音を愛す君へ   作:tanuu

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第百三十音 メンバー

「なるほど」 

 

 演奏を聴いた後の私は、小さな声でそう呟いた。完成度は高い。それもかなり。全体のバランスなどもよく取れている。修正するべき箇所が無いかと言われれば全くそんな事はないけれど、それでもこの時期にしてはよくできている。それこそ、完成形が出来上がったのが関西直前だった去年と比べれば、それ以上だろう。二年間育て上げた集団は、しっかりとその実力を遺憾なく発揮していた。

 

 間違いなく勝てる、とは言わないけれど勝ちの目は十分に存在していると言える。北宇治と秀塔大附属で上に行って欲しいと思っている私の算段も、決して夢物語ではないかもしれない。しかし、確実ではない。確実性を少しでも高めるためにするべきことがまだまだ存在しているのは明白だった。

 

「さて、どうするか」

 

 上唇を少しだけ舐める。自分の人差し指が無意識に脳内の楽譜をなぞっていた。頭の中に少しずつ今後の予定が形作られていく。パズルを組み立てていくように物事の進行を組み立てていく時間はそこまで嫌いじゃない。これから先に進むべき道のりが不完全とは言え見えているのは、五里霧中を進むよりは断然良い。

 

 それと同時に、やはり私が詳しく知らない奏者について知る必要があると思わされる。音楽は芸術だ。競技性の強い学生の吹奏楽でも、あくまでも芸術である。つまりは演奏者の自己表現が大事になってくる部分が大きい。その点で演奏者について知ることは、各奏者がどういう人物で、どういう表現をするのかを把握し、その特徴を演奏に反映させる点で非常に役立つ、と私は考えている。

 

 だからこそ二年間に渡って面談をしてきたという側面もあるのだ。現在、A編成にいる一年生は四人。その四人と黒江さんは優先だろう。黒江さんについては必要なら清良からプロフィールを取り寄せることも視野に入れている。グレーゾーンではあるが、それくらいの手間は惜しんではならないと、あの演奏が告げている。大変高い技術力は何によって培われ、何を思って演奏するのか。ぜひ知りたいところではあった。

 

「何か、感想はありますか?」

 

 指揮棒を下ろした先生が、こちらに視線を送る。同時に部員の視線もこちらを向いた。去年よりも一年生が少ない。何となくそんな風に思った。それは当たり前というか、去年は三年生が少なすぎた。けれどそれ故に、多くの下級生に全国大会での経験を積んでもらえた。だが今年はどうなるのだろう。そんな考えが頭をよぎり、今はそれどころではないと考えを切り替えた。

 

「悪くはないです」

 

 その言葉に下級生の空気が安堵する。同時に三年生の空気が引き締まった。私がそんな当たり障りのない感想で終わるわけないと、三年生はよく分かっているらしい。それなりに長い付き合いなだけのことはある。下級生は大分腑抜けてるなぁと思いながら、言葉を続けた。

 

「良くも無いですが」

「それは、技術的な部分で?」

 

 先生の問いに私は小さく頷いた。

 

「確かに技術的な部分もそうです。ですがそれ以上に……まずは先に技術的な部分から行きましょう。改善が容易な方ですので。よろしいですか?」

「お願いします」

「では。まず第一楽章のホルンが全体的に固い。特に三木さん。あなたはホルンパートの中では上手いけれど、全体ではまだまだ音が弱い。もっと出しなさい。上級生、特に三年生はそれをパート練で伝えるように」

「「「はい!」」」

「次にクラリネット。第二楽章マリンバの後の入りが雑になってます。処理が適当ですね。アルトクラ、バスクラ、テナーサックス、バリサク。いずれもアルトクラと同じ動きをしますので、今言った楽器担当者はしっかりと処理をすること。細部にまでこだわらないと、芸術作品は完成しません」

