早速今日から新入生勧誘期間という事で、昼休みの間にもあちらこちらで勧誘の声が響いている。メンバーが最低限必要な体育会系の部活などは、勧誘に力が入っていた。吹奏楽部は元々北宇治の中では有名な部活なので、必死に勧誘する必要性はそこまでない。ただ、経験者だけれど迷っているような一年生には声をかけに行くことになっていた。
開け放たれた窓からは、涼やかな風が吹き込んでいる。それに乗っかって桜の花びらが、私の机の上にはらはらと一枚降って来た。紅茶のペットボトルの蓋を開ける。やや甘い香りが漂ってきた。
「頂きます」
手を合わせた後、弁当箱を開いた。二段重ねになっている箱の中には、綺麗におかずとご飯が詰まっていた。
「お涼のお弁当、何か可愛くなった?」
「分かりますか?」
「去年のはもうちょっと茶色かったような気がする」
目の前に座っている揚羽は買ってきた焼きそばパンの包装を剝がしながら言った。茶色かったのもそうだろうけど、多分スティックとかが可愛くなっているのだろう。仕切りなんかもカラフルなモノになっている。百均で揃えたと、希美先輩は言っていた。兄さんの城だった台所周辺はいつしか段々希美先輩の色に染まっている。
「ん? てか、誰がそのご飯作ったの? お涼の壊滅的な料理センスじゃ無理でしょ」
「そこまで酷くは……」
「アハハハ」
「なんですか、まったく」
「無自覚って怖いんだねぇ。ウチは今凄く思い知った」
「はぁ……。それはともかく、このお昼ご飯は希美先輩が作ってくださいました」
「マジ? どういう経緯でそうなってるん?」
確かに、卒業したはずの先輩に昼ご飯を作ってもらっている後輩というのはよく分からない状況だろう。その先輩が、兄の恋人であったとしても。
「言ってませんでしたか?」
「うん」
「それは失礼しました。今、私の家に希美先輩が住んでるんですよ。生憎、我が家で料理がしっかりできるのは兄さんだけでしたので。兄さんがそれを心配して、希美先輩に頼んで住んでもらっているんです」
「じゃあ、同棲的な?」
「まぁ、簡単に言えば。私が掃除担当、
「へぇ。桜地センパイも可哀想になぁ。折角カノジョと同棲って言う最高な状態なのに、日本にいないなんて」
「そうですか?」
「お涼はハッピーだからいいじゃん。大好きなセンパイと一緒にいられるんだし」
「確かに、それはそうですが」
確かに、私は結構恵まれた状態にいるのだと思う。色んな好きな人に囲まれながら平和に過ごせている。兄さんがいない事だけが、少し寂しいけれど、今以上のモノを求めてしまったら罰が当たるだろう。十分幸せなのだ。そういう風に、思わないといけない。
「でも、それって傘木センパイも大変じゃない?」
「なんかハマったみたいです。元々何かしているのが好きな方なので、工夫次第で変化していく料理は性に合っていたんじゃないでしょうか。曰く、兄さんが帰ってきたらびっくりさせるんだとか」
「愛だねぇ。けど、お涼は甘えちゃダメだよ。当たり前だと思わないで、しっかり感謝しないとね。人間、当たり前だと思い始めた瞬間に感謝を忘れて、むしろやらないと責め始めるし」
「はい。それは重々肝に銘じています」
彼女は時々スルっと重たいことを言う。重苦しい声ではないし、いつも通りの軽い声で言うから見逃しがちだけれど、きっと今までの人生の中で楽しい事ばかりでは無かったのだろう。それでも、彼女は前を向いて歩むことにしたのだと思う。そこにどういう経緯があったのか、私はそこまで知らない。でも、それで良いのだと思う。いつか必要な時に、知れば良いのだから。
逆に、彼女も私の過去なんてあんまり知らない。両親がいない事、兄さんとの関係、希美先輩との関係。そんなことくらいだ。聞かれないから、答えていないだけで、別に聞かれたらいつでも答えようとは思っている。でも、知らなくても友人ではいられるんじゃないかと思う。なんでもかんでも知っていて、何でもかんでも分かり合うことだけが友人では無いのだろう。優子先輩と夏紀先輩はいつでも仲が良いわけではないけれど、それでも親友だった。みぞれ先輩と希美先輩は綺麗な感情だけでは無かったけれど、そこには友情があった。そういうモノなのだと思う。
