第十三音 天秤
5月も半ばを迎えた。サンフェスでの結果は確かな自信と変革を部員に与えた。しかし楽しいことの後には大抵楽しくないことが待っているわけで。当然学生の本分は勉強であるからして、定期テストがやって来るのである。
テスト週間というものが試験の一週間前から設置されており、この期間というのは基本的に部活動を禁止されている。寸余も惜しい吹部の現状にとってすれば邪魔というほかない時間であるが、部活動はあくまでも学校の中にて行われている活動に過ぎない。演奏が上手くても、成績は足されないし大学にも行けないと言うことである。
「助けてよ~凛えもん~」
「私はドラえもんじゃないし、声がデカい」
泣きながら抱き着いてくる生駒を引き剥がして椅子に座らせた。クラスの中もこの時期だけは勉強ムードに入る。進学クラスじゃない我々はそこまで普段は真面目という雰囲気ではないのだけれど、流石にテストとあってはそういう訳にもいかないのだ。
「ホントにヤバいんだって。今度赤点だと部活出れなくなっちまう。補習地獄は嫌だ!」
「それならきちんと勉強するほかないだろ」
「それを言ったらお終いだな」
単語帳片手に柏原は呟く。どっちも成績がスゴイ良いわけじゃないが、生駒が赤点ギリギリを漂っているのに対して柏原の方は平均よりやや上という何とも言えない位置にいる。着信音がしたので携帯を見れば、泣きついてくるメッセージが何件か。
「滝野だ。先輩にいいとこ見せたいから英語助けろとさ」
「アイツも大変だなぁ。まだ中世古先輩諦めてないのか」
「うっそだろ、マドンナ先輩まだ狙ってんの? 冗談だと思ってたわ」
「諦める選択肢は無さそうだぞ」
二人はマジかぁ、という顔をしている。マドンナこと中世古先輩の話は吹部を飛び越えて学年はおろか学校中で有名だ。知らない人はいない学校の美少女というのは存在しないフィクションであると思っていたけれど、いるところにはいるものなのである。
「で、どうなん? アイツに脈ありそうなのか?」
「この恋愛脳め。大人しく単語を覚えてるんだな」
「いいじゃないか、気になるだろ」
「多分無い。恐らくこのままだと欠片もない」
「あちゃー残念」
ケラケラと笑われている滝野に合掌するしかない。とは言え、嘘は言っていない。ここで変な嘘をついて、それが伝わって、変な勘違いを起こした方が先輩と滝野自身の為にならない。恋愛沙汰で揉めるのが一番厄介だ。
人間の中で一番感情的な部分というのが恋愛だろう。それで揉め始めたり問題が起こると感情論が先行して何も解決しないことがある。それどころか、解決しようとすると火に油を注ぐことになりかねない。
「中世古先輩に脈が欲しいなら、まずは吉川に認められるような男になる事だな。そうすれば、恐らくかなり意識はしてくれるだろう。それが恋愛的かどうかはともかく」
「うわっ厳しい……」
「はい、じゃあ勉強するぞ」
吉川優子の性格はこれまた二年生の間に良く知れ渡っている。その彼女に認められるというのは相当な人材であることには間違いない。それくらいになれるなら、多分先輩とも上手くやっていけるだろう。
段々と気温が高くなってくる。もうすぐ6月だ。半袖が欲しくなってくる時期が近付いている。それは同時に、府大会の日程が近付いていることを意味した。憂鬱の代名詞となっているテスト週間。私にはむしろ、丁度いい休息にすら思えていた。
最後のテストが終わったその日に職員室に呼ばれている。こういう日はゆっくり休んで返って来るテストの結果に怯えつつ過ごすのが普通なはずなのだが、我々にそんな自由はない。悲しい話だが、しょうがないことでもある。
テストの採点が終わるまでは職員室内に入れない。なので入り口から用事のある先生を呼ぶシステムになっている。面倒だとは思いつつも、名前を呼んだ。
「失礼します。滝先生はいらっしゃいますか」
視線の先には先生の机。何やらイヤホンをしたままパソコンに向き合っている。要件は今年の大会で演奏する曲の事だろう。その課題曲や自由曲を選定しているのだと分かった。音楽は試験が無いからその分そういう作業に時間を割ける。隣の先生が肩を叩いて、先生を呼んでくれた。
「お疲れ様です。今日は、課題曲に関してですか?」
「その通りです。少し準備しますので、先に音楽室で待っていてください」
「分かりました」
