音を愛す君へ   作:tanuu

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第ⅩⅩⅥ音 現在

 兄さんが北宇治に戻って来た。文章にするとたった数文字の出来事だけれど、そのインパクトは想像以上に大きい。多分、本人すらもよく分かっていないレベルで大きな影響が存在していた。それが一番顕著なのが三年生だろう。先輩たちは期待半分、諦め半分という具合で兄さんの帰還について考えていた。その結果が期待していた方になったとなれば、喜びが出るのも無理はないと思う。二年間を共にした存在の大きさは、多分先輩たちにしか分からない事なのだ。

 

 だからこそ、秀塔大でも指導を行っているという告白があった時は驚きや動揺があった。高坂先輩のようにプロなんだから当たり前と割り切ったり、秋子先輩のようにまぁそうだよねと納得できる人は、多分少数派だ。部長を始め、大なり小なり動揺はしている。橋本先生も他校の指導をしていると公言しているが、橋本先生相手にそんな動揺をしている先輩は見たことが無いので、やはり元々指導者なのと先輩だったのとでは天地ほどの差があるのだ。それでも自分たちのもとに来てくれているというのは、別に見捨てられたわけではないのだと安堵できる材料だったのだろう。

 

 兄さんが来てくれたのは、半分くらい私がいるからだと思っている。これは別に自惚れでも何でもないだろう。私から指導料を取りたくないという理由だけで北宇治に報酬の話をしなかったという話だ。だからこそ、来年までは来てくれるんじゃないだろうか。それ以降はどうなるのかさっぱり分からない。秀塔大は存外居心地が良かったらしいので、ちゃんとお金を払ってる方を選んでも文句は言えないというかそれが普通だと思う。

 

 そんな未来の不透明な北宇治は、今お盆休みに入っている。忙しい日々の中に与えられたつかの間の休息。部活に行かないという日の方が少なくなっている現在、たった三日はそれでも貴重だった。兄さんは一日目に秀塔大に行き、二日目は希美先輩と花火に行き、三日目はみぞれ先輩の演奏会に行くらしい。最後だけは私も同じ予定だ。

 

 今はクーラーの効いた私の部屋で夏休みの宿題を消化している。元々私は結構ハイペースで進めていたのだけれど、パートのメンバーが全然終わっていないということで急遽開催されたものである。同期四人だけで集まるのはよくある事とは言え、自宅というのはあまりない。これも休みだからのことだった。

 

「やっぱりさぁ、私たちも行くべきだったかなぁ、イベント」

 

 疲れたように腕を伸ばしながら、成美さんが呟く。彼女の数学は先ほどから詰まっているようだった。一番終わっていない人が一番のんびりしているのは、何とも言えない話である。とは言え、文系の彼女に理系と同じように数学をやれ、というのも少し酷な話だと思う。私も社会科はそこまで好きでもない。

 

「イベントですか?」

「うん、りりりんたちが行ってるヤツ」

「あぁ、あれかぁ」

 

 香奈さんはメガネを上に押し上げながら思い出したように頷いた。りりりん、というのは剣崎さんのあだ名だ。後輩からもそう呼ばれている。彼女の親しみやすい人間性は、多くの後輩の心を掴んでいた。私をあだ名で呼ぶのが揚羽だけなのを考えれば、その差がよく分かる。

 

「なんだっけ、関西の大学が沢山集まってるってやつでしょ?」

「そうそう。まだ二年だし良いかなぁって思ってたけど、りりりんが行ってるって言うの聞いて、あ~私の考えないといけないのかなぁって思ったりして」

「行くとしたらどこ?」

「それが分かんないから行くんだよ」

「それもそっか」

「涼音ちゃんは? もう決まってる?」

 

 成美さんは私に話を振る。私自身の進路はまだハッキリとはしていない。進学クラスだけにある進路希望調査アンケートには理系の進路を書いておいた。教育相談、という名の面談では、先生からあまり深く突っ込まれなかったけれど、志望動機がハッキリ固まっているかと聞かれれば、ノーとしか言えない。書いていないよりはマシなのかもしれないが。

