音を愛す君へ   作:tanuu

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第百三十四音 十字架

 二泊三日の合宿が始まる。これまでの二回はいずれもバス移動だったけれど、今年からは自家用車での移動になる。眠気眼の希美に見送られ、妹を学校でおろしてから高速道路に乗った。この合宿では関西大会に向けたオーディションが行われる。絶対何かしら問題が発生するという予感があった。大体こういう時の予感は外れない。ラジオから流れる声もあまり耳に入らない。今考えているのは、どういう音楽を組み立てるべきかという事だけだった。

 

 合宿所に到着すると、少し後に橋本先生と新山先生がやって来る。北宇治のバスはもう少し遅くなりそうとのことだったので、先に挨拶と打ち合わせをすることにした。彼らも今回の合宿に例年通り参加してくれている。北宇治には貴重な木管とパーカッションの指導が出来る人材だ。今年も例年通りの分担で指導をしていくことになるだろう。

 

「どうもお久しぶりです」

「いやぁ、久しぶりだねぇ、元気にしてた?」

「えぇ、おかげさまで」

「いやいや、話は色んなところで聞いてるよ。僕たちの母校でも講演したんだってね。講師の中には何人か知り合いもいるから、話題になってたよ」

「機会に恵まれまして。友人もいる事ですし」

 

 橋本先生は相変わらずフレンドリーに接してくれている。向こうの方が年配なので、変に気を遣われるよりはそちらの方がずっと良かった。

 

「駐車場に停まってたあの赤いヤツ、君の?」

「はい。正確には父のでしたが、受け継ぎましたので」

「良いヤツ乗ってるねぇと思ったけど、やっぱりそうかぁ」

「そこまで趣味というわけでも無いので、向こうでは別のに乗ってますけどね」

 

 橋本先生とは気安い会話が出来るので助かっている。男同士という事もあるのかもしれない。

 

「新山先生も、どうぞよろしくお願いします」

「今年こそは全国金賞を取れるように一緒に頑張っていきましょう」

「えぇ、是非」

「今のところ、どういう具合になってる?」

 

 橋本先生の問いかけは何ともアバウトなものだった。どういう具合というのは中々表現が難しい。

 

「どういう具合、というのは中々難しいですね。演奏面では順当に進化をしています。府大会の演奏を聴く限り、他の代表二校よりもその辺は上であると言っても良いかもしれません。技術力はあります。流石に、その辺はやわな鍛え方はしていませんので。ただし、曲のポテンシャルを全て引き出せているのかと言えばまた別の話になりますね。まだまだ演奏するので手一杯。楽譜を追うだけで、演奏者自身の感情が乗っていない時も見受けられます」

「なるほどなぁ……」

「自由曲は難しい曲です。しかしその分、仕上がれば強力な武器になる。彼ら彼女らの感情を引き出せるかどうかが、関西大会の分かれ目になるでしょう。まぁその前にまずはまだまだ甘い技術面を極めていくことからですが」

 

 私が告げた所感が真実であったと証明するかのように、練習では何度も何度も同じ個所を繰り返した。もう一度、という先生方の言葉が響き、時には私も口にする。そんな時間が何時間も続く。

 

「低音楽器のリズム、特に三小節目のシンコペーション、気を付けてください」

「「「はい!」」」

「マリンバ、そこ見せ場だよ! 恥ずかしがらず、私を見て! で良いんだよ!」

「はい!」

「面倒くさがらない! 丁寧に何度でも繰り返して身に着ける!」

「はい!」

 

 先生たちの口調も少しずつ強くなっていく。熱量が空間を支配していた。その熱は、去年や一昨年を上回っているかもしれない。

 

「チューバが弱いです。もっとください」

「「「はい!」」」

 

