音を愛す君へ   作:tanuu

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第ⅩⅩⅠ音 変革

 パレードとして五月の太陽の下を練り歩いて、私たちは汗びっしょりになっている。ただ歩くだけならばいざしず、楽器を持っての演奏となると運動量も大きくなるというもの。それでも特段瑕疵無く怪我も無く、無事に終了することが出来たのは僥倖と言える。

 

 早く家に戻ってお風呂に入りたいと思いながら、家路を歩いた。パートの後輩たちも十分に実力を発揮できていたと思う。他の一年生たちも、初めての本番ではあったけれどよく頑張っていた。特に、成長が著しかった子たちも何人かいる。今年と来年にかけて伸びていくであろう子たちを見ていると、将来への希望が出てきた。それは高坂先輩も同じらしい。武川さんにこれまでの努力に対する感謝を述べているのが印象深かった。

 

 やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじと山本五十六も言っている。この辺の人使いは兄さんや秋子先輩、部長辺りから学んだことだろう。それぞれアプローチは違えど、みんな人を動かすのには長けている。

 

「ただいま帰りました……」

 

 鍵を開けて玄関扉をスライドすれば、玄関に靴が何足も揃えられているのが目に入る。あぁそう言えばと、優子先輩たちが来ると言っていたのを思い出す。長い廊下を自分の部屋に向かって歩いて行けば、途中にあるダイニングへ繋がる扉から希美先輩が顔を出した。

 

「お帰り~。先にシャワーしちゃうでしょ? 替えの洋服置いておいたから」

「ありがとうございます、お言葉に甘えて」

「今日暑かったからね。私も沿道で見てて暑くって」

「来てくださってたんですか?」

「うん。買い物ついでにね。声かける時間は無かったけど、ちゃんと動画と写真撮っておいたよ。凛音が録画してきてって必死にお願いしてくるんだから。まぁそうじゃなくても行くつもりではあったけど」

 

 先輩の後ろの方にあるキッチンからは優子先輩と夏紀先輩がギャーギャー言っている声が聞こえる。人の家でも元気な事だ。そのいつも通りとすら言える光景が、どこか懐かしい。疲労と汗を取り敢えず洗い流し、着替えてからダイニングへ行けば、いつもの四人が夜ご飯の準備をしていた。雫さんは昨日から仕事で東京に出ている。それも相まって、先輩たちは今日ウチに来ていた。

 

「こっちのタレの方が良いって」

「はぁ? こっちに決まってるでしょ!」

 

 夏紀先輩はちょっと辛めの焼き肉のタレ、優子先輩は大根おろしの入ったタレを持ってやいのやいの言っている。凄くどうでも良いけれど、そんなどうでも良い事で言い争えるくらいには仲が良いのかもしれない。みぞれ先輩はガン無視しながら半月切りした玉ねぎを楊枝に刺していた。

 

「「涼音ちゃんはどっちが良いと思う!」」

「えぇ……私はうーん、いつもはこっちですけど」

「ほ~ら見なさい」

 

 勝ち誇った優子先輩は高らかに笑っている。希美先輩は呆れ果てた顔をしていた。鉄板の上では時間のかかりそうな野菜類がある程度焼かれている。どうやら私が帰ってくるのを待っていてくれたらしい。近くの皿にはエビや肉が大きな保冷剤を下にして置かれている。すきっ腹が刺激される匂いが充満していた。台所の奥にはサツマイモとカボチャもある。特に後者は大事だった。私にとっては特に。

 

「あ、こんにゃくステーキもあるよ」

「やったー!」

 

 つい子供っぽい声が出てしまう。微笑ましいものを見る目をしている希美先輩の視線が恥ずかしい。みぞれ先輩は出来上がった玉ねぎを鉄板の上に並べていた。この人が一番マイペースかもしれない。まぁ昔からそうだけれど。

 

「はいはい、今日の主役は二人じゃないんだよー。ここでそんなに騒がないの。今は私の家でもあるんだからね」

 

 希美先輩に促されてどっちのタレが良いか論争はやっと終わったらしい。みぞれ先輩は無視してポン酢を皿に入れていた。やっぱりこの人が一番自由だと思う。今度は剣崎さんも連れてこよう。多分泣いて喜んでくれる。取り敢えず全員席に着いて、優子先輩が咳払いをした。