 

「一応、分野だけはアンケートに書きました。ただ、まだどこの大学にとハッキリ決まっているわけではありませんが」

 

 東京に行く、とだけ明確に決まっている揚羽が羨ましくなる時はある。自由にしていい、というのは存外難しいモノだと知った。レールをどういう風にでも敷いて良い、というのは裏を返せば全部自分で決めないといけないという事でもある。

 

「IT産業とも迷いましたけど、医学系の方が性に合っている気もするので、そちらにしようと思ってます」

「医学部ってこと!?」

「まぁ、そうなるんじゃないかと」

「すっごいなぁ……」

「考えたことも無いよ」

 

 二人は唖然とした顔をしている。その横でつみきさんがコックリコックリと船を漕いでいた。成美さんの大きな声で目を覚ましたみたいで、ぼーっとした顔で周囲を見て、少しして覚醒する。その様子はコミカルで面白かった。マイペースなのは相変わらずだけれど、それが彼女の良いところでもある。

 

「あ、起きた」

「うん、おはよう……。何の話?」

「進路の話。何か決まってる?」

「う~ん、映像系に興味があるかなぁ」

「確かにつみきちゃん、映画好きだもんね。決まってないのは私たち二人だけかぁ」

 

 成美さんはバタン、と机に倒れ込む。

 

「あ、ごめん。私も何となく決まってる。生物系に行こうかなって」

「マジ? 私だけ仲間外れかぁ」

 

 香奈さんがそっち系に興味があるとは意外だった。文学系も割と好きそうだったので、てっきりそっちに進むのかと思っていた。人の進学希望は結構面白い。意外な人が意外な進路を求めていたりするものだ。その点、高坂先輩の音大志望みたいなのは分かりやすすぎる。

 

「まぁまぁ、そのうち決まりますよ。部長もまだ決まってないと、そういう話でしたし」

「それはそれで遅くない? 部長大丈夫?」

「大丈夫じゃないですか? 本人的には凄く重大な事という感じではありませんでしたし。そのうちしれっと決まっていますよ。それに、大学生ならまだしもその先のことなんて、誰にもイメージ出来ないモノでじゃないですか。やりたいことをやるのが良いのか、現実を見て地に足を付けて生きていくべきなのか、そもそもどういう世情になっていて、どういう状態にあるのか、それも分かりませんし。一個の夢を追いかけていくのは素敵ではありますが、その夢が潰えた時に何も残らないのでは虚しすぎますから」

「それ、高坂先輩への反論?」

「いいえ? というより、なんでそう思ったんですか」

「いや、何というか、涼音ちゃんって高坂先輩と相性そんなに良くない感じだし」

「……」

 

 相性が良くない、というのは多分正解だ。流石は成美さん、フルートパート随一の人間関係能力だと思う。未来のパートリーダーは是非彼女にやってもらうことにしたい。私がやるよりよっぽどトラブルが減るだろう。それはともかく、相性が良くないのは事実だと思う。音楽に関する考え方も、物事に対処する時の思考も、先生への感情も、兄さんへの想いも、全部違う。

 

 違うだけならそういう事もあるかもしれないが、どうももっと根本的なところで私たちの間にはズレがあるような気がしてならないのだ。今のところは表面上上手く収まっているだけで。その破局がいつか、決定的なタイミングで訪れるような不安が、常に私の中にある。一つ言えることがあるとすれば、多分高坂先輩は私が思っているよりも大人じゃないし、冷静でもない。そこを読み違えないようにするのが、破局への道を遠ざける手がかりだと思っている。

 

「そんなつもりはないのですが、そう見えていますか?」

「うーん、そこまでじゃないんだけどね。何となく、この二人は合わないんだろうなぁって言うのがあるじゃん。たまーにそんな感じに見える時があるだけ。私の気のせいかもしれないけど」

