「それでは、本日からという事になる。一年間だが、よろしく頼む」
「はい、よろしくお願いします」
希美先輩から歓迎会のアドバイスを貰った翌日。私が職員室を訪れると、応接コーナーになっている場所から、そんな声が聞こえてきた。片方は吹奏楽部の副顧問でもある松本先生の声。そしてもう片方の柔らかな声は聴いたことの無いモノだった。松本先生と話しているという事は、多分先生のクラスの生徒なのだろう。低音の三年生や吉沢先輩、芽衣子先輩なんかが所属しているクラスだ。
立ち上がった松本先生と目が合う。その対面に座っているであろう人物の青い袖が見えた。そんな服を着ているという事は、クラスの人ではないのかもしれない。そういう風に思いながら、頭を下げて挨拶を行う。
「おはようございます」
「あぁ、おはよう。桜地は……及川先生か」
「はい。提出書類がありましたので」
及川先生は、私の担任だ。進学クラスを受け持っているせいか分からないけれど、プライドが高い。担当教科は数学だった。校則違反の常習犯である揚羽との相性は死ぬほど悪いと言っても過言ではないだろう。去年には私の部活動に対して練習させ過ぎと苦言を呈し、兄さんに余計なお世話と一蹴されていた。
「そうか。丁度良い機会だ、今少し大丈夫か?」
「はい、問題ありませんが……?」
「紹介しよう、黒江、こっちへ」
「はい」
黒江、と呼ばれた人物が立ち上がり、衝立の向こうに隠れていたその姿が私の視界に入った。茶色を帯びた艶やかな黒髪を肩から胸元にかけて流している容貌からは、清楚という文字が浮かんでくる。垂れ目がちな相貌と白い肌は両性から好感を持たれるであろう姿をしている。服を押し上げる双丘、それでいてスッとしたスタイルはボッティチェリの作品に通じる。
そして何よりも、その装いが私の目を引いた。紺色のセーラー服は、私たちの制服とは明らかに違う。そして、その制服を使っている学校を私は良く知っている。私の母と雫さんの母校。二人の青春を彩った九州の女子校。その名は清良女子。北宇治とも、私や兄さんとも縁の深い学校だった。
「黒江真由って言います。福岡から転校してきました。よろしくお願いします」
「ご丁寧にありがとうございます。北宇治高校二年七組、桜地涼音と申します。以後、お見知りおきを」
どこかで見たことある顔だと思った。そう言えば、去年の全国大会でも演奏していたし、北宇治との交流会でもその顔を見たことがある。一度見た顔は忘れないのが商家の鉄則だ。とは言え、流石に話したことは無かったので思い出すのに少し時間がかかってしまった。
「黒江は私のクラスに配属になってな。吹奏楽部への入部も希望している。桜地は二年生の中心だからな。知っておいても損はないだろう」
松本先生が腕組みをしながら言っている。なるほど、確かに損はない。転校したばかりで知り合いの少ないであろう彼女に、そのフォローが出来そうな私を引き合わせるのは悪い選択肢ではないと思う。だが、私はそれ以外の事を考えていた。転校生は別に良い。そう言うこともあるだろう。だが問題は、吹部への入部希望の方だ。
ただでさえ激戦区が多い吹部。その中でも、彼女のパートはユーフォニアムだった。ユーフォ自体が激戦区とは言わない。けれど、殊に今年に限っては事情が異なる。ユーフォには部長がいるのだ。そして、去年の演奏を聞く限り、実力は伯仲という具合だろう。少なくとも、部長の方が勝っていると断言はできない。オーディションで場合によっては……という未来予測を否定はできなかった。
何か幸いなことがあるとすれば、黄前部長も久石さんも、既に去年彼女と会っているという事だ。黄前部長に至っては一昨年も出会っている。兄さんが清良との交流会を行った結果、多少なりとも関係性は築けている。ならば、凄まじくギスギスすることはない、と信じたい。部長が崩れると、下も崩れてしまう事がある。特に、カリスマに依拠した部分の大きい今の北宇治という組織は。
究極的に言えば、部長が彼女に負けなければ良いだけの話なのだ。向こうは九州の超名門で一年生からメンバー入りしている怪物。しかし、こっちだって負けてはいない。低音はコントラバスを除いて金管に分類される。金管は兄さんと滝先生の管轄分野だった。一昨年は未来を担う人材として、去年はユーフォのエースとして、それぞれ兄さんや先生に鍛えられてきた黄前部長が清良に劣るとも、また思えない。
