「トロンボーンの吉澤さん、腕が下がってます! 地面に平行になるのを意識して」
「はい!」
「サックスの甲本さん、足が上がってない」
「はい」
「スーザはベルの向きが傾いてる。下を向いたら目立つんだからしっかり前を見て!」
「「「はい」」」
「自分が休みの時も気を抜かない!」
高坂先輩の声がメガホン越しに響いている。休日にグラウンドを貸切って行われる行進練習は、先ほどから飛んでくる注意の声とそれに返事をする部員の疲労感に満ちた声で埋め尽くされていた。五月の空は青く、そして空気は既に夏の気配を孕みつつある。この時期にグラウンドを借りれたのは吹奏楽部の実績と、去年までの間に兄さんが運動部と関係を築いてくれたから。
女子主体の吹部は、それまでの不真面目さもあってそこまで他の部と交流を持っていなかったらしい。強いて言えば、演劇部くらいだったそうだ。そこを兄さんが上手く調整したのが二年前。まぁ、その際には当時のマドンナの名声をフル活用したらしいのだけれど、実際に見ていないので何とも言えない。その恩恵が今もなお、こうして生きているのだった。
けれど、そうほいほい貸してくれるものでもない。サッカー部や野球部の練習場として本来グラウンドは使用されている。今日しかないこの練習日を、逃すわけにはいかないのだろう。高坂先輩の声にはいつも以上に熱が籠っているように思えた。
そのスパルタな姿勢がある程度許容されている理由は大きく二つだろう。一つ目は彼女自身の性質。部内有数の実力者であり、その実力が絶え間ない努力で作られていることを知らない部員はいない。人に厳しく、その数倍も自分に厳しいからこそある程度許容されていた。穿った見方をすれば、それは自分が出来るから他人にもそれを求めていくというある種の傲慢さでもあるのだが。
そして二つ目の理由は北宇治高校吹奏楽部の持っている過去だろう。去年の空気や状態は最良に近しいモノだった。それは上級生の多くが認めている。しかしそれでも銀だった。その原因ははっきりとは分からない。何なら審査員でもよく分かっていないかもしれない。音楽にはそういう曖昧さがある。あれでもダメなら、何かを変えるしかない。そしてそれは今のところ、高坂先輩の指導という方法以外に代替案が存在しない状態だった。先輩が兄さんの教え子というのも、大きく影響しているのだろう。
いずれにしても、高坂先輩の言葉は非常に厳しいし言い方は直して欲しいと思うこともあるけれど、言っている事に関しては事実だ。腕も足も、揃えなくてはならないのは純然たる事実である。
「見ているお客さんからしたら、その子が初心者かどうか分からない。だから、初心者な事を言い訳にしないで。……ストップ! ホルンの武川さん。また足が合ってない」
「は、はい」
鋭く刺すような声に、一年生の彼女は震える声で返事をする。
「ズレたら後ろの子が危ない。前にも言った!」
「はい、すみません……うぅ……」
彼女の謝罪はどこかで嗚咽のような声になる。メガネの下からは涙が零れ落ちていた。衆人の耳目が彼女に向くとき、私の視線は反対に高坂先輩の方を見ていた。泣いている武川さんを見る時の彼女は一瞬だけ迷いを含んだ色の瞳をしている。やはり、そういう表情になるのか、と私は思った。周りの人は高坂先輩は何の迷いもなく進んでいるかのように話している。
けれど、多分実態は違う。彼女は誰よりも迷いながら進んでいるのだろう。偉大な足跡を追いながら、自分を追求しながら。だからと言って言い方が良くないという評価を修正することは出来ないだろう。前にも言ったのは事実だけれど、それを指摘したところでどうにもなりはしない。出来れば前にも言ったと指摘するよりも、事実のみを告げた方が良いのだ。前にも言った、は今回はまだ良いけれど、ともすれば質問しづらい雰囲気を作りかねない。
人間は忘れる生き物だし、すぐには言われたことが出来ない生き物だ。何回も根気よく言うしかないのだろう。少なくとも、相手が悪意のない行動をしているのならば。