「……なるほど。ちょっと、注意してみます。身内ならまだしも、全然関係のない他のパートからもそう見えてしまっていたら、余計なトラブルを生みそうなので」

 

 高坂先輩と相性の悪い後輩は多分一定数存在する。身内とも言うべき南中組でも何人か思い浮かぶ。鈴木美玲さんは相性がいい方だろう。北山君と屋敷さん、香奈さんは普通だろうか。鈴木君や葉加瀬さんはダメな方だ。恐らく義井さんも。葉加瀬さんと義井さんは同じベクトルではないと思うけれど、結果として相性が良くないのは恐らく事実。この辺は読み違えていないと思う。

 

「てことは、って言うのもちょっとおかしいけど、涼音ちゃんはやっぱり吉沢先輩派?」

「なんです、それ」

「いや、ソロの勝負でどっちを応援するかっていうのがあるの。吉沢先輩派と高坂先輩派があるよ。トランペットだと、どっちもメンバー入りも1stになるのも確定だから、どっちになって欲しいかっていう感じ。ちなみに、部長派と黒江先輩派もあるよ」

「えぇ……」

 

 香奈さんの言葉に軽く引きながら考える。B編成の中でそういう話になっているのか、もっと多くの人を巻き込んでそうなっているのかは不明だが、随分と余裕のある話だと思った。が、そこまで考えて違うかと思い直す。余裕があるんじゃない。余裕が無いから、他の事を考えたくて、確実にメンバー入りしてて自分とは関係ない人たちの「応援」というよく分からない行為をするのだ。関係あるパートではこんな事は多分あまりできない。関係ないからこそ、やいのやいのと言える。

 

 しかもこれの良くないところは、当人同士はそんなことされても困るという事だろう。秋子先輩と高坂先輩は関係が問題ないし、お互いに自他ともに認めるライバルなのだからそこまで困ったりはしないし、軽く受け流せるだろう。問題は真由先輩と部長だ。部長は部長で困るだろうし、真由先輩は味方が少ないことが予想される。人気があり、支持されている部長と戦う羽目になる真由先輩があまりにも、可哀想と思うのは傲慢かもしれないけれど、可哀想だった。

 

「私は……特にそういうのには興味がありませんけど……どちらか一方を応援しないといけないとなったら、上手い方を支持します」

「そんな事あるのかな」

「あったみたいですよ、部長たちがまだ一年生の時に。高坂先輩と、当時の三年生の先輩が再オーディションを行って、部員の選考で選ぶことになったと兄さんから聞いています」

 

 その時のきっかけも、顛末も、そこで兄さんが背負った痛みも、全部知っている。だからこそ思ってしまうのだ。今の部長は、その時の先輩と同じ立場になりつつあるのだと。違いがあるとすれば、実力が拮抗しているということだろうけれど、それは真由先輩を庇わなくて良い理由にはならない。冷や汗が流れる。どちらも実力が拮抗しているなら、どちらが選ばれてもおかしくはない。もし、これで真由先輩が選ばれたら。

 

「ちなみに、それぞれの派閥の勢いは?」

「う~ん、私も詳しくは知らないけど、高坂先輩と吉沢先輩はトントンかなぁ。あそこはなんか世界観が違うって言うか、少年ジャンプみたいになってるから。どっちが勝っても爽やかに終わりそうだし」

「真由先輩と部長は?」

「二年生の間では部長が優勢。一年生は……どっちかと言えば部長が優勢かな。でも二年ほどじゃないと思うよ」

 

 一年生が真由先輩の数少ない地盤になっている。今度、B編成の居残り練習の監督を手伝ってくれるように真由先輩に頼んでみようと思った。彼女の地盤を増やさないと、今後揉めた時に大変なことになりかねない。努力を知られていて、愛されている存在がゴーサインを出した時、少数派の息の根を止めるのはあまりにも容易いのだ。

 

