八月五日土曜日。昨日行われた京都府大会で、北宇治高校吹奏楽部は見事に金賞を獲得し、関西大会への代表権を得た。B編成の大会は九日にあるので、あと五日間の猶予がある。とは言え、元々が府大会のオーディションを目指して練習してきた面々であるため、予想通りならばこちらも金は固いだろう。
本日五日から一か月間、私は北宇治での指導を行うことになっている。滝先生から話が来たのは秀塔大附属と契約した三日後のことだった。もし秀塔大が遅くに来ていたら、私は当然北宇治と七月・八月の二か月間の指導をする約束を結んでいただろうから、指導することはなかっただろう。だが現実問題として、北宇治は私へのアプローチが少し遅かった。とは言え、これで北宇治を責められないだろう。如何せん、秀塔大が動くのが早すぎる。
八月に突入し、真夏の気配は一層濃くなっていた。朝方だというのに、涼しさの欠片も無い。我が家のエアコンはフル稼働しており、私たちの自室とリビング付近の冷房が止まることはなかった。脱衣所も空調を入れないとまともに過ごせたものではないので、そちらもつけている。問題は無駄に長い廊下などは一切空調が無いので、蒸し焼き地獄と化している事だった。窓を開け放ちたいのだが、そうすると蚊が入って来るので悩ましい。
北宇治の夏服に着替えた妹は、ガレージで待機していた。私たちが揃って登校するのも随分と久しぶりの話になる。去年まではよくある事だったけれど、今となってはそんな機会はもう少ない。しかも、徒歩ではなく車でだった。主に私が歩きたくないからなのだが。いってらっしゃいと見送る希美に手を振って、私たちは真夏の学校へ向かう。
「取り敢えず、私は先に滝先生に挨拶して、その後に行くから。朝のミーティングがあると思うけど、そこで全体挨拶をするんで、よろしく」
「了解。でも、高坂先輩とかに会わなくていいの?」
「後でいい。先に指導について詰めておかないといけない部分が幾つかあるから。どういう風に指導していて、どういう風に生徒間のアプローチがされていて、どういう仕上げにしたいのかね。今年の自由曲と課題曲選びに私は参加して無いから、その辺りの部分を詳しく知っておきたい。無償とは言え、仕事で来ているわけだし。前みたいには、いかないな。どうしてもね」
「仕方ない、のかもね」
「そう、仕方ない。私はもう高校生じゃないんだし」
今年の一年生は私の存在を知らない。知らないというよりは、知識としては知っているけれど実感が無い、が正しいかもしれない。なにせ先輩から話を聞いたとしても、実際に会ったことも話したことも無いのだから無理はないだろう。
「そう言えば随分前の話だけど、京畿デパートの件ありがと。北宇治が引き受けてくれて助かった」
「あぁ、あれね。お礼なら部長に言った方が良いと思うけど」
「それは後で伝えるけども。話通すのに、やっぱり企業から直接学校よりは一歩挟んだ方がやりやすいから」
「ま、それも私がいる間だけだけどね」
「それはそうだけど。立華や洛秋じゃなくて北宇治に依頼したのも、それが原因だろうし」
ウチが経営する京畿デパート京都駅前店のイベントで北宇治に演奏して欲しいという依頼が来たのは随分前の話だった。そこから私が妹に話を投げて、その上で黄前さんに投げて、というバトンになっている。お嬢様の所属している学校で、実績もきちんとあるとなれば依頼したいという企業は一定数存在していた。私が日本にいないので、その辺の窓口を妹に任せてしまっているのは申し訳ない。
「でも、あれ来年からはもうちょっとやり方考えてって伝えてね」
「と、言うと?」
「部員みんなで行ったのに、案内された場所に行くなり部長とか高坂先輩とか差し置いていきなり私に挨拶に来るの、止めて欲しいってこと。ようこそお越しくださいましたお嬢様、慮外者が何か喋っていると思って、どうかおくつろぎの上うんたらかんたらって」
「あぁ、それとなく伝えておく。全く、どうしてそうなるのか……」
「私のポイント稼いだって何も良い事無いのにね」
「そうは言ってもね」
ポイントを稼いでも良い事はない。とは言え、マイナスポイントを稼いだら確実に悪い事が起こりそう。だから良い対応を心掛けているんだと思う。ちょっとやりすぎの感は否めないけれど。
