OG訪問というイベントがありつつも大掃除自体は順調に終了し、北宇治高校はお盆休みに突入した。この期間は部員に与えられた、数少ない自由時間になっている。それぞれが思い思いの場所で活動している事だろう。休むもよし、溜まっていた宿題を消化するのもよし、家族と出かけるのもよしと、そういう時間になっている。
あの二人が来てくれたことで、高坂さんや黄前さんにとっても良い息抜きになっただろう。二年生の中にも嬉しそうな人が多かった。それだけ、優子部長と夏紀副部長が慕われていたという事でもある。あの世代が評価されているという事は、一緒に作り上げてきたと自負している自分としても嬉しい事だった。黒江さんも、去年の北宇治を見て来たいと思ってくれたようだし、多くの部内外の人員から評価されているのは素晴らしい事だと思う。
同時に、それと同じ方向性を目指すのか、常に問い続けることになった今の世代の苦労も察してしまう。どういう部を目指すのか、それは黄前さん次第だろう。彼女が言った「北宇治を好きになってもらいたい」が今でも存在し続けていて、それを目指して活動できているのか。それは彼女にしか、真の意味では分からないと思う。人間は比較する生き物だ。他人の行いを、そして自分の行いを。それに負けない心を持っていることを期待している。
ともあれ、北宇治は休みに突入した。現役部員である妹は、今日は家でパートの子たちと宿題を消化する会をするらしい。大体は終わっているそうだが、ほとんど終わっていない子が多いようで、助っ人として参加するとのことだ。上手く馴染めていることに安堵しつつ、つい一週間ほど前まで立っていた指揮台に、私は今再度立っていた。
「お久しぶりです。まずは府大会突破、おめでとうございます」
秀塔大附属高校吹奏楽部のひしめく音楽室の空気はそれなりに良い。緊張はあるけれど、まずは第一関門突破という事で気分が上向きになっているのが伝わった。この学校は明日からお盆休みということで、その一日前である今日のうちに関西大会に向けたオーディション審査をしてしまおうと、私はここに来ている。本来はやらなくてもいい契約期間外の仕事ではあるのだが、自分の曲を採用してくれたサービスであった。
「皆さん、体調は問題ありませんね? 暑いですので、しっかりと休憩は取るようにしましょう。私は昨日指導先の大掃除をやらされて腰が些か痛いですが……」
久しぶりに物の運搬をやることになって腰が少し痛かった。慣れないことをするとこうなる。目の前の部員は私のエピソードに若干引いた目をしている。まぁ常識的に考えて指導員に掃除を手伝わせないだろう。彼らは部長である星野さんを除いてウチの妹が在籍中という事を知らない。なので、こんな風な目をしているのだと思う。
「まったく妹だからと言ってもう少し優しくして欲しいモノです。さて、くだらない話はこれくらいにして、本日から次の関西大会までそう日はありません。部長、当日の現地入りはどういう日程ですか?」
今年の関西大会は和歌山県で行う事になっていた。和歌山城の目の前にあるホールが会場になっている。江戸時代にはウチの家とも取引のあった紀州藩の名城は、少し高いところにある。御殿の一部を買い上げて本邸に移築したとかなんとか、そういう話を聞いていた。随分前に家族旅行で行ったきりだった。涼音が苦戦しながらラーメンを食べていた思い出がある。
「はい、当日の演奏順は十八番ですので、午後になります。一応朝早く出発すれば間に合いますが、大事を取って前日には現地入りをします。和歌山近郊のホテルに宿泊し、翌日にゆっくりと会場入りします」
「なるほど、分かりました。では、当日は入り次第連絡をください。私は北宇治の発表に間に合うように行きますので、演奏前に合流という形になると思います。北条先生もそれでよろしいでしょうか?」
「お願いします」
先生は頷く。指揮者である北条先生とは何度も打ち合わせをしていた。流石は一時代を築いた指導者なだけのことはあり、こちらの意図したとおりに指揮をしてくれる。先ほど一度現段階の演奏を聴いたが、しっかりと指示通りに練習をしてくれていた。変な改変をされると大変困ったので、プライドに固執しないタイプの先生だったことは私にとっても幸運と言える。
