「話はまとまりましたか?」
音楽室の隣にある準備室で、私は缶コーヒーを横の机に置きながら言った。あんまりカフェインばっかり飲んでいるのも良くはないのだろうけれど、秀塔大附属の自販機には北宇治になかった私の好きなメーカーの缶コーヒーが置いてある。つい買ってしまうのは、仕方ないだろう。そもそも、北宇治の自販機が貧弱すぎるのだ。私立と公立の差を否応なしに思い知らされる。そもそも校内にコンビニあるのはズルいと思うのだ。
それはともかく、部長の大演説とも言うべき会の間、私は音楽室の隣でその時間待機していた。生徒同士が折角話し合いをしているのに、私がいては余計な気を遣わせるだけだろうし、何よりこういうのは子ども同士でどうにかした方が良いに決まっている。しかも、決してネガティブな内容ではないのだから。という事で、こうして待機したのである。
確かに、残りの指導時間は限られている。しかし、こういう部分をスルーして技術的なところだけを叩きこんでも上に行けるとは思えない。いつも通りではなく、いつもと違う結果を得ようと思うならば、何かを変えていく必要があるのだ。そして今回のそれは、部長の根本にある想いの告白という形で発露されたことになる。
「はい、上手くまとまりました」
「それは何より」
私を呼びに来た学生指揮の三鷹さんに対し、私はそう答えた。無論、混じりっ気なしの本音である。ここで上手くまとまらなかったら困ってしまうところだ。かけられる時間もそう多くはないし、介入できるほど関係が深いわけでも無い。これが北宇治ならもう少しやりようもあるだろうけれど、こうして見守りつつ適度に手助けをするというのも経験だと考えることにしていた。
「桜地先生、ありがとうございました。あかりのこと、これで何とかまとまったと思います。彼女の持っていた不安や懸念を私たちは薄っすら肌で感じつつも明確に分からないままでいました。それを上手く表に出して、私たち全員で向き合うきっかけをくださったのは、先生です。技術の指導だけではなく、部の運営にまでご協力いただき、本当にありがとうございます」
「私は全国大会に行けるような実力を付けさせてくれ、という依頼でここにいます。実力とは単に楽器の上手さだけを意味するモノではないと、私は考えています。いくら上手くても、心ここにあらずではどうしようもない。過去は確かに現在を形作る上で重要な要素ではありますが、過去の中に未来はありませんから。尤も、上手く事態を収拾出来たのはあなたと武田さんのおかげでしょうね」
そして、これまで必死に努力してきた部長自身の尽力の賜物でもある。決して仲の良くなかった相手でも、その実力を認め敬意を払うまでに至る過程は、私の想像ではきっと及ばないくらいのモノであるのだろう。それこそ、血を吐くような想いをしてここにいる。だからこそ、そんな人間の言葉だからこそ、部員の胸には刺さるのだ。
「しかし、あなたがいてくれて助かりました。武田さんだけだと話が進まなかったでしょうから」
「慣れていますので」
「それは頼もしい」
「それに……あかりの気持ちも分かるところがありましたから。花恋も言っていましたが、私たちも悔しい気持ちでは同じでした。だから気付けなかったんだと思います。悔しさが先に来て、それで心がいっぱいになってしまって、彼女の抱えている恐怖に気付けなかった。怖いの、と言われて私たちの間にあった差を初めて理解するなんて、穴があったら入りたい気分です」
彼女は後悔の表情を浮かべる。いくら優秀でも、いくら冷静でも、いくら大人に近くても、まだまだ人生経験の少ない十代なのだ。当然気付けないことも沢山あるし、分からない事だってあるだろう。自分はこうだから、相手も同じ経験をしているんだしきっとこう思うはず、と無意識で考えてしまっても無理はない。むしろ、それは自然な事だと思う。私だって、希美と違って星野さんの不安の正体にまでは近づけなかった。近くにいると、意外と見えないモノがあるのだろう。
「穴に入っている暇などありませんよ。ここからは、今まで以上に星野さんを支えていかないといけません。お互いに心の内を明かして、少しは距離も縮まったことでしょう。連携もしやすくなるはずです。私がいなくなった後の指導は、あなたにも努力してもらうことが多くなりそうですし」
