音を愛す君へ   作:tanuu

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第ⅩⅧ音 吉沢秋子

 神社を訪れた翌日。体調は戻ったという連絡を朝貰っていたので、一安心しながら登校することが出来た。部長がどう思っているのかは分からないが、上手くやってくれたというのは明白。その結果として、義井さんは戻って来ることが出来た。彼女の体調不良の原因の多くが、精神的な由来だったこともまた、明白だった。

 

「おはようございます」 

 

 朝の音楽室のドアを開ければ、いつも通りの光景が広がっている。窓から差し込んでくる眩しい朝の光に少し目を細めた。昔は、その光の先にいたのは先輩たちだった。みぞれ先輩が淡々とオーボエの音色を奏でて、希美先輩がフルートを手入れし、優子先輩や夏紀先輩が顔を突き合わせて運営について頭を悩ませ、兄さんが練習計画を練っている。そうしているうちに高坂先輩たちがやって来る。私にとって朝の景色というのはそういうモノだった。

 

 けれど、もうそこにその景色はない。今のいつも通りの景色というのは、義井さんが練習している姿だった。それはまだどこか不安定だった実感、先輩たちはもういないのだという実感を私にしっかりと与える。あのどこか夢のようだった日々は、もう遠い過去の話になってしまったのだ。その事実に寂寥感を覚えつつも、私は前にしか進まない日々に身を置いている。

 

「あ、おはようございます」

 

 義井さんが丁寧に頭を下げる。彼女のその礼儀正しさは、南中時代から健在だった。変わっていくモノ、変わってしまうモノもあれば、そうでないモノもある。そうやって人生は進んでいくのかもしれない。変わってしまったモノを時には懐かしみながら。

 

「もう大丈夫そうですね」

「昨日はすみませんでした……」

「お気になさらず」

「でも、わざわざ部活の時間に来ていただいて……」

 

 他にも変わらないモノはあるらしい。例えば、彼女のこういう部分とか。そんなに重く捉える事もないのにと、そう思いながら苦笑する。こういう部分が彼女の良いところであり、面倒な部分でもあるのかもしれない。

 

「プリン、美味しかったですか?」

「え、あ、はい、ありがとうございました。みんなで食べました」

「そうですか、それは何より。では、食べた分は今日頑張って消費しましょうね」

 

 彼女の申し訳なさを拭うためには、こうして別の部分に話題をズラしてあげればいい。

 

「そうしてくれることが、私にとっては何よりも嬉しいことです。わざわざ部活時間中に来てもらって申し訳ない、などと考える必要はありません。あなたが元気でいることが一番ですので」

 

 それと同時に、あなたが元気でいることによって周りの一年生も元気に部活に取り組むことが出来ることも。そう考えたけれど、口には出さない。言わない方が良い事もあるのだ。世の中には、結構な数。それを見抜いてしまう人もいるけれど、少なくとも今私が話している相手はそうではない。人にはそれぞれに合ったアプローチの仕方がある。

 

「はい、頑張ります!」

 

 現に義井さんは私の言いたいことを理解してくれたようで、元気に返事をしてくれた。これで今は良いのだ。後輩が苦しんでいる姿を見るのは別に好きでも何でもない。こうして大変な事があっても、それでも元気にめげずに来てくれるなら、それ以上望むのは欲張りというものだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 さて、義井さんの件は部長の奮闘と釜屋さんの機転のおかげで何とか軟着陸することが出来た。しかし、私はそれによって本来考えていた方向に思考を引き戻されている。つまりは真由先輩を高坂先輩の補佐に据えるという考えだ。これについて何かしら動こうと思っていた矢先に義井さんの件が入ったので後回しにしていたけれど、提案だけはしてみようというのが私の考えだった。

 

 それについてまずはこの提案が通った際に一番苦労するであろう真由先輩当人に話をしたいと思っていた。それで部活の休憩時間に低音パートの練習教室を訪ねたのだけれど、彼女は席を外していた。それではその階のお手洗いかとも思ったけれど不在。そうしてウロウロしていたら、先輩が普段生活している教室のにいるのを発見した。

