音を愛す君へ   作:tanuu

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第百二十三音 選択

「では早速始めましょう。既に課題曲と自由曲は選定されて一ヶ月以上経っているという情報を得ています。ですので、その間に十分に全体練習は済んでいる事と思います。よってまず、オーディションを行います」

 

 私のいきなりの宣言に、音楽室の中の空気は張り詰めた。

 

「部長並びに先生方からはお任せするという旨の委託を受けていますので、こちらで方法等決定させて頂きます。一応皆さんがこれまでどういう風にオーディションを行ってきたのかは聞いていますが、それとは別の形式にしますので」

 

 秀塔大附属のやり方は北宇治と同じ方法だ。先生の前で演奏して、それを評価する。顧問の先生が審査担当だった。それはそれで別に悪い方法ではないのだが、時間がかかるという難点もある。相談して編成を考えないといけないからだ。だけれどそれをしている時間も惜しい。既に府大会までは三週間を過ぎている。関西へはほぼほぼ出れる状態ではあるだろうけれど、それでも油断は出来ないし、先を見据えた演奏が今から必要だった。

 

 そして彼らは幸運なことに、自由曲の作曲者がこうして指揮をしている。つまり、どういう風に弄ろうとも著作権には全く抵触しないし、楽譜を書いた人間のイメージ通りに仕上げることが出来るメリットが現状の体制にはあった。

 

「今からくじ引きをしてもらいます。まずはパートリーダーが引いてください。その番号順にパートごとに審査をします。次にパート内でもくじを引いてもらいます。その番号は私には言わないでください。私は音楽室の後方で、皆さんに背を向けて座っています。ですので、各パートは最初のくじ引きの順番で入室し、二番目のくじ引きの順で指定箇所の演奏を行ってください。次の奏者に移るタイミングや追加の課題がある場合はこちらから指示をします。返事等は一切必要ありません。以上、何か質問は?」

 

 指揮台の上からは様々な表情が見える。不安、期待、戸惑い、覚悟。そういう顔を見ながら、私は手を叩いた。

 

「質問が無いならば、早速行動して頂きましょうか。くじは既にこちらで用意していますので、ご安心を。それでは、まずパートリーダーから来てください」

 

 色んな感情を押し込めながら、パートリーダーたちがやって来る。私とは一年しか年の違わない後輩たちだ。けれどこの一年の間にはきっと、年数以上の隔絶した何かがある。揺蕩っている頃が一番楽だったのかもしれない。部員に片足突っ込んでいたから、何かあればそちらに逃げ込めた。

 

 そう考えて、いやと自己反論する。多分そうじゃないだろう。逃げ込めたのは、きっと居場所があったから。居場所を作ってくれる人がいたからだ。香織先輩しかり、優子しかり、そういう人のおかげで、私は真の意味で孤立しないで済んでいたのだろう。指導者という職業は孤独なのかもしれない。しかも私は顧問ではない。頼れる人はいないに等しい。そして私へ生徒が求めるのは完璧かつ優秀な指導者としての私だけだ。その期待に沿うのは何とも疲れる。感情の波を感じながら、内心でため息を吐いた。

 

 

 

 

 

 

 

 審査自体はそう難しいモノではない。時間はそれなりにかかるけれど、求めている音楽の理想像や曲のイメージ像に近づくようにメンバーのバランスを考慮しながら選抜していくだけだ。私のやっていることは機械的に番号を選んでいくだけ。誰がどのくらい上手いのかは部長からの申し送りが来ているが、それも主観に過ぎないし、まだどれが誰の演奏なのか全く分からない。逆にその方が余計な感情は一切入らないので心情的には楽だった。

 

 二、三時間ほどかかりはしたけれど、それでも全パートの演奏は終了する。私の手の中にある紙には、色々思索をしつつ残った五十五の数字が書かれていた。再び音楽室内に全員を集めて発表を行う。私はどの番号が座っているこの中の誰なのかさっぱり分からない。だから落としたメンバーの中に三年生がいるかもしれないし、受かったメンバーの中に初心者の一年生がいるかもしれない。

 

