音を愛す君へ   作:tanuu

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今話から主人公がしばし元に戻ります。タイトルの数字が漢数字だったら凛音か希美視点、ローマ数字だったら涼音視点です。また、秀塔大附属の103名+先生2名分の設定は後書き欄にちょこちょこと載せていきます。一応全員分あるのですが、名前以外のパーソナルデータはメインどころだけになります。


希美√第10楽章 青春の価値
第百二十二音 秀塔大附属高等学校吹奏楽部


 夏のうだるような暑さは既に午前中からその力を発揮していた。熱中症警報が各地に発令される中、ここ大阪の街も全くもってその例外となることが出来ずにいる。車の冷房から出る風が室内を涼しくしている一方、窓の外から見える街並みは湯気が立っているようにすら感じられた。

 

 オーディオからは去年の吹奏楽コンクール全国大会のCD音源が流れている。今は丁度関東の学校の演奏が終わりそうだった。

 

「こっちか……?」

 

 初めてくる道なので、ナビを確認しながら右折した。高速道路のすぐ脇にその校舎が見えてくる。学校関係者しか使わなそうな道を通って、駐車場を探した。案内では建物の脇に先生用のスペースがあり、そこに来客用スペースも併設されているらしい。それらしい場所を見つけ、停車した。ナビの住所は東大阪を示している。

 

「日本に帰ってきてそうそう仕事、か……。はぁ……」

 

 なんでこんなところに、しかも日本に帰国してそうそう来る羽目になっているのか。バタンとドアを開け暑さの中に飛び出しながら、数ヶ月前のことを思い出さずにはいられなかった。

 

 

 

 

 

 

 私のパソコンには仕事のメールが大量にやって来る。楽団からのもの、出版社からのもの、音楽関係会社からのもの、大学からのもの、実家関連の事業のもの等様々だ。その中に一通見慣れないアドレスからの通知があった。その文面は要するに会いたいという事である。しかも、仕事のお願いという事で。この時代に対面したいとは中々珍しいということで、その申し出を了承した。向こうは日付が限られているとのことなので、こちらで調整して、大学の私の部屋を用いることにした。自宅はとっ散らかっているので、仕方なかったのである。

 

「桜地先生、お客様です」

「通してくれ」

 

 内線電話で警備室からかかって来た。守衛に要件を聞かれたのだろう。見慣れない東洋人が大学構内へ入ろうとしていたら不審だし、何より私が守衛に案内してもらうように促して置いた。数分後、大学における私の部屋の戸が叩かれる。

 

「お連れしました」

「ご苦労様です」

 

 促されて部屋に入って来たのは女子高生だった。メッセージにあった通り、秀塔大附属高校の制服を着ている。真面目そうな風貌をしている子だった。私の姿を認めてその背筋が一層ピンと伸びる。緊張していることはその仕草や表情からありありと読み取れた。

 

「ようこそ、ベルリン芸術大学音楽学部器楽科へ。私がトランペット専攻担当教授をしている、桜地凛音です。どうぞよろしく」

「お、お招きいただきありがとうございます! また、本日は桜地先生に貴重な時間を取って頂き、本当にありがとうございます!」

「キミ、誕生日は?」

「えっと、四月です」

「あぁ、じゃあもう十八か。私は七月生まれなもので、まだ十八なんだよね。だから学年は一個上とは言え同い年なんだし、そう畏まらないで。キミ、コーヒーはお好きかな?」

「え、あ、はい」

「そうか、それは良かった。どうぞ、おかけになって」

「失礼します」

 

 彼女がガチガチになりながら何とか応接用のソファに座った。コーヒーメーカーから良い香りが漂ってくる。ドイツ圏に来てよかったことは、上手いコーヒーを出す店と売る店が多いことにある。日本食がそろそろ恋しくなってはいるけれど、これはヨーロッパの持っている魅力だった。

 

「私は昔からコーヒー派でね。妹は緑茶だし、彼女は紅茶だしで中々日本で趣味の合う人が少ないのが難点で困っているんだ。さ、どうぞ」

「ありがとうございます」

「熱いから気を付けて」

 