「「「はい!」」」

「テーマを持っているフレーズを意識してください。何のためのテーマなのか、理解しているのといないのとでは最後の最後に明暗を分けます」

「「「はい!」」」

「それと低音。もっとください。特にチューバ」

「「「はい!」」」

「最後にトランペット1st。三年生コンビ」

「「はい」」

「今日の練習後で来なさい」

「「……はい」」

 

 トランペットは今やると全体から先に進みすぎるのでカットしたが、それでも指導したいことはある。この後どこかで時間を作ってまた指導していきたい部分だった。なにせ、トランペットこそが私の一番得意とするところであり、私の生徒の中で優秀な人材を派遣してくださいと言われたら間違いなく二人を推挙するくらいには出来がいい。だからこそもっともっとと思ってしまうのは、指導者の性なのだろうか。

 

 特にプロを目指している高坂さんには、より上を目指して欲しい。彼女の目標は特別になる事。その手段はトランペットで。到達するべきポイントは何に重きを置くかで変わるため難しいけれど、一番分かりやすいモノもある。それは私を倒す事。私を倒せば、オンリーワンでありナンバーワンだ。その上、君臨する魔王を倒した勇者の称号も手に入る。そういう人材であって欲しいと期待したからこそ、ロザリオを渡した。あの十字架を持った人物に、私は倒されたい。なればこそ、ここで倒れられては困るのだ。

 

「ひとまずパッと触れられる技術面はこれくらいにして、先ほど後回しにしたそれ以上に言いたい事を指摘します。それは、方向性が見えてこない事です」

 

 抽象的な言い回しに、疑問符を浮かべる後輩もいる。まずは抽象的な単語を伝え、それの持つ意味を後で伝えて肉づけする。私がよくやる方法だった。最初に印象的な一言を伝えれば、意味が詳しく分からないので、取り敢えずそれについて考える。その後にその意味を伝えて自分の考えと照らし合わせながら修正してもらう。そうすることで記憶に定着することと印象付けることを狙っていた。

 

「皆さんがどういう風にこの自由曲を仕上げたいのか、その方向性が見えてきません。確かに指摘はしましたが、技術的な部分ではよく出来上がってきていると思います。決して楽観視はしていませんが、このまま進めば関西大会に挑んでも後れを取ることはないでしょう。しかし、一方で表現面では、皆さんの方向性、イメージが明確に見えてこない。なんとなくぼんやりした四季の景色が走馬灯のように流れている感覚しか伝わりません。楽譜をなぞっても、そこに感情が乗っていなければ音楽は完成しません。特に最後のフルートソロ!」 

 

 ギクっというように、妹の肩が少しだけ跳ねた。表情は相変わらず練習時の無表情だが、内心で焦っているのが見える。先生にも、同じパートの子にも伝わってはいないだろうが、何年も暮らしを共にしてきた私には分かる。血を分けた存在というのは、そういうモノなのかもしれない。

 

「あなたがこの曲のエンディングです。あなたのソロがエンディングテーマを奏でる。それも、最初の主題と同じメロディーで。その意味合いを頭では理解していても、そこに感情が乗っていない。実力と技巧でごり押しして突破しようとしない。突き抜けていると誤魔化されがちですし、より足りない他パートについつい指導者の意識が向きがちですが、出来ていないことに目を瞑っても解決はしませんよ」

「はい」

「あなたの持っているイメージをしっかり投影する。それが出来てこそ初めてソロの資格があります。言いたいことは分かりますね?」

「無論です」

「ならばいいでしょう」

 

 一年生が怖いものを見る目でこちらを見ていた。二年生も改めて気を引き締めているのが目に入る。誰もが知っているはずだ。私と彼女が兄妹関係であるということは。それでも妹だろうと何だろうと容赦はしないし、彼女もそれを望んでいないだろう。お世話になった先輩、慕ってくれる後輩、自分の妹や彼女に友人。それらは指導をする上でなんら関係はない。足りないことをただ足りないという。それだけだ。

 