 オーディションになるとどうしてもフラッシュバックする、あの二年前の景色を頭から振り払った。今度は自分が告げる側になったのだという痛みを気にしないようにしながら。

 

「皆さん、お疲れ様でした。これより番号を発表します。自分の番号が呼ばれたならば速やかに起立してください。なお、あらかじめ申し渡しておきますが、私はどの番号が誰なのか一切知りません。また、皆さんの人間関係なども同様です。部長以外の全員と今日初めてお会いし、どのような配慮もする間柄ではないと申し上げておきます。皆さんを信用していないわけではありませんが、皆さんが私を信用できるかは分かりませんので、念のため。では行きます。まずはトランペットから。一番、三番、四番、七番、九番、十番。以上六名。自由曲ソロは七番」

「え……」

 

 え、という声を振り払って次に行った。ある者は戸惑い、ある者はおずおずと、ある者は自信ありげに立っていく。その半面で座りながら泣き崩れる部員もあちらこちらにいる。それが何年生なのかは顔と、内履きの色を見れば分かる。非常に機械的な呼名で彼らの青春の結果が分かれる。それは残酷な事ではあるけれど、私にはそれ以上の方法は分からなかった。

 

 顧問の北条先生は全く目を逸らさずにその結果を注視している。違和感を覚えた顔をしていないので、概ね選ばれた人選には納得している部分があるのだろう。一方でまだ教師になって二年目という里見先生は沈痛な面持ちで見ている。彼女は音楽科ではなく、吹部出身でも無いそうなので、この光景は慣れないのだろう。何年経っても慣れるようなモノではないけれど。

 

「以上、五十五名。このメンバーでこれより府大会に向けての練習に出てもらいます。では、着席。関西大会の審査は再び両顧問の先生方にお任せすることになると思いますが、ひとまずはこのメンバーで今日よりスタートします。ただし」

 

 そこまでは普通の内容だったので、三年生もまぁそうなるよねくらいの顔で聞いていたのだが、そこで区切ったことで全員が不安そうな目をしながら意識をこちらに向ける。泣いている生徒も、そうでない生徒も。

 

「もし不足していると感じた場合は、交代してもらう可能性があります。当日の朝であろうとも。また、万が一不測の事態が生じ当日に選抜メンバーが演奏できなくなってしまった場合には、B編成メンバーより私が指名しますので、B編成になった方も必ずA編成の曲を練習し続けるようにしてください。何かご質問は?」

「あ、あの!」

「はい、どうぞ」

「交代って、どういう事ですか」

「そのままの意味です。大会に出るのに実力が不足しており、かつその人を上回る実力をしているメンバーがB編成内に存在している場合、交代してもらいます」

 

 その言葉に音楽室内が一斉にざわつく。慌てて部長が鎮めようとしたけれど、それを手で制した。部長の顔は、困惑している。流石にいきなりこんな事を言われて無抵抗かつ無感情で「はい、そうですか」と受け入れられる方がおかしいので、仕方がない事ではあると思う。

 

 とは言え、言っておいてなんだがそういう事態はあまり想定していない。次のオーディションまでに進化するならまだしも、そんなにいきなりA編成の子を追い抜かすことはそうそう無いからだ。尤も、そういう事があった場合に困るので言っている。ここは北宇治ではない。名門の吹部には、各地から上手い子が集まる。私立なので、学区に囚われない。先生によれば他県から来ている生徒も多数いるとのことだ。どんな子がいても不思議ではない。

 

「なに、そう難しい事ではありません。A編成の人がB編成の人よりも上手くい続ければいい。ただそれだけのことです。逆に言えば、自分はオーディションで受かったから後は手を抜いていきます、という人にとっては苦痛でしょうけれど、そんな人はいないと私は思っています。そうでしょう?」

 

 曖昧な頷きが返って来る。流石にこれに同意する人はいないけれど、内心どう思っているのかまでは分からない。とは言え、私はこれが最善だと思っていた。B編成の子にはチャンスがあるのだと思わせ続けないといけないし、A編成の子には危機感を覚えて貰わないといけない。

 