 彼女は両手でマグカップを持つと、ゆっくりとコーヒーを啜った。ストレートでイケる口らしい。これは中々将来有望と思いながら、私も口に含む。舌は味わいながら、目は眼前の彼女を観察していた。どうやら少し落ち着いたらしいことが分かる。いきなり本題に入るよりはこちらの方が良いだろうという判断は正解だったようだ。それに、客人に茶の一つも出せないようでは名が廃る。茶道の師範代だったかの資格を持っている妹には劣るが、それでも多少は心得があるつもりだった。

 

「どう?」

「美味しいです」

「それは良かった。しかし、修学旅行中に来る場所がこんなところで良かったのかな? ベルリンはまぁ、ドイツの中では観光地は少ない方だけれど、ブランデンブルク門とか色々見る場所もあると思うけど。それに、よく自由行動とは言え一人で来る許可が下りたものだ」

「私としては、絶対にお会いしたかったので……。そうやって先生方にも何とかご納得いただけました」

「ならいいけれど……。折角来たんだ、楽しんでいってくれ。住んでると悪口が出てくるが、観光する分には良い国だから」

「はい」

 

 大分落ち着いてきただろうと考えて、本題に入ることにする。

 

「さて……ではそろそろ本題に入りましょうか。ここからは真面目なモードで行かせてもらいます」

 

 彼女は持っていたカップをテーブルの上に置いた。そして意を決したように話し出す。 

 

「はい。まず、最初に改めまして、私は秀塔大学附属高等学校吹奏楽部で部長を務めています、星野あかりと申します。担当はクラリネットです。北宇治高校のクラリネットは、何度も参考にさせて頂きました」

「それは彼らにも励みになるでしょう。是非聞かせてあげたいところです。そうですかクラリネット……秀塔大附属のクラリネット? 失礼、あまり思い出したくない記憶かもしれないけれど、キミは『ダフニスとクロエ』でソロをやっていた子ですか? 二年前の関西大会で」

「……はい、その通りです。そして、覚えていらっしゃるかもしれませんが、私はその大会で……」

 

 その先に隠されている言葉は言わずとも分かった。今の今まで思い出せなかったし、何となくしか覚えていなかったけれど、どこかで見覚えがあると思っていた。あの時のソロをミスした子だと、今思い出す。コンクールでは壇上が遠くてよく顔までは見えなかったけれど、雰囲気が似ていたのでもしかしてと思ったが、案の定だった。

 

「失礼、嫌な事を思い出させてしまいました」

「いえ、もうどうしようもない事ですし。未だに夢に出てくることはありますけど……それでも、前に進むしかないので」

「そうですか……。それで、秀塔大附属の部長さんがどのようなご用件ですか?」

「はい、実は、先日のメールでもお伝えしましたが、お願いがあって来ました。どうか、私たちの指導をして頂きたいのです!」

 

 大きな声で立ち上がった彼女は、バッと私に頭を下げる。その振動でテーブル上のコーヒーが揺れていた。指導をして欲しい、という言葉の意味は簡単だろう。部活の指導をしてくれということだ。どこかで聞いたような言葉だと、二年前の春を思い出す。私の先生のなってくれと言ってのけた高坂さんと、指導員として来てくれと要請した先生。どちらも非常識なお願いだったけれど、そのおかげで今の私がある。二人とも元気にやっているだろうか。高坂さんと妹が仲良くやれている光景があまり想像できないのが不安だった。

 

 そして、目の前の彼女の心情を考える。私は敵側の人間のはずだ。秀塔大附属は二年連続で全国を逃している。かつては諸学校にとって超えられない壁だった関西三強の座は、もうないと言って良いだろう。北宇治と龍聖の躍進は、大阪勢の苦戦という数年前では考えられない情勢を作り出していた。十年前の吹奏楽関係者に京都勢が大躍進と言ったら妄言扱いされるだろう。

 

 その北宇治を作った人間の一人として、私は滝先生と共に認知されている。それは私も色々な方面からの情報で知っていた。当然目の前の彼女も、私が北宇治でどういう存在だったのかを知っている。それでもこういうお願いをしに来たのだ、それはよっぽどの想いがあるという事でもある。

 

「なるほど」

「もちろん、お金はお支払いします。先生の価値にそぐうものかは分かりませんが……それでも部員全員で話し合って決めました。もし来ていただけるなら、何とか捻出します。ウチの部員が103人、一人1万円と顧問の先生が二人いてそれぞれ5万円はなんとかしてくれるみたいです。なので、113万円くらいしかお支払いできませんが……」