色々なパートが注意の声を貰っている。一応、我らがフルートパートは特段の注意が無い。たまに縦の列からズレてしまうくらい。それは自力で修正できるので、高坂先輩も声を荒げるほどではないのだろう。歩幅や体形の点で注意されたことは無かった。
「一度列から出て」
「……すみません」
こういうやり取りは今年何回も見ている。それ自体はまだ仕方ない部分がある。高坂先輩の技量は高いし、実際に技術レベルは全体的に向上している。しかし、その反面付いてこれない子を引っ張り上げる余裕はないのだろう。良くも悪くも、一回道から外れると再度レールに戻るのが難しいのが、今の北宇治であるように思う。自分のレールをしっかり持っている人は良いのだろうけれど、そうでない人には厳しい世界だ。
ともあれ、それを許容して良いのかと言うとまた別の話だ。特に三年生はこういう時にすっとフォローしたり、ドラムメジャーに対し自分の責任だと主張する必要がある。要するに、非難対象を移動させるという事だ。けれど、泣いている子に対しホルンの先輩は動かない。或いは、動けないのか。森本先輩や瞳先輩の顔はここからでは伺えない。これは高坂麗奈という存在への遠慮なのかもしれない。どっちにしても、このまま放置しておくことも出来ないだろう。そう考えている間にも「他のパート」の「一年生である」義井さんがフォローに入ろうとしていた。上級生として、これを見過ごすことは出来ない。
「高坂先輩」
私はスッと手を挙げた。
「……どうぞ」
「ドラムメジャーに意見具申します。本日は五月の平均気温を大きく上回っており、先ほどより晴天が続いています。そろそろ休憩を挟み、一度休んだうえで再度練習に入った方がより良い練習効率が期待できると考えます」
彼女は時計を確認する。少しだけ逡巡した後、小さく頷いていた。
「分かりました。十分間休憩とします。各自、水分補給など行ってください」
「「「はい!」」」
返事をする声は大きいけれど、やっと一段落したという顔になっている一年生が多い。ケロッとしているのは三年生の数名くらい。真由先輩や川島先輩は流石というほかないだろう。無理矢理休憩時間にしたのは、ある種の時間稼ぎだ。勿論、そろそろ休憩した方が良い時間だったというのもあるけれど、それ以外にも理由はある。義井さんだけにフォローさせるわけにはいかない。フォローを自然にやるために、こうして時間を稼いだ。
「こちら、どうぞ」
駆け寄ろうとしている義井さんを目で制して、私は涙を流している武川さんにハンカチを差し出した。彼女はビックリしたような顔で私に視線を向ける。太陽の光に涙と、それに濡れたメガネのレンズが反射した。
「す、すみません」
「謝らないでください。そういう時はお礼を言えば良いのですよ」
少しだけ屈んで彼女に目線を合わせる。上から見下ろすよりも、こっちの方が良いだろうと思った。今彼女に与えるべきは威圧感ではなく安心感だ。
「一度深呼吸しましょうか。吸って、吐いて。吸って、吐いて。はいもう一回吸って、吐いて……。少し落ち着きましたね?」
私に言われるがままに深呼吸をした彼女は、少し落ち着いたように思う。それを確信して、私は彼女に微笑みかけた。
「あ、ありがとうございました。これ、すみません。洗ってお返しします……」
「大丈夫ですよ。あなたの涙は別に、汚くなどないですから。あなたの方こそ大丈夫ですか? 水分を取って、しっかり休んでくださいね」
「ご迷惑をおかけします……」
「迷惑ではありませんよ。後輩の事を考えるのは、先輩として当然の行いです。それに、あなたが怠け者ならばともかく、あなたはしっかり努力している」
「でも、結果には繋がってないです。前にも言ったって何回も言われてしまうし……」
