高坂先輩の号令に大声で返事をしたのはいいものの、それですぐにバシッと切り替えられるようなら人間苦労はしないと思う。音楽室の中にはどこか何とも言えない空気感が漂っていた。オーディションに合格した人、そうでない人の差も当然あるし、二年生の先輩を押しのけて合格した一年生の居心地の悪そうな顔もある。せめてもの救いと言えるのは、三年生が取り敢えず全員合格したことくらいだろう。
今年は一年生の合格者がほとんどいない。去年はそもそも三年生と二年生を足しても結構な枠が空いている状態だったので少し特殊ではあるが、それを除外しても今年の一年生の合格者は少なかった。クラリネットの義井さん、ホルンの三木さん、オーボエの加千須さん、そしてチューバの釜屋さん。以上四名が数少ない一年生だった。
そこで目立つのはやはり初心者だった釜屋さんだろう。残りが経験豊富な部員であることを考えても、異色だった。彼女の幸運は、同じチューバの二三年生が人格的に問題の無い人だったことだろう。何か言われてもおかしくない状況ではあるが、特段そういう気配は見受けられない。
しかし、と考える。この状態がいつまで続くのか。三年生がずっと大会に出るのは多分ほぼ確定だろう。なにせ、この部では三年生とそれ以外の間に明確な差がある。その原因は容易に推察できるし、他の部活でも三年生が一番上手いのは普通なのだが、それにしてもこれは結構顕著に出ている事実だった。今後の争いはソロを除けば一二年生の間で発生するだろう。当然、問題の火種も。
それに、来年以降今年Bだった子たちが戦力としてどの程度仕上がって来るのかが心配でもあった。去年は兄さんと加部先輩が面倒を見ていた。B編成こそ未来への布石と考えていた兄さんは、加藤先輩などが一年生の頃からしっかりと三年生になった時のための練習プランを考えていた。その布石は見事に今実を結んでいる。だが今年はB編成を専任で見てくれる人も指導をしてくれる人もいない。イレギュラーな事例により二年間維持されていた、B編成を専任で見てくれる三年生という存在がいないのはある意味当たり前ではあるが、いない事のデメリットを考えると悩ましい事でもある。
ともあれ、このオーディションは今後の事など諸々課題の種を残しつつ終了した。未来の事を考えるのも大事ではあるが、取り敢えず今は現在に向き合う必要があるだろう。すなわち、自分のパートへの対応である。特に一年生二人は私が面倒を見ている部分も大きかった。フォローは必要であると理解している。
「二人とも、まだこれで終わりではありませんので、気を落とさないように。ここからですよ、ここから」
「「……」」
と言ってもすぐに切り替えることが出来ないも事実かもしれない。今日は余計な事を言わない方が良いのだろうと察した。正論だけ言っても人は動いてくれない。中学時代に、それは嫌というほど学んでいる。それに、受かっている先輩からフォローされてもあまり嬉しくは無いだろう。
「その悔しさをバネにしてください。悔しい出来事に遭遇して、どう振る舞うかで今後が分かれますよ。私だって悔しい思いをした事は何度もありますから。この状況を不遇な結果と捉えるか、次に向けて課題の確認が出来たと思えるかが分かれ目になります。よろしいですか?」
「……はいっ!」
「……はい」
巧美さんは一瞬悔しさを滲ませつつ大きく返事をした。それに続いて陽向さんも頷きながら返事をする。私の言葉をとう受け止めるかも人によって違うだろう。願わくば、少しでも前向きに捉えてくれるのを祈るしかない。今回のオーディションの結果に納得していないとは思えない。二人とも、上級生の実力は正しく把握しているだろう。自分と上級生との差も。それでも感情の処理には少し時間がかかるというだけ。むしろ納得しきれていないのは……とチューバパートに視線をやれば、美玲さんは部長を連れ立ってどこかに行こうとしていた。何となくその目的は察せられる。
