補佐の件はまだ有効か、と問いかける私に高坂先輩は目を見開いていた。しかしその動揺にも似た仕草はすぐに冷静ないつもの表情によってかき消された。それでも目が泳いでいるので、いきなりの出来事に事態を上手く呑み込めていないのが分かる。それもそうだろう。この前までどう言葉を尽くしても手を尽くしても頑として頷かなかった人間が、いきなり自分の勧誘を受けると言い出したのだから。
「もちろん、有効ではあるしとても嬉しい申し出だと思う。ただ、一つだけ聞かせて欲しい」
「何でしょうか」
「どうして、急に?」
「一言で言うのは難しいですね。ですが、敢えて言葉にするのであれば……胸の中にあった熱がもう一度灯されたから、でしょうか」
「……なるほど?」
分かったような分からないような声を出して、高坂先輩は少しだけ頷いた。私の回答に納得したのかは分からない。ただし、熱情が私の中にうごめいていることは理解してくれたようだった。
正直に、本当に正直な告白をしてしまえば、全くもって迷いが無いわけではない。心の中には幾分か、まだ迷いが存在していた。本当にこれで良いのか、後悔しないのかという迷いがある。中学時代を思い返して引け目や負い目も存在する。私がもう一度集団の前に立つことに、正当性があるのかという問いかけも存在している。
それでも、私のやるべき事であり、やりたいことはこれだった。この代で、今度こそ金賞を獲りたい。それはこれまで私の前を歩いてきた多くの人の想いを受け止めて、それに自分の想いを上乗せしたからこそ生まれた情熱だった。この願いを叶えるためにはぼーっといるのかもわからない神様に祈っていてはいけない。自分に出来ることがあるのであれば、しないといけない。そしてそれが人から求められているものであるならば、猶更自信を持ってやるべきなのだ。なぜならそれは、独りよがりの行動ではないからである。
「私が人を率いるのに向いているのかは分かりませんが、精一杯努める所存です」
「私は、桜地さんが、というより誰が人を率いるのに向いているとかはよく分からない。もちろんあからさまにダメとか無理そうって言うのは分かるけど、誰がリーダーに相応しいか、みたいな問いかけはしっかり答えは出せないと思う。精々、私がパートリーダーに向いてないとかくらいで。ただ、技術的な事に関してはある程度自信を持って言えると思う。少なくとも、部員の中では一番だと思ってる。その上で、私は桜地さんが技術的な部分では柱になれると感じた」
高坂先輩の自負は自惚れでも何でもないと思う。というよりとても正しい自己分析であり、自己評価だろう。兄さんの持っている世界級の技術を数年かけてみっちり叩きこまれている。その技術に関する諸々は北宇治どころか日本の吹奏楽部の中でも上から数えた方が早いだろう。
実際、兄さんは高坂先輩に相当入れ込んでいる。最終的にどうしたいのかは分からないけれど、少なくとも現時点で先輩以上に目をかけられている奏者は全世界を探してもいないだろう。だからこそ、まだ一年生だった先輩の無茶苦茶なお願いを引き受けた。
兄さんをしっかり専属マンツーマン教師役として雇おうと思ったら、半年分で普通の家が建つだろう。それを無給でやっている時点で入れ込んでいる以外の表現が出てこない。希美先輩が嫉妬してないのが不思議なくらいだ。まぁ逆に恋愛感情は双方全くと言っていいほど見えないので逆に安心かもしれないけれど。とは言え非常に重たい感情を両方抱えているとは思うが。
「技術をしっかり言語化して、周囲を統率し、誰にも舐められることなく、しっかり計画性と広い視野と確かな未来予測を持って行動できる人は他にいないと思ってる。だからしつこいくらいに誘ったし、こうして引き受けてくれて感謝してる。ありがとう」
「お礼など……むしろ私の方こそお返事が遅くなり申し訳ありませんでした。ただ、申し訳ないついでに一つだけ、条件と言いますか、確認したいことがあるのですがよろしいでしょうか?」
「確認したい事?」
