音を愛す君へ   作:tanuu

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第十六音 努力

 腹が立っているという感情はどうにもできないけれど、それでも練習はしないといけない。明日には高坂さんやパート練で教えると言ってしまったのだ。元々これは予定していたので自由曲が決まった日からずっと練習はしているのだが、それでもまだ人前に出せるレベルになっていると自分では言えない。

 

 高校生としては、十分なレベルだと自負している。けれどそれではダメだ。私を目標としてくれている高坂さんにそんな演奏を聴かせることはできない。遥か高みでありながらも頑張れば届く。そういう演奏を聴かせることが私の役目だ。それが彼女の求めている桜地凛音の姿だろう。そしてそれに応えることが私と彼女の約束である。

 

 楽譜を捲りながら書き込みをしていく。ペンを軽く回しながら注意点を書いていくと、だんだん余白が少なくなった。自分で演奏していると外から聞いているだけでは分かりにくい部分も実感を持つことができる。それは指導にも生きるはずだ。

 

 扉が開き、フルートのケースを持った妹が入って来る。チラリとこちらを見た後何も言わないまま譜面台を出して、そのまま演奏の練習を始めた。向こうの課題曲はさっき聞いた。だが今は自由曲の練習をしているようだ。曲は聞く限り『キリストの受難』だろう。

 

 お互いに何か言うことはない。私からアドバイスされるのはあんまり好きじゃないようだ。自分の力でどうにかしたいらしい。それはそれで本人の拘りなのだろうから何も言わないけれど、少し寂しい。昔はピアノを教わりに来ていたことを思えば猶更。もっともそれはもう十年以上前の話だが。

 

 時刻が十時半を回った頃、携帯が鳴り響く。誰からだろうと思ってみれば、部長からだった。妹の邪魔なので廊下に出て通話ボタンを押す。

 

「あ、もしもし桜地君? 夜遅くにごめんなさい、小笠原です」

「部長、こんばんは」

「うん。それで……」

「斎藤先輩の件ですよね。先生からお聞きしました。お力添え頂いたおかげです。本当にありがとうございました」

「私はただ、ちょっと話を聞いて、『一緒に続けない?』って言っただけだから」

「ですが私だけだったら確実に斎藤先輩を追い詰めて終わりでした。部長がフォローしてくださったからこそ、斎藤先輩も決意出来たんだと思います。部長の優しさのおかげですよ」

「……そう、かな」

「はい」

 

 少し歯切れの悪い声。それはどういう理由なのだろうか。友人が辞めないという決断をした。それは喜ぶべきことのはず。謙遜しつつも、しっかり関わっていることも事実だ。なら私の言葉に問題があったのか。

 

「何か、お気に障りましたか?」

「ううん、そういう訳じゃないんだけど……情けなくなって」

「そんなことは」

「でも、葵の抱えてるもの、私には分からなかった。ずっと近くにいたのに。結局今回も桜地君に助けられて……。私、優しくなんてないよ。ホントに優しいなら、もっと早く葵のこと気付けてたはずだもん」

「……意外と近くにいると見えないこともあるものです」

 

 それは私の反省を込めた言葉だった。近くにいたのに見えなかった。一番ではないにしても、抱えているモノの重さと大きさを見誤ったまま失敗した。今回は運が良かったのかもしれない。或いは、あの時の失敗を糧に出来たか。

 

「私は、優しさは誰かの弱さに気付ける事じゃないと思っています。気付いたときに、或いは知ったときにその人のために心を痛められることだと思うのです。まぁこれはあくまでも私個人の考え方ですけど……。でも私は今年の部長が先輩で良かったと思いますよ。掛け値なしに」

 

 彼女は時に頼りない。けれど、それがある意味では三年生たちに見えにくい団結を生んでいる。実際、なんだかんだ彼女の人望は高いのだ。自分ではそう思っていないのかもしれないけれど、副部長と同じくらいには。どちらが欠けても運営は上手く行かないと思うくらいには、必要な存在だ。

 

「ともかく、今回は本当にありがとうございました。また何かありましたら、よろしくお願いします」

「もう無いと良いんだけど」

「それは私も思っています」

 

 小さな笑い声が電話口の向こうから聞こえた。今日はよく電話が来る日だが、それでもさっきのよりはずっと良い。

 

「それでは、失礼します」

「うん、お休みなさい」

 