 

「失礼します」

 

 彼女以外に人はいないけれど、一応先輩たちの教室なのでこう告げてから入室した。真由先輩の机の上にはノートが置いてある。どうやら教室に忘れ物を取りに来ていたらしい。

 

「あれ、涼音ちゃん。どうしたの? もしかして私に用事?」

「はい、少しお話したくて」

「ごめんね、探させちゃったかな」

「いえ、大丈夫です。こうして発見出来ましたので。教室にお忘れ物ですか?」

「うん。数学のノートなんだけどね。宿題が出てるから絶対持って帰らないといけないんだけど、うっかりしちゃってて」

 

 ふふふと笑う彼女の笑顔には、表裏など存在さえしないかのような雰囲気さえ感じた。どんな狷介な人も、この表情には中々抗しえないのではないだろうか。むしろ、彼女を責める人に罪悪感すら植え付けてしまいそうだった。

 

 五月の午後の教室で、少し薄暗くなった光と影の混じる場所で、彼女は窓から吹く風に髪を揺らしている。その顔は優しさの中にどこか憂いを含んでいるようにも思えた。それは本当に小さな違和感。けれど私はこれまでの人生経験の中である種の確信を持っていた。こういう違和感は大体にして後々何か尾を引く問題に繋がっていたりする、と。

 

「真由先輩、大丈夫ですか? 何かありましたか?」 

「え? えっと、どうして?」

 

 私の唐突な言葉に、彼女は困惑を以て返答した。

 

「突然すみません。本題とは全く関係ない上に、私の勝手な想い過ごしである可能性が高いのですが、何かお悩みを抱えていらっしゃるようにお見受けしましたので」

「悩み、って言っていいのかは分からないけど……一つ質問しても、良いかな?」

「はい、もちろん」

「私、上手くやれてる?」

「上手くやる、とは具体的には?」

「えっと、ここで上手く振舞えてるかな」

「……なるほど」

 

 その言葉は至極曖昧であり、非常に具体性に乏しい問いかけだった。上手く振舞うの定義もハッキリとしていない。けれど一つ分かることがあるとすれば、何かしらの意識のすれ違いや感覚のズレがあって、それが何かの機会に表面化して、この問いに繋がったのだろうという事だった。

 

 いつそうなったのかと言えば、多分昨日。剣崎さんが自分と加藤先輩の所へ来たと、部長は言った。自分の所とはつまり低音パートの練習教室。そこには多分真由先輩もいて、義井さんの件を断片的にではあるかもしれないけれど聞いていた可能性が高い。そこでなにかあったのではないだろうかと私は推理した。他に何も思いつかなかっただけとも言える。

 

「私はね、合奏が好きなんだ。それと、楽しく演奏するのも好き。だから、楽しく演奏できそうで、なおかつ京都で座奏が上手い北宇治に来たんだ」

「覚えていますよ。初めてお会いした時に、そういう趣旨のことをお話しされていましたね」

「覚えててくれたの? ありがとう。でもだから……楽しく演奏できないなら、別の場所に行っても良いと思うの。無理して続けても、みんな幸せになれないんじゃないかって。辞めた子は部活から解放されて、残った子はその子のことを気にせず演奏に集中できるようになる。部活を辞めるなんてそんなにおかしな話じゃないし、その方がお互いに幸せなんじゃないかな。たかが部活なんだし、しがみついてもしょうがない。そう思ってはいるんだけど……ちょっと昨日、それで微妙な感じに、ね。前の学校でもこんな感じの事あったから、やっぱり私がおかしいのかな」

「それ、は……」

 

 真由先輩の言うことは別に間違ってはいない。部活というものは、どこまで行っても学校生活の延長線上に存在しているものだ。学校生活の一環として部活は存在しているけれど、部活のために学校が存在しているというのはあり得ない。人生百年時代のたった数年間。それも、三年間毎日毎時間ずーっといるわけではない。時間になおせば、一日の内の数時間だ。それくらいの時間なら「たかが」と言ってしまうのも、間違いではないと思う。

