「大阪のお屋敷があるんです。地上三階、地下二階。大正年間に建造され、戦後間もない頃までは使われていた、今は無人のお屋敷です。警備は外周の塀にだけシステムが存在していて、中の電気はしばらく通していません。地元では幽霊屋敷などと呼ばれているそうで。一応管理はしているんですけどね、安全の都合上。これはそのお屋敷で、四年前、丁度私が中三の秋を迎えた頃に起きたお話です」
花火の音と談笑の声が辺りに響く中、私の周りに集まった部員は固唾をのんで私の話を聞き言っている。
「ある日、連絡が入ったんです。大阪府警からでした。地元の高校生数名が肝試しに行くと言って行方不明になった。もう二日経つ。行き先として大阪屋敷の話をしていたと、友人数名から証言があったので、申し訳ないが立ち合いのもと屋敷に入れて欲しいと、そういう連絡です。腹立たしいなと思いながら、現地に行きました。丁度雨の降る日で、ただでさえ無人の洋館がやたらおどろおどろしく見えたのを覚えています。外周の警備システムに異常があったようで、そこから中に入られてしまったようでした。裏手にある電源を作動させて、屋敷内の電気が付くようにし、警察の方々と共に中に入りました。警備システムは随分前の点検時にしか作動していないので、私が久しぶりに稼働したことになります。その数日前の台風で屋敷の窓が破損して、そこから室内に入ったと、あとになって知りました」
パチパチとキャンプファイヤーの炎が燃える音がする。私は敢えて淡々と話し続けた。
「お屋敷は階段の他に中央に大きなエレベーターがあります。先ほど話した電源は、このエレベーターを起動するためにも使います。地上部分と地下一階は通常の階段でも行けますが、地下二階の機械室と倉庫はエレベーターを使うか、地下一階にある鍵が無いと入れない階段を使うしかありません。なお、その鍵は当然外からしか閉められないのです。中に人が泊まる事を想定していないので。警察の方と一緒に地上部分と地下一階を探しました。しかし、誰かが来た痕跡はありますが誰もいません。先ほど話した地下二階に繋がる階段の鍵も閉まったままです。私は警察の方に言いました。いないので帰ろうと」
涼音の事や両親のことで色々忙しかった時期なので、迷惑だったのだ。早く帰りたかったから、そう提案したのを覚えている。
「そうしたら、一応念のために地下二階を確認しましょうと言われました。面倒だなぁと思いつつ、善良な市民として協力しようとエレベーターで二階へ下りました。すると、そこに高校生数人がうずくまって固まっていました。はい、以上です」
「あの、ごめんなさい、どこが怖い話なんですか……?」
「さぁ、どこでしょうねぇ」
鈴木さつきさんが頭に?マークを浮かべている。他にも数名が同じような顔をしていた。私はその顔に曖昧に微笑んだ。
「あの、先輩。それって実話ですか? 一切の脚色の無い?」
「えぇ」
「高校生は階段を使ったと言ってましたか?」
「いいえ。存在すら気付かなかったと言っていました」
「みっちゃん?」
「よく考えて。電源はしばらく入れてない。だから高校生が来た時エレベーターは動いてなかった。つまり、鍵のかかる階段を使わないと地下二階へは行けないのに、その鍵は閉まっていた。外からしか掛けられないのに。そしてそもそも階段は使ってない。じゃあ、その高校生たちはどうやって地下二階に行ったの?」
「……え」
サーっと青ざめた顔の後輩たちが私の顔を見る。
「公式にはエレベーターが不具合で偶然動いてしまったという事にしました。尤も、電力会社によれば、肝試しに来たという日に屋敷で電気は使用されていないそうですが。高校生たち曰く、帰ろうとしたら地下一階でエレベーターがいきなり開いて中の電気が煌々と輝いていたようです。まるで、チョウチンアンコウの生餌のように」
悲鳴があがる。割と鉄板のネタなのだが、ここではまだ披露したことが無かった。後はお嬢の実家の城で出た話とかもあるが、今回はこれくらいにしておく。
