「クラリネット、オーボエ、フルート。最初のトリルの音を切るタイミング、合わせてください」
「「「はい!」」」
「今のクラリネットの連符、もっと丁寧に」
「「「はい!」」」
「グロッケン、ここの入り方注意して。聞かせ所だよ」
「はい」
合宿二日目の演奏は、重苦しい空気に包まれたまま新しい編成でスタートした。五十五人のメンバーのうち、大半は変わらない顔ぶれになっている。その僅かな変更点が、この空間全体に大きな軋みを生み出していた。
より指揮者に近いところに上手い生徒が座る。それが北宇治の伝統だった。それに則って、ユーフォとフルートでは席が交代している。希美の卒業後、ただの一度も先生の目の前を譲ったことのなかった妹が、今は高橋さんの隣に座っていた。そして、それは黄前さんも同じだろう。つい昨日まで座っていた位置に、今は黒江さんが座っている。その心情はいかばかりだろうか。先輩に負けるのと、同期に負けるのではまた感情が変わって来る。
空気は重いが、演奏はむしろ少し良くなっているのが残酷なところなのかもしれない。
「トランペット1st、どうして今の高音を外してるんですか? 私のところで二年間何をしてきたんです。ここで外していては、本番も同じことになります。ただちに修正を」
「「はい!」」
高音を得意とする私の技術を惜しみなく伝えてきたつもりだ。だからこそ、こんなところでミスは許されない。厳しい言葉かもしれないが、こんなものは今まで何度だって投げかけてきた。現に、二人は悔しさを一瞬滲ませながらも修正するべく小さな声で確認している。ソロをかけたライバル同士であっても、全国へ行きたいという想いは同じ。だからこそ、こういうところではよく協力して音楽を作っていた。
「タムの子、走りがちだね。気持ちが昂るのは分かるけど、ここは気持ち抑えて。君が暴れると、演奏全体が駆け足になるからね」
「はい!」
橋本先生と新山先生が加わることで、より一層指摘は鋭くなっていく。金管畑を歩んできた私と先生には専門外の部分でもしっかり掘って指摘をしてくれるので、ありがたい存在だった。個人的にもどういう点でこういう風に指導をすればいいのか、という勉強になる。来年までは北宇治に来るつもりでいるけれど、もし再来年以降私に依頼してくる学校があったら、その時に使える技術を習得できるという点で、私にとってもこの合宿は有益だ。
しかし、返事をしている部員の声も顔も硬い。汗を滲ませ、不安と陰鬱を兼ねた表情でこちらを見ている。声にも溌溂さはないし、どんよりとした空気はむしろどんどんと重苦しくなっていた。
「滝クン、少し話しても良いかな」
「どうぞ」
「なんというか今年はみんな凄く、ピリピリしてるんだよ。ガッチガチに固まっているというか……硬い! まぁ完全にカチカチ山の狸さんだな。一度おっぱい飲んでねんねでもする?」
それが冗談である事は理解したが、誰も笑っていない。むしろ空気は困惑が増えているようだった。笑っていいのか、そもそも別に面白くも無いので笑いようがない。そんな感じの空気感が室内を満たす。新山先生と視線が合った。言いたいことはあまり変わらないようで安心する。私の価値観がおかしいのかと思ってしまった。
「あれ、もしかしてボク、ド滑りした? すみません!」
その下げた頭に、少しだけ笑いが起こる。これが狙いだったことは理解できた。やり方はまぁ……もう少し工夫が必要だったかもしれないけれど。私も先生も、真面目に指導することは出来る。だから、私みたいな指導者は秀塔大のように体育会系の空間では相性がいい。ただ、こういう重苦しさになってしまった時にそれをユーモアで解消するセンスは無かった。
だからこそ、橋本先生のような存在は助かるのだ。まさに文字通りのムードメーカーとして。私としても、部員が笑顔でいる事には安堵を覚える。演奏と私情を切り離すのは難しい。ただ、切り替えて貰わないと上手く指導できないのも事実だ。
「そうそう、その気持ち。心は柔らかく。上級生は耳に胼胝かもしれないけど音を……」
「楽しむと書いて音楽、ですね」
「本当に分かってる?」
橋本先生は、遮った滝先生を見上げて言う。そこには先生への心配があるようにも思えた。
「分かっていますよ、もちろん」