 

 お給料をもらっているわけでもない。責任はあるけれど、それを果たさないと誰かが路頭に迷ったり死んだりするわけではない点を考えれば、少なくとも私の家の場合で考えれば大した責任ではないだろう。拘束時間も長く、ストレッサーも多く、そう考えればあまりメリットも多くはないのかもしれない。流石に言ったタイミングが悪かったようにも思うけれど、一意見として大っぴらに否定されるようなモノでもないだろう。

 

 ただ、それは発言した場所が外ならばの話だ。部活というのは良くも悪くも閉じた世界になっている。普段の学校生活とは違う空気感が流れている空間になっている。その中では同種の考えが形成されて、それ以外の考えは排除されやすい。そして連帯意識も強くなる。連帯意識の強い空間で、それを否定するのはかなりリスキーな行いだった。

 

「おかしくは、無いと思いますよ。言ったタイミングがちょっと良くなかったかもしれませんが……。それに義井さんは心の底から辞めたいと思っていたわけではないですし、あの時点ではその辞める云々の話も未確定情報でしたから。それになるべく全員そろって一年を終えたいというのが部長のお考えなのだと思います。北宇治を好きになって欲しいと、そういう考えを抱いて行動されているようですから」

 

 思うに、真由先輩は場所はどこでもいいのだ。置かれた場所で咲きなさいという言葉もあるけれど、今は自分で咲く場所を選べる時代になっている。その時代の中で、北宇治という空間に固執する必要はないと考えているのだろう。楽しく演奏することが大事だから、そのための場所は二の次ということだ。

 

 かと言って、別にどうでも良いとまでは思っていないようでもある。だからこそ、幾つもある学校の中から北宇治を選んだ。上手い演奏が出来て、何より楽しく生活できそうだと思ったから。つまり、去年彼女の目に映った北宇治は非常に理想的な場所だったのだ。実態はどうであれ。

 

 反対に部長は北宇治という空間を好きになって欲しいと考えている。つまり、先ほどの真由先輩と照らし合わせて考えると、部長は北宇治に固執しているとも言える。真由先輩はどこでも良くて、条件が合えば立華でも洛秋でも良かった。ただ北宇治が一番求める条件と合致していただけの事。逆に部長は北宇治でなくてはダメなのだ。例え如何に上手かろうと、他の学校ではなく北宇治に強い思い入れを持っている。両者の意見が合うはずなど無かった。

 

「そう、なんだね」

 

 真由先輩は決して愚かな人ではない。私の今の説明で、自分と部長の間にある分断に気付いてしまったのだろう。その表情にあった憂いは一瞬、先ほどまでよりもずっと深くなっていた。

 

「あぁ、ごめんね、私自分の話ばっかりしちゃってて。涼音ちゃんが用事があった方なのに」

「……いえ、凄く大事なモノではないのでまたの機会にしましょう。練習時間がもうすぐ再開してしまいますので」

「あ、ホントだ。でも、良かったの?」

「はい、大丈夫です。それよりも真由先輩とこうしてしっかりお話しできてよかったです」

「お話、聞いてくれてありがとう」

「またいつでもお聞きしますよ」

「今度は、涼音ちゃんのお話も聞かせてほしいな」

「……機会がありましたら」

 

 行きましょう、と言って真由先輩と連れ立って教室を後にする。結局、お風呂の中で考えた提案の話はしないことにした。真由先輩と部長の間に存在している大きな考えの相違。それを無視してこのまま高坂先輩の近くに真由先輩を置くと、部長の精神衛生的に大きな影響が出てしまいそうだったからである。この話は一回私の心の中で留めておくしかないだろう。

 

 部長は脱落者が出ることを恐れている。確かに真由先輩の言う通り、部活を辞めるというのはそうおかしな話でもない。ありふれた、良くある話だ。ではなぜそれを部長が強く拒むのか。それの原因が何であるのかはハッキリとは分からない。ただ想像することは出来る。

 