 そこに加えて私の指示も飛んでくるので、部員たちはてんてこ舞いになっていた。熱量に押されながらも、私はまだ冷静な方かもしれない。秀塔大では燃え上がっている部員にガソリンをまき散らす作業だったのだが、北宇治ではそれが最適解とはあまり思えないでいたからだ。北宇治の部員は私の北宇治での姿しか知らない。ならば、変にキャラクター性を変更するよりは今まで通り基本的には冷静な人間像を貫いた方が良いだろう。

 

「では、今度は頭から全員でお願いします」

「「「はい!」」」

 

 部員の声は何度も何度も音楽室に響き渡った。クーラーが挙げる悲鳴よりも何倍も大きな声で。

 

 

 

 

 

 

 

「もうダメ……」

 

 へばっている一年生の死骸があちらこちらに散見される。食堂の中は死にかけの後輩の姿で満ちていた。三年生や二年生ですらそれは例外ではない。元気溌溂としている人の方がむしろ少なかった。そんな姿を作る原因の一端を担っている私としては、曖昧な顔をしたままでいるしかなかった。

 

「今年は、随分と張り切ってましたね。滝先生も」

「まぁ仕方ないね。一番思い入れの強い世代というものは存在するから。それは私も、同様ではあるけど」

 

 出来れば、苦楽を共にした同期と一緒に金を獲りたかった。しかしそれは最早叶わぬ夢になってしまった。だからこそ、今はこの世代に全てを託している。香織先輩や優子たちの想いを全て背負ったうえで私はここにいた。それは先生も同じようなモノだろう。全国金。それは先生の今は亡き最愛の人が最後まで夢見た場所だった。そこへ行きたい。出来れば、この世代で。そういう想いが先生の中に存在しているのは明白だった。

 

「例年よりも気合が入っているのは間違いないですよね。去年のあの演奏で銀だったという事を考えれば仕方ないかもしれないですけど……。そのせいか、今年は絶対的な奏者に頼らない曲作りになっている気がします」

「それは正解だと思う。希美やみぞれはトップエースだったけれど、そこに付いてこられるかどうか、みたいな勝負になっていた。でも多分それではいけないと思ったんだろう。突出した個よりも、全体の平均値を上げる方にシフトしている」

 

 吉沢さんはよく周りが見えている。それが彼女の美徳だった。冷静過ぎず、それでいて感情的になりすぎない。どちらかが欠けていても、きっと上手くいかなかっただろう。特に高坂さんのライバルというポジションは。食事時はトランペットパートの中にいた。先生たちと食べてても良いのだが、やはり世代的に近い部員の中にいた方が気が休まる事が多い。

 

「というか、高坂さんは?」

「あー、多分部長のところに行きました。色々気になるんじゃないですか、ソリの相手のことは」

「なるほど」

「最近注意されてる回数が多くなってますからね。それだけ低音が期待されているっていう見方も出来るんでしょうけど、麗奈ちゃんはそんな楽観的な子じゃないですし。だから気になってるんだと思います。出来れば、麗奈ちゃんからすればずっと一緒にやってきた部長と全国に行きたいでしょうから」

 

 ヘロヘロになりながらカレーを食べている後輩を優しい目で眺めながら、吉沢さんは語っている。彼女はまだまだ元気なようだった。私と高坂さんと一緒に二年間やって来たことは、彼女の中で確実に力になっている。

 

「余所見ばっかりしないで欲しいんだけどな」

 

 小さく呟かれた言葉が、誰に向けられたものなのか、察するのに苦労はしない。敢えて聞こえないふりをした私の選択が正解だったのかは、よく分からなかった。

 

 オーディションをやっている間とその前後、私は暇だ。それ故に、溜まっている仕事を片付けてしまう。私の仕事用パソコンのメールフォルダには何件ものメールが積み重なっていた。教授会の結果連絡、系列各社の半期の売上報告、楽団の仕事に関するモノなど様々だ。もうすぐ大学の新年度が始まる。九月入学の欧州では、年度の切り替わりは九月だった。誰が私の担当になるのか、その割り振りが行われている。今年もどうせ問題児が振り分けられるのだろう。今からその未来を予想して、ため息を吐く。

