先輩たちの修学旅行も終わり、もうオーディションまでの時間は数えるほどしかなかった。今年の府大会に出られるかどうかは、このオーディションで決まる。実際、部員の中にこの府大会で終わりだと思っている人は非常に少ないだろう。つまり、関西までは行けるはずだと思っている人が多いという事だ。かく言う私も、油断はしていないとはいえ、贔屓目抜きに府大会止まりは無いと考えている。
そうであったとしても、全国大会に出場したいという想いは大勢の部員が共通して持っているモノだと思う。特に三年生はその想いが強いだろう。一年生だった時に滝先生がやって来て、一緒に三年間やって来たのだ。有終の美をここで、と考えるのも無理はないし、むしろ当然だろうと思う。
そして、晩秋の名古屋で金を獲りたい。三年生は一番そう考えているだろう。お世話になった先生、先輩、加えて兄さんにもその吉報を見せたい。そういう想いを抱いているのは私もよく理解していた。なんだかんだ、右も左もよく分からない中で急進的な改革をする先生と動揺する部活、空気の悪い空間の中で自分たちの味方であり、普段からよく接していた兄さんへの三年生からの支持は根強かった。それこそ、人によっては先生と同等かそれ以上に。
私たちのパートにいる三年生の三人だって、それは大きく変わらないだろう。三人とも良い人で、尊敬できる先輩で、共に部活動を過ごす仲間である。けれど、負けることは出来ない。私には私の誇りやプライドがあるし、私なりの勝ちたい理由もある。誰にだって勝利を譲ることは出来ないし、するつもりもなく、またされることを望む人もいないだろうと思っていた。
ただし、全員が全員そう思っているとは限らない。一年生の中には今回のオーディション合格を半ば諦めている人もいる。それはまぁ、初心者ならばある程度は致し方ない部分でもあると思う。無論推奨するつもりもないし、可能な限り改めて欲しいとも思うけれど、ある程度真実であるのも事実だった。そしてもう一人、思いを同じくしていないであろう人がいる。それは真由先輩だ。彼女は転校生であり、転校先に選んだ理由からして北宇治の音楽自体に思い入れはあるだろうけれど、北宇治生として大会に出ることに凄く強い思い入れはないのだろう。
だから、オーディションに関する変更があった時にあんな風な発言をした。それに彼女はしっかり理解している。自分が合格するのはほぼ確実だという事も、それによって北宇治の誰かが落ちるという事も。自分は本来イレギュラーな存在であり、異分子であるから、自分がいることで落ちる人がいることへ抵抗を感じているのかもしれない。よりにもよって競る相手が部長と二年の中でも中心人物な久石さんであることも彼女にとっては不運だった。
「あ、涼音ちゃん。よかった、ちょっと探してたんだよね」
私は大体個人練習をやる場所が決まっている。個人練自体は学校の敷地内であれば職員室や図書室の近くを除いてどこでやっても良い事になっていた。私は晴れていて暑すぎない日は、藤棚のベンチでやっている事が多かった。音楽室からは少し離れているけれど、特段人が近寄らないそこは思考を廻らせたり集中して練習するには最適だったのだ。なお、ここは兄さんが希美先輩に告白した場所でもあるのだそうで。ある意味で、あの二人には聖地かもしれない。
だから、そこに真由先輩が来た時はちょっとビックリした。
「真由先輩、よくここが分かりましたね」
「フルートの子に聞いたら、ここだろうって。風の通りがいいところにいつもいるって言ってたよ。なんだか涼音ちゃんぽいなぁって思った」
「そうですか?」
「うん。涼しい感じがするでしょ?」
「名前に引っ張られてるだけだと思いますけど……」
涼しい音、という名前は自分を表しているのだろうか。凛とした音という名前の兄さんはそんな感じはある。家だとちょっと適当だけれど、指揮棒を振っている時は紛れもなく名は体を表すという言葉通りだった。名前が人格を引っ張るのだとしたら、私は冷たい女なのかもしれない。そうそう間違いでも無いと思ってしまった。
「呼んでくださったらこちらから伺いましたのに」
「ううん、私が一方的に用事があっただけだし、凄く重要ってわけでも無いから。はい、これ、修学旅行のお土産」
「え、ありがとうございます。すみません、わざわざ頂いてしまって」