「出来ていないことを見つめるのも大事ですが、時には出来ていることを考えてみるのも良いかもしれませんよ? 私が知る限り、あなたは初めの頃よりも随分と様になってきました。高坂先輩は一気に全部やれと言うかもしれませんが、ハッキリ言ってしまえばそれは無理な話です。人間は与えられた課題を一気にこなすことは出来ません。まずは、目の前の事から一つずつ潰していきましょう」
彼女はしょんぼりした顔をしている。一つ出来ると、二つ注意される。その繰り返しだ。出来ていることを褒められる前に、できない事を責められる。この繰り返しはかなりメンタルに響いているのだろう。軽い自信喪失になっているように思えた。
「誰でも最初は初心者であるものです。そこから上達するのに多くの人が取る手段は一つだけ。それは、努力です。もしあなたの一歩が小さいならば、足を動かす回数を増やしてみましょう。少なくとも、歩き出しているのなら前に進んでいけるはずです。それに、どんな名奏者も最初は全然ダメダメだったりもするものですよ」
「そう、ですか……?」
「えぇ。ウチの兄なんて、幼少の頃はピアノが弾けなくて教えている母に八つ当たりしたり、トランペットの音が上手く出せなくて泣いていました。それが今では世界を牽引する偉大な音楽家だそうですから、人生どうなるか分からないものですね。上手い人の最初の一歩は皆、得てしてそういうモノです。躓き、転び、それでも立ち上がる。だから上手くなる。あなたも同じでしょう?」
「でも、私は立ち上がってないです……」
「そうでしょうか? あなたは高坂先輩に何度も注意されて、幾度も涙を流そうとも、辞めようと思ったことは無いように見えていたのですが。それはすなわち、また立ち上がっているのと同じことではないかと、私は思います」
私の話がどの程度効果を発揮しているのかは分からないが、多少前向きな話を聞いて、少しは気分も晴れてきたように思える。彼女の表情は穏やかなモノになっている。赤く腫れていた目もおとなしくなり、呼吸も落ち着いていた。
「落ち着けたようで良かったです。さぁ、水を飲んで、少し日陰で涼んできなさい。そうしたら、また一緒に頑張っていきましょうね。困ったことがあれば、いつでも言ってください」
「ありがとうございました!」
頭を下げて走って行く彼女を、小さく手を振りながら見送る。取り敢えず、彼女のフォローはすることが出来た。しかし、これは氷山の一角に過ぎない。私も見かければなるべくこうして色々な子をフォローするようにはしている。けれど限界はある。
「鮮やかなお手並み、感服しました」
「それはどうも」
厭味ったらしい発言であると理解しながら、敢えてそれに乗っかる形で私は答えた。こんなやり取りを行うのは、吹奏楽部員90名と言えどもただ一人。濡れ羽色のショートボブに赤いリボンをしているのは、久石奏その人だ。犬猿、とまではいかないけれど、私たちは顔を突き合わせるとこうしてお互いに口が悪いやり取りをしている。向こうはこちらをお高くとまったお嬢様と揶揄し、私は猫かぶり娘と嗤っている。そしてやいのやいのとやっていると、剣崎さんがまぁまぁと宥めてくる。それがいつもの光景だ。こんな有様なのだけれど、別にお互いに嫌いという訳ではない。なんとなく相性が悪いだけ。
「あなたはこんなところで私の行動を監視していないで、あなたの後輩をフォローしたらいかがですか? 真由先輩がなさっているようですが、それはあなたが何もしない理由にはならないと思いますが。来年は針谷さんとあなたの二人がユーフォニアムパートを支える存在になるのですから」
「言われなくても。ただ、今は私より黒江先輩の方が適任だと判断したまでです」
「そうですか」
「そちらこそ、こんなところでのんびりしていても良いんですか?」
「えぇ。私の後輩たちは問題ありませんので」
「うぐっ」
今回は私の勝ちみたいだ。というより、大体舌戦では私が勝っているのだけれど、彼女はそれでも私に話しかけてくる。何が目的なのかは分からないのだが、別に嫌な気分ではないので特段気にしていなかった。