 

「えー、それでは。涼音ちゃんサンライズフェスティバルお疲れ様会という事で!」

「私たち何もしてないけどね」

「うっさい! 細かいことは気にしないでかんぱーい!」

 

 全員元気よくグラスを鳴らす。こういう時に場の音頭を取るのはいつも優子先輩だった。なんだかんだその役割が別の人に譲られたことはないように思う。もしかしたら、希美先輩と兄さんの結婚披露宴の司会進行も優子先輩かもしれない。その時まで、仲良くしていたら素敵だと思った。

 

「高坂の補佐役に入ったんだって? 大変でしょ、あの子とやってくの。でも、ちゃんと話し合えば分かってくれると思うから」

「黄前ちゃんは大丈夫? 潰れてないと良いんだけど」

 

 優子先輩と夏紀先輩からは矢継ぎ早に質問が飛んでくる。なんだかんだで後輩たちのことが気になるらしい。夏休みに一回くらい差し入れをする計画をしているようだった。これはサプライズらしいので、部長たちには言わないでおくことにする。その代わり予定表を渡しておいた。質問しながらもポンポンと食べていくので器用な事だと思う。

 

「剣崎さん、この前後輩にリード教えてましたよ」

「そう、良かった」

 

 あまり表情が変わっていないように見えるけれど、みぞれ先輩は心なしか嬉しそうにも見える。みぞれ先輩が教えてくれたことなんだと、剣崎さんは嬉しそうに言っていた。ダブルリードパートの中でも、受け継がれているモノはある。それはきっと各パートごとに信念だったり技術だったり様々だけれど、何かしらあるはずなのだ。そういう繋がりは、吹奏楽部という空間だからこそ出来ることなのかもしれない。

 

 気を遣って疲れることも、余計な事を考える必要のない時間は過ぎ去っていく。先輩たちの話に混じり、食材に舌鼓を打ち、そして笑い合って。そういうかけがえのない時間ほど、あっという間だった。そして、否応なしに嵐はやって来るのである。けれど、この時の私はそれを知る由も無かった。

 

 

 

 

 

 

 

「コンクールオーディションについて、幹部から話があります」

 

 サンライズフェスティバルも無事に終了し、いよいよもって本格的にコンクールを見据える必要が出てきた。放課後の音楽室には全部員が所狭しと詰め込まれている。机は全て運び出され、今は立ったまま話を聞く態勢になっていた。

 

 オーディション。それは吹奏楽部においては避けては通れないイベントだった。強豪校から弱小校に至るまで、大体の学校で行われているイベントであり、強豪校ではなおのこと大事なモノになってくる。ここでどういう結果になるかで今後の大会の結果も変わってくるからだ。しかし、その一方で人間関係破壊装置としての側面も持っている。競い合い、奪い合うことになれば、当然揉め事やわだかまりも生まれる。特に、三年生にとっては最後の大会だ。

 

 集められた時に、大方オーディションの話だろうと予想はしていたけれど、外れることなく的中していた。まぁみんなどんな結果になっても頑張ろうという旨の話をするのだろうと予測していたけれど、どうもそうではない雰囲気を感じる。緊張感の漂う室内で、高坂先輩が口火を切った。

 

「サンフェスも終わり、ようやく本腰を入れてコンクールの練習を行えるようになりました。配布された予定表を見たらわかると思いますが、今後は屋内練習のみとなります。これまでは屋外練習と屋内練習の割合が半々だったので、座奏に集中できるようになれば一層技術も向上していくだろうと考えています」

 

 予定表には六月くらいまでの暫定的な日程が記されていた。オーディションの前にはあがた祭りがあり、その後先輩方は修学旅行へ行ってしまう。その間の練習指揮は私が担うことになっていた。私の仕事が高坂先輩のサポートである以上、代理を務めるのも至極当然だろう。去年は兄さんが直々に高坂先輩を指名していたので、この三年生不在期間=疑似的な今年度後半期間に誰が指揮をするのかは、来年度の指導役の通過儀礼になりつつある。

 

「既に課題曲と自由曲は配っていますし、編曲版も配りました。皆さんも曲の難度が高いことには気付いていると思います。でも、今の北宇治の実力であれば確実にこの曲を自分たちのものにできると私は信じています。去年の秋、名古屋で味わったあの悔しさから一年、私たちはずっとこの時のために努力してきました」