 独特な切断音を耳に残し、電話が切れる。部長は本当によく頑張ってくれた。どういうやり取りがあったのか詳しくはあずかり知らないが、それでも何もしてないわけがない。

 

 私が前回やるべきだったのは、こういう存在を味方にすることだったのかもしれない。失敗を糧に出来たのだろう。けれど、それを自賛するのは違う気がして、暗いガラス戸の向こうにある庭を眺める。まだ空は曇っていて、月は見えなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌日の目覚めは最悪だった。とにかく首が痛い。妹がお休みと言って先に寝てからどれだけ練習していたのか記憶にない。覚えているのは、それが午前一時くらいだったことだけ。

 

 色んなことが一気にありすぎて、少し疲れていたのだろう。気付いたときにはもう朝だった。防音室の椅子に座りながら寝ていたらしい。時計を見れば四時を回っている。そろそろ起きる時間だ。重たい足を引きずり、痛む首を抑えながら部屋を出た。

 

 6月の朝はもう暑い。衣替えの時期はとっくに終わり、半袖の白いシャツを着ながら登校になる。それでも拭えない日本の湿気は肌にまとわりついていた。今日は約束通り普段は持ってこない私の楽器を片手に下げている。

 

 学校に到着した時にはもう音楽室からオーボエの音が聞こえてくる。同じ中学出身だけあって、それなりに家も近いはずなのだが、一体いつ家を出ているのだろうか。私もかなり早めに来ているつもりであるけれど、みぞれと先生はいつもいる。先生は遅くまで残っているのに、しっかり寝ているのか不安になる勤務状態だ。

 

「おはようございます」

 

 鍵が開いているのは分かっているのだが、それでも挨拶だけはするようにしている。吹奏楽部に関しては共にやっていく存在、ある意味では同僚に近いのかもしれない。教師にこんな感情を抱くなんて思いもしなかったけれど。尤も、まともに大学以外の先生と交流しているのは高校に入ってからかもしれない。

 

「あぁ、おはようございます」

「いつも早いですね。先生、しっかり睡眠していますか?」

「人並みには寝ているつもりです。私には、妻も子供もいませんし、家にいてもすることは特に無いので」

「そうですか……。無理はしないでくださいね。先生がいないと恐らく空中分解しますので」

「勿論です。最後まで全うするべく、健康には気を付けていきます」

 

 妻子が無いと言った時の一瞬だけ見せた曇ったような、それでいて何かを懐かしむような遠い目。それに込められた意味を推察しようとしたけれど、それは先生の個人情報であると思ってやめることにした。それは必要な情報ではない。誰にだって、過去がある。それが幸福に満ち溢れているとは限らないものだ。分からないふりをするというのが、時には求められているのだろう。

 

「そういえば、今日は楽器を持っているのですね」

「はい。私の戦友です。パート練などで使おうと思いまして」

「なるほど。お手本となる演奏がいつでも聞けるというのは、この部のトランペットパートにおける強みですね。今回の自由曲ソロは特に大きな見せ場になっていますから、やはり私の選択は間違っていなかったようです」

「それは結果を出してから言ってくださると嬉しいです」

 

 結果を出す。それが今の私に必要なこと。けれど焦ってはいけない。あくまでもこれは私のエゴであり、私の事情。それに先生や部員を巻き込んで混乱させたり、無理をさせるようなことがあっては断じていけない。身勝手な行動で全体を破滅させたりしては、私の沽券にかかわる。

 

 ただ、先生と方針を共有しておくことは悪いことではないだろう。

 

「そう言えば先生。先生は今年、全国大会に出場するつもりですか?」

「それが最良の結果だと思っています。あなたは再来年こそ本命と捉えているようですが、私としては出来れば今年の三年生にも、栄光を掴みとって欲しい。そう考えています。彼らには、無理をさせている部分も大きいですから」

「そうですか……。分かりました。私も、今後はそういう心持ちで行くことにします」

 

 先生は少し驚いたような顔で私を見た。先生がビックリしているシーンなど、あまり目にするものではないのでこちらも逆に驚く。

 

「そんなにビックリしないでください」

「あぁ、すみません。ただ、ちょっと驚いてしまって。あなたはかなり現実的な生徒だと思っていましたから」

「まぁそれは否定しませんけど、現実ばっかり見てても音楽家にはなれませんからね。私もこの代で全国大会に駒を進められるように全力を尽くす所存です。これまで以上に」

 

