高速道路は思ったよりも空いている。トラックと車が流れていく道の中を、私たちの乗る車も進んでいた。車内にいるのは二人だけ。というより、そもそも二人しか乗れない。両親の代から使っている赤い車体は、何年も同じ輝きを放っている。父親が大学生の頃に手に入れたと聞いているが、どういう経緯なのかは知らない。これでデートの迎えに来た時、母親は何を思ったのだろう。存外気にしてい無さそうだが。カヴァリーノ・ランパンテの黒いシルエットは、二代に渡って恋物語を眺めている。
目的地は広島県。そこまでは車で四時間ほど。暑いので電車移動では無くて車移動にしたのだが、免許を持っているのが私だけなので、運転はずっと私の担当である。左ハンドルなのは良いのだが、ドイツと日本では当たり前だけれど通行が違う。ドイツは右側通行であり、仕事で使っているとそれに慣れているので、免許を取ったのは日本のはずなのに違和感がある。
BGM代わりのラジオからは、よく知らない音楽が流れていた。疲れたり眠くなったりしないのは、自分の若さと隣の希美がずっと話しているからだろう。彼女は元来話し好きなので、こういう時に会話が止まらない。
「優子と夏紀、免許合宿行ったんだって」
「あぁ、なんかそんな事言ってたね。どこに?」
「兵庫。温泉付きだって言ってたよ」
あの二人とはこの前に会っている。というより、ドイツ語の課題とテストをどうにかして欲しいと泣きつかれた。こちとら四年間現地で暮らしていたのだし、大学の授業程度くらいなら余裕だったので、手伝いはしたのだが意外と面倒な課題で辟易した。そこで免許合宿に行くという話をしていたので、取り立てほやほやなのだろう。
「希美は取らないの?」
「今お金貯めてる最中かなぁ。音大行かせてもらって、教習所行きたいからお金くださいっていうのはちょっと出来ないしね」
「確かに、三十万くらいするからなぁ、普通に通うと」
「そうなんだよね。それがネックで、ちょっと時間かかってる。けど、冬くらいには行けるようになると思うから。来年は私も交代するからね」
「大丈夫かなぁ、マニュアル車は面倒くさいけど?」
「うっ、それはお父さんも言ってた……。でもみぞれはマニュアル取ったみたい」
「え、マジで!? 今時珍しい……あぁまぁでも、うん、みぞれならあり得るか……。どんな感じで運転してるんだろう」
みぞれが教習所でどういう感じだったのか、ちょっと見てみたくはある。絶対面白い。横から見ているだけで面白い。ハンドル握らせたらどうなるのか、さっぱり想像できないタイプだ。暴走してる可能性もあるし、凄く慎重な可能性もある。怖いもの見たさで乗ってみたい気持ちがあった。
「免許取ったら雫さんに教えてもらうと良いと思うよ」
「そうなんだ。雫さん、上手なの?」
「凄く。今はもうやって無いけど、昔は普通に峠をすっ飛ばしたりしてたらしいし。走り屋っていうのとはちょっと違うみたいで、勝手に一人でやってたらしいけど。昔、確かまだ小学生くらいの頃かな。隣に乗ってたら変な車に仕掛けられた時もあっさり抜き去ってたしね。。隣に乗せてるとうるさいけど、間違いなく上手くなるから。一発でどんな場所にも駐車できるようになる」
今は随分落ち着いて普通になっているけれど、大学生の頃は大分ぶっ飛んだ人ではあった。多分、私の両親が事故で亡くなったからだろう。そのせいか、免許取り立ての初心者を隣に乗せるとかなり厳しく指導してくる。とは言え、路駐が多いヨーロッパで苦労しないのは間違いなくその指導のおかげだった。
海の香りと潮風が吹きつけてくる。島に行く連絡船の甲板は、灼熱の太陽に照らされていた。海面は熱光を反射してキラキラと輝いている。波の少ない瀬戸内海に鳥が何羽か飛んでいた。船はエンジン音と振動の音を奏でながら海を進んでいた。目指す島はそう遠くない。港からは五分十分で到着する。
島の港からはバスで宿泊所まで行ける。瀬戸内海に浮かぶ一周歩いて三十分ほどの小さな島に来ているのには、希美の強い希望があった。
「ね、見て見て! あそこ!」
「どこ?」
「すぐそこ!」
「あ、ホントだ」