「まずは皆さん自身がしっかりと曲に向き合うことです。それが肝要だと私は考えます。楽譜にはそのヒントが書いてありますが、答えが丸々全て書いてあるわけではありません。楽譜を道標にして、どのように演奏を行うべきかを個々で考えるように。それが合宿の頃には発揮されている事を願います。ひとまず、私からは以上です。長くなってしまい申し訳ありません」

「いえ、ありがとうございました。今指摘されたことを踏まえて、もう一度やっていきます。まずは第一楽章と第二楽章を重点的に仕上げていきます」

「「「はい!」」」

 

 実力が高いからこそ、表現が空疎だと目立ってしまう。それは音符をなぞっているだけに聞こえるからだ。それでは当然良い評価は得られないし、それはすなわち全国大会への切符が手に入らないことを意味する。秀塔大は表現力は高かった。比較してはいけないと考えつつも、基礎的な部分ではどうしても比較してしまう。北宇治に足りないのは、曲を自分のモノとして演奏する感覚だろう。無論プロはそんなことしなくても常に最高の演奏が出来るが、学生はそうではないし、別にそうある必要もない。だからこそ、楽曲を身近に引き寄せる努力が必要だった。

 

 上手い奏者が多いからこそ、是非挑んで欲しいと思う。北宇治の自由曲もメッセージ性が強い。それはつまり、去年と同様奏者次第で変わって来るということ。持っている楽譜を捲る。第三楽章のユーフォとトランペットのソリなどまさにその要素が強いだろう。高坂さん×黄前さんの組み合わせだけれど、これを吉沢さん×黄前さんにしたら。或いは高坂さん×黒江さん、吉沢さん×黒江さんのパターンもあり得る。それぞれ全然毛色の違う演奏になりそうだ。一音楽家としては是非聞いてみたいところではある。

 

 久石さんは下手ではないけれど、まだソリには届かないのでやるとすれば三年生の卒業後だろう。秋、という第三楽章のテーマからしても、直属の先輩である黄前さんとの別れを経験した後の方が深みが出ると思う。

 

 久石さんはともかく、先の四パターンについて言うのであれば、正直どのパターンでも関西では戦えるはずだ。むしろ、どのパターンが一番ハマるか実験したいまである。とは言え、流石にそれは四人とも内心穏やかではないだろうし、やめておくのが無難だと思うが。とは言え、オーディション三回制になった今、どのパターンになる可能性も捨てきれない部分だった。

 

 逆に言えば、絶対的エースが君臨していた時代は既に終わっているのかもしれない。トランペットでも、ユーフォニアムでも。それが歓迎するべき事なのかどうか、まだ明確な答えは無かった。

 

 

 

 

 

 

「それでは、これで午前の全体練習を終わります。午後からのパート練では、午前中の指示を基にして練習を行ってください」

「「「はい!」」」

 

 先生の言葉で午前中の練習が終了した。時計は既に十二時を回っている。外はカンカン照りで、音楽室の中にも強い日差しが差し込んでいた。校庭からは湯気のようなモノが立ち昇っている。今日も随分と暑い日になりそうだ。午前中の全体練習では主にA編成を中心に見てきた。ここからは各パートを周回して練習状態を確認したり、個別のアドバイスをする時間になるだろう。その前に、一年生+黒江さんとのお話が待っているが。

 

 ともあれ、それまでは昼休みだ。昼食をどこでどう食べるかは学校によって大きく違う。だが大体は各パートに割り当てられた教室で食べているのが一般的だろう。現に、北宇治でも各員の荷物はその教室に置いてあることがほとんどだった。当然、食品が置いてあるので無人の間も冷房が付けっぱなしである。最初の方は文句を言われたそれも、今では特段何も言われない。これが強豪部活が故の恩恵というものだろうか。

 