袋に入っていたのは藍色のガラス細工だった。東京は浅草にあるお店に行った時に買ってくれたらしい。藍色は私の好きな色だった。ぼんやりとそんな話をしたような記憶があるので、覚えていてくれたのだろう。
「いつも色々と助けてもらっちゃってるから、そのお礼になればなと思って」
「そんな、大層な事はしていません」
「そんな事無いよ。この前だって、ね」
「あぁ、まぁ、あれはあぁするのが最善でしたから」
真由先輩がいつのことを言っているのかはすぐに理解できた。オーディションに関する説明の時のことだろう。
「真由先輩は、大会に出たくないのですか?」
「そんな事は無いけど……」
「では、清良でも同じように辞退を?」
「ううん、今回が初めて。でも、私が出ちゃうと一枠減っちゃう。北宇治でずっと吹いてきた人を押しのけて、私が吹くのは申し訳ないから」
「なるほど」
その考えは納得できたし、理解も出来た。そういう風に思うのはきっと、真由先輩が北宇治の思い出を共有していないからだと思う。もし、真由先輩が最初から北宇治にいたら。兄さんや先輩たちと一緒に一年の時から部活に参加していたら。多分違う考えに至っていたか、そもそもそういう考えにはならなかったんじゃないだろうか。
「別に辞めたいなら辞めても良いと思いますよ、オーディション」
「え?」
「強制的にやるようなモノでもありませんし。大会だって出ないといけない訳じゃないですしね」
「そうなんだ、私てっきり。久美子ちゃんもそういう話はしてなかったから、入部と大会出場、オーディションはイコールなのかなって」
「基本そうであるのは事実ですが、特別な事情や本人の希望があれば別に出なくても良いんですよ。去年も一昨年もそういう事例はありましたし。去年はやむを得ない事情でしたのでまた少し違いますが……一昨年は受験勉強のために、ということでオーディションに参加しない先輩がいらっしゃったと聞いています。なにせ他ならぬ兄さんがその説得を行ったということらしいので。大会のために部活があるのではなくて、部活のために大会があるわけですしね」
多分、部長はこのことを敢えて言わなかったんじゃないだろうか。まぁ積極的に言うような内容ではないけれど、特に真由先輩にオーディションを辞退してほしくないであろう部長は伏せたんだと思う。辞退したい、オーディションになるべく出ない方が良いんじゃないかという想いを真由先輩が持っているのは、部長も理解していると思う。だからこそ隠した。自分の理想の部活と、辞退者がいる部活は違ったから。
でも私はそう悪い話でもないと思う。真由先輩は余計な心労を負わずに部活を楽しめる。惜しくもB編成になってしまった後輩は真由先輩に指導してもらうことで、清良の高度な技術を手に入れて来年、或いは次のオーディションに活かす。そうすることで北宇治全体のレベル上げが出来、来年以降の部活運営が行いやすくなる。特に二年生は人数が多いので、何とかして底上げして来年なるべく多くメンバー入りしてもらい、余計なトラブルを減らせれば最良の結果と言えるだろう。
多くの部員にとってメリットがある。デメリットはユーフォが部長と久石さんだけという不安要素がある。そこは二人に死ぬほど頑張ってもらうしかない。上手くすれば、全国大会に針谷さんの育成が間に合うかもしれないし。後は高坂先輩がベストメンバーにならなくて困るという問題もあるかもしれない。とは言え、高坂先輩に関しては兄さんが大会出てないんだから去年も一昨年もベストメンバーじゃないじゃんで対処できる。残るのはもう、部長の精神問題ぐらいのモノだった。
「オーディションを辞退したければ先生に言えば通ると思いますよ。それが真由先輩のしっかりとした確固たる意思ならば。オーディションは権利であって義務ではないので。その後はB編成の子の指導をしてもらえれば、全体の底上げにもつながりますしね。B編成の子は各種演奏会とか、部活の応援とかに行きますので演奏の機会も多いですし、真由先輩にとっても嬉しいかもしれません。演奏はお好きでしょうから」
「そっか……」
「ただまぁ、部長はお怒りになるかもしれませんが」
「そう、だよね」
「ですので、まぁ出て頂くのが無難ではありますが」