「私は、別に興味ないなぁ……」

「まぁ、私もそうなんだけどね。気にはなるけど、積極的に加わるほどじゃないって言うか」

「分かる。正直自分のことで精一杯だよね」

 

 つみきさんの言葉に、二人が同意している。少しだけ安堵した。局外中立とは言え、私の居場所だと思っているフルートパートが、無責任な派閥作成に加担していなかったことは嬉しい。出来ればそのままでいて欲しいと、切に願った。

 

 同時に、フルートパートでそういう問題が起きていないのは、私がソロになってもしっかり私を守ってくれている沙里先輩たち三年生の先輩方のおかげだろう。だからこそ、二年生で唯一のソロでも周りからの悪意に晒されること無く今に至れている。感謝する以外にない。

 

「そうですね。まずは自分の事をしっかりやっていくのが一番良いと思います」

 

 私がそう言ったところで、扉がコンコンとノックされる。返事をすると、お盆を持った希美先輩がドアを開けた。お盆の上にはお菓子とお茶が入ったコップが人数分ある。家の中なのでラフな格好をしているけれど、しっかり様になっている。美人は何を着ても似合うというのは本当だろう。

 

 三人は目を輝かせている。そう言えば、前に家に来た新入生歓迎の時は、希美先輩は家にいなかった。私の家に住んでいるというのは知っているけれど、こうして顔を合わせたのはこれが初めてかもしれない。私は毎日会っているので忘れていたけれど、三人は実に半年ぶりの再開になる。

 

「「「のぞ先輩!」」」

「はいみんな、お疲れだと思ったから差し入れだよ」

「「「ありがとうございます!」」」

 

 勉強や宿題なんてどこへやら、腰を下ろした希美先輩の周りに集う三人。それは昔のフルートパートの姿そのままだった。いつでも輪を作っている。それが希美先輩の学校での姿だ。半年前なのに、凄く懐かしい気がする。兄さんが時々漏らす感情に、やっと共感できたかもしれない。

 

「あの、私の座る場所が無いんですが。私も隣に行きたいです」

「涼音ちゃんは毎日会ってるんだから良いでしょ」

「一人だけのぞ先輩を独占してるんだから、今日くらいいいじゃん。桜地先輩より独占してるんだし」

「そういう事で、ごめんね」

 

 何がそういう事なのかさっぱり分からない。でも、言いたいことは理解できた。もし兄さんが違う人と付き合っていたら、私は希美先輩と会えない日々が続いただろう。その時再開できたら、三人と同じ態度をとっていたことは想像に難くない。今となっては考えられないけれど、そうなっていた可能性もあったわけだ。例えば秋子先輩と付き合っていたら、とか。それはそれで楽しい生活をしていたかもしれないけれど、今の生活を手放す気は毛頭ない。

 

「分かりました、仕方ないですね。今日だけ譲ってあげましょう」

「元々涼音ちゃんのじゃないのに!」

「桜地先輩に言っちゃお」

「涼音ちゃんが略奪宣言してるって」

「ちょっと待ってください、それは無しでしょう」

 

 希美先輩が来ただけで、私の部屋はさっきまでの何倍も明るくなる。まるで暗かった日陰に一気に日が差し込んだように。太陽のようだ、と兄さんが前に形容しているのを聞いたことがある。その例えが全くもって的外れではないのが、身にしみてわかる。

 

 三人が繰り出す話や質問に、希美先輩はにこやかに答えている。沙里先輩たちも呼んであげればよかったかなと、少しだけ後悔する。沙里先輩たちも会いたいだろうし、お話ししたいこともあるだろう。でもそれはまたの機会にしよう。人数が増えたらその分お話しできることも少なくなってしまうだろうからだ。三人の幸せそうな顔を見て、そう思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 お盆休みの二日目。私は緊張したまま一軒家の前に立っていた。洋風の家の表札には、滝野と書かれている。前々から誘われていたお泊りに来たのである。ちなみに誘っていたのはさやかさんの方だった。べつにさやかさんに誘われたこと自体は良いのだけれど、誘ってくれない純一さんに少しだけ内心頬を膨らませつつ、今日を迎えた。前に一回来たことがあるけれど、何回来たって緊張する。兄さんは希美先輩の実家に行くとき、どういう心持ちなのだろう。歓迎されていることが救いだった。

