長い一日が終わった。最初の挨拶、全体練習、トランペットでの交流、面談と各パートの詳細な状況確認、先生との打ち合わせ、個人レッスンともう盛りだくさんの一日だったと思う。とは言え、よくよく考えてみればこれらは面談を除けば高校時代に毎日やっていた事でもあった。高校時代はたった数ヶ月前までそうだったのに、随分経ったような気がする。それこそ、今日のようなスケジュールは日常だったのに、すっかり疲れてしまった。これは体力が減ったのか、環境の変化ゆえなのか。
学生でいた頃はもう少し楽だった気がするのだが、それはどうしてなのか。色々と理由は思いつくが、コレと断言できるほどの物はない。多分、色んな要素が組合さっているのだろう。希美がいたこととか、まだ同期が沢山いた事とか、優子たちの方が気安くやれていたからとか、学生生活で疲れを発散していたからとか、色々だ。
真夏の夜の道は人通りが少ない。妹は先に帰ってしまった。かつて何度も歩いた家路への帰り道を今は車で走っている。家までの近くも遠くも無い道のりを惜しむように歩いていたあの頃の気持ちには、もうきっとなれないのだろう。とは言え、これは別にそこまで寂しくも無かった。あの頃は帰宅というのは愛しい人との一時の別れを意味していた。けれど、今の帰宅は彼女の待っている場所へ戻るという意味合いになっているからだ。
「おかえり」
家に帰ってダイニングへ行けば、そう言って笑いかけてくれる存在がいる。それだけで、生きる気力が湧いて来るというものだ。よくドラマやアニメの中で疲れたサラリーマンのお父さんが家族がいるからと頑張ったり、家に帰れば仕事で疲れていても気力が回復するという描写があるが、あれは決して嘘でも誇張でも無いと思えるようになった。笑っていてもむすっとしていても彼女は可愛いけれど、出来れば笑っていて欲しい。そういう環境に出来るかは、私の努力によるところも大きいのだろう。
「お疲れみたいだねぇ」
「大分ね。高校時代とやってることはあんまり変わらないはずなんだけど……人間年は取りたくないもんだ」
「まだお互いに十代なんですけど~? 凛音でダメなら、十八の私はどうなっちゃうの」
まったく、と少しだけ呆れた声で言いながら、彼女はレンジの中に二人分のお皿を入れた。
「涼音と雫さんは?」
「涼音ちゃんは夏休みの宿題があるからって早めに食べちゃった。雫さんはお仕事佳境みたいで、部屋から出て来てない。一応ご飯は食べるって言ってたから、届けには行ったよ。大変そうだね、絵描くのって」
「クリエイターはやるもやらないも自由だけど、やらないと何も手に入らないからね。忙しい時はホントに忙しい。その点演奏主体の私はまだ楽な方だよ。というより、希美は先に食べなくて良かったの? 別に待ってなくても良いのに」
「私もさっきまでバイトだったからね。それに、どうせなら一緒に食べたいわけですよ、カノジョとしては、ね?」
さらりとこういうことを言ってくるのが彼女だった。それでいて、別に誰にでもこういう態度を取るわけじゃない。もっと言えば、身持ちはかなり堅い方だ。私にだけ見せてくれる姿というモノに無感動でいられるほど、私は枯れていない。チン、と音が鳴り、同時に鍋の中の味噌汁が温まる。
「「いただきます」」
目の前に座っている彼女の、家の中でしか見せないラフな格好と少し崩れたポニーテール。自分の日常の中に彼女が存在していることを強調するような姿は、高校時代の私が見たら幸福度の高さゆえに卒倒してしまうだろう。
「あ、そう言えばさっき聞いたけど、お盆休みの一日目に涼音ちゃんたちが宿題やるってさ。パートの子と一緒に」
「そうなんだ。この家で?」
「そうみたい」
