音を愛す君へ   作:tanuu

134 / 193
第XIII音 煢然

 一年生の初心者の一部もサンライズフェスティバルで演奏することが公示された。演奏なんてリコーダーくらいしかした事無いという初心者も存在している中、各パートには一層の努力が要求されていた。当然、その負担はパートリーダーや一年生の面倒を見ている二三年生に降りかかって来る。或いは、一年生の中でも経験者の子にも負担になるだろう。その辺りのフォローが存在しているのかどうか、定かではない。

 

 幹部でもないしパートリーダーでもない以上、こういった運営に関わることに関与できない。こうなってしまっては、高坂先輩の要望を引き受けるべきだったかと思ってしまう。とにかく、情報が降りてこないのだ。今どうなっているのかがさっぱり分からない。去年は初心者や一年生の指導も綿密に作られたカリキュラムの下動いていたが、今年はどうなっているのだろう。全く謎だった。

 

 しかし、謎であるからと言って何もしないというのは私の良心が許さない。経験の有無に拘わらず、不安を感じている一年生がいるのは事実だ。出来る限りのことをしていく必要があると思う。まずは身近な存在からだ。そう思って廊下を歩いていると、丁度良い事に手を洗っている後姿を見つけた。

 

「北山君、今よろしいですか」

「うわぁ!」

 

 彼はビックリしたような声を出して、ピンと背筋を伸ばした。大きく動いたせいか、メガネがズレている。

 

「ぶちょ、じゃなかった桜地さん」

「私が部長だったのは二年も前の話ですよ?」

「でもなぁ、部長って呼ぶのに慣れてたから。むしろ、桜地さんの方がちょっと違和感あって」

「そうでしょうか? まぁそれは良いです。今、お時間大丈夫ですか?」

「あぁ、どうした?」

「義井さんについてです」

「サリー?」

 

 北山君は私と同じ南中出身で、担当はクラリネットだ。義井さんと同じパートの先輩である。中学時代からの付き合いなので、他の先輩よりも義井さんとの関りが深いだろう。私としても、部長副部長コンビで活動していた期間が一年ほどあるため、他の同期に比べれば比較的交流が深い存在だった。

 

「義井さん、部活に馴染めていますか?」

「特に問題ないと思うけど……何かあったか?」

「いえ、まだ」

「じゃあ、問題の予兆か?」

「はっきりとはしていませんが。彼女は良く言えば責任感が強く、悪く言えば自意識過剰です。それが良い方向に働けばいいのですが、変に抱え込んでしまう可能性も高いので。様子を見ておいて欲しいと思いました」

「あー、なるほど」

 

 人間性というのはそう簡単には変わらない。それに、私に再開して開口一番くらいの勢いで謝罪が出てくるという事実がこのことを証明していた。去年銅賞だったのは別に彼女のせいではない。けれど彼女はまるで自分の責任かのように言った。背負いすぎとも言うし、何でもかんでも自分のせいだと思いすぎとも言える。

 

「一年生の中心にいる彼女は、初心者の子から頼られることも多いでしょう。そんな子たちが高坂先輩などに厳しい指摘を受けた際、どう思うかは想像に難くありません。どの程度効果があるかは不明ですが、適度にフォローしておく必要があると思いました」

「サンフェスの練習ってことか」

「御明察の通りです。ドラムメジャーである高坂先輩にとっては晴れ舞台であり、自分の指導力を示す場でもあります。兄さんから地位を受け継いだと自負している先輩は、ここで成果を出しておきたいはず。何の問題も無く進行できれば良いですが、それで空中分解されても困りますので。保険はかけておくべきでしょう?」

 

 北山君は私の顔を、どこかぽかんと眺めている。

 

