「フルート、三年、高橋沙里さん」
滝先生の冷静な声が室内に響いた。ざわめきの起こる中、私の表情筋は動かない。私の名前は呼ばれなかった。私ではなく、沙里先輩の名前が呼ばれた。沙里先輩の返事をする声も聞こえない。全て、事実は正しく事実として認識できている。それなのにどうしてだろうか、妙に現実味が無い。
落ちた。私が落選した。ストン、と私の中で何かが落ちた。緩慢だった現実が私に襲い掛かって来る。止まっていた時間が動き出したような感覚がそこにはあった。つまり、要するに、結果として私は負けたのだ。この椅子に座っていられる時間も、あと数分も無いだろう。ソロの奏者が座る席を、沙里先輩に譲らないといけない。
嫌だ、と心の中で叫んでいる自分がいる。ここに座るのは私だ、私が相応しいんだ。子供のような癇癪を起している内心の幼い自分が、わめいている。希美先輩の後継者は私だ。だからこそ、ここに座るべきなんだ、と。兄さんの妹で、高坂先輩の補佐で、希美先輩の後継者で、二年生の学年リーダーで、南中の元部長で、全国大会の金賞経験者で。そんな私がソロに落ちるなんてあってはいけない。目の前がぐるぐる廻り、真っ暗になりそうになる。しかし、無理矢理どうにかして平常心を保っているように取り繕った。
前にいる先生や兄さんから見えないように指を握りしめて、口の中で舌を噛む。鋭い痛みが走って、私の感情が少し冷静さを取り戻した。大丈夫、大丈夫だ。取り乱した姿は、私の内心は周りにバレていない。誰も気付いていない。
それで良いのだ。私は平静を保っている。ここで騒いでは、昔私が注意した存在と同じになってしまう。こんな時になって、発表の後に走って外に出てしまった子の気持ちに共感できるようになるなんて。穴があったら入りたい。それはどちらかと言えば恥ずかしさからではなく、周囲がこちらを伺う様子からだった。私の姿を見ないで欲しい。愚かしい敗北者の姿を。
少し冷静になって、思考がクリアになる。必死に頭を回した。私の敗因は何か。沙里先輩の演奏は、オーディションの待機中に聞いていた。その時の演奏を思い出す。失礼な話かもしれないけれど、技術面だけなら私が勝っていた。けれど負けた。その原因になったのは多分、表現力だ。兄さんからも再三の注意を受けていた。それでも大丈夫だろうと思い込んでいた。絶対的な技術があれば、どうにかなると。それは間違いなく私の油断であり、私の驕りだった。
何とも不甲斐ない。私が油断して負けてしまうなんて。そんな人間に、希美先輩の席は相応しくないだろう。沙里先輩にこの席を渡す事に、抵抗を覚えて良いはずがない。結局のところ、私は指揮者であり審査員である滝先生の望む演奏が出来なかった。そこに全て集約されているのだ。だからこそ負けてしまった。兄さん風に言えば、クライアント求める演奏が出来ていなかった。その実力が無かったという事だ。つまり、私は実力が無かったがゆえに負けてしまった。それ以上でも、それ以下でもない。
気持ちを切り替えるべく内心で叱咤した。例え敗北しても、まだ何もかも終わったわけじゃない。全国大会に行ければ、オーディションはもう一回ある。私に今できるのは、目の前の大会に全力で挑むこと、そしてそのために部内で出来る事をしていく。それだけだだ。
そして、沙里先輩にソロの席を渡したとは思っていない。今は一時的に
「最後にユーフォニアム、三年、黒江真由さん」
今考えるべきは無様な敗北者の今後についてではない。何をどう考えても問題になりそうなこの人選について考えないといけないだろう。私と沙里先輩が交代したのは、元々二年生唯一のソロメンバーだった私が、三年生の沙里先輩に交代しただけ。沙里先輩も兄さんの下で三年間を過ごしてきた精鋭の一人だし、パートリーダーでもある。部内でも立場は盤石だし、この交代もそこまで大きな問題にはならないと思う。なったとしても、沙里先輩がパート内のことには立ち入らせないはずだ。
だから、考えないといけないのは地盤が極めて弱い真由先輩の方。応援する派閥みたいなものまで存在している今の部活で、部長のソロ落選は明らかにマズい。滝先生が何を考えているのかは理解できるけれど、それでも悪手ではあると思う。ここで大人しく部長にしておけば、特に問題なかった。