「はい、ご期待に沿えるよう、精一杯頑張ります」
「前から聞きたいと思っていたんですが」
「何でしょうか」
「あなた、何でそんな私を支持してくださるのかよく分からないのですが。部長とはまたベクトルの違うような印象を受けますし、良い機会なので聞いてみようかと」
「私は……単純に先生の楽曲や演奏が好きというのが五割です。クラシック音楽の第一線で活躍されている方ですし、楽器は違いますが演奏も私の好むところでした。そして、私の目標とする奏者を育てた方でもありますから」
「目標とする奏者、ですか」
「はい」
誰のことだろう、高坂さんのことだろうかと考える。高坂さんはソロコン全国に二年連続で出ているし、名前もそれなりに知れている事だろう。おかしな話ではない。
「去年の『リズと青い鳥』でソロを吹いておられた方です」
まさかの回答に三鷹さんの顔を凝視してしまった。なるほど、確かにフルートという意味ではそっちにベクトルが向くのも当然かもしれない。
「私たちは去年、関西大会で北宇治の演奏を聴きました。悔しいほどに、言葉が出ませんでした。普段は色々と話をするあかりも、口から先に生まれてきたんじゃないかと思うくらいにはよく喋る花恋も、他の部員も誰も何も言えなかったんです。悔しさと感動がない交ぜになった感情が湧き上がっていました。あの切ないソロの掛け合いに絶句したのを覚えています。呼吸が出来なくなって、目の前がチカチカしました。その濃密な時間で終わりかと思いきや、そこから続く希望へ繋がる船出。第四楽章にフォーカスした編成。まさに愛と希望の物語。本来原作に引っ張られて悲劇的な要素を強く語られがちなあの曲を、まさかあんな形にするとは思いませんでした」
「それは、どうも」
「当然『リズと青い鳥』は有名な曲ですので、フルートがリズを示しているのも知っていました。でもそれは今までの既存の演奏とは全く違った。愛を抱き、友を見送り、それでもまたそこに追い付こうと走り出す。劣等感と孤独と苦悩を抱えながら、それでもと前を向く。走り続けようとする姿が見えました。それは愚かしくもあり、けれどとても気高かった。あんな風に、自由に、美しく。それが、あれ以来の私の目標です」
こんなぶっ刺さっている人の意見を直接聞いたのは初めてなので、気恥ずかしさもあるが、目の前の彼女は大真面目だった。百人の観客がいたら、誰か一人でも人生を変えるくらい刺さってくれればそれで良いと常々思っていたが、私はその一人に今出会っているらしい。私の編曲もそうだけれど、それに合わせてみぞれと希美が上手く物語を形作ってくれたからこその結果だと思っている。
みぞれを見上げるその背中を、ここに確かに見上げている人がいたのだ。希美自身もこんな風にライバル校の奏者から目標とされているとは、あまり思ってないだろう。「ちゃんと届いているよ、君の演奏は」と帰ったら教えてみようと思った。どんな反応をするのか、少し楽しみではある。
「なるほど、そうでしたか……。ですが、彼女を指導したのが私だと、どうして?」
「吹奏楽の雑誌で見ました。先生は逆にご覧になっていなかったんですか? 北宇治高校の自由曲ソロ二人にインタビュー記事があったはずです」
「あぁ、ありましたね、そんなものも」
忙しすぎて忘れていたが、確かに関西大会の後そういう話が来ていた。別に私が対象ではなかったので、ソロの二人と優子にぶん投げて放置していたので、あまり記憶に残っていない。一応雑誌自体は買ったので家にあるとは思うのだが。その近くに文化祭や私の進退問題など色々あったので印象が薄くなってしまったのだろう。
「そういう理由でしたか」
「はい。ですので、あかりの意見にもすぐに賛同しました。もし差し支えなければ教えて頂きたいのですが、あの方は今何をしておられるんですか?」
「今は音大で吹奏楽指導の道を歩んでいます」
「そうでしたか……」
「家に帰ったら、あなたの言葉を伝えておきましょう。喜ぶと思いますので。さて、長話をしている時間もそうありませんね。引き留めてしまいすみません。音楽室に戻るとしましょうか」
「え、あの、桜地先生とその方はどういうご関係で」
「内緒です」