秀塔大附属は十八番。主な強豪校で言えば、立華が七番、滝上第三が八番、龍聖が九番、北宇治が十三番、東照が十五番、明静が二十一番だ。良い感じにバラけている。比較的遅めなことがどのように作用するのかはまだハッキリとは分からない。順番なんかに左右されない演奏をしてくれるのを期待するだけだ。
「ここまで、皆さんは誰が代表になっても遜色のない練習をしてきたことでしょう。私も、その一端を垣間見てそう思っています。オーディションは今日と、全国大会に駒を進めることが出来ればもう一回行われます。しかし、そんな考えは捨てましょう。次回頑張ればいい、というその次回が来ないという経験を、三年生の皆さんはよく知っているはずです。まずは今日のオーディションに全力を尽くしてください。下級生は、最後かもしれないと思って逆に遠慮などしてはいけません。仮に先輩を蹴落とすことになっても、あなたが、その先輩がもう一回オーディションに挑めるように次に繋ぐのです。よろしいですね?」
「「「はい!」」」
「良い返事です。オーディションの選考方法は前回と特段変更はありません。各パートリーダーは早速くじを引きに来てください」
このくじ引きで審査を決める方式は、毎回演奏順が変わるのでハッキリと誰が演奏しているのか掴みにくいところがある。流石に指導陣はある程度分かりはするが、よほど明確な特徴が無いと完全な特定は難しい。過ごした日数が多い北宇治では、例え目隠しをされていようと誰が演奏しているのか分かるとは思うけれど、秀塔大附属はそこまで濃密な時間を過ごしたわけではなかった。
くじ引きが終わると、早速審査が始まる。と言ってもやることは前回と何も変わらない。私がイメージしている演奏に必要なピースを当てはめていくのが主な作業だ。秀塔大附属専用にカスタイマイズされたメロディーになっているので、当然編成などもそれに合わせたものになっている。来年度演奏するならまた違ったメンバーや楽器の数になるだろう。
午前中に終わると良いなと思っていたが、ちゃんとなんとか午前中に終了することが出来た。実力は全体的に向上している。グラフを作れば右肩上がりだろう。それ故に、どちらを選出するのか悩むような場面も複数あった。北宇治ではどちらかしか採用できないとなった場合は経験やメンタリティーなども判断材料になるのだが、ここではそれらの判断材料が無いので完全に技術力や表現力だけで判断しないといけなくなる。
時計の針が間もなく両方とも十二に近づこうというタイミングで、私の選考は終了した。長考した部分もあったが、これで問題ないと自信を持てる編成に仕上がったと思う。北宇治のオーディションは滝先生や松本先生と合議する時間が長かったが、一人なのでスムーズに決まる時もあるし相談する相手がいなくて困る時もある。完全な完成イメージは私の頭の中にしかないので、こうするしかないのだ。
再度全員を集め、結果の発表を行う。どの番号が誰なのか、ハッキリするのはこの発表の時だ。緊張を孕んだ視線に晒されながら、私は前に立つ。毎回これをやっていた松本先生の苦労を身をもって体験したのがこの夏だった。
「お疲れ様でした。お昼時ではありますが、このまま休憩にしてもモヤモヤしたままでしょうから、ここで発表してしまいます。一応申し上げておきますが、前回同様私はどの番号が誰なのか一切知りません。また、どのような配慮も行っていません。この学校が関西大会を突破できるようになるための編成となっています。では自分の番号が呼ばれたならば速やかに起立してください。まずはトランペットから。三番、四番、五番、八番、十番、十二番。以上六名。自由曲ソロは五番」
五番の声が出た瞬間にガッツポーズをきめている武田さんに内心苦笑しながら、次のパートへ移った。こういうところで取り繕わないのは良さでもあり欠点でもあるだろう。府大会でソロをやっていた内藤さんは十番。仕方ないか、みたいな顔をしているので本人的にはこの逆転劇は意外性が大きいモノではないらしい。
「ホルン、一番、二番、三番、五番、十一番。以上五名。ソロは一番」
どんどんと立っていく部員。その面子は関西大会と変わらない。ソロの交代があるかないかくらいになっているため、座っている部員の中からは諦観の表情も見て取れた。結局、選ばれるのはいつもの面子という感情が渦巻いているのだろう。
