音を愛す君へ   作:tanuu

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第ⅩⅩⅡ音 扇の後ろ

「最後のソロの練習していますか?」 

 

 オーディションの変更が通達されてから数日が過ぎた。あれから多少の混乱はありつつも、部活はまた平常通りに運航している。要するに、全部のオーディションで受かってしまえばいいのでしょう? と覚悟の決まった目をしている部員もいる。一方で後ろから迫られている組はそこまで余裕があるわけでも無い。フルートパートでもそれは同じで、特に三年生の先輩たちは少し雰囲気が固くなっていた。無理も無いと思い、私が今は一年生の指導をしている。

 

「えっと……」

 

 巧美さんは言葉を濁し、チラリと先輩たちの方を見る。沙里先輩はいないが、現在進路面談中だ。二年生組は個人練中である。彼女の言わんとしている事は理解できた。部によってはソロの練習は先輩の前でやらない方が良いと言われることもある。

 

「気にしなくて構いません。全員ソロのオーディションを行う以上、機会は誰にでもあります。フルートパートにそんな狭量な事を言う人はいません。全員、正々堂々と競い合ってくれますよ。ですので、心配しないでください」

 

 一年生二人は互いに顔を見合わせて、曖昧に頷いた。そうは言ってもどうなのか、という不安は実際に行動で示さない限り消えていかないだろう。その不安も理解は出来る。ここで先輩と不仲になってしまえば、今後の部活生活に大きな影響が出ることは明白だからだ。

 

 けれど、ここは大丈夫だと思っている。去年の希美先輩は私の勝負してほしいというお願いを聞いてくれたし、実際正々堂々と戦ってくれた。調先輩も同様に。その魂を三年生も二年生も受け継いでいる。一年生に文句を言ったりなんてしないはずだ。少なくとも、私はそう信じている。

 

「ただいま~」

 

 沙里先輩がちょっと疲れた声で入室してきた。その手には何枚かの紙が握られている。大学についてのパンフレットであるというのは表紙のデザインから一目瞭然だった。

 

「遅くなってごめんね、進路面談に時間かかって。まったく、やりたい事とか将来の夢なんてそんなしっかりあるわけないじゃん……。みんなもちゃんと考えとくんだよ」

「「「はーい」」」

 

 はぁ疲れたという顔で、沙里先輩は自分の楽器を取り出している。自分の将来の夢。それはまだまだ遠いようだけれど、先輩の姿を見ていると実感させられる。後一年、後一年しかないのだ、と。私が何になりたいのかはっきり決まっているわけではない。今興味があるのは医学系だ。兄さんは色々あった結果救急車や病院が苦手になってしまったけれど、私はむしろ逆だった。搬送された両親を助けようと必死に手を尽くしてくれたことには感謝している。

 

 とは言え、ハッキリと決まっているわけじゃない。元々進路なんて自分で選べない身分だったのに、いきなり自由にしていいぞと言われても困ってしまう。私はどうしたいのか。折角兄さんのおかげで解放されたのだから、自由に選べる権利を行使してみたい。そのために考える時間は、後少ししか残されていなかった。

 

「お、二人はソロの練習かな? いいねぇ、涼音ちゃんならしっかり教えてくれるから、いっぱい吸収するつもりで頑張ってね。分かんないことあったら、私達でも聞くから。遠慮なんかしてちゃダメだよ」

「「はい!」」

 

 うんうん、と頷きながら沙里先輩はこちらに小さく目くばせする。一年生がどういう不安を抱えていたのか、この数秒でしっかり理解してくれたようだ。こういうところが、パートリーダーに選ばれた理由だと思う。

 

「二人はあがた祭りはどうするの?」

「私たちは一年生何人かで行こうってなってます」

「そっか。香奈ちゃんはホルンの屋敷さんと一緒に行く、成美ちゃんつみきちゃんはセット、私たち三年はセットで、涼音ちゃんは彼氏?」

「今のところは」

「そっかそっか。息抜きも大事だからね、しっかり楽しんでこうね」

 

