音を愛す君へ   作:tanuu

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第十四音 自己満足

 オーディションを行う旨の発表があった後のパートリーダー会議はどことなく重い空気が漂っていた。無理もない話だと思う。オーディションとは言っているが実質は試験に近い。合格不合格がある時点で受験を想起してしまうのだろう。

 

 それに、パートリーダーだからと言って受かる確証はない。私個人の意見としては、恐らくこの場にいるメンバーは全員大会に出場できるとは思うのだが、本人側からすれば戦々恐々としたものがあるだろう。なにせ、これまでずっと出れなかった人もいるのだ。

 

 具体的には中世古先輩がそう。彼女は、実質今年が最初の大会になる。一年生の時は年功序列で、二年生の時は問題の引責の形で。どちらも大会に出れずに終わった。トランペットにおいては、高坂さんが来るまで文字通りのエースだったのにも関わらず。そういう先輩は他にも少なからず存在する。これに関しては、責められても無理はないと思っていた。

 

「オーディションって、本気なんだよね……」

 

 クラリネットの鳥塚先輩が俯きながら言う。誰に向かって言われた言葉なのか、分からないほど鈍感ではない。

 

「はい。本気です」

「分かってるんだよね!? 去年の問題のきっかけだってこれだし、明らかに……」

「火種になる、と。そう仰りたいわけですね」

「そうだよ……」

「やっと回って来た順番なのよ! それなのに……」

 

 うつむいて膝で手を握ったままの鳥塚先輩を庇うように、姫神先輩は私に厳しい視線を向けてくる。人数が多かったパートほど、回ってこないことが多かった。去年の三年生も、その前の世代つまりは今の先輩たちが一年生の頃の三年生だが、これも人数が多かった。下手なのに人数だけは一丁前に存在しているのがこの部活なのである。今年は二年生の影響で少ないが、これは特例でしかない。

 

「桜地君に文句を言ってもしょうがないよ」

「香織は良いの!? これが初めての大会なのに、ソロまでオーディションなんて……」

「それが、全国に行くっていう事なんだと思う」

 

 やはり、中世古先輩は優しい。正直ここは私をサンドバックにしても文句を言われない流れだと思う。止められる副部長は事態の推移を興味無さそうに見ているだけだし、部長はおろおろしている。ここで私を咎めることをしても、誰も何も言わないだろう。

 

「先輩方、少し落ち着いてください。取り敢えずソロの件はともかく、大会には三年生の全員が出場できると、私は踏んでいます」

「どういう……?」

 

 部長の疑問符が飛んでくる。このオーディション、実は大会に出ること自体はさして難しいことではない。それなりの実力があって、それなりに練習していれば出れるシステムになっているのだ。

 

 質問に解答するべく、私は黒板の前に立ってチョークを握った。

 

「現在の部員数は私を含めて三年生が28人、二年生が15人、一年生が22人。内、私は出ませんので合計で64人。これがオーディションメンバーです。そして大会のメンバーは最大55人。全部員の約85%が出れる確率になります。そして、この数字の中には一年生の初心者も入っている。そう考えると実質的な倍率はかなり低いと思いませんか? よって、大会には出れるのです」

 

 皮肉な話だ。結果として、二年生の集団退部が三年生を首の皮一枚繋げる結果になっている。もし彼らが残っていた場合、先輩たちは危なかっただろう。なにせ、元強豪中学出身の生徒が多かったのだから。もし彼らがいた場合、確率は75%ほどになる。つまり、四分の一は出られないということだ。その中に三年生がいない保証はない。

 

「でも、人数満員にしないこともあるって……」

「それも考え方次第ですね。大事なのは部の平均値です」

 

 私は黒板に小さな横線を縦に積み重ねるように引いた。その目盛りの横には50、60というように数字を振っていく。

 