「どうしましたか?」

「いや、何と言うか、昔みたいな事言うなって」

「そうでしょうか」

「なんとなくだけどな。スルっと人を信用してなくて、色々保険をかけておく辺りが。あーでも色々手を回すのは桜地先輩っぽくもあるか」

「褒めてませんね? 失礼な人です」

「悪い。でも、サリーの件は了解した。ちょっとこっちでも気を付け見ておくし、高野先輩にも話を通しておく」

「よろしくお願いします。後輩が苦しんでいる姿を見るのは、私の望むところではありませんので」

「その見え隠れする善性も、それっぽいな」

「怒りますよ? とにかく、頼みました」

「おう、任せといて」

 

 取り敢えず快く引き受けてくれたので助かった。誰か自分の頑張りを見てくれている、という状況があれば人は案外頑張れるものだ。義井さんの事をしっかり見てくれている先輩がいれば、彼女の精神的な負担も少しは和らぐだろう。そうあって欲しいと思っている。

 

「今年の高坂先輩、大分飛ばしてるよなぁ」

「あなたもそう思いますか?」

「そりゃあなぁ。背負ってるモノも大分でっかいんだろうけど」

「……」

 

 兄さんが高坂先輩に遺したのは誓いではなく、呪いなのかもしれない。私が中学時代に囚われていたような。あの鬼気迫るというべきか、必死なというべきか分からない姿は、過去の自分を見ているような気分になって来る。その動機が兄さんの事だけではなく滝先生の事も入っている点は、私とは違うけれど。或いは、希美先輩を妄信していた私のように、高坂先輩も……。と考えて否定した。流石にそれは失礼すぎた。

 

「まぁでも頑張ってるのは伝わって来るよな。誰よりも練習してるし」

「はい、それは……その通りだと思います」

「桜地さんは、高坂先輩の方針には反対?」

「いえ、そういうわけでは。ただ、不安が多いだけで」

「なるほど……。まぁ俺たち南中組は桜地さんに着いて行くって決めた面子だから。何かあったら言ってくれ。力になりたい」

「ありがとうございます」

 

 私は丁寧に頭を下げる。南中組が味方になってくれるのは、素直に嬉しい部分がある。鈴木美玲さんや葉加瀬さん、屋敷さん、鈴木君、香奈さんなど、頼れる存在が多い。演奏面でも、人間面でも。力になってくれる人がこれだけいるのはありがたいことだった。

 

 

 

 

 

 

「三年で転校生なんて、変わってるね」

 

 夕飯時、ぶりの照り焼きを食べながら希美先輩は珍しそうな目をして言った。その隣の席で雫さんがビールの缶を開けている。もう二本目だ。あんまり飲みすぎると健康に悪いので、適度なところでストップをしないといけない。

 

「転勤族みたいですよ。親が家族一緒が良いという考えみたいで」

「まぁ、そういう考え方もあるかぁ。私はなるべく学校は同じが良いけどねぇ」

「私もそう思いますけどね」

 

 親だけが単身赴任するというのも一つの考え方だろう。仲が良い家族ならば寂しいかもしれないけれど、何だかんだそれでも生活は出来るものなのだ。逆に一緒にいる事こそが大事であるというのも、家庭の考えとしてはあると思う。家族が共にいる事も、同じ環境で過ごす事も、子供にとってはどちらも大事だ。

 

 そのどちらを選ぶのかは、各個人の思想が大きく反映されると思う。京都から引っ越したことなどない私は、出来れば同じ場所に住んでいたい。逆に、引っ越しばっかりの兄さんはそう言うことは思わないだろう。言ってしまえば、今のウチの家も単身赴任してるようなものだ。本来の主はベルリンで優雅に暮らしている……はずだ。

 

「懐かしいですねぇ、清良。あのおんぼろ美術室まだ健在なんですかねぇ。卒業する前に準備室に落書きしてきたんですが、まだ残ってるんでしょうか」

「そんなことしてたんですか」

「希美さん、私だって青春時代があるんですよ? 美術部の同期はちょくちょく連絡とってますし。まぁみんな結婚してしまいましたけど……。このままでは希美さんに先を越されそうです」

「あはは」

 