「はい。私は一切手加減することが出来ないと思います。それは指導でもそうであり、同時に高坂先輩に対しても同じです。私は、自分が器用な人間であるとは思っていません。むしろ不器用であるとすら思っています。ですので、先輩相手でも全く遠慮することなく、私が正しいと思った場合に先輩の方針へ異を唱えることもあると思います。顧問であろうと誰であろうと、それは同様です。不遜であり無礼であるとは重々承知ですが、それでもよろしいでしょうか」
これは一つの賭けだった。お前に歯向かうかもしれないがそれでもいいのかと、有り体に言えばそういう風な問いかけをしているのだから。先輩の人格次第では馬鹿にされていると激怒されたり、舐められていると憤慨されてしまう事だろう。普通に失礼な話ではあるし、上下の関係を無視するような振る舞いをすると宣言するなど常識はずれにもほどがある。けれどここは曲げられないところだった。
思えば、ずっとそうしてきたのだと思う。正しくないと思ったから、間違っていると思ったから中学時代の顧問には反抗したし、中二の時に義井さんを助けたりもした。顧問に逆らって部活をボイコットする部長なんて、普通に考えたらおかしな話かもしれない。でもあの時に頭を下げ続けるという選択肢は、私の中には無かったのだ。こんなところでも、秋子先輩の言う通りだった。私は自分の意思に、感情に従っていた。あんな時ですらも。
「分かった。それで構わない。私の意見と同じ事しか言えないイエスマンなんていらないから」
「ありがとうございます」
私はその言葉に頭を下げる。それは、私が賭けに勝った瞬間でもあった。理由はどうあれ、高坂先輩は私の発言を受け入れる決断をした。きっとそうしてくれるだろうとは思っていたけれど、プライドの高い彼女のことだからそうならない可能性もある程度は存在すると思っていたのも事実。故に、私からしてみればこれは賭けに勝ったと言っても差し支えない事だったのだ。
きっと、兄さんも同じ条件を滝先生に突き付けたのではないかと思う。その上で先生はそれを受け入れた。だからこそ私たちは実際に先生と兄さんが違う主張をしているのを聞いているし、各種オーディションが先生の意見の追随をするような形でスムーズに決まっていないのも知っている。
私に求められているのは、音楽的な指導などの面で高坂先輩の補佐をしながら、最大人数を誇る二年生を部長の下で統括し、パートの先輩として沙里先輩の要請に応え後輩に気を配りつつ、何かあった際には下級生の意見をしっかりと上に伝えていくという役割だろう。正直幾つもの立場を行き来しないといけないので大変そうではあるけれど、生徒と顧問という交わらない立場に片足ずつ置いていた兄さんよりはマシだと思う。
「こっちからも一応言っておくと、この仕事は私のドラムメジャーっていう立ち位置を来年度引き継ぐことがほぼ確定路線になる。それでも構わない?」
「無論、百も承知です」
「そう。なら、他に言うことはない。これから、よろしく」
「こちらこそ、よろしくお願い致します」
差し出された手を取る。166センチの私と、158センチの高坂先輩では私の方が視線が少し上になる。少しだけ目線の下の方にある先輩の勝気な黒い瞳の奥には、燃え盛るような赤い炎が灯っている。なるほど、と思った。兄さんが見た瞳に宿る炎とはきっとこれのことなのだろう。その赤い揺らめきが、私たち兄妹の新しい道へ進むという選択肢を照らしているのかもしれない。
この先きっと多くの問題や困難が私の前に立ちはだかるのだと思う。それは既に覚悟していた。それでもと進む決断をしたのは私自身あるというのも、しっかりと理解している。誰のせいにすることも無い。私は、私の意思で高坂先輩の手を取ったのだから。
高坂先輩とのやり取りが終わったので、はい明日からよろしくねという風にはならない。まずは沙里先輩たちパートの面々に話を通して、その後部長に話をして、滝先生に伝達し、最後に全体の前で挨拶すると、そういう流れになっていた。パートの面々は歓迎してくれていたように思う。元々後輩や同期にはよく教えていたし、それの延長線上という理解なのだろう。先輩たちは兄さんの存在があったのでそこまで違和感を覚えてないようだった。