「トロンボーン、二番、六番、七番、八番、九番、以上五名。ソロは六番」
ここでざわめきが起こる。トロンボーンは元々高校から始めた元初心者の三年生が落選していたパートである。そこでその三年生の三浦さんが枠を勝ち取っていた。強豪校で私立ともなると、初心者は少ない。そういう存在でもちゃんとメンバーになれると身をもって証明した形になった。
「サックス、一番、二番、四番、八番、九番、十番、十一番。四番、自由曲のD、トランペットとソリ行けますか?」
「はい、行けます!」
「では、それでお願います。次、フルート」
元々そこにソリはないのだが、今回のオーディションでの演奏を聴いて入れると良い感じのアクセントになると判断して導入することにした。選ばれたのが一年生の柏木さんだったことで、音楽室の中にどよめきが起こる。それを無視して次のパートを発表した。
「以上、五十五名。漏れはないはずですが……大丈夫そうですね。今現在起立しているメンバーで関西大会に挑んでもらいます。それを突破すれば、もうあとは自動的に何をしようと全国大会には出場できるわけですから、ここが最後の山場になります。そこで勝ち収められるようにメンバーを選びました。色々と各人思うところはあるでしょうが、今はこれが最善であると信じて頂ければ幸いです。無論、前回と同じように質問があれば受け付けます」
理由を説明しろ、と言われた時にしっかり説明できるように明確な判断基準を設け、それに従った編成を組み、いつでも説明できるように準備しておくことは指導者としての義務だと思っている。彼らも少なくない時間を注いできた。その努力が報われるかどうか、その重大局面に際して選んだ理由を教えることは出来ません、ではあまりにも不誠実だろう。
「そして受かったからと言って油断はしないように。先ほども言いましたが、本番の演奏前に控え室で最後の調整を行います。そこで万が一にも水準に達していない場合、メンバー・ソロいずれも交代の可能性は存在します。最後の最後、演奏が終了し観客の喝采が聞こえるその瞬間まで油断しないようにしてください。良いでしょうか?」
「「「はい!」」」
大きな返事に頷く。取り敢えず、この学校はこれで大丈夫だろう。三年生は全国経験はないとはいえ、強豪だった時代の背中を見ている。当然、知識として知っているだろうし、演奏も記憶にあるだろう。その頃の記憶と比べて、今の演奏が遜色ない、或いは上回っていると判断しての安堵があるように思えた。自信があるのは良い事だと思う。
それが油断に繋がらなければの話だが、雰囲気から判断するに問題ない。部長以下、上手く誘導している。空気作りがしっかりできているのは、強豪の貫禄を感じさせた。オーディションの発表時は流石に動揺もあるだろうが、それをすぐに切り替えられる空気が醸造されているし、アフターフォロー体制も出来上がっている。これは一朝一夕では作れないモノだろう。これまでの積み重ねが、確実に財産になっていた。
「最後に今のメンバーで一度通してみましょう。そこで微調整を加えます。それを以て、本日の私の臨時指導は終わりとなります。では、準備のほどをよろしくお願いします」
選ばれた部員は一斉に着席し、楽器を取り出す。落選メンバーも取り敢えずは座ってもらい、現時点での演奏がどんなものかを認識してもらう。A編成に対する指導内容は、落ちてしまった子にとっても聞いていて損はないはずだ。次のオーディションに向けての練習する方向性を決める材料となるだろう。
完成度が上がっていく演奏を聴きながら、果たして北宇治はこの水準に達することが出来るのか、そもそもそれ以前に禍根無く関西大会前のオーディションを終えることが出来るのか。一抹の不安がよぎった。
「お待たせ」
大学から送られて来たメールにどう返信するのか悩んでいた私は、その声に振り向く。真夏の喧騒の中に、凛と咲く一輪の花のように、彼女はそこに立っていた。浴衣は白地に紫色の桔梗が描かれている。所々に差し込まれた緑色の葉がアクセントになっていた。帯の赤と黒が、浴衣本体の白と紫とコントラストをなしている。足元の赤い鼻緒は白い肌によく映えていた。持っている青い巾着には、白い鳥が描かれている。髪は桃色の髪飾りでひとまとめにされていた。彼女の好きな紫とピンクをあしらいながら、まったく違和感のないデザインになっている。
