桜が満開に咲いている道を歩きながら、私は学校へ向かって行った。北宇治高等学校。私の学び舎であり、かつては兄さんたちの学び舎でもあった場所。少し古ぼけた校舎には、きっと多くの音が染みついているのだろう。
見上げた校舎の最上階にある音楽室からは何の音も聞こえない。去年だったら、私が来た頃にはもうみぞれ先輩のオーボエが響いていた。時々希美先輩や高坂先輩などの音が混じってもいた。あのオーボエはもう聞こえない。それがやっぱり、少し寂しい。寂しさもある心のせいか、校舎に響く私の足音がやけに大きく聞こえた。
まだ人がいないのかもしれないと思い、私は職員室の扉を叩いた。
「おはようございます」
職員室にも、まだ人はまばら。けれど、私の目的としている人物は既に席に座っていた。
「滝先生、おはようございます」
「あぁ、おはようございます」
滝昇。我らが吹奏楽部の顧問にして、北宇治高校躍進の立役者。兄さんを吹部に戻した張本人でもあり、今や戦友に近い立場にある人だ。私と滝先生の間柄は普通の生徒と教師以外の何物でもないように思っているけれど、向こうからすれば兄さんの妹ということで多少は思うところもあるのだろう。なにせ、先生は兄さんに負い目がある。いくら兄さん本人が気にしなくて良いと言っても。
私も兄さんが奏者ですらない立場で部活に戻ると言った時、正気を疑った。同時に、誘った先生の常識を疑った。おおよそ、大人のすることではないと思ったのだ。もっと言えば、教師のすることではないと。ただ、並の手段では北宇治がここまで来れなかったのは事実。二年連続の全国大会出場が、先生のこの判断が正しかったことを示している。
「つい先ほど、黄前さんたちが鍵を持って行きましたよ」
「そうでしたか、ありがとうございます」
「桜地君はお元気ですか」
「はい。新居の写真が送られてきました。ご覧になりますか?」
「よければ、是非」
「ちょっとお待ちくださいね……」
私は携帯を取り出し、写真フォルダを開く。そこにはベルリンの洒落たアパートの一室で写る兄さんがいた。その次の写真では友人から下げ渡されたという車と写っている。日本より羽を伸ばしてそう、とは希美先輩の談だ。その声音が若干怖かったのは、私の気のせいではないと思う。それは何と言うか、自分の知らない兄さんに嫉妬しているように見えた。なんだかんだで愛されてると思う。
「こんな感じです」
「順調なスタートを切れているようですね」
「そのようです」
先生は苦笑しながら写真を眺めている。先生は存外普通の人だ。確かに北宇治を強豪にした名指導者ではあるけれど、それは先生の一側面に過ぎない。先生が迷っていることも、先生が言ったとぼけた発言も、私は兄さん経由ではあるけれどある程度知っている。去年はそんなに先生の話をすることも無かったけれど、一昨年は私がまだ北宇治に行くかは不明だったので普通に先生の話をしていた。
兄さん関連では無茶苦茶なことをしたと今でも思っているけれど、それはそれとして私はこの先生が嫌いじゃない。人間らしくて、良いと思ってる。少なくとも中学時代の顧問に比べれば百倍マシだ。ゼロに何をかけてもゼロかもしれないが。
「去年は桜地君に頼ることが多かった分、今年も同じような感覚で色々と物事を進めてしまいそうで、少し心配です」
「先生は、あまり頼れる人がいらっしゃらないんですか?」
「難しい質問ですね。いない訳ではない……と思います。橋本先生や新山先生は頼れる存在でした。無論、松本先生も。ですが、殊に指導に関して一番頼れるのは、彼でしたから。本来、教師が生徒を頼るモノではないのですが」
「それは……そうかもしれません。でも、兄さんは滝先生に頼ってもらえることは嫌がって無かったと思います」
「そうであれば、嬉しいことです」