「良いんじゃない? どうせ無駄に広いし、部屋ならいくらでもあるから。どっちにしろ私は午前中秀塔大附属に行ってるし。あぁ、でもそれじゃあお菓子とか買いに行かないといけないか。あと、ごはん食べて帰るのかも聞かないと」
「お菓子なら、琴音さんが送ってくれたのが沢山あるから別に良いと思うけど」
「あの人まだやってるの……?」
別に物とか送らなくていいと言ったのだが、ウチの祖母は話を聞いていないらしい。或いはよっぽど希美が気に入られているのか。気に入った人に全力で尽くしに行くのがそれっぽいと雫さんは言っていたけれど、全く想像できない。そもそも料理とかできるのだろうか。私が生まれる前に亡くなった父方の祖父と、どういう感じの家庭を築いていたのか、存外知らない事に気付いた。
「それと、夜ご飯までには終わらせるって言ってたよ」
「なら取り敢えずお茶とお菓子だけ出せばいいか」
「優子たちの時はそんなに色々考えてないのに、随分張り切ってるね」
「あっちは多少適当でも良いんだよ、どうせ向こうも適当なんだから。でも涼音の交友関係なんだし、私が原因で何かあったら嫌だから」
「シスコンお兄ちゃんは過保護だなぁ」
希美はケラケラと笑っている。バイト先まで行ったり買い物に行ったりしているせいか、少しだけ焦げた肌が半袖のシャツから惜しげもなく外に出ていた。袖口からは白い肌とこげ茶の肌の境界線が見える。
「そんなシスコンお兄ちゃんにいいお知らせと悪いお知らせがあります。どっちから聞きたい?」
「……悪い方から」
「OK。涼音ちゃんはお盆休み二日目の午後から友達の家にお泊りに行くそうです」
「? 別にいいけど? どこの家だろう、園崎さんかな。それとも久石さん……はないか」
「さやかさんの家、って言ってたよ」
「滝野さんか。まぁ良いんじゃない……うん? 滝野さん? いやちょっと待ってそれはダメ、それはいかんでしょ」
「そう?」
「そう! 片方が高校生のカップルが一つ屋根の下はいけません」
「高校生同士とか片方が高校生なのはダメと」
「その通り」
「ふーん。でも、私は高二の文化祭の後、この家に泊っちゃったなぁ」
「いや……それはその、緊急避難と言いますか、人道的な観点からと言いますか」
「でもあの時、私もう凛音のこと好きだったよ」
いきなりぶち込まれた知らない情報に頭がフリーズする。そうなった原因は、目の前で優雅にご飯を食べている。こうなるのが分かっていたかのように、その目はからかいの色を多分に含んでいる。
「……いつから」
「関西大会の後から」
「マジかぁ……」
「凛音はいつから?」
「恋愛的な好意を自覚したのは……希美が泊まりに来た日の夜に私のベッドで寝落ちした顔を見てからです……」
「じゃあ、あの晩は両想いの男女同士が一つ屋根の下だったわけだね。わーこれは不純だなー。そんな不純な二人に、涼音ちゃんを止める権利はないなー」
棒読みの声で彼女は言う。言っていることは全くもってその通りだった。ガックリと項垂れる。まぁ実際問題として、妹が同じ家の中にいる状況で変な事になるとは思えない。どこで寝るのかだけは注文を付けさせてもらいたいところだが、もうこの際当人同士の理性に期待して目を瞑ることにした。希美と一緒に旅行行きたいと言い出した三月の私を、送り出してくれた希美のお父さんに倣う事にする。
「ごめんね、凛音の心配も分かりはするんだけど、私はこういう時基本的には涼音ちゃんの味方だから。おんなじ女子同士ね。それに、凛音の言ってること、ウチのお父さんとあんまり変わらないんだもん」
「……はい」
「大丈夫大丈夫。滝野君は問題ないよ。それが分かってるから任せてるんでしょ? それに、何か問題があったら絶対優子が反対するけど、何も言わないのは何だかんだで優子も滝野君を信頼してるからだろうし」
「そこは信頼してる。それとこれとは別なだけで」