 笑ってるだけで否定しないのは、まぁそう言うことなのだろう。でも、本当に兄さんと希美先輩が結婚するとしたらどうなるのだろう。兄さんはしばらくヨーロッパ暮らしだろうし、希美先輩は音楽教師を目指している。新婚早々別居だろうか。それはそれでちょっと可哀想でもある。それに、この家に私はいつまで住んでいられるのだろう。新婚夫婦ならまだしも、子供が出来たら私は邪魔な存在になってしまうのではないだろうか。そんな事を考えてしまった。

 

「でも清良、清良かぁ……。どこのパート?」

「ユーフォです」

「よりにもよって、だね」

「そうなんです。悪い人ではないというか、むしろ善性の人だとは思うのですが、如何せん時期が時期ですので」

 

 アチャーという顔をしながら、希美先輩は納豆をかき混ぜている。先輩は粘っこいモノが好きみたいで、納豆だけではなくオクラや山芋もよく食べている。台所を握られているので、私たちは最近こういう食品をよく食べることになっていた。別に嫌いではないし、毎日出てくるわけではないので構わないけれど。

 

 先輩の懸念もよく分かる。同じ部長経験者だからこそ分かるのだろう。同じパートにライバルと呼べる存在がやって来た時の部長の心理状態が。しかも、同期となると殊更だ。部長がソロに選ばれないというのは、中々に周囲の視線が痛いモノだ。それは蔑みとかではなく、同情であるからなおの事。同情などされたくないのに、周りは勝手に同情する。それが苦痛であるのは、想像に難くない。去年の優子先輩がソロで無くても大丈夫だったのは、金を獲るためならば構わないという彼女自身の姿勢と高坂先輩の持つ力によるところが大きい。

 

 上手い転校生に向けられる視線。同時に、優しい人格だからこそ世話になったことでその子を指示する部員の存在。当人同士が例え友人であっても、後輩が勝手に派閥を作ってしまう可能性もある。一歩間違えれば、誰も幸せにならない展開になってしまう危険性すら孕んでいる。

 

「でも、仲良くしてあげてね」

「はい、悪い方では無いですし」

「それもあるけど……なんとなく分かるんだ。余所者の、気持ちはさ」

「……」

 

 少し悲しそうな顔で、先輩は遠くを見つめる。私は、それに何と回答したら良いのか分からなかった。確かに、先輩は部に途中で戻った存在である。でもそれは兄さんも同じこと。恐らく、二人は共通して持っていたのだろう。あの部の中で二人だけ持っている、疎外感を。

 

「大丈夫じゃないですか? 北宇治は実力主義なんですよね。金賞を獲るために、私の後輩ちゃんは有益なはずです。部長さんが精神的に揺れても、他の幹部の子はそれは理解できると思いますけど」

「それは多分そうだと思います。高坂先輩は特に使えるものは何でも使う姿勢ですし」

 

 高坂先輩は兄さんの強火のオタクみたいな存在だ。真由先輩も兄さんの演奏や指導に結構強めの尊敬を向けている。共通点がある二人なので、すぐに打ち解けられるのではないだろうか。

 

「でしょう? まぁとは言え……部外者の目線で言えば、実力主義の定義は何とも曖昧模糊であるような気もしますが」

 

 小さく呟くその声は、酔っている顔に反して酷く冷静であるようにも思えた。確かに、実力主義の定義とはなんだろうか。絶対視されているモノであり、現体制を支える要因になっているモノでもある。だがその定義は曖昧だ。何をもって示すのか、大会メンバーに選ばれればそれで良いのか。指導者として、ずっとそれに悩んでいたであろう兄さんは、結局答えを出せないまま渡欧した。

 

「と言うか、この味付け美味しいですね。また作ってください」

「了解です。てか、雫さん飲みすぎですよ、そろそろ終わりにしてください」

「大丈夫大丈夫。私、九州出身ですので」

「ご両親は京都出身じゃないですか」

 

 希美先輩が、雫さんが開けようとしていた三本目を取り上げている。それを見ながら、私は魚を口に運んだ。兄さんとは少しだけ違う味付け。でも、これはこれで結構美味しい。この三人暮らしも悪くはなかった。ちょっと寂しさはあるけれど。