「あのデパート大丈夫かなぁ、そんなんで」
「さぁ。でもあそこに出店してる揚羽の実家の売り上げは好調だってさ」
「あぁ、呉服屋さん?」
「そうそう。兄さんたちの成人式、今から予約してくれるなら割り引くってよ」
「考えておく」
成人式。そう言えばもう来年に迫っているのだと思い出した。正確には再来年の一月だけれど、まぁそんなに変わらないだろう。一月という忙しい時期に帰国する余裕が果たしてあるのだろうか。だが、基本各市町村ごとに成人式は行われる。希美も私も宇治市民なので、宇治の会場へ行くことになるだろう。希美の振り袖姿、見たくないかと言われればウソになる。というか凄く見たい。
「色々考えないといけないことが多い……」
「頑張ってね、桜地センセイ。先輩たちみんな来るの待ってたんだし」
「そんなに?」
「うん、そんなに。まぁさ、これまで色んなことがあったけど、基本的に一貫して部長とか高坂先輩世代の味方だったでしょ? 北宇治が一番混乱している時も、置いてけぼりにならないようにして、B編成でもA編成と同じように面倒見てさ。そういう世代が今一番上にいるわけだからね。でも、怖いなぁ。兄さんの批判とかしたら高坂先輩だけじゃなくて色んな先輩に怖い目で見られそう」
「えぇ……」
地盤を固めよう、支持母体を作ろうと思って行動した際、今までの関係値が存在しないからフラットに始めることのできる一年生を支持母体に選んだ。その結果の今があるのだが、支持を集めようとしてやりすぎた可能性は否めないかもしれない。そんな信者みたいな集団を作りたかったわけではないのだが。滝先生よりも距離が近かったことが原因にあるのかもしれない。教師と生徒よりも、生徒もどきと生徒の方が近い。
「まぁ、私なら許されると思うけど」
「なんでさ」
「そりゃあ、妹だから。逆になんで身内が一番批判しやすいのにしちゃいけないの」
「それはそうだけど、私の批判したいの?」
「特には」
「良かった」
ここでメタクソに言われたら心が折れていた自信はある。けれど彼女の言っていることもあながち間違いではなくて、批判しにくい存在に対して文句が言える生徒は必要だろう。滝先生に対しては……多分これも妹がやるんだろうか。黄前さんも出来なくはないけれど、どこか遠慮がある。間違いなくそれは高坂さんが原因だ。塚本君はそもそもあまり他人を批判しない。となると、やはりそれが出来る人材は滝先生に思い入れがあまりない妹になるのだろう。
ただ一つ問題があるとすれば、私を批判してるとただの兄妹喧嘩に見えるという事くらいだろうか。それも逆に言えば高坂さんや他の人が入って来る余地が無い部分になるので、あまり他者の介入を受けないとも言える。その辺りも考えてのことだろう。ウチの妹は優秀だ。
導入したオーディション三回制、見えているのにギリギリで手が届かない全国大会金賞、起死回生を狙うライバル校たち、そして世代間の温度差。様々な要因が北宇治の火種として残っている。これらをどうしていくのか、どの程度関わっていくのか。それを考えるのが、この一ヶ月の課題になるのは明白だった。
車を駐車場に停める。夏の朝から来ている先生は多くないので、ガラガラだった。近くには滝先生の車もある。昔は眺めるだけだったそれの隣に、今は自分の車が横付けされている。妹はそのまま音楽室へ、私はここから職員室に向かう。既に朝練の音があちらこちらから響いていた。
事務を通り、職員室に向かって階段を上る。懐かしい景色、懐かしい香り、懐かしい音や色。多くのモノが変わっていく中で、夏の人気が無い学校はまるで私が卒業する前と何も変わってはいないようだった。けれど探せば確かに変わっている物もある。飾られている表彰状の名前、靴箱に置いてある傘、教室の中の光景。そういうモノが、確かな変化を告げている。それに、この学校にもう私たちの生活の痕跡はない。そういう感傷がぐっと胸を締め付けた。
心に去来する感情を閉じ込めて、私は扉を開けた。
「失礼します」
「おや、桜地君」
頭を下げるのは教頭先生。この先生にも田中先輩関連で随分とお世話になった。普通は免許が取れるのは卒業後なのだが、特別に許可をくれたのも教頭先生である。卒業時にはキチンと挨拶をした。