 

「いらっしゃーい」

「お、お邪魔します」

 

 インターホンを鳴らすと、さやかさんがドアを開けてくれた。知らない人に会うよりも、恋人の家に行く方が緊張する。変な顔になっていないか、洋服がおかしくなっていないか、そんな事ばかりが気になった。

 

「お、おう。いらっしゃい」

「は、はい」

 

 リビングのソファに座りながら、目が泳いでる純一さんとお見合いみたいになってしまった。

 

「涼音ちゃんいらっしゃい。暑かったでしょう」

「ご無沙汰しております。本日は、お招きいただきありがとうございます。こちら、もしよろしければと思いまして」

「あらぁ、お気遣い頂いてぇ。ウチの子たちにも見習ってほしいくらいよ。ありがとうねぇ、あとで頂きます」

「お気に召して頂けたなら幸いです」

 

 こういう時にキチンとした対応が出来るのは、ウチの教育のおかげだと思う。子供っぽさは全くないかもしれないけれど、対応に失敗するよりはこっちの方がずっと良いだろう。約束の時間が夕方だったため、家の中には夕飯時の良い香りが漂っている。

 

「今日午前中にお兄さんからお電話いただいたのよ。そこでも丁寧にご挨拶頂いて。若いのに、しっかりした方ねってお父さんと話してたの。ホントに純一の同級生なの~? って」

「純一さんもしっかりされていますよ。ご家族なので、甘えていらっしゃるのかもしれませんが、私の前ではいつもしっかりしようとしてくださっていますから」

「ウチでももうちょっとしっかりして欲しいんだけどねぇ。毎日涼音ちゃんに見てもらえば、もうちょっとビシッとしてくれるのかしら」

「私としては大歓迎ですので、いつでもお待ちしていますよ」

「そう? じゃあ今すぐにでも……あぁでも甲斐性無しのまま送り出すわけにもいかないから、あと少し待っててね」

「残念です。楽しみにお待ちしていますね」

 

 最初に訪れた際に、えらくビックリされたのを覚えている。てっきり私がさやかさんのお友達として来たのだと思われた。別にそれ自体は間違っていないけれど、ご子息とお付き合いさせて頂いております、と説明した際にはひっくり返っていた。比喩ではなく、言葉通りに。それからは私も娘のように可愛がってもらっているので、緊張はするけれど居心地は良い。

 

 高校に入ってから、私の周りの人間関係は一気に広まったと思う。家族のような人が増えていくのは新鮮な感覚だった。私にとって、家族は減る一方だったからこそ、今のこの状況はとても嬉しい。次は多分、兄さんと希美先輩の子供だろう。このまま行くと、私が大学在学中におばさんとなる羽目になりそうだ。

 

「お母さん、涼音ちゃん貰っていくからね」

「はいはい。七時にはご飯にするからね!」

「分かってるー。行こっか」

「あの、でも純一さんは」

「え、あぁ良いの良いの。ほっといて。ほらほら」

 

 何度私が来ても慣れてくれない純一さんを放置して、さやかさんは私の手を引いて二階へ上って行った。二階には部屋が四つ。一つは二人のお母さんの部屋で、別の一つはお父さんの部屋。そして純一さんの部屋とさやかさんの部屋だ。彼女の部屋は女の子らしい可愛い装飾で満ちている。壁紙、貼ってあるポスター、置いてある小物。どっちかと言えばシャープと言われる私の部屋よりも希美先輩の部屋に近いかもしれない。そしてベッドの隣には、布団が敷いてあった。

 