 他の学校はどこもあの手この手で上の大会を目指すだろう。それは当然、北宇治も。そしてその事実はイコールで秀塔大附属の勝利を難しいモノにしている。

 

「さて、他に何かご質問は? オーディションへの苦情異論反論抗議等はここで受け付けます」

「はい!」

「何でしょうか」

「トランペットのソロ、どうして私じゃないんですか!」

 

 堂々と目を怒らせながら私に抗議しているのは、気の強そうな三年生の子だった。名前は武田花恋。名簿の顔写真は頭に入っているけれど、こういう声なのかと思う。私は顔より声で覚えているところが大きいので、いつも呼名をしている。今回はまだだったのでこの後しようと思っていたのだが、取り敢えず彼女の声は忘れることは無いだろう。しかし、第一声がどうして私じゃないのか、とは中々の自信家だ。副部長は伊達じゃないという事なのだろうか。

 

「ごめんなさい、キミは何番です?」

「九番です」

「そうですか。七番は?」

「私です」

 

 遠慮がち、とは全く無縁そうな声で手を挙げたのは二年生の女子だった。名前は内藤姫香であっているはず。トランペットは勝気な子が多いというのはよく分かっていたけれど、なるほどここも例に漏れないらしい。

 

「では、武田さん。あなたは自分の方が上手いと?」

「確かにこの子も上手いですけど、私の方が経験も、実力もあるはずです」

「なるほど。確かにそれはある意味では正しいでしょう」

 

 唐突な肯定に、突っかかっていた当人ですら困惑している。一方の内藤さんは梯子を外されたのか、と警戒した顔になった。とは言えこれは別に梯子を外したわけでも無いし、三年だと分かった途端に態度を変えたわけでも無い。私がそんな事で動じたりはしない。恩人も妹も落としてきた。何を今さら、今日はじめましての人相手に動じることがあろうか。

 

「武田さん、あなたに実力が備わっているのは事実です。ですからメンバーに選ばれた。ここで敢えてあなたに聞きましょう。実力とは何ですか?」

「それは……」

「高音が綺麗に出せる事? 大きな音で演奏を続けられる事? 感情豊かに演奏できる事? 指揮者の求めている演奏をすぐに把握して適応させられる事? その複数或いは全て? どうでしょうか」

「全部、ですか?」

「それも正解です。というより、何を選んでも正解です。実力とは、何か一つの要素で決まるわけではありません。そして、場合によっても変わってくる。か細いけど綺麗な音が出せる人が輝く舞台もあれば、音割れ寸前でも大音量で出せる人が輝く舞台もある。指揮者が求めている基準は場合によって変動します。ですから、あなたの実力が私の求める条件に一致していない部分があったという事です。その条件、知りたいですか?」

「……何ですか」

「あなたの演奏の足りない部分。それは丁寧さです。あなた、上手いですがそれ故に細部が甘い。勢いとセンスでゴリ押して、細かい部分を疎かにしている。ですがそれではいけないのです。最後に吹き終わり音が消えるタイミングにまで気を遣いましたか? 繋ぎの部分は? 現状、その点においては七番の内藤さんの方が良かった。ただそれだけの話です。ご納得いただけましたか?」

「…………」

「それでもなおご納得いただけないなら、この後直接お教えします」

「分かりました。……ありがとうございます」

 

 どこか拗ねたような声で彼女は座った。一応自分の足りなかったところには納得してくれたようだ。全く思い当たる節が無い、というわけでも無いらしい。これで全く思い当たる節なんてありません、という態度だと骨が折れるところだったのでまずは助かった。どっちみち後でトランペットパートの指導もしないといけない。私のド専門なので、ここが出来ていないようでは笑われてしまう。

 

「この場で今すぐに聞いておきたい質問はありますか? 個別に聞きたい場合は後で来てください。落とした理由、ソロで無い理由、改善するべきポイント等々お教えします。最後に関してはこの後パート練習でもお伝えしますが」

 