向こうも気になりはするけれど、今はこっちが大事だと思考を振り払った。その時、ポンと肩を叩かれる。
「頑張ってね、涼音ちゃん! 応援してるよ」
「成美さん……」
「のぞ先輩の跡継ぐんだ~って頑張ってたのは知ってるから。香奈ちゃんは……つぼ先輩が慰めてるから今は大丈夫だし、こっちのことは心配しないで思いっきり府大会やって来てよ」
彼女の指差す先を見れば、少し落ち込んでいる香奈さんを蕾美先輩が慰めている。彼女は彼女で後輩をしっかり気にしてくれる良い先輩だ。こういう時にあのおっとりとした包容力のような何かは極めて有効に働く。中高と同期で、私ばかり大会に出ていることにどういう感情を抱かれているのか、時々不安にもなる。それでも特に問題なくこれまで関係を築けているのは、蕾美先輩のようにガス抜きをしてくれる人、芽衣子先輩のように時々空気を読まずに場の流れを変えてくれる人、沙里先輩のようにみんなを引っ張ってくれる人などの先輩に恵まれているからでもあると思う。無論、香奈さん自身の人間性の良さもあるだろうけれど。
「もちろんです。皆さんの分まで、しっかりと演奏して見せます」
「その意気でお願いね。次は私も受かるように頑張るからさ」
自分が悔しくないわけではないだろうけれど、それでもこうして私に声をかけてくれることはありがたかった。あまりこういう時に周囲を気にしていない芽衣子先輩やつみきさんが時々羨ましくなることもある。もう少しマイペースに生きられたら、と思いつつ出来ないのが私の人生だった。つみきさんは昨年ピッコロ担当だった沙里先輩からアドバイスを貰っている。沙里先輩からすればまだまだ気になる部分があったという事なのだろう。
「で、ぶっちゃけ私はどこが足りなかった?」
「そうですね、恐らく……楽譜ありますか?」
「あるある、はい」
「ありがとうございます。例えばここの部分ですが、テンポの変化で少し詰まっている部分があるので、そこを直していく必要があるかと。拍の頭の音だけに意識がいきがちなきらいがあります」
「んぁぁ、そこかぁ。な~るほどねぇ……」
ふむふむと頷きながら、成美さんはメモを取っている。来年は彼女も三年生。元々高校から始めた彼女が大会に出れるかは、まだ未知数なところがある。けれどこの調子で成長を積み重ねていけばきっと大丈夫だろう。香奈さんの方も元々私と一緒に中学時代は全国まで行った腕がある。今は上の世代が詰まっているので不遇な感じになってしまっているが、実力はあるのできっと行けるはず。出来れば今の同期四人で来年は大会に。そういう想いが、私の中でハッキリと根付いていた。
六月の梅雨はどこへやら、あまり雨も降らないまま時期は七月に突入しようとしていた。定期テストも迫りくる中、私たち吹奏楽部員は体育館で練習することが増えている。この時期は面談シーズンなので、各教室を使用できないため、体育館で集まって演奏することになっているのだ。しかし公立校故か、当然冷房など付いているはずもなく、私たちは猛暑の中汗と戦いながら演奏をしている。いい加減体育館にも冷房を設置するように要請するべきなのかもしれない。
「吹部、汗だくじゃんね」
「全くです」
お昼休み、私たちはお昼ご飯を食べつつ参考書を開きながらそんな話をしていた。冷房の効いた部屋で練習している軽音部はこの暑さとは無縁の夏を送っているようである。揚羽の色素の薄い茶色の髪がエアコンの風で揺れていた。マニキュアの色は青系の色に変化し、彼女の装いもどこか夏らしい。薄くなったシャツとその短くなった袖からは健康的な小麦色の肌が見えていた。普段は白いけれど、焦げやすいらしい。
「オーディションだぁとか言って、この前までピリピリしてたし、やっぱウチには合わないわ」
「仕方ありませんね。吹部にとっては大きなイベントですから」