けれど滝先生は自分を裏切れなかったのだろう。或いは、兄さんと一緒に二年前の十字架を背負っている身としては、ここで自分の求める実力を持っている事実を無視して真由先輩を落とすことは出来なかったのか。どちらにしても、その正直さは正しくはあるけれど部に大きな混乱を齎すのは必定だ。
「席、移動ですね」
「……うん。涼音ちゃん、私ね」
「良いんです。負けた理由はちゃんと自分で分かってますし、恨んだりなんてしません。どのような経緯があったにしろ、事実は変わらない。お預けしたその席、取り返せるように次に繋げる演奏を引き続き、そしてこれまで以上に行っていくだけです。頑張っていきましょう」
「ありがとう」
「いえ、こちらこそ真っ直ぐ勝負してくださり、また勝負を受けてくださる先輩で良かったです」
私たちの席交代に関する諸々はこれで終わり。元々そこまで揉めるような関係性じゃないし、今回の件は私の中でしっかり整理は付いている。沙里先輩は卑怯な事はしないと信じているし、そもそも敗戦の原因を責任転嫁するなど愚かな所業だ。全国へコマを進め、そこでまた勝負する。それだけで十分だと思う。
だからまず私がするべきは真由先輩のフォローだ。部長のフォローは……私がやるよりも兄さんに任せた方が良いだろう。高坂先輩には出来ないだろうし、塚本先輩にどの程度フォロー力があるのかは分からない。先輩という枠である兄さんなら、同期とは違った部分からフォロー出来ると思う。その分私は真由先輩のフォローをすればいい。北宇治の中に地盤がほぼ無い真由先輩が、この部に来たことを後悔しないでいてくれるように。
取り敢えずやるべきことは決まった。真由先輩の地盤は少ないけれど、パーカッションの釜屋先輩は真由先輩と近しい間柄だったと思う。よく話しているのを見かけるし、同じクラスでもあったはずだ。そこら辺から上手く働きかけることもできるかもしれない。芽衣子先輩も同じクラスだったはずだし、フルートパートでも中立性を維持してもらえるよう努めないといけない。
前で先生が話している。その言葉を聞きながら、今後の自分の方針を決めた。私の敗北は悔しい事だけれど、原因は理解しているし、納得もしている。それに、組織のことと自分の感情は切り離して考えるべきだ。特に、自分の感情が組織に有害な可能性があるのなら。
「やっぱりおかしいって!」
大きな声が響く。合宿のお昼休みは、昼食の後に少しだけ休憩時間があった。今年の曲は如何せん難易度が高い。そんな曲を僅かな食事休憩だけの休みで吹いていたらおかしくなってしまう。我々はプロではないし、そんな水準は求められていない。したがって、こうして長くはないけれど休み時間があるのだ。そこでどう過ごすかは自由になっている。気晴らしに違う曲を演奏している人もいるし、外にいる人や食堂で話している人もいる。けれど大多数は一番冷房の効いている部屋にいた。
二年生は人数が多いので、女子だけで何部屋も使っているけれど、休み時間は大体同じ部屋にいる事が多かった。寝るには狭いけれど、話しているだけなら一定人数は収容できる。そんな休み時間、私の優雅な休憩時間は先ほどの声によって遮られた。
「部長が落ちて黒江先輩って、どう考えたっておかしいでしょ。滝先生、マジで意味わかんない」
「落ち着きなって」
少し大きな声を出していたのはホルンの深町さんだ。屋敷さんに止められているけれど、本人は納得している様子はない。彼女自身はコンクールメンバーでは無かった。それが影響しているのかは分からないけれど、部長の落選への不満は大きいらしい。真由先輩へ、というよりは滝先生への不満の方が割合的には大きいようだが、その感情の中に真由先輩への好ましくない感情が存在していることは、疑いようがない。
しかし、下手に介入するとむしろ真由先輩の印象を下げかねない。滝先生は指導者だし、大人なのだから、本来はあまりよろしくないけれど多少は我慢してもらいたい。今大事なのは、顧問という確立した立場のある先生よりも、真由先輩の方だ。タイミングは慎重を期すべきだろう。そう考えて、耳を傾けつつ一応目線は目の前の小説に戻す。
「さなえは黒江先輩派ってこと?」
「そういう訳じゃないけど……」
屋敷さんは困ったように視線を逸らす。その視線が一瞬私に向いた。助けを求めるような色を孕みながら。ぱたんと小説を閉じる。話題があまり良くない方向に向きつつあった。
