いた。鈴木美玲。私の中学からの同期だ。チューバ一筋でやっている。それで色々あったようだけれど、一応黄前部長――当時は部長では無かったが――の尽力で解決している。何より彼女はトランペットに転向したがっていた。同時に高坂先輩にやや憧れている節を感じる。自他共に厳しく、それでいて凛とした姿は確かに彼女の性格からすれば憧憬するには十分だろう。

 

「もちろん鈴木さんも優秀だと思う」

「では、そちらにお願いしてはいかがでしょうか」

「でも、桜地さんは鈴木さんに無いモノを持ってると思うから」

「と、仰ると?」

「何と言えば良いか言語化しづらいけれど……雰囲気?」

 

 雰囲気。実にフワッとした回答だった。もっと真面目な言葉が返って来ると思っていたので、少し拍子抜けをしてしまう。

 

「なるほど……?」

「鈴木さんにも空気を引き締める力があると思う。でも私は……一昨年の南中との合同練習で見た時の空気感が忘れられない。一歩踏み出す度に南中の部員の空気がきゅっと引き締まって行って、でもそれは押さえつけられているというより緊張しつつも闘志を燃やしている感じだった。桜地さんには、いるだけで場を動かせる雰囲気がある」

 

 横に座っている兄さんの顔をチラリと拝む。視線が合った。高坂さんがこんなふんわりしたことを言うとはちょっとビックリしている、と顔に書いてある。それは私も同感だった。高坂先輩はそういう空気感というモノに疎い人物だと勝手に思っていたのだ。どうやら、その評価は上方修正しないといけないのかもしれない。或いは、兄さんや吉沢先輩、黄前部長と接することで変わっていった部分もあるのかもしれない。音楽は一人では作れない。確かに空気を感じることは大事な事だった。社会生活を営むうえでも、当然。

 

「もうすぐ新年度が始まる。取り敢えず、勧誘はこれで最後にする。次こちらから声をかけるのは多分……私たちが引退する時。でも、それまでに決心してくれたら、私でも久美子にでも、いつでも言って」

「……考えておきます」

 

 歯切れの悪い声でそう言いながら、私は最後のカードを捨てた。私の負けね、と高坂先輩が自分の手札を捨てられた札たちの上に置く。無造作に置かれた一番上には、青いリバースカードがあった。

 

「お帰りなさい」

「ただいまです~。なんか結構混んでて……。あ、麗奈ちゃん負けちゃったの?」

「……今回は」

「麗奈ちゃん手札切るのが苦手だからねぇ。冒険心が足りないんだよ」

「そういう問題なの?」

「そういう問題じゃない? もしくは経験値!」

 

 北宇治に来る前の高坂先輩は想像するしかないが、話を聞く限り旅行でカードゲームを嗜むタイプには見えない。経験値が少ない、というのはお前友達少ないから、という風にも聞こえなくもない。尤も、吉沢先輩にそんな意図があるとは到底思えないけれど。

 

 この二人はどういう風にパートを運営していくのだろうか。兄さんが作り上げた北宇治吹部の最強集団がトランペットパートだ。少数精鋭のホルン隊や集団でレベルの高い激戦区のクラリネットを突き放して君臨しているのは、なにをどう考えても教えている人の影響だった。ここが崩れると、他も崩れてしまう可能性が高い。正反対にも同類にも思えるこの二人がどういう運営をしていくのか、気になるのは当然だろう。

 

 ほどよく時間が正午に差し掛かろうとしている。駅で買ったお弁当の時間には丁度良いだろう。ゴーっと一定のリズムを奏でる新幹線が掛川を通過した電光掲示に目をやった後、私はチラリと車窓を見る。桜の時期には、まだ少し早かった。

 

 

 

 

 

 

 

 関空からヨーロッパの空に旅立った兄さんを見送った翌日。私の家のインターホンが鳴らされた。時計を見れば、午前九時五十五分。約束した時間より少し早い。五分前行動は部活でよく言われる言葉だけれど、それを卒業しても続けてしまうのは染みついてしまったのか、或いは元々そういう気質なのか。どっちかと言えば後者である気がする。

 

 パタパタと玄関に走り、鍵を開けた。ガラガラと扉を開ければ、大きなキャリーケースを引っ張りながらボストンバックを抱えた希美先輩が立っている。

 

「おはようございます。いらっしゃいませ!」

「おはよう~」

「随分多いですね、お荷物」

「なんか色々詰め込んでたらこんなになっちゃった」

「ここで立ち話もなんですから、取り敢えず上がってください。キャリーケースはお持ちしますね」

 

 パステルカラーのケースを持ちあげる。か弱いと勝手に思われることも多い私だけれど、別にひ弱ではない。

 