 ぐるりと部員を見渡す。先ほどまであった困惑は、消えている。マイナスな感情も見えないわけではない。しかし、取り敢えず能力面に関してはある程度の信用を得ることが出来たのではないだろうか。スケープゴートではないけれど、副部長の彼女は良い見本になってくれた。キチンと判断基準があり、それを説明する意思があり、説明する能力があり、それは自分達にも納得できる内容である、というのを一気に彼らに伝えることが出来た。

 

「無いようでしたら、B編成の方々は移動してください。先生方、お願いします」 

「分かりました。B組は第二音楽室に移動する。付いてきなさい」

 

 ガタガタと音を立てて、半数近くの部員が移動していく。中には涙を流しながら、友人や後輩に拭われている生徒もいた。それから目を逸らさない。ここで目をそらしてはいけないし、それは全ての部員からの信頼を損ねかねない。私にも覚悟があると示さないといけないのだ。

 

 部長の顔に戸惑いはない。とんでもないのを引き入れてしまったと後悔しているかもしれないが、もうどうしようもないところまで来てしまった。契約した以上、私にも向こうにも全うする義務がある。もうなるようにしかならないと腹を括ったのだろう。そういう表情をしていた。

 

「ではA編成の皆さん、これからやっていきましょう。不満も不安もあるとは思いますが、私は私の考える最善を尽くしていくつもりです。とは言え、それが必ずしも正しいとは限りませんし、皆さんの考えと食い違うこともあるでしょう。その際は、申し出てください。私はむしろもっと皆さんから非難轟々かと思っていましたので、存外あっさり受け入れて頂いて驚いているくらいですから」

 

 曖昧な笑いを浮かべる生徒が数名。これでは橋本先生を笑えないじゃないかと内心憤りながら、私は指揮棒を持った。

 

「始めましょうか。まずは課題曲から行きます」

 

 まだまだスムーズではないけれど、部員は各々楽器を構える。私はそれを確認して、指揮棒を振った。

 

 

 

 

 

 

 

 先生方と翌日の打ち合わせを終えて学校を出た時には既に夜になっていた。今日も熱帯夜になるだろうという予報が出ている。駐車場を目指して歩いていたら、人影が見えた。こんな夜遅くまで残っているのは自主練をしている吹部の部員くらいな物だろう。熱心なのは良いけれど、夜遅いと色々不安なので早く帰るように促すことにした。

 

「キミ、熱心なのは感心だけれどなるべく早く……あ」

「うげ……」

 

 私の姿を見て一瞬嫌そうな顔をしたのは、先ほど私に質問をしてきたトランペットのパートリーダーだった。流石にまだ数時間しか経ってないのに、そうそう印象が良くなったりはしないだろう。

 

「何ですか」

「いや、早く帰った方が良い。もう大分遅いだろうから」

「言われなくてもそうするつもりでした」

「なら良いのだけど」

「と言うか付いてこないでください、なんですか?」

「いや、あなたの帰る方向の途中に私の駐車場があるんだよ」

「……そうですか」

 

 夜の学校は所々にある街頭の灯りしかない。それ以外は暗くなった校舎とグラウンドに闇が広がっていた。自販機の光がぼうっと輝いている。

 

「何か飲む? 長いこと練習して疲れたでしょ」

「別に結構です。私、あなたと馴れ合うために練習してるわけじゃないですし、そんなことして頂く必要もありませんので。私が練習してるのは、自分のためです」

「自分のためだろうと何だろうと、それが回り廻って部のためになっているならそれで良いと思うけれど? それに私だって別に馴れ合うためにやっているわけではないのは同じです。ただ、これはお礼ですよ、お礼」

「お礼……?」

「えぇ。あなたが堂々と全員の前で質問をしてくれたおかげで、他の子も聞きやすい雰囲気が出来ました。その内容と言い方はどうあれ、ね」

「……そうですか」

「そうです」

「じゃあ、取り敢えず貰います。サイダー、頂けますか」

「はい、了解しました」

 

 ガコン、とペットボトルの落ちる音がする。冷たいそれを拾い上げて、私はそっぽを向いている彼女に渡した。

 

「はい、どうぞ」

「……ありがとうございます」

「指摘した部分、しっかり練習しているようですね」

「聞いてたんですか?」

 