「いや、滝クンにだけ言ってるわけじゃなくてね。ボクはこの場にいる全員にも言ってる。顔しかめて眉間に皺寄せて、それで良い音楽が出来るんだったらいいけど、ボクはそうは思わない。勿論、悲しい曲とか苦しみを描いた曲もあるし、そういう時は感情を乗せて行かないといけない。でも、悲しい気持ちや想いを込めて演奏するのと、悲しみながら演奏するのは違う。前者なら音を楽しめるかもしれないけど、後者では無理だろうからね。ま、そもそも何が良い音楽なのかは難しいんだけど、コンクールで結果を出す事だけが全てなのかって、たまに言いたくなる時はあるよ」
こうして疑問を投げかけてくれる存在はとても大事だろう。この疑問を受けてどういう風に答えを出すかは、各個人がそれぞれにやればいい。私たちはそれを見守るのが仕事だ。それに、彼らならば何かしらの答えを出してくれるだろう。
答えというものは状況や結果によって変わるモノだ。今は今出せる答えを出せばいい。未来にどうなっているかなど、誰も分かりはしないのだ。未来の自分が今を肯定できているのかなんて誰にもわかりやしない。だからこそ、自分だけは、今の自分を肯定してあげないといけない。もしそれが難しいならば、我々が肯定してあげることも、一つの役目だと思っていた。
「滝先生、第二楽章は飛ばして第三楽章をやりませんか? 私、木管のメインの部分を確かめておきたいです」
「確かに。今から第二楽章やりだしたら夜になっても練習終わんなくなりそうだし」
「構いませんか?」
先生が私に確認を取って来る。去年までは先生たちの下に私がいたけれど、今年からは同じ位置に立っている。否応なしに、私は先生だ。
「はい、構いません。私も新しくなったユーフォとトランペットのソリは聞いておきたいですし」
「分かりました。では、第三楽章に入りましょうか。頭からやります」
「「「はい!」」」
流石にずっと第一楽章ばかりやっていて飽きた生徒もいるだろう。第一楽章は曲全体の始まりも兼ねているため、始まりを重視する滝先生がずっとやっているのも納得ではあったが、練習している奏者からすれば溜まったモノではないと思う。
第三楽章。秋、宿命の時。確かに私の運命を分けるような出来事は秋や冬にやって来ることが多い気がする。例外は春の高坂さんとの出会いくらいだろうか。希美と出会ったのは暦の上では秋だった。再度同じ時間を歩き始めたのも、秋に近い頃だった。同じ屋根の下で時間を共にしたのは秋だった。二人の距離が近付いたのも、去年の秋だった。皆は秋にどういうイメージを覚えているのだろう。そもそも、この曲にどんな想いを託しているのだろう。それを聞くのには、まだ少し早い気がした。
眼前ではソリの演奏が行われている。しっとりとした艶めきを持ったユーフォニアムの音色は実に美しい。やや陰りのあるその音は、煌びやかさだけではない確かな陰影を持っている。しびれる高音、柔らかい低音。そのコントラストは秋というテーマを綺麗に彩っている。調整力がある、と私は黒江さんを指してそう称した。まさにその調整力が遺憾なく発揮されている。高坂さんより目立ち過ぎず、かと言って劣りすぎず。この短時間で見事に合わせていた。
練習はやっと終了する。疲労を浮かべながら部屋を出ていく部員の中に、硬い表情をした部長もいた。
「ちょっと」
「あぁ、どうした?」
「どうした、じゃないよ。ちゃんと部長のフォローはしてあげてね」
人の少なくなったホールで、他人に聞こえないような声で妹は私に語り掛けている。何となく彼女は黒江さんよりだと思っていたので、てっきり黒江さんの合格を喜んでいるかと思ったが、そうでもないようだ。それも仕方ないか、と思いなおす。黒江さんが今後歩くことになるであろう茨の道を、彼女はしっかり理解しているのだ。
「当たり前だ。この後するつもりではいる」
「そう。なら良いけどさ」
「それより、良いのか。人のことばっかり気にしてる余裕はないと思うけど。もし辛いなら話くらいは聞く」
「別に良い。私のことは、別に気にしないで。自分の機嫌は自分で取れるし、何がダメだったのかは理解しているつもり。悔しさはあるし、腹立たしい気持ちはあるけど、沙里先輩を恨む気持ちとかは全くない。あるのは、実力でそこに座れなかった自分への不甲斐なさだけだから。そりゃ、私だってあの席に座りたかったよ。でも、希美先輩の後継者は私だってどこかで自惚れてた。だから、兄さんに再三の忠告を受けてもこれで大丈夫だって思いこんでた。それが色んな敗因の根っこにある、私の一番の敗因。それを修正して、今度は勝ちに行く」
「そうか。それは前向きだな。先生を恨んだりしないだけ、ずっと建設的だ」