 よーしやるよ~と朗らかに告げる沙里先輩の指示に従って一カ所に集まる。呼ばれた同期達も戻って来た。オーディションの日程は日々近付いているけれど、私たちはその中でつかの間の青春を謳歌しようとしていた。

 

 

 

 

 お祭りの会場は熱気に包まれていた。この熱気は懐かしい。二年前、時期は違うけれど、私はあの夏から明確に何かが変わったのだ。あの夏、兄さんに強引に連れ出された花火大会の日に、出会った運命によって。身にまとった浴衣は、あの頃に比べて幾分も華やかになった。昔はもっと地味な浴衣だったけれど、綺麗だと思われたい女心には勝てない。希美先輩が太鼓判を押してくれたビジュアルで、いざ勝負という感じだった。その希美先輩はみぞれ先輩たちと一緒に行くらしい。本当は凛音とお祭り行きたかった、行ったこと無いからと言っていたので、花火大会では是非そうして欲しいと思う。

 

「この度は、ご協力いただきありがとうございました。お兄様にもよろしくお伝えくださいませ」

「いえ、大したことも出来ませんでした」

「こうして再び協賛して頂けるだけでもありがたい事です。お嬢様も今後ともどうぞご贔屓に」

「是非」

 

 ペコペコ頭を下げる運営責任者への挨拶を終えて、待ち合わせの場所へ急ぐ。古い家はこういう付き合いがあるから面倒だ。本当は兄さんがやってくれていたのだけれど、今は私が代わりに挨拶回りをしている。両親が健在の頃は運営側に回っていたのだが、今は学生なのでご厚意で免除されていた。なのでせめてこうして頭を下げるくらいはしないと、面目が立たない。

 

 会場の人ごみの中を、浮かされたように速足で歩いた。待ち合わせ場所には時間ギリギリになって到着する。ちょっと身だしなみが崩れていないか、携帯の画面でチェックした。良い感じになっている自分が映っている。随分と浮かれた顔をしているのが分かったけれど、自分で止められるようなモノじゃないのだから仕方ない。待ち合わせの人はもうそこにいた。何回こうして待ち合わせても、私より後に来たことが無い。そういう結構真面目なところも好きだった。

 

「お待たせしました」

「俺も丁度来たところだったんだけ、ど……」

 

 純一さんはぽかんとした顔で私を見つめている。渾身のヘアチェンジが刺さったと、内心でガッツポーズした。希美先輩曰く「ギャップだよギャップ」らしいので、普段の私があまりしない髪型を選んでみた。私がこのヘアスタイルにするのは大会の時くらいなので、あまり見慣れてはいないと思っていたのだけれど、どうやら予想通りだったらしい。

 

「どうですか? 私のポニーテールと浴衣は」

「心臓爆発するかと思った」

「それは困っちゃいますね、もっと見て貰わないと」

 

 黒い男性の浴衣はシンプルだけど、シュッとして見える。私の主観だからかもしれないけれど、いつもよりカッコよく見えた。やっぱりギャップ、という事なのかもしれない。初夏の気候は私の感情をいつもよりも積極的にさせている。普段は言わないような事がポンポンと口をついて出てきた。

 

「今日も凄い人ですね、はぐれないように気を付けないと」

「そうだなぁ」

 

 呑気な返事が返って来て、ちょっとガクッとなる。鈍い人、と心の中で呟いた。

 

「またいつかみたいに声かけられてしまったらちょっと怖いです。どこかに私をエスコートしてくださる方がいらっしゃると良いのですが、ね?」

「え、あぁ、ごめんごめん。それじゃあ行きましょうか、お嬢様」

「はい、喜んで」

 

