音を愛す君へ   作:tanuu

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第百三十一音 友達

 少しだけ薄暗い音楽準備室。そこは二年間行った個人面談の会場だった。そして今も、こうして面談の会場になっている。ここで話した話を、私は他に漏らすことはない。必要な情報は自分の中に記憶しているようにしていた。歴代の部長にも、先生にも共有はしていない。それは信頼して話してくれた生徒を裏切ることになるからだ。無論、誕生日とか趣味嗜好のような、別段問題ない個人情報は話すこともあるけれど、根幹にかかわる部分は黙っているようにしていた。

 

 指導者というのは難しいものだ。同じアプローチをしても、有効な時とそうでない時がある。それは個人の経験や考え方に依拠する部分が大きい。そして本人自身もそれに気付いていないこともある。そう言った隠された部分を推測し、考えて、そして対応する。常にその繰り返しだ。そのためには情報がいる。私は、そういう情報を得るために面談をしていた。自分達しかいない空間では、人はいつもよりも饒舌になることがあると知っているから。

 

「お久しぶりですね、黒江さん」

「はい、その節はお世話になりました」

 

 丁寧な口調と態度で、目の前の少女は頭を下げた。私はそれに曖昧に頷く。転校生の三年生という存在は、私としても未知の相手だ。逆に言えば、かつて南中に来た私と同じような存在と言えるかもしれない。違いがあるとすれば、その転校が学年の最初の方であったということだろう。私は夏休みの終わりからだったので、時期が違う。

 

 彼女と直接会ったのは二回だけ。一回目は一昨年の清良との合同練習会で、二回目は去年の合同練習会だ。たったそれだけの関係性ではあったのだけけれど、妹曰く私の存在は彼女の中で記憶に残っていたらしい。それも、かなり好意的かつ大きな印象として。

 

「妹がいつもお世話になっているそうで。お礼を言う事しか出来ませんね」

「そんな。私の方こそ転校したばかりの頃に、色々助けてもらいました。学校の案内とかも、積極的にしてくれて、いつも気にかけてくれて……本当に嬉しく思ってます」

「それならばよかった。あの子の優しさは見えにくいというか、遠回りというか、本人は優しさだと思っていないというか……。ともあれ、頑なな部分も多いですが、これからも変わらずに付き合ってくれると幸いです」

 

 ウチの妹が下の名前で呼ぶ相手は少ない。同じパートの先輩を除けば、彼女と吉沢さんくらいだろう。黄前さんのことはずっと部長呼びだし、高坂さんのことは名字のままだ。言ってしまえば吉沢さんや黒江さんより同僚に近い高坂さんへの対応の方が他人行儀で事務的なのは、彼女の好き嫌いの問題だろう。

 

 取り敢えず共通の話題を振る事から始める。その後に周囲を埋めていき、本題へ近づいていく。いきなり本題からぶち込むパターンもあり、それが有効に作用した月永君のような例もあるが、今回はその手法は向いていないと判断した。理由は特に無い。強いて言えば、これまでの経験と勘である。そしてこの勘は、存外当たるのだ。

 

「さて……今回の面談は、毎年行っていたモノでした。今年は黄前さんが簡易的にやったようですが、恐らくあなたは受けていないでしょうから、初めての経験という事になるでしょうかね。学校の進路面談とかとは全く違いますし、先にも予告した通り選考や今後の指導においてあなたに不利益になるようなことは一切ありませんので、どうか安心してください」

「大丈夫ですよ。私は、桜地先生を信頼していますから」

「おや、それは嬉しいですが、それまたどうして? 合同練習会で二回ほど指導はしましたが、そこまで信頼して頂けるような事をした覚えが無いのですが」

「大友先生がよく先生のお母さんとの思い出を話してくださったというのもあります。でも一番大きいのは、これまで北宇治の吹部と交流してみて、とても良い雰囲気だったので、羨ましいなぁと思っていました。その部活の空気を作った方の一人だと思います。だから、信頼しています。それに、去年の演奏もとっても良かったので」