「私は言ってしまえば、指揮者であり審査員の、つまりは先生の要求に応えられなかった。兄さん風に言えば、クライアントの求める演奏が出来なかった。そのくせ、自分らしい演奏っていう芯も無いから、自分なりの解釈で感情を乗せることも出来ないまま今に至ってる。恨むなんて筋違い。ただ求められる演奏が出来るように、調整と修正を加えていく。それが、今の私にできる一番建設的な事でしょ? 泣くのは全部終わってから。そう決めてるから」
「強いな」
「目指してる場所があって、叶えたいことがあるから。それに、私は一人じゃないし。じゃ、部長のフォローはよろしく。一番じゃない部長っていうのならホントは優子先輩に頼んだ方が良いんだろうけど。真由先輩の方はこっちでどうにかするから」
そう言い残して、妹は夕食へ向かって行った。強い子だと思う。彼女は自負心が強く、多くのことを自分事として捉えている。そして、他人に責任転嫁をしない。それはメンタルが参っている時には自分を追い詰めるけれど、上手くコントロール出来れば克己心に繋がる。そして今はコントロールが比較的上手く出来ている状態に思えた。それは周りに恵まれているからだろう。しかし油断は出来ない。相手の強さに甘えるとどうなるか、私はよく思い知っていた。
夕食後、黄前さんを探す。大体どの辺にいるのかは察しがついていた。レクリエーションの花火の時間まではもう少しだけある。だからこそ、今は一人になりたいのだろう。そこに声をかけるのが正しいのかどうかは分からないが、放置するよりは良いだろうと思っていた。敗北を知っていて、自分のコントロールが上手い妹よりも、きっとそうじゃない黄前さんの方が受けているダメージは大きいだろう。
「やぁ」
「あ、桜地先輩。どうしましたか、何か問題でもありましたか?」
「いえ、そうでは無いのですがね」
私は彼女に缶ジュースを渡す。夏の夕闇は少しずつ深くなっていた。中庭に面したベンチと机のある場所に、彼女は虚空を見ながら座っていた。その心の中にどういう感情があるのか。それは何となくは察することが出来る。
「あ、これ昨日滝先生が……」
「え、マジ? うわぁ、チョイス被ったかぁ……」
「あ、いえ、嫌いじゃないですし、ありがとうございます」
「なら良かった。まだ花火まで時間がありますし、少しだけお話しても?」
「はい、大丈夫です」
カシュっと缶の開く音がした。私は少しだけ離れた位置に座る。距離感が分からないし、何より塚本君に配慮しての位置だ。彼女がジュースを飲んで、少しだけ落ち着いたタイミングで話を始める。
「さて黄前さん。今、どんな気持ちですか?」
「……は?」
その声はいつもの数段低い声だった。彼女の目線はキツイ。気付いているのかは知らないけれど、彼女の目は確実に私を睨んでいた。煽られている、と思ったのかもしれない。そしてそれは大きな括りではそう間違いでも無かった。
「なんですか、いきなり」
「良いですね、良い顔になりました。部長としての仮面をかぶった顔、良き後輩であろうとしている顔よりもずっと良い。今のあなたの見せた表情は素のあなたでした。今現在の心がかき乱されている失意と苦痛の中で、自分の感情に整理を付けようと藻掻きながら、奏者としての自分と部長としての自分の間でその背反に苦しんでいる、あなたの」
彼女は立場に囚われやすい傾向にある。今は部長としての彼女が常時続いている状態だ。そこでは本音も何もあったモノではないし、仮面をかぶったままの人に言葉は中々届かない。だから取り敢えず手っ取り早くその仮面をはぎとった。些か良くない手段であることは自覚しているが、これが一番効率的だと思ったのだ。
「私、てっきりフォローしてくれるのかと、ちょっと思ってたんです」
「そのつもりで来ましたよ。あなたには、そう思えないかもしれませんけど」
「全く思えませんでした」
「それは失敬」
「それ、全く悪いと思って無いですよね」
「えぇ」
呆れたような声を彼女は漏らしている。私はそれを見て小さく笑った。少しくらいは余裕があるみたいで助かる。ここで泣かれてしまっては、どうしようもなくなってしまうから。彼女のキャパシティーにはまだ余裕があると推論立ててきたけれど、それが正解であることに安堵した。
「昔、あなたが一年生の時にした私の問いかけを覚えていますか。ちょうど、この合宿で、ちょうど二日目の夜でした。もう随分前の事だったので、忘れてしまったかもしれませんが」
「何となくしか……」
「まぁそうでしょうね。夜中に出歩く不良少女黄前さんは忘れてしまったかもしれません」