「それはともかく」
「ともかくも何も、あなたが始めた話ですが」
「ともかく! 高坂先輩は大分疲れていらっしゃるようですね」
「それは……まぁ、あなたに同意するのは業腹ですが、同意せざるを得ないでしょうね。兄さんの後任という重圧に単純な仕事量に自分の練習に……高坂先輩にのしかかっているモノは沢山ありますから。精神的にもそうですが、肉体的にも大変でしょう」
「桜地先輩はどうやって普段通りにしていたのやら……」
久石さんは久石さんでそれなりに疲れているらしい。その声には多少の疲労が見えた。それは、単純にこのマーチング練習に疲れただけなのか、彼女にとっての異邦人の扱いに疲れたのか。それは定かでは無かった。
「それは……まぁ……」
久石さんの疑問に私は口籠る。その答えを冷静に考えたことはあんまり無かった。しっかり考えると、仕事と家事をしつつ一番最初に登校し、一番最後に帰っていく生活はかなりの体力を必要としているだろう。私だったら絶対にやりたくない。しかも、指導一年目は決して好意的な視線だけではなかったという。益々、自分の身に置き換えるとその面倒くささが際立つ。
それをどうやって維持していたのか。確かに高坂先輩に必要なのは、技術の伝授もそうだったけれど、そういう面だったのかもしれない。兄さんに比べればイージーモードではあるけれど、高坂先輩だって普通の女子高生の一面も持っている。テスト勉強は必要だし、部活が人生の全てを占めているわけじゃない……はずだ。
もしかして兄さん、希美先輩がいるからメンタル維持してた……? もちろんそれ以外にも理由はありそうだけれど、二年生の真ん中くらいからはそれが理由な気もしてくる。しかもフルートパートは一番前に座っているので、指導をしている兄さんの真ん前に希美先輩がいる形になるのだ。好きな人と同じクラスで隣の席で同じ部活で目の前で演奏している。これは確かにやる気も保てるというモノだろう。この仮説は結構あっている気がする。とは言え、この説は二年生の前半、つまりは希美先輩が復帰するまでの間の行動動機が抜けているけれど。
「桜地先輩のような特殊な例はともかく、一人に権限が集中しているのは、少し不安ですけどね。その人が崩れると、全部が崩れかねないので。誰か補佐役がいればいいんですが」
「……ですね」
それを蹴ったのは私だ。もしかしたら、高坂先輩がもっと楽に仕事ができる状態を作れたかもしれない可能性を、私は持っていた。けれど、私はそれを断った。これが正しい選択だったのか、いまだに分からない。ドラムメジャーの傍にいたら、少しは軌道修正を行えたのか。後輩のフォローをもっと堂々と出来たのか。それを考えてしまう。だけれど、今の立場でしか出来ないこともある。幹部側の人間ではないという立場を持っておくことで、幹部に見えない景色が見えてくるんじゃないだろうかと考えてもいた。
自分勝手な考えとも理解している。出来る事をしないのは、良くないことだとも。でも私だって言い分はある。兄さんみたいな苦労は背負い込みたくない。年下なのに先輩に向かってアレコレと指摘するのは骨が折れる。しかも、相手が高坂先輩ともなればなおの事。私たちは同じ背中を見上げながら過ごしてきた。けれど、そこで抱いた感情は全く違う。
もしかしたら私は、高坂先輩に嫉妬しているのかもしれない。兄さんの後継者であると自負する彼女に。私は苦労したくないからその職は受け継ぎたくないと思いながら、兄さんの後継が私ではなく高坂先輩であることに、良い感情を抱けていないのだろうか。その答えは、全く出そうになかった。ただ一つ言えるのは、兄さんが後継者を選ぶとき、高坂先輩ではなく私に「頼む」と言えば、私はきっと引き受けていたのだろうという事だけだった。