「この話、妹にはしないでくださいね。あの子はこういうの苦手なので」
神なんかいないと言っている子なのだが、ホラーはダメなようだ。どうも、論理的に説明できない存在は嫌いらしい。桜地家的には地下二階の倉庫が問題なかったのでそれで良しとなっているが、今でもあのエレベーターが動いた理由はよく分かっていない。その屋敷は今でも、大阪府内に存在している。
まぁ要するに肝試しなんてするもんじゃない、というお話であった。九割九分九厘は偽物だが、逆に言えば一厘の本物が混じっているという事でもある。夏場には怪談が割とピッタリなので、場は盛り上がったようだ。楽しんでくれたなら何より。そんな話をしていると、滝野さんがきょろきょろとしながら近づいてきた。
「あの先輩、すみません」
「はい、どうしましたか?」
「秋子先輩見かけませんでしたか? ずっと探してるんですけどいなくって」
「なるほど。少し探してきましょう。滝野さんはそのままここで遊んでいてください」
「すみません、お願いします」
少し心配になったので、立ち上がって探しに行く。高坂さんに再度敗北を喫し、それでも気丈に振る舞ってはいたので、部長を優先し後回しにしてしまった。出来ればこの花火の場でフォローできればと思っていたが、いないとなれば心配だ。
夜の合宿所を歩いていると、練習室から灯りと音が漏れている。戸を叩けば、返事があった。開けて中に入ると吉沢さんが譜面台と共に座っている。手には彼女のトランペットが握られていた。
「滝野さんが探してたよ」
「あぁ、すみません。練習していたんです、って言っても見れば分かりますかね」
「練習も大事だけれど、息抜きも……」
「良いんです、大丈夫です。それよりも今は少しでもやっておきたくって」
「……全国大会まで進めれば、まだあと一回チャンスは」
「やめてください。慰めだけはしないでください」
強い口調で彼女は、私の言葉を遮った。その顔は私からは俯いているせいでよく見えない。けれど、きっと平常な心持ちの人間の顔ではないという事だけは分かった。
「嘲笑されても、馬鹿にされても構いません。何してるんだと叱咤されても、もっと頑張れと言われても良いんです。でも、憐れまないでください。先輩にだけは、それはして欲しくないです」
「分かった、慰めはしないことにする」
「ありがとうございます」
「……これは慰めじゃなくてただの確認だよ、最初にそう言っておく。それで、高坂さんとも話してないみたいだけれど、そっちは大丈夫?」
「……」
彼女は沈黙した。楽譜を捲る手も止まっている。少しの沈黙の中で、時計の針の音だけがやけにうるさく響いた。遠くからは外の喧騒が聞こえてくる。
「私、麗奈ちゃんにムカつきました」
「……」
「あなたじゃ私に勝てないとか、そういう風に言われた方が百倍マシでした。麗奈ちゃんは全部持ってます。私の欲しいモノ、全部。才能も、経験も、運も、先輩からの期待も。全部全部全部! そのくせ、そのくせに喜ばないんですよ。私に勝ったのに! 勝ったなら喜んでよ! ライバルに勝ったのに、喜ばないであの子は久美子ちゃんの方ばかり見てる! そりゃソリの相手でしたからね、大事なのはわかってます。久美子ちゃんと特別な関係だってことも。でも、オーディションの後くらい、私を見て欲しかった。次も負けないとか、そういう事を言ってくれればそれでよかったのに……。私は所詮、その程度だったってことでしょう。私に勝ったことなんて、喜ぶほどの価値が無いってことでしょうね。私はライバルなんて言って、勝手に驕ってました。私はどう足掻いても一等星にはなれない。あの子のライバルには、なれない」
普段は明るく強い彼女の、一番暗い部分が今曝け出されていた。それを信頼の証だと呑気に思えるほど、私は楽観的じゃない。
「君は、ちゃんと彼女の」