 今の代の三年生を踏み台のように扱っていることに対し、どこか抵抗感があったのは事実だ。しかし現実的な観点がそれを覆い隠していた。そういう意味では昨日のウザったい電話はそれなりに意味があったのかもしれない。やってもいないのだから現実的かどうかなど分からない。

 

 ただ、無闇に夢を見て、それが失敗した時を恐れていただけ。そんな臆病でいてはいけないと発破をかけられたと思えば、少しは前向きにとらえられるだろう。何より、今こうしている間にもオーディションに挑もうとしている多くの人がいる。それなのに私一人が『現実的』などという常識に縛られて逃亡しているのは失礼だ。

 

 それに常識的なことなど放り出して生きてきたのが自分である。それが役に立つことも大いにあるけれど、今この場所で求められているのはそういう私ではないだろう。常識的なことを言うだけなら、誰にでも出来るのだから。尤も、来年再来年を見据えた行動を止める気は無い。それはそれで必要なはずだから。

 

「あなたの行動にはよく驚かされます。どういう風の吹き回しかは分かりませんが、私としては大いに歓迎するところです。これからもどうぞよろしく」

「はい。誠心誠意努力します。そして必ず結果を残してみせますから」

 

 そう宣言して、職員室を後にする。頑張るだけならやる気があるなら誰にだって出来る。部員はそれで構わない。けれど我々は指導者だ。彼らを努力させ、追い立て、夢を見せた責任がある。夢を見せたのに、叶えるための力を与えないまま放置するなど言語道断だろう。

 

 この立場にいるなら努力は当然だ。それを憐れまれたり、結果を出せなかったことの情状酌量の材料にはされたくなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 さて音楽室に向かうぞと思って廊下を歩ていると、四つの人影に遭遇する。瞬間、思わずゲッと思ってしまった。一人は昨日の今日で気まずい相手である。確かに割と関係としては深い四人だ。部長、副部長、中世古先輩、斎藤先輩なら一緒にいてもおかしくはない。そして後輩なので無視するわけにもいかない。

 

「お、おはようございます」

 

 顔が引きつっていないことを祈りながら小さく頭を下げた。ばらばらに挨拶が返って来る。吹奏楽部は体育会系に近い。挨拶をしないとそれはそれで問題なのでこの対応は間違っていないはずだけれど、ちょっと今は勘弁してほしかった。めいめいに挨拶が返って来るのを聞きながら、内心で汗を流す。

 

「お早いですね……」

「私がちょっと先生に用事があったからね」

「な、なるほど」

 

 斎藤先輩の職員室への用事は昨日の件だろう。電話で話したと言っていたけれど、一応しっかり対面でも話をするということのはずだ。先輩の態度は一見すると変わっていないけれど、それはあくまで表面上の話。よくも顔を見せられたな、と内心で思っている可能性も否定はできない。今は他の三人がいるので抑えているのかもしれない。

 

「先生からもう聞いてる?」

「はい」

「そっか。それじゃあ、そういう事だから。これからは()()()()()()よろしく」

「はい。よろしくお願いします」

「それと……ありがとう」

「……こちらこそ、ありがとうございます」

 

 これからもよろしく、という事は取り敢えず昨日の件は水に流してくれると思ってもいいだろう。これから先輩が私の要望通り、そして昨日先生に話した通りに後輩育成に携わってくれるのだとしたら、私とも関係を続けていく必要がある。

 

 なにせ、私は指導役という立場にいるのだからして、後輩の実力などを取りまとめているのは私だ。ここで連携せずに成果を出すのは難しいだろう。それは向こうも認識しているはず。その上でなおこういう言葉をくれたということは、私の判断通りで良いはずだ。

 

 それにありがとうという言葉。私のした事が許されるとは到底思えないし、相手がどう思ったとしてもそれはそれとして罪悪感を捨ててはいけないと思う。だが少しでも何か変えられたのだとしたら、あの最低な行動にも意味があったという事だろう。それは少しだけれど慰めになる事だった。

 

「それじゃあ、私は職員室行くから」

 

 斎藤先輩は部長と中世古先輩を連れ立って歩いていく。その場にはなぜか残った副部長と私だけが残された。

 

「で、何か御用ですか?」

「え~、なんでそんなつっけんどんなの~?」

「先輩が私に用事がある時は、大体面倒ごとかあまり聞かれたくない質問なことが多いですから」

「おぉ、ぶっちゃけるねぇ」

「今誰もいませんので」

「それもそっか」

 