兄さんと滝先生の間にある信頼関係のようなモノは、私にも希美先輩にもはっきりと分かるようなモノじゃないんだと思う。具体的な定義は難しいけれど、それでも一番近い関係性を私の語彙力の中から探し当てるのであれば、信頼であり、友情であると思う。最終下校前に指導の報告以外にも、いろんな話をしたのだろう。多分、くだらない話とかも。年上の友人の多い兄さんにとって、先生とそういう話をすることも、別におかしな話では無かったんじゃないかと思う。
「兄さんから連絡がありましたら、またお伝えしますね」
「ありがとうございます。それと、桜地さん」
「はい?」
「頑張ってください」
「……はい」
その「頑張って」に込められた感情はどういうモノなのだろう。単純に生徒だから頑張って欲しいのか、私が希美先輩卒業後のフルートのエースとして期待されているということなのか、それとも桜地凛音の妹という重圧に負けるな、ということなのか。もしかしたら全部なのかもしれない。とは言え、何であれ頑張るのは事実だ。希美先輩に託された後事をいい加減にこなすわけなど無いのだから。
桜地凛音の妹、という視線があるのは理解している。何を今さら、とすら言えるかもしれない。私の十六年の人生はそんなことの連続だ。私は音楽の天才にはなれない。だからどうしたというのだろう。そんなことは前提条件だ。そこで嘆いても仕方ない。私は私の出来る事をする。ただ、それだけだった。
「失礼しました」
頭を下げて職員室を後にする。春の廊下は、日陰に入るとまだ少し寒い。窓から入る陽だまりの暖かさと暗い影の寒さを交互に繰り返しながら、私は階段を上がる。最上階の一番奥。そこに音楽室はある。錆び付いた扉に手をかけて、静かに開いた。
「おはようございます」
入り口で一礼し、挨拶を済ませてから音楽室に入った。今日は一年生を迎える演奏を校門近くでやる日になっている。いい具合に天気は晴天。絶好の演奏日和になっている。曲目は「恋」。星野源作詞作曲で、ドラマ「逃げるは恥だが役に立つ 」の主題歌だ。かなりヒットした曲で、音楽評論家などからも高い評価を受けている。兄さんも何か称賛する文章を書いていたような記憶があった。
私はリアルタイムでドラマを見ていたし、今は希美先輩が録画してあるのを見ている。受験生だったので見れなかったらしい。曲を元にしたダンスも流行っていて、希美先輩に踊れるか聞いてみたら小一時間で割と完璧に踊れるようになっていた。やっぱり運動神経が良い。流石だと思ったのをよく覚えている。
そんな曲なので、多分一年生のウケもかなり良いだろう。選んだのは副部長。中々エンタメ系のセンスがあると思う。
「あ、桜地さん。早いね」
「演奏前に少し音を出しておきたかったので」
肩の上でくるんと弧を描く、茶色を帯びた癖毛のセミロングは我らが部長。優子先輩からその地位を受け継いだ私たちのリーダー。黄前久美子その人だ。本人がどう思っているかは不明だけれど、美人に分類される方だとは思う。高坂先輩と並んでいると高坂先輩の方に視線が向きがちだけれど、クラスではそれなりに人気があるんじゃないだろうか。私はひそかにそう思っている。
「高坂先輩はどちらに?」
「お手洗いだよ」
「なるほど」
高坂先輩の物と思しきトランペットの横には、多くの練習計画が書かれた紙。根幹は兄さんが作成したものだけれど、そこに幾つも先輩自身の手で書き込みがされていた。チラリと見れば、消しゴムの跡が無数にある。煩悶の形跡が確かに残っていた。
正しい練習方法というものがあるのかは分からない。きっと、明確な正解は無いのだと思う。兄さんは多くにとって有益な練習アプローチをしていたけれど、小日向さんを最後に動かしたのは加部先輩の働きが大きい。久石さんは夏紀先輩の献身によって少なからず救われている部分がある。誰かにとっては取るに足らない行いでも、誰かにとっては一生を作用することもあるのだ。私を救ってくれた、或いは兄さんに声をかけた、希美先輩のように。