「ごめんね、普段ベッドだろうから、お布団には慣れないかもしれないけど」

「いえ、大丈夫ですよ」

「よかったぁ」

「さやかさんの方こそ良かったんですか? 私は純一さんの部屋でも一向にかまいませんけど」

「ダメだよ、そんなの。私、まだ桜地先輩に殺されたくないもん。それに、お兄ちゃんのとこに預けたら何があるか分かったもんじゃないからね。お母さんとお父さんもそれは満場一致だったから。お兄ちゃんヘタレだけど、逆に涼音ちゃんが怖いから」

「私ですか?」

「うん。さっきはお母さんにお兄ちゃんがしっかりしてるって言ってたけど、正しくはしっかりしようとしてる、でしょ? 身内だからね、よーく知ってるもん。それで、お兄ちゃん、変にカッコつけてしっかりしようとするといつもてんぱったりするじゃん? それを見てる涼音ちゃんたまに目が怖いからね」

「怖い、ですか……?」

「なんかエスっ気のある顔してる」

「……そんな事はない、と思うのですが」

「ホントに?」

「……ノーコメントで」

 

 そんな顔をしているのだろうか。確かにちょっとかわいいと思ってる時はたまに、いやそれなりの頻度であるけれど。まさかそんな顔に現れているなんて思いもしなかった。今度から自分の表情にもうちょっと気を遣わないといけないかもしれない。

 

「なので、若い二人が勢いに任せておかしなことにならないようにという事で、私の部屋にいてもらいます。楽しく女子会しよう~! 色々あるからねぇ、ゲームとかもあるし、雑誌とか、少ないけど本もあるし」

「お話しているのだけでも十分楽しいですよ」

「私をおだててもお兄ちゃんの部屋には移動できないよ」

「おや、バレましたか」

「あ、ひどーい」

「冗談ですよ」

 

 学校ではもう少しフワフワした態度の彼女も、家の中ではこういう感じになる。私にそれを見せてくれている、というのは大きな信頼の証だと受け取っても良いのだろうか。もしそうだとしたらとても嬉しいことだ。中学までの自分は、誰かの家に泊ったりなんて考えたことも無い。知識としては知っているけれど、実行する気もする相手もいなかった。それが高校に入ったらこうしてこの家に来たり、揚羽の家に泊ったりしている。身の回りの環境は変わっていく。今まではそれが喜ばしいとはあまり思えなかったけれど、高校に入ってからはそれも喜ばしいと思えるような出来事が増えた。悩みも苦しみもあるけれど、北宇治に来て良かったと私は思っている。

 

「あ、そうだ。このドラマ見てる?」

「はい、見てますよ。一期と二期も見ましたけど、今シーズンが一番面白い気がします」

「分かる~」

 

 彼女が話しているのは『コード・ブルー』だ。元々医療系のドラマは結構見ていたので、このドラマも見ている。勿論フィクションだし、こういうお話はごくわずかで本当はもっと大変な事ばかりなのだろうとは分かっているけれど、それでも憧れだったり格好良さを感じることが多かった。そういう意味では、私の進路選択における気持ちは、医療系に寄っているのかもしれない。

 

「これ、今度一緒に見に行かない?」

「あぁ、流行ってますね、この映画」

「そうなんだよねぇ。見たことある?」

「原作小説は持っていますね。漫画も。アニメ映画の企画も進行中らしいので、どちらで見ようか迷ってます」

 

 確かこの作品の原作者は高校生の頃から執筆活動をしていたと、本の後書きに書いてあった。凄い人がいるなぁと思っていたけれど、よく考えたら兄さんも似たようなものかもしれない。その後も同じ作者の作品は買うようにしていた。恋愛小説が好きだから、こういうジャンル分けの難しい青春小説ともライトノベルとも言えそうな本をよく読んでいる。兄さんからの月額二万のお小遣いは、私がそんなにいらないと言ったため流石に一万円に減額されたものの、希美先輩に「それでも多いなぁ!」と突っ込まれていた。使うあてもあまりないので、よく本を買っている。