暑さの中でもベンチの下の日陰に見える幾つもの影。それはウサギの姿だった。広島県竹原市大久野島。戦時中は毒ガス作成の工場があったこの地は、今はウサギの楽園となっていた。どこかの雑誌かテレビの番組かで情報を仕入れたのか、ここに行きたいと言われたため旅行先にしたのである。
宿泊所に取り敢えず荷物を置いて出かける。普段とは違って髪を下ろして帽子を被っている姿も様になっていた。コバルトブルーの波打ち際を、白いサンダルで歩いている。海風にたなびくスカートからは、白く綺麗な足が覗いていた。海沿いの林にいる白黒茶色の塊が全部ウサギなのだが、肝心の彼らよりもそれと戯れる彼女の方に視線が行ってしまうのは、男の性なのかもしれない。
「なんか凛音の周りだけメッチャ寄って来てない?」
「確かに。ほいほい。ジッとしてると来るぞ」
「あ、ホントだ。可愛いね」
君の方がね、と思いながらウサギのフワフワした背中を見つめている。悩みなんて無さそうな目をしていたけれど、彼らも頑張って生きているのだろう。この猛暑の中であの毛並みでは暑そうだ。のんびりと島を歩いていく。四方八方どこを見ても海だ。普段内陸にいる身からすると、この景色は新鮮である。ハンブルクは海が側にあったが、今のベルリンは内陸。しかも瀬戸内海と北海では大分違う。
「あんまり海に近づくと濡れちゃうよ」
「大丈夫!」
そう言うと、彼女はいきなりスカートをたくし上げた。いきなり露わになる美脚に心臓を撃ち抜かれながら、何をしてるのかと目を丸くしていると、水着を下に着ているのが分かる。
「水着着てるから」
「だからっていきなりスカートたくし上げないで。心臓に悪いなぁ、もう」
「他に人がいないからやってるんだよ」
「それでも」
「そんなお堅い凛音には……ほらっ」
彼女が掬い上げた水が飛んでくる。やり返さないの? という挑戦的で蠱惑的な顔に夏のせいでは片付けられない暑さを覚えながら、水を掬い返した。逃げながら水をかけ返して来る彼女を追いかけた。水際を私たち二人が走っている。振り向いた笑顔に、何度も何度もトキメキを覚えてしまう。その笑顔が切ないくらいに恋しい。その全てが私に向けられていることに、いつにも増して優越感を覚えた。
海ではしゃいで、ウサギと遊んで、アイスを食べて、瀬戸内の産物に舌鼓を打ち、都会から遠いがゆえによく見える満天の星空を眺めた。普段の生活とは全く違う非日常な時間がとても楽しい。妹が旅行を趣味にしているのもよく理解できる。自分の家も嫌いではないけれど、そこから離れて身の回りにない経験をしたり、景色を見たりする。そこには普段の生活で疲れている心を癒す力もあった。無論、それは一緒にいてくれる人のおかげも大きいだろう。
「ただいま~」
「お帰り。女風呂どう?」
「今の時間は全然人いなかったよ」
テレビのローカルニュースでは、今日の気温が高かったと告げている。お風呂から部屋に戻って来た希美は浴衣姿だった。隣り合わせに敷かれた布団にポスンと腰を下ろしている。長い脚が掛け布団の上に投げ出されていた。お風呂上がりの少し紅い肌は、電球に照らされている。お風呂上りの姿は前の旅行以来、家でも何回も見ているのに、どうしてかこういうところではいつもよりも艶めいて見えてしまう。それは非日常性が為せる技なのだろうか。
「明日、何時くらいに起きようか」
「七時半くらいで良いんじゃないかな」
「凛音はそれで大丈夫そう? 今日も明日も運転してもらってるんだし、もっとゆっくり寝てても良いと思うけど」
「普段もっと寝てないから。むしろ旅行先の方が寝てるまであるし」
「じゃあ、七時半くらいに起きて、それからご飯って感じかな。もしかしたら私だけ先に七時くらいに起きてお風呂行ってるかもしれないけど」
「あぁ、朝風呂も悪くないなぁ、どうしようかなぁ」
「どれくらい眠いか次第、っていうのはどう?」
「それで良いかもね」
旅館の窓際にありがちな謎スペースには旅行雑誌の入ったカバンが置いてある。明日に行きたい場所には付箋が挟まれていた。テレビのデジタル時計は夜十一時を指している。少しの間の沈黙。レポーターが何かの食べ物を紹介していた。カチャ、と彼女が化粧品をしまう音がやけに大きく響いた。