「期間は?」

「出来るだけ長くお願いしたいです」

「それは中々無茶苦茶ですね」

「承知の上です、断られることも覚悟で来ました」

 

 私は秀塔大附属のOBでもないし、関係者が勤めているわけでも無い。身内や友人に卒業生はいないし、むしろそこの吹部は現役時代にライバル視していた場所だ。もしOBだったら無料だろうと何だろうと引き受けたかもしれないけれど、縁もゆかりもない学校にそれではちょっと難しい。私だって暇ではないし、やりたいこともある。夏に一ヶ月強帰省するのは規定事項だったけれど、その間は当然ヨーロッパでの仕事は出来ないから、ほとんど金銭が発生しない。

 

 自分を安売りするつもりはないし、それは良くないことだと思っている。私の商品価値を私自身下げるのは最悪の行為だ。だから学生からだろうとなんだろうと貰うべきモノは貰っていく。それが仕事に責任を持つという事だ。110と少し、それは大体楽団が一ヶ月に支払っている額と同じだ。勿論大学やらそれ以外の仕事で私の月収はもっとあるけれど。

 

 楽団一ヶ月分とは言え、吹部の指導員となると拘束時間も長いし仕事量も多い。この私を丸一日拘束していると考えれば、全然足りない。しかも妹のライバル校。全くもって気が進まないのが現状だった。

 

「まぁ、高校生相手ですし、多少は見逃しましょう。渡航費やガソリン代等々請求したいところですが、それも無視で良いとして……長く見積もっても二週間強ですかね」

「それで十分です」

「そうですか。……正直に言えば」

「気が進まない、と仰るのは理解しているつもりです」

「それなら話が早い。報酬があるからと言って何でもかんでも引き受けるわけではありませんので。秀塔大附属は現役時代のライバル校でした。そして今の北宇治を率いているのは私が手塩にかけた後輩です。加えて私の妹も所属している。あなた方に手を貸すことで、北宇治の栄光の妨げになる可能性を私は危惧しています」

 

 私がこんな事を言うのは相手も想定済みだろう。妹云々は知らないとしても、ちょっと考えれば分かる事だ。縁もゆかりもない学校と、出身校。よほど悪い思い出が無い限り後者を選ぶ人が多いだろうし、悪い思い出があったらそもそも指導をしない。それに妹のことも調べれば出てくるだろう。彼女もソロコンに出ているのだし。桜地は決して多い名字ではない。

 

「あなた方が私に協力して欲しい理由は何となく理解しているつもりです。ですが、私があなた方に協力する理由が今のところ特にありません」

「……はい」

 

 彼女は唇を噛みしめた。予想はしていただろうけれど、それでも否定的な反応を返されると辛いモノがあるだろう。彼女は部長として部を説得して代表としてここにいる。この前段階でどういうやり取りが部内で交わされたのかは想像に難くない。ライバル校を導き、自分達が苦汁をなめるきっかけを作った人物に反感を抱く生徒もいた事だろう。私の能力を疑問視する人もいただろうし、報酬にいい顔をしない教師や保護者がいたことも想像できる。それでもここに来たという事は、そういう問題を最低限クリアしたという事でもあった。だからと言ってじゃあいいですよ、とはならない。

 

 彼女たちは私を雇おうとしている。なら、これは大人の話し合いという事になる。雇用関係なのだから当然だ。北宇治の時とは違う。私にも責任が発生するし、彼女たちにも支払い履行義務が生じる。無論、いざとなれば顧問の先生が矢面に立つだろうけれど、それでもここで交渉をしているのは彼女だった。顧問の先生に委ねず自分で来たということは、その辺は理解しているとみなしていいだろう。

 

「その上で聞きます。どうして私を選びましたか? 他にも良い奏者はいたでしょう。日本にもいるはずです。良い指導者や奏者は。まぁトランペットに関しては私が一番であることは事実ですが、何も教えるのが一番上手い奏者である必要性も無いはずです」

「それは重々理解しています。……私は、北宇治高校が羨ましかったし、憎たらしかったです」

「……」

 

 それは、いつか高坂さんに語った話だった。栄光が輝くのは、そこに至るまでに壊した夢の欠片が、スポットライトの光を反射させてるからだと。今私は、北宇治が輝くために壊した夢の欠片と対面している。