「例えば、部の平均的な演奏レベルが50だとしましょう。勿論楽器の演奏はテストと違って数字化するのは難しいです。なので、これはあくまでも分かりやすくするためと思ってください。50の実力の部で、80とか90の部員は確実に合格です。逆に20とかになるとよほどのことが無い限り難しいでしょう。大事なのは平均との距離です。これに先ほどの85%を組み合わせれば、ざっくり60くらいにいれば合格となるわけですね。あくまでおおよそですが」

 

 平均はあくまでも初心者も含めた数値だ。多分経験者だけでやればもっと上がる。とは言え、それはここでは考えなくても良いだろう。大事なのは、部の基準とどれだけ離れているのか。いくら最大の55人より人数を減らすことができると言っても、最低限いないと音楽が成立しない。

 

 その際に参考になるのはこの平均値だ。音楽を形にするには平均値より出来れば上。そうでなければその付近を彷徨っているレベルの生徒までは登用せざるを得ない。後は先輩たちが最低限部の平均以上にいればよいだけの事。そうすれば問題なく大会出場だ。

 

「部の平均以上に先輩方が入る事が出来れば問題ありません。というより、今の先輩方の実力を鑑みる限り、恐らく今年の三年生は全員出れるのではないかと」

 

 出れるか怪しい先輩は意外といない。曲がりなりにも三年生。プライドもあるだろうから、一二年が頑張っているために練習は熱心にやっている人が多い。これに落ちるわけにはいかないというプレッシャーが加われば、一層熱がこもるだろう。

 

「勿論、より上を目指しては頂きたいですが。先ほどの話は二年生や一年生にも当てはまります。両学年が平均よりかなり上だった場合は……どうなるか言うまでも無いと思います」

 

 あと、今の話で余程鈍感じゃない限り気が付くだろう。もし落ちるということがあれば、この部の平均を下げているのは自分たちになるのだという事を。それに、今の話はかなり恩情が入っている。

 

 私という特異な数字になりかねない存在を省いている。学生レベルで最高が100なら私は10倍くらいはあるわけだから、一人で平均をおかしくしてしまうだろう。こんな事言えば反感を買うのは確実なので言わないが、私にはそれくらいは価値があるというプライドがある。

 

 私の言葉で少しばかりの穏やかな空気が流れた。パートリーダーは一応ある程度実力上位の人が選ばれている。自分たちが安全圏と分かれば、多少は安心できるだろう。私はさっさと次の話題に移ってくださいと部長にアイコンタクトを送る。それに気付いた部長が後を引き取り、この話は一応終わった。

 

 しかし私は数字を出して話を誤魔化している。結局、ソロに関する部分には触れずに終わった。大会に出れる云々というレベルよりもっと高度の争いをしている場所には一切言及していないのだ。それでも全体の空気を変えられたのならそれでいい。パートリーダーは円滑な運営のための要だ。それがぐらついていては、今後が危うい。

 

 それに、問題の火種が潜んでいるという鳥塚先輩の指摘にもスルーしたままだ。だが三年生が出れるなら来年機会がある二年生や一年生にはまだ心の整理ができる。ここで大きく揉めることは少ないだろう。大会に三年生は恐らく全員出れるという大きなカードで誤魔化した部分には、本質的な問題が眠ったままだった。

 

 後はもう、三年生の理性に期待するしかない。そう考えている間に部長が予定の確認を終わらせた。

 

「以上で予定の確認は終わります。他に、何かある人はいますか?」

「すみません、一つ」

「はい、桜地君」

「パートリーダーの皆さんにはお願いがあります。初心者の子に関してですが、今回のオーディションには当然出てもらう予定です。ただし、周囲の経験者との間にある差に関しては、恐らく実感している子がほとんどでしょう。万が一来年もあるから……というような声が見受けられた際には、今年から全力投球するように促す等のサポートをお願いします」

 

 一年生だろうと初心者だろうと、オーディションに出る権利は誰にだって存在する。無論、大会に出る権利だってそうだ。権利はあるけど資格を得られるかは分からない。受験と同じだろう。

 