「高坂先輩、お忙しいようですね」
「う~ん。他に出来る人もいないからね……」
部長の歯切れの悪い声が響く。部長は優秀な奏者の一人だけれど、練習計画を考えられるかと言われるとまた話は変わって来るだろう。求められている能力が違う。部長と副部長は部内の統率を、ドラムメジャーは練習の指導を。そういうコンセプトで今年の幹部は作られている。それはつまり、高坂先輩に相談できる相手があまりいないと言うこと。最終的には一人で決定しないといけない状況が存在している。
兄さんに連絡すれば返事はしてくれるだろうけれど、別に暇なわけではない。それに現場にいないとどうしようもない部分もある。先生に聞いたら相談には乗ってくれるだろうけれど、滝先生に対し大きな感情を持っている高坂先輩は、手を煩わせるようなことをしたくないと考えていてもおかしくない。思うに、高坂先輩は人に頼るのが苦手だ。指導というのは先生の仕事なのだから、練習計画など任せてしまえばいい。滝先生ならやってくれるだろう。兄さんがおかしかっただけなのだ。
と、私が説得しても多分聞き入れてはくれないだろう。あの人の中で、兄さんの背中は大きいのだ。それは、時に彼女を苦しめるくらいには。
出来る人がいない、という部長の言葉が私にチクリと突き刺さる。お前が断ったから親友が大変なんだぞ、という意思はないはずだけれど、そう言われているような気がした。これはきっと罪悪感だろう。面倒ごとを恐れて逃亡した私が自分自身に対して抱いている、罪悪感だ。でも引き受けますと言えるほど私は無鉄砲ではなくて、黙ったまま目を逸らした。
「「「おはようございまーす」」」
少し間延びしている三つ重なった声が響いて、私はスッと視線を上げた。慣れ親しんだ姿が見える。時計を見れば、少し時間が経っていた。音楽室の入り口にいるフルートの同期たちの姿を見て、安堵している自分がいた。彼女たちの所にいれば、余計な重苦しいことを考えなくて済む。
私たち北宇治高校吹奏楽部フルートパート二年生は四人で構成されている。まずは江藤香奈さん。私と同中の吹部なので、中学からの同期だ。一緒に全国にも出たことがある。中学時代の私はそこまで他者と進んで交流するタイプでは無かったけれど、同じパートの彼女とはそれなりに話す機会があった。昨年は惜しくも大会メンバーを逃したが、去年のメンバーは層が厚かったので仕方ないだろう。希美先輩が強すぎた。
次に平石成美さん。高校からの初心者だけれど、上達速度は悪くない。フルートパートの縁の下の力持ちは彼女だろう。勉強的な頭の良さというより、人間関係における頭の回転の速さがあるタイプの人だ。話の中心にいる事が多く、話題を持って来るのも彼女な事が多い。視野が広いのも魅力なところだろう。希美先輩をどことなく思わせる部分があった。
続いて山根つみきさん。非常にマイペースな性格をしている人で、演奏にもそれが時々出ている。そのせいか、技術はあるけれどムラがあると兄さんに評されていた。映画鑑賞が趣味で、それもメジャーどころだけではなく結構マイナーな映画まで網羅しているタイプだった。お勧めしてくる映画はしっかり面白いし、お勧めしないと言われた映画はしっかりつまらないので、下手なレビューサイトよりあてになる。
この三人に私を加えたカルテットがフルートパートの二年生だった。ここに三年生三人を加えた計七人でこれまで活動している。新しい部員が何人加わるのか、楽しみなところだ。楽器のストックは三、四ほどある。沢山いれば良いという訳ではないけれど、一定数の人数は欲しかった。