 

「なんでこんなに努力してるのに、どうしてってずっと思っていました。勿論、北宇治高校の部員さんが悪くないのは分かってます。去年の『リズと青い鳥』も、一昨年の『三日月の舞』も、とても良かったと思っています。でも、どうしても悔しかった。龍聖もそうですけど……逆恨みだって知りながら、皆どこかで思ってました。どうして私たちじゃないのって。先輩たちが行けたみたいに、このまま行かせてくれって。こんなところで終わりなのって」

「それは、随分と理不尽な話ですね。北宇治にいた身としては」

「分かってます。だから、これはもう思わないようにしました。でもじゃあどうしたら良いのか分からなかったんです。何かを変えないといけない。北宇治も龍聖も、先生が変わったり新しく加わったら大きく変化しました。同じことをして、ウチが上手くなる保証なんかどこにもありません。でも、やるならこれしかないんじゃないかって、そう思ったんです。ですから北宇治を変えた立役者の一人である桜地先生にお願いしようと、そう思いました」

「……そうですか」

「私たちはもう後がありません。北宇治の躍進、同時に私たちの没落。これは私たちが一年生の時から始まりました。私たちにとっても大きな賭けなんです。桜地先生がもちろん奏者として素晴らしいご活躍をされていて、北宇治でも同様に活躍されていたのは知っています。でも実際どのくらいが桜地先生の貢献で、どのくらいが滝先生の貢献なのか分かりません。それでも、きっと世界一なら出来るはずだと思って、ここまで来ました」

 

 分かってはいた。私と先生が北宇治を強くするほど、その陰で泣いている人がいる事は。そんなのはどこにでもある光景で、ありふれたものであって。けれど、当事者からしてみればそんな言葉では片付けられない事だろう。それに、彼女はまだ囚われているのだと思う。二年前のあの関西大会に。言いはしなかったが心のどこかで思っているはずだ。自分がミスをしなければ、もしかしたら全国だったかもしれないと。それが今の彼女の、この悲壮感に繋がっているのだろう。

 

「もちろん私たちの指導の後、北宇治でご指導されても全く構いません。報酬が足りないという事であればどうにか出来ないか、もう一回考えてみます。その他に何か条件があるならば、仰ってください。出来ることなら、何でもします。それでも、どうしても、私たちは全国大会に行きたい。先輩たちの悔しさを晴らしたい。私たちのような想いを、後輩にして欲しくない。悔しくて死にそうだったあの日から、ずっとそう思ってここまで来ました。どうか、お願いします!」

 

 一応北宇治と秀塔大附属のどっちも全国に行ければそれで良いとは言え、利益相反ともなりかねない北宇治での指導も構わないとは相当思い切っている。この辺も反発が凄かったことだろう。自分たちの手の内を、北宇治に全部バラされるかもしれないのだから。それでもこの道を、私を招聘する道を選んだ。その理由は、ここまでで十分に聞かされている。

 

「悔しくて死にそう、か」

「え……?」

「いえ、昔そう言っていた子がいたのを思い出しました。私の大事な、手のかかる弟子です」

 

 写真立てには、高坂さんと吉沢さんの二人、そして中央に私たち同期四人組が映っている。香織先輩たちが卒業して小日向さん達が入って来るまでの間に撮ったモノだった。高坂さんとのツーショットもある。これは卒業式の時のモノだ。死にそうだと言っていた子は、赤い目をしている。今目の前にいる彼女と同じように。

 

 ここで追い返したとしても、全くもって私に不利益は無いだろう。むしろ、北宇治にいる子たちはそれを望む子もいるんじゃないだろうか。私自身、引き受けるメリットはそこまでない。発生する責任と拘束時間を考えれば、むしろマイナスがあるくらいだ。それでも無理だと言ってすぐに追い返すのは気が引けた。わざわざこんなところまで来て、しかも貴重な青春の時間を割いてここにいる。その気概に思うところがあって、今まで話を聞いていた。

 

 そう言えば、と思い出す。高坂さんの依頼を引き受けた時も、正直に言えばあの時の考えではデメリットの方が多かった。結果論から言えば、私は多くのものを二年間の間に得ることが出来たわけだけれども、それも結果論に過ぎない。そうなったからよかったものの、そうなっていなかった可能性だってあった。損得ではなく、かつての自分に高坂さんの姿が重なったから引き受けた。そんな、商売としてはド三流の理由で始めた師弟関係だった。今になってそんな事を思い出す。