「今は初心者でも来年、再来年には部活を率いていくメンバーになっていきます。彼らが数年後の北宇治を担う存在であるのは間違いありません。今年行われているこの変革を絶やさぬよう、先輩方にはお手数ですが後輩へのバトンも兼ねてのサポートをお願いしたいのです。自身の練習でお忙しいとは思いますが、パートリーダーをされている職責と思って実行していただきますと幸いです」

 

 今年どこまで行けるかは分からない。だとしても、来年再来年と積み重ねれば結果も変わるだろう。今の三年生や二年生はブランクが存在する。だが一年生は最初から滝先生のペースで話が進んでいく。これに慣れた世代が、練習を沢山積んだ世代が主戦力となる再来年には、かなり良い結果が出せるはずだ。それを意識して今から動いている。

 

 北宇治を全国大会に。それが私のやるべき事。だけれどいつとは言っていない。再来年の世代を本命に私は常に動いていた。

 

 

 

 

 

 

パートリーダー会議が終わった後、部長に呼び止められた。話題に関してはなんとなく想像がついている。サンフェス前に相談した件についてだろう。

 

「ごめんね、残ってもらって」

「いえ、大事なお話でしょうから。それで、内容と言うのは」

「うん。この前言ってくれた葵の件なんだけど……」

 

 部長の歯切れが悪くなる。よい報告ではないのはあらかじめわかっていた。あのアリバイ発言。それが何を意味するのかは単純だ。先生への抗弁や抵抗ではない。それをするならもうしているし、斎藤先輩にそれをするメリットはない。だとしたら、それは多分、辞めるためのアリバイなのだろう。

 

「辞めたいって」

「なるほど」

「……驚かないんだね」

「まぁ、予想はしていましたので。後は確証が欲しかったんです。利用した形になってしまって、申し訳ありません」

「それは良いんだけどね。遅かれ早かれ分かってたことだとは思うし」

「この話は?」

「あすかと香織は知ってる。取り敢えず大会までは頑張ってみないかって勧めたんだけど……」

「断られたと」

「うん」

 

 予想を裏切らない展開に内心でため息を吐く。これほど裏切って欲しかった予想は過去にあまりない。変に推論できてしまうのも考え物かもしれないと、少し思った。

 

「田中先輩はなんと?」

「受験だし、無理に引き留める必要はないんじゃないって」

「そうですか……。テナーサックスは代わりがいますからね。そういう発言になったのでしょう」

 

 あの人の判断基準は割と分かりやすい。部に必要そうな存在だったら引き留めるだろう。現在ならば例えば部長や中世古先輩。去年なら希美や私が該当する。それはある意味でとても合理的であり、ある意味で冷徹と言えるかもしれない。

 

 そしてこの判断は間違っていないようにも思える。実際テナーサックスの代替要員は存在している。受験生なのも本当だろう。無理に引き留めることが必ずしも良いことではないことだって正しい。だがそれはあくまでも生徒目線での話。指導者目線で見た際に、このまま実力のある三年生をみすみす逃がすことが()()()()()ためになるのだろうか。

 

 私は個人の味方ではない。先生の味方でもない。吹奏楽部の味方だ。そういう風に宣言したし、そういう風に動くことを他でもない先生から求められている。一番合理的な判断ではなくて、一番有益な判断はなんだ。それを考えることが私に与えられている役目なのだ。

 

 時間はさほどない。迷う前に、行動しないといけない。正しさが何だ。私はそれを何度も踏みつけてきた。手段を選んでいられるほど、今の状況は良くない。この部は、そんな状態では上には行けない。ならやる事は一つだ。

 

「部長、少しお聞きしたいことがあります」

「え、何?」

「……斎藤先輩について、その過去について」

 

 戸惑ったように私を見る部長。けれど少しの迷いの後に語り始めた。

 

「過去って言っても、そんなに沢山は知らないよ。あくまで、友達としてだけ。一年の黄前さんと塚本君とは昔からの知り合いだってこの前言ってたけど。その他はそこまで。ただ……」