「はいはい。仕方ないなぁ、もう。その代わりと言ってはなんだけど、いいお知らせがあるから。なんと! お盆休みの二日目にある花火大会は私も暇です!」
「あ、そうなんだ」
「あー、涼音ちゃんの時より反応わるーい。別に興味ないなら良いよ、行かなくても。折角浴衣用意したのになぁ。今までお祭りとか花火に一緒に行けて無いから一回くらいは行きたかったんだけどなぁ」
「ごめんなさい、行きたいです。一緒に行かせてください」
私のその返事に、満足そうな顔で頷いている。思えば、確かに彼女と一緒にお祭りの類に出かけたことが無いかもしれない。正月の初詣は行ったけれど、夏は行ったことが無かった。一年目のあがた祭りと花火大会はどちらも友人とフラッと寄って関係者に挨拶だけして終わった。二年目のあがた祭りは吉沢さんと二人で行って、花火大会は滝野と妹と出かけた。思えば、あれがあの二人の馴れ初めになるとは思いもしなかった。三年目のあがた祭りは吉沢さん+当時の一年生四人で出かけた。花火大会は吉沢さんと二人……吉沢さんが多いな。
三年目の花火大会の記憶は、未だに頭から離れない。鳴り響く花火の破裂音と歓声。夜空を照らす、太陽を知らぬ花の下で私に相対した彼女の姿。今でも思い出す度に胸がチクリと痛む。それでも、彼女の想いには答えられなかった。今あの時に戻っても、何度でも同じ答えを返すだろう。せめて、希美と幸せになることが私なりの誠意だと思ってもいる。
それはともかく、浴衣姿の彼女と一緒に出かけたことは、これまでの人生経験の中で存在しない。花火にも負けぬ艶やかさで、提灯も霞む明るさで、きっと彼女は人ごみの中に輝いているだろう。その姿は容易く想像できた。
「どう? ちょっとはいいニュースだった?」
「それはもちろん」
「なら良かった。最近お疲れだったみたいだし、少しは気分転換になればなと思って」
「ありがとう」
「どういたしまして」
私には勿体ない存在だと、こういう時につくづく思わされる。こんな彼女を日本に残してまた飛び立つのが凄く心苦しかった。ついついこのまま日本に残り続けるという選択肢を選びたくなってしまう。けれど、きっとそうしようとしたら、希美は最後には私をひっぱたいてでも飛び立たせるだろう。それが安穏に逃げているだけだと分かるから。その譲らぬ強さも、彼女の魅力だった。いつしか、今日の疲れはどこか彼方へと忘れ去っている。
「三日目はみぞれの演奏会行くんでしょ?」
「あぁ、それね。私は一緒に行けないから、涼音と一緒に行ってくれる? 演奏会自体は行くんだけど」
「なんで?」
「なんか君たちの大学から講演をお願いできないかって言われてて」
「え、なにそれ、私知らない」
「三回生以上向けだからじゃない? そういうコンセプトでお願いするって言われたし。金管の子は一回生からでも希望すれば来てもいいらしいんだけど。という訳で、先にそれを終わらせてから演奏会行くので、現地集合になるから。高坂さんとか黄前さんも来るらしいので、適当に合流してて」
二人の通う音大の器楽科は、長期休みになるとこういう演奏会という名の成果発表会みたいなものがあるらしい。みぞれは木管コースにいるので、当然参加対象だった。逆に器楽科じゃない子は特に関係無いので、参加するとすれば観客側になる。その演奏会は大学のキャンパス内でやるらしいので、同じキャンパス内にてお昼に講演をして欲しいというのが大学からの依頼だった。臨時収入としては悪くないと思い引き受けたけれど、講演相手はほぼ全員年上だろう。
「順調に奏者への道を歩み出してるようで何よりだよ。なんだかんだと色々あったけど、落ち着くところに落ち着いてくれたし。こっちの弟子はまだ進路に迷ってるから」
「あぁ、高坂さん?」