普段とは違う装い、というものは得てして人を多少なりとも興奮させる効果がある。それも、好んで着るならばなおの事だろう。サンライズフェスティバルにおける最大の魅力とは、この衣装にあると言って憚らない人も多い。毎年違う衣装を用意している学校もあれば、立華のように伝統の色を貫いている学校もある。いずれにしても、この衣装があるから参加を希望するという女子はきっとかなり多いはずだ。
青いシャツに橙色のネクタイ、緑の上着と黄色いボタン。いずれの色も結構ハッキリとした発色ではあるが、綺麗なバランスで収まっている。去年のへそ出し衣装よりはお淑やかさとカッコよさが足されている気がする。個人的に、露出の高い服を外で着るのは得意じゃないため、こちらの方が好きだった。服飾系を志望していると噂で聞いた川島先輩が衣装作成に参加していただけのことはある出来だと思う。イメージ的には軍服が近いのかもしれない。将校の礼服を着た祖父の白黒写真を思い出した。
「「わぁ……」」
後輩二人からのキラキラした目線が少し怖い。服に穴が開くんじゃないかと言うような視線を送ってきている。
「相変わらず様になってますなぁ」
「顔とスタイルが良いと何着ても似合うからズルいよね」
成美さんと沙里先輩がよく分からない訳知り顔で頷いている。華の女子高生というよりは親戚のオジサンのような態度だった。もっとも、私は世間一般のイメージする親戚のオジサンという存在は、ドラマや小説の中だけで見る存在なのだけれど。
「昔、男装してくれたことありましたよね」
「あぁ、卒部会の時ですね」
香奈さんの話を、後輩たちは興味深そうに聞いている。これこれ、と彼女が後輩に見せたのは、中学の卒部会の時の写真。後輩へのサプライズを何かしたいという話になり、それぞれ何か一つ用意してくることになったのだ。皆諸々考えて用意していたのだが、全く思いつかなかった私は兄さんに泣きついてアイデアを出してもらった。仮装でもすれば? と凄く適当に言われたのには些か憤慨したけれど、他に思いつくアイデアも無く、実行してみたら存外ウケが良かったので安心した記憶がある。
写真の中の私は、黒いスーツを着ている。どうせならとしっかり髪やメイクもセットしていたためか、どうも凄まじいキメ顔になっていた。こうして後から見ると羞恥心が湧いて来る。
「む、昔の話はその辺で……」
「いいじゃんいいじゃん、減るもんでもなし」
「あ、ちょっと」
なんだなんだと集まって来る他のパートの後輩たち。普段とは違う姿というのは、やはり興奮を誘うのかもしれない。それが自分のモノであれ、他人のモノであれ。或いは、ギャップがあるからこそそういう効果があるとも言えるだろう。いずれにしても、私は今好奇の視線にさらされて、穴があったら入りたい気分だった。遠くの方で「わぁおかっこいぃ」と口パクしている久石さんの顔を抓りたくなった。
人の黒歴史で盛り上がっている中、そーっと抜け出してお手洗いに行く。単純に行きたかったのもあるけれど、目的はもう一つあった。試着室に使っている視聴覚室には鏡が無い。なので、鏡のある場所に行きたかったのだ。お手洗いを出て、廊下の水道にある鏡を前にしてみれば、我ながらそれなりに様になっている私の姿が写っている。取り出したスマホを構えてパシャリと写真を撮ってみた。何枚か撮ってみて、一番いいやつを選び出す。それを送信してみた。今はきっと授業中だろうから返信は来ないと思う。
でも、似合ってると言って欲しいのが乙女心だった。こんなところは他の人にはあんまり見られたくない。イメージが崩れるとか諸々あるけれど、単純に恥ずかしかった。視界の端に、差し掛かった階段の踊り場に人がいるのが映った。その時、のどかな空気をつんざくような高い声が響く。
「下手なのに先に帰るっておかしくないですか!」
異装に身を包み、どこか浮かれ気分だった私の内心は、冷水をありったけ浴びせられたような気分になった。今顔を出すのはよろしくない。そういう判断をして、スッと柱の影に隠れた。声からして二年クラリネットの加藤樹さんと平沼詩織さん。相手はどう考えても部長だろう。