 

 泣いていた優子先輩や希美先輩。悔しさをにじませた純一さん。負ける気持ちを久々に味わう羽目になったと後に漏らした兄さん。あの秋、あの銀賞は、私たち二三年生の間に大きな傷を残していた。きっと獲れると信じていた。滝先生と兄さんのコンビに二年間指導され、リズと青い鳥の演奏は会場一の大喝采を浴びていた。それでも敗れたあの日は、私たちとって過去にするにはまだ早すぎる。

 

「全国大会で金賞を獲るのは北宇治の悲願です。ドラムメジャーである私の役割は、先代の遺したモノを受け継いで、この目標に向かってみんなを導くことであると思っています。それで、今年はオーディションに関して一点変更点があります」

 

 何となく嫌な予感がした。これはきっと、北宇治に大きな波乱をもたらすことになるだろうと。どんなことでもそうではあるのだろう。改革とは、常に何かしらのうねりをもたらす。それが良いものであるのか、悪いものになるのかはまだ分からないが。高坂先輩からのバトンを部長が受け継いで話が始まる。

 

「例年まで、オーディションは京都府大会前に行われる六月のオーディション一回だけでした。でも、それだと本当に五十五人がその時点のベストメンバーと言えるのか、夏休みの間に成長している子たちの実力は見ないのか。そういう意見がありました。それを踏まえ、今年度は大会ごとにオーディションを行うことに決めました。つまり、全国大会まで進んだ場合都合三回オーディションが行われることになります」

 

 部長の言葉にざわめきが起こる。これまでと比較すれば大胆な改革内容だった。けれど無茶苦茶な内容ではない。事実、南中も清良も立華も同じような方式をとっている。しかし、このオーディション形式に良い思い出が無い。三年生が最後のオーディションで全員実力で入れるように苦慮した苦い記憶がよみがえる。

 

 確かにその変更意図は正しい。ただ、幹部側からすれば非常に面倒だったというだけの話。また人間関係についても同様に。

 

「嫌なものが来ましたね」

 

 私の呟きに、隣にいた香奈さんがコクコクと小さく頷く。南中組のうへぇという顔が、あの時代の過酷さを象徴していた。

 

「質問があるなら手を挙げてしてください」

 

 ぴしゃりという高坂先輩の言葉に、一回場は沈静化した。大体こういう場で先陣を切るのが誰なのかは固定されている。その例に漏れず、今回も久石さんが手を挙げた。部長に一番近い後輩なのでこういうのが聴きやすい存在でもある。

 

「はーい久石さん」

「ソロの方はどうなるのでしょう。ソリストも毎回決め直す形になるのでしょうか」

「そうなります」

「なるほど……実力の変化に合わせてベストメンバーを選ぶわけですね」

「北宇治は完全な実力主義。それが一番理にかなっていると思います」

 

 ベストメンバー、という言葉に反応して高坂先輩が答えた。完全な実力主義かと言われると返答に困る部分も存在する。もし、北宇治が部員を上手い奏者順で採用していくなら、いの一番に兄さんを採用しないといけない。勝手に先生と兄さんが納得してオーディションを受けていなかっただけで、別に出てはいけないという公式規定なんてどこにも存在しない。それを指摘する人はいないけれど、事実としてはこれが正しいはずだ。

 

「全国大会が決まったからと言っていきなり三年生が優先される、ということはもちろんありませんよね?」

「学年は音楽の評価に関係ありません。それに万が一にもそうしたことが起こるのを防ぐために、滝先生に判断を委ねています。それが部員投票にしない理由でもあります。先生が判断を誤ることはないでしょうから」

「滝先生を心から信頼されているのですね」

「当然です。先生は全国でも最高レベルの指導者ですので」

「そうですね、異論ありません。ありがとうございます」

 

 久石さんの求めていた通りの言葉が引き出されたのだろう。私の立っている場所から彼女の顔は見えないけれど、その目が弧を描いているのがありありと思い浮かぶ。そしてもう一つ、遠慮がちに手が挙がる。

 

「黒江さん」

「いえ、あの……そのオーディションって私もやるんですか?」

 