「そろそろ、寝る?」
「ねぇ、凛音」
「うん」
振り返った視界に、はだけた浴衣が映る。ペタンと布団に座った彼女は、真っ直ぐにこちらを見据えていた。
「ホントに寝ちゃうの?」
「ホントにって」
「なにも、しないの? 私、もう十八だよ。結婚だって、出来るんだよ」
口から心臓が飛び出そうだった。告白した時とはまた違うベクトルではあるけれど、同じくらいには心臓が高鳴っている。責任の取れないことはしたくない。だから、これまで意識して考えないようにしてきた領域に近づいていた。けれど何も準備していない訳じゃなかったのは、どこかで期待していたからなのか。私を見上げる瞳は僅かに潤んでいる。桃色の頬は白い肌によく映えた。パチリと電気を消す。それでも部屋は真っ暗にはならない。僅かな外の光で部屋の中は暗いながらもお互いの姿も顔もよく見えた。
彼女の前に腰を下ろして向かい合った。ゆっくりとその身体を抱きしめる。彼女の手が、布団の上で僅かに震えていた。それを上から包むようにして握った。近付けた唇を、彼女は拒まなかった。手の震えがいつの間にか消えて、指と指が絡む。何度もしたはずの口付けは、普段のそれとはまったく違う艶めかしさを帯びていた。
「希美」
「うん」
「愛してる」
「私も」
夜闇に咲く一輪の花。それが彼女だ。灯篭の火に吸い寄せられる虫のように、私は咲き誇るその花に向かって飛ぶ以外に道はない。私の耳には彼女の息と声しか聞こえなかった。理性など、とうに焼き切れていた。
色んな意味で色々あった旅行から帰宅しても、案外暇な時間というのは少ない。カレンダーには毎日何かしらの予定が記されていた。何もしない日、というのが至極苦手な希美はそれでもいいのかもしれないが、私からしてみれば中々大変な日々である。
特に、古い家に住んでいるせいで片付けないといけない問題も多い。水回りや瓦屋根が大丈夫かの確認、家電や使っていない部屋の様子見などなどもしないといけないのだ。最近では乾燥機の調子が悪いという声があるので、近々取り替えないといけない。ガレージのシャッターも動きが悪いので、そろそろ替え時だろうか。両親がここを大改造して住み始めてから二十年近く。色々ガタがきている。手放す気は毛頭ないので、しばらくはこうして適宜修理することになるのだろう。
それはともかく、そんな家の物理的な問題だけではなく、私には他にもやらないといけないことがあった。嫌だ、という訳ではないけれどどうしても緊張してしまうイベントがある。つまりはそう、彼女の家に行くという行事だ。日本に帰って来たのに挨拶もしないのでは不義理なので顔を出すのだけれど、緊張しないわけがない。
自分の今の格好で良いのだろうか、とかお土産はこれで良かったのだろうか、等々考えてしまうことは多い。縁もゆかりもない学校に指導に行く時は全く緊張などしなかったのだが、仕事よりも私の心臓の鼓動を早くするこのイベントに際してどういう顔をすればいいのか。いまだ正解は見えなかった。前に一度訪問した傘木家の前に立つ。今度は隣に希美もいた。家の距離は近いのだが、久しぶりの帰還という事で一緒に来ている。
「これで大丈夫かな?」
「もう、そんな心配しなくても大丈夫だよ、ただいまー」
私の不安など意に介さないように、彼女は玄関の鍵を開けて家の中に声をかけている。まぁ自分の家なので、そんな風になるのは理解できるところではあるのだが、私の気持ちももう少し察してくれると大変助かる次第である。とは言え、玄関先でまごまごしていても仕方ないのも事実なので、背中を押してくれている、と考えれば良いのだろうか。
「お邪魔します」
「希美、もう少し丁寧に開けなさーい、いい加減そろそろこの家も古いんだから」
希美のお母さんが若干呆れた顔で希美に注意している。じゃあリフォームすればいいじゃん、と言って軽く小突かれている姿は、普段の表情というよりは娘としての表情になっていた。
「あらぁ凛音君もいらっしゃい。暑い中ありがとうねぇ」