 この人と対峙すると疲れることが多い。悪い人ではないし、嫌いでもない。後輩の指導もしっかりしているし、実力者であるため部の大事な戦力でもある。優秀なので副部長としても色々な仕事をしてくれる。尤もそれは最近私が代わっていることも多いけど。

 

 何にせよ、本当に悪い人では無いのだ。ただ私が少し苦手なだけで。自分の隠している部分まで覗かれそうになるのが好きではない。私は隠したいことが多い。それは自分の心持ちの問題でもあり、自分の今の立場の問題でもある。気付かれては困る事が多いのだ。先輩が言いふらすとは思わないけれど、余計なことをしたくない。

 

「葵のことは知ってるだろうとは思ってたけど、まさか君が動くとは思わなかったなぁ」

「そうですか?」

「だって、そうじゃない? 受験生なのは本当だし、勉強したいならすればいいし。テナーサックスも他にいるし、そこまですること無いと思ってた。晴香とか香織ならともかく、君と葵にそんなに絡み無いでしょう?」

「それは確かにその通りですけどね。でも私は必要だと思ったから動いたのです。もっとも結果はこうなりましたが、私がどこまでそれに寄与しているのかは分かりませんけど」

「必要、ねぇ」

「そうです。確かに先輩の言うことも間違いではないと思いますよ。実際事実ですし。私がやったことは斎藤先輩の人生を大きく変えてしまった可能性もありますから。ですが少なくとも吹部において、経験者で優秀で人望もある人をみすみす逃すのは損失であると考えました。それだけで十分な動機になります」

「それに晴香のメンタルを保ってくれる存在だから?」

「それもまた、一つの要素ですね」

 

 やはりこの人は私とどこかで考え方が似ている。ただ、行動するかしないかの基準が違うだけ。

 

「まぁ、私としては残ってくれるならそれで構わないんだけどね」

「なら、この話はこれでいいのでは? 先輩が行動しないという選択を取ったことを責める気は毛頭ありません。それは立場の違いが大きいでしょうから。先輩は副部長である以前に部員です。ですけど私は部員である以前に指導役なので。当然考え方ややるべきことも変わってくるわけです」

「大変な生き方だね」

「えぇまぁそれは自分でもときどき思います。けれど……自分で選んだ道ですから。どんな地獄であれ、自分で選んだなら最後まで生きてみせるだけです」

 

 それでは。私は強引に話を区切った。これ以上話していると、もっと奥深くに隠しているものまで見せてしまいそうだから。心を許してはいけない。私にそういう相手は必要ない。この部活において、私は本音を見せてはいけないのだ。

 

 私が弱いところを見せれば、それだけで私を裏付けているものが崩れてしまう。それは私の存在を矮小化させ、最終的に指導に悪影響を及ぼす可能性だって存在する。ありていに言えば舐められる可能性もあるという事だ。特に上級生も指導しないといけないこの代では、私は強い存在でないといけない。それはどんな時でも。

 

 それに私は田中先輩に動いて欲しくなかった。恐らく彼女が説得すれば、斎藤先輩はもっと頑なになっていた可能性がある。何せ斎藤先輩の一番の特別は、恐らく彼女なのだから。私はそうではないからこそ、アレが言えた。そういう側面も、あるはずだ。 

 

 

 

 

 

 

 

「はい、それでは早速今日の練習を行っていきます」

 

 今日はまずパート練がメインの日だ。せっかく持ってきた私のトランペットもしっかり出番がやって来る。ケースを教卓の上に置いて、その鍵を開けた。開くと金色の輝きが露わになる。この部活内で金色のトランペットを使っているのは中世古先輩と高坂さんだけ。他はみんな銀色だ。

 

「今日は自由曲の方を重点的にやりましょう。オーディションでの課題部分に集中したいかもしれませんけど、そこはあくまでも本番で吹く箇所の一部分にすぎません。そこだけ完璧でもしょうがないですからね。今回はまず、最初に私が吹いてみます。そのためにこの子を持ってきたので」 

 

 つるりとした表面は塗装の禿げなく輝いてる。このトランペットは、私が初心者だった頃からの付き合い。まだ全然吹けなかった頃の下手くそな演奏も、今の演奏も、色んな大会での演奏も、その全部を知っている唯一の存在だ。物言わぬこの黄金に、私は人生を預けている。