「ただ?」

「葵、この高校が第一志望じゃなかったみたい。堀山高校を受けてたって昔ポロっと……」

「なるほど、ありがとうございます」

「え、え、今ので良いの?」

「はい。必要な情報は揃いました」

 

 受験に失敗した過去。それを引きずっている部分が当然存在している。堀山高校は府内でも有数の進学校。それを受けるということは、中学までは一貫して超優等生だったということ。そしてその上で今の状況がある。先輩の自尊心は受験の際に、一回崩れ去っているのだ。

 

 それでも鶏口となるも牛後となるなかれの精神でここに来て出会ったのが田中先輩だ。二人は同じ進学クラス。田中先輩は塾など行かずに学年トップ。当然、劣等感を感じていても不思議ではない。それがこの前話した際に出た「特別」という発言の真意。

 

 だから私に反抗心を抱いていたのだ。私の言葉が確かに彼女の自尊心をもう一度壊したから。それは、去年の三年と同一視したことではない。今年の代で全国行きは厳しいと言ったことでもない。彼女が感情を動かしたのは「何かを諦めるなんて、人生でよくある事」という部分。彼女は失敗した。そして「特別」に出会い、そしてそれを超えることを諦めた。その上で今がある彼女にはこの言葉は刺さったはずだ。

 

 だからまだ迷っているのかもしれない。ここで辞めることは、また何かを諦めて行くことに繋がるかもしれないと思ったから。ならば今しか機会はない。もし正しくなかったとしても。もしそれが真っ当なやり方でなくても。それが吹奏楽部の為になるならば。やらなくてはいけないんだ。それが自分で選んだ道なのだから。

 

 そして今年一人も欠けることなく年度を終えることがもし、去年への贖罪になるのなら。あの時救えなかった悲劇をもう一度繰り返さないことに繋がるのなら。やらないといけないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 気は全く進まない。何なら、この部に戻ると決めた時以上に全く気は進まない。けれどやると決めたことを曲げるわけにもいかないだろう。問題は話を切り出すタイミングだ。これを間違えれば、絶対に上手く行かない。

 

 それに、これは下手をすると他人の人生を壊す決断だ。慎重にならざるを得ない。私には、他人の人生にまで責任を取れない。

 

「先輩、少しお時間よろしいですか」

 

 意を決して声をかけたのは、翌日の全体練習の後だった。この後は各自自由になっているが実際にはパート練習になっていることが多い。しかし斎藤先輩は帰る。それは分かっていた。ここ最近のいつものパターンなので、予想は簡単。塾の時間もなんとなく把握している。流石に間に合わないという事態になっては私が斎藤先輩とそのご両親に顔向けできないので時間は気にしないといけない。

 

 人気のない廊下。先輩の目に私はどう映っているのだろうか。そろそろ梅雨が近いせいか、空はどんよりと曇っている。明日は確か雨だ。しばらくそんな天気が続くと、テレビの中でキャスターが言っていたのを思い出す。

 

「……分かった」

 

 先輩は要件をあらかじめ知っていたように、私の言葉に頷いた。まだ学校内には吹部の生徒が多く残って練習している。人に聞かせる話でもないので、私は人のいない教室に案内した。

 

「それで……晴香から聞いたんでしょ?」

「単刀直入に言えば、そういう事になります」

「それで本当かどうかを聞きに来た」

「そうなりますね」

「いつから?」

「昇降口でお話しした時から。確信はありませんでしたので、部長には探偵役をお願いしてしまいました」

「そっか。……やっぱり、凄いね」

 

 その「凄いね」には、色んな感情が込められていた。純粋な誉め言葉であるはずがない。そうだったら、その声音はそんなに剣呑にはならないだろう。

 