「それは……分かってるんだけどね。久美子ちゃんにとってはその方が良いんだろうって。でも、私が選ばれて嬉しい人なんて、本当にいるのかな」
「それは分かりませんけれど、自分が嬉しいならそれで良いんじゃないですか? 誰かのために部活をしてるのではなく、自分が演奏したいからここへ来られたのでしょう? 誰も嬉しくないと、辞めてしまうんですか? 音楽の価値が無くなってしまうのでしょうか。でしたら、自分が喜べばいいじゃないですか。他の誰が喜ばなくても、自分が喜べば。でなければ、何のために演奏しているのか分からないじゃないですか。自分が舞台に立つのを喜べない場所で、何のために演奏するんです?」
自分がやりたいからここにいるんでしょ、と秋子先輩は言った。その言葉に近いものを、私は真由先輩に言っている。そしてこの言葉は、真由先輩に言うのと同時に自分にも向けたものだった。ソロを勝ち取ってしまったら、尊敬する先輩を傷つけてしまうかもしれない。暴言を吐いたりは絶対にしないと思うけれど、逆に言えば絶対に祝福百パーセントではないだろう。だとしても、自分が納得できるなら、それで良いと思う。思うしかないのだ。間違った行動で無いのに、誰かが傷ついてしまうなら、そうやって自分を守るのも時には大事だと思うから。
「それに、私は嬉しいですよ。真由先輩が上手いのは努力の結果でしょうし、それだけ努力してて、同じ背中を見上げながら演奏している仲間が同じ舞台に立ってくれるなら、心強いじゃないですか」
兄さんを尊敬していると真由先輩は言った。私もそれは同じだ。私たちは同じ背中を追いかけて歩いている。遠い道筋ではあるし、私も真由先輩も多分、音楽の道には進まない。けれどそれ以外の部分でも私たちは同じ背中を見ている。高坂先輩も多分そうだろうし、秋子先輩もそうだろう。部長も、そういう部分があるのかもしれない。そういう意味で、私たちは同志だった。
「実力は努力の証左です。どんな天才でも努力しなければ腐ってしまう。称えられる人ほど、見えないところで必死に努力して研鑽を積んで、その末に今に至っているのだと、私はよく知っていますから」
血反吐を吐きながら天下を獲った人が自分の兄なのだ。知らないわけがない。
「他の人のことは知りません。そもそも全員が喜んでくれるなんていうのは無理な話だと、私は最初から思っています。これだけ部員がいるんです、絶対誰かは反発する。ですが私は少なくとも、あなたと一緒に演奏してみたい。取り敢えず、これだけはハッキリお伝えしておきたかったので申し上げました。まるで北宇治の誰も真由先輩の存在を喜んでいないかのような仰り方でしたので」
「ごめんね、そんなつもりはなかったんだけど」
「えぇ、分かっていますよ。ですが、このままというのも、あまり気分が良く無いモノですから。それで……どうされます? もし本当にご辞退なさるというのならば、諸々話を通せるように手配しますが。部長との繋がりも無いわけではないので。先生を説得できる手札もあります。一応高坂先輩の補佐でもありますしね……あまり信用されていないようですが」
結局部の運営に関する最終責任者は滝先生だ。その先生がうんと言えば、部長や他の部員も黙るしかない。そして先生は兄さんに関して負い目を持っている。あまり人の弱みを突くのは好きではないけれど、いざという時は仕方ない。伝家の宝刀を抜かせてもらうことになるだろう。真由先輩とは親しくしているつもりだし、希美先輩から気にかけてあげて欲しいとも言われている。母や雫さんと同窓でもあるし、同じ背中を見つめる同志でもある。手を尽くす理由はしっかり存在した。
「…………今回は、出てみることにするよ」
「おや、そうですか。それは嬉しいお言葉ですね」
「そう言ってくれる涼音ちゃんを信じようかなって思ったから」
その声には迷いがあるし、その瞳は揺れていた。けれど、少なくとも私の声は彼女の心の中に届いてはいたらしい。実際嘘は言っていないし、本音を話しているつもりだった。完全に想いを受け取れたわけではないし、真由先輩の意思を尊重しているかと言えば微妙だろう。ただ、完全に辞退したいと思っているならすぐに先生のところへ行くはずだ。そうしなかったという事は、真由先輩も本音では辞退したくないと思っているか或いは迷っているはず。私はそう解釈した。全く違うかもしれないけれど、取り敢えず今はこれで良いのだろう。