 

 膝に置いた彼女の手は震えている。ここまで来るのに緊張もしたし、迷いもあったのだろう。異国の地で知らない人物を訪ねる。手ひどく断られる可能性を考えなかったとは思えない。それでも来たのは、それだけの意思があったから。どうやら、私はあれから数年たった今でもこういうド直球に殴り込みをかけてくる人に弱いらしい。ここでこの高校生の願いを手ひどく断るほど、私は商売人では無かった。

 

 それに、私の後輩たちが、幾ら私が教えたとはいえ数週間だけの秀塔大附属に負けるとは思えない。北宇治をそんな弱い団体にしたつもりは毛頭なかった。秀塔大を全国に行かせて、その上で北宇治も行かせればいいだけの話。不可能と笑う人もいるだろう。けれどそういう人は二年前の北宇治が躍進するなど、全く思っていなかったはずだ。成功を想像できなかった、昔の私のように。つまりそんな愚か者の意見には耳を貸す必要が無いという事でもある。それに私は気が進まないとは言ったが、出来ないとは一言も言っていない。

 

「課題曲は」

「Ⅰです」

「自由曲は」

「『我が第二の故郷に告ぐ』です」

「私の曲、か」

「はい。部員で先生とも話し合って、これにしました」

「なるほど。私は自由曲の作曲者でもあるわけですか。これで断ったら私が悪者ですね」

「そうなると思います」

「ハッキリ言いますね。しかし、嫌いじゃありませんよ、そういうのは」

 

 私は小さく笑った。自分の曲で挑もうとしている子の願いを無碍にするのは、音楽家としては出来ない話でもある。折角自分の曲が良いと言ってくれたのだ。それなら、背中を押してあげるくらいはしても良いだろう。北宇治とどっちも全国に行ってもらえるよう、両校に努力してもらい、私も努めるだけだ。『世界一』の名を信じてきたのだ、それに応えないといけない。引き受けるか否かの最後の欠片が埋まったような気がした。

 

「良いでしょう。まず顧問の先生の連絡先を教えて頂きましょうか。その後、部員全員の名前と顔写真、担当パートと学年、これまでの楽器経験歴、どういう人物像かをまとめてください。期間は七月九日から二十五日までの間。その後は京都府大会以降北宇治高校の指導に入るのであしからず。無論、キミたちについて知り得たことは一切口外しません。この条件が呑めるなら指導を引き受けます」

「ありがとう、ございます!」

 

 彼女は何度も何度も頭を下げた。そして気が抜けたのか、へたり込むようにしてソファに座る。その姿に少しだけ口角を上げながら、私は話を続けた。

 

「ただし、私は適当な指導をする気はありません。大阪府の中部地区大会は?」

「ウチはシードですので、いきなり府大会です」

「それは結構。では府大会のオーディションは?」

「まだです」

「了解しました。オーディションについて何か意見は?」

「お任せします」

「よろしい。ではこちらの好きなようにやらせて頂きます。最後に報酬は後払い、キミたちが全国大会に行けたらお支払いください」

「行けなかったら……?」

「この私が行くのにそんな事はまずありえないと思いますが、万が一にもそうなってしまったらば私の力不足。報酬は結構です。以上、何か質問は?」

「大丈夫です」

「では契約成立です。七月からよろしくお願いします」

「お願いします!」

 

 差し出した手を、彼女はおずおずと握った。それでも言葉はハッキリとしているし、目線はこちらをしっかりと見据えている。緊張はしていても、物怖じはしていない。それが感じ取れた。その姿に頼もしさを感じる。これから忙しくなるし、滝先生にもこういうことになったが構わないかという問い合わせをしないといけない。まぁ拒んだりはしないと思うが、筋は通すつもりだ。また自分から大変な道に飛び込んだわけだけれど、後悔はない。むしろ、爽やかな気分ですらある。

 

 かくして、私は自分の身内にとってライバルとも言うべき秀塔大学附属高等学校吹奏楽部の指導を引き受けたのだった。

 

 

 

 

 