吹部に入らないか、という勧誘を彼女にした時も、あまり合ってないと思うからと言って断られた。実際、多分あの空気感に彼女はあっていないと今になれば思う。軽音部のようにほどほどに緩い方が良いのだろう。少なくとも、揚羽が高坂先輩の言うことに大きな声で返事をしている姿はあまり想像できなかったし、想像しても大して似合っていなかった。人には誰しも向いている居場所がある。それが彼女にとっては軽音部だったのだろう。
「なんだっけ、あの転校生のセンパイも色々言われてるの、トイレで聴いちゃったし」
「……真由先輩は、部内の地盤が弱いですから」
「やっぱそう考えると、トイレで悪口言われてなかった桜地センパイって実は優秀?」
「あの人は下級生を地盤にしてましたからね。真由先輩とはまた事情が違いますし。それより、どういうことを?」
「珍しいね、お涼がそういうこと気にするの。普段は言わせておけばいいのです、とか言ってるじゃん」
「私のことなら良いのですが、他の人のことなので。それに、真由先輩とは関係浅からぬ間柄ですから」
自分の知らないところで誰がどういう反応をされているのか、それを知っておいて損は無いだろう。承保は役に立つ。どんな時でも。
「う~ん、なんかソロがどうとかこうとか。あんまりしっかりは覚えてないけど、そんな感じ。部長がソロが良いとか、黒江先輩が吹くとまとまりが~とか。馴染んでないとか空気がどうとか。ざっくりだけど、こんなだったかなぁ。その転校生のセンパイもお涼のことも先輩って呼んでたから多分一年の子じゃない?」
「……なるほど」
空気。それはとても重たいモノだ。希美先輩が戦って一度は敗れてしまったもの。兄さんが時には味方につけ、時には変えようと必死になったモノ。無定形にも拘わらず、私たちの間には確かに存在していて、良きにしろ悪きにしろ行動に影響を与えてくる。それは見えないからこそ厄介だ。どうすればいいのか、どういう状態なのか、誰もハッキリとした答えは分からない。意外な事で変わることもあるし、効果的と思ったことが上手く作用しない事もある。一つ言えるのは、今の北宇治の空気は真由先輩にとって望ましいものではないという事だった。
「ウチとしてはその子たちの言ってることも分かるケドね。ピリピリしてんのってストレス溜まるし、その中で演奏がやだってのもまぁ、そうじゃない?」
「それは……理解しているつもりですが」
「ま、あれっしょ、部長がどうこうより高坂センパイとか副部長がどうこうって言ってたから、その辺もあるんじゃないの? だって、今の吹部の幹部って同中でしょ? 去年もそうだったけど」
高坂先輩が怒る、というのは多分無いだろう。そりゃあ高坂先輩だって部長とやりたいとは思っているだろうけれど、真由先輩のことを評価していない訳じゃないし、むしろ兄さんつながりでそれなりに関係性はある方だろう。私が最初の方に高坂先輩と真由先輩を引き合わせ兄さんの話を振って話すきっかけを作りだしたのがそうなった理由の一つだと思う。ともあれ、決して怒ったりはしないと思う。それに、高坂先輩は滝先生の判断を批判しないだろうし。副部長は……ちょっと分からないが。
「それで思い出したけど、お涼って高坂センパイと仲悪いん?」
「そんな事は無いと思いますが……」
「なら良いけど……。高坂先輩より涼音先輩の方が怖いけど優しいよね~って言ってたよ、その子たち。ほら、修学旅行中に指揮してるとか言ってたじゃん、あの事じゃない?」
「えぇ……。私、優しくしているつもりなんて無いですが」
「お涼、全体練の後指摘した子の事様子見に行ってる?」
「それはまぁ、はい。言いっ放しでは良くないと思いましたので、改善が上手く行っているかどうか最低限確認はしておこうと」
「あー、じゃあそれっしょ。あと、余計な事言わないで淡々とやってるのが良いんじゃない? 高坂センパイ、なんかキレながらやってそうだし」
「……」