他の部員は今日までお休み。音楽室には誰もいない。勿論自主練をする分には好きにしてもらって構わないが、学校内では出来ないことになっている。なので、必要な生徒は楽器を自宅に持ち帰っていた。
普段は大勢が座っている音楽室も、今日はがらんどう。音が満ちている空間は静寂と私の足音だけが響いていた。窓を開ければぬるくなった風。外には下校する生徒の姿。去年はあの中に混じっていたことを思い出す。すっかり変わってしまったものだ。何もかも。
「お待たせしました」
外を見ながらたそがれていると、先生がやって来る。手にはパソコンを持っていた。音楽室にあるオーディオと接続するつもりなのだろう。ケーブルも何本か伸びていた。セットを終えると、私に見せるように教卓の上にパソコンを置いた。私はまるで授業のように椅子に座る。
「補習みたいですね」
「確かに、そうかもしれませんね」
「先生は、補習の経験は?」
「学生時代、化学がどうも苦手で、何度か」
「意外ですね。優等生っぽいのに」
「友人にもよく言われます」
友人、いたんだと思わないでもない。普段の粘着質とも言える部員への態度から、一部ではボッチ説まで出ている先生だが、交友関係はそれなりにあるらしい。類は友を呼ぶというヤツなのか、或いは朱に交われば赤くなるということなのか。その辺りは謎だ。とは言え、私も人の事はあまり言えた話ではないのだが。
「今年の課題曲について、意見を聞こうと思いました。まず改めてラインナップを整理すると、課題曲Ⅰが岩原慎太郎作曲『天空の旅―吹奏楽のための譚詩―』、Ⅱが佐藤邦宏作曲『マーチ・春の道を歩こう』、Ⅲが西村朗作曲『秘儀Ⅲ―旋回舞踊のためへテロフォニー』、Ⅳが田坂直樹作曲『マーチ・プロヴァンスの風』、Ⅴが朴守賢作曲『暁闇の宴』です」
どれを選ぶのかは学校に任されている。それが課題曲選びだ。そしてこれが非常に重要である。それぞれの曲に特徴があって、学校の特色に合っている曲を選ばなくてはいけない。これに失敗すると、恐らく上の大会に行ける可能性はかなり低くなる。
課題曲でこれを選んだ時点で終わりとかいう訳分からないことを言ってくることもある。じゃあ5曲用意するなよと思わないでもないが、それほどまでにこの選択は重要になって来るのだ。それに、個人的な意見を言えばあんまり好きじゃない曲をずっと練習させているのも嫌な話である。これはまぁ、私の我儘なので黙っているが。
「良曲が揃ってますね」
「はい。私も桜地君と同じような感想を抱きました。今年の課題曲はかなりいい曲揃いだと思っています。全国大会ではレベルの高い良曲が沢山聞けることでしょう」
「我々がその会場にいると良いのですが」
「そうなるように、指導をしていくつもりですので、引き続きよろしくお願いします」
「無論です。それで、現在候補などはありますか?」
「それが、正直迷っている状況です」
「なるほど」
確かに迷うのも無理はない。この選択の重要性は分かっているだろうし、何より今年が初顧問という事は、当然曲選びも初めてという事になる。慎重になるのは理解できたし、適当に決められるよりはよっぽどいい。
「取り敢えず、改めて一曲ずつ聞いてみますか」
「分かりました」
先生は私の意見に同意して、再生をクリックした。スピーカーから音が流れ出す。まずは一曲目の『天空の旅』から。どことなくファンタジーな感じも漂う曲調は、バランスの良い楽器割り振りで構成されている。空を見上げ、悠久に思いをはせるような感じで吹くことが求められるだろう。
中間部に入るところのロングトーンなどは合わせるのが難しそうだ。メロディーは悪くない。問題が何か存在しているとすれば、ゲーム音楽のような雰囲気かもしれない。他校の状況は分からないが、それは滝先生に聞けばいいだろう。一応繋がりはあるようだし、何を選んだかくらいは話しているはずだ。
「要素が多い曲ですね。一つのパートに5、6個は要素が入って来る。それにパーカッションが入ってくることを考えると、テンポ感などを意識しないとあっと言う間に崩れてしまう脆さも感じます」
「Jパート、どう思いますか」
「ユーフォとコンバスですか? まぁ今年の面子なら大丈夫だと思います。前者は田中先輩がいますし、後者は川島さんで問題ないと思うので。後はファゴットですね」
「岡さんと喜多村さんがどの程度仕上げられるのか。私よりあなたの方が詳しいと思いますが、どうでしょうか」