 胡乱気な目線が飛んでくる。こっそり盗み聞きしていたのかと言わんばかりの表情に、苦笑しながら訂正する。

 

「聞こえてくる音を聞けば分かりますよ」

「練習しますよ、そりゃ。あんな風に言われれば、しないでどうするんですか。絶対私がソロになるんです」

「関西大会に向けて?」

「その前に奪い取ってみせます。そちらがそういうルールにしたんですからね」

「では期待していますよ。パートリーダーの実力を」

 

 言われなくても、と小さい声で言いながら彼女は鼻を鳴らした。

 

「私たちは、あなたが私たちを上手くしてくれると思ってるから言う事を聞いてます。あなた個人の人格どうこうじゃないですし、実績だって極論どうでもいい。大事なのは、私たちの悲願のために役に立つかどうかです。部長だけがずっと抱えているわけじゃないってこと、覚えておいてくださいね!」

 

 それだけ言うと、足早に帰っていく彼女を見送る。そこは重々理解しているつもりだった。私は彼女たちから支持されているわけではない。指示を聞いてくれるのは、私が有益だと思っているから。そうでないと見なされれば、誰も指示なんて聞かないだろう。

 

 車のドアを開ければ、中から熱気が零れる。エンジンをかけて冷房の風が飛び出しても、中々涼しくはならなかった。そこから家に帰れたのは結局一時間以上後のことだった。秀塔大附属から家までは六十キロ以上ある。そこを毎日往復していくのは面倒だ。とは言え、電車は暑いのであまり乗りたくないし、駅から学校がそれなりに距離があるので歩きたくも無かった。

 

 家に帰ればさっさと風呂に入ってしまう。洗濯物のこともあるので、早く入らないと室内乾燥機を回せないからだ。家に四人もいるので、服の数が多い。夏なので着替えの回数も多く、洗濯機はフル稼働していた。なお、ウチの洗濯系は大体雫さんに任せている。私も出来るけれど、自分以外全員女子なのでちょっと厳しい。

 

 風呂上りに台所へ行けば、冷蔵庫の中にラップをされた夕食が置いてある。夏なので入れておいてくれたのだろう。冷房が点いているとはいえ、こんなのでお腹を壊しても嫌だからありがたかった。レンジで温め、味噌汁は再度加熱してから器に入れる。朝早く出て夜遅くに帰る生活になっているので、今でも夕食は希美が作ってくれている。帰って来たんだから私がやると言ったけれど、「私がやるから」と強く言われて任せっぱなしになっていた。

 

「お帰り」

 

 席に座って一人寂しく食べようとしていたところで、希美の声がした。振り返ると、既に寝間着姿の希美が立っている。高校時代のナチュラルメイクも無い、完全なすっぴん姿を見るのは旅行した時が最後だったかもしれない。日中の外では見れない完全に家の中仕様の姿は、私にとっては新鮮そのものだった。なにせ、同棲とも言えないような状況が数カ月続いていたのだから。むしろ同棲していたのは妹の方だという、なんともおかしな話になっている。

 

「ただいま、ごはんありがとう」

「どーいたしまして。まぁもう慣れちゃったけどね」

 

 希美は何でもないというような口調で言うと、冷蔵庫からアイスを取り出している。そして齧りながら私の前の席に腰かけた。横向きに座っているので、その白い足がチラチラと視界の中で揺れている。

 

「涼音は?」

「さっき乾いた洋服持って行ったら勉強してたよ」

「そうか……根詰めすぎてないと良いけど」

 

 この家にいる年上組三人は全員どちらかというと文系なので、理系の勉強はよく分からない。私はもう微分積分が何だったのかが怪しくなっていた。多分桜地家一族全員集合させても一番優秀であろう妹の頭脳が何に使われているのか、私には知る由もない。流石に私の方が遅いとはいえ、彼女も随分と遅く帰宅しているようだった。

 

「涼音ちゃんはちゃんと調整しながらやってるみたいだし、今のところは大丈夫だと思うよ。テスト前みたいだし、今は頑張り時だろうしね。部活の方は……中々大変みたいだけど」