 北宇治は数年前まで弱小校であり、内部環境は最悪だった。その過程で兄さんや希美先輩、南中の先輩たちが部を去った。それ以前にも似たようなことは何回もあったのかもしれない。部長はそれを知っている。その一端を垣間見ている。そして先代の優子先輩は実体験として知っている。優子先輩の持っていた強いトラウマは、今の部長にも引き継がれているのかもしれない。だとすれば、部長の考えも理解することが出来た。

 

 どちらが正しくて、どちらが間違っているのかなど、私には分からない。或いは、どちらも正しくて、どちらも間違っているのかもしれない。私に分かるのは、この差異はきっといつか大きな火種になるという事だけだ。そして同時に、この火種を消し去る能力が私に無いという事も、否応なしに理解させられる羽目になる。

 

 真由先輩と別れて、自分のパートの練習教室へ戻るために廊下を歩く。廊下の窓からは青い空とそこに浮かぶ白い雲が点在して見える。遠い空の下にいる兄さんなら、この事態に際してどうしたのだろうか。

 

「たかが、部活」

 

 その言葉を自分の声にして反芻してみる。確かにその通りだ。間違っていない。理論ではそうだと分かるし、理性は真由先輩は正しいと告げている。けれどどうしてだろう。どうしてか、百パーセントでは賛同できない自分がいた。自分は「たかが」と形容されるようなモノのためにこれまで時間を割いてきたのだろうか。悩み、苦しみ、悲嘆してきたのだろうか。

 

 そう簡単に切り捨てられるものだったらどれだけ楽だっただろう。私はもっと楽に日々を過ごせた。優子先輩たちだってそうだろう。希美先輩も、兄さんも、南中の先輩や同期、後輩たちだってそうだ。もっと楽な道は常にあって、それを選ぶ権利も私たちにはあった。けれど、そうしなかったのは何故なのか。辞めたってかまわないモノに魂を注ぎ込んだのはどうしてだったのだろうか。

 

 胸の奥につっかえたように、先ほどの言葉が残り続けている。それはきっと、自分のこれまでの人生と向き合わないといけない重たい命題だったからだろう。言ってしまえば真由先輩の言う通りたかが部活のために、何故努力し続けるのか、そこに居続けるのか。その答えをすぐに出せるほど、私は賢くなかった。

 

 

 

 

 

 下を向いて歩いていたからだろうか、曲がり角で誰かにぶつかりそうになってしまった。

 

「うわっと」

「すみません、不注意で……。大丈夫ですか?」

「ごめんね、こっちも見てなくって……ってあれ、涼音ちゃん?」

「あ、秋子先輩」

 

 ぶつかりそうになった相手は楽譜を持っていたトランペットのパートリーダーにして、兄さんの三番弟子である吉沢秋子先輩その人だった。高坂先輩のパートナー役として北宇治のエースパートであるトランペットを率いている。また同時に、エースの多い三年生の中でも幾人かいる、今年の結果を左右するであろう実力者の一人でもある。高坂先輩と並んで奏でる高音は、全国屈指だろう。兄さんの厳しい練習を二年間受けただけのことはある。

 

「先輩は……」

「一年生の練習で使った楽譜を音楽室に戻そうと思って」

「そうだったんですね」

「涼音ちゃんはどうしたの? フルートの練習教室からはちょっと離れてるけど」

「少し真由先輩に用事があって」

「おぉ、真由ちゃんと仲良いの? 先輩繋がりかな?」

「そんな感じです」

「ちゃんと前見て歩かないとダメだよ。今回は何とか回避できたけど、ぶつかって怪我とかしたらお互いに嫌だからね」

「はい、申し訳ありませんでした……」

 

 真由先輩とはまた違ったベクトルでフワフワした感じのある秋子先輩は、後輩からの人気も高い。真面目一辺倒な高坂先輩よりも緩い感じがあり、個性的なところも随所にみられる。まぁ、実際は高坂先輩とあんまり変わらないくらいにはスパルタらしいのだけれど、そういう話を聞かないのはやはり言い方や接し方の問題なのかもしれない。後、写真に写る時のポーズが結構あざとい。