「ライバルじゃないですよ。ずっと後ろから追いかけ続けるだけなんて。歯牙にもかけられてなかったのに、バカみたいです。でも、良いんです。麗奈ちゃんはのんびり久美子ちゃんの事とか滝先生の事を考えて、悩んでもらいます。その間に私は追い付きます。それで、何とか関西大会を突破して、全国大会のオーディションで私が勝つんです。そうしたら、プロは目指しません」
「……どうして? 高坂さんに勝ったら、目指しても良いかもと言っていたけど」
「思い直しました。私は多分、プロにはなれません。動機も薄いですし、そんな才能も無い。自分がプロとして活躍している将来像が見えないんです。だから私は最後の勝負で勝ち逃げします。きっとそれでも麗奈ちゃんは輝く道を進むでしょう。いつかは先輩も倒しちゃうような、そんな世界一になるかもしれない。それでもずっとずーっと頭のどこかに、あの日勝てなかった、そしてもう勝負できない存在として私が存在し続けるんです。麗奈ちゃんの性格上、忘れるなんて出来ません。今の私では麗奈ちゃんのライバルにはなれない。でも、未来の麗奈ちゃんの中で、過去に勝てなかったその日の私がライバルとして栄光の影でチラつく。そういう勝ち方も、あるんだと思いました」
「それ、は……」
それは、私にとっての亡き友だった。栄光の影でチラつく、そんな存在。一生勝てない存在。もしかしたら、あの日私に勝った彼女よりも私は上手くなっているのかもしれない。それでも、私の心が納得できないのだ。
そして、高坂さんにとってのそういう存在に、彼女はなろうとしている。それは、彼女の精一杯の強がりで、どうしても我慢できなかった怒りの発露なのかもしれない。
「正しい道だとは思っていません。でも、私にだってプライドがあるんです。これでも、こんなのでも、私は先輩の教え子です。悔しいじゃないですか。自分に勝ったことを喜んだり安堵するより先に、ライバルだと思ってた子は別の子を心配しているなんて。視界にも、入ってなかったなんて! 舐めないでよ、自分だけ世界一の、先輩の後継者ですって顔して。私だって、先輩の弟子だ」
荒い息で彼女は言葉を紡いだ。その声は練習室の中の空気に消えていく。こんなに激昂した彼女を見たのは初めてかもしれない。高坂さんも、或いは私も彼女に甘えていたのかもしれない。ライバルだから、教え子だからと。そして強い子だから、何度折れても立ち上がってくれると。事実、彼女は今回も普通に立ち上がろうとしていた。多分高坂さんがいつも通り接したら、立ち上がったのだろう。けれどそうでは無かった。
高坂さんも、揺らいでいた。だから仕方なかったのかもしれない。けれど、どうしてもそれが彼女には許せなかった。追い付こうと、そして追い抜こうと、友達して、親友として、ライバルとして、同志として、同門として思っていた相手は、自分ではないところを見ていた。その屈辱と怒り、その裏にある深い悲しみと絶望。怒りや悲しみ、絶望は時に大きな力になる。高坂さんは、意図せずそれを呼び覚ましてしまった。
「明日からはまた普通に戻ります。良い子の後輩で、真面目なパートリーダーで、麗奈ちゃんの
「……分かった」
彼女は息を吸いこんで、そして吐いた。そののちに私を見据えて、真っ直ぐに見つめて言う。まるで、私の向こうに高坂さんを見ているように。
「私が勝つ。だからそこで待ってろ、高坂麗奈」
カツカツと指でデスクを叩く。
「全くもって終わらん」
呟いた独り言が会議室の中に響いた。今は私が仕事用に使っている。冷房の音とキーボードの音だけが響く空間に、パソコンの画面が明滅していた。画面上の時計は午後九時四十五分を示している。そろそろ消灯時間が近い。見回りもしないといけないし、明日の練習についての打ち合わせもしないといけない。そして自分の仕事も終わらせないといけない。音楽家はシンプルだ。やれば収入、やらなきゃ無収入。養う人がいる以上、やらないという選択肢はない。
先ほどまでの吉沢さんとの会話が頭の中をぐるぐるしていて、まるで集中できない。この後には先生たちとの打ち合わせも控えているのに、これではいけないと切り替えるために、私は外に出た。取り敢えず何か飲んで気分を変えようと思ったのだ。