「いえ、こちらこそ希美さんを預けて頂いておりますので。お二人ともお変わりありませんか」
「最近ちょっと夏バテ気味だけど、何とかね。さ、上がって上がって」
「はい」
希美のお母さんは相変わらず明るい人だった。希美の明るさや朗らかさはここから遺伝したのだろう。押しの強さもあるようなので、そこら辺もお母さんからの遺伝だと思う。逆に頑固なところとかたまに合理的なところはお父さんからの遺伝だと勝手に考えていた。ドアを開けると、傘木家のリビングではお父さんが新聞を読んでいる。
「あー、ウチの匂いだ」
家には匂いがある。私の家、希美の家、他の家もそうだ。自分の家の匂いというのは、どういう訳か忘れないモノで、一回鼻に入るとすぐにソレと分かる。希美は懐かしそうな顔をしていた。半年ほどしか経ってないけれど、これまでずっと親元にいた彼女にとってはそれも大分長い期間だったのだろう。
「あぁ、いらっしゃい」
「お邪魔しています。こちら、よければ」
「すまないね」
前はかなりガチガチな雰囲気だったお父さんも、今日は幾分か柔らかかった。以前は相当真面目な話をしていたので、そんな感じだっただけなのかもしれない。或いは、向こうも多少は緊張していたのだろうか。娘の彼氏に会う時の感情は、後数十年理解できそうにないので正解発表はその時になるだろう。
促されてL字型のソファに座る。長辺の方にお父さんが座っていて、短辺の方に私がいた。斜めに視線が交錯することになる。
「はい、これどうぞ」
「ありがとうございます」
希美がコップに麦茶を入れて持ってきてくれた。自宅から傘木邸までは歩いて十五分ほどなのだけれど、正直かなり暑かったので助かる。七月終わりの日中に出歩くものではないと、つくづく思わされた。
「はい、お父さんも」
「あぁ、ありがとう」
「じゃ、私お母さんとちょっと喋ってるから、男の人同士でゆっくりしててね」
え、ちょっと待ってくれと思っている間もなく、希美はお母さんと台所で話し始めている。積もる話もあるのだろうけれど、放置された我々の身にもなって欲しい。
「仕事の方は、どうかね」
「あぁ、はい、それなりに順調にやれていると思います。大学の方も、楽団の方も」
「二足の草鞋というのは、中々大変だろう」
「まぁ、そうですね……。とは言え、仕事はそこまでですかね。結局のところは、好きなことを仕事にしていますので。尤も、問題児ばかり割り振られるのはどういう風になっているのやら、勘弁してほしいところではありますが」
「ふふ、若手の宿命だな」
「まったくです」
笑いながらお父さんは麦茶を飲んでいる。その手には大分皺があった。自分の父親も生きていればこのくらいの年だったのだろうか。そんな事を思ってしまう。生きていれば、仕事の話をしたりも出来たのだろう。希美の話をしたり、学校の話をしたり。そういう未来も、あったのかもしれない。今となっては、もう叶わない夢の話だ。窓の外に揺らめく陽炎のような存在と言っても良いかもしれない。
「私はオーケストラの類に関しては不勉強だが、やはり学校の吹奏楽などとは毛色が違うのだろう?」
「そうですね、仰る通りです。楽器も違えば空気感も違いますし、練習という概念も違います。吹奏楽部では練習は毎日ガチガチですし、指揮者の指示に従ってやっていますが、オケでは割と奏者の裁量が大きい部分も多いです。練習もこれという日はそこまでなく、本番前に数回合わせればもうピタリと」
「それはまた随分と。それがプロの技、という事かな」
「生半可な経験はしていませんからね。私も、周りの奏者も。しかし、やはり練習は欠かせませんね。一応主席トランペット奏者なので、万が一にも失敗するわけにはいきませんから」
「一回のミスで全てがご破算になる可能性のある仕事というのは、心労が多そうだ。私なんてのはただのサラリーマンだからね。ミスはあっても誰かが気付くし、取り返しのつかない事の方が少ない。とは言え、自分の腕だけでどうにかなるのは羨ましい限りだが」
「いえいえ、私に言わせて頂けば、サラリーマンの方がよほど大変だと思います。こちらは不安定ですし、やはりマルチタスクには慣れていませんし。それに、私は営業も事務も出来そうにありませんから。お父さんのように足で稼げる方の方がよほど社会に適合しておられるかと」