「ありがとうございます。良い結果になるように、共に頑張りましょう」
「うん、ありがとう」
私が差し出した手を、先輩は少し迷いながら握った。これでいいのかは分からない。この会話が、今後何をもたらすのかも分からない。私の人間分析は兄さんと比べて甘いし、未来への見通しも兄さんと比べて不安定だ。これでいいんだよね、本当に。その言葉を遠い空の下へ投げかけた。返事は返ってこないと分かっているけれど。
北宇治のオーディションは音楽室に一人座り、先生方の前で演奏する形式で行われる。これが北宇治のスタンダードらしいけれど、他の学校ではブラインド式を採用して皆で選ぶこともあるらしい。或いは、先生が後ろを向いて番号を呼ばれ演奏する形式もあるのだとか。どれが一番いいのかは分からないし、どれも一長一短あるのだろう。去年までは一日で終わらせていたオーディションも、今年は流石に人数が厳しいらしく、二日間に分けられた。審査員が一人減ったのも原因かもしれない。結局、審査員は何があろうと滝先生と松本先生の二名で最後まで行くという通達が為された。
私たち木管はパーカッションと同じ一日目のオーディション。金管は二日目にやることになっていた。今日は教室での練習のみになっており、廊下での練習は禁止されている。オーディションは指定された場所があり、課題曲と自由曲でそれぞれ二か所ずつある。そしてそれに先生がどこかをランダムで指定することになっていた。ソロがある時はソロの部分がそれになることが多い。去年までは唐突に兄さんが六つ目の箇所を指定してくることもあったのだけれど、今年はそういう事も無いだろう。
目の前の楽譜には自分の細かいメモが書き込まれていた。課題曲も自由曲も決して簡単なモノではない。吹きこなしていると自信を持って言えるほどの仕上がりになっていると自惚れることは出来なかった。曲を仕上げてくる速度もプロの証なのだとしたら、兄さんはまさにそうだったのだろう。あのスピードで習得してくるのは、普通の学生では遠く及ばない領域にいることを示していた。そう言えば、希美先輩も大分早く習得してくるタイプだったのを思い出す。
「ソロのところ、もう一度」
「「はい」」
私は最後の確認として、一年生二人の演奏を聴いている。自分の演奏に関しては一回通しで確認して、それで終わることにしていた。いつも基本的にはジタバタしても仕方ないと思っている。それに、家の防音室で散々練習してから臨んでいるので、ある程度は大丈夫な自信があった。
「ここは余韻が大切です。スッとあっさりフェードアウトするのではなくて、少しずつ消えていく。無音に近付けていく、その微かな音にも音楽は存在しています。そこを意識してください。あくまでもぶつ切りに消えるのではなく、次なる春の目覚めを予感させるように。よろしいですか?」
「「はい!」」
「課題曲の方も、拍子が変わる所で不安定にならないように気を付けてください。ひとまずこの辺りに注意して演奏するのが、合格への近道だと思います。最後に一つ言うとするなら、少し肩の力を抜いて挑みましょう。力み過ぎてはよい演奏は出来ませんので」
二人とも頷いてはいるけれど、その表情は硬い。誰だってそうなってしまうだろう。かくいう私も緊張していないかと言えばウソになる。多分、顔もぎこちない表情を浮かべているのではないか。オーディションは緊張するものだ。どんなに自信があっても、どれだけ実績があっても、無感動で挑める人なんていないだろう。あの高坂先輩ですら、しっかり緊張を持って挑んでいるのだから。まぁ彼女の場合は後ろから追いかけてくるおっかない同期がいるからかもしれないけど。
「フルート、移動お願いします!」
「はい、ありがとう」
クラリネットの一年生が私たちを呼びに来る。クラリネットはもうすぐ終わりなのだろう。それは私たちの出番が近付いている事を意味していた。一年生にお礼を言った後、沙里先輩は決意を固めた顔でパン、と手を叩いた。
「それじゃあ、みんな移動するよ。オーディションは三年生から、名前順でやるからね。それまでは廊下では静かに待ってること。それと……どんな結果になったとしても、それは皆の努力が無駄になったとか、そういう事じゃないからね。どうしても優劣は付いちゃうけど、それはあくまでも演奏についてだけだから。私にとって、大事な仲間だってことに変わりはないよ」