合宿所の廊下はガランとしていた。電気の点いていない空間で、自販機の灯りだけが灯っている。落ちてきた缶コーヒーを手に取った時、視界の隅に人影が見えた。誰だろうかと視線を送れば、二年生の部員が三人沈んだ顔で歩いている。
「君たち」
私のかけた声にビクッとしながら、彼女たちは私を見る。そして姿を確認して、少し安堵したような様子を見せた。ホルンの深町さん、トロンボーンの葉加瀬さん、そしてサックスの平沼さん。いずれも部内では活発なタイプの子だ。別に出歩いていること自体は咎めないけれど、その顔つきがあまり良くないのでスルーしないことにした。
「どうしましたか、間もなく消灯時間です。お手洗いは反対側ですよ」
「あ、あの……」
「私たち、呼ばれてるんです。夜十時に、娯楽室に来いって」
「誰に?」
「……高坂先輩に、です」
「なるほど。練習、という訳ではないようですね。少し付いてきなさい」
私は彼女たちを連れて自分が先ほどまで仕事をしていた部屋に入る。取り敢えず椅子に座らせて、事情を聴くことにした。このまま送り出していいのか、分からなかったからである。
「それで、どうして高坂さんに呼ばれるような事態に?」
「あの、私たち、その……」
「大丈夫です、怒ったりしませんから」
安心させるような口調と声音で私は話す。吉沢さんにも言われたけれど、私はあまり怒るのが得意じゃない。それは他人に期待していないからだろうと自分では思っている。高坂さんが呼びだすような理由は何となく推察が出来た。そしてそれは多分、そこまで目くじらを立てるほどではないだろう。
「おかしいって話してたんです。今回のオーディションが。チューバが四人になって奏が落ちたりとか、黒江先輩が通ったりとか、滝先生の判断が納得できないって、そういう話を……」
「そしたら高坂先輩が……」
「娯楽室に来いって、凄い形相で……」
「……なるほど」
案の定というべきか、あまり想定と大きく外れた答えは返ってこなかった。滝先生を批判されたことが高坂さんのトリガーだったのだろう。そこには先生への恋情だけではなく、音楽的な統制を取るために部内をバラバラにしたくないという感情も含まれているはずだ。というか、そうでないと困る。
だからひとまず高坂さんの目の前で批判をした三人を咎めて、言論統制をしようとした。どういう風に指導するつもりだったのかは知らないが、先生を信じるべきだ、とかそういう方向性に持っていくのは目に見えている。伊達に三年の付き合いじゃない。それくらいは察しがついた。
黒江さんの合格と黄前さんのソリ落選、久石さんのメンバー落選、妹のソリ落選。人によっては吉沢さんを落としたことに納得できないという部員もいるんじゃないだろうか。そういう色んな要素が複合されて、多分今現在、滝先生への信頼度が低下している。これを打開するためには、一度先生から全員に対して何らかの説明をするのが手っ取り早い。
しかし、それをして解決する問題なのか、という部分もある。また、私がそう動いてしまうことで、部員たちの自主性が損なわれてしまうのではないか、という想いもあった。頼っても良いとは言ったし、助けてくれと言われれば全力で助ける。けれど、そういう要請がある前に先走って助けてしまうのは、成長に繋がらないんじゃないか。北宇治の、吹奏楽部のためにならないのではないか。私はいつまでもいるわけじゃない。自己解決の道筋が或いは、部長や部員の中に立っているのなら、それを見守るべきなのか。
部員だった頃は、これが吹奏楽部のためと胸を張って言えた。しかし今では簡単にそうは言いきれない。色々な出会いがそういう風に私を変えてしまったのだろう。それが良い事なのか悪い事なのか、まだ判然としなかった。とは言え、まず一つ言えることがある。高坂さんの生徒指導が下手くそだという事だ。
「その呼び出されたことは、パートリーダーや学年リーダーは?」