「それはそうと、お涼にお客さんじゃない?」
「はい?」
彼女が指差す方に視線を向ければ、教室の入り口からこちらを見ている顔があった。扉に半分隠れてはいるけれど、その姿から誰であるのかは一目瞭然だった。
「確かに、私のお客さんのようです」
「でしょ?」
彼女はメロンパンに移っていた。飲んでいるサイダーの泡が爆ぜては消えていく。購買のパンは美味しいのだろうかと思いながら、私は手招きするジェスチャーをした。気付かれた! という顔になった彼女は、少し迷った後ゆっくりと姿を現す。「ほら、大丈夫じゃん」と、後ろの方から何人かの声がした。失礼します、と告げて彼女を筆頭に教室に入って来る。一年生が四人やってきたことに、教室にいる同級生は少し注目しているようだった。
「お、お食事中失礼します!」
「そんなに緊張せずとも構いませんよ。お久しぶりですね、義井さん」
「はい……! お久しぶりです!」
感動したような声を出しながら、彼女は私に深々と頭を下げた。彼女は私が忘れているとでも思ったのだろうか。揚羽がケラケラと笑っている。彼女は一回後でひっぱたくとして、今は義井さんの対応をするのが優先だった。
「お元気そうで、安心しました」
「あの、私……」
「はい」
「申し訳、有りませんでした」
「……」
「先輩から期待を受けて、部活を受け継いで、でも、金賞を獲れませんでした」
少し泣きそうな声で、彼女は頭を下げながら言う。去年の南中の結果はよく知っていた。全国大会銅賞。それが、彼女が率いた部活の結末だったのだ。金賞だった一昨年と比較すれば、確かに良い結果では無かった。残念だとは思った。しかしそれは、金を獲れなかったことに対してではなく、後輩たちの努力がもっと良い結果になって欲しいと思っていたからだ。
「あなたは、死力を尽くして最大限の努力を行いましたか。部長として、自他に恥じる行動はしていませんか」
「はい、それは、もちろんです」
「ならばそれで結構です。大切なのは己の持つ力の範囲で最大限の努力を行う事です。それまでの練習よりも一番良い演奏を本番で出来ていたのであれば、なんら恥じることも謝ることもありません。自分たちはベストを尽くしたと、堂々としていなさい。それがあなたのするべきことです。よろしいですね?」
「ありがとう、ございます!」
彼女を慰めておきながら、私は自分に大きなブーメランを投げているのに気付いていた。ベストを尽くしたならば、恥じる必要が無い。その論理で言えば、私は中学時代の自分のやり方について反省する必要などないことになってしまう。彼女に語ったことは、自分の状況と矛盾している。この矛盾を解消する術は見つかりそうにない。彼女に言ったことが間違っているとは思わないが、自分が反省する必要が無いとも思わない。どうしようも無さそうなので、一回無視することにした。
「さて、この話はここで終わりにしましょう。あなたの音や想いは去年の演奏で十分伝わりました。兄も褒めていましたよ。私は大変誇らしかったです。それよりも、私のところへ来たという事は、後ろの三人も含めて吹奏楽部に入部したい、ということでよろしいですか?」
「は、はい。えっと、まずは紹介しますね」
「いえ、大丈夫です。南中バスケ部の釜屋すずめさん、漫画部の針谷佳穂さん、テニス部の上石弥生さん。ですよね?」
「「「おぉ……」」」
義井さんの後ろにいた三人は、私の確認に拍手で返す。どうやら、私の記憶力はまだ衰えてはいないらしい。反対に、義井さんはビックリした顔で私を見ていた。
「どうしてご存知なんですか?」
「どうしても何も、あなたが紹介してくれたと記憶していますが。あなたが一年生の夏頃に教室を尋ねた際に」
「そうでしたか……?」
「えぇ。大切な後輩の昔からの親友とあれば、覚えているのは当然です」
「涼音先輩……!」
キラキラした目をしている義井さんの純粋な視線が眩しい。彼女に言ったことは嘘ではないけれど、真実でもない。彼女は優秀だけれど、凄くメンタルが強いわけではない。清純な精神性を持っているが、それゆえの脆さも存在している。