「黒江先輩に何か言ってもどうしようもないからさ……。あんまり、そういうの良くないと思うし」
「それはそうだけど、でも、私も滝先生の判断はイマイチよく分かんないから」
「分かる。ちょっとイミフだよね」
「てか、黒江先輩も部長もあんまり変わんないと思うんだけど。チューバもそうだけど、今年は何考えてんのかよく分かんない」
「やっぱりさぁ、ダメなんじゃない? 桜地先輩いなくなっちゃってさ」
仮に兄さんが審査員の中にいたとしても、あなたの望む結果になるとは限りませんけどね。そういう言葉が口をついて出て来そうになるが、あまり良い結果を招きそうにないので自重した。目の前に座っている香奈さんが不安そうな目でこちらを見てくる。大丈夫か、と訴えているようだった。ちょっと待ってとアイコンタクトを送って、状況を観察する。声が大きいのは数人だ。大体は遠巻きに見ているだけだったり、僅かに意思表明をしているだけ。全員が全員滝先生に不満があるわけではない。特にオーディションに受かった組の中にはこれで良いと思っている人もいるだろう。逆に落ちてしまった人の中には、その不満を滝先生や真由先輩に転嫁している人もいるように思う。
「奏だって、そう思うでしょ!?」
「……今年は確かに、滝先生の判断基準はブレていると思う」
「でしょ?」
我が意を得たりとばかりに胸を張る数名。久石さんは良くも悪くも影響力が大きい。二年生の中でも有望株で、実力も申し分ない。そんな存在がソロ落選ならまだしもA編成にすら入れなかった。その事実も、二年生の中には不満を溜める要因になっている。同期というのはどうしても親近感が湧くものだ。少なくとも、転校生の三年生よりは。
「私は……自分が落ちた事には一応理由付けは出来てる。ただ、本気でコンクールに行くなら、黒江先輩をソリにするのはおかしいと思う」
「奏、ちょっとその辺で」
「だって、久美子先輩と黒江先輩の差なんて好みの違い程度のはずでしょ? 少なくとも、私はそう思ってる。だったら部長で、しかもずっと部のために頑張って来た部長にするべきだって、そう考えてる」
剣崎さんの制止を無視して、久石さんは言葉をぶちまけた。それは直属の先輩であり、二年間一緒にやって来て、そして去年一緒に名古屋へ行き悔しさを分けあった同士への強い感情に思えた。それは或いは、中三の時の希美先輩と当時中一だった私の関係性に近いのかもしれない。しかし、場の空気は重くなる。久石さんという有力者が真由先輩の否定、ひいてはその真由先輩を選んだ滝先生への否定に賛意を示したのだ。剣崎さんは中立派のようだが、この状況で中立派は影響力が大きくない。
「私はそうは思いませんね」
小説を机に置いて、私は椅子から立ち上がった。部屋中から何十もの視線が突き刺さる。私は多分、アウェーだった。けれど兄さんはそんな状況でも指導を始めた。ならば私に出来ない道理はないし、逃げだす事なんて出来ない。それに、私にだって味方はいる。そう信じている。
「久石さん。あなたの言いたいことは理解しますが、それはあなたの希望的観測が多分に含まれているのでは?」
「どういうことですか」
「あなたは真由先輩よりも部長の方にソリになって欲しかった。そういう視点が根底にある時、あなたの言う両者の差が好み程度、という言葉には全くの信憑性が無いのです。何故なら、内心であなたは無意識か意識的にかは不明ですが、部長に勝ってほしいと願っているのだから。バイアスがかかっていると考えるのが自然では?」
「分かりました。そこの部分は桜地さん、そちらの主張に一定数理があるのは認めましょう。でも、黒江先輩よりも部長を選んだ方が部がまとまるというのはどうですか? これは事実でしょう。どう考えても、部長の方が」
「人望がある?」
「まとめるとそういう事です」
「なるほど。一見筋が通っているようですが、では人望があればそれで良いのですか? オーディションとはどういうものか、そもそもあなたは履き違えていませんか? オーディションは実力主義の場です。人望がどうこうではなく、目の前の大会に臨むにあたって最良の編成を行うために存在している。それがオーディションです。そのためには人間関係も時には気にしない。北宇治がこれまで行ってきた路線を、今年も継続しているだけでしょう」
「その結果、桜地さんはソリから外されましたけどね」