 

「取り敢えずやりますね」

 

 それだけ言って、私はマウスピースに口を付けた。軽く息を吐きこめば、まるでエンジンをかけられた機械のように徐々に本調子になっていくのが分かる。そして準備OKと言わんばかりになった時に演奏を始めた。

 

 自由曲の担当部分である。これを何とかするために数晩ほぼ徹夜状態で練習した。おかげさまで、私の面目を保てるくらいには演奏できているのではないだろうか。さして苦労することなくお手本の演奏は終わる。

 

「これがお手本です。ここまで一気に出来るようになれとは言いませんが、最終的に、つまりは全国大会に出る頃までにはこれくらいは、もっと言うならこれを上回るような演奏を出来るようになってほしいと思います」

 

 メモすることを楽譜に書き込んでいく面々。すぐにメモをする習慣があるのも、吹奏楽部の特徴かもしれない。ある程度終わるのを待って、私は練習を進めていく。

 

「それでは、まず一度通しでやってみましょう。その後細かく見ていきます」

 

 全体練習は明日から始まる。容赦ない先生の指摘が飛んでくるだろうから、それまでにある程度ものになっている状態にしたい。とは言え、それでも指摘は飛んでくるだろうし気になる所は残るだろう。初期にしては上出来と言われるレベルになるにはまだもう少し時間がかかるはずだ。

 

 だが問題は無い。それも見越して練習メニューを考えている。これまで約二か月間やってきて、全員の成長速度もなんとなく掴めている。多少の差はあるだろうけれどそこまで大きくずれてはいないはずだ。行われている練習の音を聞きながら、私のメモを行った。

 

 

 

 

 

 

 

「じゃあ、終わります。ここからはこれまで指摘したことに注意して個人練を行ってください。お疲れさまでした」

「「「ありがとうございました」」」

 

 パートによって雰囲気と言うのは変わる。トランペットはパートリーダーの中世古先輩が真面目な人なので、終わった時にしっかり挨拶が来る。先輩なのに後輩にありがとうございましたと言えるのは、その人格がなせることだろう。パートによっては後輩しか言ってくれない場所もある。

 

 別に矯正する気も無いし、敬えというつもりもない。ただ、言われた方が私も気持ちがいいだけである。あとは心象が良くなる。それくらいだ。先生にしっかり言っているならば問題は無い。例えそこら辺で多少舐められていても、それくらいなら練習はしてくれるだろうし言ったことは守ってくれるだろうからそれでいい。私が気にしなければ良いだけの話だ。

 

 教室を出た私に背後から追いかけてくる足音。立ち止まって振り返れば、そこには加部がいた。

 

「ごめん、ちょっと相談があって」

「どうした? 分からない事?」

「それもちょっとあるんだけど……」

「じゃあまずそれからやろうか」

「ここなんだけど……」

 

 息が続かないと言っていた部分だ。高音を出すのに苦労している彼女の場合、ここで音を指定された音量で出すとどうしても変な音になる上に後々の部分に響いてしまう。

 

「分かった。高音の練習は去年教えてなかったからなぁ。息のスピードを上げれば高音は出るんだけど、言うより見た方が早いからこの後やろう」

「ありがとう。それで本題なんだけど、秋子ちゃんのことね」

「吉沢さん? 何か問題発生?」

「う~ん、問題って言うほどかどうかは分からないんだけど、ちょっと自信喪失って感じかなぁ」

「そっちも了解。ちょっと声をかけてみる」

「うん、お願い。私じゃ頼りにならないと思うから」

「そんなことは……」

「いやいや、私が一番よく分かってますから。このパートで一番下手なのは私だって」

 

 それを否定することは出来なかった。きっと慰めは望んでいないだろう。そして同時に私はこの楽器に関してだけは不誠実であることはできない。慰めの為でも、間違ったことを、自分の耳に正直ではないことを言うのは信条に反する。

 

「まぁ? それでも出来る限り頑張りはするけどさ。なにせ私は桜地大先生の一番弟子なわけですから」

「一番弟子?」

「だって、そうじゃん。高坂さんは二番弟子だね。私は姉弟子」

「それなら尊敬されるように頑張ってくれ」

「演奏で尊敬されるのは難しいなぁ」

 