「そう。アメリカ行くのかこっちに来るのか。まぁどっちでもいいけどもね。来るなら来るで構わないんだけど、その場合教えないといけない事とか多くて。あの子ドレスとか持ってるのか……? パーティーの経験とかあると良いんだけど。ないなら連れて行かないといけないし、はぁ……」
「大変だね、師匠っていうのも」
「やらないといけないってわけでも無いんだけど、コネとか繋がりはあって困るもんじゃないから。それに、私も友達に顔を繋いでもらったわけだし、その分くらいはしてあげないと。お嬢がいたおかげで、ヨーロッパに地盤を築けたから」
「エリーゼさん、そんな凄い人なの?」
「ドイツ帝国の旧貴族で今はホテル王の娘だよ」
「うわ、お嬢様……。そっかだからお嬢か……」
幸いなことに、マナー系列は全く問題なかったのが私の強みだと思っている。ウチの家の教育で助かったのはこういう部分だった。その辺を高坂家がしっかり教えてくれていれば何もすることはないのだけれど、そういう知識を伝授してくれていないと私が教える羽目になる。ヨーロッパにはまだ王侯貴族が普通に存在しているのだ。そういう世界観と交流するには、知識と経験が必要になってくる。あとは、そう言う世界と繋げてくれる存在も。
彼女の父親はアメリカにいるので、もしヨーロッパへ進学するなら身元は私が保証しないといけない。ただの教え子ならこんな事はしなくてもいいのだが。元々二年間のつもりだったけれど、そういう風には契約していなかったので、多分この師弟関係はずっと続くことになるだろう。三人いるしっかり教えた相手の中で、唯一プロを目指す子の力になりたいと思うのは、そうおかしい話でも無いと思う。
「ま、そんなこんなで考えることが多いわけです」
「何か力になれることがあったら言ってね」
彼女の言葉に頷く。いるだけで力になってはいるのだけれど、何か頼れることがあれば助けを求めたいとは思っている。私ではどうにもできない事とか、気付けないことも世の中にはたくさん存在しているのだ。この前の秀塔大の件だって、私が一人でウンウン唸りながら考えているよりはよっぽど良かっただろう。去年の秋にも、彼女を頼ることなく一人で抱え込んでたのを怒られたし、健やかなる時も病める時もっていうのはそういう事なのだと思う。
「ご飯食べたら、お風呂入っちゃおっか。二人はもう上がってるし、洗濯機も回さないとだしね」
「分かった。どっちが先?」
「どっちでもいいよ。それとも……一緒がいい?」
急に来る艶めいた声に、私の心臓がどきりと跳ねた。夏の夜は更けていく。濃密な闇の中に、二人の声を隠しながら。
「初めてのコンクールはどうでしたか?」
B編成も無事に金賞で大会を終え、学校に戻って来ていた。指導を始めてから数日。この期間はA編成とB編成を4:6くらいの割合で教えるようにしていた。肝心要はA編成じゃないかと思われるかもしれないが、これにはちゃんと意図がある。今のB編成は大会経験のない一年生も含まれている。逆に三年生は一人もいない。つまりB編成は来年の北宇治を担う人材が集まっているという事になる。A編成の半分近くを三年が占めており、一年生は片手の指で事足りるくらいしかいない状況で、未来を託す存在を蔑ろには出来ない。
これが初めてのコンクールだという人もそうではない人も、金賞という結果には満足しているようだった。コンクールから一夜明けてもまだ醒めない興奮と高揚の中にいる人も見受けられる。無理もない話だろう。コンクールの類と無縁の人生を送って来た人からすれば、あの歓喜は中々に衝撃的なものがあると思う。指揮をしていた松本先生は相変わらずティッシュボックスを抱えながら泣いていた。
「楽しかったです!」