 

 

 

 

 濡れた髪をタオルで吹きながら、私はリビングに向かった。少しずつ気温が上がってきて、寝間着は長袖ではあるけれど薄いものに変えている。サンフェスが終われば、もうあっという間に夏がやって来る。昨今はもう五月の終盤は夏日だ。

 

「お風呂どうぞ~」

 

 廊下から声をかけてみたけれど、返事がない。聞こえてないのかと思ってリビングのドアを開けてみれば、携帯を持っている先輩の姿があった。ソファーに座りながら、楽しそうな顔をしている。その表情には楽しさの中に愛おしさや色っぽさも混ざっている。その表情で、電話の相手が分かった。

 

「うん、うん、大丈夫です~ちゃんとやってるから。え~そんな心配しなくてもいいから。そっちこそ、ちゃんと生活してる? ご飯食べてしっかり寝ないとダメだよ。……飲み会!? うん、あぁ、そっちは未成年じゃないのかぁ……。飲みすぎないでよ、もう。ちゃんと元気に帰って来てね。うん、うん、涼音ちゃん? 今そこにいるよ、代ろうか? うん、了解。じゃあまたね。はいはい、愛してますよ~。じゃあ、代わるね」

 

 先輩が私を手招きしている。髪を拭きながら、私は先輩の携帯を受け取った。見るからに機嫌の良い先輩はスゴイ浮かれた様子でお風呂に向かって行った。無理もない話だろう。紆余曲折の末に結ばれたのに、半年もせずに恋人は欧州へ旅立ってしまった。遠距離恋愛は大変だ。高校時代、いつでも会えていたからこそなおの事。それは私も少し実感している。

 

「もしもし」

『やっほー、元気?』

「元気だけど。どうしたの、急に?」

『どうしたのって、そりゃ故郷に残してきた妹が元気にしてるかどうか心配だったに決まってるじゃない』

 

 電話の向こうの声は、空港で聞いた声とあんまり変わって無かった。考えてみれば当たり前の話だ。まだ半月ほどしか経っていない。それなのに、旅立つ兄さんを見送ったのが遠い昔のような気がしてしまった。

 

『聞いたぞ、三年生に転校生だって?』

「うん。黒江真由さんって人。知ってる? 向こうは兄さんに色々教えてもらったって言ってたけど」

『ユーフォの黒江さんね……あぁ、覚えてる覚えてる。ちょっと茶色っぽい長い髪の子でしょ? おっとりした感じの』

「よく覚えてるね」

『そりゃまぁ。一昨年、最初に清良と交流介して大友先生と話した時に話題に出たし。あの時は田中先輩はいなくて、黄前さんと夏紀だけだったんだけど、その黄前さんとどっちが上手いかみたいな話をしたのを覚えてる』

「……それで、どっちが上手かったの?」

『あの時は、そりゃ清良の方が上手い。でも今は多分、同じくらいじゃないかな。去年の全国を聞く限り、そんなに差はないと思う』

「……そっか」

『涼音の心配は分かるけど、あんまり思い悩んでもしょうがない。君は幹部じゃないし、部の運営に責任は無いから。それに、私が二年間受け持った黄前さんがそう簡単に負けるとは思わないし』

「そう、だね」

 

 兄さんの高いプライドが見え隠れしていて、私は少し苦笑してしまう。自分の教えた生徒だからこそ、清良の生徒にだって負けてない、という強い自負が言葉の端々から、そして声のトーンからにじみ出ている。私を安心させるための気休め半分、本気で言っているのが半分くらいだろうか。

 

『後、自由曲もう決まったの?』

「いや、まだだけど、なんで?」

『なんか編曲依頼が来たから』

「特に何も聞いてないけどな……」

『あ、ヤバい、じゃあこれも言わない方が良かったか。曲は内緒にしておく』

「そうしておいて」

『とは言え、滝先生には言っておいて。締め切りが早すぎるって。こちとら演奏に練習に授業やら講演やら色々あるんだから』

「授業?」

『そうだよ? ベルリン芸大音楽学部の。私だってプロフェッサーだし』

 