 秀塔大附属では悲しき一人飯だった。北宇治でも現役時代はトランペットパートにいたけれど、今はもうそういう年でも無いだろう。取り敢えず職員室に行こうと思って音楽室の扉に手をかけたタイミングで、後ろから声をかけられた。

 

「せんぱーい。どこ行くんです?」

「どこって、職員室」

「ご飯食べないんですか? 教室、前と変わってませんよ」

「いや、学生に混じってもね。一年生とか、よく知らないOBと一緒に昼ご飯は嫌でしょ」

「絶対そんな事無いと思います。麗奈ちゃんともお話ししないとですし、とにかく来てくださいね! 卒業しても、先輩はトランペットパートのメンバーな事に変わりないですから」

「それは嬉しい言葉だけど」

「なら、先輩もトランペットパートのメンバーですね。つまりはパートリーダーの私の言ってる事に従うべきですね。という事で来てください。待ってまーす」

 

 吉沢さんは昔とそう変わらない口調と態度でそう言って、トランペットパートに割り振られた教室へ向かって行った。パートリーダー権限を先輩にまで使って来るとは、物は言いようというか随分とたくましく育っているようで何より。あの調子なら、後輩からも舐められることも過度に怖がられることも無く過ごせているのだろう。路線継承は上手くいっているようだった。

 

「あの、桜地せんぱ、先生」

「おや黄前さん。先輩でいいですよ。というか、他の在校生にもそう伝えておいてください。高坂さんはともかく、他の子から先生呼びだとちょっと違和感が凄いので。他校の見ず知らずだった子なら気にはならないんですが、あなたたちの声で言われると、少しね」

「分かりました。伝えておきます」

「お願いします。それで、ご用件は?」

「あ、はい。今後なんですが、十三から十五でお盆休みになります。ですので、十二は例年通りの大掃除をする予定です」

「懐かしいですね、埃まみれの大掃除」

 

 埃アレルギーのせいで鼻が止まらなくなった優子があまり戦力になっていなかったのも、今は遠い昔だ。戦線離脱した部長に代わって、大量にいた当時の一年生、つまりは今の二年生を妹が仕切っていたのをよく覚えている。なにせ、趣味の一つに掃除が入っている子だ。その結果、異様に綺麗になっていったので夏休み明けに授業で使った時に一般生徒がビックリしていた。準備室前の鏡の水垢まで完璧に落とされていたのはもう何か執念を感じる。

 

「みんな言ってます。今年もお掃除女王が降臨するって」

「何ともしまらないあだ名ですねぇ、それは。ウチの妹はしっかりやれていますか」

「はい。麗奈も随分と助かってるみたいです」

「それなら良かった。おっと失礼、話が逸れましたね。続けてください」

「えっと、十六から十八は合宿になります。その一日目の夜にオーディションを行う予定でいます。ソロもそれ以外も含めて、全部オーディションをして、二日目の朝に発表という形式です。そこからはそのメンバーで大会まで毎日練習を突き進む、という具合です。何か、質問ありますか?」

「オーディションの審査は先生方が二人で?」

「はい。今年は、関西以外先輩はいらっしゃらないので、他の先生を交えず滝先生と松本先生だけで、という風にしました」

「分かりました。丁寧にありがとうございます」

 

 人前で話すのも最初の頃よりは慣れてきたように思う。元はと言えば、みぞれの補佐として定期演奏会の段取りを組んだり、前で説明したりしていた。あの時から彼女をこの職に据えるために布石を打ってはいたのだが、それが有効に作用したのかどうなのか、多少は板についてきたのではないだろうか。オンオフの切り替えが大分大きいので、割と自然体に切り替えていた優子とはまた違うタイプだろう。

 