 校舎の入り口を潜りながら、出会いの時を回想する。出会いはいつも突然で、結果はいつも出会う前には分からないモノだった。今回も、高坂さんの時も、もっと言えば希美やその前の大学時代ですらも。トランペットに出会ったのだって偶然であり、突然のことだった。あの日あの時、私が母の部屋の棚の奥にしまってあったヴィクトリカに出会わなかったら、きっと今の人生は歩んでいなかっただろう。

 

「とは言え、希美には申し訳ない事をした。後で埋め合わせはしないと」

 

 そうひとり呟く。やっと帰って来た彼氏が翌日から仕事行ってくるというのを聞いて、送り出してくれる彼女はそう多くはないと思う。キレられても文句は言えない状況であると自覚している。その優しさに甘えないようにしないといけない。

 

 事務室に声をかけると、すぐに先生が二人出てくる。片方は五十代くらいの男性の先生。少し小太りで汗を拭いている。もう片方は二十代くらいの若い女性の先生だった。どちらが顧問なのかは明白である。

 

「桜地先生、お待ちしておりました。私が顧問をしております、北条聡と申します、以後よろしくお願い致します。こちらは副顧問の」

「里見碧です」

「桜地凛音です、どうぞよろしく」

「早速ではありますが、既に部員一同揃っておりますので、お越し頂ければと思います」

「分かりました」

 

 北条先生に案内されて、私は綺麗な校舎の廊下を歩いていく。流石私立高校と言うべきか、規模は大きいし教室の綺麗だった。北宇治の若干古ぼけた学校施設には見習ってほしいところである。聞けば吹部の予算も北宇治より多かったので、万年金欠の公立校としては羨ましい限りである。

 

「何か、気になる所がありましたか」

「いえ、随分と綺麗な学校で。私は公立の出ですので。他の学校に来ること自体ほとんどありませんから」

「最近改修したばかりですからね。その前はもう少し汚かったんですが」

 

 北条先生はそう言いながらハンカチで汗を拭いている。里見先生は対照的に涼しそうな顔をしていた。両顧問についても既に説明を受けているし、北条先生の方とは既に何度か連絡をしていた。流石に部長がずっと窓口と言う訳にもいかない。正式な依頼は当然、顧問の方から学校の了解を得て行われている。いわゆるA編成を北条先生が担当しており、B編成を里見先生が担当するという、まぁ北宇治とそう大差のない指導方法を取っていた。

 

「改めまして今回はお引き受けいただきありがとうございます。星野には断られてもおかしくないのだからとは言っていましたが、私としてもお引き受けいただけるとは……。ですので、最初に星野から聞いたときは椅子から転げ落ちましたよ」

「そんな大袈裟な事ではありませんよ」

「実際転げ落ちてましたからね、本当に」

 

 里見先生の話が事実なら、真面目に椅子から転げ落ちたらしい。随分とコミカルな映像が想像できた。

 

「しかし、先生方としてはよろしかったのですか。私など部外者ですし、むしろこれまで秀大附属の栄冠を阻んできた相手。いきなり指導者として振舞う事に、よくご賛成したものだと私としては思っています」

「彼らに二年連続で全国大会に出させてあげられなかったのは、私ども教員の責任です。どんな結果であれ、彼らがまだ生徒であるのですから、その成功は彼らのもので、失敗や無念の責任は私どもにあります。我々としても、あの子たちには悔しい思いをして欲しくない。そのために、これが必要な事だと彼らが考えたならば、我々はそれを受け入れるまでです。ですから、桜地先生。何卒よろしくお願い申し上げます。私どもにとってはまた来年がある。ですが、彼らにとってはこの一年一日がかけがえのないものなんです」

「理解しているつもりです。精一杯努めましょう」

 

 昔はこれを先生に言う側だった。今は言われる側になっている。私はきっともう、生徒の側には戻れはしないのだろう。元々教師と生徒の中間を揺蕩っていたけれど、今は完全に教師の側に行ってしまった。それはきっとここだけではなく、北宇治でも同じこと。それを意識しないと、距離感を間違えたり指導方法をミスしたりしてしまうかもしれない。もう一度、認識をしっかり自分の中で固めた。

 

「こちらになります」

 