「あの、もし人違いだったらごめんなさい。桜地って、桜地凛音先生の……」
「はい、桜地凛音は私の兄です」
「やっぱり! 去年の演奏会とか大会でも演奏してたし、桜地ってことはって思ったんだ」
「清良の方に覚えて頂けているとは、光栄です」
「大友先生がよく話してくれたの。桜地先生のお母さんと、先生が同期で、一緒に全国に行ったって。演奏も何回も聴いたし、清良の子の憧れなんだ。こんな風な青春を送りたいねって」
そんな風に思われていたとは知らなかった。自分の母親の青春時代が、その伝統や想いを受け継ぐ後輩の憧れになり、時に支えになったりもしているというのは喜ばしい事だった。きっと、母も喜ぶだろう。自己肯定感の高い人だったから、当然とドヤ顔で言い切りそうな気もするけれど。栄光の初全国時の部長というのは、長らく称えられるらしい。今日は仏壇で面白い報告が出来そうだ。
「桜地先生にも、交流会でお世話になったなぁ。いっぱい注意されたけど、凄くためになって……自分の思った通りの演奏ができるようになったんだ」
「その言葉、兄が聴けば喜ぶと思います」
「あ、ごめんね、私ばっかり色々と」
「いえ、お気になさらず。私は構いませんから」
柔らかい、という印象は間違っていないように思える。悪感情を抱かせにくい話し方、振る舞い方。それが意図的なのか自然なのかはまだ読み取れない。けれど、彼女に敵意を抱くのは難しいだろう。もし敵意を向けたとしたら、敵意を向けている自分が、まるで間違ったことをしているような気がしてくるのではないかと思う。
「黒江先輩は、どうして北宇治に?」
「京都に引っ越すってなった時に、北宇治しかないなぁって思ったの。マーチングより座奏重視だし、上手いし、何より楽しそうだったから、かな」
「楽しそう、ですか」
「うん。去年と一昨年に交流してみて、凄く部活の空気が楽しそうだったから。去年は特にね。みんな生き生きしてて、音楽を楽しんで……。だから、去年のリズと青い鳥も、凄く感動したんだ。あんなに希望に満ち溢れた演奏ができるんだって。それで、転校するなら北宇治にしたんだ。知ってる子がいるっていうのもあったけど、何より私、合奏が好きだから」
その言葉からは嘘偽りは感じられない。確かに、去年の部活の空気は良かった。ただし、私の中の比較対象が自分の圧政の下にあった南中吹部なので、アレに比べればどこも大体空気が良いという判定になるだろう。果たして他校から見ても良かったのかは何とも言えない。隣の芝生は青く見えるという言葉もある。個人的には、交流した清良のフルートパートの様子を見るに、凄く空気が悪いという印象は受けなかった。
去年の空気は、優子先輩と夏紀先輩が必死で作り上げたものだ。それに加えて言えば、三年生の先輩たちが密接に連携して取り組んでいたから生み出せたものでもある。私たち一般部員の知らない所で沢山発生していた問題を解決していったその努力は、死に物狂いとすら言えるかもしれない。兄さんは黙して語らないけれど、その裏で心を砕いたことも多くあったのだろう。今年も同じような状態になるかは分からない。それは誰が悪いとか、誰の能力が足りないという事でもないはずだ。
「そう、でしたか。北宇治をそのように評価してくださったことはありがたいことです。私も、微力ながら黒江先輩の部活動生活が良いモノになるように努めますので、どうかご安心ください」
一礼する私に、彼女は少し安堵したような息を漏らす。緊張していた空気が少し緩んだのを感じた。
「これからよろしくお願い致します、黒江先輩」
「こちらこそ、よろしくね。それと、真由で良いよ」
「分かりました。では、そのように」
「ふふふ」
「どうしましたか?」
「涼音ちゃん、なんだかお嬢様みたい」
「……そうでしょうか」
自分でお嬢様だと主張する気はないけれど、「みたい」と言われるのもなんだか語弊があるような気がして、微妙な気分になる。面と向かって言われたことが無かったかもしれない。私が微妙な顔をしている間、予鈴が高らかに鳴り響いた。