「あ、あぁぁ! 私、不良少女じゃないです! 盗んだバイクで走り出しません!」
「そんなどうでもいいところよく覚えてますね。むしろ感心しますよ。それはともかく、あの時私は、背反する二つの事態に際して、どちらを取りますか? と尋ねました」
何かを思い出したような顔で、彼女は私の目を見つめた。その揺れる瞳は、現在と二年前の行き来しているようにも思える。あの時のまだあどけなさを残していた彼女は、もう大分成長していた。すっかり大人の女性に近づきつつある。その瞳の中には、これまで積み重ねてきたであろう思い出があった。良いモノも、悪いモノも。
「今まさに、あなたはそういう状況にある。部長としての黄前さんは、黒江さんの結果を認め、称賛し、いらざる誹謗中傷から彼女を守らないといけない。逆に奏者として、高坂さんと共に演奏したいと願う黄前さんは、黒江さんの結果を憎み、苦しんでいる。黒江さんが辞退してくれたらと、僅かながら願ってしまう。背反しているこの二つの感情に整理をつけて、自分の今の心情に答えを出さないといけない」
「……分かってるんです。真由ちゃんは何も悪くありません。真由ちゃんは、辞退しようかって何度も言っていました。それを断って、時には強い言葉で拒否して、こうなってます。だから、真由ちゃんは私に言った通りにしてくれたんです。それで私が勝手に苦しんでるだけで。本当は、おめでとうって、本気で挑んでくれて嬉しいって一番最初に、一番大きな声で言わないといけないのに……!」
彼女は持っていた缶を強く握る。小さい金属音が中庭の闇に静かに消えて行った。
「私は、先輩みたいになれません。喧嘩している相手が戻ってくることになったとしても、それが部のためになるならなんて、そんな風には思えない。割り切れない。自分の感情を切り離すことなんて出来ません。吹奏楽部のため、全国大会に皆を連れて行くためなんて言えないです。私は……桜地先輩みたいに強くなりたかった。先輩みたいに、胸張って、どんな時でも、吹奏楽部のためだって言いたかった。言えるような部長に、なりたかったのに……間違いだらけです」
「いいえ、それは違います」
「え?」
「あなたがなりたかった部長は、間違ってもこんな人の気持ちを推理しながら生きていくような人でなしではないはずです。あなたは部長に就任して、最初にこう言いました。この部活を好きになってもらえるように頑張ると。あなたのその目標が変わったと、私は聞いていません。それに、私はあなたが間違えているなんて一言も言っていませんよ」
高坂さんの良くない影響を受けているようだ。いや、それは思春期によくある事なのかもしれない。この世は零か百かではない。善か悪かでもないし、白か黒かでもない。もっとグラデーション状に、この世界は存在している。彼女の行いを正しいとは言えないだろう。だからと言って直ちに間違いになるほど、この世界はハッキリとはしていないだろう。
「あなたの為した行いが、そしてこれからしていく行いは決して正しいと断言することは出来ません。しかしながら、それは間違いであることを意味しているわけでもありません。大事なのは、自分に誇れる自分でいられるかどうかです。その上で言いたことは、結局先ほどの問いです。まず、あなたは自分の中にある感情に名前を付けないといけない。そうして初めて、次のステップに踏み出せると思います」
なんだか昔もこんなような話をした記憶がある。それは遠い昔、まだ彼女と初めて出会った頃だった。あの時面談をしていた子が、二年後には部長になっているなど、当時の私には想像も出来ていなかった。
「今後の部活動での課題は、その感情の答えを見つけることです。あなたと最初に面談した時にそう告げました。今、そこに戻ろうとしています。短いようで長い人生を送ったうえでの経験ですが、大体の物事の答えは始まりの場所にあったりするモノです。今のあなたも、もしかしたらそうかもしれませんね。答えを見つけるのには長い時間がかかるかもしれませんし、あなた一人では難しいかもしれない。ですが、あなたは一人ではないはずです。先生も、先輩も後輩もいます」
彼女を支えてくれる人はいるはずだ。それは彼女がこれまでどれだけ努力して、それが他人に認められていたかによるだろう。或いは、彼女が誰かの心に響くことを行えていたかどうかに。しかし、その点で考えれば数人は確実に力になってくれる人がいるはずだ。彼女の言葉が最後のきっかけになった先輩がいた。彼女にもう一度走り出すきっかけを貰った後輩がいた。そういう人はきっと、彼女を助けてくれる。