「サリーとか、毎日残って練習してるのに!」
「でも、その子は練習中にサボっているわけじゃないんでしょ?」
「それは、そうですけど……。でも、上手くないんだったら自主練しますよねぇ!? 塾優先してる場合じゃないでしょって。こっちは全国目指してんのに」
「気持ちは分かるよ。今年のクラリネットはレベル高いし、みんなの求める水準も上がってるもんね」
これは上手い言い方だと思う。一般的に、女子が相談をする時というのは共感を求めていると言われている。男子がそうではないとは思わないけれど、男性は問題解決の手段を求めている場合が多いというのが世間の意見だ。完全に同意はしないが、私も一定数は真実だと思う。特に、今回のケースでは。そして話している内容も、部長経験者としては「あぁ、そういう系ね」と思うモノだった。よくある話ではある。公立の学校である北宇治では、進路は様々だ。進学校のように大学進学がほぼ100%という訳でもない。その分、勉強に割く熱量には温度差がある。南中でもそうだった。
今話を聞いている部長がどういう気持ちなのかはなんとなく察することができる。少なくともこの瞬間、私と部長は同志だった。ともあれ、ここで共感を示した事で剣呑だった声がちょっと和らぐ。あの雰囲気では説得などしても火に油だろう。一回冷静になってもらうには、一度こちらが受け入れるしかない。
「分かってくれます? そうなんですよ。私、去年みたいに先輩たちが悔しがる顔は見たくないし、実際そうなったら後悔すると思うんです、絶対。だったら今のうちに二年生としての自覚をもって頑張って欲しいなって思うんです」
「そうだね。最後に後悔することになったら誰も幸せにならないもんね。色々と考えてくれてるんだ」
これも上手い。相手の不満を部の事を慮ってという風にポジティブな転換をした。部の将来を考える思慮深い存在、というカテゴライズを与えることで、相手の剣呑さを収めやすくなる。
「でも、三年生はそれで良いって仰るんです。あの子は練習時間に集中しているからって。いや、先輩の言ってることも分かるんですよ。ただ、私はやっぱりみんなと同じ熱量を持ってほしいというか……足を引っ張る奴は入らないって思うんですよ」
そこまで言うか、と軽く眉間を抑えた。それに、理由もぐちゃぐちゃだ。多分、最後のが本音なのだろう。ついポロっと出た、一番黒い部分。足を引っ張る奴はいらない。その言葉はとても強い言葉だった。それを言われている相手の行動を、全部知っているわけではない。でも、先輩が注意しないということは部において問題行動をしているわけではないのだろう。けれど、こういう風に言われてしまう。『自主』練習をしないだけで。自主の定義は、彼女の中では違うらしかった。
私は部長のように上手く言葉を紡げないだろう。何せ、今思ったことは熱量とは随分主観的に過ぎる言葉だ、という感想だったから。便利な言葉だ。自分が「熱量が無いように思う」と言えば、そういう風に見えてくる。あくまでも自分の主観でしかないけれど、否定する材料も大きく存在しない場合、対処が難しい。きっと、彼女は善意でこう言った。恐ろしいまでの善意で。曰く、地獄への道は善意で舗装されているらしい。その良い例がこれだった。
「まぁ気持ちは分かるんだけど、他の先輩も言ってるように、サボってないならその子の部活の向き合い方を受け入れた方が良いと思うよ。居残り練習はあくまでも本人の意思に委ねてるし、それを義務化するのは良くないかなって。ほら、去年だってトランペットの居残りレッスンは強制して無かったでしょ? 麗奈と吉沢さん以外は帰ってたけど、誰も何も言わなかったよ」
「でも、みんなが頑張ってるのに輪を乱されると気になります」
「もっと冷静に考えてみて。和を乱されるって感じてるのはどうしてなのか。自分は無理してでも頑張っているというのは良いけど、だから相手も無理してでも頑張って欲しいと感じてしまったら、それは危険なサインだよ。決まり以外のことまで押し付けて、どんどん訳の分からないルールが増えていったら色々と雁字搦めになっちゃうでしょ? 去年だって、それでちょっと怒られたの覚えてるよね」