それは全体を前にした時も同じで「あぁ道を継ぐのかな」みたいな理解をされていると思う。そういう訳じゃないと理解してくれている人もいるだろうけれど、少なくとも大半の三年生は私が兄さんと同じ道を歩もうとしているのだと受け止めていた。それをおかしなことであると認識していないのは、兄さんがしっかりと結果を出しながらみっちり三年生世代と向き合い続けてきたからだと思う。それは自分の地盤を作るための行為だったのかもしれないが、巡り巡って今の私のある種助けになっている。
「この度、高坂先輩の補佐役を務めさせていただくことになりました、桜地涼音です。至らぬ身ではありますが、頂いた信任に足る働きをするべく努めて参ります。よろしくお願い致します」
全体の前で頭を下げる。困惑半分、さもありなんという感想半分と言った具合の拍手が沸き起こった。当然という顔で手を叩いている南中組には少し困ってしまう。彼らの信頼は、時に私が思っている以上に重たい時があった。何がそこまで彼らを掻き立てるのか、私には正直よく分からない。
手を叩いている部長は高坂先輩の負担が減る事にホッとしているようだった。また、部長も副部長も高坂先輩もみんな金管出身のため木管の練習についてはどうしても専門外なところがある。そういう部分を補うことも期待されている事のようでもある。滝先生も無理の無いように、という言葉は貰った物の反対するようなことは言われなかった。生徒の自主性を重んじている、というのは建前ではないのだろう。だからこそ、勧誘を受けていたとはいえ自主的に申し出た私に異を唱える必要性は無かったのだ。
取り敢えず無事に就任できそうで良かったと安堵している。二年生のまとめ役として学年リーダーをしてはいるけれど、どの程度の層から支持されているのかは今一つはっきりしていない部分があった。今回の納得が兄さんと高坂先輩という二つの権威を背景にした結果であるというのは理解しているけれど、それを考慮してもある程度の支持を得られているというのは安心感がある。そう思っている私の内心を知ってか知らずか、秋子先輩はにこやかに微笑んでいた。
「貧乏くじをお引きになりましたね」
タイミングを見計らったように、そういう声が廊下を歩く私の後ろから響いて来る。夕暮れは既に過ぎ去り、夜の帳が降りた学校の廊下に、振り返れば彼女は佇んでいた。その濡れ羽色に艶めく前下がりのショートボブは暗闇の中に溶け込んでしまいそうで、赤いリボン型のヘアクリップが蛍光灯に照らされて普段の何倍も赤々と輝いていた。その輝きが、暗い廊下の中で彼女を引き立たせている。
「私のことですか?」
「他にどなたが?」
彼女の口調は、他の女子と接する時とは幾分も違う。随分と挑発的で、随分と慇懃無礼で、随分と攻撃的だった。ただ、私はこっちの彼女の方が接しやすくもある。普段の彼女の振る舞いは、表面上だけの丁寧さに見えてならない。多分、兄さんは最初の面談でそれに気付いていたんじゃないかと思っている。営業スマイルというものに、私たち兄妹は人一倍慣れている。私たちに取り入っても、出世には繋がらないというのに。
彼女は二年生の中でもキーパーソンだ。その情報網やパーソナリティの把握は侮りがたい。一応私が学年リーダーを務めているけれど、手が回らない部分やデリケートな部分は彼女の協力が無くては難しいのだ。彼女は私に対してはともかく、部長に対しては忠誠心があるようなので、大体の場合は協力してくれている。
噂を良く知っていて、人間関係に詳しい。その特性をどう思うかは人それぞれだろう。とは言え、私の事情をむやみやたらに言うことなく黙っていてくれたのには素直に感謝していた。私たち兄妹が親無き子であることを知っているのは、上級生はともかく私たちの代や下級生では少ない。言って回るようなことでも無いから黙っているのだが、知っていても黙ってくれているのはありがたいことだった。何せ、そういうゴシップのようなネタが好まれやすいというのはよくよく知っているからだ。