 アハハ、と軽く笑っている彼女が悔しいのかどうかは分からない。言葉の中にそういう色は見当たらなかった。一つ分かったのは、辛いという思いは今のところ無いようだということ。私は元々音楽を楽しんで欲しいと思って去年教えていた。環境が変わっても、そうなっているなら嬉しいと思う。

 

「それじゃ、任せたよ」

「その件も了解。では、さっきの話に戻ってやっていきましょうかね」

 

 ハイトーンを出すというのは難しい。初心者にはまず出来ない芸当だろうし、出来たら私はきっと廃業だ。練習プログラムを考え、そしてどうして音が出るのかを意識しながらやるだけでも大分変って来る。

 

 今年は無理でも、一年がかりでやれば望んだ音域をするっと吹けるようになるはずだ。私や高坂さんのように。冒頭から高音をぶっ放せるようになればもう教えることは何もないと言えるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 練習も終わり、いつも通りの個人レッスンも終わる。高坂さんも帰った後の校内を見回っていると小さくトランペットの音が聞こえていた。昨日はそもそも個人レッスン自体が遅かったので分からなかったが、遅くまで残っている部員に聞くといつもこの時間まで聞こえているらしい。

 

 音源はどこかを耳を頼りにしながら探し、教室にたどり着いた。演奏されているのは自由曲。今日やっていた場所だ。教室内の電気を半分だけ付けながら練習している。少しだけその練習を聞いてから扉を開けた。

 

「もう少し勢いよく出そう。そうしないとへにゃっとした音になっちゃうから」

 

 いきなり人が来たことにビックリしたのか、吉沢さんは椅子に座ったままひっくり返りそうになっていた。慌てて背もたれを抑える。

 

「ごめんなさい、ちょっとびっくりしちゃって」

「こちらこそ。いきなり声をかけてしまった。もうそろそろ強制下校の時間だから」

「わ、もうこんな時間。ありがとうございます」

 

 彼女はワタワタと急ぎながら片づけをしていく。楽器がここの備品なので、全部片づけないといけない。

 

「オーディション、近いですね」

「そうだね。どう、練習の調子は」

「……ちょっと、相談しても良いですか」

「どうぞ」

 

 彼女はちょっと俯いて話を始めた。

 

「最近高坂さんもよく教えてくれてるんです。でもあんまり上手く行かなくって。高坂さんにも申し訳ないし、香織先輩とか優子先輩も教えてくれてるのに、もどかしくて。それでちょっと……ガックリきてます」

「そうか……」

 

 自信喪失、という言葉が100%バシッと当てはまっているかと言われると微妙だが、当たらずとも遠からずという感じだろう。

 

「先輩は私のいいところを活かしてって言ってくれましたけど、それじゃ実際大会に出れるかは分かりませんし……と言うより多分私は足りないかなって。それで色々焦っちゃいます。全然伸びないし、出来ない所が沢山見えてきて、それが悔しくって……」

「気持ちは分かるよ」

 

 ちょっと泣き出しそうだった声にかぶせて、私は言った。蛍光灯の光が空間を照らしている。人工的な白い光は床に黒い影を落とす。私は彼女の座る椅子の前に別の椅子を引いて腰掛けた。

 

「思った通りにできないのは悔しい。頭ではこうしないといけないって分かってるけど、実際の演奏がそれに追い付いてくれない。そうでしょう?」

「……はい」

「私だってそうだ。やってる間に何回もそういう所にぶつかる。でも、その時思うことにしてるんだよね。出来ないところに気が付けているのは、自分がステップアップしてる証なんだって」

「ステップ、アップ……」

「そう。前まで見えなかった部分が課題になったのは、自分がその前段階をクリアしたから。そう思うことにしてる。それは、吉沢さんも同じじゃないかな? 最初に実力を知るために演奏してもらった時より、ずっと良くなってる。音も綺麗だし、何より習得時間が早くなってる。例えば……」

 

 楽譜を取り出して幾つも指をさす。それは全部、彼女が今まで苦戦していたけれど出来るようになった場所だ。

 

「ここも、ここも、こっちも。これは今の曲じゃないけど、前出した課題も全部出来るようになった。君の成長はずっと見てきている。だからこそ分かる。ちゃんと伸びてるよ、君の演奏は」

 

 先生は個々人のスキルアップを小さく知るのは無理だ。だからこそ、私が知ればいいと思っている。これは私にしかできないことだ。部員であり指導者である私は、先生よりは距離が近いはず。それを活かすことが出来れば大きな力になると思った。だから一人一人に注目して、その小さな成長を把握するよう努めている。