もし部活で何かしらのダメージを負った際に、回復するためのアプローチは複数あった方が良いだろう。そういう思惑から、彼女が紹介してくれた幼馴染三人のことも記憶に留めていたのだ。もし万が一の事態が発生した際には、私にとっての希美先輩になってくれることを期待して。あとは単純に、人の顔と名前を覚えるのは得意だ。そういう家に生まれて、そういう教育を受けている。社交界では常識だった。兄さんの方がこういう技能は長けているだろうけれど。
私の勝手な印象ではあるけれど、釜屋さんはお調子者な気配を感じる。けれど、それは愚かさを持った振る舞いではなく、どことなく空気を読んだうえで道化に徹することもある、そういうお調子者の雰囲気だった。こういう人は、何も考えていないようでしっかり考えているのだ。そのヘアスタイルの入念さやヘアピンの様子からも、意外としっかりしている人間性が垣間見せる。
上石さんはそのバンダナが特徴的な子だ。くっきりした目鼻立ちが与える威圧感を、その丸みを帯びた頬が中和している。洒落たスタイルからは陽気な人間性が垣間見えるようだった。こちらも釜屋さんと同じように陽気でお調子者なのだろう。けれど常識も持ち合わせている。二年生の教室に入る際に、釜屋さんは堂々としていた。だが上石さんは少し緊張していた。似ている二人だが、こういう小さな動作に違いが見える。
針谷さんはおっとりした穏やかさ、そして遠慮がちな雰囲気を醸し出している。けれどただの引っ込み思案という訳ではなく、マイペースな要素も持っているのだろう。私に拍手を送った時も、釜屋さんと上石さんの拍が大体一緒だったのに対し、結構ズレていたところから、そうなんじゃないかと推理した。先輩の教室の中でも緩やかな笑顔を浮かべているというところからも、その人間性を伺える。
三人とも、名前と顔は知っていたけれど、人間性を把握したのは今日が初めてだった。あくまでも第一印象なので、ここから修正が必要だろうけれど、そこまでズレてもいないだろうと思う。ともあれ、義井さんの幼馴染ということであれば、問題のある人間では無いはずだ。その点において、義井さんは信用できる。まぁ私のような人間に尊敬を向けているので、少々微妙なところもあるけれど。
「義井さんだけではなく、三人も吹奏楽部を希望してくださったのは、嬉しいことです。希望の楽器などはあるのですか?」
「あ、あの出来れば三人一緒がいいなって。初心者なので……」
「なるほど、分かりました。とすると……」
針谷さんの言葉も理解できる。仲良し三人組で同じパートが良いというのも分かる話だ。初心者なのは心細い部分もあるだろう。だから、三人で支え合って上手くなっていきたい、という思惑はおかしな話ではない。
そう考えると、どこのパートが良いだろうか。義井さんのクラリネットは人数的の余裕があるけれど、激戦区すぎる。私のフルートはそこまで人数を募集していない。マイ楽器があれば良いのだけれど、単純に楽器のストックが少ない。出来れば経験者に来て欲しいのが本音だ。ダブルリードも同じ。木管は止めた方が良いだろう。
金管はどうかと考えると、まずトランペットは絶対やめた方が良い。あそこは北宇治最強パートだ。初心者を受け入れるとしても精々一人。それに、例年初心者はマウスピースを鳴らせるかというテストがある。トロンボーンやホルンも、楽器のストック的に初心者を三人も受け入れる余裕は無かった。サックスは可能かもしれないが、あそこもクラリネットと同じような状態だ。とすれば、残りは低音。元々希望者も少ないパートであるし、楽器のストックもある。チューバとユーフォニアムで分かれるが、同じパートにはなれるだろう。
「低音パートなどいかがでしょうか」
「鶏肉柔らかくするやつですか?」
釜屋さんがとぼけた声で聞いてくる。こういうノリは好かれないこともあるだろうけれど、私は別に嫌いではない。フルートパートにも天然でこういう事を言ってくる蕾実先輩がいる。
「それは低温調理ですね。そうでは無くて、低い音と書いて低音です。詳しくは、低音パートの方に聞くと良いでしょう。大丈夫ですよ、優しい方々ですから。放課後になったら案内しましょう」
「「「「ありがとうございます」」」」