「知らない、と思います」
葉加瀬さんが答える。妹と今年で五年目の同期になる彼女は、私ともそれなりに交流が多い方だ。それ故にこういう時にすぐに応えてくれる。別に残りの二人と距離が遠いとはあまり思わないけれど、二人よりも距離が近いのは事実だった。
「そうですか……」
やはり高坂さんの指導は下手だ。高坂さんの気持ちも考えも理解は出来るが、もしそれをしたいならまずはやり方が良くない。パートリーダーや学年リーダーなど、彼女たちの身柄に一番の責任を負う存在に話を通すべきなのだ。赤松さんや牧さん、森本さんが彼女たちの所属パートのパートリーダーで、二年生の学年リーダーは妹。最悪部長か副部長にだけでも話は通しておくべきだろう。そしてこういう指導はそういう向いている人に任せてしまうのだ。
「部長は?」
「知ってます」
「あぁ、そう」
おい、と思ってしまう。部長の仕事はこういう時に指導をすることも含まれている。高坂さんが生徒指導的なことも出来る存在なら任せてしまえばよかったのだが、絶対向いていないから今年は音楽面での指導に集中してもらっている。その分、こういった人間性などの部分は部長と副部長に任せているのだ。何のために幹部の中で役割分担をさせているのか、黄前さんが理解していないようでは困る。ちょっと精神的に参っているのかもしれないが、高坂さんを止めるくらいはして欲しい。
端的に言えば、部員の先生への信頼とか批判とかに対する指導は高坂さんの所管ではないのだ。
「事情は把握しました。最初に確認です。私はあなたたちを信じたいですし、もし何かあれば全力で守るつもりですので、必ず真実を話してください。滝先生や私を批判するのは一向にかまいません。ただし、今回のオーディションで合格した人落選した人それぞれに対する誹謗中傷や人格否定などは一切行っていませんね? 楽器の編成に関しての不満を口にしただけですね? あの子が選ばれるなんておかしい、あの子が落ちればよかったのに、等々は言っていませんね?」
「は、はい」
「他の二人も、大丈夫ですね?」
「「はい」」
「滝先生に関しても同じです。判断がおかしい、という批判は構いませんが、頭おかしいとかそういう人格否定をするようなこと、或いは死ねとかの暴言は言っていませんね?」
「「「はい」」」
「誓って言えますね? 万が一嘘だった場合、自分たちの信頼がどういうことになるのか、よく理解してください。大丈夫ですね?」
「「「はい!」」」
私がいつになく怖い顔をしているせいか、少しびくびくしながら三人は答えた。その返事を聞いて、顔を緩める。張りつめていた空気が霧散したのを感じたのか、三人の表情が少し和らいだ。
「分かりました。まずはありがとうございます」
説教されるかと思いきや、いきなりお礼を言われたことに戸惑っている顔が並んでいる。いきなり説教しても話は全く通じないし、気持ちも動かない。自分から罪悪感を抱かせたいなら、やり方があるのだ。
「世の中にはいろんな人がいます。納得できない結果や出来事に際して悪し様に罵ったり、人格否定や聞くに堪えない暴言を吐く人もいます。しかしあなた達は納得できない現実を目の前にしても、批判で留めてくれた。私は、あなた達がそういう人であったことを嬉しく思います。ですので、ありがとうございますと言いました」
聞いた限り、滝先生の判断に納得が出来ない、というよくある愚痴程度の内容だったのだろう。それを高坂さんが大袈裟に捉えただけで。顧問の愚痴すら言えない部活、私はそんなの嫌だと思うのだが、どうなのだろうか。そもそも、彼女は二年前、当時の三年生のボロカスに言われていた私を見ているはずなのだが、そこで一体何を学んだのだろう。
指導者は批判されても仕方のない職だ。先生である以上、生徒に嫌われることもあるだろう。正しいと思ってした指導や教えが、上手く届かないこともある。ウザイと言われてしまうこともあるだろう。けれど、それでも生徒のことを第一に考えて、生徒のためになると思ったことをするのが教師の、指導者の仕事だ。