「お辞めになりたい、という話でしたが本当でしょうか」

「うん。受験勉強もあるからね。中途半端にはなっちゃうけど、それでも受験は大事だから。晴香や香織には申し訳ないし、後輩にも迷惑かけちゃう。桜地君にも余計な気を揉ませちゃったけど……」

「いえ、部活は学校内の活動の一環ですから。あくまで学生の本分は勉強です。先輩の大事な進路ですからね。自分の耳でしっかり意思を確認したかっただけです。変な噂だったら困りますので」

 

 事実、あくまでも私の持っている情報は伝聞でしかない。部長が嘘なんか吐くはずないが、そうだとしても深刻に捉えすぎている可能性もある。愚痴程度の文言を重く捉えてしまっていたら、それは私が余計な先入観を与えてしまったからだろう。だがそうではなかった。斎藤先輩はしっかりと退部したいと口にしている。

 

「じゃあ、行くね」

「はい。お時間取らせて申し訳ありませんでした」

「それじゃあ、晴香と香織をよろしく」

「田中先輩は?」

「あすかは……まぁ、大丈夫かなって」

「そうですか」

 

 それだけ言うと先輩は私に背を向ける。そして扉に手をかけたところで、私は言葉を続けた。

 

「最後に一つだけ。本当に良いんですか?」

「……」

「今から言うのはただの推測。そうなるかどうかなんて分からない。けれど、きっと先輩は……そうですね後一、二週間後にこう思うはずです。あの子たち、あんなに頑張って練習なんかするタイプじゃなかったのにって」

 

 バッと先輩が振り返った。その目の中には普段の態度では隠し切れない動揺が走っている。あくまでも想像だった。そういう事を思うかどうかは賭けだった。けれどどうやら、私が部長や中世古先輩から聞いていた人となりは正解だったようだ。流石は友人。理解度が違う。

 

「サックスパートでは誰がA編成に出るのか。どんな演奏や練習をしているのか。先輩は真面目ですからね。放課後図書館などで勉強していらっしゃるそうで。その際に流れてくる練習音を聞いて、そんな風に思うのではありませんか? そして音楽室に行く人を見て、少し前までは自分もそこにいたのにと、まるで捨てられてしまったような感覚を覚える」

「何を、言って……」

「どうですか? 自分がそう思っている未来は見えましたか?」

 

 私は畳みかけるように言葉を繋げた。誰かが言っていた。交渉を有利に進めたいときはそうすればいいのだと。嫌な話だ。数百年続く商家の血筋がもしこんなにも自然に相手を追い詰める言葉を紡がせているのだとしたら、私は桜地の名前を心底嫌になるだろう。今でも別に好きではないが。

 

「本当に後悔しませんか?」

「……しないから。もう、いいかな」

「私はもし、先輩が本当に受験勉強に専念したいとお思いなら引き留めたりしません。名残惜しいですが、送り出すだけです。勿論、受験という理由が嘘だとは思っていません。それもまた、一つの要素なのでしょう。ただし、それだけではないはずです。だからこうして引き留めに来ました」

「何のために?」

「吹奏楽部のために」

 

 即答した私に、先輩は言葉に詰まっている。これは私の揺らがない部分だ。全て、そのためにやっている。今この時でさえも。

 

「諦めたくない、だから迷っていたんじゃないですか。私の言葉なんて無視してしまえばよかったのに。そう出来なかったのは、無視できない要素があったから。『何かを諦めるなんて人生によくあること』と言った私の言葉が、まるで自分に対して言われているような気がしたから」

 

 嫌な部分を突いていく。薄い灰色に満ちた室内で、私は自分に吐き気を催しながら言葉を続けた。

 

「今言ったように、受験を妨げる権利は私にありません。ですが、先輩の理由はそれだけじゃないし、真の理由はこれではありませんよね?」

「どうして、そう思うの?」

「ヒントは昇降口での会話にありました。先輩はこう仰った。『のうのうと一生懸命頑張りますなんて言わせようとしていることが、理解できなかった』と。裏返せばこうはないでしょうか。『自分たちが去年後輩を見殺しにしたのに、今になって自分たちだけ頑張りますという事に我慢ならない』。違いますか?」