「それは嬉しいお言葉ですね」

 

 雰囲気通り温和でゆったりとした印象を受ける。そしてそれは作り物ではないのだろう。もしそれが仮面であったのだとしたら、妹が引っかかるはずがない。あの子はこういうのを見抜くのに長けている。だから久石さんの本性というかにもすぐ気付いた。そのセンサーに引っかからないという事は、多分これがある程度素なのだろう。

 

「私としても、あなたが転校してきたと妹に聞いたときは驚きましたが、同時に嬉しくもありました。あなたが上手い奏者であり北宇治の悲願にとって重要な役割を果たしてくれるだろう、というのも勿論ですが、わざわざ北宇治を選んでくれたということは、ここに来たいという明確な意思があったという事ですからね。そういう学校、団体に出来たというのは、先達として喜ばしくありました」

「そんな。私なんてまだまだです」

 

 目立つのはそこまで好きではない。褒められるのも同様。謙遜することが多い。妹の情報は正確だ。付き合いがそこそこ長いせいか、彼女と話す際のポイントなどを事前に伝えられているが、その情報はそれなりに役立っていた。

 

「何か困ったことがあれば、いつでも言ってください。私も妹も、出来る限り力になります」

「ありがとうございます」

「私も転校生仲間なんですよ、実は。私は中三の夏休み終わりに、南中に転校したんです。ドイツから」

「南中、っていうのは涼音ちゃんや佳穂ちゃんの出身校ですよね? 中学の全国大会で名前が載っていたのを見ました」

「その通りです。もし私が四月に転校していたら、あなたと同じように吹部に入っていたかもしれませんね」

 

 そうしたら、私も希美や優子と同じ記憶を共有できたのだろうか。そう考えて首を横に振る。きっとそうなっても、中途半端な記憶だけ共有することになるのだろう。それはいっそ、何も知らないよりも辛いことに思えた。

 

「ですので、転校生の苦労は知っているつもりですから。清良も良い学校だとは思いますので、離れるのは辛かったかもしれませんが……」

「慣れてますので」

「そうですか。清良は貴重な戦力を一人こっちに奪われたという事で、大友先生が地団駄を踏んでいる姿が想像できそうです。まぁ向こうにはあなたと同学年のユーフォの子もいるでしょうから、ライバル対決になりそうですね。名前は確か……そう、白瀬さん。明るい演奏をする子でしたね。お元気ですか?」

「……多分、元気だと思います」

「そうですか。まぁ、転校前の学校の子と連絡を取るというのはそう頻繁にすることでもありませんしね。最近はLINEのおかげで幾分もやりやすくなりましたが」

 

 地雷を踏んだ。今の沈黙は時間にすれば数秒も無いだろう。けれど私の聞こえすぎる耳は彼女の呼吸の乱れを掴んでいる。目は一瞬泳いで、手は微かに動いた。彼女の触れて欲しくない部分に、私は今間違いなく触れたのだ。記憶から情報を手繰り寄せる。一年の時と二年の時はしっかり会って会話もしている。黒江さんは一年からずっと大会メンバーだったと言っていた。反面その子は全国で演奏している姿を見ていない。つまり、去年も一昨年も大会メンバーでは無かった。

 

 去年の秋から何かがあったのだ。それについて考える。一瞬亡くなったのかという最悪な想像が頭をよぎるが、流石にそれは無いと結論付ける。元気かどうかという質問を誤魔化したが、多分という言葉を使ったという事は自分が確認できないだけなのだろう。つまり、ちゃんと清良に存在はしているはずだ。こんな想像をしてしまうのは、私の人生経験のせいだろう。

 

 であれば想像できる結末は二つ。一つは去年の加部のように何らかの原因で吹けなくなった。もう一つはこれが一番あり得るモノだが、退部した。片やずっと選ばれる同期。片や万年補欠の自分。同期にユーフォが二人でその結果。比較されるのは明白だ。そこで友情を続けるのは難しい。ある意味では、高坂さんと吉沢さんのような関係で、かつ状況がもっと悪かった世界線とも言えるかもしれない。