「具体的には?」

「オーディションは終わったらしいんだけど、B編成のフォローを結構してるみたいで。今年は三年生が全員A編成だから、その代わりにって。ほら、去年までとは違うじゃん?」

「あぁ、そういう……」

 

 確かに去年までは斎藤先輩と加部という路線があった。今年はそれが無いので、B編成組ことチームもなかの精神的な支柱がいない。しかもオーディション三回制という事で、チーム内でも意識の差が出ているのだろう。すなわち、上を狙う二年生と取り敢えず今年はこのままかと思っている一年生と。そこを上手くフォローしつつ技術向上の面倒を見ているということだと解釈した。高坂さんは自分も奏者だし、そこまでの余裕が無いのだと思う。留学を考えているであろう彼女は、言語の勉強もしないといけない。全員余裕が無い中、まだマシな妹がやることになっている、というのが実態だろう。

 

 それが実際どの程度有効に機能しているのかは直接確認しないと分からないが、少なくとも無駄にはなっていないと思う。ただし、それにより見えないところでストレスが溜まっている可能性を私は危惧していた。自分で選んだ道とは言え、いきなり高坂さんの補佐をすることにしたという連絡を貰った時は正直びっくりしたのを覚えている。

 

「それでどう、そっちは?」

「まぁ、何とか滑り出した……と思いたい」

「秀塔大附属、かぁ。あんまりよく知らないんだよね、演奏とか以外は」

「私も今回実際に行ってみて、初めて知ったことが多かった」

「でもまさか、凛音がライバル校に教えに行くなんてね。うらぎりもの~って言われないと良いけどね~」

「誰に」

「高坂さんに」

「……やめてくれそういう事言うの。現実になりそうだから」

 

 容易に想像できて、少しガックリきた。彼女は北宇治への思い入れが強い。正確には、滝先生のいる北宇治への思い入れだと思うが。実際に北宇治そのものへの思い入れが強いのはむしろ黄前さんの方だろう。彼女は自分の所属している団体への帰属意識が強いタイプだと思う。まぁそれは一年目のアンコンで私がそういう風に促してしまったという側面も無いわけではないと思うけれど。

 

「でもさ、勉強にはなったよ」

「何が?」

「将来的に教員免許取れて、どこかの学校に就職して、吹奏楽部の顧問になってさ」

「うん」

「それで全国目指すぞ~ってなったら、絶対北宇治とは衝突しないといけない訳じゃん。もしかしたら南中かもしれないけど、どっちにしても母校と戦うこともあり得るよねって。当たり前ではあったんだけど、そう言えばちゃんと意識するまで考えてなかったなって」

「なにも思わないってことは無理だろうけど、多少は割り切って進むしかない。それに、後輩ではあるけど直接知ってるわけじゃないから」

「分かんないよ~? 母校なら良いけど、子供かもしれないし。『私、滝先生のいる学校で教わるの! お母さんのとこは嫌!』とか言われて別の学校に行った自分の子供と、私が受け持ってる学校の子がぶつかったりしたら、どうなるんだろうとか思っちゃって。バイト先でそんな事ばっかり考えてた」

「ちゃんと仕事しなさい」

「はーい。で、どうするの? 『お父さん、私の学校で手伝ってよ』って頼んでくる娘or息子と『私の学校、今年が正念場なの。お願い』って頼んでくる奥さん。さぁ凛音はどっちを選ぶでしょうか?」

 

 食べ終わったアイスの茶色い棒を私の方へ向けて上下させながら、冗談半分本気半分という感じの口調で彼女は聞いてくる。動かしていた箸を止めて、真剣に考える。そんな未来が来ないのかと言われれば、確かにあり得ない話でもないと思う。相当先、それこそ子供が中高生になるまで十五年くらいかかるので、我々は既に三十後半か四十代だと思う。そんな未来のことは何も分かりはしないので、そうなった時にどうするのかなんてハッキリとした答えは出なかった。

 