「ごめんね、ちょっと遅れちゃった」
「い、いや、全然大丈夫だけど」
明らかに動揺しています、という声になってしまう。晴れ着、水着、制服、私服と色んな装いをした姿を見てきたけれど、その度にときめいている。そしてまた、今回も見事にノックアウトされた形になっていた。華やかさの中に上品さを纏い、可憐さの中に溌溂とした若さを持っている。高校生の頃よりも一段と艶めいて、それでいて大人には出せない綺麗さがあった。
「その浴衣、どうしたの? 元々持ってた?」
「ううん。前まで夏祭りとかは全部普通のTシャツで来てたから、今回新調しました~。涼音ちゃんのお友達のお店に行ったら、これをお勧めされたんだ。どう、似合ってる?」
「これ以上ないくらいには」
「よかった」
園崎呉服店、滅茶苦茶いいセンスをしている。涼音が高校時代から贔屓にし始めたのも納得のセンスだった。今後はもっと積極的に利用していくことにしよう。妹の成人式の振り袖などもどこに依頼するのか決定した瞬間だった。涼音の友達が選んだのか、お店の人が選んだのかは不明だが、どっちにしても素晴らしい。親族にも和服をよく使っている人が多いので、今度薦めておくことにした。
「綺麗な子は何着ても似合うって言うけど、やっぱりそれを引き立たせる服っていうのはあるんだなって思うくらいには凄く似合ってる」
「そんなに褒めても何も出ないよー」
「いや、今の状況だけで満足だから、特に何も出なくても大丈夫」
「まーたそんな事ばっかり言って」
呆れた、という口調だけれど、その実顔はちょっと赤くなっている。彼女の肌は健康的な白さなので、赤くなるとすぐに分かってしまうのだ。昔みたいに飲んでいた紅茶が変なところに入って咳き込んだりはしなくなったけれど、自分の言葉に照れている姿を見るのは楽しかった。
「花火より目立っちゃいそう。夜に太陽が出てたらそうなるのも無理はないと思うけどね」
「公衆の面前では言わないでね、そういうの」
「なんで?」
「恥ずかしいのが半分」
「残りの半分は?」
「他の人に、聞かれたくないから」
私だけしかいない場所で、私にだけ言ってね。彼女は耳元でそう囁く。ただでさえ熱帯夜になっている周りの温度が数度上昇したような気がした。確実に気のせいではないと思う。ほら、行こうと手を引かれ、我に返って歩き出す。
昔から彼女は人気者だった。クラスの中心、学年の中心にいる。彼女の周りには人の輪があって、それは男女あまり関係なく存在していた。女子の方が割合的には大きかったような気もするけれど、どちらにしても人気があるタイプだったのは事実だ。後輩からも、同期からも人望が厚く、誰かが彼女に強い想いを向けることはあっても、彼女が誰かにそういう感情を向けることは無い。多くの人がそう思っていただろう。みぞれもきっと、そう思っていた一人だった。
そんな彼女が私に対して独占欲、或いは嫉妬のようなものを向けてくれている。多くの人が、理由は人によって様々であろうけれど側にいたいと思った存在は、今私の隣を歩いている。私にだけ向けてくれる笑顔と、感情を伴いながら。人生の中で、これほど優越感のようなものを味わったことはそう無いかもしれない。彼女が自分にだけ向けてくれるその愛情が、私をたまらなく幸福にしてくれる。それに相応しいモノを彼女に返せているのならばいいのだが、そこは少し不安ではあった。
一度離れてしまったからこそ、お互いの大切さを知っている。次はもう放したくないし離れたくない。だからこそ、私たちは手を取り合っているのだ。少なくとも、私はそう思っている。
「北宇治の子も誰か来てるのかな?」
「来るんじゃない、多分。こんだけ人がいるから、あんまり出会わないと思うけど」
「どこで花火見るの?」
「ちゃんと場所は用意してあるから、そこは心配しないで。そのたこ焼き一個貰ってもいい?」
「はい、どうぞ」
彼女が私の前に割り箸を差し出して来る。間接キスで今更騒いだりはしないけれど、気恥ずかしさはいつになっても消えないんじゃないだろうか。提灯の光と人の声が夏の夜を染めていく。闇と灯りが交互に視界の中に存在していた。
「こっちこっち」