 

「桜地先輩」

「はい、どうぞ」

 

 ノックと共に呼びかけがある。その声で誰かは分かった。振り向けば、入り口に予想通りの人物が立っている。

 

「どうしましたか。もうすぐオーディションですよ」

「はい、分かってます。ただその、聞きたいことがあって」

「分かりました。どうぞ、おかけください」

 

 促されるままに、彼女は私の前に座る。私の部屋の戸を叩いたのはフルートのパートリーダーである高橋さんだった。妹が希美ほどではないにしてもかなり懐いていることから、その人柄が伺える。二年生で唯一ソロをやっている妹が特に問題なく部活で生活出来ているのは、彼女の尽力によるところも大きい。身内としては素直に感謝する以外に無い相手だった。その彼女が今は固い表情で私の前にいる。

 

「さて……どうしましたか」

「あの、先輩にこんな事聞くのはおかしいかもしれないんですけど」

「どうぞ。何でも話してください」

「私は、涼音ちゃんに勝てますか」

「……なるほど」

 

 遠慮がちで表情が強張っていた理由が理解できる。あなたの妹に勝てますか、と私に聞くのはそれなりに勇気のいる事だったと思う。それでも彼女は聞きに来た。それほどまでにかける想いは強いのだろう。彼女は三年生だ。もしかしたら、これが最後の大会になってしまうかもしれない。だからこそ、どんな手段を使ってでもと思ったのだろう。その覚悟を、私は否定することは出来ない。

 

「無理だ、と言われたらどうしますか。諦めますか」

「いえ。それでも、全身全霊で挑みます。可能性が0に見えたとしても、それは0に限りなく近い0.1かもしれませんから。0.1%でも勝ちの目があるのなら、それを拾いに行く覚悟です」

「そうですか。正直に答えれば、勝ちの目はあると思います」

 

 これは嘘偽りのない言葉だった。高橋さんと妹では、技術力では妹に軍配が上がる。しかし音楽に感情を乗せるのが苦手というのが妹の弱点だ。去年もそれでソロを逃している。中三の時は他よりも突出していたのでソロだったが、それでも技術力で表現をごり押ししていた。その悪癖は今でも治っていない。元々感情を表に出すのが凄く得意というわけでも無かったが、家の教育のせいでそれが加速してしまった。今では少しずつ治っているし、特定個人の前では出せるのだが、全体の前での自己表現を苦手としているのは今も変わっていなかった。

 

 希美を目標としている分、感情豊かな演奏の出来る希美との間にある差異は本人も自覚しているのだろうけれど、目を逸らしている節がある。しかしそれでは演奏は良くならない。元々型にはまった方が活躍できるのだろう。逆に自由が苦手なのだ。自由にしていいと言われると、どうしたら良いのか分からなくなってしまう。それがあの子の抱えている内面の問題。けれどそれを解決するのを待っているほど、コンクールまでの時間に余裕はない。

 

 その点なら高橋さんの方に勝ちの目がある。自由曲最終章のソロは、もう一度春を迎えた場面だ。そこではこれまでの全てを受けて未来へと再び新たな一年への序章を奏でる。まさに万感の思いを込めて、というのが相応しいだろう。その境地へ至れる可能性が高いのは、三年生の方だと思う。酸いも甘いも嚙み分けた高橋さんなら、良い事も悪い事も全部呑み込んでそして新しい一歩を踏み出すイメージがすぐに固められると思う。

 

「どうすれば、勝てますか」

「最後のソロは未来への継承です。辛いことも楽しいことも色々あったけれど、その全てを抱いて、新しい一歩を踏み出していく。その決意であり、未来の序章や予感でもあり、踏み出した足音と言っても良いでしょう。妹はそこを技術でごり押していますが、感情表現を乗せるのはあなたの方が上手くできている。なにせ、そういう演奏方法も二年間伝授してきましたからね」