 

 私たちの関係性は、私と高坂先輩よりは深い。ソロコンの大会に一緒に行った縁で、それ以来仲良くさせて貰っている。金管の事情は久石さんに聞くか、彼女に聞けば大体間違いない。そして秋子先輩は、この北宇治で過去と現在において唯一兄さんに告った相手でもある。それを恨んだり、距離を取ったりすること無く接していて、私にも優しくしてくれるので、凄く人間が出来た人だと思う。希美先輩が一番だけれど、この人がお義姉さんでも私は拒んだりしなかっただろう。まぁ、まだ諦めきれてない感じは時々あるけれど。

 

「トランペットの一年生、どんな感じですか?」 

「皆真面目に頑張ってるよ~、まぁ麗奈ちゃんいるのに真面目じゃないのは難しいと思うけど」

 

 トランペットの一年生は三人入っている。高橋雪深さん、坂本るかさん、松武愁吾君だ。パートも学年も違うとあまり接点が無いので、話す機会も限られてくる。新入生指導係でもないとさらに話す機会は少なかった。学年もパートも横断して指導していた兄さんは大分広い交友関係を持っていたのだと、改めて思う。

 

「先輩も三人来てくれて喜んでてね。やっぱり私たちの代とかみたいに二人だとちょっと少ないから」

 

 秋子先輩はそう言うけれど、個人的には今の三年生は二人で良かったように思う。二人しかいない分、却ってお互い同士の関係性なので、良いコンビになれているんじゃないだろうか。相性バッチリみたいな関係性は、二人だからこそ為せたものだと思う。まぁその構築には秋子先輩の尽力が大分あったとは思うけれど。

 

「まぁ、まだまだどういう子かなってしっかり把握するのは時間がかかるかもだけど、頑張らないとね。私がパートリーダーなわけだし。麗奈ちゃんが全体をやる分、足元くらいはしっかり固めておかないと」

 

 高坂先輩の持っているカリスマ性に比べると、どうしても秋子先輩は優しくのんびりした印象を受ける。とは言え、それはまだ本格的にコンクールに向けた練習が始まっていないからだろう。一年生がどう思っているのかは分からないけれど、もし侮る気持ちがあるのならば、オーディションの前にある全体練習で自らの不明を思い知ることになると思う。

 

 何故この人がパートリーダーをやっていて、自他共に厳しい高坂先輩が自身の頼れる相方と言ったのか。先生や兄さんからビシバシ指摘を受ける一年生を横に、涼しい顔をしていた去年の春を思い出す。指摘を受けることは少ないし、受けてもその修正速度が速い。次か、その次にはもう指示した通りになっている。高坂麗奈のライバルは伊達じゃない。少なくとも舐めてかかったら死ぬと思う。

 

「さやかちゃんもメキメキ上達してるし、二年生も今年は全員メンバーに入れるかなっていうのが、今の私の予想。麗奈ちゃんはまだ足りなーい! っていっつも言ってるけど」

「高坂先輩は求めている水準が高いですからね」

「それもあるけど、多分来年以降のことも考えてるんだと思うよ。先輩から一番指導された代がここで、今の二年生がギリギリその最後の世代になってくる。となると、いつまでトランペットが北宇治のエースでいられるか分からないから。せめて、少しでも長く技術を継承して、トランペットが北宇治の音楽に貢献できるようにしたいんじゃないかなーって」

「なるほど」

 

 それはありそうな話だった。同時に、私にはない視点でもある。流石、二年間一緒にいるだけのことはあって、高坂先輩への解像度が高い。どういう人物像でどういうことを考えていそうかよく分かってる。

 

「トランペットの方は大丈夫だけど、涼音ちゃんこそ大丈夫? 何か難しい顔をして歩いてたけど」

「え、あぁ、まぁ、ちょっと考え事をしていまして」

「そうなんだ。なんだか二年前の五月くらいの先輩の顔にちょっと似てたから心配になっちゃって。悩んでることあったら、ちゃんと相談するんだよ? 自分のパートの先輩でも良いし、部長とかでも良いし、家族でも良いけど」