「そこ、船の乗り場だけど?」
「これが本日の観覧席です」
「お待ちしておりました、さぁどうぞ」
案内してくれた係員の人に促されるまま、希美は少し戸惑いながら船上に足を乗せた。東京にある屋形船ほど大きくはないけれど、それに近い類の船だ。本来はもう少し大人数で乗船するものだけれど、今日は貸し切りにしてある。スポンサー枠の特権と言ったところだ。水の上に浮かんでいるからか、普通に街の中にいるよりは幾分か涼しいようにも感じられる。
「船があるのは知ってたけど、乗るのは初めてかも」
「ここならゆっくり見れるし、ちょっと涼しいし、見えないってことも無いかなと思って」
本当は一昨年と昨年に行った穴場があるのだが、あそこは色々あったし去年のことを思い出してしまいそうなので、こっちを選んだ。普段一緒にいられる時間が少ない分、こういう時に特別な思い出を共有出来たらいいなと思っている。
「ただいまより、宇治川花火大会を開催いたします」
アナウンスが流れる。船はゆっくりと川の中を進んでいた。間もなく華麗な破裂音と共に夜空が明るく染まる。岸から聞こえる歓声がどこか遠くに聞こえるのは、隣の彼女の声や息遣いのせいだろう。さっきまであった水上ゆえの涼しさも、隣に座って身体が触れあっているせいかもうとっくの昔に感じなくなっていた。
赤、黄、橙、緑。迸る閃光が彼女の顔を照らし出す。いつしか花火は視界の端になっていた。視界の中央には、彼女の表情がある。
「私ばっかり見てないで、花火も見なよ」
「綺麗なものは、ずっと見てたいから」
それは誰にも偽ることの無い本音だった。彼女をずっと見ていても、きっと飽きないのだろう。そんな気がする。そんな私に、彼女は携帯のカメラを向けてくる。パシャリと音が響いて、写真が撮られた。
「うん、いい感じに撮れてるね」
見せてくる画面には、花火と私が写っている。
「私の写真撮ってどうするの?」
「どうするって、保存しておくんだよ。良い感じにカッコよく撮れてるんだし」
「カッコ良くって……」
「あ、どう? 普段私が凛音に言われてる時の気持ちが分かったかな? まぁそれは別に良いんだけどさ。なるべく写真は撮っておきたい派なんだよね、私。思い出って、いつか忘れちゃうでしょ? あの時楽しかったなぁってぼんやり覚えていても、いつかは混ざったり消えたりして、不鮮明になっちゃう。だから、撮っておきたい。いつか未来のどこかで写真を見れば、あの時どこにいて、誰がいて、どういう気持ちだったか思い出せると思うから」
写真や動画というものは、もしかしたら思い出を残しておきたい、忘れたくないという、人の願望から産まれたものなのかもしれない。そこに自分が写っていたいかどうかは人によって様々だろうけれど、私も彼女も出来れば写っていたいと思う方に属している。記憶は消滅しているわけではないのだと、どこかの本で読んだ。ただ思い出せなくなっているだけで、脳内のメモリーにはしっかりと保存されている。だから、映像や音声、味やにおいなどでも思い出すことがあるのだと。
「と、いう事で一緒に撮ろ?」
「仰せのままに」
「じゃあ、はい」
内カメラにした彼女は、私に顔を寄せる。背後で空へ花火が打ちあがる音がした。それに合わせて、彼女はシャッターボタンを押す。アルバムには、顔を寄せ合って笑っている二人とその背後で燦燦と輝く光の花があった。いつの日か、この写真を誰かに見せる日が来るのだろうか。その時、私や希美はどんな姿になっているのだろう。遠すぎる未来の想像は出来ない。だからこそ、そういう未来が訪れるように努力しないといけないという事はよく理解していた。幸せは黙っていてもやっては来ない。だから自分から、掴みに行くのだ。
あの夏の日、夕暮れの藤棚の下で、彼女に想いを告げた時のように。
「であるからして、音楽において大事なのは、音楽しか出来ない、知らないような人材にはならないという事なのです。有名な音楽家を想起すればいい。誰でも構いません。彼らはみな、破天荒な人生、数奇な人生を送っている。その中にある愛別離苦の末に、数々の名曲を生み出したり、歴史に残る演奏をしました。ですから、この大学生活の間、もう三回生と四回生の方は残り少ない日々ではありますが、その時間にしか出来ない経験をして頂きたい。それが諸君の、音楽に携わる人生に大きな豊かさをもたらすでしょう。科学、美術、文学、数学、情報、なんでも構いません。様々なジャンルや文化に自身の門戸を開き、学び続ける姿勢を忘れてはいけない。私はそう考えています」