 顔を赤くしながら差し出された手を、私はゆっくりと取った。相手の鼓動が聞こえてくる。あの花火大会の時、ナンパされていた私を連れ出してくれた時と同じ手。あの時と同じぬくもりと、その中にある確かな優しさ。変わらないそれが、とても嬉しかった。

 

 私が、もし兄さんの妹じゃなかったら助けてくれましたか。私は確か、そう思っていたはずだ。でも今はそんな事思っていない。兄さんの妹じゃなくてもという仮定自体がそもそも無意味だし、仮にそうだったとしても私たちはどこかしらの運命で出会って、そしてこうしていたんじゃないかと思えたから。そして、だからこそきっと、私を助けてくれると思うから。

 

「かき氷、何味が良い?」

「じゃあ、私はレモンでお願いします」

「OK、レモンとメロン一個ずつお願いします!」

 

 屋台のガリガリとした大粒の氷の上を、黄色いシロップが染めている。沿道のガードレールに寄りかかって、二人で解けないうちにと食べてしまう。あがた祭りの時は歩行者天国なので、車が来る心配もなかった。先ほどのお金を払おうと財布を出そうとした私を、純一さんが制止する。

 

「いいよ、今日は俺が出すからさ」

「そんな」

「大丈夫大丈夫。俺、ちゃんとこういう時のためにバイトしてるし。普段あんまし良いカッコ出来ないから、こういう時くらいカッコつけさせてくれると嬉しい」

「そういう事でしたら、甘えさせて頂きます」

 

 払ってくれるって言ってる時は素直に引いた方がいいよ、と希美先輩が言っていた。その代わりに別の機会には自分がスッと出せるようにしておくといいね、とも。そういう恋愛系のアドバイスをくれる点でも、希美先輩はありがたかった。まぁその知識の源は希美先輩のお母さんらしいのだけれど。社会人と付き合ってるなら普段のお金とか運転は任せてもいいけど、ガソリン代くらいはスッと出せる女になりなさいと言われたらしい。

 

 蒸し暑い六月の夜は、屋台の火で焦がされている。焼きそばのソースの匂いが漂ってきた。隣の純一さんの舌がメロン色になっている。多分、私の舌はレモン色だ。思わず顔を見合わせて笑ってしまう。浴衣とは言え汗ばむので、時折持っている扇でパタパタと仰いでいた。その時の首筋や胸元に視線がチラチラ来ているのはちゃんと理解しているけれど、敢えて素知らぬ顔をしてみる。女子は結構視線に敏感だ。男子はあんまり理解していないみたいだけれど。

 

「どこ見てるんですか、もう」 

「あ、いや、それはその……」

「見るならもう少し堂々と見てください。それじゃ不審者ですよ」

 

 そう言いつつ、私の心臓はバクバクと音を立てていた。なんだかんだ同衾まではした兄さんと希美先輩。多分一線超える日もそう遠くは無いだろう。その一方、私たちはいつまでも手を繋ぐところで止まっている。健全なお付き合いと言えば聞こえは良いけれど、いつまでも同じままなのは少し嫌だった。もし兄さんに遠慮しているなら、そんなことしなくて良いのに、と言いたい。でも言っても中々難しい部分もあるだろうとは思っている。私の彼氏は意外と奥手だ。だから関係を前に進めたいなら、私が動くしかない。

 

「頬にシロップ付いてますよ」

「え、どこ?」

「ジッとしててくださいね、今拭きますから」

 

 そう言って私は身体を近付ける。私たちは兄さんたちと違って身長差がそこまで大きくないので、少し背伸びすれば大体同じくらいの目線になる。スッと扇子を開いて他の人から見えないようにしつつ、私は油断している口元に唇を付けた。私の目の前にある瞳がビックリして白黒している。顔から火が出そうになるけれどそれに耐えて、唇を離した。妹と同じ年の子を意識するのは難しいのかもしれない。それでも私だって、ちゃんと恋愛対象として、恋の相手として見て欲しいのだ。今、私はどう映っているのだろうか。少しでも大人っぽく見えているのなら万々歳だった。