黒江さんの方は、取り敢えず妹に任せよう。誰かを助けるには、まず自分がしっかりしていないといけないのだ。彼女が今の状態で黒江さんに手を差し伸べるのは難しいかもしれない。だが、いつか出来るはずだ。未来を見過ぎている黒江さんを、現在に引きずり戻すことが。大人になろうとし過ぎていた人を引き戻したかつてのように。
彼女はまだ若く、当然未熟だ。出来ない事、上手く振る舞えないことがあっても仕方ない。それは大人だって同じことだ。偉そうに批判することは出来るけれど、子供だった頃の自分が同じように振る舞えたのか、断言できる人はきっといないと思う。そして、未熟であっても、現状を変えようと足掻いている。その足掻きはきっと無駄ではない。
「私は、どういう風にしていけばいいんでしょうか」
「さぁ、そればかりはあなたにしか分かりません。私にしてあげられるのは、ヒントを出すことだけ」
「じゃあ、そのヒントをください。自分の感情の答えは探しますけど、闇雲に探しても見つからないと思うので」
「あなたは、割かし図々しいですね。まぁ良いでしょう、それはよく知っているので。あなたがまずするべき事は先ほど言った通り自分の感情の正体を突き止める事です。その際のヒントになるかは分かりませんが、アドバイスをしましょう。あなたはきっと、その過程で色んな自分の醜い部分を向き合わないといけないでしょう。憎しみ、嫉妬、苦痛、懊悩、背反、動揺、不信……。そういう醜い部分、愚かしいとすら思えて切り捨てたくなる部分を見据えてください。それと逃げずに向き合って、その先に答えが待っているはずです。その向き合う行為が演奏に繋がるのかは断言できませんが、無駄ではないと思いますので」
大事なのは、自分で答えを出すことだ。どういう過程をたどったにしろ、誰に助けてもらったにしろ、最後の最後には、自分で納得のいく答えを出さないといけない。かつて、香織先輩がそうしたように、結局のところは自分が納得できるかどうかなのだ。
「そんなことしないといけないんですね……」
「部長は大変でしょう?」
「はい、正直、凄く。なんで私なんだろうって、時々思います」
「正確な部分は分かりません。私は、あなたが他人の痛みを無視しようとしなかったからだと思っていますが、それが正しいのかも不明です。本当のところは優子や夏紀に聞かないといけないでしょうね。ですが、それでも私は優子の信じるあなたを信じて部長に推挙しました。そして、それは今でも同じです」
「こんなのでもですか」
「そんなのでも。なってしまった以上は、やるしかないですからね。そこは頑張って頂かないと。しかし、一人でやる必要はありません。何度もお伝えしている通り。他の誰が何と言おうと、私がそう伝えていますから」
自己解決が難しい事なんてごまんとある。それは当たり前だ。高校生である以上、解決できないことが多い方が本来の姿だろう。大人だって自己解決なんて出来ない事ばかりだ。
「先生も私も、大人というものは何かあった時に責任を取るために存在しています」
「先生は分かりますけど……先輩も?」
「えぇ、もちろん。指導を引き受けた一昨年の四月から、その覚悟はいつもしています。なにせ、私は八十万の社員の人生背負っているわけですからね。今更一人二人増えたところで大して変わり無いですので……。ですから、あなたも自分の行くべきと信じた道を行きなさい。面倒な諸々は、私たちが引き受けます」
先生に請われて指導を引き受けた時から、責任を取る覚悟はしていた。社員の人生を背負う覚悟が決まったのは、結局去年の秋からなのだが。いずれにしても、私は先生と呼ばれる立場になってしまった。そうである以上、責任を取るのは当たり前だ。そこで逃げるような卑怯者になったつもりはない。だからこそ、黄前さんのような生徒は自分の信じる道を行けばいいのだ。その際の諸々は、我々大人組が引き受ける。
「さて、長話が過ぎましたかね。あなたをあまり拘束していると、塚本君に怒られてしまいそうだ。行きましょうか」
「はい」
「最後に、一つだけ。ウチの妹はあなたを慕っているかと言われると微妙ですが、嫌っているわけでもありません。少なくとも、高坂さんよりは同じ部長という職にいた者同士共感している部分も大きいようです。色々と言ってくるかもしれませんが、最後にあなたが腹を括ってこれで行くと言えば、それに従ってくれますよ。我が妹ながら毒にも薬にもなる存在ですが、上手く使ってあげてください」