「部長職はどうですか。慣れましたか」

「多少は……。でも、中々難しい事ばかりです」

「そうでしょうね。優子も、いい経験ではあったけどもう二度とやりたくないと言っていました。そういう立場だと思います。何かの長というのは」

「ですね」

「ただ、逆に言えば最後の最後でワガママを押し通すことが出来る立場でもあります。無論、しっかりと普段の職務をこなし、多くの部員から支持されているという前提が必要になりますが。それさえクリアしていれば、最後の最後に優先されるのはあなたの意見です。高坂さんや他の誰でもなく、あなたの判断です。なにせ、あなたがこの部の長なのですから。責任は大きいですが、だからこそあなたのやりたいことをやってください。正しいかどうかは、後からしか分からない事です。まずは自分の信じる正しさを信じてくださいね」

「はい。頑張ります。でも、どうして急に……?」

「まだ北宇治は過渡期の中にあります。小笠原先輩しかり、優子しかり、過渡期の部長は迷う事ばかりでしょうから。何が正しいのか、どうするべきなのか、見えなくなることもあります」

 

 それは過渡期の部長もそうであり、強豪の部長でもきっとそうなのだろう。現に星野さんは悩みの中にいた。それでも前に進んできた。名前を挙げた先代部長も先々代部長も、色んなトラブルが降りかかりながら、何が正しいのかを模索し懊悩しながらそれでももがき続けていた。

 

 正しさとは何か。一見正しそうに見える事が、案外そうではないことも多い。特に、人は強い口調や態度で言われた意見にある程度の正当性や論理性があると正しいと思い込みがちだ。けれど、価値観も違えば人生経験も違う同士なのだから当たり前だが正しさの観点も違う。黄前さん視点で見れば妹や高坂さんは正しく見えるかもしれないが、私から言わせればどちらもまだまだだ。ただ、どちらも頑固なところがあるので、ちょっとやそっとでは意見を曲げないだろう。だからそういう時に、正しそうに見える強い意見に流されるのではなく、自分の信じるモノを信じて欲しかった。今の彼女ならば出来ると、そう思ったから。

 

「しかし、一人では難しいこともあるでしょう。揺らいだ時、分からなくなった時はいつでも相談してください。どうすればいいのか分からないのはみんな同じです。その中で大事なのは、常にもがき続けることですから。けれどその中で溺れてしまっては元も子もありません。自分では限界だと思ったら、先生や私に頼ることは決して悪い事ではありませんので。こういう事を伝えておくべきだと思って、お伝えしました」

「そう、ですか……。まだ、そこまで大きく思い悩んでることはないんです。でも、このままでずっと大丈夫とも、あんまり思えなくって。たまたま上手くいっているフェーズなだけの気もして……」

「それならそれでも構いません。もし上手くいかないな、と思った時があったら、私の言葉を思い出してくれればそれでいいですから」

「はい。分かりました」

「あまり長話をしていても、お昼の時間が無くなってしまいますね。低音パートには後で伺います。面談の時程はこの後送りますから、それに合わせて誘導するようお願いしてもいいですか?」

「大丈夫です」

「では、お願いします」

「はい」

 

 黄前さんはメモ帳に何かを書いている。自分なりに出来る事を精一杯やっているのだろう。今はそれでいい。まずは自分の出来る事をキチンと把握すること。そしてそのキャパシティーを理解して、必要な時は他人に投げる事。それが重要な事だ。一見するとまどろっこしいかもしれない。自分で全てやってしまった方が早いし楽に思えるかもしれない。けれどそれではいつか破綻する。だから、他人に頼ることをどんどんと覚えて欲しいのだ。頼ることは逃げることでもないし、負けを意味するわけでも無い。変なプライドに流されず、そこは意識して欲しいところだ。

 

 もしかしたら、彼女は相反する二つの価値観に挟まれる、という事を経験するかもしれない。部長としての職責と、個人としての想いと。その際にどちらを選ぶのか、それは分からない。ただ、その道行が彼女にとって、そしてこの部活にとって良いモノであることを願うだけだ。背反する二つの事態に際して、どちらを取りますか? とかつて私は彼女に尋ねた。その答え合わせの時期は、そう遠くないのかもしれない。低音パートのメンバーの輪に向かっていくその背中に、そんな事を思った。