 

「桜地家の女性が最初に付き合った相手と結婚する確率は今のところ百パーセントなんです。私もそうなるだろうと思ってましたし、時代錯誤感はありますが貞淑に、身持ちを固くと育てられてきました。なのでファーストですよ。別の相手にするつもりは無いので……セキニンとってくださいね?」

 

 清楚なお嬢様だと同級生の男子に思われているのはよく知っている。それは別に間違いだと否定する気はないけれど、いつだってそうだとも限らない。二十上の男にアタックした祖母の血脈は、どうやら私にもしっかり受け継がれているようだった。夜闇に誤魔化せない赤さで頷く彼の顔を見ながら、私は微笑みながらそう思った。踊るような恋に身を任せて。

 

 

 

 

 

 

 あがた祭りも終わった数日後、先輩たち三年生は修学旅行へと旅立って行った。三泊四日東京の旅。国会議事堂や都内の観光を経て、ディズニーランドに行って帰って来る。兄さんたちも去年楽しそうな写真を送って来た。特に兄さんは人生最初で最後の修学旅行という事もあって、一際満喫していたように思う。これで付き合ってないのは信じられないという距離感で希美先輩と映っている写真も多数あったけれど……それはまぁ、ご愛敬だろう。

 

 普段部を主導している三年生がいないこの状況は、疑似的な今年度の後半とも言える。すなわち、先輩たちの引退後の様子に近いのだ。この状況で練習の指揮を執る人間が誰なのかは大事な問題になって来る。去年は高坂先輩が兄さんからの指名を受けた。そして今年は私が高坂先輩から指名を受けている。

 

 元々、中学時代に顧問が来るまでの間疑似的な指導をしていたので勝手は分かっているつもりでいる。それに、引継ぎも前例も無いままとにかく暗中模索試行錯誤でやるしかなかった中学時代に比べて、高坂先輩からの引継ぎもあるし兄さんや先輩のような例も存在している分、幾分も楽だろう。高坂先輩からは自由曲を重点的に、足りない部分を埋めるように指示を受けていた。

 

「では、私は五時十五分頃に向かいますので、それまで全体練習の指導をお願いします」

「かしこまりました。高坂先輩からは自由曲を中心に、と言われていますが先生からもそれでよろしいでしょうか」

「ドラムメジャーがそういう方針ならば、それで構いません」

「先生として、何か特に気にして欲しいポイントなどありますか」

「そうですね……逆に桜地さんは、今の一二年生に足りないモノは何だと思いますか?」

 

 先生との打ち合わせで出された問いに、少しの間考える。一二年生はとにかく人数だけはいる。なにせ二年生だけで四十人以上いるのだから仕方ない。部内の四分の三は一二年生で占められていた。けれどその割には足りないモノがある。

 

「音量が足りないと思います。人数の割には」

「私もそう思います。大きければ良いという訳ではありませんが、聞こえなくては意味がありません。上手いけれど音量が足りない奏者よりも、多少音域が狭くとも音量の出る奏者の方が、バランスを考えると最適でしょう。全体の中で各楽器が果たしている役割やバランス、そして求める水準との距離。そう言った大局的な見方は中々難しい部分がありますが、南中での様子を拝見する限り桜地さんにも十分備わっていると思います。この辺りに留意してもらえると助かります」

「分かりました。精一杯努めさせていただきます」

 

 頭を下げて職員室を後にする。楽譜を脇に抱えながら廊下を歩いた。オーディションが三回になったことで、チャンスは増えている。その分、競争も激化するという事。今年の三年生は精鋭揃いだ。大会メンバーである五十五人の内、半分は三年生で占められると考えて問題ないだろう。だからこそ、我々一二年生がどこまでその枠に入れるのか。それが今私たちの間に横たわっている難題だった。