 

 引っかかっていた部分。言葉に隠された裏の意味。そういうものを紐解いていけば、彼女の感情はそこまで難しくなく溶解できる。あの日あの時あの場所で本音を吐露したのは私だけではなかった。それにかこつけてか、或いは無意識かに先輩は自分の隠していた部分を一部開示してしまった。

 

 その結果が今に繋がっている。私に説得材料を与えることに。

 

「そう……そう! その通り! 私は、そこまで吹部が好きじゃない。ホントはもっと早く、辞めたかった。なんでみんな平気そうなの? 心配してるのは自分が大会に出れるかとか、そんな事ばっかり。去年踏みつけたモノの事なんて、あんなにあの子たちの事責めたことなんてまるでなかったみたいに、のうのうと! そんな権利、誰にもない。私にもない。桜地君に何もしなかったなんて言う権利もない。本当に何もしなかったのは、私たちなのに」

 

 汚濁を吐き出すように、先輩は言葉を紡いだ。決壊した濁流のように、泥まみれの本音が吐露されていく。後悔と、自己嫌悪と、それ以外のもっと黒い何か。そこで気付いた。この人は、あの時も諦めていた。抵抗することを、助けることを、事態の解決をすることを。

 

「残ってくれた二年生が何事も無く部活出来てたのは、桜地君のおかげだったのに、二年生は君を責めてる。先生たちの間で吹奏楽部の集団退部が問題なんじゃないかって言われてたのにそれをどうにかしたのも桜地君なのに、それを知って見ないフリしてる。文句を言う資格なんて無いのに! そんな卑怯者でいるのに、もう我慢できない」

「辞めた子に申し訳ないから、もういられないと」

「そう。もう、良いでしょ」

 

 嗚咽混じりの声は、本心であることを物語っている。けれどここで終わるわけにはいかない。私は今から最低なことを言うのだ。

 

「でも、それって先輩の自己満足ですよね?」

「……え」

「だってそうじゃないですか。辞めた人は誰も、先輩にそんなことしてくれなんて頼んでないのに。勝手に思い詰めて、勝手に解釈して、勝手に辞めようとしている。そうすれば卑怯者で無くなるから、そうすれば少なくとも贖罪したような感じになるから。それって自分が救われたいだけの自己ま……」

 

 そこまで言って、それ以上言葉を紡ぐことは出来なかった。私たち以外に誰もいない教室に乾いた破裂音が響く。私の左頬には鋭い痛みが走っていた。荒い息をしながら、私を睨みつける彼女。そして少しだけ冷静になった時、自分が何をしたのかに気付いたような顔をする。狼狽えている姿に、罪悪感は募る。この人は普段、こんなことをする人じゃない。それだけ、許せない言葉だったのだろう。

 

「自己満足じゃないって言うなら、私に協力してください。奏者としての先輩の代わりは確かにいます。ですが、貴女は上手な先輩だ。大会に出てくれないのは残念ですが、僅かな時間でもサックスやその他の後輩の育成には有益な存在です。後輩から慕われている先輩は特に。私も先生もA編成の指導で忙しくなります。恐らく、B編成に三年生はいないでしょう。もし先輩が残ってくれたなら。大会に出なくともB編成の子たちのまとめ役をしつつ、後進の育成を行える。次世代のサックスパートを担う子たちに技術を継承させられる。この部は今、手段を選んでいられません。猫の手も借りたい状況です」 

 

 来年、再来年。少しでもサックスパートや今年B編成になった部員の実力の向上に繋がるなら。先輩にはまだこの部に残ってもらわないといけないだけの価値がある。

 

「これは他の人にはできません。だって大会に出るのですから。田中先輩にも、中世古先輩にも出来ない事です。受験勉強もして頂いて構いません。何度も言うように、それは学生の本分ですし、先輩の人生の大事な要素です。ハードな練習に毎日付き合えとも言いません。ですから、少しだけでも力を貸してはくれませんか?」