 

 ともあれ、これは記憶の片隅に留めておこう。ここで掘り下げても何も良い事が無い。思えば、彼女の穏やかさも人間関係の諸々からくる波風を避けるために形成されたのかもしれない。涼音は転勤族と言っていた。だとすれば、あり得る話だ。既に出来上がっているコミュニティに入っていくのは難しいものだ。軋轢も、当然あるだろう。だがそれに触れても意味が無い。強引に話を変えることにした。

 

「まぁそれは良いとして音楽の話に入りましょうか。楽器の準備をお願いします」

「はい」

 

 彼女のユーフォは銀色に輝いている。ユーフォニアムをマイ楽器として持っている生徒は非常に少ないだろう。トランペットやフルートは見かけるけれど、余程愛していないとユーフォニアムは買わない。だから彼女は非常に珍しい存在だった。ユーフォのマイ楽器という要素に田中先輩を想起する。

 

「それでは、場所を指定するので少し演奏してみてください」

 

 私の指示する場所を彼女は奏でていく。なるほど、それは超一級品の仕上がりだった。しなるような柔らかさ、花火が砕け散る瞬間のようなきらびやかさ、角の取れた真ん丸なまろやかさ。いずれも一朝一夕では磨けるような技術ではない。長い時間と多くの努力を経た末にした到達でいない域に近い。まさに「清良のサウンド」だ。ウチの母親の時代から幾星霜、変わらず受け継がれている。

 

「では、自由曲ソロパートをやってみてください」

「ソロ、ですか?」

「難しいですか?」

「いえ……分かりました」

 

 その演奏は上手い。だが他の北宇治の部員同様、どこか他人事なのだ。楽譜に書かれている通りの演奏にはなっている。彼女の場合、そういう領域はもうすっ飛ばしているのだろう。上位層にいる奏者ではままある事だった。高坂さんやウチの妹も技術面を指摘されることは少ない。

 

「……なるほど、悪くない。それでは注文です。同じところをもっとしっとりと吹けますか?」

「しっとり、ですか」

「えぇ。より深みをつけて、そうですねイメージとしてはもっとマイナスな感情を載せて構いません。宿命とは時に面倒事であったり望まない運命への道であるという事もあるので」

 

 また演奏が行われる。なるほどと舌を巻いた。この調整力は素晴らしいの一言に尽きる。奏者としての技量は幾つか評価点があった。音量、音質、表現力などに加えて、調整力というのもある。求めている演奏や求められている演奏と自分の演奏の差異を即座に把握して、練習で修正、或いは本番中に修正を自分でしてしまう人もいる。その点、黒江さんはその修正力が凄く高い。

 

 私が求めている演奏に近付けるために、やや悲壮感と悲しみのある演奏になっている。それは宿命が未来への決断というよりは悲しき別れであるかのように聞こえた。私の注文に近いモノになっている。指揮者の望んだ状態をしっかり即座に把握して修正をかけることが出来ていた。この修正力の高さはかなりの強みだろう。逆に黄前さんはカチッと彼女自身の中で何かがハマると爆発的な演奏を見せるタイプだ。条件が整えば120点を出して活躍できるタイプか、常に100点のタイプか。どちらを選ぶかは、難しい問題だ。

 

「ありがとうございます」

「大丈夫でしたか……?」

「えぇ。大変よい修正力ですね。少しだけ大きめに吹くことは可能ですか?」

「はい」

 

 少しだけ、という曖昧な表現でもある程度想像した上でほんの少しだけ音量を大きく調整した演奏が返って来る。打てば響くとはこのことだろう。二年前に清良の大友先生と話したのを思い出す。ウチの真由と黄前さんとどっちが上手いか、と彼女は問うた。私は今は黒江さんの方が上手いと返した。今では二人はどちらも拮抗しているため、一概にどちらが上手いとは言い切れない。これはオーディション選考は大変だろう。

 