後ろから慌てて追いかけてくるのをスルーして、私は空になった缶コーヒーをゴミ箱に放り投げる。そして音楽室の扉を開いた。部員は既に勢揃いしている。三鷹さんは後ろから追いついて、私に何か聞きたそうな顔を一瞬見せたが、またいつものようにクールな表情に戻って席に着いた。
ぐるりと部員の顔を見渡す。全体的に非常に良い表情になっているように思えた。想いの丈もそれ自体も違うけれど、同じ目標を目指している存在が放つ気迫のようなものを感じる。これがまとまる、という事なのだろう。この勢いを私はよく知っていた。二年間私の目の前にあったそれが、今はこうしてここにある。
勝った。去年、合宿後の初合奏で二人の演奏を聴いたとき以来の感情が出てきた。普段は滅多に思わないが、私がそう思った時に外れたことはほとんどない。その一回は、最初の世界大会ただ一度だけ。
「では、午後の練習を始めていきましょう」
指揮棒を構える。振り下ろせば流れるような音が奏でられていく。揺らぎのないそれは、間違いなく団結した演奏だった。想いは違うし、思い出も記憶も違う。その数も量も内容も違う。それでも彼らは同じ場所を見ていた。全国大会出場という、一点だけを目指して、彼らは五線譜で作られた道を歩いていく。それがどれだけ険しく、長かろうとも。
私はその演奏に、小さく口角を上げた。
「真日瑠島に現在建設中のテーマパークは概ね完成しています。三月のグランドオープンに向けて、工事は順調に進んでいます」
高校生や大学生の指導をするのが私の主な職務の一つであるが、それだけしていれば良いという訳ではない。自分の将来を考えて引き受けると言ってしまった桜地家の職務であるが、割と時間をガッツリ持っていかれるので面倒極まりない。テーマパークの経営や観光戦略など私にとってはよく分からない事ばかりだからだ。勿論勉強はしているけれど。
「アクアラーク計画は我が社の社運をかけた一大事業です。その趨勢は大きく社の未来を左右します。当主殿の仰る世界戦略にもそぐうものかと」
「沖縄の国内外から観光客数は?」
「先年は国外から二百万、国内も合わせれば八百万を超えています。ここ数年は増加傾向にあり、間もなく一千万人を突破するでしょう。沖縄はまだまだ可能性に満ちています。国外からの客層も見込めるようにと調整を進めているところであります。当主殿のご尽力で、海外ブランドかつ日本未出店の企業からショッピングモールエリアへの出店の打診が来るようになりました」
「それは良かった。計画が順当なのは理解しました。関係各所に十分配慮をしたうえで、安全に気を付けて作業を継続してください」
計画書には希望に満ちた未来像が描かれている。その全てに目を通してはいるけれど、こんなに上手くいくのかと思ってしまうこともある。
「無論です。テーマパークエリアはディズニーリゾートやユニバーサルスタジオジャパンに負けぬ一大観光地とする所存です。既に広告は多く出していますが、好調な反響を受けています。また、グランドオープンには盛大なセレモニーを計画しており、つきましてはご相談が」
「何でしょう」
「セレモニーに際して、演奏をしてもらう団体を探しています」
「なるほど……北宇治にお願いしろと?」
「別の学校でも構いませんが、大会で実績を、最低でもネームバリューから考えて全国大会クラスの大会で実績を残している学校に依頼したく思っています」
「検討はしておきますが、あくまでも相手は学生です。三月は忙しいので断られることも覚悟しておいてください。あと、演奏料はともかく宿泊料と渡航費は負担するように。ただ働きさせようなどとは思っていませんね?」
「……当然です」
「ならば構いません」
渡航費くらいは出すつもりだったかもしれないが、それ以外はケチろうとしていたのが何となく察せられる。高校生の技術だって時間をかけて手に入れたものだ。ただ働きさせて良いわけではない。前に京畿デパートが妹を通して演奏依頼をしたけれど、その時はデパートの商品券を渡している。技術と、それを得るのに費やした時間には敬意と対価を。それが私の唱えている事だった。とかく芸術系は出来るならやってくれでただ働きさせられることが多い。改善したい部分だった。
「それでは、今後ともよろしくお願い致しますね、