「えぇ。ですが、それは私の実力不足です。その原因と対策も既に目途が立っています。ですので、私はこの結果を理性的に理解して、感情的に納得しています。あなたが納得していないかどうかは内心の自由ですが、私まで納得していないと思われたくは無いですね」
ポンポンと飛び出す言葉の応酬が室内を行き来する。誰も話さない部屋の中で、私と久石さんの舌戦だけが繰り広げられていた。剣崎さんは黙ったまま推移を見ている。どこかマズくなったら介入しようと思っているのだろう。何かと余所の部屋からも別の部屋にいた部員が見に来ていた。
「そもそも今年の滝先生の判断基準がブレています。実力主義も何も、基準がブレていてはどうしようも無いでしょう。それは実力主義とは言えない」
「いいえ、それも実力主義です。オーディションにおける実力とは、極論指揮者であり審査員でもある先生の求める演奏が出来るかどうかによるのですから。私は合わせられなかったから落選し、沙里先輩は合わせられたので合格なさった。ユーフォニアムも同様です。真由先輩の強みはその調整力です。それはあなたがよく分かっているはずですがね」
「ではその理論で行くと、私が落ちたのは実力が足りなかった、滝先生の求める演奏が出来ていなかったからと? ですがその理論には矛盾がある。ならどうして私は府大会では受かったのでしょう。あれからサボっているつもりもありませんし、順当に実力も付いているはずです。急に落とされるのはおかしいではありませんか」
それは真実だ。聴衆も確かにと頷きながら私に反論を待っている。彼女の実力が果たしてコンクールにおいて活躍できないレベルであるのかと言われれば、それはもちろんノーだ。私もそれは同意する。久石さんは間違いなく関西大会に挑めるくらいの実力はある。同じ楽器ではないので絶対的な評価は出来ないが、多分鈴木さつきさんや釜屋さんより上だろう。真由先輩や部長には劣るが、彼女も実力者だった。
「それはあなたが一番理解しているのでは?」
「……」
「オーディションは確かに実力主義ですが、それは上から順番に上手い奏者を採用していくわけではありません。極論言えば、例えばこの部のトランペットパートが部の上位全てを独占していたとしても、パートのメンバーを全員採用したりはしないでしょう? どんな曲にも楽器のバランスはあります。そのバランスを考えた時に、全員上手くともその中でさらに評価を付けて採用人数を変える。ですから、総合的に見れば実力が下でも、楽器が違うから合格することもある。それもまた実力です」
「たまたまそのパートにいただけの運では?」
「運も実力の内です。先ほどの例は極端でしたが、今回の場合はユーフォニアムは四人。或いは全員超絶技巧であればチューバを抑えてユーフォニアムをメインにすることも出来たかもしれません。つまり、あなたが落ちたのはそれを覆すだけの……」
「はいストップ!」
剣崎さんがぱちんと手を叩いて、少し大きめの声で制止する。私も売り言葉に買い言葉でつい良くない言葉を言おうとしていた。止めてくれたことに小さく頭を下げる。久石さんは小さく鼻を鳴らした。言おうとしたことは全員何となく察しがついているかもしれないけれど、言っているのといないのとでは雲泥の差がある。
「そこでそんな話してても建設的じゃないよ」
「申し訳ありません。つい言葉が過ぎました。確かに久石さんの言う通り、滝先生の判断基準が例年と少し違うのも事実です。私が言った理由も、先生の中では実は違うのかもしれません。それならば先生に聞きに行くしかないでしょうね、最終的には。そうすれば何らかの説明があるはずです」
「それが納得のいくモノでは無かったら?」
「そうなったら最終手段を使うしかないでしょう」
「最終手段?」
「えぇ。私や高坂先輩のような指導系の職にいる部員の言葉も、先生の言葉も納得できないとなったら、それはもう多数決に委ねるしかない。つまりはそう、公開オーディションです」
私の言葉にざわめきが起こる。公開オーディション。アイドルグループなどならいざ知らず、吹奏楽部ではあまり聞かない言葉だ。通常はほとんど出てくることのない発想だと思う。なにせ、全員審査を受けるならまだしも、特定個人だけ受けるとなると話が違う。特に、今回のような場合では真由先輩が不幸な目に合う気しかしない。ただ一つのアイデアとして存在するのは事実だ。私は兄さん経由でその話を知っている。