とは言え、知っているからと言って変に気を遣われるのもまた気まずいし、あまり好むことではない。その点も特に気を遣うことなく普通に(私に対しての通常運転、ある意味では攻撃的に)接してくれているのも助かっている。遠慮されるより皮肉をぶつけてくる方が何倍も私に相対している時の彼女らしかったし、私もその方が良かった。正直、私の本当に終わっている料理技術に改善がみられているのも彼女と剣崎さんのおかげなので、その辺は頭が上がらない。
「貧乏くじとはまた随分なご挨拶ですね」
「でも、事実でしょう?」
貧乏くじ、と言い放った彼女の言に反論する語彙を、私は持ち得なかった。実際これが貧乏くじか否かの二択を迫られたら、間違いなく貧乏くじの部類に入る事だろう。
「わざわざ見えている地雷に飛び込みに行くとは、随分物好きだと思いましたよ」
「私の就任に反対ですか?」
「いいえ? わざわざ反対する理由なんかありませんよ、そんな面倒な仕事を引き受けてくれる存在に対して」
「では、それでいいじゃありませんか」
彼女の意図が見えないまま会話をしている。彼女は私に何を言いたいのだろうか。嫌味なのか、ただの感想なのか、それとももっと何か伝えたいことがあるのか。
「それに、誰かがやらないといけない事でしたから。いずれにしても、来年度のドラムメジャーは決めないといけない。そのためには誰か経験を積ませる要員を確保したい。それは先代の頃から提案されていたことです。本当はもっと前に高坂先輩よりお話を頂いていたのに、こんなに遅くなってしまいましたけれど」
「……そうですか。確かに誰かがやらないといけないのは事実でしょうね。でも、誰かがやらないといけない事をあなたがやらないといけないと考えるのは、傲慢じゃない?」
「傲慢?」
彼女の口調は少し崩れていた。取り繕った薄っぺらい敬語がはがれかかっている。きっと、素の彼女の部分が見え隠れしているのだろう。蛍光灯の弱い灯りが点いたり消えたりして点滅する。その脆い輝きの下で、彼女は私を見据えていた。
「出来るからやらないといけないなんてことはないでしょう。あなたがやらないといけないなんていう事も無いでしょう。能力が仮にあったとしても、何でもかんでも自分の責任だと思ったり、自分が動かないといけないと思うのは、傲慢以外の何物でもない。私は、そう思うけど。それは結局、自分以外の誰も信用していないの裏返しじゃない」
「どうして、急にそのような事を?」
「どうしてでしょうね。すました顔で立ってるあなたを見てると、昔を思い出して無性に腹が立ちました」
「昔……? 私は久石さんに会った事など無いはずですが」
「私が一方的に知っているだけ。そちらはきっと歯牙にもかけていなかったでしょうね。中学最後の大会で、客席の暗がりからあなたを見つめてた私のことなんて」
その言葉に、私は戸惑う。彼女の言っていることが今一つ呑み込めなかった。
「正直中三の時の私は色々あって、いじけてました。それでも、ユーフォだけは人より練習してきた。けれど西中は知っての通り府大会銀賞。まぁ仕方ないよねと思ってましたよ。私たちがこういう結果になったのも、まぁ仕方ない。西中は普通の中学で、だからここで終わりなのも仕方ない。もっと努力してる人たちが上に行くのは仕方ないと、上がる歓声の中で思ってました。でも、そこであなたの顔を見た。盛り上がってる南中の中であなただけが全く嬉しそうじゃなかった」
「それ、は……」
「機会があって、関西も行きました。結果発表の壇上で金を告げられた時も、全国行きになった時も、他の団体の代表が感情を露わにする中、あなただけ沈んだ顔していた。全国行きなのに、私が夢見ることすら許されなかった舞台に立てるのに、まるでそんな事嬉しくもなんともないように」
あの時の光景が、あの時の記憶がフラッシュバックしてくる。まだ愚かしく幼いままだった頃の私の、忌まわしい記憶だ。考えてみれば当然のことだと思う。悔しさと諦観の混じった感情で見つめた勝者の中に、全く嬉しそうでない顔がいれば記憶にも残るだろう。それも、とても大きなマイナスの感情として。喜び勇んで飛び跳ねていれば諦めも付いたかもしれない。彼らは自分たちより頑張っていて、上の大会への想いも強いのだと。それなのに無表情の人間がいたとしたら。あんな子が上に行くのにどうしてと、そう思っても無理はない話だった。