「そこの二人! 打ち解けるのは結構だが、そろそろ時間だ。黒江はこの後私と一緒に教室まで来てもらう。桜地はもう行きなさい」
「「はい!」」
松本先生の呼びかけに答える私たち二人とも返事の声が大きくビシッとしているのは、吹奏楽部という同じような空間の中にいたからなのだろうか。
「それでは先輩、また放課後にお会いしましょう」
「うん、またね」
微笑みながら手を振る彼女に頭を下げて、私は職員室を後にする。予想外の転校生の存在が部活にどんな影響をもたらすのか、ハッキリとは分からない。しかし、合理的に考えれば、彼女を迎え入れるべきなのだ。久石さんは上手い奏者に分類できるけれど、決して余裕があるわけではない。まだまだ発展途上だ。黄前部長も多忙。そうなると、初心者である針谷さんに技術を伝えることのできる時間的・技術的・精神的余裕のある先輩がいないことになる。今年はまだしも、来年再来年を考えた時に、それではいけないのは明白だ。
そこで、黒江先輩は非常に有益な存在となる。針谷さんに技術を伝えることもできるだろう。清良女子で不足という事はないだろう。針谷さんだけではなく、同じ低音にいる釜屋さんや上石さんにも基礎を教えることが出来る可能性もある。良い刺激にもなるはずだ。上手い奏者が側にいることは、上手くなるうえで効果的である。
だから、彼女を受け入れて有効活用するのが部活のために一番良い選択肢だと思う。彼女の能力は腐らせておくには勿体ない。人柄も悪くないので、後輩受けも悪くないはず。後は、彼女の存在を部長と久石さんが認めることができるのかどうか。そこにかかっているだろう。果たして兄さんだったらどう考えるだろう。唐突に湧いたライバルを、それこそ決して大人数が選ばれるわけではユーフォニアムの転校生を、部長が認められると、何のマイナスな影響を受けないと考えられるのだろうか。私には、どうしても火種のように思えてならなかった。同時に、それが誰が悪いという事で片付く問題ではないことも、悩ましい問題だった。
逆に言えば、彼女を心から肯定できるということが、部長の条件なのかもしれない。優子先輩がそうであったように。黄前部長もそうできる、と信じられるほど私は楽観的ではいられなかった。もし三年生が冷静でいられないのなら……。そこまで考えて、頭を横に振った。今自分が考えたことは、恐らく良いことではないと思ったから。
一年生が入部して、音楽室は一気に狭くなった。普段の練習の音も分厚くなり、そこらかしこで一年生を指導している上級生の姿を見ることができる。経験者の一年生も多く存在しているけれど、最初から求められている水準に達している生徒は非常に少ない。そういう生徒はイコールで上級生とコンクールの枠を競い合う存在という事になるだろう。しかし、やはりそういう存在は少ないもので、現在多くの生徒から有力視されているのは義井さんくらいなものだった。
私たちのフルートパートも例に漏れず、入って来たばかりの一年生に早速技術の伝達を始めていく。とは言え、いきなり普通の練習に参加させても戸惑ってしまうだろうし、着いて行くのも難しいだろう。着いて行けるのは一部の天才だけだ。私は、多くの部員は天才でも何でもないと思っているし、天才である必要もないと思っている。金賞を獲るのに、大会メンバーになるのに何も天才である必要はないのだ。必要なのはたゆまぬ努力。ただそれだけである。
「さて、基礎練習として中学時代までに何をやっていましたか」
「えっと、ロングトーンをひたすら……」
「私も、そんな感じです」
「なるほど。しかし、それははっきり言ってしまえばあまり正しいとは言えませんね」
沙里先輩に頼まれた通り、一年生の指導は私が行っている部分が多かった。一番指導系の経験値があり、かつ技術的に優越しているのが任されている理由だと自負している。
「ロングトーンが有効ではない、とは言いません。しかし、ロングトーンはあくまでも基礎練習の一部に過ぎません。これだけを行って基礎練習を済ませた気になっている生徒や指導者は数多存在していますが、それでは上達は見込めないどころか、却って逆効果になってしまう事もあります。理由は二つ。一つ目は、やりすぎるとアンブシュアに不必要な緊張を与えてしまうこと。二つ目は音作り、或いは良い音を出すためであればより効果的な練習方法が存在しているからです。ここまでは、よろしいですね?」