「はい」

「ならば、それを活かしてください。そこにあなたの勝ちの目があるはずです」

「ありがとう、ございます。でも良かったんですか、教えてしまって」

「自主性を重んじるのがこの部活です。あなたが自主的にした行動であり、それは何ら咎められるものではありませんから。私は吹奏楽部のためになる行動をしているつもりです。上手い奏者が吹くことが必ずしもためになるとは断定できませんが、フルートパートに限ってはそうであると思っています。例えその結果妹がソロに落選するとしても、それは私の注意を活かせなかった彼女の責任です。身内を優先することなどありませんので」

 

 それは絶対に譲れない部分だった。いかに泣きつかれようとも、結果を変えるべく動いたりなどしない。口添えもしない。それは私が一つ心に決めている矜持だった。さもなくば、香織先輩の結末は無意味になってしまう。

 

「お役に立てましたか?」 

「はい、ありがとうございました」

「頑張ってください」

 

 深々と頭を下げて高橋さんは去っていく。どういう結果になるのかは、彼女が私のアドバイスをいかに活かせるか、そして妹がどこまで感情表現を出来るかにかかっているだろう。ただ恐らく先ほどまでの演奏を見るに、結果はある程度見えていた。きっと妹は悲しむだろうし、悔しさを抱えるだろう。けれどそれでも、止まることは出来ない。あの子ならば受け止めてくれると信じて、私は高橋さんの背中を見送った。

 

 

 

 

 

 

 

 

「オーディション、お疲れ様でした」

 

 疲れた顔の先生は、一瞬だけ私の顔を認識するのが遅れたようだった。オーディション中はすることのない私は、しばらく仕事をして、その後は男子部員の部屋でカードゲームやら取り留めのない話をして過ごしていた。やはり男子同士の方が打ち解けやすい。今年入って来た男子の数はそこまで多くないとしても、割と交流できているように思う。この辺りは塚本君や瀧川君のおかげでもあるだろう。

 

 彼らが就寝したのを確認して、私は男子部員の部屋を出てきた。女子社会の中ではあまり羽を伸ばせない彼らが少しでもリラックスできたのならば私がいた意味もあったと思う。先輩相手に容赦ない革命返しを決めてきた時は流石に真顔になってしまったが。

 

「あぁ、お疲れ様です」

「どうでしたか、今年の部員は」

「みな、良い演奏をしてくれています。努力が伝わって来るような。その分、選ぶというのは難しいですね。この学校に赴任して、あなたと共に指導を始めてから何度も何度もやっている事ではありますが、毎回これで正しかったのかと思い悩む日々です。特に今年は、何度も選考を行う都合上、余計に」

「それは我々に与えられた十字架ですね。彼らの努力に、真意はどうあれ優劣をつけてしまう。本来そんな権利など誰にもないというのに」

「えぇ。その通りです。今年になって、あなたがいなくなって、私がメインで審査を行うようになってから責任の重さを何度でも痛感しています。同時に、この重さをあなたにも背負わせてしまったことに、今更ながら後悔もしています。あなたはそれでも構わないと言うのかもしれませんが、それでも高校生に背負わせて良いモノでは無かった。にも拘らず、あなたも審査に加わって欲しいと思っている自分がいます」

 

 先生は少し俯きながら呟いた。私は買ってきた缶コーヒーを先生の前に置く。すみません、と言って先生はその蓋を開けた。メガネの奥には迷いが見える。きっと多くの決断があったのだろう。下した決断が正しかったと肯定できる時というのは、結局死ぬその瞬間まで訪れないのかもしれない。それまでにした肯定は、大抵が現状が上手くいっているからという理由に起因したものでしかない。

 

「私も秀塔大で同じことをしました。むしろ先生は向き合っている方だと思います。私の審査はくじの結果で決まったランダムな番号で演奏させて、その番号を発表していますから。呼名の時も、審査の時も、ただ番号を機械的に判断するだけ。奏者の顔も声も、私の目や耳には入っていないのですから」