沙里先輩はそう言って私たちを見回す。負けない、という闘志とパートリーダーとして恨みっこなしでこのオーディションに挑むという固い矜持を感じた。はい、と全員で返事をして廊下に出れば、クラリネットの音が音楽室から聞こえてくる。少し騒がしい心臓を落ち着けるために小さく深呼吸した。
「全力で行こうね」
「はい」
廊下で小さな声でかけられた沙里先輩の言葉は短いけれど、その中に込められている意思はよく分かった。私たちは二人とも、オーディションに落ちるとは思っていない。だからそこにあるのは、どっちがソロになっても構わないから、全力で挑もうという事。希美先輩、沙里先輩と私は先輩に恵まれた。二人とも、後輩と戦うことを厭わないでいてくれる。それはとても幸運な事だと、私はよく知っていた。
自分が待っている間の時間はあっという間だった。自分の名前が呼ばれた時に、静かに閉じていた目を開いて音楽室に入る。ぽつんと置かれた席が、自分の座るべき場所だった。その反対側に先生たちが向かい合わせで座っている。
「では桜地さん、課題曲からお願いします」
先生の言葉が三人しか人のいない音楽室に響き渡る。時計の針がカチコチと音を立てている。開け放たれた窓の向こうには青い空が広がっている。唇を湿らせて、私は自分の相棒を構えた。兄さんが中学の卒業祝いその他で贈ってくれたフルートは、蛍光灯の光を反射してキラキラと銀色の光をチラつかせていた。息を吹き込めば、思った通りの音を奏でてくれる。楽器と一心同体というのは多分、こういう事を言うのだろう。まるで身体の一部であるかのように演奏できている。こういう時は大体上手く行っている時だと、これまでの経験で知っていた。
「では次にソロをお願いします」
家でも学校でも何度も練習してきた場所だ。自分でも演奏の仕方を考え、楽譜と睨み合い、希美先輩からのアドバイスなども受けてやってきた。フルート奏者として追いかけてきたのは希美先輩。その演奏姿が一瞬だけ脳裏によぎる。あんな風に、自由に、美しく、楽しそうに。あの時聴いた、空を飛び回る鳥のような、そんな演奏を。
「はい、ありがとうございます」
先生の手を叩いた音で我に返った。いつの間にかオーディションは終わっていたらしい。何をどういう風に吹いたのか自分でもあんまりしっかりとは覚えていなかったけれど、取り敢えず終わったならそれで良かった。
「ありがとうございました」
頭を下げて音楽室を後にする。どっ、と疲労が襲ってきた。何回やってもオーディションは慣れないものだ。いつもこうして疲れ果てる。人事は尽くしたつもりだ。後は、天命を待つのみ。そう思って私は教室へ向かった。
オーディションの結果発表はその数日後のことだった。クラスの中で、吹部の生徒の顔はどこかぎこちない。まるで入試の後の結果発表を待つ受験生のような顔をして、落ち着かない一日を過ごした。揚羽には生暖かい目で見送られながら、足早に音楽室に向かう姿があちらこちらで確認される。音楽室では机と椅子が既に運び出されて、部員たちが勢揃いしている。これでも早めに来たつもりだったけれど、どうやら遅めだったらしい。
それから少しして全員が揃うと、幹部の三人が前に立った。
「では、オーディションの発表の前に、まずは今週末の練習内容についての確認です」
部長が固い声で話を始める。部長もきっと余裕ではないのだろうというのは、その顔と声からすぐに分かる。心ここにあらず、と言っては言い過ぎかもしれないけれどそれに近い様子だった。
「メンバー発表後は、AメンバーとBメンバーに分かれて合奏を行うことになります。今年からは複数回オーディションを行うので、Bメンバーになった子もAメンバーの曲の練習を続けていくことになります。予定表でAと書かれているのがAメンバーの、Bと書かれているのがBメンバーの、そして全と書かれているのが全体の予定となります。さしあたって今週の土曜日は、午前中は基礎合奏、午後からはAメンバーが音楽室、Bメンバーが多目的教室で合奏と言う形になります」