 遠慮がちに聞かれたその問いは、音楽室を一瞬静かにさせる。それに込められた意図は何だろうか。私ほどの奏者でもやらないといけないのか、という意図では当然無いだろう。それを言って良いのは兄さんだけだ。だからきっと、自分も大会に出場する権利が発生しているのかどうかを問うているのだろう。聞き方がよろしくないだけで。

 

「……部員ですので、当然そうなります」

「そうですか……」

 

 部長の固い声が響く。そこに込められた感情の方は、理解するのが容易かった。このままでは真由先輩があらぬ誤解をされる可能性もあるので、助け舟を出すことにする。

 

「つまり、転校してきた私にも大会に出場する権利があるのですか、という事ですよね、真由先輩?」

 

 私の言葉に真由先輩は振り返り、そして小さく頷く。部長はその真意を読み取れたおかげが少し安堵した顔をしていた。音楽室の空気も少し元に戻る。これであらぬ誤解をされる恐れも減っただろう。

 

「府大会、関西大会、全国大会……その全てに参加できるかは分かりませんが、舞台に立つ以上、それがどんな結果であれ、北宇治のベストメンバーで挑むべきだと考えています。そうである以上、部に籍を置いている全員がそのベストメンバーになる可能性があります。転校生だからとか、一年生だからとか関係ありません。必要なのは、実力です」

 

 高坂先輩の言葉に、真由先輩は曖昧に頷く。それが彼女の求めていた答えだったのかどうかは分からないし、彼女の抱えていた懸念が解消されたのかどうかも分からない。ただ言えるのは、真由先輩は大会に参加できなくても仕方ないと考えていたという事実だけだろう。

 

「部長、私からも二つほどよろしいでしょうか」

「どうぞ」

 

 発言したついでに、私も自分の意見を言っていく。オーディション三回制自体は決してマイナーな制度ではない。強豪ではよくある制度だ。けれど北宇治に所属している部員は、決して強豪出身ばかりではない。南中組が一定数の影響力を保持しているのは、強豪の出だからと言う部分もある。つまりどういうことかと言うと、オーディション三回制のメリットデメリットを身をもって知っているのは私たち南中組と真由先輩くらいなものだということだ。他にいるとすれば川島先輩くらいだろう。だからこそ伝えないといけないこともある。

 

「まず一つ、審査員はどうなるのでしょうか。北宇治で今の形のオーディションが再開されたのは一昨年。そこから昨年までは滝先生と松本先生、そして桜地……この場合は先生? 先輩ですかね? ともあれこの三人で審査を行ってくださいました。ですが今年はご存知の通りです。これから仮に三回オーディションを行ったとして、その中の一回ないし複数回審査員が増減する事はあるのでしょうか」

「あー、それはちょっとすみません、想定していませんでした。また先生と話し合って回答します」

 

 幹部陣からは全く予想外の所からきた質問だったらしく、回答が用意されていなかった。歯切れの良い言葉を放つ高坂先輩も、今回は何も言わない。実際迷いどころなのだろう。一人いるかいないかで判断が変わるという事はあり得る。特にトランペットパートはその影響をもろに受けるだろう。

 

 多分兄さんが戻って来るとしたら関西大会の前の期間だ。そこでのオーディション審査に加わるのかどうか、知りたいと思っている上級生は多いだろう。特に秋子先輩のような方は。

 

「お願いします。そしてもう一つ、こちらは部長個人へお聞きしたいと思います」

「何でしょうか」

「単刀直入に申し上げると、覚悟はおありでしょうか」

「覚悟、ですか……?」

「はい。この制度は一回始めると、少なくとも今年度の間は何があっても中止できません。途中で止めると、それまで恩恵を受けた人とこれから恩恵を受けられたかもしれない人との間で確実に対立が発生しますし、不公平になってしまいます。ですから、今年度は貫かなくてはいけません」

 

 上手く行かないから途中で中断しようという風にするのはやはり難しい。高坂先輩や部長のように毎回受かっている人は気にならないかもしれないが、当落線上にいる人は気が気ではないだろう。それでも次のオーディションがあると思って頑張るし、次も落ちないようにと努力する。そこで急に無しにしました、では道理が通らない。

 