「「はい」」
「よろしい。では次に行きます。ここまで述べた理由により、このパートではロングトーンだけひたすらやると言った練習方法は採用していません。部活内ではひとまず三十分ほどを基礎練習に費やしています。内訳としては、ロングトーン、タンギング、ビブラートの練習がそれぞれ五分ずつ、その後音階の練習に十五分という具合です」
「基礎練習に、三十分もかけていいんですか?」
吉田さんから飛び出した疑問はもっともなものだった。もっと短めにして曲の練習をしたい。そういう意思があるのは良いことだと思うし、否定したりはしない。けれど、まずはこの程度を行ってもらうことにしていた。基礎が無くては何も出来ない。それが私の思想であり、兄さんの思想でもあった。基礎が出来ないのに、どうして応用が出来るのか。それくらいできる、と思っても毎日確認する。そうすることで、技術は失われずに保つことができる。
加えて言えば、普段は勉強モード、学生生活モードになっている脳や体を強制的に音楽モードのすることもできる。このメンタルの切り替えも、存外演奏には影響してくるものなのだ。
「構いません。基礎練習こそが全ての要になっています。面倒に思うかもしれませんが、毎日確実に行ってください。そうすることで、技術の衰えを防ぐとともに、表現を行う上での土台を形成することが出来ます。今何の練習をしているのか、それがどういう効果があるのかを意識しながら練習を行ってください。筋肉や脳、神経はそういう意識によって漫然と練習するよりも効率的なパフォーマンスを行ってくれます。よろしいですか?」
「「はい!」」
「一応、もっとやりたい人用のコースも存在はしますが、部活の中では中々難しいモノがあります。とは言え、休日の午前のパート練習などでは可能なこともありますので、知りたい場合は聞いてください。ですが、まずは先ほど提示した時間配分の練習で合格点を貰えるように努める事。それが今後しばらくの課題です」
兄さんのいるベルリン・フィルの首席フルート奏者にエマニュエル・パユという人がいる。その師匠であるミシェル・デボストというとんでもない偉大な奏者が書いた本『フルート演奏の秘訣』に書いてある練習法が、そのやりたい人用のコースだった。全部で三時間の計画として存在している。この本は絶版してしまい、日本語のモノは今では電子版しかない。だが英語版が兄さんの私物として存在していたので、それを中学時代に何とか頑張って読解していた。
「努力というものには方向性があります。そして、それを間違えるとその努力は効果をもたらすことがありません。闇雲にやっても意味がない、という事です。正しい方向に努力を行うことが、自身の望む未来へ到達する近道なのです。それを胸に刻んでください」
「「はい」」
「では、少し休憩にしましょう。何分かに一度は休憩を挟んでください。メリハリをつけて練習をすることで、練習効果が上昇します」
ふぅ、というように一年生二人は息を吐いた。ここまで座学のような時間だったので無理もないだろう。最初に知識面を話して練習の目的や効果について理解してもらい、その上で実践を行うというのが私のやり方だった。目的を理解せずに行動するよりも、理解して行動した方がパフォーマンスが良くなると考えている。目的意識、というのは存外馬鹿に出来ない効果があるからだ。とは言え、疲れはするだろう。しかも、私は兄さんのように柔らかくない。お固い先輩に色々言われては精神的にも疲労してしまっても仕方ない。私はとっつきにくい先輩だと思う。
「お疲れ様」
「お疲れ様です、沙里先輩」
「どうかな?」
「まずは基礎について理解してくれたと思います。いきなり飛ばし過ぎても仕方ないですし、これくらいから始めるのが良いのではないかと。二人とも真面目で優秀です。私の話も、きちんと聞いてくれています。これから実践する中で、論理を実体験に置換してくれることでしょう」
「うんうん、やっぱり任せて正解だったね」
「お褒めに預かり光栄です」
「それで、ちょっと相談なんだけど、ドラムメジャーから今後の練習計画を出してくれって言われててね。一緒に確認して欲しいなぁって」
「もちろんです」