「ありがとう、お邪魔します」

「違いますよ」

「え?」

「今日からは『ただいま』で良いんですよ、希美義姉(ねえ)さん」

「うん!」

 

 希美先輩は大きな笑顔で頷く。今日、私の先輩にして、兄さんの彼女である希美先輩は、私の家にやって来た。一人暮らしをするのは家賃が厳しいので無理、と先輩の両親に言われていたところ、兄さんがウチに来れば良いと誘ったのが全ての始まりだった。あれよあれよと話は進み、こうして四月から無駄に広いウチの家にもう一人住民が増えたのだ。

 

 私としては大歓迎以外の何物でもない。ちょっと可哀想なのは、自分の家に彼女が住んでいるのに同棲じゃない兄さんだろう。血の涙を流していることは想像に難くなかった。兄さんと入れ替わるようにやってきた先輩の部屋は既に準備されている。ベッドなんかは備え付けのモノを使ってもらうし、机などの荷物はもう運び込まれている。今日は小物や服をドサッと持ってきてもらったのだった。

 

「よいしょっと」

「ありがとね」

「いえいえ。ここで良いですか?」

「うん。置いておいて~。今から荷ほどきして、しまっちゃうから」

「分かりました。前にもご説明しましたが、この部屋にはクローゼットが無くて……。箪笥で我慢してください」

「我慢なんて全然してないよ。ウチもお母さんたちは箪笥だしね」

 

 元々別の部屋にあった桐箪笥を移動して置いている。客間の一つだった部屋なので、収納が置いてなかったのだ。この桐箪笥は一応母の嫁入り道具だったらしい。先輩に使ってもらうのに問題はないと思っている。

 

 荷ほどきを手伝いながら、取り留めのない話をしていく。家の空気に凄い馴染んでいるような気がするのは、この家が先輩を歓迎しているからかもしれない。どこか少し華やいだような気もする。家は人が住まないと死んでいく、と兄さんは言っていた。その言葉が真実ならば、華やかな先輩が住むようになったことで家の空気も変わったと言うことなのだろう。

 

「温泉どうでした?」

「良かったぁ。今までそんなに旅行とかしてこなかったけど、良いなぁって思ったよ。今度は涼音ちゃんたちも一緒に行かない?」

「行きたいですね。私、旅行が趣味なので」

「ならなおさら行こうよ」

「お邪魔で無ければ、喜んで。それはそうと、兄さんと何か進展しましたか?」

 

 まぁどうせ何も無かったんだろうなぁと思って、ちょっと揶揄うために聞いてみた。いつもレスポンスの早い先輩にしては妙に沈黙が長いと思って顔を上げると、赤い顔になっている。え、嘘でしょ? と内心でかなり動揺しながら、私はちょっと震える声を出した。

 

「何かあったんですか……?」

「えっと、その……一緒の布団で寝ちゃった」

 

 あ、そういうこと、という感想になる。キャーという顔をしている先輩にちょっと呆れてしまった。高校も卒業して、もっと過激な事でもしているのかと思ったら拍子抜けしてしまったというのが正確かもしれない。てっきり……と思ったけれど、まぁこんなモノなのかもしれない。

 

「そ、そうですか……」

「涼音ちゃんの方はどうだったの? デートだったんでしょ?」

 

 今度はこっちが攻撃されるターンだった。ポケットに入った携帯を出して、写真フォルダを開く。兄さんたちが城崎温泉という高校生が選ばないような場所に行っていたとき、私と純一先輩もUSJに行っていた。全国大会の前に告白してから、今に至るまで関係性は続いている。吹奏楽部の練習で中々会えないのが辛いところだった。

 

「こんな感じでした」

「わぁお……」

 

 珍しく私服でスカートを履いて出かけた日だった。まだ少し肌寒い日だったので、ちょっと着込んでいる。足元は動きやすい靴にしている分、上は割と気を遣ってみた。一昨年の夏に映画に行った時はズボンだったので、それと比べれば大分頑張ったつもりでいる。写真の中には、笑いながらツーショットを自撮りしている私たちがいた。滅多にしないピースまでしている自分を冷静に見返すと、少し恥ずかしい。

 

「可愛いね~」

「ありがとうございます」

「何回か出かけてるんでしょ? 滝野君と」

「はい。春休み期間くらいしか暇な時間はないですから。同じ学校にいないのは辛いですね。予定が中々合わないですし」

 

 吹奏楽部は春休みの間だけ比較的余裕のあるスケジュールになっている。とは言え、恐らく高坂先輩の方針だろうけれど去年よりは練習が多くなっている。去年は演奏会も結構入っていたけれど、それも今年は数を減らしていた。次の大会に目を向けているのは明らかだ。高坂先輩は、極端な話新入生が全員初心者でも良いくらいの勢いで在校生を鍛えようとしている。

 