「皆さん、おはようございます」
「あ、涼音ちゃん早いね、もう来てたんだ」
「はい。今日は少し早めに来ようかと。皆さんもいらっしゃったので、丁度良いですね。練習しましょう」
「「「はーい」」」
「では部長、失礼します」
「あ、はい」
部長に頭を下げて、三人を連れ立ってフルートパートに振り分けられた教室へ向かった。後一時間ほどすれば、本番の時間になる。校門近くで演奏し、一年生の入学を祝うと共に新入部員獲得のための演奏を行うのだ。ファーストコンタクトは大事というけれど、部活においてもそれは同じだ。最初に良い演奏を華やかに行えれば、良い印象を与えることが出来る。そうすれば、新しい部員も入ってくれやすくなるだろう。定演などと同じように、大事な機会だった。
演奏を終えて、やや急ぎ足で教室に向かう。時間的余裕はまだあると腕時計が告げていたけれど、ギリギリというのはあまり好きではない。出来る限り余裕を持って優雅に。そういう風に生きていたいのだ。教室の扉を開けて飛び込んでくる景色は、特に変化が無い。他のクラスに所属している生徒はクラス替えに一喜一憂しているけれど、私のいる進学クラスはクラス替えが無いまま三年間進んでいく。なので見慣れた景色だった。
北宇治高校は窓側の一番前から名前順に座っていく。「桜地」は窓側から二列目の後ろの方か三列目の真ん中の辺りだった。
「ウェーイ」
「ごきげんよう。今日もお元気そうで」
「春の初っ端から元気なくても困るしね」
くるりと少し巻かれた髪、どう考えても染めている薄い髪色、松本先生が見たら憤激しそうな短さのスカート、爪や唇は派手ではないけれど桃色に染められている。進学クラスでは、というより北宇治では珍しい派手なスタイルをしている彼女が、私の教室における友人だった。名前は園崎揚羽。部活は軽音部で担当はギター。パッチリした大きな目は可愛らしさがある。肌は白いしスラッとしていてスタイルも良い。自分を綺麗に見せるのに努力を怠っていないことがうかがえる容姿だ。
高校がスタートして、どんなクラスメイトがいるのかと少し楽しみにしながら教室のドアを開けたら、彼女がいた。あの時は少しビックリしたのを覚えている。北宇治は割と地味な格好をしている人が多いからだ。特に進学クラスは真面目な生徒が多い印象を受ける。そういう意味では、このクラスで彼女の容貌は浮いていた。とは言え、性格は至極温厚。普通にいい人なので話しやすいため、孤立しているようなことはない。成績がいいので先生方も扱いに困っているようだ。なにせ、私がいなければ彼女が首席入学になっていたのだし。
「お
「部活ですから」
彼女は私を変わった呼び名で呼ぶ。あだ名で呼ばれる経験もそこまで多くないので、私にとっては新鮮な事だった。
「彼ピじゃないの?」
「そちらもありますが」
「ほら~。ウチと滝野センパイならどっち選ぶのさ」
「……純一先輩ですかね?」
「友情より恋情だぁ、ひっどいなぁ」
ケラケラと彼女は笑っている。こちらも冗談で返しているので、そういう対応をしてくれて助かった。実際にどっちを選ぶかなんて質問の答えが、こんなに早く出てくるわけがないのだ。鞄を机に置いて、中身を広げる。大したものは入っていないけれど、提出書類が何枚かあるのだ。去年までと緊急連絡先だったりが変化している。兄さんの住所も変わってしまった。ドイツにいる人を連絡先にしてもしょうがないので、一番は雫さんに連絡が行くようになっている。二番目は一応祖母。とは言え、多忙なのですぐに動けない事の方が多いだろう。三番目は希美先輩になっていた。別に家族で無くても連絡先に登録は出来る。