 

「指導者は成果を出さないといけない。結果こそ全てだ。けど皆はそうじゃない。過程だって大事な財産のはずだからね」

「でもでも、大会出れないかもしれないじゃないですか」

「そこは君に頑張ってもらわないと」

 

 彼女はむ~という顔になる。少なくとも泣きそうになっていた時よりは大分マシだ。少し話してスッキリしたのかもしれない。中世古先輩や吉川も相談すれば聞いてはくれるだろうけれど、今は結構皆忙しい。特に先輩はソロの部分を鬼気迫る勢いでやってるし、高坂さんがソロを練習していることに吉川は気が気じゃない。少し話しかけにくい空気があったのも事実だ。

 

「前も言ったけど、高坂さんに追い付くのは難しいし、それをしたら君の良さは消えてしまう。だけど走ることはできる。彼女の方が進む一歩が大きいなら、君は走った長さで勝負しよう。転んだって構わない。それは君だけの財産になるはずだし」

「立ち上がれるか、分かりませんよ?」

「大丈夫さ。その時は、私が引っ張ってあげるから」

「……待ってますね」

「えぇ、コケる前提なの? もっと自信もって大地を踏みしめてくれないと」

 

 私は審査員だ。だから絶対受かるとかそういう事は言えない。けれど少なくとも応援することは自由のはずだ。当日その時までは。だから私はそうしている。頑張っている部員全員の結果が望むものであることを。それをさせない側の人間であるのにそう願うのは矛盾かも知れないけれど、内心で思っているだけなら許されて良いはずだ。

 

「あの、高坂さんに個人レッスンしてるんですよね」

「あぁ、うん。さっき終わったところ」

「じゃ、じゃあ私もそれに参加してもよかったり、したりしないですか?」

「いいよ」

「そこをなんとか……え、良いんですか?」

「ダメなんて一言も言ってないし、今の君のレベルなら……高坂さんも拒みはしないと思うし」

 

 高坂さんには追い上げられる恐怖も知ってもらった方が良いだろう。吉沢さんには適度に刺激を与えるいい材料になるはずだ。二人の交流促進にも役立つ……はず。

 

「この部活は生徒の自主性に任されているんだ。高坂さんは自主的に頼みに来た。だからやってるんだよ。他の子が来れば、当然それは受ける。自主的に行動したんだからね。そこで差別したりはしない。そして今君は自主的にお願いした。だから当然返事はOKだ」

「やった~!」

 

 無邪気に喜んでいる姿を見る限り、取り敢えず何とかなったと思う。加部に頼まれていたミッションは成功したと思って良いだろう。この子も将来の北宇治を担う大事な支柱になるはずだ。というより、欠けていい存在はいない。代わりはいても、それは元の音楽とは違うもののはずだ。

 

「あ、そう言えば、もうすぐあがた祭ですね」

「そんなのもあったねぇ」

「……先輩は、どうするんですか~?」

「私は……どうだろう。どっちにしてもちょっと商工会議所とかそっち系に挨拶しないといけないから行きはするけどね。とは言えそれも五時半くらいには終わるだろうし、その後は帰るかぶらぶらするか……ってところ」

「それじゃ、その後行きませんか? 私と一緒に」

「こっちは別にいいけど……嫌じゃない? 私とお祭りとかいう謎イベント」

「はい、特には。高坂さんは黄前さんと行くらしいですし、他の先輩も予定あるみたいなので、なら丁度いいかなって」

「そ、そう。消去法か……。まぁ、じゃあ、良いけど」

 

 彼女が何を考えているのかよくわからないが、取り敢えずそれなりに好感を持たれているのは事実だろう。嫌いな人とお祭り行く変な人はいない。吉沢さんが普通の子かと言われると少しだけ迷うけれど、でも変人というほどではないだろう。携帯のスケジュールカレンダーに書き込んでおく。

 

「何買ってもらおうかなぁ」

「えぇ、マジかぁ……」

 

 オーディションの前に存在しているお祭り。その日は町が混むので早めに下校させることになっている。個人レッスンもお休みだ。元々休みなのだし、少しくらい羽を伸ばすことも許されるはず。そういう風に思うことにした。何より、それで大事な同じパートの後輩が喜ぶなら、それでいいのだ。

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