 

 音楽室には既に部員が勢ぞろいしている事だろう。なんだか二年前に戻ったみたいだ。あの時はどん底みたいな気持ちで毎日音楽室の扉を開いていた。求めているモノも、目指している場所も、自分がどうしてここにいるのかも、何もかもぐちゃぐちゃになったまま、答えの見えない砂漠を歩いていた。あれから二年の月日が流れて私は随分とマシになったと思う。

 

 今日の時間は、先輩たちが引退した後、もし私がこのまま高坂先輩の後継になるのだとしたら、その時の指導の予行演習と言えるかもしれない。南中組は私がどういう風に指導して指揮をするのかを知っているけれど、他の学校の出身者は知らないだろうし、私にその能力があるのかも知らないだろう。ここで認めてもらうのが色々今後楽に物事を進めていくために肝要だった。

 

 ガラガラと音楽室の扉を開け放って室内に入れば、それまで聞こえていた話し声が止んだ。カツンカツンと音楽室の床を鳴らす靴音だけが響いている。そして指揮台に立って、全体を見渡した。昔よく見ていた景色によく似ている。あの頃と違うものと言えば、私に向けられる視線だろう。かつてと同じような視線を向けてくるのは南中組。そうでない色々な感情が混じった視線を向けてくるのが他校出身の人だ。

 

「よろしくお願いいたします」

「「「よろしくお願いします!」」」

 

 私の挨拶から今日の練習が始まる。一瞬立ち上がりそうになって、軽く腰を浮かせていたのは南中出身の一年生たちだった。事情を知らない他の子から、何をいきなり立ち上がろうとしたのかと奇妙な目で見られている。いい加減そろそろあの頃の記憶を忘れて欲しいのだけれど、と内心で苦笑しながら楽譜を開いた。

 

「では、始めていきましょうか。まずは自由曲を一度通しでやっていきたいと思います。準備はよろしいですか? 何かあればすぐに仰ってください。無いようでしたら始めます」

 

 特段返事が返ってこないので指揮棒を構える。それと同時に、部員たちが楽器を構えた。棒を振れば演奏が始まる。初心者だった一年生たちも、最近では音がしっかり出せて演奏と呼べるようなものを奏でられるようになってきた。高坂先輩がサンライズフェスティバルでスパルタ指導をした効果が出始めている。

 

 楽譜と比べながら演奏を指揮していく。奏でられている演奏と、実際にはこうあるべきという演奏の比較だ。私は兄さんのように完璧に把握は出来ないけれど、昔取った杵柄と言うべきかある程度はどこが不足しているのか理解できた。もう数年こうして全体の前で指揮をすることはなかったけれど、一度身に着けた技術や感覚はそう簡単に消えたりはしないようだ。あの頃必死に勉強した甲斐があったと思う。

 

「はい、お疲れ様でした」

 

 通し演奏が終わり、私は指揮棒を譜面台に置いた。どういう風にどこから指摘をしていくか、少し頭の中で整理をする。言わないといけない事は多いけれど、何から伝えていくのかは悩みどころでもあった。ただ闇雲に全部言えばいいという訳ではない。効果的なアプローチは何か、考えないといけないのだ。面談でパーソナリティを把握していた兄さんの作戦は、今思えばかなり有効だったのだろう。

 

「まず全体を通して。音量が足りません。それは皆さん、ある程度自覚されているとは思いますが、如何ですか?」

 

 だよねぇ、と言う顔をするのは経験者の中でも上位にいる人たちだった。彼らはしっかり現状を把握している。主力のいない状態の北宇治が、どういう演奏をする集団なのか理解できていた。それは到底、全国には届かない。確かに三年生は主力だ。しかし、それに頼りきりでは上には行けない。その主力と同程度かそれ以上を私たちも目指していく必要がある。

 