そしてもう一枚は進路に関する調査用紙。普通は三年生になると配られるのだが、進学クラスは二年生からざっくりとした進路を聞かれる。私立大学か、国公立大学か。専門学校や他の選択肢もある。海外留学もその一つだった。具体的な大学名を書かないまでも、どういう学部に行こうとしているのかを知ろうとする学校側も意思を感じていた。
「理系なん?」
「一応は」
「ウチと一緒だね~」
私の用紙にチラリと目をやって、彼女は言う。どういう訳か、私たちはざっくりとではあるけれど進路が似ていた。女子で理系を選ぶ生徒は、この学校では少ないらしい。
「どこ学部?」
「……まだ悩み中です。IT系か医学系に行こうかとは思っていますが」
「そっか~」
兄さんが家の家督を継いでくれることになったので、私は割と好き勝手な進路を選べるようになった。兄さんが自分の道を歩んでいるので、私もその恩恵を預かっている。少なくとも飛び級留学音楽系よりはぶっ飛んでいない進路を選ぼうとしているのだからかもしれないが。
「いいんじゃない? 医者、似合ってるよ」
「その心は?」
「いい感じに怖いから」
「褒めてませんね、それは」
そう? とケラケラ笑っている彼女にジトっとした目を向ける。そんなに怖いだろうか。普通の人の前では普通にしているつもりだったので、少し心外だった。
「何にしても、ウチらにはちょっと早すぎるって思うけどな、進路希望なんて」
「今の時代は、早めに情報を入手しないといけないんでしょうね。何をするにしても」
「まだ高二になったばっかなのに、そんな先の事なんか分からないって」
彼女が腕を伸ばす。それに合わせて色素の薄い髪がたなびいた。
「取り敢えず、ウチは東京に行く」
「東京?」
「そう。音楽やるなら、絶対東京の方が良いから。少なくとも、クラシックとかじゃないなら」
「でも進路は理系と」
「保険が無いのに突っ走ったりできないし。学歴ってあって困る事より無くて困る事の方が多いし」
「それはまぁ、そうですが」
東京に行く、という選択肢は私には無いものだった。私は京都から、というより関西から離れるつもりが無い。離れる理由もない。アジア最大の都市に行って、私は何をするのだろうか。渋谷や池袋を歩くのだろうか。全く想像できない。そもそも、特にやりたいことも無いし目指したい職業もない。進路なんて考えなくても自動的に設定されているのが、私のお父さん世代までの桜地家だった。そして私もそうなるはずだった。家を飛び出した雫さんや、海外へ行った兄さんが特殊なだけなのだ。でも、いつかはそれが普通になるのかもしれない。時代が変わるように、家も変わっていくのだから。
「まずはそのために勉強して、部活して、高校時代を後悔無いようにするって感じかな」
「偉いですね、しっかりと自分の将来を見つめていて」
「そう? お涼に褒められるとちょっと照れる。そうだ、部活で思い出したけど、恋鳴らしてたね」
「あぁ、先ほどの演奏ですか?」
「そうそう。吹部ってもっとお堅い感じだと思ってたけど、意外とノリいいよね」
「北宇治の吹部はオンオフ激しいですから。去年の文化祭は割と飛ばしてたでしょう?」
「確かに」
「軽音部はどうですか?」
「それがさぁ、レチクルいなくなってからもう大変で。やっぱ先輩たち上手かったし」
レチクルとは望遠鏡や顕微鏡の指標のために、視野内に刻まれた十字線を指す。星座にもなっているこの名前をバンド名に付けるセンスは、結構良いんじゃないかと思う。南中出身者兼吹部退部者で構成されたこのバンドは、軽音部を引っ張る存在だったという。その彼らも卒業し、今は少し勢いに欠けると、彼女は嘆いているのだ。