「えぇ、よろしくお願いします。暑い中、また遅い時間にどうも御足労さまでした」
家から帰っていく一族の人間を見送って、深いため息を吐く。正直疲れた。部活の指導の空き時間に来てくれという風に調整したらこんな夜になってしまう。秀塔大附属は既に夏休みに突入しており、私は朝から晩まで学校に詰めていた。明後日が私の指導における最後の日だ。それに向けて、調整を続けている。
「お疲れ様~」
ため息を吐いて廊下を歩いていると、扉からひょこっと顔を出した希美が声をかけてきた。その後ろには部屋のど真ん中に置かれたキャリーケースがある。冷房の冷気が扉から漏れていた。おいでおいでという招きに従って部屋に入る。女の子の部屋、というこの雰囲気には何度来ても慣れない。座ってと促されて、彼女のベッドに腰を下ろした。
「希美は……何をしてるの?」
「うん? 準備準備」
「三日後なのに?」
「後三日しかないからね!」
彼女はふんす、と息を吐いてキャリーケースに服を詰め込んでいる。パステルカラーのキャリーケースは昔部の卒業旅行で行ったときにも使っていたモノだった。逆に私との一泊二日の旅行ではバッグを使っていたので、単純に日数の問題なのか、気分の問題なのか。どっちもかもしれない。
「ごめん、こんな遅くに」
「お仕事でしょ? 別にいいよ、気にしないで。元々凛音の家なんだから。それに別の部屋にいると何してても全然気にならないから」
「なら良かった」
親族もザ・女子大生な感じの希美が出迎えたのに大分面食らっていた。私と妹と雫さんしか住んでいないと思っていたところに、いきなり若い女の子が出てきたらびっくりするのも頷ける。今後しばらくこの戦法は使えるかもしれない。と思ったら商社は情報が早いのか何なのか、希美宛に早めのお中元が贈られてきた。贈られた当人は凄く困惑している。私を口説くより外堀から埋めた方が良いという判断なのだろう。面倒な家だ。
「それはそうと懐かしいね、そのキャリーケース」
「最後に使ったのは……伊勢志摩行った時だっけ」
「そうそう」
「確かに懐かしいね、卒業旅行。もう随分前みたいに感じるけど、まだ半年前とかなんだよね」
時間が経つのが早いのは、私も感じている事だった。卒業したのはつい半年前なのに、もう何年も経ったような気がする。
「覚えてる? スペイン村で優子がダウンしてたの」
「あ~、あったねそんなことも」
絶叫系大得意人間のみぞれと、三半規管よわよわな優子が一緒に行動していたせいで、ジェットコースターに大量に乗らされた優子は死にかかっていた。私や希美は全然平気なので大丈夫だったが。あと、ここで判明したのは意外と滝野が絶叫系に乗れないという事だった。妹とUSJに行った時はどうしてたのか聞いたら、カッコつけていたらしい。
「滝野君も死にかかってたし、トランペット組は意外とダメなのかな?」
「う~ん、どうなのか。加部は平気だったし、優子と滝野がダメなだけかもしれない。滝野は変にカッコつけるからなぁ、やめておけばいいのに」
「涼音ちゃんと一緒に出掛けた時は何とか乗り切ったって本人は言ってたけどね」
「あぁ、あれな。全部バレてたらしいぞ。苦手なのにカッコつけてる純一さんカワイイね、って言ってた。我が妹ながら怖いね」
あの時の妹の目が若干サディスティックだったのは今でも覚えている。とは言え、カッコつけてる彼氏の自尊心を守るためにある程度は乗ったけれど、基本は絶叫系に乗らないようなプランで動くようにしたらしい。滝野はそれに気付いていないので、あのカップルは当分妹が主導権を握っていくのだろう。二歳下の子に操縦されているとは言え、本人たちが幸せならそれで良い……のだろうか。
「ダメな男に引っかからないと良いんだけど」
「あぁ、それは大丈夫じゃない? 涼音ちゃん、ダメな人は好きじゃないと思うよ。普段は頼りないこともあっても、肝心な時にカッコいい人が好きなんじゃないかな。何というかこう……ギャップ萌えにきゅんとくるタイプかな」
「なるほど……?」
「少女漫画とか恋愛小説はよく読んでてあぁいう感じの恋に憧れてもいるけど、実際は堅実なのが一番って言ってたよ」