「良い調整です。それはあなたの強みとなるでしょうから、これからも活かしてください。この辺で演奏の確認は終わりましょう。何となくあなたについて理解することが出来たような気がします。まだ一端でしかありませんが」

 

 取り敢えず非常に高い実力を持っており、調整力に長けた奏者であるという情報は生きた体験と共に私の中にインプットされた。今はそれで十分である。それだけあれば、演奏面での指導には事欠かない。問題はこのレベルの奏者が隣にいることで受ける、黄前さんの心理的ストレスの方になるだろうが。

 

「最後になりますが、一つ質問をさせてください。この後皆にも聞こうと思っているのですが、どうせなら良い機会ですので。今回の自由曲は『一年の詩〜吹奏楽のための』です。そして曲は春夏秋冬を通じて一年間を示している。非常にメッセージ性が強く、また奏者が曲と上手く心情をリンクできればより高いレベルでの演奏が行えると思っています。そこで聞きたいのですが、あなたにとって吹奏楽とは、そしてそれと共に過ごした一年間ないしこれまでの吹部人生はどういうモノでしたか?」

「どういうモノ……難しいですね……」

「確かに、言われてみればかなり抽象的ですね。吹奏楽部にいる目的、と言い換えてもいいかもしれません。何を目指して音楽を続け、部活にいるのでしょうか。辛い事や大変な事もあるでしょう。それでもとまた新しい一年を進み始めた。入った部活で何となく三年間を過ごす生徒もいるでしょうが、あなたは転校してもなお吹部の門を叩いた。その理由と言ってもいいでしょう」

「私は、同窓会に呼ばれたいんです」

「……なるほど?」

 

 同窓会。大学にも一応ある事にはある。同期会には全然顔を出せていないが、毎年律儀に招待状は来ているので、そろそろ今年くらいには行こうと思っていた。だが、その同窓会と吹部にいる理由が上手く結びつかなかった。

 

「卒業した後に、何か集まりがあったら、その時にみんなの中にいれたらいいなって思うんです。色々あった部活だと、いい思い出が少なくて、そうなってしまうと卒業後に集まる事も、あんまり無いんじゃないかなって。未来の自分が幸せであるために今頑張ってるって言ってもいいかもしれません」

 

 彼女は終わり方を模索しているのだ。全てのモノにはいつか終わりが来ると彼女は知っている。その思考には共感できる部分がある。全てのモノにはいつか終わりが来る。栄光も、苦痛も、そして人生も。それは唐突で、前触れの無い事の方が多い。そしていつも、終わりは残酷だ。私は友人の死で、彼女はきっと友人との別れとその友情の崩壊でそれを知った。

 

 転校しても私たちはずっと友達だよ、と言った相手と友達でい続けられる確率はどれくらいだろうか。連絡するね、と言った相手から手紙や電話が来るパーセンテージはいかほどだろう。その低さは、終わりを見据える思想へ少女を誘うのに足りないという事は無いだろう。

 

 彼女は身を置く場所で安穏に過ごし、そこでの生活が終わりを迎えたときに自他ともに円満に別れられることを願っているのだ。内心でため息を吐く。これは中々に難しい相手だ。去年の夏、今を必死に生きることが大事だと黄前さんに伝えたのを思い出す。彼女が今もそれを覚えていて実行しているのだとしたら、黒江さんとは合わないだろう。それも致命的に。

 

 加えて言えば、私とも微妙に思想が違う。私たちは恐らく、同じように永遠というモノの空想性を知った。そして私はいつか来る終わりの日にやり残したと後悔しないように全力で今を生きる事を選んだ。いつ終わるのかは分からない。だからこそ、全てを全力でと。彼女はいつか来る終わりの日に笑っていられるように、思い出の色を幸福で塗ることにした。

 