 

 このお話のヒロインは、病におかされていた。そして最後は病で亡くなるのではなく、通り魔に刺されてしまう。主人公はそれに衝撃を受けて通夜にも葬儀にも出れない。その部分が私には無性に共感できてしまった。彼の場合、いつか終わりは来ると分かっていた。それでも唐突に訪れた終わりを受け入れきれない感覚。それは、中三の夏に私が嫌というほど味わった感覚だった。こういう悲しい話ばかり共感できてしまう。それを演奏に活かせれば、私の表現力はもっと上がるのだろうか。『一年の詩』で、そんな表現をしても良いのか分からなくなってしまう。

 

「涼音ちゃん」

「はい?」

「まーた怖い顔になってるよ。なんか変なところに思考を飛ばして悩んでたでしょ」

「変なところ、という訳では無いですが……」

「う~ん、涼音ちゃんは真面目だし凄く良い子なんだけど、色んなこと考えすぎてぐるぐる巻きになっちゃうのが良くないところかもねぇ。考え無しっていうのもどうかと思うけどさ。なんて言うかこう、ポンポンと連想ゲームみたいに思考が移動してない?」

「それは……たまにありますが」

「将来のこととか考えるときにはそっちの方が良いかもしれないけど、今は別に考えなくって良いからさ。楽しい時は楽しいだけでいいの。余計なこと考えてると、そっちに引っ張られちゃう。だから、今を見て行こうよ。まぁこれも加部ちゃん先輩が桜地先輩に言ってたことの受け売りなんだけどさ。揚羽ちゃんも言ってたんじゃない? もっと好きにしても良いって」

「はい、そう言ってはいましたけど、好き勝手にして良いわけでは無いですし」

「大丈夫大丈夫。涼音ちゃんなら、大丈夫だよ。という事で、この映画は観に行きましょう~。いつなら空いてる?」

「この辺は空いてます」

「じゃあ、この日で決定という事で」

 

 彼女は楽しそうに予定を埋めている。確かに不安な事は多い。自分の演奏の事、パートの事、オーディションの事、先輩たちの事、その他にも色々。でも確かにさやかさんの言う通り、それを気にしていたら今を見られなくなってしまうのかもしれない。それはきっと、あまりよろしい事ではないのだろうし、私もあまり望むところではなかった。だからひとまず、今は目の前にある事だけ考えることにした。それが相手に対する一番良い態度だとも思ったから。

 

 お話していたら、時間はあっという間に過ぎた。仕事から帰って来た二人のお父さんにもご挨拶をして、ご飯を食べて、お風呂に入って。人の家のお風呂に入る事なんてあまりないので、何もかも新鮮な体験だった。入浴剤の匂いやシャンプーの匂いが家とは違う。髪からはさやかさんの香りがした。台所ではお母さんが明日の朝ご飯を仕込んでいる。

 

「お風呂ありがとうございました」

「すっぴんでも美人さんねぇ。お肌のハリが違うのね、ハリが。ご飯、お口にあった?」

「はい。とても美味しかったです」

「なら良かった。純一もさやかも、涼音ちゃんの事いつも家で話してくれるのよ。不甲斐ない息子と娘だけれど、今後も仲良くしてくれると嬉しいわ」

「もちろんです。私の方こそ、二人にはたくさん助けられています。特に純一さんには、とても。私が苦しかった時に、手を差し伸べてくれました。それは今でも忘れていません。純一さんは、もしかしたら全世界から愛されたり称賛されるような人じゃないのかもしれません。でも、私にとってはかけがえのない、世界で唯一の特別ですから」

 