 同い年、或いは年上の学生に教える気分はどうなのだろうか。尤も、それは北宇治時代に慣れたのかもしれないけれど。

 

『まぁそれはともかく。何か困ったことがあったら、周りをしっかり頼りなさい。昔から優秀で何でもできるのが君の凄いところだけど、だからこそ周囲を頼れないのが欠点だから。希美や雫さんが側にいるし、みぞれや優子や夏紀もいるでしょ?』

「でも、先輩たちはもう卒業しちゃったし」

『だったらパートリーダーとかを頼りなさい。高橋さんは落ち着いた子だけど、弱い子じゃない。ちゃんと助けてくれるはずだ。中野さんや小田さんだっている。部長もいる。部長がダメなら塚本君を頼りなさい。高坂さんと対立しそうなら、吉沢さんに助けを求めればいい』

 

 この辺りは流石だった。教え子の事をしっかり覚えている。どんな存在で、どんな性格で、どんなアプローチをすればいいのか。兄さんはそれを掴む能力が高かった。沙里先輩のこともしっかり分かっている。

 

「私、別に高坂先輩と対立しそうとか言ってないけど」

『でも、個人的に君たちあんまり相性が良さそうじゃないからね。一応言っておいた。吉沢さんならきっと力になってくれる。あの子がトランペットの裏番長だし』

 

 確かに、吉沢先輩は助けてくれそうだった。今年の春、高坂先輩たちとソロコンの全国大会のために遠征した時も、いつも気を遣ってくれていた。高坂先輩を止められるのは、黄前部長かあの人くらいだろう。前者が中々動きにくい時には頼れるはずだ。それに、黄前部長は高坂先輩の特別な感情を抱いている。吉沢先輩もそれは同じかもしれないが、吉沢先輩は高坂先輩のことを妄信しているわけではない。だからこそ、兄さんも名前を挙げたのだろう。いざという時に暴走するのは自分の二番弟子で、それを止められるのは三番弟子だけだと知っているから。或いは、二人が入部した頃から、こういう未来を予測していたのかもしれない。

 

「そうする」 

『そっか。まぁ、あんまり高坂さんを虐めないであげてくれ。あの子はあの子で一生懸命なんだろう。空回りすることもあるかもしれないけれど、言葉にしてしっかり主張すれば、多分聞いてくれると思うから』

「うん」

 

 それは多分、兄さんだからじゃないかなぁと思ってみたりする。高坂先輩が素直に言うことを聞くのは優子先輩と兄さんくらいじゃないだろうか。この二人には逆らえない、というより尊敬しているような空気を感じていた。でも、ここで何か言って兄さんを不安にさせたくない。現状、凄く問題があるわけではない。厳しい空気感はあるし、大分トップダウン式になっているような気もするけれど、それでもまだ大丈夫のはずだ。それに、私だっていつまでも子供でいるつもりはない。ちゃんとしっかり出来ていると思って安心してほしかった。

 

『まぁ、本当の本当にダメそうならいつでも連絡して。地球の裏側からでも飛んで帰るから』

「そういう台詞は私じゃなくて、もっと言うべき人がいるでしょ」

『恋人も妹も、大事なのは同じだから』

「……ありがとう」

『お礼を言われる事じゃない。当たり前の事だからね。それじゃあ、そろそろ昼休み終わるから切るよ。これから小生意気な大学生相手に色々しないといけないから』

「うん、分かった。身体を大事にして生活して、ちゃんと帰って来て」

『分かってる。それじゃあ、また』

 

 電子音を残して、電話は切れる。その画面を、私は数十秒眺めていた。子供っぽいと思われるかもしれないけれど、寂しいという想いは私の中に確かに存在している。それは、隠せそうにない。いつでも話せていた相手がいなくなってしまうというのは、思ったよりも堪えてしまう。先輩の携帯をテーブルに置いて、私は水を飲んだ。髪は、少し乾いていた。

 

 

 

 

 