「それは良かった。緊張と高揚とが混ざるあの感覚。あれを知っているのと知らないのとでは、これから何かしらのコンクールなどで演奏する際の心持ちが変わってきますからね。良い経験になったようで何よりです。そして、例年まではB編成の夏はこれで終わりでしたが、今年は違いますね? まだ皆さんには次のチャンスがある。すなわち、関西大会前のオーディションがあります。ここで大会メンバーに入れれば、もっと大きな舞台で、もっと多くの観客を前にした演奏が出来ます。あの高揚を、興奮を、歓喜を、そして快感を忘れられないという方は是非ともこの機会に全力でオーディションへ挑んで頂きたい。先輩だろうと同期だろうと、その席を奪いにいくつもりでね」
一番コンクールに出たことがあるからこそ知っている。経験というのは馬鹿にならない。場数は必ず自分の力になるのだ。受験とかでもそうだが、慣れない空間や非日常的な空間で、それでも普段と同じような練習の成果を出すのは難しい。普段が百なら、どうしても七十くらいには落ちてしまう。では出せるようにするにはどうすればいいのか。慣れ、というのはそれを助けてくれるツールでもある。尤も、油断の原因にもなるので諸刃の剣でもあるのだが。ようするに、何事も使いようという事なのだろうと思う。
「しかし、それが相手への敵意へ変わってはいけません。オーディションとは、特に部活のオーディションは一人を選び出す類のモノではありませんから、結局は部内においてどのくらいの位置にいるのかの相対評価になります。平均水準の届いているのか、超えているのか、等々ですね。相手を蹴落としても、自分が水準に届いていなければ意味がありません。大事なのは、昨日の自分、少し前の自分よりも上手くなれているのかどうか。自分の敵は、常に自分自身です。よろしいでしょうか?」
「「「はい!」」」
「良い返事です。何はともあれお疲れ様でした。私としてのこの結果は大変喜ばしい。この成功をばねにして、練習をやっていきましょう」
そもそもB編成の大会に出て金を獲れるようになった、という時点で昔に比べれば雲泥の差なのだ。万年銅賞の北宇治では、B編成で出ても同じ結果だっただろう。楽器の類もほとんど揃っている。いないのはオーボエとコンバスくらいだろうか。最初の頃は人数がもっと少なかったので演奏できる曲の幅も狭かったが、普通の曲を演奏できるくらいには面子も揃っていた。これも、北宇治の隆盛を示していると言えるだろう。
音楽室の方からはA編成の合奏が聞こえてくる。向こうはずっと同じ曲を演奏している一方で、こちらはB編成の大会用の曲も演奏しないといけなかった。そのハンデがこちらには存在している。その穴を埋めるのは中々大変であるため、やはりAとBの人員移動はそこまで大きく発生しないとは思う。ただ、そんな状況でも伸びている子はいる。はっきりどうなるかは分からないのが実情だった
「では、こちらも合奏に入ります」
部員たちが楽器を構える。闘志に燃えている者もいれば、やっぱり難しいかなと内心で思っている者もいるだろう。どちらにしても、目の前の演奏に真剣であるという点では同じだった。前に妹が言っていたのを思い出す。四十人を超える今の二年生が三年になった時が一番の難所だと。彼らの中には、三年間の努力が報われないまま終わってしまう子も出てきてしまうのだろうか。そうなる人が一人でも少なくなるように、私は今ここで未来の三年生を教えていた。
午前の合奏が終わり、昼休みを経た午後からは大掃除が待っている。明日からの休みの備え、音楽室と準備室、そして夏休みの間練習で入り浸っている各教室を綺麗にするのが主な任務だった。廊下や窓なども当然その対象だ。これは一昨年から始まった行事である。北宇治が全国に初出場となり、これまでは夏の序盤で終わっていた活動が夏休み中ずっとになったため、掃除の必要性に迫られたのが始まりだった。