 

 

 

 

 

 

 トランペットパートの教室は、例年同じ場所になっている。本当にこの輪の中に加わるべきなのか、悩むところであった。確かに吉沢さんは誘ってくれたし、高坂さんも歓迎してくれるとは思う。二年生四人も、去年一年間一緒に活動したし、お互いに人となりは理解しているし嫌われてはいないだろう。けれど一年生からすると、三つも年上の先輩なんて怖いだけではないだろうか。他校の子に怖がられようと気にはならないが、二三年生と一年生の間で温度差があるであろう環境で、変な波風は立てたくなかった。

 

 しかし、ここが地盤であるのも事実。それに、今のトランペットパートの一年生がどんな子なのか、普段の姿から見ておきたいのも事実だった。来年も妹がいる以上は指導に来るだろう。そう考えた時に、ダブルエース二名が抜けたトランペットが悲惨な事になっていても困る。来年はまだ小日向さん以下私が一年間は指導した生徒がいるが、再来年以降はいよいよ見通せない。北宇治が再び没落の道を歩まないようにするには、この辺でテコ入れをする必要がある。そう思いながら、扉に手をかけて開いた。

 

「パートリーダーのご命令で参上しましたよ」

「桜地先生!」

「はいはい、君は相変わらずだね」

 

 一瞬で箸を置いた高坂さんに苦笑しながら、教室内に入った。忠犬みたいと妹は言っていた。口が悪いな、と思ったこともあったがあながちそう的外れでもない気がする。レイナって言う名前の犬は確かにいそうだと、そんなくだらないことを考える。一年生はちょっとビックリした視線を向けていた。普段は怖いドラムメジャーがこんな顔をしているのを見るのは珍しいのだろう。

 

「先輩、遅かったじゃないですかぁ」

「ごめん、ちょっと黄前さんと話してて」

「じゃあ仕方ないですね。えっと、一年生のみんなにはもう一回ちゃんと紹介しておきます。こちらが先輩です」

「いや、それは固有名詞じゃないでしょ」

「良いんですよ、大体それで分かるんですから。それで、在校生だった頃から全体指導をしてくれてたんだけど、基本的に所属はトランペットパートでした。だから合宿の時とかも一緒に行動してました。なので、私の権限で今は来てもらってます。上級生組は全員お互いによく分かってるので、一年生の三人は自己紹介しちゃおっか。じゃあ、取り敢えずるかちゃんから」

「え、私からですか?」

 

 唐突な指名に困惑した顔をしながら、呼ばれた彼女は立ち上がった。

 

「坂本るかです。坂本城の坂本に、ひらがなでるかです。トランペットは前々からカッコいいなぁと思ってたんですが、中学の頃はあんまりやる勇気も出なくって。なので、高校からはチャレンジするぞ~ってことで来ました。あ、あと涼音先輩にはいつも居残りで面倒見てもらってます。よろしくお願いします!」

 

 茶色い髪を水色のシュシュでまとめている。大きな特徴としては水色のカーディガンを着ている事だった。カーディガンを着ている子はそんなに多くないので、割と目立つ。意外と冷え性なのかもしれない。明るく溌溂とした印象を持つ子だった。系統的には希美に近いかもしれないが、分類的には違う気がする。坂本さんの方が緩さがあった。ひらがなでるかという事は、聖書に出てくるルカに由来しているのかもしれない。

 

「全然的外れかもしれないんだけど、ご両親のどちらかか関係者の方にお医者さんか画業の方はいらっしゃる?」

「え、凄いですね。私のお父さんお医者さんです」

「君の誕生日が十月十八日か四月二十二日か五月三日?」

「十月が正解です。なんで分かったんですか?」

「ルカは新約聖書の『ルカによる福音書』および『使徒言行録』の著者とされる人物で、カトリック教会では十月十八日が記念日、そして医者と画家の守護聖人なので」

「はえー、そうなんですね。全然知りませんでした」

 