 朝早く登校する面子というのは、段々と固定化されていくモノだ。家との距離、部活にかける熱量、朝が得意かどうか。そういう要素で登校時間は変化する。私の家は徒歩圏内である上に、早くに来て練習することで後輩や同期の助けになれることもあるだろうと思って、こうして早めに登校している。とは言え、そうであっても一番乗りだったことはほとんどない。大体は、一年生の子たちや部長たちが先に来ていたりするのだ。

 

 今日も例に漏れず音楽室からは声が聞こえる。扉を開ければ、広い音楽室の中に二人分の荷物が置いてある。その奥には、義井さんと釜屋さんが座っていた。二人とも楽器を持っている。早速練習していたようだ。

 

「おはようございます」

「「おはようございます!」」

 

 元気な挨拶が返って来る。朝から随分と元気が良いことだ。元気がないよりは余程安心できるけれど。

 

「精が出ますね」

「いえ、そんな。まだまだ足りないことばっかりなので」

「サリーが足りないなら、他のみんなは全然になっちゃうじゃん」

 

 釜屋さんの言うことはもっともだった。南中組は求めている水準が高い。自分にも、他人にも。それは持っている実績がそうさせるのだろう。

 

「釜屋さんはどうですか。楽器には慣れましたか」

「はい! 結構性に合ってるみたいです、チューバ。元々でっかいもん好きですし」

「それは重畳。あなたの演奏を廊下で少し聴きました。音質と正確性にはまだ工夫の余地が多々ありますが、音量が良いですね。あなたの強みはその音量でしょう。バスケットボール部のエースだっただけのことはあります。その肺活量と、それにより繰り出される音量は、低音パートにおける大きな武器になるはずです。門外漢の助言ではありますが、まずは音量を極めてみるのも良いかもしれませんね。勿論、それ以外の練習も欠かさないという事が前提ですが」

「わーお、チューバの指導も出来るんですか?」

「多少は勉強しましたので」

 

 南中時代、部長として出来る事を最大限しようと思っていた。丁度良く家に金管の練習に関する本も沢山存在していた。兄さんや母の書籍を使って指導の勉強をしていた日々がここに来て役に立っている。

 

「でもでも、音量だけデカいです! みたいな演奏じゃダメじゃないですか?」

「それはその通りです。ある程度は正確性が無いといけませんね。しかし、さしあたってはまず長所を伸ばしていくことが良いでしょう。マイナスをゼロにする作業よりも、ゼロをプラスにする作業の方が楽しいでしょう?」

「なるほどぉ」

「それに、ここは独奏をする場ではありませんから。あなたに足りない部分は他の奏者が補う。あなたは全体に足りていない音量を補う。そうやって持ちつ持たれつで演奏は成り立っています。支え合って行けば良いのです。綺麗な音で爆音を出す方法もありますが、その辺りは鈴木さん、鈴木美玲さんやトランペットの三年生二人組に聞いてみてください」

 

 鈴木さんは結構音量を出せている。しかし、去年の後藤先輩と長瀬先輩のコンビにはまだ及ばない。流石男子と言うべきか、後藤先輩は十分な音量を出せていた。あれは衝撃だったのをよく覚えている。一昨年など、二人だけでチューバを支えていたのだ。その力量たるや、凄まじい。

 

 そしてトランペットの三年二人組は安定の強さだ。高音をあそこまで大きな音でしっかりと鳴らせる高校生はそうはないだろう。二年間の地獄の訓練の成果は、音量音質のどちらにも及んでいた。美爆音という言葉があるらしいが、あの二人はそれを出来る存在と言える。事実、あの二人がいればトランペットの1stは十分なのだ。

 

「あなたはあなたの強みを活かしてくださいね」

「はい!」

「義井さんの方も随分と良くなりましたね。繊細さがあなたの魅力でしたが、細部に拘りを感じます。北山君も褒めていましたよ、その調子で頑張ってください」

「ありがとうございます!」

「何かあれば、北山君でもパートリーダーでも私でも、遠慮なく相談するように。勿論、釜屋さんも」

「「はい」」

「では、頑張ってください」

「あー桜地先輩」

 