「奥さん?」

「う~ん、私としては大正解。でも、お父さん目線だと落第かなぁ」

「手厳しいね」

「私そんな面倒くさい彼女みたいなこと言わないし。何より、そういう時はちゃんと子供を優先してあげてね」

「はい、仰せのままに」

「うむ、よろしい」

 

 満足気に頷く彼女を見ていると、存在しない記憶が脳を駆け巡っていた。結婚式、新婚旅行、子供が生まれて、育って、そんな未来が勝手に頭の中に湧いて出てくる。我ながら大分ヤバい妄想だと思って頭の中からそれらを振り払った。

 

「それにしても学び、ね。まぁ私も学ばされたよ」

「どんな事?」

「教え子の基準を設定しないようにしないといけないってことかな。北宇治基準でやってるとどうしても上手くいかないことはあるし、分かってはいたけど実践するのは難しい。高坂さんより飲み込みが遅いし、吉沢さんよりガッツが無いってね。あの二人を基準に考えてると色々おかしくなりそうだから、止めた。自信無くなって来るよ、私の能力が高かったんじゃなくて、単純に教え子が優秀だっただけなんじゃないかってね。あの二人を基準にしてたら大学でも上手くいかなくなりそうだし、最初の教え子が優秀過ぎるのも考え物だね」

 

 多少これはと思う子がいないわけではない。皆上手なのも事実だ。強豪の名前は伊達ではない。けれど、私の立場を脅かせるような子には結局出会えないままだった。それは今日の秀塔大附属だけではない。大学でも、どこでも。だから私は高坂さんに希望を託した。彼女以外に、それを見出せなかったから。

 

 だからやはり、あの子たちは特異点的な存在なのだろう。なにせ、一応やる気のあるパートリーダーや、その彼女からソロを奪った二年生だって、吉沢さんよりは上手くない。吉沢さんが秀塔大附属に行けば、今すぐ問答無用でソロ行きだ。

 

「確かにそういうのはあるかもね。比較とか、絶対しちゃうだろうし。とは言え今は秀塔大附属の先生なんだし、ちゃんとその子たちの事見てあげないとね。高坂さんとかのことばっかり考えてると、大事な事見えなくなっちゃうよ」

「だね、ありがとう」

「どういたしまして。それで~、丁度良い感じにご飯食べ終わったことだし、旅行で行くところの相談しない?」

「それはもちろん。お皿洗っちゃうからちょっと待ってて」

「了解」

 

 希美はダイニングの近くにある電話台の収納にしまっていた観光ガイド雑誌を取り出している。明日以降も朝早くから仕事だ。まだまだやらないといけないことは多いし、生徒からの信頼も得られているとは思わない方が良いだろう。課題は積み重なっているけれど、ちょっと先に楽しいことも待っている。今はその小さな希望を糧に、日々を過ごしていくことにした。




武田花恋:秀塔大附属高校吹奏楽部トランペットパートリーダー兼副部長。三年生。自分の能力に高い自信と自負を持っており、それ故に後輩に対して威圧的な発言や行動を行ってしまうことが多々ある。ソロを後輩が表立って練習できない空気を作っていた。トランペットは気が強いという俗説通りの性格と言えるかもしれない。実際に常にメンバーに選ばれており、腕は良いのだが、腕にかまけて細部を疎かにする悪癖があり、今回見事にそれが悪い方向に出てしまった形となる。トランペットにおいては常にトップにいたため、ソロ落ちは大きなショックだった。

無論トランペット奏者なので世界一がいかなる実力かは知っているが、それが指導能力とイコールかは疑問視している部分があった。指導員において大事なのは自分たちに有益かどうか、という冷静な判断をする一面もある。良くも悪くも極端な人物なので、能力故に副部長になってはいるが、扱いは難しい。一度懐に入ると面倒見が良いという側面もある。名字は甲斐武田家から、名前は気が強そうな女子の名前を筆者が勝手に考えた。誕生日は11月3日。A型。163㎝。好きな物は韓流アイドル。苦手な物は自分より上手い奏者。特技はピアノ。趣味は推し活。最近の悩みはライブに行く時間が無いこと。髪型は茶髪のサイドテール。
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