「第一楽章、冒頭のトランペット。七人もいてファンファーレがそれですか? 二人しかいない三年生の方が聞こえています。高坂先輩と吉沢先輩の二人の方が七人のファンファーレより大きな音を出せているのでは少々よろしくない状況だと思ってください。特に小日向さんはもっと前に出て。浅倉さんは音質は良いですが音量が足りません。貴水君はその逆。一年生と滝野さんはまずは音量を出してください。多少高音が出なくてもまずは聞こえなくては意味がありません」

 

 言っていてアレだが、正直このパートに関しては高坂先輩と秋子先輩がおかしいだけという見方も出来る。と言うよりこれが正解かもしれない。世界一の指導を二年間みっちり受けていれば、多少上手い高校生程度じゃ全然太刀打ちできないだろう。その証拠に、高坂先輩はソロコンで文部科学大臣賞を獲っている。部内選考のせいで落ちているけれど、秋子先輩も出ていればそれなりの賞は貰って帰って来たんじゃないかというのが下級生の間での専らの評判だった。

 

 なので今の一二年生に落ち度があるわけではない。むしろ二年生四人は兄さんの指導を一年とは言え受けているだけあって、他の高校のトランペットパートよりはずっと良い状態だろう。比較対象が比較対象なだけに求められている水準が高いだけで。それでも来年以降比較されるのは事実だし、今からそれを認識しておくのは悪い事ではない。尊敬するべき先輩は、来年それくらいの場所にいないといけないという目標でもあるのだから。

 

 であるから、こうして厳しい事も伝えている。きついとは思うが、言い方は中学時代の私や高坂先輩よりは柔らかいと思う……多分。

 

「トランペットパート、返事は?」

「「「は、はい」」」

「次に低音。こちらもパート全体として指摘する事項はあまり変わりません。個別に見ていきます。まずチューバ。鈴木美玲さんはよくできています。音量がもう少しあるとなお良いですが、今はまず他のチューバをリードしてください。加藤先輩を含めた場合でも、あなたがチューバのメインになると思いますので」

「はい」

「鈴木さつきさんは音量をください。釜屋さんは……そうですね、些か音量をセーブしていますね? もう少し出せるならば出してください。多少高音域が出なくても構いません。そこは他の方にカバーしてもらえばよいので。上石さんはもう少し滑らかに音同士の接続が行えるよう、練習すると良いでしょう」

「「「はい!」」」

「続いてコントラバス、月永君。あなたも聞こえないことがあります。川島先輩がいない場合、コントラバスの響きはあなたが担うことになります。コントラバスなんて聞こえないから弾き真似でも分からないなんて言われないように。ユーフォ、針谷さんは少しずつ上達していますね。その調子です。今は目の前の課題をひとつずつクリアして行ってください。基礎は面倒かもしれませんが、自分の今後を支えてくれる大事なものになるはずです。久石さん、ユーフォが二人である以上、経験者であるあなたへのウェイトはどうしても重くなります。申し訳ありませんが、より一層の修練を求めることになります」

「「「はい」」」

「低音は全体として目立たないと言われがちですが、曲の支えとしては非常に重要になってきます。下の支えが崩れると、上に乗っかっている部分も全部崩れてしまうことに繋がりかねません。また、小日向さんと久石さんはソリの部分も同時並行で練習してください。下級生だけで演奏することになった際に必要になりますので」

「「「はい!」」」

 

 やけくそ気味な返事が低音パートから聞こえてくる。多分うへぇと思われているのだろうけれど、自分に与えられた役割に関して妥協することは出来ないと思う。しかし、同期に指導するというのは何回やっても心労が多少なりとも出るモノだ。これを平然とやっているように見せていた兄さんは、やはり私よりも指導力があると思う。

 

 今の二年生からすれば、兄さんは最初から先輩だった。去年の三年生や一昨年の三年生とはその時点で見え方が違う。目の前の彼らの多くにとって、同期に指導されるという経験は初めてなのだろう。だからこそ、私の存在に対して多少の戸惑いだったり反発を感じる事もある。