「オーディション三回制は部員、審査員、そして幹部。全てに大きな負担をもたらします。私は中学校時代に既にこの制度を三年間経験して参りました。この制度の下で部を運営した人間として申し上げています。この制度は確実に大きな波紋と混乱、そして苦しみを生むことになるでしょう。その痛みは決して小さなモノではないかもしれません。私は幸運なことに全国大会に進出し、至らぬ私についてきてくださった方々の尽力のおかげで金賞を獲得出来ました。ですが、その過程では多くの歪みや痛みが生じたのも事実です。その上で部長、この道を行く覚悟はおありですか。生半可な想いならば、お止めになった方がご自身と部のためであると、僭越ながら経験者として進言いたしました」

 

 私は揺らぐことなく、部長を見つめる。絶対にやめた方が良いとは言わない。この道を行くメリットも確かに存在している。それは高坂先輩の主張するようにベストメンバーで挑めるというメリットだ。上に行くなら、その方がいいだろう。けれど、当然その過程で問題は発生する。去年よりも揉め事やトラブルの数は明らかに増えるだろう。そんなに出来た人間ばかりではない。想定よりも一個下、どん底の底を考えておく。それがリスクヘッジの基本だった。

 

 部長の目に迷いが一瞬生まれる。そしてその視線は高坂先輩の方へ注がれた。高坂先輩は迷いなく立っている。この道が正しいのだと信じるように。それを見て、部長の視線はまた私に向き直った。その口が開かれる。

 

「確かに、色々な事があると思います。今はまだ完全に分かっているとは言えません。ですが、何かを得るには何かを変える必要もあると、そう思っています。そして、その中である痛みをどうにかするのが私たちのするべきことだとも、理解しているつもりです」

「……なるほど、分かりました。部の長たる方がそうお決めになったのならば、私はそれで良いと思います」

 

 あなたがその痛みを蒙ることになるのかもしれませんよ、とは言わないでおいた。それを言うのは簡単だけれど、それは暗に部長が負けるかもしれないという事を示唆している。編成の都合からユーフォが一人になることはないので、部長と真由先輩は確定で出場だろう。となると問われるのはソロがどうなるのか。何せ、あの高坂先輩ですら油断していたら秋子先輩に負けるかもしれないのだから、そこで部長が真由先輩に負ける可能性はゼロではない。

 

 けれどそれを言ってしまえば折角真由先輩をフォローしたのが無に帰してしまう。そんな無意味な事はしたくない。あなたはいざそうなった時に痛みをこらえることが出来ますか。それも含めての「覚悟」という言葉だったのだけれど、多分伝わってはいないのだろう。その日が来なければ、これはいらぬ不安だ。けれど人生というものは時に最悪の一歩下を行く。願うのは、兄さんの教えを二年間受けてきた部長の実力が十二分に発揮されることだけだった。

 

 いざその日が来た時。痛みを抑え、悔しさや悲しさを抑え、それでも部の長として振舞えたのならば。それは部長が真の意味で、この北宇治の部長になったという事なのだろう。かつて、高坂先輩に負けてもその悔しさを最後まで隠し続けた優子先輩のように。

 

 

 

 

 

 一応場は沈静化したとはいえ、各パートに別れてしまえばそれもまた元に戻る。フルートパートの練習教室は困惑と疲労に満ちた空気が流れていた。沙里先輩は目頭を押さえている。芽衣子先輩や蕾実先輩も不安そうな面持ちだ。何分初めての出来事である以上、三年生とは言え不安はあるのだろう。どうなるか分からない、という状態は、或いは先輩たちが一年生だった頃の事を想起させるのかもしれない。

 

「でも、大変なことになっちゃったね、これは……」

「……え?」

「え?」

 

 沙里先輩のぼやきにも似た声に、思わず変な声を出してしまう。お互いに見つめ合ったまま奇妙な時間が数秒流れた。どうも、こちらと先輩方の認識の間に何か決定的なずれがあるように感じる。何故なら、今の先輩の言い方ではまるで今初めて聞いたかのような言い方だった。思えば、他の三年生の先輩方も同じような顔つきをしていた。それはフルートパートだけじゃない。秋子先輩ですら今後の対策を考えているような面持ちだった。まるで、今日初めて聞かされたから何の対策も考えついていないかのように。

 