「どうして、私が……」

「先輩がもし、本当に心の底から去年の件で申し訳ないと思っているなら、私だってその対象じゃないんですか?」

 

 唖然とした顔で先輩は私を見てくる。私だって、去年辞めた組の一人だ。思い切りよく辞めた人々の後始末にそれなりに時間はかかったため少しだけ間を開けているものの、私だって退部している。去年の一件を、少なくとも公的には全て終結させた形で。

 

「それは……そうだけど……」

「もし先輩が本心で申し訳ないと思ってるなら。自己満足や、誰かに対する劣等感を隠すための言い訳にしているんじゃないのなら! もう謝罪することも、戻って来ることも無い、何をしたところで変わることの無い、この場にいない彼らじゃなくて! 私を見てください。遠い場所にいる、想像上の誰かじゃなくて、今目の前にいて! そして今ここでもう一度スタートしている私に、力を貸してください」

 

 深く頭を下げる。これでダメなら本当にお手上げだ。説得するために切れる手札はもうない。申し訳なさからこの部に縛ろうとする選択なんて、最低以外の何物でもない。しかもそれを謝罪される側と堂々と主張した人間が言うのだから、なおの事醜い構図だろう。そうだとしても、もしこれで吹奏楽部が何らかの良い変化を迎えられるなら。私はそれで構わない。

 

「先輩の代わりに大会に出てくれる奏者はいます。テナーサックスは他にもいますからね。でも、貴女という人間の代わりはいないんですよ。私は去年過ちを犯しました。引き留めるべき人を引き留めることに失敗し、結果全てを失った。私はもう、同じ過ちをしたくない。誰も欠けることなく終わって欲しい。それが本心です。そしてそれが、吹奏楽部にとって最も望ましい結末であると、私は思っています」

 

 大会の結果も大事だ。努力が報われて欲しいとも思っている。けれどそれよりも、誰も欠けずに終わること。私はそうあるべきだと思った。去年の過ちを背負う人間として、そうすることが、私なりの責務ではないだろうか。

 

 そういう感情も結局は先輩に言ったのと同じ自己満足でしかないのだろう。だとしても、それを表に出すことはない。そうすれば、それは部のためにならない。それにこんなものは私の我儘でしかないからだ。そして、指導者に我儘は許されない。

 

「どうか、お願いします」

「少し……考えさせて」

 

 そう言うと先輩は扉を開けて出ていく。今度はそれを引き留めなかった。引き留める材料はもうない。携帯を取り出し、部長にメッセージを送る。後は部長に任せるしかないだろう。あの部長は決して強い人じゃない。普段は弱々しいし、おろおろしていることも多い。けれど、やる時はやってくれるはずだ。

 

 それに、彼女は優しさを持っている。優しさとは強さ。だから部長は本当は強い人なんだと、私は勝手に思っているのだ。弱い人の気持ちを知っている。悩む人の気持ちに寄り添える。強いだけの人では出来ないことだ。弱さを知っているからこそ、出来ることがある。私はそう考えて、部長に後を託した。

 

 すぐに既読が付いて、了解のスタンプが返って来る。それを確認して壁に寄りかかり、ズルズルとそのまま床に座った。結局私はまた弱いままだ。人を傷つけて、そうして目的を達成するなんていうのは外道のやる事。平然とそれを行う自分に嫌気がさす。私がいる意味はあるのだろうか。何か、私がやったことは良い方向に繋がったのだろうか。

 

 自分の弱い部分が、成果を求めて叫ぶ。心の痛みの対価を求めて暴れる。それを封じ込めながら、私も言葉を吐き出した。

 

「嫌われたなぁ……」

 

 雲は室内により一層黒い影を落とす。その中に項垂れたまま、私は自己嫌悪に満ちた感情を抱いたまま、暫く座っていた。

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