「分かっています。あなたがどういう顔で、どういう想いであの場所にいようと自由だってことくらい。でも、私だって思ってしまう。思ってしまった! そんなに嬉しくないなら、変わってよ! 私だってそこに立ちたかった、そこで歓声を上げたかった! って」
「……」
分かってはいた。私たちの栄光の裏で、誰かの夢が一つ砕け散っていた。私たちの出す歓声の前に、その何倍もの悲鳴がかき消されている。その先に、私たちの掴んだ舞台があった。視野の狭かった私は、私自身のことばかりを考えていた。南中のことばかりに視線が向いていた。その周りに存在している砕け散ったモノたちについては、知っていながらも見ないフリをした。そして今、私はあの日目を背けた存在に後ろ指を指されている。
「去年の四月にあなたを見てびっくりしました。こんなに人間らしく笑えるんだって」
「だから、私によく突っかかってきたわけですか、久石さんは」
「子供だと笑いたければ笑えばいいんです。でも、撤回する気はありませんし反省する気もありません。どうせあの時だって何でもかんでも背負い込んで、出来るから全部自分がやらないといけないんだみたいなよく分からない理屈に縛られて、勝手に雁字搦めになってたんでしょうけど。それでも私は、あの時のあなたが嫌いでした。なので今日のあなたの顔はまるであの時みたいで、ムカついたので嫌味の一つでも言ってあげようかと。今年の関西で同じ顔をされても嫌なので」
フン、と彼女は鼻を鳴らして腕を組んだ。向けられた言葉はどれも強いモノだったけれど、理不尽さや悪意は感じなかった。むしろ、温かみすらあるような気がした。キツイ言葉は、普段の彼女が口にしないようなモノばかりだし、別に言わなくても良かったモノであると思う。それなのに敢えて口にしてくれた理由は何なのだろうか。
「もしかして、心配してくださってるのですか?」
「はぁ~!? そ、そんなわけないでしょう」
「それならそうと仰ってくれれば良いものを。わざわざありがとうございます」
「全くもって違います。兄妹でもそういう察しの良さは遺伝しないようですね」
「そういう事にしておきましょう。ところで、今度大阪でやる演劇の関係者席枠が残り一つ空いているので、折角ならばお礼代わりにと思いましたけれど、全くもって違うという事でしたら別の方にお譲りすることにします」
「んなっ!」
「冗談ですよ」
猫のような声を出してしまった、という顔をする彼女にそう告げる。元々この会話があったにしろ無かったにしろ渡しているつもりだった。他に演劇鑑賞が趣味の人も私の知っている範囲ではいないので、無駄にするくらいなら彼女にあげてしまった方がいいと思っている。
「やっぱりそういう人を操縦しようとするところはそっくり」
「光栄ですね」
「褒めてませんよ」
もう一度鼻を鳴らして、彼女は昇降口に向かって歩き始める。その背中をゆっくりと追いかけながら私も歩き出した。私たちの間に存在している関係に、どういう風に名前を付ければいいのかは分からない。それでも確かに分かるのは、私たちはきっとこうして何度も反目したり皮肉や文句の応酬を行いながら進んでいくのだろうという事。そして、彼女がその回りくどい優しさで、これから高坂先輩の補佐というどう考えても面倒な道を突き進もうとしている私を心配してくれていたという事だけだった。本人は決して認めはしないだろうけれど。
「最近暑いですね」
「なんですか、その会話内容に困った友達の友達同士の会話のレパートリーみたいな話題は」
「どこか寄りませんか、剣崎さんも誘って」
「良いんですか、お嬢様が寄り道の買い食いなんかして」
「お嬢様だってアイス食べたい時はあるのです」
「そこを否定しないの、やっぱり腹立たしいですね」
「事実なので」