「隣の芝生は青いな」
「ですね」
希美曰く、お父さんは今営業部の部長をしているのだそうで。音楽家はこれから営業力が無いと食っていけない時代になるだろう。SNS戦略もそうだし、新興音楽とどう向き合っていくかも課題になってくる。そういう時に会社員のスキルは羨ましいモノがある。安定性があるというのも、極論演奏できなくなったら終わりの奏者職には無いモノだ。叩き上げの営業マンの営業力は見習いたいものが多々がある。
「外国は日本食が恋しくなるだろう」
「米と味噌と醤油が特に。一応スーパーにも売ってはいるのですが、如何せんどうしても日本に比べてメーカーも少ないですし、何よりお高いので」
「私も昔一年ほどアメリカに単身赴任していたことがあってね。その時は数キロ太ってしまった。いかんね、アメリカというか海外の飯は。最初は良いんだが、段々飽きてくる」
「レパートリーがあまり多くないですからね」
ドイツの夕食はそんなに多くない。というより、基本的にゲルマン系の食事はそこまで日本人の生活には合わないだろう。どちらかというとイタリアのような地中海系の食生活が日本人には合っている気がする。だがどちらにしても確かに言えるのは、アメリカの食生活よりはマシ、ということだけ。アメリカでスタイルを維持している私の友人はどういう生活をしているのか、ちょっと気になるところだ。
「ジャンクフードまみれのアメリカよりはドイツの方が健康的で良さそうだ。銃声も聞こえないだろうし」
「首肯したいところですが、最近はベルリンも物騒でして」
「昔はそんなイメージは無かったが……」
「移民問題でEUは揺れてますので。その波及はドイツが一番大きいでしょうね。なにせ、多くの移民を受け入れていますから。ベルリンはその一丁目一番地です」
「EUか……。イギリスもどうなるか分からんし、しばらくは欧州も大変そうだ」
「しばらくは割れたままになるでしょうね。とは言え、イギリスは独自性の強い国ですから、そう遠くない未来だとは思います」
「それは君の繋がりで?」
「まぁ、そんなところです」
ヨーロッパの中央から北側を地盤にしている身としては、当然イギリスもその範囲に入っている。音楽面でも先進的な国なので、よく訪れていた。フランスから電車で行けてしまうのが強い。ドーバー海峡も、鉄道ならあっという間だ。
「君も、中々営業向きじゃないか」
「恐縮です。音楽家も、セルフプロデュースが欠かせませんからね。学生に教えている内容の半分くらいはどうやって食っていくかになっていますし」
「色々なプラットフォームでの営業が必要になるのだろうな。私も、部下にSNS戦略を指示してはいるのだがね、どう上手く活かしていくのかはやはりまだまだ門外漢だ。若い者の方がよほど長けている。学ばないといけないことは多いな」
「私も研究の日々ですよ」
「年を取るとヒットチャートを追いかけるだけでも一苦労だ……」
頭を掻きながら、お父さんは力なく笑う。カラオケ全盛期に青春時代を過ごした世代であっても、中々最近の曲をキャッチするのは大変らしい。おそらく、CDなどではなく、思わぬところからヒットソングが生まれてくるからだろう。恋なんかはまだマシな方だ。なにせ、あれはドラマの曲なのだから。SNSをきっかけに昔の曲が再び盛り上がりを見せる事もある。何がきっかけなのかが分からないのが怖い世界だ。
「お疲れのところへ良い情報になるかは分かりませんが」
「ふむ」
「多分来年度の頭くらいにIRの法案が国会に出ますよ。夏には通過すると思います。当家の情報筋が仕入れてきました。まず間違いないかと」
「覚えておこう」
「お役に立てれば幸いです」
上まで上がって来る情報とそうでない情報があるけれど、今回のは前者だった。お父さんは何かしらを考えている表情になる。大っぴらにするようなモノではないが、別に隠し続けるようなモノでも無い。桜地家とお父さんの務める会社は競合他社ではないので、そこまで問題も無いだろう。何より、言うなとは言われてない。身内……になる事を切に願っている相手の助けになれれば幸いだ。