兄弟に話さないことも、女子同士なら話すこともあるのだろう。特に恋愛関連は、その傾向が強いと思う。兄としては大丈夫か不安になることもあるけれど、その辺はしっかり見てくれているようで助かっていた。
「あ、そう言えば水着買ったんだよね、新しく。ほらこれ」
「そうなんだ」
「反応薄くない?」
着ているわけではないとはいえ、水着を見せられてどういう反応をすればいいのか。彼女は私が十代の青年であるという事を忘れていないと良いのだが、大丈夫だろうか。健全な男子大学生には刺激が強い。
「おっかしいなぁ、涼音ちゃんはこれ見せれば良いって言ってたんだけど」
「あの子の恋愛指南を真に受けないでくれ……」
「凛音は私たちの関係、どうしたい?」
「どうしたの唐突に」
「前に大学でそういう話になったから、ちょっと聞いてみたかったの」
希美は私の隣に腰を下ろした。座った彼女の左手が私の右手に触れている。その大きく黒い瞳と長いまつ毛が私の心をざわつかせていた。しなやから輪郭線が私の横に描かれている。責任の取れないことはしないでくれ、という希美のお父さんの言葉が思い出された。理性と衝動が戦っている。別に不誠実な事をするつもりはないし、一生涯共にいてくれることを願っている。なら、別に良いよね? と私の中の感情が囁いていた。私たちの顔がゆっくり近づいていく。そのタイミングで音が鳴り響いた。
「すみませ~ん、洗濯物出来上がり、まし、た……。失礼しました。ごゆっくりどうぞ」
軽くノックした後、妹がゆっくりと扉を開いて部屋に入って来る。そして私たちの状態を目にして、数秒沈黙した。その後またゆっくり扉が閉まっていく。
「あぁ、待って待って、持ってかないで」
「いえ、あの、ゆっくりしててください。私はしばらく部屋にいますから。出来ればもうちょっと夜更けにやって欲しいですが、まぁあの、そういう事もあると存じておりますからはい」
「違う、違うからね涼音ちゃん」
盛大に目を逸らしている妹を、希美は説明しているけれど半分くらい聞いてない様子だった。しかし、今はこうしてこのタイミングで妹が来たから雰囲気が変わったけれど、二人だけだったらもうダメだろう。彼女の全てに溺れていくのが容易に想像できる。ヨーロッパに戻れなくなりそうな自分が、少し心配だった。
私の私生活など全く関係なく、部活の指導は進んでいく。長いようで短い二週間はあっという間に終わりを迎え、最終日となった。今日で契約期間は終了し、秀塔大附属に指導は終わりとなる。私にとっても自分の曲を大会で演奏してくれる団体はここが最初なので、気合は入るし思い入れも出来る。部外者として指導に関わるというのも、生徒と指導者との中間に立つわけではなく完全に指導者サイドであるというのも、いずれも私にとって非常に有意義な経験になった。
演奏の方も大分進化したように思う。むやみやたらで目的意識の無い練習が終わったことで、色々な面で効率のよい練習が行えるようになった。それに伴って元々高かった技術がより高まっている。私による第五楽章にフォーカスした作戦も上手く作用しているようで、めいめいの思い出を曲に反映させることが出来ている。部長とのやり取りを経て同じ目的を目指していくこともできるようになった。全体的にとても素晴らしい状態にあると思う。
時計の針と外の景色が夜を告げている。最後の一音が鳴り響き終わった時に私に去来した感情は、満足感だった。
「クラリネット、非常に良い合わせ方が出来ています。それをキープするように」
「「「はい!」」」
「パーカッションは全体的にしっかりアクセントを利かせられています。良い状態です。トランペットソロ、もう少し感情的でも構いません。追加したオーボエもです」
「「「はい!」」」
「全パート共通ですが、曲の理解とそれに合わせた表現はほぼほぼ出来ています。後は細かいところを詰めていくように。よろしいですか」
「「「はい!」」」
最後の返事が聞こえたタイミングで、時計の針が終了を告げる位置に来た。私なりのまとめをするべく、今一度部員一同の顔を見回した。不安と焦燥に満ちた空気だった最初期の雰囲気は霧散している。程よい緊張と確かな自信が彼らを満たしていた。それは、二年前に見たものと同じものを感じる。