 

 私もコーヒーの蓋を開ける。これはずっと部員と付き合っていく顧問と、所詮余所者でしかない指導員の違いなのかもしれない。私は後者だ。だからこそ、機械的な審査が出来る。これまでの努力も、そこに至った経緯も、何も知らないから。何も見ていないから。

 

「コンクールに出る。全国金を目指す。それはあなたに与えられた呪いでもあり、私が皆さんに見せてしまった夢でもあります。しかし、心の中では別の自分が問いかけることもあります。それは本当に正しいのか、と」

「……」

「選んだのは皆さんです、という逃げ場所を用意しているだけではないか。そういう悩みもあります。夢を見せたのは、私だというのに、その夢を見せた側が悩んでいる。何とも情けない話です。生徒には、到底聞かせられないですね」

「信頼の証と受け取っておきましょう。先生の悩みは正しいモノだと思います。むしろ、教師が何一つそういう事を考えていなかったら、私は困ってしまいますね」

 

 何が正しいのか。その答えはきっと何世紀経ってもたどり着けないモノなのだろう。迷いながら、悩みながら、自分なりの答えを見つけていくしかないのかもしれない。それがどれほど遠い道のりであろうとも。

 

「先生はその悩みを忘れないでください。それに、夢を見せたという意味では私も共犯者です。何が正しいのかは教員免許を持っている人が考えてください。その上で、共に彼らに力を授けていきましょう。夢を見せた癖に、叶えるための力を渡さないなんて、そんな不義理な事はありません。これは、私たちが始めた物語なのですから」

「えぇ……そうですね」

「思い悩むということは、大きな決定をしましたか」

「今は、詳しくは言えません」

「そうですか。ですがもしそうなのだとしたら、明日の発表は荒れるでしょうね」

「覚悟の上です。それに、明日の発表は私が行うつもりです」

「松本先生ではなく?」

「はい。今回だけはそうするべきだと思いました。顧問として、決断者として」

「反論や異論も出るでしょう」

「構いません。全て受け止めるつもりで、私は審査を行っています。不満の出ないオーディションなどありません。押さえつけても良い結果にはならない。一昨年、私はそう学びました」

 

 一昨年の出来事は、大勢の心に大きなモノを残している。私や先生にとって、それは消えない傷だった。あの時の出来事は昨日のことのように鮮明に思い出される。あの痛みを経て、私たちは今ここにいた。同じ罪を背負った者として。

 

「ただ、私はご存知のように部員との距離が近くない。その点あなたは、部員に近しい立場にいる。少なくとも私よりは。本来あなたのような立場の存在にこのような事をお願いするのは間違っているのかもしれませんが……」

「フォローはしますよ。出来る範囲ではありますが」

「ありがとうございます」

 

 先生は頭を下げる。窓の外では夜の虫が鳴いていた。がらんとした室内に、私たちだけが座っている。部員の知らない、指導者だけにしか分からない感情。それを共有できる存在は貴重だった。だからこそ私たちはこうして深夜に顔を突き合わせている。

 

「私がやっていることは何も変わっていませんよ。今も、去年も一昨年も。ただ吹奏楽部のためになる事をやっています。それは同時に、彼らの夢を叶えるために必要な事をやっていくだけのことです。何が正しいのかは分かりません。私も悩むことばかりです。ただ、今年他校の指導をして、色々な人と関わって、新しく決意したことがあります」

「それは?」

「彼らの三年間を間違っているとは言わせないようにしたい。私は、そう思っています」

 

 涙も痛みも苦しみも憎しみも絶望も慟哭も全部ひっくるめて人生だ。それは決して楽しくはない。だとしても、彼らがここで味わったそういうマイナスな感情だって全て、彼らを形作っている大事なモノのはずだ。そしてそういう苦しみを知りながら、なおも彼らはここにいて、演奏している。それはそういうマイナスを上回るモノを知っているから。それを目指して走る日々を、間違いなどとは言わせない。言わせたくない。