否定できないのが悲しいところだった。なるべく耐えてはいるのだろうけれど、どうしてもたまにポロっと何で何回言っても出来ないのか、みたいな言葉が飛び出すときがある。そればっかりは個人の性質と言うかなのだろう。兄さんの教育のおかげか大分辛抱強く待ってはいるけれど、やはり自分が出来る側にいるためか、出来ない側のことはよく分からないのが実情なのだと思う。それに個人の性質が掛け合わさればどうなるかは明確だった。
「今後も何かあったら教えてくださると助かります。あなたのコミュニティーは私よりも広いでしょうし、他学年の情報も沢山知っていそうですので」
「いいけど、別にくだらない話の方が多いよ? 付き合った話とか、別れた話とか」
「それでも構いません。どんなことが必要になって来るか分かりませんし、単純にあなたと話しているのは心地いいので」
「わ~メッチャ嬉しい~大好き~」
「離れてくださいね、暑いので」
抱き着いて来る彼女を引きはがす。香水の甘い香りがふわりと漂った。化粧やそういう美容品の使い方も、私は結構彼女に教わっている。私よりも彼女の方がセンスが良いと常々思っているからだ。私にとってお洒落の師匠は希美先輩と揚羽の二人になるだろう。
「デレモードは破壊力高いわ。それ、彼氏にやってあげなよ」
「やってます」
「真顔で言われると反応に困るなぁ」
希美先輩お手製のお昼ご飯はいつの間にか空っぽになっていた。吹部は何だかんだ体力を使う。お腹もその分空いてしまうので、少し多めに作ってもらっていた。ちゃんと毎回お礼と感想は言うようにしている。料理は感想を言われると嬉しいと、前に兄さんが言っていたのを参考にしていた。
「あ、ゼリー入れてくれてる」
「さっすが傘木センパイ」
「でしょう?」
「なんでお涼がドヤってるのさ」
夏なので保冷材に冷やされたお弁当入れには、冷えたウィダーインゼリーが入っている。部活中にこれで補給してね、という付箋が貼ってあった。前にそういう話をしたのを覚えていて、買ってきてくれたのだろう。お礼のメッセージをLINEしたら、ハートマークのスタンプが返って来た。こういう話を兄さんにすると私への恨みが籠ったメッセージが送られてくる。冗談半分、本気半分のそれが、遠く離れた私たち兄妹を繋ぐ話題の一つだった。
「愛されてるねぇ」
「ありがたい事です」
「その愛されてるお涼に質問なんだけど、これさっぱり分かんない」
「それ、答えは2025ですよ」
「……なんで?」
「ここ、X6+Y4=9Z2を満たすのはx=y=0(mod3)だけになるので、x=3X、y=3Yになるでしょう? 後はこれと同値の式を出せばいいんです」
「あ、なるほどね……。これ、Xが1、Yが2、Zが5?」
「はい、その通りです。流石計算速いですね」
「速くても間違ってたら意味ないんだけどね……あぁそれでN=9・15の2乗で2025か」
「そうしたらX>=2の時どうなります?」
「46656(>2025)で、Nの最小値が2025ね、そっかそっかそういう感じか」
「解決したなら何より。というより、これ定期テストで出ますか?」
「多分出ない。でも勉強しとかないとね~って感じだから。夏期講習も近いし」
彼女の格好が許容されている……とまでは言えないかもしれないが、見逃されているのはその成績が極めていいからだった。塾にも通っているし、大学進学を見据えてしっかり勉強している。部活にかまけてばかりの私も見習うべきなのだろう。
「ウチ、理科大とか考えてるからさ」
「東京ですか」
「そ、前にも言ったけど。どう? 一緒に来る? お涼も東大とか受かるっしょ、多分」
「東京は……あまり選択肢としては考えてなくて。それに何でよりにもよって一番難しいところなんですか」
「いいじゃん、親の出身校」
「そんな動機で受かるなら苦労はしませんよ」
あまり関西から出るというのが想像できなかった。それに、東京に行くという事は一人暮らしをするという事。私の今の状態で一人暮らしをすると、確実に食生活が崩壊する未来しか見えなかった。加えて言えば余計なお金もかかる。実家暮らしの方がどう考えても諸々お金は浮くだろう。なるべく国公立で理系でとなると選択肢は限られてくる。