「あのお二人は何と言うか、やる時はやってくれるタイプですから……。Jの部分もそうですが、中間部のフルートソロ。これを担える人材がいるかどうか。私はそこが気になります」
ダブルリードの先輩二人は、みぞれの件で色々と世話になっているせいで庇うような発言になってしまった。だが実際腕は悪くない。間違ったことは言っていない。フルートソロの部分は少しオーケストレーションが薄い場所になっている。ここを担える人材が今のフルートにいるのかどうか。出来る人材に心当たりはあるが、今は部に存在していない。いない戦力を宛てにしても意味はないだろう。
そして曲は次の二曲目『春の道を歩こう』が流れてくる。教科書通りという感じの曲だ。それはもちろん悪い意味ではない。奇をてらって変な曲になるより、王道を攻めている方が好感を持てる。何せ、多くで使われていて評価されているからこそ王道なのだから。
別のマーチ曲である『スカイブルー・ドリーム』と似ている曲だ。特に入りの部分などがそれっぽい。あとは八分音符だろうか。これが何度か繰り返し出てくる。このリズムに失敗すると、これまた良くない出来上がりになってしまうだろう。
「パーカッションですね。これは打楽器がカッコいい曲だと個人的には思うので。ですけど今年のパーカス一年は期待の星だけで構成されていますからね。上級生も含めて、耐えられるとは思います」
「シンプルな曲ですが、私はその分それぞれの基礎能力が問われているように感じました」
「基礎能力、ですか……。ウチの部活には一番必要な部分でしょうね」
これまで鍛えてはいるけれど、それでも三年生はほぼ二年遊び惚けていた分のブランクが存在している。それを今から埋めるのはかなり厳しい作業になる。どの曲を選んでもやらないといけないことに変わりは無いのだが。
「では、三曲目行きます」
三曲目は『秘儀Ⅲ』だ。へテロフォニーとは、同一の旋律の担当奏者が別々に動いたり、リズムやテンポを微妙にずらすこと。これにより異なった装飾や音型が生じるのだ。秘儀シリーズとも呼ばれる曲の中の一つなのだが、何と言っても特徴的なのは不協和音。まぁそもそもへテロフォニー自体がそういう音楽なので当然ではある。
けれど、これは統一された、秩序だった不協和音でなくてはいけない。好き勝手にやって良いという事ではないのだ。同じ方向性を向いて奏者たちが演奏していることが求められる。速い三拍子の旋回舞踊曲というかなり特徴的な音楽構成は、成功すればかなりのインパクトを以て迎えられるだろう。前二曲とはかなり別物だ。
「いや……やっぱりこれはちょっと……ウチの部活でこれを、う~ん」
私の何とも言えない濁った言葉に、先生も苦笑しながら頷く。
「そこでハモらないように、と注意することになりそうです。奥が深い曲ではあるのですが、今の北宇治にその深み、ある種の狂気性を出すことができるかどうか」
「いい曲なんですけどね。練習段階で気持ち悪くなりそうな気がします」
トランス状態、ある種のシャーマンのような雰囲気を出せるかどうかがカギになって来る。それなりに上級の団体じゃないと挑戦しないのではないだろうか。
「ただ、私が知る限りでは、これに挑む学校は一定数いるようです」
「そうですか……」
そして四曲目の『プロヴァンスの風』。スペインからプロヴァンスに行き、そしてまたスペインに戻るというイメージの曲らしい。プロヴァンスはフランス南部。ニースやマルセイユの周辺。イタリアとの国境地帯だ。古くはサルデーニャ王国だった場所が含まれている。随分前に旅行した記憶がよみがえる。地中海沿岸はどこもよかった。特に食事が美味しい。
そんな思い出はともかく、この曲の難しいのは、同じテンポの中で躍動感とゆっくりとした感じを両立させないといけないところがまず一つあるだろう。転調の部分もしっかり決めないと形が崩れるし、ホルンやクラリネットの登場回数も多い。バランスやハーモニーを考えることが大事になって来るだろう。それもあるが後大事なのは……。
「跳躍のトランペット。これは要練習でしょう」
「あなたの腕の見せ所だと思います。ここを外すと致命的ですが、やらせる自信はありますか?」
「誰に言ってるんですか?」
「おっと、これは失礼しました」
安い挑発なので軽く乗って流す。先生も分かってて言ったのだろう。やはり、部員の意見に私も賛同しようと思う。先生は性格が悪い。私じゃなくて実際に吹くのは中世古先輩以下のメンバーだが、正直そこまで不安視はしていない。先輩二人は問題ないだろうし、吉川だって元南中トランペットのエースだし、高坂さんという巨大戦力もいる。申し分ない。