 

「迷いながらではありますが、共にやっていきましょう。私たちは『先生』として前に立っている。そうである以上、私たちに求められているのは悩みや弱さではないのですから。その代わり、生徒に見せられない部分は我々で共有すればいい。今まで通りに。そうじゃないですか?」

「参りましたね。私はあなたに頼ってばかりだ。教師として、成長できそうにありません」

「そんな事は無いと思いますけどね」

「そうだと良いのですが……。随分と遅くなってしまいました。明日も、よろしくお願いします」

「えぇ、こちらこそ」

 

 時計は既に深夜一時を指している。どういう結果になったのか、私には推測しか出来ない。ただ、先生の表情からきっと何事もなく終わったりなどしないのだろうという事は、確かに読み取れた。先生も迷いの中にある。それでも前に進んでいる。先生だって教師である前に人間だ。部員と同じように、苦しみや悲しみを知りながらも指揮台に立つ。諦められない理由がそこにあるから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 オーディションの結果発表は大ホールで行われる。合奏の隊形に座った部員、そして壁際に立つ部員が緊張と不安の眼差しで前を見つめていた。自分の努力は報われるのか、良い結果を得ることが出来るのか。部員の全神経が注ぎ込まれていた。この緊張感に対して、座っている側と前に立っている側でまた違った感情を抱くのだろう。前者で緊張などした事無い身には、きっと最後まで彼らの感情に共感は出来ないのかもしれない。

 

「これから、オーディションの結果発表を行います。大会ごとにメンバーを代えるのは、北宇治にとっても初めての試みです。昨年までと違う点も出てくると思いますし、苦労することもあるかもしれませんが、これが最良だったと思えるようにしていきたいと考えています」

 

 指揮台に立ってバインダーを持っているのは滝先生だった。それまで松本先生が担っていた仕事を、今は滝先生が担っている。今回だけはそうしたいと、昨晩言っていた姿が思い起こされた。何故そういう心理に至ったのか。その理由はぼんやりとだが推測できる。きっと北宇治にとって大きな決断をしたのだろう。それこそ、部内が大きく揺れ動くような。そんな決断に際して、自分が発表することで決意表明のようなことをしたかったのかもしれない。それが吉と出るか、凶と出るかはまだ分からなかった。

 

 大きな決断。その内容は判断できる。ユーフォかトランペットのソロ。そのどちらか或いは両方が交代になったのだろう。部長とドラムメジャー。そのどちらか一方でも交代となれば部内は揺れ動く。まだトランペットの方が救いがあるかもしれない。三年間切磋琢磨してきた、自他共に認めるライバル同士ならしのぎを削った末の結果と言える。だが、もしユーフォだったら。黒江さんは相当厳しい立場に置かれることも想像できた。

 

「では、トランペットから。1st、三年、高坂麗奈さん」

「はい」

「同じく三年、吉沢秋子さん」

「はい」

「2nd、二年、小日向夢さん」

「はい!」

 

 呼ばれているのは学年順になっている。基本的にトランペットは予想通りのメンバーだった。予定調和ともいうべき面子に、室内の空気が少し和らぐ。無論、落ちてしまった人にとっては辛いだろうが、全体からすれば変に変更がない方が安心できるのだろう。しかし見逃してはいけないのは、それはA編成組の意見であるという事。B編成組の方からは僅かな諦観が漏れる。

 

 しかし、それは判断が早いというもの。トランペットが抱える最大の問題は、二年生と一年生の間に明確な断絶があるという事だ。私が毎日来て教えていた世代と、そうではない世代では当然実力差がある。それが今のトランペットの問題であった。現在はダブルエース筆頭に引っ張っているためあまり表面化していないが、これが表に出てくるのは来年度の話になるだろう。

 