もう既に季節は六月になっている。この時期からは、休日は朝九時から夕方十七時までの練習が許可されている。居残りは十九時までだ。去年は十九時ギリギリまでトランペットの音が二つ、最上階の教室から響いて来るのが名物だったけれど、今年はどうなるのだろう。その二つの音の一つを出していた高坂先輩にバトンタッチして、話が続いていく。
「外部の先生が来てくださる機会もこれから先、沢山増えていきます。指導が受けられることを当たり前と思わず、与えられた機会を大切に――」
高坂先輩の言葉を遮るように音楽室の扉が開いた。それはすなわち、発表の時が来たことを意味する。部員の意識は一斉に高坂先輩から離れて、入室者である松本先生に向く。
「失礼、話の途中だったな」
「いえ、大丈夫です」
「そうか」
高坂先輩が身を引くと、松本先生はバインダーを手に前に立つ。その瞬間に、音楽室の空気は一気に張り詰めた。その緊張感の中で、先生は一度全員を見渡してから口を開いた。
「では、府大会のメンバーを発表する。上の学年から名前順に読み上げ、その後ソロを発表する。名を呼ばれた者は返事をするように。まず、トランペットから。三年、高坂麗奈」
「はい!」
基本的にトランペットから呼ばれるので、高坂先輩はこの一年、発表で一番最初に呼名される人になるのだろう。それに相応しいとも言える、堂々たる声で返事をしていた。凛と伸ばした背筋には確かな自信を感じる。
「三年、吉沢秋子」
「はい!」
秋子先輩も呼ばれている。チラリと横から伺えば、その表情はまだ硬い。きっと彼女にとってここは通過点で、本当に待っているのはソロの発表なのだろう。それ以降も発表は進んでいく。先生の声はゆるぎなく、迷いなく放たれている。受け止める生徒側には涙を流す人もいれば、喜びを隠しきれない人もいる。悲喜劇の溢れるこの場で、本当の意味で冷静な人など多分いないのだろう。
「続いてチューバパート。三年、加藤葉月」
「……はい」
「二年、鈴木美玲」
「はい!」
「一年、釜屋すずめ」
「え、は、はいっ!」
明確な返事にどこからか「えっ」という声が漏れる。どこの誰の声なのかは分からないけれど、確かな動揺が室内に広がっていた。釜屋さんはメキメキ上達しているけれど、今年始めたばかりの初心者だ。一方の鈴木さつきさんは中学時代から続けている経験者。この結果になった理由は何となく推測できるけれど、こればかりは前に立って指揮したことが無いと分からないだろう。こういう事があるのが、音楽の世界だった。純粋な技量だけではなくそれ以外にも求められているモノはある。
揺れる空気の中、木管の発表が始まる。クラリネットが終われば、次はフルートだった。
「フルート、三年、小田芽衣子」
「はい!」
「三年、高橋沙里」
「はい!」
「三年、中野蕾美」
「はい」
取り敢えずこれで部内の三年生は全員メンバー入りだった。専門外とは言え兄さんの指導を二年以上受け、希美先輩にも教えてもらっていたこの代は強い。それこそ、二年生以下の代とは隔絶したモノがある。
「二年、桜地涼音」
「はい」
「二年、山根つみき」
「はい!」
「以上五名」
つみきさんはピッコロ担当なので、実質フルートを演奏するのは私と三年生三人だけという事になる。一年生二人が肩を落としたのが分かった。他の二年生二人がどういう感情でいるのか、私の位置からは分からない。今は分からなくて良かったと思った。部員の増加、そもそも多い二年生という条件はメンバー入りの難度を明確に引き上げている。今年は去年以上の激戦だった。
「以上、五十五名が京都府大会Aの部に出場する。呼ばれなかったメンバーは私と共にBの部で舞台に立ってもらう。今日、この場で悔しい思いをした者もいるだろう。だが、悔しがる暇はない。オーディションはゴールではなく、通過点だ。ありったけの力を練習にぶつけろ。いいな」
「「「はい!」」」
「よし。続いてソロメンバーを発表する」
私たちにとって、本当の戦いはここからだった。Aメンバーに選ばれた部員が一斉に居住まいを正す。私も改めて背筋を伸ばした。どうなのか、いけたのか。私の逸る気持ちは心臓の鼓動を加速させている。握りしめた手は汗で少し湿っていた。
「クラリネット、三年、高久ちえり」
「はい」
「マリンバ、三年、釜屋つばめ」
「は、はい」
「コントラバス、三年、川島緑輝」
「はい!」
「トランペット、三年、高坂麗奈」
「はい!」