 自分の名前の由来なんてあんまり知らない人が多いかもしれない。教えるタイプの親じゃない限り、聞かないと分からないだろう。私の名前は割と分かりやすいが、なんで祖母の一字を貰ったのかはよく分からない。吉沢さんも秋生まれだから秋子と割と分かりやすい。高坂さんは麗は綺麗の麗だろうし、奈はカラナシのことだ。人の名前は意外と面白い。

 

「じゃあ、次に雪深ちゃん」

「はい。高橋雪深です。普通の高橋に、雪が深いで雪深です。北海道出身だったんですが、父の仕事の都合で小学校の頃にこっちに転校してます。西中でトランペットをやってました。涼音先輩や三年生のお二人のような立派な先輩方に追い付けるように頑張ります。よろしくお願いします」

 

 深雪さんには会ったことあるけれど、漢字の順番を逆にしている子は中々珍しいんじゃないだろうか。そう言えば、滝先生によるとお母さんが国語の先生をしているらしい。同じ教師同士ということで、よろしくと何かのタイミングで連絡が来たと言っていた。横の繋がりは案外意外なところにもあるということだろう。国語というところから連想すると、正岡子規の句が出てくるのだが、そこから着想を得たのかもしれない。北海道だし、あり得るだろう。

 

「お名前は正岡子規から?」

「そうみたいです」

「なるほどね」

 

 こげ茶色の髪を後ろで三つ編みシニヨンにしている。真面目そうな雰囲気もあるが、決してお堅いという感じでもない。前に吉沢さんが送って来たLINEの写真ではピースしていた。あまりポーズを取らない高坂さんとは対照的だったのでよく覚えている。高坂さんが変なだけかもしれないが。

 

「というか、なんで二人とも涼音の話を?」

「涼音先輩の話をすると喜んでポイントアップするって秋子先輩が……」

「余計な事は言わないで良いんだよ?」

 

 思わず漏らした坂本さんの口を吉沢さんが塞いでいる。ポイントアップとは随分と俗物的というか、何と言うか。そんな単純なことで好感度が上がったら大抵は苦労しないだろう。悔しい事に、私の場合は相当ポイントアップするのだが。

 

「き、気を取り直して最後お願い」

「はい。松武愁梧です。俺も東中でトランペットをやってました。よろしくお願いします」

 

 彼は言葉少なに頭を下げる。梧はアオギリのことだろう。花言葉は確か秘めた恋だった気がする。同じパートに男子が来てくれたことで、貴水君は随分と安心しただろう。なにせ、彼がいないと完全に女所帯だ。その肩身の狭さは想像するに余りある。その貴水君と比べると、制服を多少着崩している。この感じからすると、あまり他者とは積極的に交流するタイプではなく、真面目一辺倒というわけでも無いのだろう。何となく人間性は見えてきた。

 

「あの、桜地先輩って桜地家の……?」

「あぁ、はい。私が源信から数えて四十一代目です」

「じゃ、じゃああの、家にそういう系の史料とかってありますか?」

「まぁ、ありますよ。私は興味無いので読んだこと無いですけど。そもそも外部に公開してないですしね」

「マジかぁ……」

「その辺に興味があるなら、涼音の方に聞いてみてください。あの子は多少色々詳しいですし。日本刀なんかの扱いも長けているでしょうから」

「ありがとうございます」

 

 歴史系に興味があるのか、それともウチの家に興味があるのか。どっちにしても、趣味嗜好が垣間見えた。ウチの家なんて学校生活で基本何にも役に立ってないが、珍しくいい方向に役立ってくれた。とは言え、自分の家の歴史にそこまで興味が無い身としてはあまり詳しく説明できないので妹にぶん投げる。普段いない身でもあるし、なんかの流派に習っていた人に聞いた方が良いだろう。

 