お盆休みも本日が最終日だ。その貴重な一日の中、私は音大の大講堂で話をしていた。目の前には大学生が座っている。基本は三回生や四回生なので、順当に入学して今まで来た人なら二十一歳か二十二歳だろう。ほぼ全員が年上の状況ではあるが、別段それも珍しくはないため普段と同じように話している。尤も、流石に部活指導とはまた違った態度や雰囲気を出すようにはしているのだが。
会場にいる器楽科の三回生と四回生は大学側から行くように促されて来ている人と聞いている。お盆の時期に学校に来る羽目になってきっとやる気も無いだろうと思っていたが、どうもそういう層は少数派らしい。随分と熱心に話を聞いている人が多くて、私は結構困惑していた。金管選考の子は学年問わず来て良いという話とは言え、どうせそんなに来ないだろうと思っていたら、この後演奏会を控えた一回生の子まで来ていて会場がパンパンになっている。後ろの方には立ち見の学生までいたし、教授陣も何人か見える。
これは予想外の出来事だった。日本は地盤ではないので、そこまで人が集まるとは思っていなかったのだ。向こうに戻ればこれくらいはよくある事ではあるのだが。
「最後になりますが、音楽は芸術です。諸君の多くはクラシックやオーケストラに携わらんとする未来を描いている事でしょうから、それは、諸君もよくよく認知するところであると思います。しかしながら、私はそれが一部の限られた層にしか届かないモノであってはならないと考えています。文化であり、芸術であるからこそ、その門戸はもっと多くの人に開かれていないといけない。日本の音楽を手放しで称賛するわけではありませんが、少なくともその点では諸外国にも劣らぬ美点があると思います。文化と歴史を忘れた国に未来はありません。効率化を進め、役に立つ物だけを重んずる社会に音楽の居場所はないのかもしれない。だからこそ、そんな未来にならないよう、音楽は必要だと訴え続けなくてはいけない。そしてそのためには、諸君がお高くとまって一部の界隈にだけ受けるような活動をしていてはいけないのです。音楽という存在の未来を担う諸君が、これから知見を広め深め、そののちに新しい歴史を築いてくれることを願います。以上、どうもありがとうございました」
拍手に頭を下げる。そこから質疑応答があったりして、結局解放されたのは大分遅くなってからのことだった。もっと早く終わると思っていたので、正直結構疲れている。学食が空いているとのことでそこで昼ご飯でも食べようと思っていたが、行った頃にはもうしまっていた。元々講演会が二時半までの予定だったので、閉店の三時半には間に合うという計算だったが、今はもう四時近い。これは昼抜きか、とガックリした。
待ち合わせ場所に向かうと、ウチの家からやってきた妹と希美は既に待機している。ここに後同期二人と、高坂さんと黄前さんがやって来る手筈になっていた。希美は黒いドレス、妹は夏用の涼やかな色の和服だ。どちらも様になっている。私も講演をするにあたってきちんとした格好をしないといけないため、スーツで着ている。希美は誰かと話しているのが見えた。多分、大学の友達か何かだろう。私の姿を視認して、手を振ってきたので、振り返した。
「お疲れ様」
「やっと終わった。そっちは今来たとこ?」
「そうそう。優子たちはもうちょっと遅い時間に来るって。折角だし、涼音ちゃんを案内しようと思って」
「くっ付いてきたの」
「なるほど。そちらは……」
「あ、この子は私と同じ専攻の」
「神崎舞です。希美ちゃんとは普段よく一緒に授業とか、受けてて……え、あの、すみません、人違いだったら申し訳ないんですけど」
「はい」
「桜地、凛音さん、ですか?」
「そうです」
茶色い髪にパーマをかけているであろう彼女は、確かに希美の友達っぽい雰囲気を放っている。どういうあたりがと言われると困るのだが、何となくそんな雰囲気がある。割と明るくて、それでいて不真面目という感じでもない、そういう雰囲気。言葉では難しいが希美と親しい人なら共感してくれるだろう。確か、演奏会の手伝いをしに来ている友達がいるんだと言っていた。大学のイベントを学生で運営する組織に所属しているとか。きっと彼女がその人なんだと思う。