特に面倒なのが音楽室と準備室だ。音楽室は机と椅子、マット代わりに敷いていた毛布、段を作っていた木箱などを全部移動させないといけない。この毛布が埃の温床となり、毎年埃アレルギーの人々を苦しめていた。移動させたら埃を落とし、窓を吹き、モップを使って掃除をする。最後には雑巾がけだ。準備室も物と埃のオンパレードなので、ここを掃除するのが一番大変だったのをよく覚えている。
「と、いう事で、今説明した通りの分担で各場所へ移動してください。手が空き次第、他の担当箇所も手伝って、早めに終わらせてしまいましょう。最後に、吹奏楽では息が吹けなくなったらおしまいです。気管支を守るためにも、暑いとは思いますが埃の舞う空間にいる際は必ずマスクをつけてください。以上、何か質問はありますか? 無ければ移動をお願いします」
掃除が一番上手いやつが仕切った方が良いだろうということで、去年駆り出されたのがウチの妹だった。優子は中学時代から同じ部活にいたので、その辺はよく分かっていたのだろう。適材適所ということで、段取りなどを任せていた。その伝統は今年も受け継がれているらしい。高坂さんの補佐をしていることや、学年リーダーをしていることなどからも、部内で一定以上の地位にいるのが分かる。それゆえか、先輩相手に仕切っていても何も思われていないようだ。まぁこれに関しては私の影響も一定以上存在するとは思うが。
この掃除の間、先生方は職員室にいる。別に遊んでいるわけではなく、自分の机を整理したり、仕事をしていたりする。特に松本先生は今年三学年の先生なので、進路関連の諸々をしないといけないようだ。教師という仕事は、ベテランになれば楽になるというわけでも無いというのがよく分かる。
「はい、それじゃあお願いしますね」
「……え?」
「話聞いてなかった? 男子は毛布を、女子は机と椅子を運んでって説明したと思うけど」
「いや、え、私もやるの?」
「うん」
「……マジかぁ」
仕方ないと諦めて、私は腕をまくる。どの道私服で来ているし、スーツ等ではないので汚れてもさほど問題はない。こんなことになるんだったら、ジャージか何かを持って来るべきだったかもしれない。
「先輩、良いんですか? 手伝ってくれるのは嬉しいですけど、休んでてもらった方が……」
「あぁ、気にしないでください。やらないと家での人権が消滅するので」
毛布は何枚も重ねると重いので、二人がかりで運んでいる。反対にいる塚本君が不安そうな声で訊ねてきたが、ここで何もしないと妹からの評価が下がる危険性があるので、やらないという選択肢は無かった。なんで指導に来たのに母校とは言え指導先の学校の掃除をやらされているのだろうかと思わないでも無いけれど、まぁ仕方ないだろう。甘えてくれていると考えて、真面目に掃除することにした。
「せ、先生!? 何してるんですか」
トランペットパートの教室担当に割り振られていた高坂さんが、用具を取りに戻って来た際には驚愕の顔で箒を持たされている私を見ていた。
「気にしないで。家で人権のある生活をするための必要投資だから」
「そう仰るならいいですけど……」
イマイチ納得いかない顔をしながら、彼女は戻って行った。この辺は身内と教え子の違いだろう。高坂さん視点からすれば、指導者に掃除させてるなんてありえないという具合だろうか。高坂さんにとってすれば、私は先輩である前に先生なのだろう。そういう風な順番で関係を構築したのだし、おかしな話ではない。それと同じように、妹からすれば先生である前にお兄ちゃん、という事なのだと思う。だから掃除も手伝ってもらうし、一応全員の前だと敬語は使っているけれど、パート内とかでは崩れる。
「なにアンタ。指導に来て、掃除手伝わされてるの?」
今この学校では聞くことの無い声に振り向けば、大きなクーラーボックスを提げた優子と夏紀が音楽室の入り口に立っている。
「そうだよ。悲しいことにね」
「あぁ、涼音ちゃんに言われたんだ。兄さんもサボらないでねって」