 そのダブルエースは声も表情も動かない。二人にとって、ここは前哨戦。ここで落ちるなど全くもって考えていないし、それは部内でもそうだろう。それは到底あり得ない未来だった。まだ太陽が西から昇って来る方が確率がある。そんなやわな育て方はしていない。トランペットの次に来るトロンボーン、ホルン、サックスでも特に異常がない。

 

「続いて、ユーフォニアム。三年、黄前久美子さん」

「はい!」

「三年、黒江真由さん」

「はい」

「以上二名です。では次にチューバ」

 

 ざわめきがあっという間に室内に広がった。さもありなんと思う。今回落とされたのは久石さん。四十人以上いる二年生の中では相当上位にいる奏者だった。去年の全国大会にも出場し、経験豊かな奏者でもある。いきなり落とされたことに疑問を持つ部員も多くいるのだろう。しかし、オーディションに参加していなくてもこの結果はある程度見えていた。ユーフォは三人もいらない。いないよりはいた方が良いが、大会人数五十五人で考えるなら、むしろ足りないのはチューバだ。

 

「三年、加藤葉月さん」

「はい!」

「二年、鈴木美玲さん」

「はい」

「二年、鈴木さつきさん」

「はいっ」

「一年、釜屋すずめさん」

「はい!」

 

 もっと大きなどよめきが起きる。チューバが四人。一見するとおかしな編成に見えるかもしれない。一昨年は二人、去年は三人だった。府大会でも三人。基本的にチューバはそれくらいであることが多い。だが殊に今年の場合は三人では足りなかった。そういう風に講評されていたし、私もそう思う。

 

「以上、五十五名です。続けて、ソロメンバーを発表します」

 

 木管はクラリネットだけ入れ替えがあった。これもバスクラなので、やはり低音域の音量問題である。フルートとダブルリードは同じまま。この辺も納得できる部分だ。今のところ、先生の判断に疑問を覚えるところは特に無い。部員の感情と指導者の考えは違うというのはきっとこういう部分なのだろう。見えている景色、聞こえている音が違えば、考えも変わってくる。この結果に多少なりとも理解をしているのは高坂さんやウチの妹のように前で指揮をした事のある人間だけなのかもしれない。

 

「クラリネット、三年、高久ちえりさん」

「はい」

「コントラバス、三年、川島緑輝さん」

「はい」

「マリンバ、三年、釜屋つばめさん」

「はい」

 

 残っているのはトランペットとフルート、そしてユーフォニアム。

 

「トランペット、三年、高坂麗奈さん」

「はい!」

 

 私が全く関与していないオーディションはこれで二回目になる。前回も今回も、二人の演奏を聴いていないので高坂さんと吉沢さんのどちらが本当に良かったのか、私には判別できない。ただ言えるのは、どちらでもよかったという事くらいだろう。多分、本質的な部分でどちらが演奏しても結果は付いて来ると思う。絶対にありえないとはいえ万が一にもミスをしない限り、どちらが演奏しても結果は同じになると言える。

 

 なので、滝先生が何を判断基準にしたのかは不明だが、最後の最後で明暗を分けたのはもしかしたらこれまでの経験だったのかもしれない。ともすれば、もう一回やれば結果は変わっている可能性もある。そういう次元の勝負をしているのだ。この二人に限って言えば、他の部員とは違う段階での審査が行われている。

 

「フルート、三年、高橋沙里さん」

「はいっ!」

 

 その声にまたしても動揺が室内を駆け巡る。ソロコンにも出場し全国大会まで進んだ妹がソロに落ちたことは、非常にショッキングな出来事だったのだろう。特に二年生の間での動揺が強い。二年生の中で一番上手いとされていた存在のソロ落選は、久石さんがメンバーを落とされた時と同様かそれ以上の感情の揺れがそこにはあった。

 