 音楽室の扉の前で、先生方が立ち止まる。鉄製のスライド式ドア。そのすりガラスの向こうには、大勢の人がすわっている気配がある。丁度今は朝のミーティングが終わりかけの時間のようだ。この前会った部長さんの声がする。北条先生がノックすると、部長がお願いしますと入室を促した。それに従って、私は音楽室に入る。

 

 総勢103名。そう聞いていたが、確かに結構な数の生徒がいる。音楽室も北宇治より広く、立派で、設備が整っている。皆が持っている楽器も綺麗に輝いている。私立の財力を思い知らされた。部員は私の顔を認めると、左右小さな声で囁き合っている。期待半分、不安や疑問が半分。そういうバランスの表情に思えた。少なくとも敵対心を持たれていた最初の頃よりずっといい。

 

「本日から約二週間、私たちの指導をしてくださる、桜地先生です。先生は忙しい中、私たちのために来てくださっています。その貴重な時間を無駄にしないように、一分一秒を大切にして、全て吸収するつもりでこれから練習に臨んでください。では先生、お願いします」

「分かりました」

 

 部長に促されて前に立ち、ぐるりと顔を見渡す。そして口を開いた。

 

「皆さん、初めまして。私はベルリンフィル首席トランペット奏者兼ベルリン芸術大学音楽部器楽科トランペット専攻担当教授、演奏家、作曲家、作家等をしている桜地凛音です。どうぞよろしくお願いします」

「「「お願いします」」」

「さて、皆さんは大変優秀な生徒であり部員であると部長や先生方より伺っています。ですので必要ないとは思いますが念のため申し上げておきます。私が来たからと言って、何か魔法のように演奏が上手くなり全国大会に行ける、というような夢物語は存在しません。あくまでも練習するのは皆さんであり、演奏するのも皆さんです。私がいくら必死に努力しようとも、皆さんのやる気が無いようでは意味がありません。それはご理解いただけると思います。あくまでも主体は皆さんであり、私はその皆さんからの要請を受けてここに来ているという事をお忘れなく。私が勝手に来たのではなく、呼んだのは皆さんです。今後、何か指導に関して意にそぐわない結果であったとしても、それは自分の責任ですので。その代わりに私は皆さんが全国大会に出場できるよう、短い時間ではありますが最大限努力致します」

 

 要するに、オーディション落ちても文句言うなよ、という事を限りなく丁寧にオブラートに包んで言ったつもりである。流石高偏差値の学校だけあって、言いたいことは察してくれたようで助かった。

 

「何か分からない事や質問したい事、納得できないことがあったら不平不満を溜めるのではなく私のところへ来なさい。どんな質問でも受け付けますし、それで何かしらの不利益を皆さんにもたらすことはありません。お前の指導のここが意味不明だ、意図を説明しろという趣旨の内容でも構いません。私は皆さんに雇われてきています。雇用主に業務内容を説明する義務がありますので、そこは一切の遠慮をせずにどうぞ。いつでもお待ちしています。よろしいですね?」

「「「はい」」」

「元気が無いですね」

「「「はい!」」」

「いいでしょう。では始めましょうか」

 

 私の言葉に、部員たちは力強く頷いた。




星野あかり:秀塔大附属高校吹奏楽部部長兼クラリネットのパートリーダー。三年生。原作二巻と二年生編後編に登場する秀塔大附属の部員。原作並びに今作において、一年生時に手を骨折した先輩に代わって関西大会でソロを務めるも、緊張により失敗してしまい、それが原因かは不明だが同年全国行きを逃す。原作では翌年に全国行きを果たすも、今作ではその枠を北宇治に奪われており、捲土重来を目指している。元々三年生の交代要員でソロに指名されるくらいには上手い実力者。

真面目で責任感の強い常識人。癖の強い同期や後輩に四苦八苦しながら部を運営している。普段は常識的な事を言うタイプのため、ライバル校の元指導員を呼ぶというとんでもないアイデアを出した際には困惑を以て迎えられたが、地道に説得して招聘に成功した。原作では名字が出てこないので、「星の灯り」という語呂で作者が勝手に創作している。誕生日は4月4日。A型。157㎝。好きな物はコーヒー、コーヒーゼリー、ビターチョコ。苦手な物はホイップクリーム。特技はコーヒーの銘柄当て。趣味は喫茶店巡り。好きな色は茶色。最近の悩みは視力が少し落ちたこと。髪型は黒髪ロング。
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