「お久しぶりです、先生。お変わりないようで」
「何とかやっております。君の方も、元気ですか」
「はい、すこぶる健康です」
「それは何より。身体は大事な資本、気を付けてくださいね」
「もちろんです」
「吹奏楽部の指導ですね、よく来てくれました。忙しいでしょうに、ありがとうございます。学校を代表して、お礼申し上げます」
「いえ、そんな。頭を上げてください」
この前卒業したばかりの生徒が部活とは言え教える側として戻って来る、というのは中々無い事ではあると思う。元生徒であっても頭を下げてくれる部分に、彼の人格が出ていた。そういう人物であるからこそ、田中先輩引き留めに協力してくれたのだろう。危ない橋を渡りながら。
「今年の吹奏楽部はいつになく頑張っているようです」
「えぇ、そう聞いています」
「ただ、その分生徒の精神に負担がかかっていないか、心配な部分ではあります。部活改革、教育改革は管理職の間でも話題になっていまして。そろそろ旧来のやり方は通用しなくなってきていると、それが現状です。あの大所帯を管理するのは難しい。元来人は三十人ほどの集団を統率するので精一杯と言います。部長の黄前さんなどに厳しい負担となっていないと良いのですが。如何せん、内部からは見えにくい上に管理職が出張るというのも中々難しいものでがありまして」
「その辺りも含めて、しっかり見ておこうとは思っています。七月に秀塔大附属の方でも指導を行いまして、そこでも色々と思うところはありましたから」
「是非、そうしてくれると助かります。君は集団に所属していても、その中で視野狭窄に陥らず広い視野や未来を見据えた視点を持てる。それは強みだと思います。活かしてください」
「ありがとうございます」
田中先輩の前、希美の後に退部する時から吹部関連ではこの人の世話になっている。毎日毎晩忙しそうにしているのは知っていた。高坂さんと吉沢さんの指導で随分遅くまで残っていた日も、教頭先生はまだ仕事中だった。校長よりも忙しい、と言われる教頭先生の激務はよく知っている。部活の中身の件は、言われる前から気にはしておこうと思っていた。渡りに船、という言い方が適切かは不明だが、ともあれそんな感じである。
滝先生はまだ職員室にいない。どうしたものかと思っていると、ガラガラと扉が開いた。ずり落ちたメガネをくいっと上げて、長身に少し癖のある毛は紛れもなく二年間を共にした共犯者だった。
「滝先生、あなたのお客人ですよ」
「あぁ、すみません。少し朝練の監督で手間取ってしまいまして。よく、来てくれました。こちらへどうぞ」
「はい。では教頭先生、また」
「えぇ、頑張ってください」
滝先生に案内されて、職員室の端にある彼の席に移動した。隣の先生の席を促される。そこの席の主は今日は休みらしく、席と机を使っても構わないとの許可を得ているそうだ。お言葉に甘えて、腰を下ろす。キーッという背もたれから鳴る軋んだ音がほとんど人のいない職員室に響いた。
「まずは、指導を引き受けてくれたことに感謝します」
「えぇ。ただし先生。既にお伝えしている通りではありますが、私は七月いっぱいを使って秀塔大附属高校吹奏楽部の方でも指導を行いました。また、北宇治がお盆休みとなっている三日間の一日目を使って、向こうの関西大会用のオーディション選考を行うという約束もしています。これは北宇治の契約に優先されるものであり、また守秘義務の観点から向こうの内情をお伝えすることは出来ません。それを御承知の上で、それでも私に指導に加わるよう求めますか?」
「はい」
先生は迷うことなく即答した。その力強い返答は、出会ったばかりの頃を思い出させる。
「どの学校を指導するのかは、あなたの自由意思によるものです。秀塔大さんはあなたの曲を使用して挑んでいく。その過程であなたに依頼したいと思うのは不自然な事ではないでしょう」
一昨年の先生に比べれば幾分も常識的ですしね、という言葉は言わないことにした。一生徒に、しかも退部したのにも関わらず依頼する先生と、作曲者に依頼する秀塔大附属と、どちらがおかしいのかと言われれば圧倒的に前者だろう。