 物語はハッピーエンドが良い。確かに私はそう言って、去年リズと青い鳥の第四楽章を中心に据えた。だが、あのハッピーエンドと彼女の言う幸福な結末は同種のモノなのか。それは多分違うと、私の中の何かが告げていた。彼女は現在ではなく未来を見ているようで、その実どこも見えていないようにも思える。未来を見るばかりに現在を傍観者のように過ごし、結果現在が空疎になる。その末にたどり着いた終わりの日に、残っている記憶は本当に幸せなのだろうか。

 

 答えは分からない。ただ一つ言えるのは、このままでは多分同窓会に呼ばれないだろうという事だけ。

 

「あの、すみません。何か間違ったこと言ってしまったでしょうか」

 

 私の少々長い沈黙に、彼女は不安そうな目でこちらを見つめた。勿論、間違いというつもりはない。頑張る理由なんて極論何でもいい。目立ちたいからでも、好きな子に振り向いて欲しいからでも、有名になりたいからでも、気持ちいいからでも、何でも構わない。他人に迷惑をかけないのであれば、の話だが。

 

「いえ、そう言う訳ではありません。頑張る理由に正解も間違いもありませんよ。ただね、一応私は小中高大と全部経験はしたので、アドバイスをしておきたいと思います。余計なお世話かもしれませんけどね」

「お願いします」

「多分ね、あなたは今のままだと同窓会には呼ばれませんよ」

「どうして、ですか?」

「どうしてって、そりゃあなた。友達は自分から作りに行かないと。なんであなたは呼んでくれるのを待ってる前提なんです? やりたきゃ自分で同窓会開催して、メンバーを呼べばいいじゃないですか。或いは部長辺りを焚きつけて幹事を手伝うとか。それでも結果は同じでしょう? 卒業後皆で集まって、昔を懐かしみ思い出を話し近況を報告して。あなたが呼ぶのと、あなたが呼ばれて行く。どっちもやること同じなんですから、何の違いも無いでしょう」

 

 待ってるだけじゃ何も解決しない。自分の望む結末が欲しいなら、自分から行動するべきだ。私はそう思っている。無論、それは自分で何でもかんでも抱え込んで一人でやれ、という意味ではない。誰かを巻き込んだり頼ったりするという過程を経た方が望む結末に近付けるならそうした方が良いに決まっている。

 

「察するに、あなたは同窓会に呼ばれたいんじゃない。じゃないというのもおかしいですね。完全に否定はしませんし、そういう気持ちがあるのも事実でしょう。けれどそこに隠されている本当の感情は、呼んでくれるような友達が欲しいってことじゃないんですか? 本当の友達、一生モノの親友。そういう相手が、ね?」

 

 午後の日差しが音楽準備室の窓からぼんやりと室内を照らす。埃っぽい室内で、日光を背景にした私は、彼女にどういう風に見えているのだろうか。私の目の前の彼女は、動揺しているように見えた。

 

 無理も無いだろう。私は今、彼女の価値観を壊しに行っている。無論、そう簡単に壊せるとは思わないし、壊す必要もない。ただ、何か考えるきっかけになって欲しいと思う。自分の人生は本当にこれでいいのか。難しい問いだが、それを考え続けない人生であって欲しくないというのが私の願いだった。

 

「もちろん、何かの偶然や幸運で一生の親友となる存在の方から声をかけてくれることもあるでしょう。でもそれを待ち続けるよりも、自分から探しに行った方が確実では無いですか? 無論その中で失敗や問題もあるでしょうけれど、何もしないよりはずっと生産的だと思います。友達が欲しいなら、自分から行かないと。待っているだけじゃ、一生そのままですよ」

 

 私は幸運だった。大学の入学式で隣の席だったディートが話しかけてくれなければ、きっと孤高の飛び級生として大学生活を終えていただろう。その点、私は幸運に恵まれている。だからこそ、それがレアケースだと分かっている。

 

 それに、それ以外の面子は私からかき集めたのだ。人生つまんなそうに生きていたヴァイオリン奏者の手を引いて無理矢理引っ張り出した。唯我独尊のお嬢様と挑発を繰り返しながらくだらない言い争いをしつつ語り合うようになった。アパートの一階にあった店に入り浸る酒癖の悪いクラリネット奏者に話しかけ、そこから色んな店に行くようになった。