四人が声を揃えてお礼を口にする。自然と揃っているのは、保育園から一緒だという四人の、過ごしてきた時間の為せる技なのだろうか。少しだけ笑ってしまう。何度も頭を下げながら三人を引き連れて一年生のフロアに戻っていく義井さんを見送った。
「ふぅ……」
「お涼、後輩にはあんな感じなんだね」
ニッと笑いながら揚羽は私にからかいを含んだ視線を送って来る。
「そんな疲れるくらいなら止めればいいのに」
「もう癖になってしまっていて」
「いいとこ見せたいんだね。あの義井さん? 可愛い子だし」
「そういうんじゃないです」
「ふ~ん?」
確かに、彼女の言うように、もう少し砕けても良いのかもしれない。希美先輩がそうだったように。先輩は何も威厳や厳しさだけを見せるモノじゃない。それは理解しているのだけれど、どうしても染みついたものは取れそうになかった。むしろ、全体指導では威厳を保ちながら、個人指導や普通の関係性の中では砕けていた兄さんが変なのではないかと思ってすらいる。
「でもあの義井さんって子、何となくピシッとしてるね。立ち居振る舞いがお涼に似てる」
「神社の子なんですよ、彼女」
「それでかぁ。何の楽器?」
「クラリネットです」
「あぁ、壊しちゃうやつ」
「それで覚えているのもどうかと思いますが、まぁそれです」
「なんとなくっぽいかも。お清楚って感じだし。フルートかクラリネットで言ったらクラリネットだと思う」
「それはフルートが清楚ではないと?」
彼女はあさっての方向に視線を向けながら無言で微笑んだ。失礼な、と思いながらも冗談だと分かっているので別に嫌な気分になったりはしない。それでもスルーするのはフルートパートの沽券に関わるので、一応ぺしっとノートで叩いておいた。
低音に三名、クラリネットに一名入ってくれそうだけれど、肝心のフルートパートに何人入ってくれるのだろうか。あの一年生四人組と話していたら、それが気になってしまった。どういう後輩なのかも気になる。いい子が入ってくれることを願って、残っていた紅茶を飲み干した。
私の僅かな不安とは裏腹に、それなりの人数の希望者が見学に訪れ、そしてその大半が入部を決めてくれた。ここから何人がどのパートに配属されるのか。それによって、今後の部活の在り方も大分変化することだと思う。人数の多い激戦区になるも、少数だけの精鋭集団になるも、これから次第ということだ。一年生たちの表情はそれぞれだった。不安を抱えている人、これからの未来に期待を寄せている人、新入生が持っている高揚感に身を震わせている人、本当にそれぞれだった。兄さんは前に立って新入生を眺めながら何を考えていたのだろうか。あの人の目線から見れば、私も他の一年生も大同小異だったのかもしれない。
前に部長が立つ。二三年生はすぐに静かになり、そして一年生も数拍遅れで静かになった。その沈黙に少し気圧されたような気配を出しながらも、部長は口を開く。
「今日、皆さんは吹奏楽部に入部を希望して、この教室に来てくれたんだと思います。こうして新しい仲間が部に加わるというのはとても嬉しいです。私は部長の黄前久美子です。これから一年間、よろしくお願いします」
非常に丁寧な挨拶に、拍手が起こる。優子先輩とはまた違った部長の姿。まだまだ緊張しているようにも見えるけれど、無理もない話だろう。元々黄前部長は前に出て積極的にイニシアティブをとっていくタイプではないように思う。だとしたら、今の職は慣れないことをしているというわけだ。でも、だとしたらなぜ優子先輩や兄さんは彼女を部長にしたのか。その明確な理由は、私にはまだ掴めないままだった。
「これから皆さんには楽器を決めてもらいます。金管楽器、木管楽器、打楽器と色々ありますが、よく分からない人もいると思いますので、各パートの代表に紹介をしてもらいます。それを見て、どの楽器が良いのかを考えてください。今日この中にはもう既に決めている人も、逆に決めかねている人もいると思います。北宇治は人数が多いので、みんながみんな希望の楽器になれる訳では無いです。でも、希望以外の楽器になっちゃっても音楽を作る一員になることには変わりないので、頑張って欲しいと思っています。それでは、まずはトランペットの紹介からです。麗奈、どうぞ」