 彼より優れた人がいない、なんて現実的じゃないことは言わない。彼より頭のいい人も、顔がカッコいい人も、お金持ちな人も沢山いるだろう。それでも私は、そんな名前も顔も知らない誰かなんかより、彼の方が良かった。兄さんの妹、という関係性から始まって、凄く親しかったわけでも無いけれど、私に手を差し伸べてくれた。希美先輩でも、兄さんでもなく、あの時私を救ってくれたのは、前を向けるようにしてくれたのは、他でもない彼だと私は知っている。

 

 だからこそ、彼が私を捨てることがあったとしても、私が彼を振ることは無いだろう。何より、桜地の女は惚れた相手にずっと一途でい続ける。そういう血筋なのだ。

 

「お母さんにとって唯一無二であるように、私にとっても同じことです」

「それは、とっても嬉しい。困ったことがあったらいつでも言ってね。私たちに出来ることがあるかは分からないけど、力になりたいとは思っているから。さやかも、純一もね」

「ありがとうございます」

「ゆっくり休んでね」

「はい、おやすみなさい」

 

 私は頭を下げて、廊下に出る。廊下の隅にいた人影がそれにビクッと反応する。

 

「なにしてるんですか?」

「あーえっと」

「いつから聞いてました?」

「割と、最初の方から」

 

 彼の顔は赤く染まっている。お風呂上りなのもあるだろうけれど、それだけではないのだろう。私が普段見せないパジャマ姿なのも、原因の一つとしてはあるかもしれない。緩めの恰好なので、ところどころガードが甘くなっている。現に、視線が行ったり来たりしている。主に私の顔と胸元から。

 

「あぁ、まぁ、別に良いですけどね。言ったことは全部本心ですから」

「うん、それは分かってるし疑ったりして無いけども。そういう風に思ってたのかって、ちゃんと聞いたこと無かったから」

「そう言えば、そうだったかもしれませんね。先ほどお母様にお話しした通りです。もしかしたら、純一さんは私でなくても同じことをしたのかもしれません。でも私にとっては、あれが運命でした。あの時助けてくれたから、私は今こうしてここにいます」

 

 少し薄暗い廊下で、私たちは話している。部屋の中に聞こえないような、そんな声で。ゆっくりと抱き着いたその身体からは、この家のお風呂の匂いがした。

 

「私の味方でいてくれる人がいる。だから、私は頑張れます」

「俺が、涼音ちゃんじゃない別の子にも同じようにしたのかは分からない。でも、俺は涼音ちゃんだから助けたいと思ったんだ。お祭りだったり、映画館だったりで話したあの時の涼音ちゃんは、誰よりも頑張っていて、誰よりも一生懸命で、それでもさやかと変わらない普通の女の子だと思ったから。俺は桜地みたいにカッコよくないし、頭もよくない。でも、何があっても涼音ちゃんの味方だ。それだけは、絶対に変わらない」

「また甘えて泣きついちゃうかもしれませんよ?」

「それでもいい。その時は、俺が笑わせてみせる」

「ありがとうございます」

 

 私を抱きしめ返すその腕は私よりも太くて硬い。相手の胸に頭を預けながら、私は名残惜しいこの時間に身を任せている。少しでも長く、少しでも多く、このままいられるように。私は一人じゃない。私には、助けてくれる人も、寄り添ってくれる人も、導いてくれる人もいる。

 

 恋愛小説のような恋に憧れていた。それはフィクションだと分かりつつ、こんな気持ちになる日がいつか来るのかもしれないと思っていた。じゃあ今の感情が恋なのかと聞かれると、即答は難しい。この気持ちを言葉にするのは大変だったけれど、今なら何となく分かった。これはきっと恋じゃなくて、愛なんだろう。理由を作って会うのが恋なら、理由なんていらないのが愛だと思っている。その定義に則ればこの気持ちの証明は簡単だ。

 

 私は彼を愛している。世界の中でたった一人だけの、私の特別を。




次回から合宿回です。

お気に入り登録1200人ありがとうございます! 感想等いつも励みになっております。作品は重たい話が多くなっていきますが、どうぞ今後ともよろしくお願いいたします。
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