「私たちは秀塔大附属の情報が無ければ目標を達成できない集団だとは思いませんし、またあなたがこちらで手を抜くとも考えていません。一昨年のオーディションでも、去年のオーディションでも、あなたは痛みを伴いながらも選択を行った。そんなあなたを信じることが出来ないようでは、何も信じられませんから」
「その信頼、応えられるように努力します。……今年こそ、金賞獲りたいですね」
「それは私の力ではどうにもできません。私が連れていくのではなく、部員の皆さんが行くのですから」
「そうでした。私としても今年が分水嶺と思っています。金を獲れるかの分水嶺ですね。今の三年生は一番鍛えた生徒ですし。そもそもは」
「この年に全国大会に初出場する。それがあなたの当初のプランでしたね」
「えぇ。それが幸運に恵まれて今は全国で金を狙っている。一番良い結果を出せるように調整を重ねてきた世代です。容易に他校に後れを取ることはないでしょう」
「桜地君、いえ先生と呼んだ方が良いでしょうか」
「どちらでも。とは言え、全体の前はともかく、ここでそう呼ばれると少し違和感がありますね」
「では、桜地君で。私は、負けるとか勝つとかではないと思っています。コンクールではありますが、どれだけ自分たちが納得できる演奏を出来るか。それが一番重要でしょうから」
納得できる演奏。それは結果を伴ってこそ、初めて得られる感情だろう。だから、秀塔大は勝つぞと叫び続けていた。彼らにとってコンクールは勝負の場だった。翻って北宇治はどうなのだろう。彼らにとってコンクールとは、何なのだろう。それを少し聞いてみたかった。
どうしても私はコンクールで勝つ、という風になってしまう。それでキャリアを築いた。それで世界一と呼ばれている。とは言えここは学校。それを思い出さないといけない。勝利! と叫んでいる集団に一ヶ月間いたせいで染まっていたのかもしれない。なにせ、思考的には向こうの方が相性がいいのも事実なのだから。
「早速ですが先生、府大会の審査員の講評とこれまでの指導に関しての諸々を見せてください」
「分かりました。こちらです」
「拝見します」
講評では概ね良い評価だが、低音が足りないなど厳しいコメントもチラホラある。全国レベルの団体だからこそ、自然と評価も厳しくなっているのだろう。その辺も考えていくべきポイントだった。とは言え、トランペットが絶賛されているなど嬉しい要素もある。目を通して、課題と対策を考える。二年間やってきた仕事であり、先月までもやっていた仕事だ。何となくの外観はすぐに出来上がった。後は実際に確認して、脳内イメージに微修正を加えたい。
「何となく掴めました」
「このまま指導に移っても大丈夫そうですか?」
「問題ありません。後は実際に演奏を聴いて調整しますので」
「分かりました。では、行きましょう。今頃丁度部長が話している頃ですので」
「はい。あぁそうだ、先生。一つ良いでしょうか」
「何でしょう」
「秀塔大で指導をした事は、皆にも話します。その上でそれでも構わないか、委ねたいと思いますがよろしいですか? 情報を隠しておくのもフェアではありませんし」
「……なるほど。そういうことならば構いません」
「ありがとうございます」
隠したままにしておくことも出来たのだけれど、そうする理由はないし、した時のデメリットが大きい。それに、私を慕ってくれている後輩が多いと妹が言っていた。ならば、そういう存在にしっかり伝えておくことで信頼を留めておくことが出来るだろう。
そのまま先生と二人で音楽室へ移動する。こうして二人で移動するのも随分と久しぶりのことだった。先生と話すと昔の調子に戻るので、何だかんだ二年間一緒にやって来た関係値というのは馬鹿にならないモノなのだと実感する。何度も何度も目にした音楽室の扉も今は懐かしい。
「では、少し待っていてください」
「はい」
廊下で先生から呼ばれるのを待つ。なんだかこの展開にも既視感があった。二年前、初めて指導に入った日もこうして外で少しの間先生に呼ばれるのを待っていた。あの頃、何を思っていたのだっけ。もう大分思い出せなくなってしまっていた。確か嫌な事から目を逸らしたくて、昔に想いを馳せていた気がする。なにせ、指導を引き受けたものの、凄くやりたかったわけではなかったから。それが今はやりたくてここにいる。運命とは不思議なものだ。中では挨拶が行われている。