そして最後は五曲目『暁闇の宴』だ。元々は第7回全日本吹奏楽連盟作曲コンクールで1位を取った作品である。課題曲Ⅴは強豪校が演奏するイメージが強いのだが、この曲も例に漏れず難しいところがそれなりにある。表現が多様だし、音符もかなり複雑に絡み合っている。この学校で挑むにはちょっと、いやそれなりにランクが上の曲であるように思う。
単純にかなりの高技術が要求されるため、全体をこのレベルに引っ張り上げるのは相当な難事になるだろう。我々は強豪校ではない。最初からこれに挑むのは無理があるように思えてならない。存在は示せると思うけれど、それで失敗していては元も子もない。もとより、今年全国に行くのは厳しいはずだ。なのであれば、もっと無難な曲があるように思う。
「これは無理では? 可能性を決めつけるのはよくありませんが、もっと無難な曲にするべきかと」
「指揮者としては是非挑戦してみたい曲ではありますが……自由曲の事も考えるとここで欲張るべきではないと考えています。どうでしょうか」
「私も同意見です」
取り敢えずこれで全曲出揃った。これから決定に入る。この部のメンバーは大会の人数より多い。余って、AとBに分かれて練習することになるだろう。実際にAを指導するのは先生と私。松本先生はBを受け持ってもらう形になるはず。なので、この曲に関する決定は私と先生が行うのだ。
「今ここでこうして話した上で、迷いつつではありますが私はⅣを推します」
まず先生が選んだ。私も迷ってはいる。ⅢとⅤはウチの部活には難しい。Ⅰ、Ⅱ、Ⅳから選ぶ。その場合、どの楽器に主軸を置くか、どの楽器がウチの部活の戦力かを見極めないといけない。一線級の実力者を考えればやりやすいだろう。トランペットは中世古先輩、吉川、高坂さんがいる時点でかなり強い。低音も田中先輩と黄前さん、それにチューバの二年二人も十分な戦力。川島さんは言うまでもない。クラリネットも悪くないし、ダブルリードはみぞれがいる。パーカスは全体的にレベルが高いからどれでも対応できるはず。
ともなれば、Ⅰはやはりフルートが不安だ。Ⅱは基礎部分にブランクという大きなディスアドバンテージを抱えているウチにどこまで出来るか。Ⅳも転調の部分がかなり際どい空気を醸し出している。だが上手く演奏しきれば、見事に決まるだろう。悩ましいが決断しないといけない。以上の観点から考えると答えは先生と重なった。
「私も……そうですね、Ⅳ番が良いかと」
「では、今年はⅣ番の『プロヴァンスの風』で行きましょう。そして自由曲ですが……実はもうこれがどうか、というものを松本先生と相談して用意しています。無論、何か問題点があれば指摘してください」
「分かりました。それで、どの曲を?」
「堀川奈美恵作曲『三日月の舞』です」
「堀川奈美恵ですか……なるほど」
「ご存知ですか?」
「一応同業者ですから。京都府出身で新進気鋭の音楽家。商売仇ですね。ですが、いい曲を書く人です」
繊細なメロディーとダイナミックな曲調が特徴的な作曲家だ。管弦楽など、多くの音楽に精通している人である。先生は『三日月の舞』を流し始める。輝かしいくらいに響くトランペットのファンファーレから曲が始まる。木管が上手く下支えをしながら、金管で力強い曲が紡がれている。
中盤に入ると雰囲気ががらりと変わり、トランペットの静かな高音が惹きつけてくる。この甘く切ない音を奏でられれば、それは相当な実力者だろう。というより、私が吹きたくなってきた。そして最後の方にはまた曲の雰囲気が変わり、各楽器が縦横無尽に動き回る。終幕に向けてホルンが格好良く輝き、そして最後は疾走するようになって、そしてスフォルツァティッシモで終わり。
「これをやるなら私が大会に出たいです」
「……申し訳ありません」
「そんな顔しないでください。冗談です」
冗談と言いつつ、私は軽率に大会に出なくていいという条件を承諾したのを後悔した。これはやりたい。是非ともやりたい。ソロがカッコいいし、最初のファンファーレも実に私の好みに合っている。元々金管が目立つ曲が好きなのだ。実に好みに刺さっている。