「あ、これ袴?」

「あぁ、はい。ちょっとどうかなと思って着て行ったんですけど、思ったより好感触だったので今度もやろうかなって思ってます」

 

 和服で行くのは大体室内施設が多い。後はお花見とかだ。袴を着て行ったのはお花見デートと言うことで出かけた時。凄く喜んでくれたので、次も何か季節に合わせて着て行こうと思う。日本舞踊を習わされていたし、着物の着付けも出来るようにさせられた幼少期は全然好きでもなかったけれど、恋人に褒められるだけで印象がガラッと変わるのだから、人間の心は単純だ。

 

「いいなぁ。私も着てったら喜ぶかな?」

「どんな格好してても、兄さんは喜ぶと思いますよ? 希美義姉さんなら、何を着ても似合うと思いますし。和服は洛中の家に行けば無限にありますから、いつでも言ってくださいね!」

 

 希美先輩はスラっとしていてスタイルが良い。その健康的な美は男子を引き付けるのだろう。優子先輩も人気だったけれど、同じかそれ以上に人気があったように思う。優子先輩はちょっと気が強いというか男子に対しても結構口が悪いので、その影響かもしれない。煌めく声音、太陽のような空気は、沈んでいた気分を引き上げてくれる。

 

 尤も、先輩が告白されたという話は、少なくとも高校に入ってからはほとんど聞かない。その原因として一番考えられるのはどう考えたってウチの兄さんだろう。付き合ってない時からあの距離感な男子がいる人の告白するのは無謀以外の何物でもないような気がする。それ故に、中学時代とは打って変わって告白されなくなったと、私は考えていた。

 

 恋バナのような話を続けていると、コンコンと扉がノックされた後に開かれた。

 

「おや、希美さん。もういらしてたんですね」

「あ、はい。ちょっと早いかなって思ったんですけど、物も多かったので」

「そうでしたか。早くに買い物を終わらせてご挨拶をと思いましたが、少し遅かったようですね。何はともあれ希美さん。ようこそいらっしゃいました。これからよろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 

 雫さんと希美先輩は丁寧に頭を下げ合っている。親しき中にも礼儀あり、というように一緒に生活していく上では思いやりが大事になって来ると思っていた。特に、お互いに役目を持って生活していく以上は。私は掃除、雫さんは洗濯、そして希美先輩は料理。それぞれ担当分野が分かれている。元々兄さんが料理をしていたのだが、いなくなってしまったので希美先輩に担ってもらうことになっている。恥ずかしながら、私たちは技術が乏しいからだ。

 

 雫さんと希美先輩は買ってきたものの話をしている。二人とも一昨年の文化祭以降、何回も顔を合わせているしどういう感じなのか把握しているのだろう。元々人付き合いは苦手ではない二人なので、上手くやっていけると思う。それは兄さんも分かっていて、だからこそ誘ったのだと思う。

 

 これから始まる新しい生活も、それなりに楽しくやっていけるんじゃないだろうか。そんな気がなんとなくしていた。

 

 

 

 

 

 

 鳴り響く目覚ましの音で目を覚ます。眠い目をこすりながら身体を起こす。あくびを一つして、腕を伸ばした。寝起きで少し潤んだ視界の先にはカレンダーがあり、入学式と書かれていた。その文字列を見て、少しずつ意識がはっきりしてくる。寝起きが良くないのは昔からだった。そう言えば今日はそういう日だったと思い出す。今日から学校が始まるのだ。

 

 眠りを誘う春の気配を感じながらもぞもぞと布団から這い出て、制服に着替える。先に着替えてしまってから顔を洗ったり髪をセットしているのが私の朝の常だった。洗面所に行って洗濯機に寝間着を放り込み、顔を洗う。化粧水を顔に叩きつけてやっと完全に目が覚めた。

 

「おはようございます……」

 

 ダイニングには卵の焼ける匂いがしていた。トースターがパンを焼いている匂いもする。その中に包丁の音が響いていた。

 

「あ、おはよう」

 

 朝から元気いっぱいという顔の希美先輩はにこやかに笑っている。一瞬兄さんが戻って来たのかと思うくらい、キッチンが稼働していた。調理器具なんかは少し配置が変わって、ちょっと彩も生まれてファンシーな感じになっている。兄さんの城はとっくの昔に陥落していた。

 

「はい、どうぞ」

「いただきます」

 

 目玉焼きとベーコン。レタスとトマト。そしてパンと牛乳。ザ・朝食という感じのメニューだった。私の起きる時間は結構早いのに、希美先輩は普通に起きている。高校生時代のリズムが体に染みついてるし、早寝早起きの方が身体に良いからということで同じような時間に起きてくれていた。

 