滝先生は、自分の願望はありつつも北宇治の部員が願った全国大会金賞へ向けた自分が思う一番正しい道筋を歩もうとしている。それが部員の心情や判断と一致していない部分が幾つかあった。だから、今回はそのすれ違いから軋轢が生まれている。そこは今まで私が個別にフォローしていた部分だったが、如何せんその時間が足りない。
こういう時に時間が解決してくれるのを待つのは三流のやり方だ。生徒との間にすれ違いが発生した時、指導者は自分の指導の理由と目的を生徒に説明しないといけない。それが仕事であり、役目でもある。納得できないで行動するよりも、納得した上で行動した方がパフォーマンスを向上させることが出来るのだから、当たり前だ。それを放棄しているのでは、指導ではなく考えの押し付けになってしまう。
「今回のオーディションの結果、でしたね。私の勝手な推察から出た結論ではありますが、私は今回のオーディション結果はそこまでおかしいとは思っていません。チューバが増えたのは単純な音量不足です。去年までは三人で十分でしたが、今年は府大会の演奏を聴く限り些かバランスが悪くなっていました。その分ユーフォを削ったのでしょう。こればっかりは仕方ありません。上から順番に、という訳には行かないのがオーディションです。多分、涼音も同じような事を言っていたと思いますが?」
そう言えば、という顔をする三人。やはり、考えていることは同じということか。そういう風にその場で説明してあげればいいのに、そこをサボるから高坂さんの指導は下手くそなのだ。説明すれば数分で済むのに、わざわざ呼び出していることには悪意しか感じない。
そんな事をしている暇があるなら練習すればいいし、睡眠させてあげることで翌日以降のパフォーマンスを高めてあげるべきだ。何より、厳しい高坂先輩が自分たちの感情に理解を示して丁寧に説明してくれた、という事象は自分の評価を上げて指導がしやすくなる地盤になるというのに。
「そして妹の件ですが、あれは完全に表現力不足を技術でごり押ししようとして失敗しただけですね、以上です。最後にユーフォですが、ここは完全に私見ですけれど、滝先生は黒江さんの調整力を取ったのだと思います。どんな指導でもすぐに調整して求める演奏が出来る。そして高坂さんとも合わせることが出来る。その能力は貴重であり、重要です。故に確実な関西大会での勝利を目指して黒江さんにしたのでしょう」
高坂さんは説明するべきだと思ったが、果たして彼女はしっかり先生の判断に理由を付けられているのだろうか。まさかと思うが、先生が言うなら正しいと思考停止して、判断理由を考えていないなどという事はないと期待したい。
「心情的には納得できないかもしれませんが、一応ご理解いただけましたか?」
「「「はい」」」
「とは言え、これも一意見に過ぎないので、もし本当に気になるなら先生に尋ねてみるのが良いかもしれませんね。先生には指導の理由を生徒に説明する義務があります。それに、先生は生徒の自主性を重んじている。自主的に質問に来た生徒を拒んだりはしないでしょうし、しっかりとした説明をしてくれると思います。それで納得することが出来るかは分かりませんが……」
先生にも迷いがあるのは事実だと思う。しかし、一度教壇に立ったからには先生なのだ。老いも若きも関係ない。指導力のあるなしも関係ない。生徒にとってはどう足掻いても先生である。人間なので迷いも不安もあるだろう。けれど、生徒にとってはそんなことは関係ない。生徒は、自分たちの目指す場所に到達できると信じて、先生の指導に従っている。であるなら、迷っている場合ではないのだ。先生が人生の時間を使って生徒を指導しているように、生徒も貴重な青春を消費して指導を受けている。生徒が使ったその時間に見合ったものを渡す義務があるはずなのだ。