「あの、すみません、まさかと思いますけど、このことを先輩方はご存知だったんですよね……?」

「ううん、今日初めて聞いたよ。だからびっくりしちゃって」

「え……パートリーダー会議でも話に出なかったんですか?」

「うん。と言うより、そもそもパートリーダー会議自体がそこまで密に無いからね。これからもう少し増えていくとは思うんだけど……」

「で、では幹部の三人と先生方以外に誰もご存知無かったのですか? こんな大事な決定を!?」

「多分……。先生が決めたんじゃないかな。だからそれを幹部に相談して、幹部がOKを出して、そのまま部員に伝達って感じなんだと思う」

「そんな……」

 

 唖然としたまま私は口をぽかんと開けてしまった。変更すること自体は良いと思う。けれどてっきり三年生の間で、せめてパートリーダー会議などで十分に議論を尽くしたうえで実行されたことだと思っていた。しかし実態は全くそうではなかったらしい。何の相談も無く、何の事前議論も無く、新制度は唐突に始まったという事だ。それで痛みをどうにかする覚悟などと、よく言えたものだと思う。そんな独裁的に決定されたとは思っていなかった。

 

 確かに、幹部は部の運営に責任を持つ。けれどそれは何でもかんでもそこで決めて良いという訳ではない。私たちは幹部を信頼し、その指示に従うとは言っているし、幹部を信任したのは私たちだ。でもそれは何でも無条件に従うという訳ではないはず。ハッキリ言って組織としては非常にマズい決定ではないだろうか。少なくとも、今の時代にはそぐわない。ワンマン社長だってプロジェクト開始前に会議くらいはするだろう。

 

 それに、先生が決めたとは思わない。現状部は普通に回っている。私の知らない二年前ならいざ知らず、今この時期に先生が強権的に物事を決定する事は無いだろう。生徒の自主性を重んじているという言葉は建前ではないと、私はこれまでの一連の出来事から思っている。であれば、これは幹部陣の提案なのだろう。だから先生はそれを採用した。

 

 せめて部内で話し合ったのかくらいは聞いてくれよ、と内心で文句を吐露するが、もう始まってしまった以上止められないだろう。もし無理に止めようとすれば、高坂先輩と部内を巻き込んだ大戦争になりかねない。それは望むところではなかった。負けるつもりはないが、勝ったところで得るモノは少ないと思う。

 

「ま、まぁ取り敢えず! 私たちに出来る事は頑張って練習して、メンバーに入れるようにすることだよ。不安もあるけど、やってみない事には何も分からないからね。それに、北宇治が全国目指すって最初に決めた時も、先の事は何も分からないけど走り出して、結果今がある。悪い事ばっかり想像するより、まずは目の前の事にがむしゃらに取り組まないと。ね?」

「……はい」

「じゃあ、練習していこうか」

 

 沙里先輩は少し無理矢理に明るくして、場の空気を練習の方向に誘導する。変な空気にしてしまった身としては申し訳なく思って、頭を下げた。気にしないで、と手をひらひら振っているけれど、その顔には迷いと焦りが隠れている。沙里先輩もまた、この変更に不安を隠しきれないのだろう。

 

 部は一人で運営しているわけじゃない。幹部以外にもキーになる部員は沢山いる。新入生指導の加藤先輩、最強軍団の長である秋子先輩、最大派閥のクラリネットを束ねる高野先輩等々だ。こういう先輩たちはそれぞれ自分なりの考えや信念を持っている。それを確認しないまま先に進んだとて、あまり良い未来が待っているとは思えない。

 

 それに、自分で補佐に指名しておきながら肝心なところで何の相談もしてくれない高坂先輩にも、私はハッキリ言って不信感を抱いていた。未来は見えない。これから先、何回オーディションがあるかも分からないままだ。けれどただ一つ分かるのは、何事もなく高坂先輩と手を取り合いながら前に進んでいける可能性が低いという事だけ。

 

 どれだけ不安でも、時間は否応なしに前に進んでいく。オーディションまでそう長い時間はない。そしてもう一つ大事なことがあるとすれば、それは去年まで希美先輩を追う側だった私は、今年は後輩に、同期に、そして先輩に追われる側になるということ。楽譜を眺めながら、微かに唇を嚙みしめる。舌に感じる血の味は、無かった事にした。

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