「公開、オーディション……」
「不可能ではないはずですよ。一昨年北宇治はその末に全国大会に初出場しました」
「それなら……」
「不満があるって滝先生に直訴したら変わるのかな」
「でもそれって黒江先輩はどうするの?」
「それに高坂先輩が……」
色々な囁き声が室内に響く。二年生以下には存在していない選択肢。そして部長たち三年生には、もう二度とやりたくない選択肢だろう。部長たちは、経緯や結果はどうあれ、誰かの夢が目の前で壊れていくのを、そしてそれに自分たちが大なり小なり加担しているのを見てきた。
「ですが!」
私は少し大きな声で囁き声を断ち切る。どんな思いで兄さんがあれを行ったのか。私は当時いっぱいいっぱいだったからこそ、しっかり観察していたわけではない。けれど漏らす言葉や行いは、全て重苦しく悩みと慟哭に満ちているようだった。音楽家としての自分と、恩人に報いたい自分。その背反する二つの物事の狭間で、兄さんは苦しんでいた。
「そんな事態に至った、しかも私たち部員の要請でとなれば、それはもう唾棄するべき、本当に心の底から恥ずべき結果だと思いますよ。何せ、私たちは自分たちが納得できないからという理由で部長と真由先輩を、特に今回正当な勝者であるはずの真由先輩を壇上に乗せているのですからね。そして大なり小なり内心では多くの人が真由先輩を支持していない。これは部長を勝たせるための出来レースではありませんか? そんな独裁国家の選挙の如き様相を呈する行いをするくらいなら、全国大会に出ない方がずっといいと私は思います。ですから最終手段なんですよ。いわば核兵器と同じ。使ってはいけない禁じ手です」
「……みんな、そろそろ時間だよ。行かない?」
剣崎さんが呼びかけたことで、何人かが弾かれたように立ち上がって外へ出ていく。重苦しい空気になっていた室内には、私と久石さんが向かい合ったまま互いを見つめていた。何人かが出て行っても、まだ多くは部屋の中の様子に注視している。
「真由先輩派だの部長派だのというくだらない派閥争いに参加する気はありませんでしたが、殊にこのソリ論争に限っては私は真由先輩を支持しますし、滝先生の判断を支持します」
「それは滝先生を信じると?」
「信じると支持するは違います。勝手に取り違えないでください。滝先生がこうすると言ったから支持するのではありません。私が考えた末に、滝先生の判断に合意したから支持するのです。また別の判断の話になれば、それは異なる結果となるでしょう。或いは支持しないかもしれませんね。ともあれ、滝先生を信じている、あなたの言うニュアンス的には妄信しているのとはイコールではないと思いますが」
話は終わりだと切り上げて、私は部屋を出る準備をする。それを見て残っていた部員も部屋の外に出た。香奈さんや他の子も、心配そうに私を見ながら、練習へと向かって行く。部屋の中には私と久石さんと剣崎さんだけ残された。
「私たちは三人しかいないので言いますが、私は部長は落ち込んでいる場合ではないと思いますがね」
「……」
「部長が入部を促したのでしょう? 同時にオーディションを受けることも、ソリに全力で挑むことも。それなら、部長が自分で蒔いた種じゃないですか。そもそも二年前の公開オーディションで当時三年生だった先輩の願いを壊した一人のはずです。高坂先輩を支持するといの一番で手を叩いたのは、部長だったと兄さんから聞いていますよ。それが間違いだったとは思いませんが、他人の願いを壊しておいて、自分だけ嫌だというのは筋が通らないのでは。それも含めて、私はオーディション三回制をする覚悟と言ったつもりです」
「悔しくないんですか、この結果で」
「悔しいですよ。ですが、この悔しさは私だけのモノです。同時に、私だけが持っていれば良いモノです」
「どうして、そんなに……」
「それが吹奏楽部のためだからです」
「……桜地先輩と同じことを言っても、あなたは桜地先輩にはなれないのに」
「それはやらない理由にはなりませんから」
私は部屋を出る。久石さんの気持ちは分かる。私も、もし部長のポジションにいるのが希美先輩だったら、冷静ではいられないかもしれない。それでも今はそうじゃない。仮定の話をしても現実は動かないのなら、あり得ないIFの話ではなく、目を向けるべきは未来なのだ。