「では、本日を持ちまして私の指導は終了となります。皆さん、全体的に見て非常に上手くなりました。確かな自信を持って、私は皆さんを府大会並びに関西大会へ送り出すことが出来ます。私の曲を、皆さんの大事な一年を預ける自由曲に選んでいただきありがとうございました。これまでよく頑張って来たと思います。皆さんの努力が報われることを、作曲者として祈っています。今回のモノは皆さん専用にカスタマイズしたバージョンになっていますので、是非モノにしてくださればと思います。それでは、お疲れ様でした」
「全員、起立!」
部長の言葉に、部員たちが立ち上がった。
「ありがとうございました!」
「「「ありがとうございました!」」」
「はい、こちらこそありがとうございました。私としても非常に良い経験となりました」
私も頭を下げて、音楽室を後にする。彼らの努力は報われて欲しいと思うし、私の曲を選んでくれたことに対する思いもある。同時に北宇治にも、彼らに負けて欲しくないという気持ちもある。この若干矛盾している気持ちに折り合いをつけるためには、北宇治にも秀塔大附属にも、どっちにも全国へ行ってもらうしかないだろう。そうなってくれれば、私としては理想だった。職員室に戻り、先生方にも挨拶をする。
「北条先生」
「あぁ、桜地先生。これまでのご指導、誠にありがとうございました」
「こちらこそ、ご依頼いただきありがとうございました。良い経験となりました」
北条先生は私の差し出した手を取り、何度も頭を下げた。
「部員たちも、良い顔になっています。先生のおかげです」
「私は手助けをしたまでですよ。彼らは強い。その強さを引き出せたならば、指導者冥利に尽きます」
「星野さんたち三年生も、表情が柔らかくなったような気がします。私はまだまだ新人で、桜地先生に学ぶことが多くありました。私からも、ありがとうございました」
里見先生も深く頭を下げてくる。大の大人から何度も何度もこういう風に感謝されるというのは中々無い経験だったので、どういう顔をすればいいのか、明確には分からなかった。
「桜地先生!」
二人の先生を前に何とも言えない顔で立っていると、大きな声が響いた。人のほとんどいなくなった職員室の入り口に、息を切らせた星野さんが立っている。後ろには武田さんと三鷹さんの姿もあった。それを見た先生二人は、再度私に頭を下げて音楽室へ向かう。顧問として部活終わりの指導に行ったのだろう。幹部三人は少し特別な存在なので、こうして別行動でも許されているようだ。
「おや、お三方。丁度良い。今先生に渡そうと思っていましたが、お三方に渡してしまいます」
「これ……USB?」
「えぇ。ここから関西大会までの練習に関する諸々を入れておきました。全体指導、パート指導、個別の指導と分かれていますのでそれぞれ確認して今後の指導に活かしてください。それと、あなた方のお盆休みは何時から何時までですか?」
「えっと、八月の九から十一です。十二が府大会なので」
「分かりました。では十三は空いていますね?」
「はい」
「北宇治のお盆休みは十三から十五です。という事で、十三日は私が空いていますので、そこで関西大会のオーディションを行ってしまいます」
北宇治のお盆休みと秀塔大のお盆休みが上手くかみ合ってくれたおかげでこれが出来るようになった。全国大会に行けるように、という依頼を受けておいて関西大会に向けてのオーディションは自分で頑張ってくれ、というのは些か不誠実に感じた。
「先生、ですがそれですと契約期間には……」
「あぁ、お気になさらず。これは私の曲を演奏してくれることに対するサービスですよ、サービス。契約期間には含みません。当然、追加の報酬を要求することもありませんから。また、お三方ならばご存知とは思いますが、関西大会の本番前には十五分程度のリハーサル時間がありますね? そこで私が最後の調整を行います。こちらもオーディションと同じ扱いですので、そのつもりで。発表順が決まったらまた連絡致します」
「先生……! 本当に、重ね重ね……」
まだ大会も終わっていないのに、星野さんは既に涙ぐんでいる。その様相にちょっと戸惑った。
「三鷹さん。あなたが今後練習部分を引っ張っていくことになります。指導案を熟読して望んでください」
「はい!」
「あと、あなたのことをあなたの憧れに伝えておきました。大層喜んでいましたよ」