「自己紹介ありがとうございました。短い間ですが、私はトランペットが本業ですから、皆さんの技術向上が一番得意だと思います。よろしくどうぞ」

「先輩もありがとうございました。よし、じゃあ全員自己紹介したところで、ごはん食べちゃおうか」

「「「はい」」」

 

 私のご飯は自分で作っている。普段から一人暮らしなので自炊しているのだ。希美が作ってくれると言ってくれたけれど、普段は任せているので私がいる間くらいは自分でやりたいと思っている。

 

「しかし、一年生のみんなも大変でしょう。怖い先輩二人に毎日しごかれて」

 

 はいともいいえとも取れない微妙な反応が返って来る。三人の視線が高坂さんと吉沢さんの間を交互に行き来していた。二年生の四人はそれを見て苦笑気味である。

 

「怒らせたら面倒なのがこっち、怒らせたら怖いのがこっちだよね」

「ちょっと、怖いってどういうことですか~」

「面倒……」

「あ、麗奈ちゃんが面倒なのは事実だから、へこんでも意味ないからね」

 

 高坂さんが少しへこんでいる姿に笑いが起きる。冗談っぽく言っているけれど、多分一番怒らせたらマズいのは吉沢さんの方だ。今までキレているのを誰も見たことが無いからこそ、ここ一番で大激怒した姿は多分般若阿修羅も裸足で逃げ出すだろう。しかし少し安心した。高坂さんが孤高の先輩になっていないのは、明らかに何の遠慮も無しに弄りにいく吉沢さんのおかげだろう。音楽以外では時々ポンコツな高坂さんの素顔が地盤の中だけでも明らかになっているのは良い事だと思う。

 

「まぁ、アレだよ。二人とも怖いところもあるけど向上心はすごいから。良いところは見習っていくと良いね。ただし、人の弁当からおかずを盗むような部分は真似しないように」

「え、先輩たちそんなことしてたんですか?」

 

 坂本さんは目を丸くしている。普段の真面目な先輩二人からは想像できないのだろう。

 

「そうだよね? 私は未だに忘れてないから」

「バレなきゃ良いって昔言ってましたよねー。思いっきりバレてましたけど」

 

 滝野さんはケラケラ笑いながら言っている。彼女は妹も仲良くしてくれているそうで、その話もよく聞いていた。ゆるふわと見せかけて意外と毒を吐く滝野さんや、バリバリのギャルっぽい園崎さんなど、妹はタイプの違う人間に囲まれている。人生経験や友人関係を考えると、似た者同士で固まるよりもその方が良いだろう。

 

「何のことだか分かりません」

「ねー」

「逃げないの」

 

 三年生の先輩というのはとかく絶対視されがちだ。それを同じ目線まで下げるのは難しい。けれど、三年生でも一年生でも同じ高校生という部分には違いない。そこら辺を意識してもらうには、適度に弱い部分や幼い部分を見せていく事も大事だと思う。その役割は自分では難しいかもしれないので、こうして話のネタを振っていた。しかし、振られた話題からの逃げ方は高坂さんも様になって来た。教えた覚えはないが、変なところばっかり真似して弟子は育っていくのかもしれない。

 

 私がいない間にあった色んなエピソードが語られていく。貴水君の手芸技術が上がってる話だったり、小日向さんが自分の冷凍みかんを高坂さんに頑なに分けなかった話だったり、浅倉さんがまた身長が伸びて困った話だったり。その一つ一つは決して大きなエピソードではないし、きっといつか日常の中に埋もれてしまうのだろう。それでも、今の私から見ればとても輝いて見える。それに、この時間は高校生だったあの頃に戻ったみたいで、たまらなく懐かしかった。

 

 想いを馳せれば、あの頃の景色が蘇る。大人が高校生時代を懐かしむ理由を、この年で知るとは思わなかった。懐かしいと思えばあの頃に戻れるのが、大人の良いところなのかもしれない。話の止む気配のない教室の中で、ふとそう思った。

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