滝先生のことを信じているわけじゃない。実力主義は曖昧だ。ただ、目標だけは全員大なり小なり一致している。全国大会金賞。そのために最も有効で、最も最短の手段が先生の指示に従うことだと現状は考えている。ただし、それでも自分の意見とズレていることもあるだろうから、その時は主張するつもりではいる。今回のオーディションに関しては、先生の判断と自分の考えが一致していたので特に問題視するつもりはなかった。先生の決めた事なら従うべきだとは思わないが、じゃあここで管を巻いていないでさっさとそう主張しに行けばいい。滝先生の判断に従うことが果たして全国大会金賞への近道であり有効なのかという問いには議論の余地がありそうだが、そういう話は誰もしていなかった。
実力とは上手さ、つまりは技術だけじゃない。即応性、メンタル、調整力、その他も全て包括している。その末で真由先輩は選ばれた。滝先生の判断が正しいのかは未来だけが知っている。けれど真由先輩が選ばれたという事実は、間違いなんかじゃないはずだ。
「「「ありがとうございました!」」」
長い練習がやっと終わる。あの後、こっそりと私に話しかけてくれる二年生もいた。曰く、私も真由先輩で良いと思っている。でも言い出せないから、あそこでしっかり主張してくれて助かったと。そういう子を臆病とは思わないし、ただ乗りとも思わない。むしろ。私に伝えてくれるだけ勇気があると思う。賢いのは本来黙っている子の方だろうから。私のように主張すれば、それの善悪是非は二の次三の次に批判や、酷いと誹謗中傷に晒されることもある。それは百も承知だけれど、黙っていられるような性分では無かった。
部長の態度は良くないと思うけれど、同時に仕方ない部分もあると思う。部長として、やはりソリを務めたいという気持ちはよく理解できる。優子先輩の境地に至れる人の方が少ないだけだ。どうしても人は比較してしまうけれど、部長もいっぱいいっぱいではあるのだろう。ここで下手に刺激はしたくない。だから直接批判したりなんかしない。それは元部長としての共感からくる行動だった。
兄さんに部長のフォローを頼んでいる間、部長は足早にどこかへ向かって行く。それを真由先輩が追いかけようとしていた。兄さんが部長のフォローを上手くしてくれるのを期待しながら、私は小さくため息を吐いて、私は真由先輩のところへ向かう。
「真由先輩」
「あ、涼音ちゃん……」
「どこへ、行こうとしていたんです?」
「……」
「少し、場所を変えませんか?」
「……うん」
真由先輩は少し逡巡しながらも、頷いた。人の目の少ない場所へ移動する。きっと兄さんが上手くやってくれている。そう私は願いながら、話を始めた。
「お時間いただいて申し訳ありません」
「ううん、気にしないで」
「ありがとうございます。それでは本題に入りますが……部長のところへ、行こうとされていたんでしょう? お引止めして申し訳ありません。でも、きっとその方が良いと思いましたので」
今の真由先輩と部長を接触させてはいけない。勘がそう告げている。ただの勘ではあるのだが、こういう時の勘は大体当たる。
「真由先輩。敗者にとっては、嘲笑より憐憫や優しさの方が時には何倍も気に障るモノですよ」
「私は、そんなつもりじゃ……」
「もしかしたらそうかもしれませんね。でも、今の部長はあまり精神状態が普通じゃないですから。平常ならいざ知らず、精神的に参っている時には、色んなことをマイナスに捉えてしまうモノではありませんか?」
「そう、だね……」
取り敢えずこれで真由先輩が何か言うのを止められたなら幸いだ。多分、辞退しようかとか交代しようかと言おうとしていたんじゃないかと思う。そのこと自体の是非は問わないが、今は少なくともタイミングが一番悪いと思う。真由先輩が悪い人じゃないのは良く知っているし、無論善性の人だとは思うのだが、時々致命的に間が悪い時がある。それ、今じゃ無ければもっと良かったのに、と思うような時があるのだ。
「まぁ色々ありましたし、これからも色々あるとは思いますが、私は真由先輩が選ばれたことも、オーディションに参加したことも、ひいては北宇治に転校なさったことも間違いだとは思いませんよ」