 釜屋さんが何かを言いかけたタイミングで音楽室の扉が開く。時間帯から鑑みて恐らく部長たちだろうと思って振り返れば、案の定だった。尤も、今日は部長一人である。

 

「おはよう。三人とも早いね」

「「「おはようございます」」」

「桜地さんが二人に指導してたの?」

「そう大それたものではありません。少しばかり、門外漢なりに私見を述べただけですので」

「そっか」

「はい。二人とも、上達してますから」

「そうだね。それは思った。すずめちゃんも安定して音が出せるようになってきたし、義井さんも即戦力になれるくらいには上手いし。梨々花ちゃんも褒めてたよ、一年の中で群を抜いて上手いって」

「りりりん先輩がですか? 嬉しいです」

 

 剣崎さんは一年生指導係として、加藤先輩と共に職務に励んでいる。一年生だけの練習では随分と張り切っているようで、丁寧な指導は一年生からの尊敬を勝ち得ていた。彼女はのんびりしているようで、意外と敏い部分が多い。あのみぞれ先輩を一年で攻略しきった女だ。並大抵の子ではない。

 

「そう言えば、釜屋さん。先ほど何か私に言いかけていましたが?」

「あー、やっぱり大丈夫です」

「そうですか。それならば構わないのですが」

 

 それは嘘だろう。正確には、この場で言うのが相応しくないと判断したか。原因は部長か義井さんのどちらかだ。そしてその視線の僅かな動きは義井さんの方を向いていた。つまり、彼女が何かしらの原因なのか。或いは、問題はもっと奥深くに存在している、より大きなモノなのか。どちらかと言えば後者であるように思う。

 

 もし釜屋さんが私の考えたような人物であるのならば、同じような懸念を抱いているはずだ。或いは、同じような問題意識を抱いているか。どちらにしても、その考えは決して間違ってはいないだろう。だが証拠が無さすぎる。無理に聞き出すのも難しいし、私はそこまで関係性が深くない。兄さんならば或いは出来たのかもしれないが、恨めしいことに私にその能力はない。

 

 ここは部長に投げるのが正解か。しかし本当にそれで良いのか。自分にできることはするべきじゃないのか。そういう煩悶を行ったが、すぐに止めた。もし彼女が抱いている懸念が部の運営単位の大きさならば、私では無力だ。やはり、部長に投げるのがベストだろう。

 

「部長、少々よろしいですか」

「うん、どうしたの?」

「少し、お時間拝借します」

 

 そう告げて、一年生二人を残し音楽室を出る。扉を閉めれば、そう大きな声で話さない限りは声は聞こえないはずだ。

 

「お時間取らせて申し訳ありません」

「それは大丈夫だけど……どういう話?」

「釜屋さんが何かしらの相談事項を抱えている可能性があります。同じパートと言うこともありますし、部長も少し注意してみて頂ければと思います」 

「そうなの? 分かった、教えてくれてありがとう」

「いえ。それともう一つ。こちらはそう悪いお話ではありません。依頼演奏が可能かどうかという事でして。日程は北宇治に合わせる、楽器の運搬は向こう持ち、曲目自由という条件で来ていますが、いかがでしょうか。こちら、詳細を書いた書類になります」

「こっちも分かったよ。後で先生と話しておくね」

「ありがとうございます」

「でも、何で桜地さん経由で?」

「依頼主が京畿デパート京都駅本店でして。端的に言えば、当家の経営する企業ですから」

「そ、そうなんだ……」

 

 ちょっと後ろにのけぞっている部長の目は白黒している。その姿に頼もしさはないけれど、悪い印象は抱かない。後は、釜屋さんの持っている問題がスマートに解決してくれることを祈るばかりだ。この部長は人間関係における能力の高さから選ばれているというのが私の所見だった。つまり、この問題の解決、或いは穏便な先送りは出来るはずなのだ。

 

 出来てくれ、と願う私の視線の先にある部長の顔から、その真意を読み取ることは出来なかった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。