部長の促しに従って、高坂先輩が一歩前に踏み出す。その長い黒髪を払いのけ、堂々と前を見ている。その澄ました表情に一年生からは黄色い声が湧いて出た。そのまま前を向いて自身の楽器を構えると流麗な音を奏でる。世界を獲った兄さんが、最も期待を寄せる弟子。その面目躍如というべきか、単純な音の出し方で既にその格が伝わる。それは一年生にも伝わったようだ。初心者でも、圧巻の演奏を前にしてその目を輝かせている。
「ドラムメジャーを担当しています、トランペットパートの高坂麗奈です。ドラムメジャーというのは本来歩きながら演奏するマーチングバンドの指揮者なのですが、北宇治では演奏会の指揮や音楽的な指導を行う仕事となっています。私の担当するトランペットは、金管楽器の中で最高音域を持っている楽器です。先ほどの演奏のように華やかな音色が特徴です。高音域なので、よくも悪くも目立ちます。自分の演奏をみんなに聞かせたいという、前に出る気持ちが強い人にピッタリな楽器だと思います。勿論、私も気が強い方です」
三年生からは笑いが漏れる。中でも吉沢先輩が大爆笑していた。笑っているあなたもどっちかというとそっち側だと思いますが、という言葉は心の中だけで呟いておく。
「私は自分が優しい先輩だとは思いません。厳しいことも言うと思います。ただ、私は絶対みんなを上に連れていくという自信があります。世界一の奏者から受け継いだ教えを以て、頼れる相棒と共に皆さんを鍛えます。一緒に頑張ってみたいと思う人は、是非トランペットを希望してください。以上です」
頼れる相棒、と言われた吉沢先輩が一年生たちに軽く手を振っている。そのニコニコした様子は一見すると高坂先輩とは真反対に見える。けれど、多分吉沢先輩も音楽面では妥協は許さないし厳しいだろう。あの二人には兄さんの弟子であるというプライドがある。生半可な指導は絶対にしない。トランペットの一年生は大変だ、という他人事じみた感想を抱きながら、他のパートの紹介を聞いた。大体つつがなく進行していったのだが……
「初めまして~。低音パート、久石奏です」
これは酷い。いつもの数割増しにぶりっ子な声は猫なで声を通り越して不気味ですらある。
「みなさ~ん、私が手にしているこの楽器ぃ~、分かりますかぁ~? ユーフォニアムと言って、丸みを帯びた美しい音色を奏でる楽器なんですよぉ~」
これ見よがしのウインク。黄前部長はおろか、剣崎さんですらドン引きの表情を見せている。私も多分、顔が引きつっている。NHKの教育テレビの幼児向け番組ですらここまでしないだろうと思わせるその紹介は、色物代表を狙っているのなら見事に優勝だろう。何を考えてあんな感じなのかはさっぱり不明だけれど、最大限好意的に解釈するなら、一年生に低音パートを色物と思わせてこの前紹介した初心者三人組が同じパートに入れるようにしたという感じだろうか。これも大分無理矢理な解釈だけれど、私の想像力の限りで必死に肯定的解釈をするとこうなった。多分、違うと思う。これは来年の卒部会で話題になること必至だった。
ちょっと頭痛がするような紹介が終わり、黄前部長は表情に乾いた笑いを浮かべながら木管楽器に移行した。トップバッターは私たちのフルートパート。今年の紹介担当は私になった。パートリーダーの沙里先輩が頑張れ~という念を送って来ている。それに応えながら、前に立った。いつもよりも意識してピシッと背を伸ばし、脚を揃える。立ち居振る舞いから優雅に。染みついた教えはこういう時相手に好印象を与えるのに役立つ。
「皆さん、ごきげんよう。フルートパート二年、桜地涼音です。こちらがフルートになります。フルートはリードを使わない楽器となっております。原理としてはリコーダーと同じですね。かつては縦笛も横笛も同じフルートでしたが、時代を経るにつれて名称が変化し、この形状をフルートと呼称するようになりました。とは言え知識を聞いても魅力は伝わらないモノです。ですのでまずはこの子の音色を聞いてもらいましょう」
兄さんに買ってもらった私の相棒に息を吹き込む。演奏する曲は初心者の子もいることから知名度に配慮してスタジオジブリの『猫の恩返し』より「風になる」にしてみた。なんか吹いてみてよ、と音楽に詳しくない人に言われた際にジブリなんかの有名な曲を演奏するとウケが良いので助かっている。音楽に詳しい人相手に演奏する場合はパッと実力が伝わるので、そっちでも便利だ。