色んな人がいて、色んなことがあるのだろう。それぞれみんな、自分の中の正義や信念、考えや想いを持った個人だ。それを完全に統制する事なんて出来ない。何が正しくて、何が間違っているのかも、答えは出ない日々だろう。けれど、真由先輩の存在やここに来たことが間違いだとは思えないし、思いたくもないし、思って欲しくも無いのだ。
「私は専門の教育を受けた訳でも、指導歴が長いわけでも、特別な才能があるわけでもありません。だから、真由先輩と部長のどちらが上手いのか、本質的なところでは分かりません。確かに、もしかしたら真由先輩が辞退なさったら、部長の内心以外は全て丸く収まるのかもしれません。ですが、私はそれで金賞がとれるとは思えないのです。それに、私はそんな金賞に価値があるとは思いたくない。そんなやり方で金を獲るくらいなら、府大会銅賞でも全員笑って終われる方がずっと良いじゃないですか」
「どうして、そう思ったの?」
「真由先輩は北宇治の仲間です。真由先輩は私たちと一緒に演奏したいと思って門を叩いて、私たちは真由先輩を受け入れた。真由先輩が全員の前で挨拶して、それに拍手して、これまで一緒に部活を過ごしてきた。それは仲間じゃないですか。過ごした時間は一年にも満たないですけど、過ごした時間で決まるなら、一年生は仲間じゃないことになります。何かしら倫理的・社会的に問題のある行動をしたなどの事情でもないのに、正当な方法で選ばれた仲間を部活から追い出すような集団に、私は所属していたいと思わない。ですから、真由先輩が心の底から辞退したいと思っていらっしゃるならお止めはしません。もう少しタイミングを待ってほしくはありますが。ですが一ミリでも心の中に未練があって、それでも辞退しないといけないような状況に追い込まれているのなら、私はここに未練などありません。すっぱりと退部届を提出するつもりです」
これは偽りなき本音だった。仲間を中傷して、追い込んで、正当な理由なく非難して。そんな集団に所属し続けることに、私の良心は耐えきれない。正義漢を気取るつもりはないし、正しさに生きてきた人生でも無いと思っている。それでも、私の中に存在する何かが、それは許してはいけないと叫んでいる。思えばずっとそうだった。同じ場所で、同じところを目指している仲間なのに、それを排斥しようとする存在を私は許せなかった。だから、中学二年生の時も……。
だから、これは本心からの言葉だ。本当に辞退したいなら止めない。オーディションは義務ではなく権利だ。一緒に楽しくB編成の面倒でも見よう。でも心に僅かにでも未練が残っているなら、それは無視してはいけないのだと思う。
私は北宇治という組織が好きなわけではない。北宇治の演奏が輝いていたから、ここへ来た。その輝きがくすんでしまったなら、私にはもうここにいる意味はない。大人しく揚羽の誘いに乗って軽音部にでも移籍しよう。キーボードだろうとバイオリンだろうと弾きこなしてみせるつもりだ。
「真由先輩、胸を張ってください。少なくともこのオーディションにおいて、真由先輩は何も間違っていない。あなたは求められたとおりに挑んで、結果を出した。ただそれだけです。そして私はその結果を支持します。何があろうとも。一緒に関西で吹きましょう。全国で、清良に会おうじゃないですか。私も負けたくないんですよね、関西では。兄さんが指導した秀塔大附属には特に。なので、真由先輩のご協力が不可欠なんです」
私は彼女に視線を送る。その表情は深い迷いと悩みの中にあった。部長が苦しんでいるように、真由先輩も同じように苦しんでいる。その苦しみは理解されにくいモノなのかもしれない。なにせ、真由先輩は部長を追い落とした悪者になりかかっている。だとしても、勝者にだって悩みはあるものだ。私は兄さんを見て、それを良く知っている。
味方は多いわけじゃない。けれどいない訳じゃない。私は、私の信念に従って、私の仲間を守る。ただ、それだけだ。そこに何の迷いもありはしない。正しいかなんて分からないし、もしかしたらこの道は正しくないのかもしれない。けれど、それがどうした。全体の流れや意見に従って彼女を扱うことがこの部での善なら、私は悪だろうと一向に構わない。これは、私という人間の信念を掛けた戦いだ。信念を譲らず、努力する者を嗤った存在に立ち向かった希美先輩の後継を目指す存在としての、信念を。
あの日手を差し伸べてくれた人の立場に、真由先輩の中で私にとっての希美先輩や純一さんのような存在に、私はなってみせるのだ。