 

「次にクラリネット。北山君か義井さんのどちらかが最初の出だしをやってください。高坂先輩からもそういう指示が出ていましたし、私もそう思います。取り敢えず今は北山君がやるようにしてください。甲斐田君は時々慎重になりすぎます。坂崎さんも同様。もっと勢いをつけて。中田さんは勢いはありますが所々で丁寧に。松藤さん、第四楽章は深々と、という指示があります。そこのイメージが上手くつかめないならば速やかに上級生に相談しましょう」

 

 矢継ぎ早に指示を飛ばしていく。クラリネットが終われば次はホルン、次にフルート、サックスと順番に指摘していく。この頃になれば音楽室内の空気も少し変わり、真剣にメモを楽譜へと書き込んでいく姿が目立つようになった。

 

「サックス梶原さんと河口さん。出来ない部分でも最後まで吹ききろうとしてください。まさかと思いますが先輩が出るから自分たちはどうせ出られないだろう、などとお考えではありませんよね? 他の一年生もそうですが、先輩から枠を奪い取る気概で挑まなければ、上手くなるモノも上手くなりません。高坂先輩や滝先生がいかに知恵と力を振り絞って皆さんを指導しても、皆さん自身に向上心が無ければ意味はありません。徒労に終わってしまいます。最後の最後で明暗を分けるのは、そういう部分であると、私は考えています。精神論かもしれませんが、音楽は精神でも奏でる芸術ですので」

 

 私の知る限り、北宇治に不真面目な部員はいない。程度の差や熱量の差はあれど、皆全国大会金賞を掲げて努力している。けれど、今年出られないというのを既定路線かのように考えている部員がいるのも事実だった。そういう部員が決して真面目に練習していないかと言えばそうではないが、どうしてもどこかでそういう諦めは出てしまう。最後の最後でそれに足を掬われて泣くのは彼らなのだ。今多少厳しくても、将来泣く子を減らせるならば言わないといけないだろう。

 

「確かに、三年生は主力です。ですが、もしその三年生が本番思わぬアクシデントで出場できなかったら? 交代要員になるのは皆さんかもしれません。その時に後悔しないように、私は今敢えてこのように告げています。人生は最悪の一歩下を行くかもしれませんので」

 

 病気、怪我、事件事故、その他にも色々。本人の望まぬアクシデントが発生するという事は大いにあり得る。部によってはソロを下級生が練習するなど言語道断という部もあるようだが、私に言わせればリスクヘッジが出来ていないと言わざるを得ない。交代要員が本番要員に劣らない力量が無いと、金賞には届かないだろう。それに、最初から諦めているようではオーディション三回制にした意味も無くなってしまう。

 

「では次に行きます。オーボエの加千須さんは剣崎さんの音をもっとよく聞いてください。パーカスの素手辺君もそうです。闇雲に大きな音を出せばいいというモノではありませんよ」

 

 口元を引き締めて、ペンを握りながら部員たちが返事をする。その日、先生が訪れるまでに、音楽室には何度も私の発する「やり直し」の言葉が響いた。そして指導をしながら、同時に私も幾度も気を引き締めさせられた。人に厳しく言うからには、自分は指摘されないように一層の努力をしないといけない。高坂先輩の感じているプレッシャーはこれなのだろう。一番上手い存在でなければ、人に指導をすることの正当性が薄れてしまう。

 

 名選手が名コーチではないように、決して演奏能力と指導能力は一致しないモノではあるけれど、吹部と言う空間ではどうしても名コーチたらんとするならば名選手であることも求められる。それを痛いほど感じているのだろう。この流れは多分、兄さんの存在が加速させた部分も大きい。

 

 修学旅行期間の四日間、私はずっと自分への戒めを何度も何度も繰り返しながら、指揮棒を振り続けた。

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