高貴な銀色を輝かせ、優雅な音色が紡がれる。我ながら、上手く演奏できたと思う。エリザベスⅡ世と名付けたその名に相応しい演奏になったんじゃないだろうか。Ⅰ世じゃないのは、兄さんが改名する前のトランペットがそういう名前だったからだ。一年生たちは目を輝かせて私の方を見てくれている。義井さんなんかは感動で震えていた。それはそれとしてクラリネットに行くのだろうけれど。
「優雅で、華麗で、時折大胆。そよぐ風にも、夜空の月光にも、燃える情熱にもなれる。それがフルートの持っている魅力です。かつてフランス王国の宮廷やドイツの名君フリードリヒ大王にも愛されたこの音色を、共に奏でましょう。みなさんをお待ちしております」
私が一礼すると、大きな拍手が起こる。沙里先輩たちフルートの三年生三人組はグッジョブというジェスチャーをしてくれた。取り敢えず成功したと思って良いと思う。久石さんがあの紹介をしてくれたおかげで、私の紹介が数割増しでまともに見えているらしい。どうやら、あの惨憺たる紹介をした本人もそれは自覚しているようで、私が微笑みかけるとプイッと顔を逸らした。その間に次のクラリネットが終わって、ダブルリードの紹介が行われる。
「オーボエとファゴットはダブルリードの楽器です。オーボエはパッと見ではクラリネットがちょっと大きくなった感じ、ファゴットはとにかくながーい楽器ですねぇ。どちらも学校にある楽器の数が少ないので、人数に限りがあります。少数精鋭のパートなんで、逆に仲良くなる気満々です。ちなみに、私も葉月先輩と同じく一年生指導係なので、気軽にりりりん先輩って呼んでくださーい」
オーボエを手にしながら剣崎さんはニコニコ手を振っている。ダブルリードで今回の紹介は終わりになった。
「じゃあ楽器紹介も終わったところで、早速楽器決めに移りたいと思います。まず初めに第一希望の楽器の所に行って、そこにいる先輩たちに希望している旨を伝えてください。人数が多ければ第二希望、第三希望と別の楽器に移動してもらうことになります。マイ楽器を持っている子、経験者の子は割り振りに加味しますので、事前にその場にいる先輩へ申告してください」
「「「はい!」」」
「どの楽器になるのか確定した子は、私の所へ来てください。全員の割り振りが決まり次第ミーティングに移りますので、自分が決まっても先走らないように気を付けてください。それでは、移動開始です」
部長の指示に従って、一年生たちがぞろぞろと移動を始める。ここから先は、基本的に先輩たちにバトンタッチする形になる。私たち二年生は横で何かあれば補佐をするのが仕事だ。とは言え、そんな事態にはそうそうならないので、実質的には結構暇な時間だ。フルートパートは木管の中では花形にされがちだけれど、実際はそこまで人数も希望者も多くない。吹部の一番人気は基本的にはトランペットだった。
そして、最終的に二人の一年生がフルートパートに加入することになる。一人は吉田巧美さん、もう一人は水井陽向さん。いずれも経験者なので、最低限の知識は持っていると思って構わないだろう。私たちは教えるためのスキルを学んだわけではないから、やはり最低限自前で技能や知識を持っていてくれた方が助かるというのが事実だった。
吉田さんは短めの黒髪をした真面目そうな子。水井さんは茶髪をカチューシャで留めたおっとりとした感じの子。そういうパッと見の第一印象を受ける。はきはき喋る吉田さんんに比べ、水井さんはゆっくりと喋る。なんとなく対照的な二人であるように見えた。ともあれ、この二人がこれから二年間付き合っていく仲間になる。面倒事を起こしそうにない二人である事に、少し安堵していた。それは、先輩や同期達も同じだったらしい。顔にそう書いてある。
全部のパートに割り振りが出来た後、部長は私たちを再度集めた。
「では、一度集まってください」
「総勢、91人」
高坂先輩が名簿を見ながら呟く。その人数は、中々の数だった。南中の吹部も大きかったけれど、それでもそこまでの人数だったことはない。三年生が22人、私たち二年生が44人、そして一年生が25人。圧巻の数字だ。音楽室も心なしか狭い。