「ま、それは良いとして、夏期講習だけでも一緒にどう? 夜なら空いてるっしょ。短期集中でドバーっとやればコスパ良いし」
「兄さんに相談してみます」
「決まったら教えて~」
ペンを回しながら、彼女は次の問題に移っていく。私たちは国語より数学や理科の方が得意だった。どうしてか、と聞かれても何となくとしか言えない。それでも明確に解がある数学の方がやりやすいと感じていた。それを雫さんや兄さんに言ったら、国語にも答えはあると言われてしまったのだけれど、そういう事じゃないとも思っている。
きっと「コレ」としっかり定められた道筋さえ辿っていれば良いモノの方が私たちは得意なのだろう。片や呉服屋の娘、片や財閥の娘。どっちも将来を定められていた。片方がそこから抜け出すために東京を目指し、片方はいきなり自由にして良いと言われて宙ぶらりんのまま。自分の人生の解は、当分出そうにも無い。解が出ている問題集の問いたちが、どういう訳か少し羨ましかった。
面談週間が終われば音楽室や各教室での練習も出来るようになる。本番を見据えた合奏体形で座れば、どうにもこうにも隙間が目立った。普段は人数の都合で結構ぎちぎちに座っている音楽室が、五十五人になった今はどこかスッキリして見えた。クーラーも心なしか穏やかな稼働音を出している。
「それでは今日の練習を終わります」
「「「ありがとうございました!」」」
全体練習が終了した後も残っている部員が多い。それはA編成B編成に関係なくのことだった。ただ、三年生や塾に通っている子などは時折足早に帰っていく。十七時に決められた活動時間は終わり、それ以降どうするのかは個人の自由になっている。私もたまに早く帰ることもあった。大体は勉強のためであることが多い。それは去年から変わらない光景だ。
兄さんは高坂先輩と秋子先輩に教えている都合や先生との打ち合わせで一番最後まで残っていることが多かった。二ヶ月に一回くらいの割合で早く帰る時は、大体希美先輩と出かけてた気がする。
「桜地さん、この後残れる?」
「はい、大丈夫ですよ」
「ならお願い。木管の方の練習でアドバイスが欲しいのと、木管金管で分かれてる時の指示をしたいから」
「承知致しました」
今年は高坂先輩との打ち合わせがあることが多くなった。補佐役と言いつつ、木管はやはり私の方に知識や技術があるし、経験も感覚もある。兄さんのように体系的に音楽の指導を受けたわけではないので、詳しいと言っても高坂先輩にも限界はあるのだ。金管畑の人なので、木管やパーカッションはどうしても分からないこともあるのだという。それは私も金管の方は木管ほどは分からないのでおあいこだった。
全体指揮で前に立つ高坂先輩が不足している部分を告げ、私が改善するためのアプローチ方法を提案する。それが木管指導に関しては専らの活動内容だった。それが終われば自主練をしているB編成組の様子を見に行っている。金管やパーカッションは畑違いとは言え、流石にB編成の指導が出来ないほど詳しくないわけではない。元々中学時代は全部のパートを見ていたのだし、一年生の練習くらい教えられる。そういうことをしていると、結局最後まで残ることになるのがいつもの日々だった。去年まで存在したB編成専任の三年生がいない今、私が余裕のある時に技術を伝えていくのが精一杯だ。
「大分上達したと思います。少なくとも、繋ぎの部分は及第点でしょう」
「ありがとうございます!」
「ですが、まだまだ油断しないように。音質は大分良くなりましたので、次は音量を出せるように訓練していきましょう。中田さんの努力次第ではありますが、関西大会前のオーディションでは可能性もあると思います」
「頑張ります!」
「期待しています。では今日は終わりにしましょうか。もうそろそろ遅いですし」