「え、どういう関係?」
「えっと……前に話した社会人の彼氏っていうのが、その」
「こちらの?」
「うん」
ぽかんとした顔をした彼女は、私と希美を交互に見ていた。明らかに困惑しているのが伝わる。妹は助け船を出すでもなく、この状況を静観していた。顔にはほとんど出てないが、明らかに面白がってるのが伝わる。というより、希美は私を社会人の彼氏がいると言って説明していたのだろうか。確かに何一つ嘘は吐いていないのだが、イマイチ語弊があるような気がしないでもない。
「マジかぁ……。これ、黙っておいた方が良い?」
「どっちでもいいけど……あんまり広めるようなことでもないかなと思って黙ってたんだ、ごめんね」
「う、うん、まぁ流石にね。付き合ってる相手がプロだってのは中々言いづらいだろうし。でも良かった。社会人の彼氏っていうから、大学一回生と付き合ってる社会人って高卒とかじゃない限り絶対怪しいし、ちょっと不安ではあったから」
「もう、大丈夫だって言ったじゃん」
「それでもね、友達だし心配はするよ」
希美は気丈に振る舞っていることが多いし、実際気が弱いわけではないけれど、別にメンタルが凄く強いわけでも無い。だからこそ、普段の態度から平気だと思われてしまうことも多いのがネックだった。私もそれで一度失敗しているわけだし。なので、気にかけてくれる子がいるのは私としても安心できる。
「また今度、お話させてください」
「私で良ければ是非」
「はい、お願いします。もう、希美、そんな顔しなくても取らないから。それじゃあ私は運営があるので、そろそろ行くね。妹ちゃんも、また」
「案内していただきありがとうございました」
妹にニコっと笑いかけて、私に丁寧に頭を下げ、希美に手を振って神崎さんは大学の演奏ホールへ向かっていく。
「私は妹として紹介されたんだよ」
「そうですか、なんでそんな事で鬼の首を取ったようにドヤ顔しているの」
誇らしげに胸を張っているが、そんなに誇るようなことでもないと思うのだが、どういう思持ちなのだろうか。元々希美大好き人間なので、そんな相手から妹認定されたのが嬉しいのかもしれない。そういう精神性だからみぞれとも上手くやれているのだろう。あっちはあっちで妹とはまた別種の希美大好き人間だ。もう大人しく二人でファンクラブでもやっていればいいと思う。
「兄さん、みぞれ先輩と連絡とってる?」
「普通にとってるけど。優子たちよりは忙しそうだけど、時間が取れないわけじゃないみたいだし。剣崎さんの様子とかちょこちょこ報告してはいる。気にしてみたいだったから」
「あ、そうなんだ」
だから今日の演奏だって聞きに来たわけだし。それに、身近でプロになりたいという人物は取り敢えずみぞれと高坂さんがメインだ。高坂さんは海外志望なのでどっちにしろ私か彼女の父親が面倒を見ることになるだろう。みぞれは大学生の間は国内にいるらしいが、留学も視野に入っていると聞いている。ヨーロッパ、とくにオーストリア辺りを考えているらしいので、その時は役に立てることもあると思っている。
この後、優子たちや高坂さんたちと合流して、ホールの席に座る。私の隣には高坂さんと希美が座っている。貰った出演者のリストには、しっかり鎧塚みぞれの名前があった。
「先生は、さっきまで講演会だったんですよね。聞きたかったです」
「そんなに楽しいもんでも無いよ、別に」
「それでもです」
そんな話をしていると、会場の照明が落とされる。場内が一気に静まり返り、舞台上に奏者が姿を現した。交友関係の広い希美の仕入れた情報によると、トランペット専攻組は私が来ているという事でかなり気合が入っているらしい。まぁ確かに、その道の第一人者が来ているともなれば、気合が入るのも納得できる。上手く目に留まってくれれば推薦が貰えたりするかもしれない。そういう心理であろうことは、容易に想像が出来た。