 そしてそのご飯も普通に美味しいのだ。曰く、母と兄さんの書き込みが多数ある料理本が何冊もあるからそれを見て勉強した、と言うことだったけれど、それだけでは説明できないくらいには美味しい。兄さんにそういう風にメッセージを送ったら、悲しそうな文章が返って来た。家事も出来る明るく美人な彼女なんて、全ての男子が求める理想なんじゃないだろうか。私が男子だったらきっと好きになっていたと思う。兄さんと取り合っていた可能性もあるので、自分が女子であることに割と本気で感謝した。

 

 キッチンの隅にあるラジカセからはラジオが流れている。今日の天気は晴れ、という予報を朗々とした声で読み上げていた。

 

「あ、はい。お弁当だよ」

「ありがとうございます!」

「適当に詰めただけだから、あんまり期待しないでね」

「いえ、私なんて全然出来ませんから……」

 

 何とかしないといけないと、逃げないで頑張ろうと思っているのだけれど、中々上手くいかない。取り敢えず包丁を使わないモノは最低限作れるようになった。剣崎さんと久石さんの奮闘の結果だと思う。二人にはその点深く感謝していた。剣崎さんがあんな疲れた顔をしていたのを、今まで見たことが無い。申し訳ない以外の言葉が見つからなかった。やっぱり包丁が苦手なのをどうにか直すしかないだろう。それ以外の刃物は使えるので、気持ちの問題なのかもしれない。昔、子供の頃に包丁が足元に落ちて来て危うく刺さりかかった時から苦手だった。

 

「今日は大学ですよね?」

「うん。まぁまだオリエンテーション期間だから全然大学! って感じでも無いけどね。でもなんか普通の大学とは雰囲気違うし、音大来たんだ……! っていうワクワク感はあったよ」

「サークルとか決めましたか?」

「うーん、どうしようかなって。色々あるんだよね~。オーケストラもあるし、吹奏楽とかフルートだけのサークルもあるし。ダンスサークルもあるし、写真部みたいな全然音楽と関係ないのもあったから。迷い中かなぁ」

「みぞれ先輩はどうするんですかね」

「まだ迷い中みたい。入ろうっていう意思はあるみたいなんだけどね」

 

 希美先輩は割とさっさと新しい交友関係を築いていくタイプだ。吹奏楽指導専攻は他の専攻に比べて生徒数が少ないらしく、割とコミュニティは作りやすいと言っていた。強豪出身の同期もいるらしく、中には大阪三強からやって来た学生もいるらしい。明静はともかく、大阪東照や秀塔大附属からすれば私たち北宇治は自分たちを蹴落とした因縁の相手だと思うけれど、そういう感情を持っていそうな人はパッと見だといないらしい。

 

 他校の空気感をちょっと知れた、と先輩は言っていた。明静は関西大会の結果でも叫んだりしないで全国行きを当然と誇っている雰囲気があったが、あれはわざとそうしているだけで結構内心では心臓バクバクらしい。東照は北宇治はまだしも龍聖にも負けたとあって相当お通夜だったようだ。問題は秀塔大で、今年の三年生は相当気合が入っているらしい。多分、ねらい目だと思われているのは北宇治だ。

 

 栄光を作りだした指導者の片割れがいなくなった。それだけでも十分な朗報に聞こえるだろう。多分それは高坂先輩も分かっている。だから静かな焦りが練習時の高坂先輩の瞳から読み取れるのだ。

 

「ごちそうさまでした」

 

 今日から一年生たちがやって来る。中学時代の後輩たちの何人かが北宇治に進学していた。既に連絡は受けている。全員吹部に入りたいという話だった。お皿を洗いながら、どういう未来になるのか、どういう演奏になるのかを考える。出来れば平穏に。それはきっと、去年の幹部も思っていたのだろう。

 

 作ってもらったお弁当を鞄にしまう。歯を磨いて、身だしなみを整えて、少し休んだらすぐに出発の時間だ。靴を履いて、見送りに来てくれる希美先輩に向き直る。黒いポニーテールが今日もゆらゆらと揺れていた。快活な笑顔で送り出されれば、今日も頑張ろうという気分になる。つくづく、兄さんは可哀想だ。彼氏よりその妹が恩恵を受けているカップルなんて世の中にそうそうないだろう。

 

「行ってらっしゃい。気を付けてね」

「はい、行ってきます!」

 

 扉を開ければ春の風と春の空気。庭の桜は満開に咲き誇っている。少し肌寒い風と優しい日差し。穏やかな春の中、私は学び舎への道を歩き始めた。ピロリと音を立てた携帯には純一先輩からメッセージ。頑張れ、というスタンプに微笑んでから、頑張る!というスタンプを送り返す。優しい家族、素敵な先輩、愛している恋人、そして充実した部活。私の二年生は、こうして美しい春の日と共に始まったのだ。

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