兄さんや希美先輩がレチクルの人たちをどう思っていたのかは分からない。希美先輩は関係性を保っているらしいけれど、兄さんの方は全然話題にしようとしなかった。あの人たちもきっと、どこかであの夏に囚われていたんじゃないかと思う。私を、そして南中を縛ったあの府大会銀賞だった夏に。その証拠に、私たちが全国金を獲った後、久しく動いてなかった先輩たちからのLINEが来た。ただ一言、「ありがとう」とだけ。それで言いたいことは全部伝わった。あの夏がやっと終わったのだ、と。
「上手い先輩がいなくなって苦戦しているのは、どこも同じみたいですね」
「フルートも?」
「それなりには。希美先輩はやはり、エースでしたから」
「あーね。ウチも聴いたよ、リズと青い鳥だっけ? めっちゃ感動した。あれならお涼が憧れるのも分かるなぁって感じ」
「でしょう?」
自分の身内……と言っても差し支えない人が褒められたとなれば、それなりに嬉しいモノだ。思わずむふーという感じにドヤ顔をしてしまう。それを見て彼女は優しく笑った。
「そっち界隈には詳しくないけど、YouTubeのコメ欄に書いてあるよ。リズと青い鳥は去年の北宇治が歴代で一番だって。編曲と奏者が噛み合ってる、メッセージ性が凄い、なんで銀なのか信じらんないってさ」
「そうなんですね。私はそういうのはあまり見ないので……」
なんで銀なのか。それは、私も思っていたことだった。何かが足りなかったのは事実なのだろう。けれど何が? それが私の中で引っかかっていた。歴代最高の演奏と称えられる音を出した。私たち自身でも、自分たちの中で一番上手い演奏だったと思っている。編曲も良かった。会場では泣いてるお客さんが何人もいた。金だと、そう勝手に思っていた。兄さんがいて、希美先輩やみぞれ先輩がいて、高坂先輩たちのような滝先生と兄さんの薫陶を受けた世代が育ってきて、私も南中部員を率いて参戦して。何より、優子先輩と夏紀先輩の下にみんな団結して。一体どこに、負ける要素があったのだろうか。
私は揚羽に一つ嘘を吐いた。私も、色んなネットの意見を見たことがある。納得できなくて、私たちの敗因を述べている人がいるんじゃないか、そう思って探してみたことがある。そこで見つけたのは、審査員と兄さんの関係性について。曰く、桜地凛音編曲&指導というのは審査員もよく知っている。だからこそ、厳しめに採点されたんじゃないかというモノ。正直、陰謀論みたいな話だ。けれど、一瞬だけ真実なんじゃないかと思ってしまった。でもすぐに考えを改めた。その厳しめの採点を突破できるくらいじゃないと、金は取れない。そういう場所なんだと。
「お涼、大丈夫?」
「え、はい、大丈夫ですよ?」
「そう? なんか、怖い顔してたから」
「……そうですか?」
「うん。……あ、そっか、桜地センパイがいなくなって悲しいんだ。ブラコンだなぁ」
「ちが、そんなんじゃ……」
「えぇ? でも寂しくないの?」
「それは……まぁ……」
自分の家から、兄さんの気配が無くなった。その代わりに太陽のような気配が漂うようになった。勿論、希美先輩が家にいることは嬉しい。でも、出来れば二人セットでいて欲しかったというのは、私のワガママなのだろうか。一年なんてあっという間だった。兄妹が同じ時間を共有していた、数少ない時間は、風のように過ぎ去ったのだ。
「寂しいなら、素直にそう言えば良いんじゃない? お涼はもっとワガママになるべきだと思うけどなぁ」
「私は十分ワガママですよ」
「そう? ウチはあんまりそうは思わないけど」
「……」
「お兄ちゃん大好き! って言ったら桜地センパイ嬉しさで昇天するんじゃない?」
「言いませんよ、そんなこと!」
ケラケラと笑う彼女に、少し毒気を抜かれる。一緒にいると気を張らなくて良いのも彼女の良いところなのかもしれない。油断した自分を、あんまり見せるのが得意じゃない私にとっては。あまり認めたくはないけれど、誠に不本意ながら後一名そういう態度を取れる人間がいないことも無い。彼女は二年一組にいる。剣崎さんと共に。