「そういう事だよ、御明察」
「まぁまぁ頑張りな」
「はいはい言われなくても。てかなに、OG訪問? するなら別の日教えたのに。何もこんな大掃除の日に来なくても」
「私、ちゃんとLINEしたわよ。明日辺りに行こうと思ってるって」
「マジ? うわ、ホントだ、ごめん」
「アンタちゃんと見てないでしょ。希美のLINEには即レスするくせに」
「いや、ごめんて……」
我々はいつもこんな感じだ。一年生からすれば中々奇妙な光景かもしれない。敬わないといけない指導者に平然とぞんざいな態度をとっている存在と言うのは。夏紀は一切仲裁などしないで笑って見ている。帰国してから何度か会っているし、家の防音室でバンドの練習していることもある。ドイツ語の課題も手伝ったりした。けれど、学校で会うのは実に半年ぶりくらいになる。随分と懐かしかった。
制服姿は見慣れているけれど、後輩諸君にとってすれば私服姿は初めてという子もいるだろう。黒い夏紀と白い優子でコントラストになっている。前者がジーンズで後者がスカートなのも対照的だった。それでいてヘアピンは同じなのがなんとも二人らしい。
「差し入れにアイス持ってきたんだけど、黄前さんは?」
「今準備室の掃除してるはずだから、そっちに行けばいると思う」
「OK、了解」
夏紀がアイスを運んで準備室の方へ向かっていく。黄前さんや久石さんにとっては久しぶりの再会となるだろう。自分のパートの先輩が来るというのは、関係値が良好であれば嬉しいモノだ。久石さんはオーディションで色々あったものの、そこからは良好な関係を築けているように思える。私も、取り敢えず高坂さんたちを呼んでくることにした。
「高坂たちは?」
「教室の掃除」
「流石の高坂も掃除に関しては涼音ちゃんにこき使われてるのね」
「適材適所ってやつだ。しっかし、大人数いるのに全員分買ってきたのか? 言ってくれればお金出したのに」
「いいのよ。希美とみぞれも出してくれたし」
「全然知らなかった」
「サプライズってことじゃないの」
九十くらいのアイスなんて多分コンビニとかではなくスーパーか何かで仕入れてきたのだろう。
「私の分は?」
「これは頑張ってる後輩用なんですけど」
「そんな殺生な。私だって頑張ってるんだが?」
「はいはい、分かってる。ちゃんとあるわよ、アンタと滝先生と松本先生の分も。先生たちにも渡してきてくれる? この辺から適当に、先生たちの好きそうなの選んでさ」
「流石部長、素晴らしい心遣い」
「アンタは後輩に何も差し入れ無いの~?」
「私の存在が差し入れだから」
「うわぁ……思ってても、仮に事実でも言わないわよ、普通」
「言ってて自分でも思いましたよ!」
こんなしっかり差し入れを持ってきてくれるのは、二人くらいなものだろう。一番苦労してきた世代という事もあってか、思い入れは強い。それでも私が秀塔大附属へ指導しに行くことを責めたりしないのは、二人の性格をよく示していた。優子が持っているクーラーボックスから私と先生方の分を回収する。溶けないうちに職員室へ運んでしまう事にした。
「後で挨拶もしておきな」
「元からそのつもり。じゃ、運搬よろしく」
「りょーかい」
優子はそのまま準備室へ向かう。差し入れか、と考える。特段あんまり思いつかないけれど、もし全国金賞取れたら焼肉でも何でも連れて行っても構わない。とは言え、これは関西大会を突破した後に言った方が良い事だと思うので、もうしばらくは黙っていることにした。取り敢えずは先生たちにこれを渡して、その帰りに高坂さんたちを呼びにいくことにする。
アイスの袋からは冷気が漏れている。まだ高校生だった頃、夏の練習日に幹部で集まった時に学校近くのコンビニで買って、こうして食べていた。あの頃と同じ冷たさが、指に伝わっていた。