部長がその数字に驚いている中、音楽室の扉が開かれて長身痩躯の男性が入って来る。我らが顧問、滝昇だ。その登場に音楽室の一年生からは黄色い声が上がる。一体いつまでその声を挙げられるのか、密かに二年生の間では賭けられてる。私は二週間に一票だった。そして、その声にジトっとした目を向けているのが我らがドラムメジャーだ。兄さんも言っていたけれど、何とも分かりやすい。
「遅くなってすみません。あぁ、お話し中でしたか」
「いえ、大丈夫です」
「そうですか、では、軽く。一年生は初めましてですね。顧問の滝昇です。担当教科は音楽ですので、皆さんの授業を受け持つこともあると思います。これから、よろしくお願いします」
「「「お願いします!」」」
「それでは、部長」
「……はい! では、今日はこれから、この部の活動方針を決めたいと思います。北宇治高校吹奏楽部では毎年、活動の目標を自分たちで決めることにしています。結果を求めて厳しい練習に励むか、結果よりも部活を楽しむことに重点を置くか、具体的に言えばこれを目指すかどうかという事になります」
部長は軽く黒板を叩いた。そこには白い文字で全国大会金賞と書かれている。
「毎年、最初に多数決で決めています。自分の気持ちに正直に、後悔の無いように選んでください」
この多数決はただの通過儀礼に過ぎない、と考えるのは少しひねくれ過ぎているのかもしれない。けれど、実際にここで全国に手を挙げない人はいないだろう。上級生は去年までの感情があるから、一年生は反対する理由が無いから。故に、これは基本結果の見えている投票だ。だとしてもするのは、全員を同じ目標に悪く言えば拘束、良く言えば団結させるため。そのために必要な儀式とも言える。
私だって反対する理由はない。全国大会金賞という目標は素晴らしいし、そこに向かって努力するつもりだ。けれど、どうしてそうしたいのか、と聞かれた時に私はなんと答えるのだろうか。去年だったら、大好きな先輩や兄さんと挑める最後の大会だったからと答えられた。では、今年は? 同期や三年生の先輩のため? あるいは自分のため? 答えは不明瞭だ。だから取り敢えず、希美先輩に後事を託されたから、そして純一先輩に一番目立ってみせると約束したからという事にした。そうしないと、思考の渦の中に囚われてしまいそうだったから。
「全国大会金賞を目標に頑張りたいと思う人は、挙手をお願いします」
誰かを理由にして挑むのは、逃げじゃないのか。また、中学時代と同じことをするのか。私の中にいる後悔が、そう囁く。私はそれを無視して、右手を天に伸ばした。あの頃の私と今の私は違う。あの頃は、こんな通過儀礼すらすることなく、勝手に目標を決め、勝手に通達して、挑ませた。そんな独裁者は、もういないはずなのだから。
次々と手が上がる。上級生は真っ直ぐと。一年生は迷いながら、或いは周りを見ながら。それでも構わないと思う。入ったばかりの組織で、すぐに目標を自分の事とするのは難しい。会社でもそうだろう。入社したばかりの会社で掲げられた目標を見ても、まずは自分の仕事に慣れるのが最優先。部活でも同じ話だと思う。
「では、満場一致で、今年の北宇治高校吹奏楽部は全国大会金賞を目標とします!」
とは言え、この結果は部長には喜ばしいモノだったようで、露骨に安堵の顔になる。ふぅ、良かったぁという弱々しい声も漏れていた。案の定、副部長にまだ終わってないと突っ込まれている。そのツッコミに、音楽室に笑い声が起こる。
「あ、え、えーと、全国で金を獲る事は決して楽な事ではありません。でも、えーと……」
「では、後は私からお話しても?」
「は、はい」
部長に代わって先生が前に立った。
「部長も言っていた通り、全国金を獲る事は容易ではありません。ですが皆さんは今日、今、目指すと決めたんです。そのことを忘れないでください。皆さん、分かりましたか」
「「「はい!」」」
その返事に、先生は満足そうな表情を浮かべた。そして、また口を開く。
「新入部員の皆さん、北宇治高校吹奏楽部へようこそ」
そして、今日この日この時より、北宇治高校吹奏楽部のこれから一年間続く激動の日々が始まったのだ。