先輩が見せてきたスマホの画面には、白いメモ帳アプリのページに今後の予定が書かれている。四月中盤の練習計画としては問題ないように思える。今後控えているイベントは、五月上旬のサンライズフェスティバル。これを過ぎれば後はオーディションまで一直線だ。それを見越して徐々にハードルが上昇していく練習計画は、去年のモノをある程度踏襲しているようにも思えた。
「私は大丈夫だと思いますよ。一年生もしっかり付いてきてくれることでしょう」
「OK。じゃあ、これで高坂さんに送ってみる。突っ返されるかもしれないけど……」
「そんなことあります?」
「う~ん、どうだろう。今年の高坂さん、結構飛ばしてるから。甘い、ぬるいって言われるかもしれないし」
「なるほど……」
「サンフェスも、初心者に演奏してもらう方向らしくって」
「それは何とも……」
去年までは、初心者の部員はまずサンライズフェスティバルというもの、そして演奏するという行為自体に慣れてもらいつつ、歓声を浴びる高揚感でやる気を引き出して、オーディションなどの繋げるという流れだった。しかし、どうも今年はそれを変更する方針のようだ。
「ですが、らしくって、ということは伝聞なのですか?」
「そこなんだよね……。今年、あんまり上から議題が降りて来なくって。いつの間にか決まってることが多いって言うのか何て言えば良いのか……。去年はもっとパーリ―会議も頻繁にやってたじゃない? でも今年はそこまでで、中身も練習計画についてとか、現状の報告とかが多いから」
「そうでしたか……」
確かに、幹部には部の運営権限がある。最終的な決定権は先生が持っているが、北宇治では余程の事が無い限り先生が部員の要請に反対することはないだろう。自主性を重んじる、という滝先生の方針は本物であり、またそれは有言実行されている。それは兄さんも真を置くところだった。なので、北宇治吹奏楽部の実質的な意思決定は幹部に委ねられている。だが、去年は比較的オープンに議論が行われていたような気がする。ソロコンやアンコンに出るかどうかも三年生の会議で決定されたと聞いているし、パートリーダーに意見が求められる事も多かった。
しかし、今年はそういう方針ではないらしい。当然、学年によってカラーというモノはある。とは言え、高校生の集団が三人だけの意見を反映して動くというのは些か危険ではないのか、とも思ってしまう。万機公論に決すべし、という五箇条の御誓文ではないけれど、議論を行わないまま方針を転換することにはリスクがある。そして、あの三人の間に議論が成立するのか、私は断言できるほど今年の幹部の人となりを知らなかった。
「まぁ、今年の幹部には今年の幹部の考えがあるんだと思うから。涼音ちゃんはそんなに悩まないで」
「……はい」
私が北宇治を志望した理由は、この部活に入りたいと思ったからだ。それは、真由先輩と同じような理由だと言える。そして、私が入りたかった部活は去年や一昨年のような部活の姿。ああいう雰囲気だったからこそ、私はここを目指した。今年もそうであるかは分からない。けれど、そうあって欲しいと願っている。何より、兄さんが苦心の末に残したモノを守りたいという想いもある。それが今年の幹部の思想と一致するのかは分からないけれど。沙里先輩は高坂先輩に練習計画を送信しながらポチポチと携帯に文字を打っている。何らかの業務連絡だろう。
「なーに難しい顔してるの?」
「成美さん……」
「そんな顔してると幸せが逃げてくよ~」
「そう、ですね」
「そうそう、彼氏にも逃げられたくないでしょ?」
「えぇ!?」
成美さんの言葉に対する素っ頓狂な反応があさっての方向から聞こえてきた。見れば、一年生の二人が驚愕、という表情を浮かべている。先ほど声を出したのは吉田さんらしい。水井さんも目を丸くしてこちらを見ていた。
「あの、涼音先輩、付き合ってる方いらっしゃるんですか?……」
「まぁ、その……はい」
少し照れくさい話で、頬を搔きながら答える私に、同期三人が生暖かい目線を送ってくる。余計な事を、と思わないでもないけれど、成美さんの顔を見ている限り多分わざと言ったのだろう。私が一年生から過度に畏れられたりしないように、気を遣ってくれたのかもしれない。だとしたらありがたい話でもあるけれど、やっぱり余計な事をと思わないでもない。