あなたは傲慢だと、久石さんは言った。人生ちゃんと楽しい? と高一の時に揚羽さんは尋ねた。もっと自分を出しても良いんだよと、中一の時私の演奏を聞いた希美先輩は言った。虚像の希美先輩とさようならしようと、一昨年の夏に純一さんは告げた。あなたはあなたのままで良いと肯定されるよりも、こうして自分の間違っている部分をしっかり告げてくれる人の方が、私には何倍も貴重に思える。
イエスマンも、優秀だと褒め称える人も沢山見てきた。兄さんもきっと同じなのだろう。だからこそ、従順なだけの後輩より、高坂先輩や部長のように時には先輩とぶつかってでも進んでいこうとする存在が好きなのだ。私はきっと恵まれているのだろう。不幸な事もあったけれど、少なくとも私の周りにいる人たちについては、十分に恵まれていると断言することが出来た。
『そうか、君はその道を進むことにしたのか』
電話の向こうにいる兄さんは、感慨深そうな声でそう告げた。家に帰った後、私は自分が選び取った道について兄さんに報告することにした。元々先代の頃から声をかけられていたので、当然兄さんも私が高坂先輩の誘いを断っていたのを良く知っている。そして高坂先輩に色々と取りなしてくれていた。だからこそ、翻意したことについてはしっかり自分の口から告げるべきだと思ったのだ。
『その道を行くことに、後悔はしない?』
「分かんないよ、そんなの。でも、後悔しないように努めていくつもり」
『そう。まぁ確かに、どちらの道を選んでも後悔はするモノだし、選ばなかった道について考えてしまうこともあると思う。それで今の選択肢を選んでよかったと思えるかどうかはその時々次第だし、完全な結果論だろうから。全部終わった後に、これで良かったと思えるような、そんな歩み方をして行けばいい』
「うん、ありがとう」
兄さんもきっと多くの後悔をしたのだろう。私はその話を断片的にしか知らない。話に聞く再オーディションを行った時、希美先輩の復帰騒動があった時、加部先輩のことがあった時、そういう時にきっと兄さんも選んだ道について後悔したことだろう。選ばなかった道について考えたことがあったかもしれない。それでも、多分やり直せる機会があったとしても、兄さんは同じ道に進んでいくのだろう。何故だか、そんな気がした。
『けど、そうか……。高坂さんが誘って、吉沢さんが背中を押してくれた、か。吉沢さんの青い静かに、けど熱い炎は多分、涼音に合ってるんだと思う。だからきっと高坂さんの誘い文句よりも響いたんだろうね』
高坂先輩は目立つ赤い炎。秋子先輩は静かに燃える青い炎。かつて兄さんはそう言っていた。そして兄さん自身は赤い炎だった。だから高坂先輩のお願いに心が動かされた。私は兄さんの言うように青い方だったのだろう。だから、秋子先輩の言葉にもう一度熱が灯された。
『それに、あの子は人の心をよく分かってる。それは理論とか理性とかそういう話じゃなくてもっと深いところで。だから私は吉沢さんをパートリーダーにした。あの子ならきっと、悩んでいる子に寄り添えると思ったから。どうやら、その予想は大当たりだったみたいでよかった』
「慧眼だよ、慧眼」
『それは僥倖。それにしても、そうか……どんどんみんな、少しずつ大人になっていくな。君も気を付けないと、一日一日大事にして行かないとあっという間に大人になっちゃうから』
「分かってる」
大人になっていく。それはもう自分が子供時代から遠い場所に行ってしまったからこそ出てくる言葉なのかもしれない。いつ見ても私の何歩も前にいる兄さんは、もうとっくに子供ではないのかもしれない。
「あー! 涼音ちゃん、凛音と電話してるでしょ! ちょっと代わってくれる?」
「え、あ、はい」
「ありがと。コラー! お酒飲みすぎるなって前散々言ったよね? そっちじゃ良いかもしれないけどこっちじゃ未成年だし、そもそも健康に悪いでしょ! 私、一人ぼっちの老後なんて嫌なんだけど!」
電話口からは適当な言い訳が聞こえてくる。このありさまを前にしては前言撤回するべきだろう。兄さんにもまだまだ子供な部分は残ってる。希美先輩に下手くそな言い訳して怒られてる辺りなんて特に。普通ならば情けないと思う場面なのかもしれないけれど、今の私には兄さんがそれくらいでいてくれることが嬉しかった。