希美は自分の演奏部分にそこまで大きな憧れを抱いてくれる奏者がいる事に、凄く喜んでいた。自分の演奏で誰かの心を動かし、変えることが出来たというのは奏者としては非常に大きな喜びだと思う。ほぼ身内の涼音だけではなく、他校の全く知らない相手でもそういう存在がいた、というのは奏者としての希美にとって大きな救いだったのだろう。
「あの、先生」
「はい」
「色々生意気言って……すみませんでした」
「そうですね、他の先生にはやらないようにしましょう。ただ、私は跳ねっかえりの方が指導していて面白いですから。唯々諾々と指示にだけ従っている意思のない人形みたいな存在よりは、あなたみたいな生徒の方が私は好きですので。あなたもしっかり部長を支えること。良いですね?」
「……はいっ」
武田さんには随分と手を焼かされた。というか、この部のトランペットパートは全員我が強いので、指導はかなり苦労した部分もある。一番素直なのがソロをやってる子というのはどういう事なのだろうか。そのソロの内藤さんですら結構意思が強い。パートリーダーがあんな物言いでも崩壊してないのは、そもそも全員気が強いのであんなのではメンタルにダメージを受けていないからだろう。という事で、パート全員指導は疲れた。それでも、人形みたいにハイハイと頷かれるよりは面白味もある。私も生意気な生徒だったし、高坂さんも別に素直な子じゃない。
それだからか、別に嫌ではなかったし、むしろしっかり意思がある方が指導もしやすかった。色々言われてもめげないメンタルは流石だと思わされる。やはり一番目をかけているのは自分の専門であるトランペットパートなので、本番でも活躍してくれることを願っていた。
「星野さん」
「はい」
「あなたの努力と勇気が報われることを願っています。まだ大会は終わっていません。泣くのは、関西大会の結果発表の後にしなさい」
「はい、頑張ります!」
「その意気です。それでは、二週間と少し、お疲れ様でした」
「「「ありがとうございました!」」」
三人が頭を下げている。それに私も頭を下げて、駐車場に向かって歩き出す。あの時私の門を叩いた彼女の勇気はきっと、未来を変えるために大きな力となったことだろう。彼女は恐怖を知っている。失敗も、弱さも、苦しみも知っている。強いだけの人にはない経験と知識がある。追われる者の怖さも、追う者の辛さも知っている。それでもと、星に手を伸ばした。
その背中は、振る舞いは、部員たちの大きな力になったことだろう。沈み行く泥舟になりつつあり、行方も知らぬ道を歩み始めながらも、どうしたら良いのか分からなかったこの部に、彼女はきっと必要だった。その勇気は、暗夜行路を行く彼らの、灯火だったのだろうから。
秀塔大学附属高等学校・中学校
大阪府東大阪市若江にある中高一貫の私立校。モデルは近畿大学附属高等学校・中学校。私立秀塔大学の附属高校であり、同大学の東大阪キャンパスに隣接した場所にある。東大阪ICのすぐ近くにあり、凛音はそこを使いながら通っていた。全校生徒は3000人のマンモス高校(北宇治は600人ほど)。それ故に吹部にも100人を超える部員が所属している。五階建ての一般棟と十一階建ての特別棟があり、音楽室は特別棟の最上階にある。
最寄り駅は近鉄長瀬駅、或いは近鉄八戸ノ里駅。周囲にはアリーナや大きい公園、幹線道路が存在する。幾つかのコースに分かれており、一番上で偏差値70ほどの進学校。大学への進学率は六割ほどで、選抜は学内での三年間の成績に準拠する。また、残りの四割は外部大学へ進学する。吹奏楽部以外にも、甲子園出場経験多数の野球部や、インターハイ出場の強豪サッカー部、オリンピックを出した水泳部など強豪部活動を多数擁している。他の部が結果を出していることも、予算や学校首脳陣からの目線などと相まって吹部の空気を澱ませていた。
伝統ある吹部のため、当初は十代の若造を指導者として、しかも給金を払って呼び寄せることにOB会や保護者会、学校経営陣の反発が存在した。しかしこのままではどうにもならないと部長が大立ち回りを見せて保護者会とOB会を口説き落とすことに成功した。
秀塔大附属高校編はこれにて完結です。一話挟んでから北宇治の時系列と合流します。