「さて、早速本日の練習を始めたいと思いますが、その前に一人皆さんに紹介したい方がいます。お忙しい中お願いし、八月いっぱい参加して頂けました。では、お願いします」
先生が促したのと同時に扉を開け放って、私は音楽室の中に入った。カツカツと歩く音が響く。座っていた部員たちがこちらに視線を向け、思い思いの表情をしていた。嬉しそうな顔をしている人が多いことに、内心でホッとする。
黄前さんも歓迎の表情を浮かべていた。彼女は今日から指導と知っているので、驚きはしていないが。一年生はあまり知らない存在なので戸惑っている人もいる。それでも南中出身の人には把握されているみたいだった。なにせ、
「ご存知の人も多いでしょうが、改めて自己紹介を」
「二三年生の皆さんはお久しぶり、一年生の皆さんはほとんど初めましてでしょう。昨年度まで北宇治高校吹奏楽部の特別指導員を務めていました、桜地凛音です。ついこの前の三月に卒業したばかりではありますが、この度は滝先生の招聘を受けて練習に参加する事としました。一応ご存知無い方のために経歴を簡単に伝えますと、ハンブルク音楽演劇大学校音楽部器楽科トランペット専攻卒、ウィーン国際器楽コンテスト七回連続優勝、現在はベルリンフィル首席トランペット奏者兼ベルリン芸術大学音楽武器楽科トランペット専攻担当教授、作曲、音楽プロデュース等をしています。どうぞよろしくお願いします」
「彼は先ほどの紹介通り、非常に多忙な方です。また、世界の第一線で活躍する日本人奏者でもあります。非常に貴重な機会ですので、一分一秒を無駄にしないように」
「滝先生のご期待に沿えるように努める所存ですが、先に皆さんにお伝えすることがあります。私は、確かにここのOBであります。しかし、先月の後半は秀塔大附属高校吹奏楽部の方でも指導を行っていました。皆さんにとっては関西大会で出会うライバルとなるでしょう。また、皆さんがお休みの十三日は、向こうで関西大会向けのオーディション選考を行う予定です」
この私の言葉に、音楽室の空気は一気に変わった。一年生はまぁそういう事もあるかな、という顔をしている。二年生は戸惑ったような表情を浮かべている生徒が多い。問題の三年生はかなり動揺した表情だった。ついこの前まで自分たちを指導していた先輩が急に他校、しかもバリバリのライバル校の指導をしていると知って穏やかでいる部員の方が少ないかもしれない。これが清良とか、ブロックの違う学校なら問題なかったかもしれないが、関西大会でカチ当たる相手となると話が変わる。黄前さんが結構ショックを受けた顔をしていた。逆に高坂さんは静かにこちらを見つめている。
「何故そうなったのかの経緯を説明すると、滝先生からご連絡を頂く数日前に秀塔大の方から依頼を受けました。直接、ベルリンで。あなたの曲を使用して大会に挑む。報酬を支払うし北宇治を優先しても構わないので、少しでも良いから指導をして欲しいと。その結果引き受けました。裏切ったと思う方もいるかもしれません。ライバル校に指導なんて薄情者、と思われるかもしれません。ですが、私はそれで皆さんが全国大会に行けなくなるとは思っていません。皆さんが関西大会内で一番上手い学校であればいい。違いますか?」
恩着せがましく言うつもりはないけれど、元々別にやらなくてもいい部分ではある。高坂さんと吉沢さんの弟子二人がいて、手塩にかけて面倒を見た世代が三年生で、妹がいるから来ているのであって、それらが無いと来る理由は減る。しかも労働報酬は無い。私の本業がこの間一切停止しているのを考えれば、それくらいはさせてくれてもいいだろうと思わないわけでも無いのが真実だった。
「ですのでこれはある意味で私から皆さんへの信頼でもあります。ですが、それが嫌だという意見がある可能性も、十分に考えています。もし納得できないというのであれば、それでも構いません。その時は潔く身を引くこととします」