黒いドレスのみぞれの姿は、スポットライトに照らされてよく見える。というか、他に知り合いがいないのでどうしても視線がそっちに行く。オーケストラの編成のため、バイオリンなどの弦楽器がメインを占めているが、その中でもしっかり存在感を放っていた。レベルも、他楽器との比較は難しいが演奏者の中ではかなり上の方にいると思う。難曲の一つである『ダフニスとクロエ』のソロを吹きこなす様は、去年の演奏を想起させつつ技術の確かな向上も感じさせた。専門外とは言え、彼女も私が二年間指導した相手。生半可な状態で送り出してはいない。
アンコールまで全てつつがなく終了し、拍手が鳴り響いた。私も手を叩く。まだまだ荒削りな部分も見受けられる奏者が何人かいたが、それでもレベルは高い。何より、自分が大学生だった頃にこういう演奏会をした記憶がよみがえって来ていた。
「未来の自分がああいう風に演奏している姿は想像できたかな?」
「はい、一層気持ちが深くなりました」
「それは何より。是非とも頑張ってくれ」
ホールのロビーで、高坂さんは決意を固めている。音大という場所に関して、彼女は知識はあるだろうけれど実感はそこまで無かったのかもしれない。今回の演奏会で、一気に音大という場所が身近に感じたことだろう。もっとも、日本の音大と海外の音大ではまた変わって来るだろうが。自分がアウェーな存在であるというのを痛感させられる場所で、どこまで戦えるのか。突き抜ければ勝てるのだが、そこまで至れるかどうかは彼女次第。勿論最初に手助けはしてあげるが、それでも最後は自分で戦ってもらわないといけない。
「あ、いらっしゃいましたね」
涼音の声に、全員の視線が上を向く。階段の上からこちらへ向かって小走りでやって来るみぞれが見えた。
「あいつコケるぞ……」
私の小さな呟きに、黄前さんが同調するように頷く。階段を駆け下りた彼女は、そのまま私たちの前にやって来た。目線が一番に希美に向き、その後に私たちに向けられる。同じ大学にいても、別に毎日一緒にいるわけじゃない。だからこそ、ハレの舞台を見てくれたことが嬉しかったのだと思う。どれだけ時間は経ようとも、みぞれにとって希美は特別な存在だ。私や妹にとってもそうであるように。
「みんな! みんな、来てくれてありがとう」
「メッチャ良かったよ」
希美の言葉に、彼女の目が一層輝く。良い顔をするようになったと思う。高校時代、特に三年の前半くらいまでの時よりもずっといい顔をしている。希美のことは相変わらず大事でも、それは依存とはまた違う何か別の感情に変化していることが理解できる表情だ。もう昔のようになったりはしない。そんな確信が持てる瞳をしている。
「ソロ、感動しました」
「私も、勉強になりました。桜地先生の下でもっと修練を積みたいと思います」
「なら、良かった」
黄前さんと高坂さんにもにこやかに対応している。元々黄前さんとみぞれの相性は結構よかったが、今でもそれは変わっていないらしい。
「私も高坂先輩と同じで、大変勉強になりました。感情表現が出来てないと兄さんに日頃より教えを賜っているものですから、みぞれ先輩の演奏を参考にして、磨きをかけていこうと思います」
「涼音ちゃんも来てくれてありがとう。凛音も、どうだった? プロの意見は、聞きたい」
「そうだね……留学を考えているなら、紹介状は書くよ、いくらでも。私の紹介状では入れない大学はないから、安心して来ると良い。就職に困ったらまたその時は相談してくれ」
「紹介状、トランペットの子が欲しがってた」
「私の紹介状は安くないし、変な子を紹介したら私もダメージを受けるから。君なら出しても問題ないと思う。それくらいには、仕上がってたから」
「教えてくれた人が、良かったから」
「それはどうも」
「うん」
その声はとても澄んでいる。きっと将来的には良い奏者になってくれるだろう。知り合いのオーボエ奏者何人かに名前を教えておこうと思う。それくらいの実力はあるし、見ず知らずの相手ならいざ知らず、自分の友達なら普通のことだろう。私だって、友人の紹介で今の楽団にいる。それだって大事な実力だ。
私とみぞれがプロの道を歩み、希美は教職へ進み、優子や夏紀もやがてそれぞれの道へと進んでいくだろう。それでも、今の時代進んだ道はバラバラでも連絡ならいつでも取り合える。あの頃はもう戻らないけれど、未来にまた新しい思い出を重ねることは出来るのだ。みぞれを囲む皆の姿を見て、私はそう思いながら口角を上げた。明日以降に待ち受ける運命など、この時は誰も知らなかった。