 

 そして何より、私の一番の親友。私の少し年上の、けれどそんな事を全く感じさせない彼女は、海辺で演奏している時に私が声をかけた。孤児院出身で、才能を見込まれて飛び級で進学したけれど、同年代の友達がいなかった彼女。記憶の中で、亜麻色の髪と銀色のロザリオが揺れていた。辛さや苦しさを知りながら、それでも音楽を愛していた彼女は、黒江さんを見たらなんというのだろう。案外、それもまた人生とか言いそうな気がする。

 

「すみません、長々と話してしまいました。ともあれ、あなたとお話しできて良かったと思っています。他の三年生のことは嫌になるくらいよく知っていますので、余計にあなたのことはキチンと知っておきたかったものですから」

「……はい」

「あなたはこれから、多分色々とあるでしょう。きっと平穏無事とはいかないと思います。この部は意志が強い子が多いのでね。困ったり悩んだり、自己解決が難しいと思ったらすぐに誰かを頼ってください。私や先生が難しいなら、他の子でも構いません。自己解決が立派とされがちですが、別に全然そんな事は無いですし。誰かを頼るのも、大事な事です。あなたの味方となってくれる子はともすればそこまで多くないかもしれませんが、いないわけではないでしょう。敵の数を数えるよりも、味方一人一人と向き合うのが、一番大切だと私は思います。さて、これで面談を終わりたいと思いますが、何か質問はありますか?」

「大丈夫です」

「そうですか。あなたの後一年もない高校生活が、実りあるモノであることを願っていますよ」

 

 黒江さんは丁寧に頭を下げて部屋を出ていく。それを見送った後、私は手元のメモに記入を始めた。彼女は上手い。そして、その上手さを誇示したりしないタイプだ。自分から主張をすることも、決して多くないだろう。予定表では関西大会に向けてのオーディションはかなり近い。そこで黄前さんと黒江さんのどちらが選ばれるのかは完全に分からない。審査する先生次第だろう。

 

 どちらにしても、波紋は既に出来始めている。もう動き出した流れを止めることは出来ない。出来ることがあるとすれば、それはなるべく良い方向で帰着するように促したり手伝う事だけ。私はもう部外者になってしまった。昔のようには出来ないし、黒江さんにだけ注視するわけにもいかない。

 

「ままならないな」

 

 呟いた声は夏の日差しに溶けていく。外から悩みの中にある生徒たちを見ているというのは、何とも歯がゆい気分になる時もある。それでも見守っていくしかないのだろう。それが私に与えられた仕事なのだから。

 

 人生は思った通りにならないから面白い。私の親友はかつてそう謳った。その境地には、まだ至れそうにない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 夏とは言え、夜の廊下は暗い。結局一年生全員分面談していたらかなり遅くなってしまった。しかしそれと引き換えに得るモノは多くあったと思う。これは必ず、今後の指導に生きてくるはずだ。内容を伝えることはしないが、どういう方法でアプローチするのかは何となく見当がついたし、抱えているモノがある人の話も少しは聞けた。高坂さんや妹に私なりのアプローチ方法を伝えることもできるだろうし、黄前さんやパートリーダーに注視するように促すこともできるだろう。

 

 全体練習は既に終わり、居残り組が練習している音が微かに聞こえてくる。とは言え、この時間なので半分以上は帰宅しただろう。この時間に夜の学校ですることは一つだった。

 

 バン、と教室のドアを開ける。漏れ出る冷気を感じた。煌々と部屋を照らす蛍光灯の光の下には女子高生が二人。この教室はこれまで二年間、一番最後の時間まで音が聞こえる部屋だった。そしてこの半年弱はそれが封印されており、今再び音が奏でられるようになる。まぁ要するに、高坂さんと吉沢さんの個人レッスンの時間である。

 