黄前さんはギョッとした顔でこちらを見てきた。その後焦ったような表情をして全体を見ている。何か言うべきか、迷っているという表情だった。高坂さんと視線を交え、そして部長の戸惑いを見た高坂さんが立ちあがった。
「その必要はありません」
高坂さんは力強くそう言うと、その場で皆に向かって話を始めた。
「もしかしたら、この中に桜地先生が他校の指導をなさっていることに関して、不満や不安を覚えている人がいるかもしれない。正直な事を言ってしまえば、私も二か月間指導を受けたかったという思いはあります。けれど、本来のお仕事ではない中来ていただいています。しかも、私たちは無償でその指導を受けています。他校の羨む環境に既にいるのに、それに甘えてもっともっととお願いするのは正しくない。むしろ大金を積んでもお願いしたい学校が幾つもある中で、私たちのところへ来てくださったことに感謝しましょう」
「ド、ドラムメジャーの言う通りだと思います。指導を受けられる事を当たり前と思わずに、むしろ他校にも求められている技術をしっかりと吸収できるこの機会を活かすつもりで行きましょう!」
二人の声掛けに、音楽室の空気が再び良い方向に向き始める。高坂さんは厳しく、黄前さんは上手く空気を読んで操縦しながら。そういう使い分けが出来ているならば、多少なりとも運営は順調に進んでいるのだろう。それに、仮に北宇治と秀塔大で揺れていたとしても、北宇治は最終兵器を所有している。多分それを知っている部員はほとんどいないと思うが、吉沢さん辺りは気付いている気がする。つまりはどういうことかというと、妹を使えば良いという話だ。彼女から「お兄ちゃんお願い」と言われたら万難を排してやるしか選択肢が無くなる。まぁ滅多なことが無いと言わないと思うが。
「お二人とも、ありがとうございます。他の皆さんも戸惑いはあるかもしれませんが、無論ここで一切手を抜くことはありません。皆さんが目指している全国大会金賞という目標に近付けるよう、努力する所存です。先ほど言った通りではありますが、それでも構わない、という方はこれからよろしくお願いします」
「「「よろしくお願いします!」」」
大音量の返事が返って来た。まぁこれで断られることは無いと思っているけれど、手続きは大事だ。この辺を疎かにしていると、足元を掬われてしまうかもしれない。だからこそ丁寧に説明したのだ。もっとも、これで全部解決とは思っていない。パート練習や個人練習の時に個別で対応していく必要がある。その辺りでも油断は出来ない。秀塔大とは当たり前だけれど関係値が違うのだ。
「受け入れて頂き、感謝します。さて最後に連絡です。一年生の皆さんと黒江さんは、ほぼほぼ私と初めましてとなりますので、この後個人練習の時間を少し拝借して、大会メンバーであるかに拘わらず個人面談をしたいと思います。その際、自分の楽器を持ってきてください。あくまでも実力確認ですので、今後のオーディション選考等には一切関係ありません。伝えたい事等あれば何でもどうぞ」
一応黄前さんが個別に話を聞く会を四月にやったらしいのだが、如何せん人の主観が入ると情報が正しく判断できない。最後には自分で判断したいので、改めて時間を少し貰うことにした。
「また、B編成の方は間もなく大会だと思いますから、そちらの指導も行いますので、よろしくお願いします」
今年の三年生はB編成にいない。これまで二年間B編成だった加藤さんも、遂に今年はA編成に入る事が出来ている。つまり、B編成は二年生以下で占められている。だからこそ来年以降の要になるのだ。来年を担う人材を育成することは、北宇治が末永く強豪校でいるためには欠かせない。秀塔大のように私立だから毎年沢山人が来るわけではないのだ。学区制も相まって、中々人数集めは厳しいものがある。
「音大のことなどでも聞きたいことがあればいつでもどうぞ」
「ありがとうございました。桜地先生は若いですが優秀な方です。全てを吸収するつもりで、臨みましょう」
「「「はい!」」」
「それでは、早速合奏に入ります」
先生の号令で部員は準備を始める。これから一ヶ月でどこまで成長させられるのか。そのために今、彼らがどの程度の位置にいるのか。幸い比較対象はある。その確認の第一歩となる演奏が始まった。