「ありがとう、ございます?」
「そこは素直にお礼を言ってくれると嬉しいのですがね。そう言えば、デカい花火を買ったんですよ。楽しみにしててください」
「あれ、先輩のだったんですか?」
「えぇまぁ。面白そうでしょう?」
表情は相変わらず硬めだ。しかし、それでも先ほどよりは少し柔らかくなっている。多少はフォローになったのならば幸いなのだが、ハッキリとは分からない。少しでも気が楽になったり、何かしらの方向性を見出せていることを祈るばかりだ。これから黄前さんがどういう道筋を歩んでいくのかは分からないが、その道行が良いモノであることを願っているし、その協力は惜しまないつもりでいる。それがきっと、吹奏楽部のためだろうから。
「さて、次はこっちだ。やれやれ手が焼ける」
小さい声で呟きながら、人のいない廊下を歩く。黄前さんのフォロワーは出来たので、こっちもついでにフォローしておかないといけないだろうと思って、私はわざわざ男子部屋に足を運んだ。
「いますか」
「……」
「いるんじゃないですか、居留守はやめてくださいね」
「なんですか」
「なに不貞腐れてるんですかね、まったく」
男子部屋の中央で私に顔を見せずに寝転がっている塚本君に私は呆れた声で話しかけていた。自分がオーディションに落ちた訳でもソリに落ちたわけでも無いのにこれでは他の部員が参ってしまう。ただでさえ普段はそういうマイナスな感情を見せないのだから、余計に。トロンボーンパートのフォロワーは赤松さんがしてくれているだろう。パートリーダーと幹部を分けて正解だったと今になって思わされる。
「黄前さんが藻掻きながら立ち直ろうとしているのに、君がその有様では彼女が不安になってしまうでしょう。あまり時代に沿った言い方とも思えませんが、男なんだから彼女が不安な時に支えてあげられるくらいの甲斐性は見せること」
「……」
「一番悔しいのは誰ですか? それに、君がそういう態度を見せている原因は分かりやすすぎます。守らないといけないのは部長よりも黒江さんですよね」
「分かってますよ」
「分かってるなら顔をあげる事。他人の痛みを自分のことのように感じることが出来るのは君の優しさだし美徳だけれども、今はそうするべき時ではありません。部長としての職責に藻掻いている黄前さんを横で支えるためにも、まずはあなたが副部長としての職責を果たさないと」
「でも先輩も傘木先輩に甘えてるじゃないですか」
「あー、そういう事言っちゃうかぁ」
痛いところを突かれて咄嗟に反論が出来ない。確かにそれは結構な部分で、というかもう何も取り繕えないくらいには真実なので、何も言い返せなかった。
「ま、まぁ希美のことは今は良いじゃないですか。私たちは持ちつ持たれつというか、どっちかが上手くいかない時はもう片方が支えるみたいな関係性なので。いつもいつも私が希美に甘えてるわけじゃないんですよ、勘違いしないように」
「なんですか、それ」
塚本君が起き上がって、こちらに視線を向ける。いつものような柔和な顔つきがそこにはあった。少しは笑えているようで良かった。私が何とも言えない感情になった意味もちゃんとあったようだ。
「黄前さんは今、大きく時間のかかる問いの答えを探そうとしています。その過程で傷つくこともあるでしょうが、それはきっと彼女の人生において必要な時間だと、私は思っています。ですから、その彼女が帰る場所の一つであってください。家族と同じように。それは高坂さんにも誰にもできない、君だけの役割です。いいですね?」
「はい」
「じゃあ、行きますよ」
「了解です」
彼が加藤さんに告白された際の相談を受けてから、もう二年。男子部員同士という事もあって、こういう時も割とスムーズに話が進む。彼もモヤモヤした感情を消化しきれずにいただけなのだろう。元来、非常に性格が良い男子だ。それはよくよく知っている。
だからこそ、そんな塚本君があんな風になってしまうほど、今回のオーディションが部内にもたらした影響は大きいという事でもある。必ず不満は出るだろう。自分の不満もあるかもしれないし、そうでなくても周囲や友人の結果に不満を抱くこともあると思われる。そういう時、先生や私に矛先が向くならそれで良いのだが、矛先を部員同士で向けあうことが無いように注意しないといけない。この合宿も、関西大会までの日々も、簡単に終わりそうにはなかった。