「まぁ冗談はこの辺にしとくとしても、桜地センパイいなくなったの、吹部にとっては大変じゃない? 高坂センパイとかなんて、桜地センパイの事スゴイ好きだったじゃん。師弟的な意味で」
「そうですね。そこは……懸念点だと思ってます。兄さんが遺した遺産は多いですが、その中には呪いも、多分入っているので」
「優秀な人の跡をなぞる大変さ、か。苦労するよね、二代目とか、そういうのは」
「ですね」
彼女は老舗の呉服店の生まれだった。だからこそ、そういう重荷は理解しているのだろう。跡を継ぐ、というのは大変な事だ。比較対象が、偉大であればあるほど。
「でも、高坂先輩も一人じゃないですから。というか、私はあなたが高坂先輩の事に関する割と深い理解を持っていることにやや驚いています」
「まぁね~、これでも色々詳しいから。吉沢センパイと、黄前センパイって人とよく一緒にいるとかは知ってるよ。それに、有名人だし」
「吉沢先輩はライバル、黄前部長は盟友という感じでしょうか。どちらも括り的には親友でしょうけど」
「吉沢センパイの方もそれなりに有名だよね。あの高坂センパイが心を開いてる数少ない人って話だし、一時期桜地センパイの彼女候補最有力を傘木センパイと争ってたし」
「そんな話になってたんですか!?」
「そうそう。あー、お涼は他人の恋バナとか興味ないタイプだったからなぁ。桜地センパイと傘木センパイが付き合い始めて、それでフラれたのは明白じゃん? それでちょっと他クラスの心無い人に良くない絡まれ方をされたらしいんだけど……」
「だけど?」
「高坂センパイがブチ切れて退散させたって話」
「そ、そうですか……」
高坂先輩がブチ切れているなんてあんまり想像できないが、不用意に虎の尾を踏みに行った人たちはさぞ怖かった事だろう。まったく同情はしないが、自分がそういう立場にはなりたくないとつくづく思う。多分、この話は兄さんは知らないのだろう。女同士の秘密、という事なのか。知っていたら多分家で話してるだろうし、吉沢先輩も高坂先輩も黙ったままにしたのだと思う。多分、優子先輩は知っているが、原因が原因なので希美先輩や兄さんに話していないと思う。
恋とは面倒だ。人間関係を好転させることもあれば、変なトラブルを招くこともある。私だって、純一先輩と付き合い始めた後は色々絡まれて大変だった。付き合ってるのが事実か確認しに来る人はまだ良い方で、酷いとよく分からない勘違いを拗らせた結果、先輩に殴り込もうとしている人までいた。そういう存在の対処に、揚羽と久石さんが協力してくれた。あの時は、とても感謝したのをよく覚えている。こんな風に面倒な恋愛というモノだけれど、それでもそれを圧倒的に上回る良い事や楽しいことが存在している。だから、止める気なんて無かった。
「はーい、席つけー」
担任の先生がやや気だるげな声で告げながら、教室に入って来る。わらわらと生徒たちが席に座った。彼女は私の隣にいる。
「ねぇ、お涼」
「はい」
「今年もよろしく!」
ニカっと笑う彼女に、私も微笑み返す。
「えぇ、よろしくお願いします」
私たちの鞄には、今年のお正月に行った初詣で買ったお揃いのお守りがぶら下がっている。それと、小さなぬいぐるみも。空は晴れ晴れとしていて、青い。窓の向こうには桃色に染まる街が見える。部活、学校生活、人間関係、進路、その他諸々。この先どうなるか分からない事ばっかりだ。でも、私は一人じゃない。クラスにも、部活にも、家にも、それ以外でも、頼れる人は沢山いる。きっと大丈夫、なんてそんな楽観的な予測を立てたのはいつ以来だろう。そういう風に思えるようになったのも、多分ここに来たからだ。
「つぎ、桜地」
先生が名前を呼ぶ。それに応える私の声は、いつもよりも溌溂としていた。
「はい!」