高坂先輩の大きな返事と共に、カツン、と床を叩く靴の音が響く。それは普段喜怒哀楽の内マイナスな感情を表に出さない秋子先輩の、珍しい感情表現だった。私の位置からはその姿が良く見える。握りしめた手は血がにじまんばかりに固く食い込んでいる。噛みしめた唇からは紅いモノが覗いていた。そこには敗北した悔しさと、自身への不甲斐なさへの苛立ちが混在しているように思える。
兄さんの弟子対決は二番弟子にその軍配が上がった。しかし全国まで駒を進められるのなら、チャンスは後二回ある。秋子先輩は諦めるつもりは全くないだろうから、まだまだこの戦いは続いていくはずだ。それに、その高坂先輩の様子を見ればこの勝負がどうなるか分からないという感想はより強まる。高坂先輩はかなり荒い息をしていた。まるで今、凄まじい緊張から解き放たれたと言わんばかりにの荒い息は、マラソンを終えた後に近いかもしれない。
要するに、あのドラムメジャー高坂麗奈を以てしても全く余裕の勝利ではなかったという事だ。むしろ薄氷の上にある辛勝だったのかもしれない。一年生の中にはその高坂先輩の様子を見て目を見開いている人もいる。彼らは思い知ったのだろう。あそこの二人はちょっと異次元の戦いを繰り広げていると。
「ユーフォニアム、三年、黄前久美子」
「はいっ」
部長も名前が呼ばれる。三年生の間にあった空気が少し和らいだ。私もいらぬ火種が出来ずにホッとする。真由先輩と吹きたいと思っているのは本音だけれど、トラブルが起きないに越したことが無いというのもまた本音だった。そしてそれよりも、私は自分の結果が次に来ることに意識が向いていた。
「フルート、二年、桜地涼音」
「はい!」
珍しく出た大きな声に、自分でも驚く。取り敢えず希美先輩と同じ場所に立てる。それが今は嬉しかった。沙里先輩が私の肩をポンと叩く。おめでとう、と口を動かしてくれたことに頭を下げた。
「以上がソロメンバーだ。今年は大会ごとにオーディションが行われる。今言ったメンバーからソロ担当者が変わることもあるかもしれない。チャンスを逃さぬよう、これからも精進するように」
「「「はい!」」」
「先生、ドラムメジャーからも一言いいですか」
松本先生がその問いかけに頷いたのを確認して、高坂先輩は一歩前に出る。その時一瞬ふらついていたので、高坂先輩も大分精神的に疲弊していたらしい。
「ここにいる全員が仲間であり、ライバルです。Aメンバーになった子も、なれなかった子も、京都府大会で終わりと思ってもらっては困ります。北宇治の今年の目標は全国大会金賞。その夢を叶えるためには、生半可な努力では足りません。私は勝ちたい。立華にも龍聖にも、他のどの学校にも、そして自分たち自身にも。北宇治が一番って言われたい。そのためには、ここにいる全員が本気で取り組む必要があります。後になって後悔しないように、全員で、全力を尽くしましょう!」
「「「はい!」」」
様々な感情の渦巻く音楽室の中に、高坂先輩の言葉とそれへの返事が大きく響き渡る。窓の外には六月の空が広がっている。どんどんと上がっていく気温に比例するように、私たちの夏が始まろうとしていた。
北宇治高等学校吹奏楽部2017年度府大会メンバー
◎はソロ
<トランペット>
三年:高坂麗奈◎
吉沢秋子
二年:浅倉玉里
小日向夢
貴水卓
滝野さやか 計6名
<トロンボーン>
三年:赤松麻紀
塚本秀一
福井さやか
二年:葉加瀬みちる 計4名
<ホルン>
三年:森本美千代
瞳ララ
二年:屋敷さなえ
一年:三木美乃 計4名
<低音>
三年:黄前久美子◎
加藤葉月
川島緑輝◎
黒江真由
二年:鈴木美玲
月永求
久石奏
一年:釜屋すずめ 計8名
<サックス>
三年:滝川ちかお
牧誓
二年:内田ベイブ
遠藤正
鈴木靖也
松本きり 計6名
<パーカッション>
三年:井上順菜
釜屋つばめ◎
堺万紗子
二年:北田畝
東浦心子
前田颯介
前田蒼太 計7名
<クラリネット>
三年:植田日和子
高野久恵
高久ちえり◎
松崎洋子
二年:芦田聖子
加藤樹
北山タイル
坂崎彩子
端田麻椰
平沼詩織
一年:義井沙里 計11名
<ダブルリード>
二年:兜谷える
剣崎梨々花
籠手山駿河
一年:加千須みく 計4名
<フルート>
三年:小田芽衣子
高橋沙里
中野蕾美
二年:桜地涼音◎
山根つみき 計5名 以上55名