「部外の方ですか? それとも部内の?」
「二つ上の先輩です」
「だ、大学生……!」
後輩から向けられる視線には尊敬すら混じっているような気がする。確かに、冷静に考えてみれば私は大学生と付き合ってる女子高生だ。逆に言えば、純一先輩は女子高生と付き合っている大学生になる。前者はまだ背伸びしている感じがするが、後者はどことなく犯罪の匂いが漂ってくるような気がする。勿論健全なお付き合いだけれど、文字列だけを見ると……という感じだ。
もっと色々聞きたいなぁ、ワクワク。そう書いてあるような視線を向けられて、思わず目を逸らす。これ以上話していると余計なボロが出かねないし、同期や先輩のぬるい目線もそろそろ終わって欲しい。そう思って、私は強引に話を切り上げた。
「はい、この話はここで終わりです。休憩も終わり。練習しますよ」
不満そうな顔をしている後輩。しかも後輩だけではなく同期まで不満そうな顔をしている。そんなに私の恋愛譚が聴きたいのだろうか。そんなに面白いモノではないと思うけれど。これが嫌だから希美先輩は部活中に恋愛の話をしなかったのかもしれない。不満顔でもしっかり練習の準備は終わっているのが、このパートが何だかんだ真面目である所以なのかもしれない。真面目一辺倒とは到底言えないけれど、このパートの空気が私は好きだった。
まだ四月中盤の木漏れ日が差し込む中、音楽室には部員が集められていた。用事は恐らくサンライズフェスティバルについて。今年は去年よりも早くスタートするらしい。全てが例年より早く。それが今年の特徴だった。私としてはそれで構わないのだが、それに取り残されている子がいないかどうか。それが懸念事項もである。フルートはそうならないように気を配れるけれど、そうではないパートも存在する可能性は否めなかった。
「今年のサンライズフェスティバルの曲は『オー・プリティ・ウーマン』になりました」
部長が前に立って話している。この曲はロイ・オービソンが1964年に発表したシングルだ。「20世紀にアメリカのテレビやラジオで最もオンエアされた100曲」の中にもランクインしているメジャーな曲である。1990年公開の映画「プリティ・ウーマン」の主題歌としても使用された。
「サンライズフェスティバルは毎年太陽公園で開催されているパレードで、京都府内の学校が集まります。有名どころでは、立華高校や龍聖学園高等部も参加します。北宇治も、全国出場校として期待されています。他校に負けないよう、張り切っていきましょう」
龍聖高校。昨年銀で終わった私たちを横目に、金賞を獲得した男子校だ。明静の名物顧問を招き入れての部内改革が大成功した結果と聞いている。サンライズフェスティバルは最初のビックイベントだ。そしてそこで出番があるのは、我らがドラムメジャーになる。元々ドラムメジャーはこのイベント用の臨時職だったモノを、常設した形になっている。部長に代わって壇上に立った高坂先輩が話を始めた。
「例年、サンライズフェスティバルでは初心者の子たちはステップ担当でしたが、今年は曲の編成的に演奏してもらう子もいると思います。各部員は来週までに暗譜を済ませておいてください」
「「「はい!」」」
「一年生は分からないところは自分たちで判断せずに、上級生に質問すること。上級生も『前にも言った』で片付けずにしっかりと何回でも説明すること。分かりましたか?」
前にも言った、で片付けるのは非常に悪手だ。それは質問しにくい空気を醸造し、風通しの悪い組織を生み出す。その先に致命的なミスや食い違いを発生させ、組織全体を崩壊に導くこともある。無論、後輩側も覚えようという意識は忘れてはいけないが。
「「「はい!」」」
高坂先輩へのその返事はしっかりしている。だがその裏で不安そうな顔を隠せないでいる一年生のその表情が私の視界の中に確かに存在していた。それも、複数。部長による面談も、部長本人の多忙もあって中々進まないままだという。順調に進めば御の字だ。けれど現実はそう甘くない。自分にできることがあるのかは分からないが、出来る限り行動するしかないだろう。周囲を確認しながら少し暗い顔をしている数名の一年生を見ながら、私はそう考えていた。