「はい。いつもありがとうございます、こんなに面倒見て頂いて」
「お気になさらず。それが私の努めですから」
ペコっと頭を下げる後輩に軽く手を振って、何でもないというように送り出す。これは中々骨の折れる仕事だった。後輩全員分は流石に面倒を見切れないので居残りで練習をしている組、中でも木管をメインで見るようにしている。金管は日程次第だが予定が合えば高坂先輩や秋子先輩が交代で居残りしつつ面倒を見てくれている。とは言え二人とも三年生なので毎日とはいかない。なので、毎日見れるのは私くらいになり、必然的に仕事量も増えていた。これを全員分やっていた兄さんはどういう頭をしていたのか、妹であってもよく分からない。
残っている後輩や同期を追い出して教室の戸締りをチェックするのも自然と私の仕事になっていた。こういうのは大体最後にいた人がやるモノなので仕方ないだろう。
「失礼します」
夕暮れの人が減った職員室の戸を開いた。疲れていても所作だけは綺麗に。それが私の心がけている事でもある。だから、こういう挨拶でははきはきとした声で話すようにしていた。
「桜地さん、お疲れ様でした」
「先生も、大分お疲れのご様子ですが」
「いえいえ、まだまだこれからです」
とは言いつつ、先生は少し疲れた表情をしている。兄さんがいなくなり、明らかに仕事量は増えていた。その弊害がそろそろ出始めているのだろう。
「どうですか、B編成の生徒たちの様子は」
「そうですね……二年生は何とか這い上がろうとしている子が多い印象です。ただ、その一方で学年問わずもう今年は無理だろうと諦めモードに入っている子もいます。或いは、先輩を押しのけてしまうかもしれない、という可能性に躊躇する子もいるようですね」
「なるほど。そこは、課題になりそうですね。ドラムメジャーとも共有しておきます」
「お願いします。先生から仰った方が高坂先輩も動きが早いと思いますので」
私の言葉に先生は苦笑する。どういう感情から来た表情なのかは分からないし、どういう解釈をしたのかは分からないが、少なくとも言いたい事が伝わったならそれで良かった。
「桜地さんには負担をかけてしまっています。申し訳ありません」
「分かっていて引き受けた事ですから」
「どうしても桜地君がいなくなってから、生徒の様子が分からない事が多いもので。私の怠慢であると理解はしているのですが……」
先生はフレンドリーで生徒との距離が近いタイプの教師ではない。だからこそ、生徒と先生を繋ぐ存在が大事だった。去年までは兄さんがそうしていたのだろう。先生への不満や意見も、多分兄さん経由で届いていたんだと思う。ただ、今の部長や高坂先輩が下の意見を上、つまりは先生に上げているのかと言えば多分そうではないと思う。特に高坂先輩はやって無さそうだ。どうしても兄さんと滝先生の間に存在したあの関係性は、他の人には真似しがたいものであると思う。
「ですから、桜地さんがこうして生徒の様子を伝えてくださるのは大変ありがたく思っています」
「お役に立てているのならば幸いです」
「頼んでしまっている身で言うのもおかしな話ですが、自分の体調には十分気を付けてください。あなたは奏者でもありますので、様々なタスクを抱え込んでしまわないように。そこだけはお願いしたいと思います。でないと、私が桜地君に詰られてしまいます」
それは先生なりの冗談だろうと解釈して、私は小さく笑った。先生は先生なりに生徒のことを気にしてはいる。欠点が無いわけではないし、むしろある方ではあるのだが、それでも悪い人ではない。質問すればキチンと答えてくれるし、正直難癖みたいな意見を出しても向き合ってくれる。オーディションを巡って兄さんは先生と論戦したと言っていたが、逆に言えば自分で迎え入れた指導役とは言え、年下相手にしっかりと論戦をするというのは中々普通の教師に出来ることではないと思う。そこら辺は凄く良い部分だ。