「はい、やっていきます」

「「お願いします」」

「明日からはもう少し早い時間に始められると思うので、そのつもりで。ドラムメジャーとパートリーダーで疲れているかもしれないけど、一切遠慮はしないからよろしく」

「それは別にいいんですけど、先輩大丈夫ですか? この時間があるのは、私たちとしては嬉しいですけど、ただでさえ来てもらってるのにこんな部分までやってもらうのは申し訳ないというか……」

 

 吉沢さんは実際申し訳なさそうな顔をしている。確かに時間外労働ではあるけれど、今まで続けていたことだし、これが本来の在り方であるとも言える。それに、私としてもこの時間にはメリットがあった。

 

「別にいいから気にしないで。君たちはね、ちょっと他とレベルが違うから。全体指導で指摘すると勝手にどんどん進んでって周りが置いてけぼりになる可能性が高いんだよね。周りの子が足し算やってるのに二人だけ方程式やってたらマズいでしょ? だからこっちとしてもメリットがあるんだ」

 

 去年一昨年はよそ見もしないでウオー上手くなるぞーとやって来たが、その結果なんか周囲と実力に乖離が出るようになってしまった。トランペットの子でまとめて指示するという事がほとんどなくなってる。何故なら、他の子に注意するような事柄は大体出来ているからだ。そうなると、やはり他のパートをそこまで引っ張っていけるように優先的に指導してしまう。その結果二人への指導時間が減るのも問題なのだ。

 

「という事でやっていきたいんだけど、その前に高坂さん」

「はい」

「君はどこの音大へ進学するの?」

「……まだ迷ってます」

「そうか。まぁ大体欧米は九月入学だから、君だけ半期遅れで大学生になるわけだし、時間は人より多めにあるのでじっくり考えるように。どの先生に指導を受けるかで今後の人生が変わることもあるから」

「はい」

「吉沢さんは? 進路考えた?」

「う~ん、まだはっきりとは決まって無いです。何となく心理学系に興味はあるんですけど」

「なるほどね」

「私は、音大はどうかって誘ってるんですけど、久美子と同じく振られてます」

「私は麗奈ちゃんみたいに演奏家にはなれないから」

 

 にこやかに笑いながら、それでも声にはどこか諦観を込めて吉沢さんは言った。その言葉に、高坂さんは残念そうな顔をしている。高坂さんは共に歩む存在が欲しいのかもしれない。黄前さんは背中を押してくれるだろうけれど、同じ道を歩いてはくれない。

 

「折角ここまで来たのに」

「まぁ、そうなんだけどね。音楽を仕事にする、っていうのにちょっと想像つかなくて。

「私はあなたと一緒なら、きっと二人でてっぺんを目指せると思う」

「それは嬉しいけど、お金もかかるし。それに、麗奈ちゃんに勝てないのにプロにはなれないでしょ?」

「じゃあ、私に勝ったらプロ目指すの?」

「そう、だね……。選択肢には上がって来るかな。逆に言えば、麗奈ちゃんは私に負けてるようじゃプロへの道は遠いよね。ねぇ、先輩?」 

 

 私はそれに頷いた。ここで負けているようでは、プロへの道は程遠い。とは言え、相手もただの高校生ではない。乾いたスポンジが水を吸収するように、白紙の紙に絵を描くように成長していった私の三番弟子だ。序盤のボスがラスボスという状況が、今の高坂さんの置かれた状況だった。

 

「ともあれ、今は目の前の演奏だ。久しぶりのこの時間だけど、感覚は鈍ってないね?」

「「はい!」」

「よろしい。ではレッスン開始と行きましょう」

 

 楽譜を開いて、夜の帳の中でトランペットの高音を聞く。この時間は私の好きな時間でもあった。指導者と生徒、先輩と後輩。それが入り混じって混在する時間が今なのだ。多くは変わり、私はいつしか部外者になってしまった。けれどこの時間の空気だけは昔と何も変わってないように思える。それに教えるなら優秀な子の方が良い。

 

 その点、どの大学生や他校の生徒よりも、この二人の方が優秀だった。

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