「こんな感じで私のお話は終わりたいと思います。ただし! 先生や私への批判は結構ですが、同じ仲間への誹謗中傷などは絶対にしないでくださいね。今回のオーディションに不満を抱いている生徒はきっとあなた達だけではないでしょう。けれど、黒江さんやチューバの部員も全員真剣に、何一つ間違った手段は使わずにオーディションに臨みました。彼女たちに問題はありません。頑張っている仲間を傷つけないように、配慮することを望みます。よろしいですね」
「「「はい」」」
「良い返事です。先生に黙って従え、というのは楽ですが、それは指導ではないと考えています。あなた達ならば、しっかりと批判と中傷を区別して配慮ある言動と行動が出来ると信じてるからこそ、些か回りくどいですがこういう風な伝え方をしています。信頼に応えてくれると大変嬉しいですね。では、そろそろ終わりましょう。もう夜も遅いです。明日も早いですし、早く部屋に戻って寝なさい」
「あの、でも高坂先輩が……」
時計を見れば既に十時五分だった。説教しようと呼び出したら遅刻している後輩に今頃大激怒だろう。このまま部屋に返したら、とんでもないトラブルになりそうだ。
「忘れていました。葉加瀬さん、高坂さんへの伝言を頼めますか?」
「伝言、ですか?」
「はい。カンカンに怒っていると思いますから、桜地先輩に呼び止められて話をしていたとまず最初に伝えてください。そうすれば多分、ちょっと怒りのボルテージが下がるでしょう。そうしたら、桜地先輩から高坂先輩に伝言があると言いなさい」
「分かりました。なんてお伝えすればいいですか?」
「そうですね……信頼と妄信の違いを調べなさい、と。あと、これから仕事なので早く寝るようにとも」
「は、はぁ……」
「ではお願いしますね。それと、はいこれ。これで適当に三人分何か買って、飲んでスッキリしてから寝なさい。おつりは差し上げます。何か質問は?」
「大丈夫です」
「他の二人もよろしいですか?」
「「はい」」
「そうですか。ではおやすみなさい。明日も頑張りましょう」
「「「失礼しました」」」
三人は頭を下げて部屋を出ていく。これで取り敢えずは大激怒されたり詰められたりすることは無いだろう。私の伝言を聞いてまで説教する気にはならないはずだ。言い方に多少問題があったし、高坂さんの目の前で言わなければよかったのにとは思うが、そんな怒髪天で指導するような内容ではないと思う。これくらいはしょうがないだろう。多少なりとも反省して、渡した千円札で適当に気持ちを切り替えてくれればそれで良い。
高坂さん。彼女は優秀だ。しかし、今は目の前のことで手一杯になって、色々な事が見えなくなっている。その原因は間違いなく、黄前さんがソリに落ちたことだ。その結果、彼女の目の前にあったはずの絶対的な正しさにヒビが入りつつある。アイデンティティの崩壊とも呼べるその出来事の前で、彼女は今自らの信じる、そして信じてきた、さらに言えば信じたい正しさにしがみつこうとしている。
けれどそれで色々なモノが見えなくなり、単純かつ明快で、一見すると美しいロジックに逃げ込んだ。それが袋小路と、薄々どこかで気付きながら。ある意味、一番滝先生を信じられなくなっているのは彼女なのかもしれない。だからこそ、先生が批判を是とするのにも拘わらずそれをシャットアウトしようとしている。批判の中で、彼女の信じたい何かが崩れていくのが怖いから。
もし、高坂さんの問題が解消しないままだったら。次にあのソリの席に座るのは、きっと高坂さんではないだろう。いや、例え解決して、部の空気が全て良くなっても、高坂さんが勝てる確率は決して高くない。五分五分というのが正確な見立てだろうか。それすら贔屓目かもしれない。
しかし、吉沢さんは一つだけ間違えていた。これは明確に言える間違いだ。彼女は、いや正確には彼女も一等星だろう。その輝きは余人にはさほど変わらない。肉眼で一等星同士の輝きの違いが分からないように。
「なぁ、私はどうすればいい」
思い出の中の彼女は答えない。朧月のような曖昧な微笑みを、記憶の奥に浮かべているだけだった。