ただ、今は先生と部員の間に距離が出来てしまっている。それを埋めていた橋渡し役がいなくなったのもそうだし、先生への疑問を封殺していくタイプの中間管理職がいるのも面倒な事実だった。職員室を出て、家路を歩く。まだ山の端には茜色が僅かに残っている。夏真っ盛りの夜道はジットリとした暑さを孕んでいた。
家の玄関を開けると、廊下の奥から喜色満面という感じの声が聞こえてくる。多分電話で話しているのだろう希美先輩の声だった。鞄を置いて手を洗い、ダイニングへ行けばウキウキしながら電話を切っている希美先輩がいた。こういう顔や声をしている時の相手は大体一人しかいない。
「ただいま帰りました」
「あ、おっ帰り~」
「どうしました、兄さんですか?」
「うん、そう、そうなんだよ! 帰って来るって、もうすぐ!」
実の妹よりも嬉しそうな声と顔で言っている。まだ渡欧してから数ヶ月だけれど、まるで何年も会っていない最愛の人と再会するかのような喜びようだった。とは言え自分に置き換えてみれば、数ヶ月ぶりに恋人に会えるとなれば私もこんな感じになってしまうだろう。
「それは良かったです。何日に?」
「八日の土曜日だって」
「いつまでいるって言ってました?」
「八月いっぱいまでいるんだって。丸々二ヶ月くらいかなって言ってた。九日から二十五くらいまでは秀塔大附属での仕事が入ってて、そこから数日お休みで、府大会の後から北宇治の指導に入るってよ。あ、そのお休みの間私は凛音と旅行行ってくるから、ご飯はごめんね。後、涼音ちゃんが合宿中に私もみぞれたちと和歌山に行くから、それも覚えておいて」
「分かりました」
別の学校に行くというのはちょっとビックリしたけれど、おかしな話ではないと思う。北宇治に指導に来てくれている外部コーチの橋本先生も別の学校で教えていた。秀塔大附属はここ二年連続で全国を逃している大阪の強豪校だ。二年前北宇治に敗れて全国行きのチケットを奪われている。その雪辱を期して、北宇治のフィクサーだった兄さんを招聘したという事なのだろう。それに、自由曲で演奏するのも兄さんの曲だったはずだ。同じ曲を二年前の駅ビルコンサートで清良が演奏していたのをよく覚えている。
その後に北宇治を指導しても構わないから、何としてでも技術を吸収したいという秀塔大附属の必死の覚悟が見て取れた。
「でも兄さんも良く引き受けましたね」
「うーんなんかね、部長さんがわざわざ訪ねて来たらしいよ」
「……は? ベルリンまで?」
「うん、そうだって。秀塔大って毎年修学旅行が海外らしいんだけど、その途中で凛音の職場にアポとってわざわざ行って、どうかお願いします! って頭下げたとかなんとか。凛音がこの前電話で言ってた。すんごい困惑したらしいけど、熱意に負けて引き受けたんだって」
「な、なるほど……」
どこの学校も必死だ。そう言えば、というか当たり前の話だけれど秀塔大の部長はウチの部長と同じ学年。という事は、北宇治の躍進を見せつけられた世代になるわけだ。二年間悔し涙と共に見つめていた学校の指導者に頭を下げたその心中はいかばかりだっただろうか。例え北宇治の指導をその後にしても良い。その前の僅かな時間でも良いから教えて欲しい。そう頼み込んだのが想像できる。きっと、その部長さんも叶えたかったのだろう。自分たちの、そして先輩たちの悲願を。その姿はどこか中三の時の自分と重なった。
油断なんてこれっぽっちも出来ない。兄さんの帰国は喜ばしいニュースだし、私も嬉しい。けれど同時に意識させられてしまった。どこの学校も必死であり、そしてその全てが報われるか決まる舞台がそう遠くない場所まで近づいているという事に。音楽には本来勝ち負けなんてない。それでも、私たちは勝ちたいと思ってしまう。大人から見れば愚かしく、音楽家から見れば本質とは遠いのかもしれない。けれどそれでも私たちは勝ちたいのだ。その想いだけは、同じなのだと思う。
府大会まで、後一ヶ月だった。