 当の妹本人は無言で前を見ている。多少なりとも自覚はしていたようではある。悔しさはあるのだろうけれど、それを表に出してはいなかった。それがきっと、一番良いと思ったのだろう。それは確かに正しいのだけれど、もう少し素直に感情表現をしても良いのにと思ってしまったのは、彼女が落ちる原因になったかもしれないアドバイスをした身としては、ダブルスタンダードなのだろうか。

 

 その目の中には僅かに悔しさが滲んでいる。しかし同時に、冷静に分析しているのも感じ取れた。何が足りなかったのか、何をどうすればよかったのか。そしてその答えは存外すぐに出たようで、小さく頷いている。納得の出来る答えは導き出せたらしい。しかし妹の落選で波乱は終わらなかった。

 

「最後にユーフォニアム、三年、黒江真由さん」

 

 あまりにもするりとその言葉は口にされる。そうなるか、と私は内心でため息を吐く。滝先生は確実に勝ちに来ている。関西大会を何としてでも突破するつもりなのだ。だからこそ、爆発力のある黄前さんよりも調整力のある黒江さんを取った。演奏における波や揺れを減らして、より均質的に高評価なものを本番で出せるように。そして彼女の調整力で以て、上手く指揮者の目指している演奏と合致してもらう事を願ったのだ。

 

 黄前さんの瞳が動揺で揺れている。そして諦観と覚悟と、様々なモノを込めた声で、黒江さんの返事が響き渡った。

 

「はい」

 

 黄前さんは今、舞台の上に立たされたのだ。かつての自分は、舞台に立たされた親友の背中を押すだけで良かった。何故なら自分にはどう足掻いても勝てない先輩がいたから。そして自分はメンバーだったから。そして去年は先輩と後輩の間を取り持つだけで良かった。何故なら自分が一番上手かったから。自分が一番安全な場所にいたから。けれど今は違う。彼女は引っ張り出されたのだ。かつて親友を送り出したのと同じ舞台に。

 

 そして、今の彼女はあの時の香織先輩と同じポジションにいるのだ。それは或いは、香織先輩の夢を壊すことを選んだ因果が巡って来た結果なのかもしれない。いずれにせよ、波は立ってしまった。それがどう収まるのかは、この部に関係する全ての人物の行動に委ねられている。それは無論、私も。

 

 高坂さんの首元から、銀色の鎖が覗く。その先には服の下に隠れているけれど、十字架がある。その輝きはかつて壊した夢の清算を求めているようだった。




北宇治高等学校吹奏楽部2017年度関西大会メンバー
◎はソロ

<トランペット>
三年:高坂麗奈◎
   吉沢秋子
二年:浅倉玉里
   小日向夢
   貴水卓
   滝野さやか 計6名

<トロンボーン>
三年:赤松麻紀
   塚本秀一
   福井さやか
二年:葉加瀬みちる 計4名

<ホルン>
三年:森本美千代   
   瞳ララ
二年:屋敷さなえ
一年:三木美乃 計4名

<低音>
三年:黄前久美子
   加藤葉月
   川島緑輝◎
   黒江真由◎
二年:鈴木美玲
   鈴木さつき
   月永求
一年:釜屋すずめ 計8名

<サックス>
三年:滝川ちかお
   牧誓
二年:内田ベイブ
   遠藤正
   鈴木靖也
   松本きり 計6名

<パーカッション>
三年:井上順菜 
   釜屋つばめ◎
   堺万紗子
二年:北田畝
   東浦心子
   前田颯介
   前田蒼太 計7名

<クラリネット>   
三年:植田日和子
   高野久恵
   高久ちえり◎
   松崎洋子
二年:芦田聖子
   加藤樹
   北山タイル
   端田麻椰
   平沼詩織
一年:中田いちご
   義井沙里 計11名

<ダブルリード>
二年:兜谷える
   剣崎梨々花
   籠手山駿河
一年:加千須みく 計4名

<フルート>   
三年:小田芽衣子
   高橋沙里◎
   中野蕾美
二年:桜地涼音
   山根つみき 計5名 以上55名
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