「お待たせ~。あれ、なんかお父さんと凛音仲良くなってる?」
「そう?」
「うん。前より沢山話してたし。何の話?」
「秘密だ」
「えー」
希美の問いに、お父さんは小さく笑いながら答えていた。
「凛音、教えて」
「うーん、男同士の込み入った話だよ」
「なにそれ~。お母さーん、何か二人で内緒話してるんだけど~」
希美はちょっと不満そうにお母さんのところへ戻っていく。後でフォローしておけば大丈夫だろう。別に機嫌が悪くなったというわけでも無いようだ。希美の機嫌が悪い時はもっと口数が少ない。もう何年もの付き合いなので、その辺りは心得ていた。
「中々、希美の事を分かってるようじゃないか」
「それは無論、彼氏ですので」
「そこまで堂々と言われると、返す言葉も無いな。どうせ向こうは向こうでこちらの事を話しているんだろう。ここからの話も秘密で行こう」
「はい、それは構いませんが……?」
「娘は上手くやれているようだ。この半年、家に帰ってすら来ない。親不孝者だよ、まったく。時々電話はしてくるが、それくらいだ」
「すみません……。もっと実家には顔を出すように伝えておきます……」
「あぁいや、まぁもう少し頻度は多くても構わないとは伝えて欲しいが、本題はそこではなくてだな。家に帰ってこないということは、そちらの家が居心地が良いという事なのだろう。寂しくはあるが、そういう環境を提供してくれたことには感謝している。親元を離れてもしっかり生活出来ているのが何よりの証だ。どうもありがとう」
少し気恥ずかしそうに、お父さんは頭を下げた。頭を下げるのはこちらの方である。希美にはいつも助けられている。私たち兄妹が何とか生活出来ているのも、今のような状態になれたのも、希美の尽力が大きい。妹に関しては滝野も頑張ってくれたが、最初に部屋から連れ出してくれたのは、間違いなく希美だ。今の部活生活もストレスがある中、中三の時のようになっていないのは家に帰れば居場所があるからだと思う。私には勿体ないくらいだ。
それに、ご両親もまだまだ心配な年頃ではあると思うけれど、親元離れた場所に、しかも普段はいないとはいえ彼氏の家に置いておくことに賛同してくれている。普通では巡り合えない幸運に、感謝しかなかった。優しく朗らかなお母さんと厳しくもしっかりしたお父さんに囲まれて、今の希美が形成されたのは間違いないのだ。そういう意味でも、感謝しかない。
「こちらこそ、希美さんのおかげで助かっている事ばかりです。妹の心の支えにもなって頂いて……感謝の言葉しかありません」
「姉妹が欲しいと昔から言っていたが、妹とお姉さんのような存在に囲まれて念願叶った、と前に電話口で言っていた。先輩風を吹かせているのだろう。君のご家族の方にもよろしく伝えて欲しい」
「はい、もちろんです」
「娘をこれからもよろしく」
「こちらこそ、よろしくお願い致します」
深々と頭を下げる。これからも出来ればずっと長く良好な関係でありたい。結婚する時、子供が生まれた時。そういう時に二人がいてくれた方が良いに決まっているのだ。それにウチの両親はもういないのだし。
「君も忙しいだろうが、またこうして来てくれると嬉しい。姉妹が欲しかったと希美は言っていたが、私も息子という存在には多少なりとも憧れがあったからな」
「キャッチボールはそこまで得意ではありませんよ」
「安心してくれ、私もそういう柄じゃないからな」
差し出された手を握る。ゴツゴツとした感触に、もう何年も前、空港で私を見送ってくれた時の父親を思い出してしまった。
「とは言え、結婚の報告はもう数年経ってから、せめて成人して就職なりの進退が定まってからで頼む」
「かしこまりました」
「そこで狼狽したりはしないんだな」
「えぇ。お義父さんから貰い受けるつもりですので」
「そうか。それまでには、覚悟をしておく」
握られた手に伝わる力を感じながら、私もしっかりと握り返した。親と恋人。関係性もベクトルも違うけれど、同じ人を愛している者同士として。