「それは……はい」
変なルール作って無いで練習しろ。それは去年兄さんがピシャリと言った内容だった。どうも、今の三年とそれ以外には温度差がある。きっと、三年生は北宇治がまだ弱小だった頃を知っている。だから理不尽なルールなどを徹底的に嫌うし、問題だと思う。和を乱すな、の言葉の末にあったのが、高坂先輩の再オーディションなのだろう。けれど今の二年生は違う。去年も今年も、求めているのは上の学年と少し違うモノだった。それは人数が多いからこそ、或いは暗黒時代を知らないからこそ、団結することで乗り切ろうという集団心理の現れなのかもしれない。
「それに、そういうのは却って後輩も縛っちゃうかもしれない。去年、みんなが入って来る前に優子先輩と桜地先輩からもそういう話があったんだよ。塾や家庭を優先するのは悪い事じゃない、部活は学校生活の延長だって。だから既存の部員で良い空気を作って、一年生に強いないようにって」
「でも……だから去年は……」
「それは……言っちゃダメだと思うよ。絶対に」
思ったよりも強い部長の声が響いた。その言葉に、二人も語気が弱まっている。
「すみません……。けど、どうしても焦っちゃう部分はあるんです」
「そうだね。その焦りは大事だよ。ただ、それを誰かにぶつけるのは正しくない。精神状態って音と直結するからね。厳しく向き合うのも悪くないけど、潰れる前に息抜きの仕方を覚えよう。愚痴ならいくらでも私が聞くから。大事なのは、同期とか先輩とか後輩じゃなくて、自分と戦うことだよ」
その言葉に満足したのか、一通りお礼を言って二人は走り去っていく。その足音が遠くに消えていったのを確認したからか、部長の口からため息が漏れるのが聞こえた。今は上手く言いくるめた。でも状況が変わらなければ、また同じような相談は来るだろう。同じパートから、或いは別のパートからも。
ここでどうするべきかは迷っていた。声をかけない選択肢と、声をかける選択肢。ただ、もう一度深い息の音が聞こえたから、声をかけることにした。
「お疲れ様です」
「わぁぁ、お、お疲れ。……どこから?」
「最初の方から。申し訳ありません、盗み聞きをしてしまって」
「まぁ……桜地さんなら、良いかな。……ちょっと、聞いても良い?」
「はい」
「南中でもこんな感じの事、よくあった?」
「と、仰いますと」
「ごめんね、他にこういう事聞ける相手があんまりいなくて。北中時代の部長は違う学校だし、同じ学年にそういう立場になったことのある子がいなくって。桜地さんが一番経験値が多いかな……って」
確かに、そういう意味では私と義井さんがこの部で部長と同じ立場になったことのある経験者だった。義井さんにこんな相談をしたらどうなるのかは深く考えずとも分かる。だから、私に不安と疲労の混じった声を漏らしたのだろう。先ほど思った通り、私と彼女は同志だったのだ。過渡期の強豪で、上を目指し続けなくてはいけない立場を背負ったことのある、同志だった。
「ままありました。南中ではむしろ顧問の方が少しばかり……何と言いますか、厳しい方でしたが」
「あー、確かにそんな感じの所はあったね。あんまり見た事無いけど」
大分言葉を選んだ私の発言に、部長は肯定で返す。合同練習での所感からそう言っているのだろう。その感想は正解だった。
「アレで良かったと思う?」
「ひとまずは。今後継続的に見ておく必要はあると思いますが、この場の収めた方としてはこれ以上良い方法はそうないかと。聞いてしまった以上乗り掛かった舟です。今後は私も出来る範囲で気を配って行こうと思いますので、ご安心ください」
「そっか……ありがとう」
「いえ、当然のことですから」
そう言って穏やかに笑いかけた私に向けた部長の笑みは、至極曖昧なモノだった。