「今年の北宇治の強みをどう活かすか考えました。やはりトランペットが大きな戦力になることは間違いありません。奏者もしかり、指導者もしかり。ソロが大きな見せ場になるトランペットに対し、この部は世界最高の奏者を指導役に抱えている。これを無駄にするわけにはいきません」
「そういう理由ですか」
音楽面において私が優秀であることは否定しない。事実としてそうであるという確固たる自信が、私のこれまでの指導における基盤になっている。私だって結構プライドは高いのだ。努力と実績に裏打ちされたプライドは持っていて然るべきだと思っている。それが大事なアイデンティティになったりもするのだ。
「他にもオーボエのソロやユーフォニアム、パーカッションなど、この部活が持っているポテンシャルを全部引き出せるように選んだつもりです。しかし私も見えていない部分がある可能性が高い。是非、あなたの意見を聞かせてください」
「私もこの曲で良いと思います。何より、私はこの曲かなり好きなので」
私の意見を受けて、先生はホッとしたように息をついた。何か反対されるかもしれないと不安に思っていたのかもしれない。そんなに先生に反対ばっかりしているつもりは無いのだけれど、自分では思わない部分で何かプレッシャーになっていたのだろうか。だとしたら反省だ。
「後は編曲ですね。これは任せてください。得意分野ですので」
「それでは、お任せします。何日で出来そうですか?」
「三日以内に何とか」
「分かりました。それでは、出来次第譜面を見せてください。印刷して、配りますので」
「頑張ります」
これで曲の方は何とかなった。後は十二分に収まるようにするだけである。だが、見ないようにしていた問題がしっかり残っている。自由曲の見せ場とも言うべきトランペットのソロ。これは明らかな見えている火種だ。だが実際、この自由曲が北宇治に合っているのは事実だし、トランペットが実力者集団なのもそう。合理的観点から見れば、この自由曲は問題ない。
「ただ……先生、このトランペットソロの部分ですが……」
「それも含めて、オーディションで決めます。その日程も後でお伝えしましょう。上手い人が吹く。それこそこの部活に必要なことのはずです」
「そう、ですね」
それを言われては、もう何も言い返せない。私は見ないふりをした。だって、オーディションは先生と松本先生で行うのだろう。顧問と副顧問はこの二人だ。最終的な判断は委ねられている。そこに私は介入できる余地はないのだから。
「オーディションには桜地君にも参加してもらう予定ですので、そのつもりで」
「え? 私は大会には出れないのでは?」
「そうではありません。審査員側です」
「……なんですって?」
「私はあなたの耳が必要であると思っています。あなたの、音楽家としての力を貸してください」
その目は真っ直ぐに私を見据えてくる。先ほどの発言を遮ったのだってそうだ。先生は私の言わんとしていることを理解している。それでいてなお、審査員をやれと言っているのだ。責任を一緒に、背負わせるかのように。その視線から目を逸らすことは出来ずに、私は喉を鳴らした。曇り空の下で少し暗くなった教室で、私は決断の日が近いことを知らされていたのだ。
翌日。音楽室に集められた部員たちは神妙な面持ちで先生を眺めていた。曲発表があるのは事前に知らされている。
「皆さん、テスト週間お疲れさまでした。これからいよいよ本番である府大会に向けての練習が始まります。今年の曲を今までどう決めていたのかは分かりませんが、今年は指導陣で勝手に決めさせていただきました。申し訳ありません」
まったく申し訳ないという感情を感じない声で先生は一応の謝罪を行う。まぁこれに関しては元々勝手に決まっていたので問題ないだろう。そこまで曲に拘っている部員はいなかったのだ。
「以後のスケジュールは、先ほど配布した通りとなりますのでそのつもりで。そして今年の演奏曲ですが、課題曲はⅣ番『プロヴァンスの風』、自由曲は堀川奈美恵作曲『三日月の舞』となります」
そうなんだ、という感じの人が多いが、田中先輩は目を輝かせている。あの人はこういう知識も多い。そこは単純に尊敬できる部分だ。
「三日月の舞! 先生分かってますねぇ! 堀川奈美恵と言えば京都生まれ、京芸の作曲科に入学して大学院を出た若き作曲家ですね! オーケストラ作品や管弦楽、吹奏楽と幅広い舞台で活躍する今を時めく女性作曲家。魅力はやはり繊細なメロディーとダイナミックな構成! それと――」
「田中さん、気に入って頂けたようで何よりです」