「はい、ありがとうございます。……相談、という訳ではないのですが、一つ聞いても良いですか?」

「良いよ~。答えられるかは分からないけど」

「秋子先輩は、どうして部活を頑張ってるんですか?」

「ぬお~、凄いムズイのが来たね……ぐぬぬ……」

 

 変な唸り声を出しながら、先輩は頭を捻っている。なんだか曖昧模糊過ぎるし、唐突過ぎる質問だった。いきなり聞くようなモノでもないような気がするし、申し訳ないことをしてしまったかもしれない。

 

「どうしてって言われたらまぁ、色んな理由があるかなぁ。先輩から受け継いだ夢を叶えたいって言うのもある。私たちの世代にとっては二年連続で獲れなかった全国金を目指してもう一回名古屋に行きたいからね。悔しさを晴らしたいとか、そういう想いもあるかな。このメンバーで吹ける最後の年だからってのもあるし、先輩としてカッコいいところを見せたいって言うのもあるよね。後は、先輩に成果を見せたいって言うのも」

 

 秋子先輩が並べた理由と言うのは、よくあるモノでありながらもとても重たいモノだった。全国大会にもし、今年も出ることが出来たのなら、秋子先輩は三年連続で出ていることになる。その最後の年で、これまで切磋琢磨してきた高坂先輩と一緒に金を獲ってそれを兄さんに見せたいという想いは、生半可なモノじゃない。きっとそうなのだろう。一つの理由だけではなく、みんな色んな理由が少しずつあるんだ。

 

「でも何か一つって言われたら、それはそれでしっかりあるかな」

「それは……?」

「これまでの日々と、これからの日々を、自分の財産にするためかな」

「財産」

「うん。私は麗奈ちゃんに比べて始めたのが遅かった。でもそれは諦める理由にはならない。コケてばっかりでへこみそうになることもあるけど、それもきっと財産になるって言ってくれた人がいたから。私はその言葉を信じてる。だから、今日もここに来て、演奏して、練習して、また明日もそうする。明後日も、その次も。進む一歩は勝てなくても、歩いた数なら勝てるかもしれないから」

「それは……大変な道ですね」

「そうだねぇ。正直、大変だし面倒だしうげーってなる事もあるけど、私は私に頑張る理由をくれた人を信じてるから。諦める理由を探してた私を引っ張り上げてくれたあの時みたいに、次は私が引っ張り上げる人になりたいんだ。大丈夫、その道は間違ってないよって、胸張ってね」

 

 引っ張り上げた人が誰なのかは、名前を聞くまでも無かった。多分、それは先輩が一年生の時の話なのだろう。何年も前に兄さんが発した言葉は、今でもまだ先輩の心の中でしっかりと根付いて、生きている。もし、高坂先輩が兄さんの演奏技術を受け継いだのだとしたら、指導者としての技術を真に引き継いだのは秋子先輩の方なのかもしれない。

 

「改めて口に出すと、なんだかちょっと恥ずかしいね」

「そんなことありません。凄く、立派な事だと思います」

「そう言ってくれると嬉しいけど、恥ずかしいモノは恥ずかしいんだよ~。こんなので役に立ったのかな?」

「はい、とても」

「それなら良かった。涼音ちゃんは、頑張る理由を探してるの?」

「そこまで深刻なものでも無いんですけど……まぁ、それに近い感じです」

 

 真由先輩の話はしないでおく。あれはきっと、私だけが知っていた方がいい事柄だ。余所に広めるようなものではない。

 

「そっか……。まぁ難しいとは思うし、ハッキリ言葉にするのって結構大変だと思うよ。理由なんて一つじゃないだろうし。私は涼音ちゃんじゃないから、涼音ちゃんの頑張る理由なんて分からないけど、でもこれまで頑張ってきた理由なら何となく分かるよ」

「そう、ですか?」

「うん。やりたかったからでしょ?」

 

 こともなげに、実にあっけなく、1+1は2であると告げるように先輩は言った。

 