鼻息荒い先輩の演説を、先生はぶった切った。これはこの対応が正解だろう。あの演説に付き合っているとそれだけで練習時間が終わる。今すぐ音楽史の講義でも出来そうな知識量だ。それが立て板に水な弁舌で語られるのだからスゴイ。普通の部員は流しているが、まともに聞くとしっかりとしたことを言っているのだ。一回付き合ったことがあるが、内容は良いのだけれど長いので辟易した思い出がある。
「それで、これからが大事なのですが、今年はオーディションを行うことにしたいと思います」
「オーディションって……?」
ざわめく室内を代表するように、不安げな部長の声が響いた。現在何だかんだそれなりに人数がいる。コンクールの規定は55名以内。無論それより少なくても可だ。だが多いのは認められていない。
「言葉通りです。私がこの後皆さんに課題となる箇所を指定しますので、当日に指導陣で一人一人の演奏を聞き、ソロパートも含め実際に本番に出るメンバーと編成を決めるという事です」
「「「えぇッ!」」」
声は主に三年生から出てくる。これまでの北宇治は、三年生が優先的に出場してきた。当然、ソロパートも三年生から決まる。ソロパートくらいは三年の中でも流石に実力順だった……と言いたいところだがそういう訳でもない。そもそも団栗の背比べなのと、部内でのヒエラルキーに左右されていた節が大きい。
このせいで去年大層問題になったのだが……それはともかく。吹奏楽は色んな部門がある。オーディションをやろうとしているのはA編成のメンバーだ。他にもB部門やら合同部門ことC部門などもある。人数や参加意思のある団体全部が参加できるように配慮はされているのだ。北宇治は基本AとBに出る。今年もそれは継続する予定だ。
「先生、私たちは今まで学年順でメンバーを決めてきました」
「それはよく知っています。ですが……それって不公平じゃないですか?」
先生は表情を崩さない。それに発言した方が気圧される。
「一年生だって努力している生徒は沢山います。実力が高い生徒も当然同様に。彼らの努力や実力を見ずに年齢だけでメンバーを決めるのは、乱暴なやり方ではありませんか? 普段ならともかく、何度も言いますが私たちは全国を目指しています。桜地君が再度決を採ってくれたそうですね。厳しい練習の一端を見て、それでも全国を目指すに多数が集まった、と報告を受けています。全国に行くために必要な手段を取るという方針は一貫しているつもりですので、オーディションもその一つだと、私は認識しています」
年功序列が悪いことだとは思わない。それで社会が円滑に回ることもあるし、単純に経験値のある方を選んだ方が良いこともある。ただ、この部の目標にはそぐわない。そういう話だ。
「そんなに難しく考えなくて大丈夫ですよ。三年生が一年生より上手ければよいだけの事です。尤も、皆さんの中に一年生より下手だけど大会には出たい、という上級生がいれば話は別ですが」
これでグッと全員が押し黙る。嫌な言い方だけれども、これは有効だ。ここで声をあげれば、その人が卓越した奏者でない限り、一年生より下手だと宣言したことになる。三年生の自尊心がそれを許しはしないだろう。一応反論する方法も無いわけでは無いが、教えたりはしない。それをするメリットが何もないからだ。
何より、去年の問題における原因がここならば、それを叩くしかない。同じ思いをする一年生を無くすには、オーディションを行う事こそ最適のはずだ。しかし二兎を追う事は出来ない。どちらかを取れば、もう片方は必ず取りこぼす。
「最後になりますが、仮に出場に足ると判断できる人数が55人を下回っていた場合、その人数で出場となりますので、そのつもりで」
それでは、パート練に移ってください。と先生は話を切り上げた。多少の動揺は残っているけれど、一年生は好意的に捉えている。チャンスがあるというのは大事な話だ。二年生は微妙な表情。三年生は苦い顔をしている人が多いが、逆らってもどうにもならないと分かっているのだろう。
「予定に関してパートリーダー会議を少しだけやるので、パートリーダーはいつもの教室に移動してください!」
部長が空気を切り替えるべく声をあげ、皆がぞろぞろと己の行くべき場所に向かって移動した。私もパートリーダー会議に用事があるので先にそっちに行かないといけない。こうなる未来は分かっていた。ついに来るべき時が来ただけ。心中の天秤が傾く音がした。