「やらないといけないとか、そう言うのはあったかもしれないけど、最終的にやるって決めた理由は自分がそうしたかったからじゃなかった?」

「そんな直情的ではなかったと思いますけど……義務感も大きかったですし。特に中学時代とかは」

「涼音ちゃんは真面目だから、あんまり自分の感情に従って動くのが良い事だと思えないのかもしれないね。でも、北宇治に来たのは来たかったから。吹部に入ったのも、そうしたかったから。大事なところだったり、何かを始める時の一番最初はいつだって、自分がやりたかったからじゃなかった?」

 

 そう言われてみれば、そうなのかもしれない。音楽を始めた理由は兄さんがカッコよく見えたから。フルートを始めたのは希美先輩に憧れたから。吹奏楽部に入ったのもそう。南中を率い続けたのは希美先輩に託された夢があったから。北宇治に来たのは兄さんたちと一緒に部活がしたかったから。今年頑張るのは、兄さんに希美先輩に優子先輩たちにと多くの夢を託されてるから。そして、純一先輩の前で私の晴れ舞台を見て欲しいと言ったから。何とも感情的な人生だった。

 

 たかが部活。そう切り捨てられなかったのは、自分にはそう出来ない理由があったから。こんなにも沢山の切り捨てられない理由であり、頑張り続ける理由が。それが分かった刹那、胸のつかえがとれた気がした。

 

「ほら、あったんじゃないかな? 頑張る理由」

「はい。沢山」

「大丈夫だよ。涼音ちゃんは自分が思ってるよりもしっかりしてて、色んな子から頼りにされてて、好かれてる。自分が思ってるよりもずっと人のために頑張れてる。時々間違えることもあるかもしれないけど、それは誰だってそうでしょ? 先輩だって失敗はしてる。私も、麗奈ちゃんも、部長も、先生も、みんなそう。だから、もうちょっと自分の心に素直に、やりたいことをやれば良いんじゃないかな」

「ありがとう、ございます。すみません、ちょっと行かないといけない場所があって、良いですか?」

「うん。前しっかり見ながらね」

「はい、失礼します! ご指導ありがとうございました!」

「は~い」

 

 にこっと笑いながらゆらゆらと手を振る秋子先輩に頭を下げて、私は廊下を走った。私が頑張る理由はさっき考えた通り。そのためにやるべきことは吹奏楽部のために努める事。やるべきことは、同時に私がやりたい事でもある。私がやりたいことは、この代で、今度こそ金を獲る事だ。それが今の私が心の底から抱いている、一番やりたい事。

 

 けれど、ボケッとしていてもそれは達成されない。当然、自分自身の技術を高める努力をしないといけない。そして吹奏楽は団体で挑むモノだ。私一人が上手くても意味はない。だから、自分が今できることは、精一杯やらないといけないんだ。やるべきかどうかとかじゃなくて、真由先輩とか他の誰かを上手く使ってとかじゃなくて、自分で出来ることをまずはやって行かないといけない。自分のやりたいことをやるために。

 

 資格があるとか、過去がどうとかで逃げてはいけないんだと思う。正直、怖い部分もある。また同じ過ちを繰り返すのではないかと。けれど、例え間違えてもきっと指摘してくれる人がいるはずだ。それなら適当な言い訳に逃げるんじゃなくて、言葉で誤魔化すんじゃなくて、真っ直ぐに向き合って。

 

 心の中に炎が灯っている。随分忘れかけていた熱だ。希美先輩の跡を継いだ時、この高校に入った時、純一先輩の前で叫んだ時、同じ熱が灯っていた。あぁ、どうしてこんな大事なモノを仕舞い込んでいたのだろう。この熱に気付いていれば、あの時あの申し出に対する返答なんて決まっていたはずなのに。

 

「高坂先輩!」

 

 いきなりバンと現れた私に、高坂先輩はビクッとなっている。そんな姿を半ば無視して、私は言った。この胸の中にある情熱に、突き動かされるように。

 

「先輩の補佐の件、まだ有効ですか?」

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