考えるべきことは多い。しかしながら、時間は私の思考を悠長に待ってはくれない。重たい気持ちを引きずりながら、指定された場所へ向かった。そこでは我々指導陣の会議を行うことになっている。既に夜は大分遅いが、それぞれやらないといけないことがあるためこんな時間になっていた。
時計を見れば、集合時間を少しだけだが過ぎてしまっている。まず間違いなく先ほどの指導の影響だろう。普段は時間より少し前には着くようにしているのに、不覚な事だった。私も多分、冷静ではいられていないのだろう。比較的冷静であるつもりなのだが、行動と思考が一致していない。黄前さんの苦悩や吉沢さんの絶望が私を苛んでいる。本当にままならない仕事だと、今更ながら思わされた。
それでも、やめるという選択肢はない。私は、先生と共に彼らに夢を見せてしまった側だ。それなのに、途中で放棄するなど許されないだろう。失わせてしまった多くのモノに報いるために、私たちは止まることは出来ないのだ。
扉に手をかけて開く。中には滝先生、橋本先生、新山先生の音楽面で主に指導を行っている三人がいる。松本先生は部員の見回りに行っていた。
「失礼、遅くなりました」
「いえ、大丈夫ですが……珍しいですね、あなたが遅れるのは。何かありましたか?」
「少しばかり生徒指導をしていましたので。今は色々と混乱の中にあるわけですから、諸々指導しないといけない事案も発生していますからね」
言外にあなたの選択のせいですよ、と先生に突き付ける。これは責任転嫁も良いところな気がするが、実際直接の原因は先生の判断なのだ。私は一切オーディションには参加していないのだから、多少は言う権利もあるだろう。無論、先生の判断が間違っていたとは思わない。しかし、それで発生した問題が存在するというのは、先生の判断の是非とはまた別の問題だ。これは分けて考えないといけないだろう。
「……そうですか」
「そうですよ。先生の判断の是非を問うつもりはありませんし、仮に問われても是でありますが、それはそれとして諸々生徒が困惑の渦の中にいるのは事実です。何か言われることは覚悟しておく必要があると思いますよ」
「無論、それはいつでもしているつもりです」
「であればよろしいのですが。如何せん、今回は私が参加していないわけですから、審査理由を聞かれてもメインで答えられるのは先生だけです。納得させることは出来ずとも、理解させることが出来れば、今回の場合は十分でしょう。それと、あまり生徒の自己解決能力に頼り過ぎない方が良いと思いますがね」
釘を刺すつもりで言う。自主性を重んじるのと放任や放置は違う。大事なのはSOSが出たタイミングで迅速に動けること。一番良いのはSOSが出る前に動けることだが、この先生にそれを期待するのは難しい事だと思っていた。
「肝に銘じておきます」
「そうしてください。他人の強さに期待して、失敗するのは私で十分です」
強めの語気で私はそう告げた。一年生の時のことは、いまでも鮮明に思い出せる。たまに夢に見るくらいには、今でもはっきりと克明に思い出せるのだ。人の強さに期待して、勝手に推し量って、限界を見誤って、その末に全てを失った。作り上げたものでも、壊れるのは一瞬なのだ。今の状況は偶然によるものが大きい。それを人は運命というのかもしれないが、そんなあやふやなもので助かった状態のまま、何の反省もしないで生きていたくはない。
「まぁ、それくらいにして。取り敢えず明日の練習の打ち合わせをしよう!」
橋本先生がやや陽気すぎる声で言った。私の剣呑な声に合わせて対応してくれたのであれば、申し訳ない気分になる。道化役は生徒の前でならともかく、私のためにやるようなものではないだろう。私は指導者だ。自分の機嫌は自分で取らないといけない。
「最初に私見をお話しても?」
「どうぞ」
「それでは一番若輩ですが失礼して。全体を通してですが、非常に良くなっていると思います。技術面は十分に鍛えられているでしょう。関西大会でも他校に比べて遜色ない演奏を、全国大会に行くのに相応しい演奏が出来ていると思います。先生方、ここまでで何かご意見は?」
全員が首を横に振ったのを確認して、私は話を続ける。
「ですから今後課題になって来るのはまず気持ちの部分でしょう。現在第二楽章から第三楽章の繋ぎで切り替えが上手くできない時があります。第四楽章も変則的なテンポに対応できている時と出来ていない時の差が激しい。まとめるならば、ムラが多い。調子が良い時は上手くいきますが、そうでない時は今一つ。このムラを均します。府大会、並びにこれまでの練習の録音と聞き比べ、精神面に影響を受けない技術を確立させましょう」
今回の自由曲『一年の詩』はバランスが難しい曲だ。それぞれの楽章は割とシンプルにまとまっているのだが、組み合わせると一気に難しくなる。ジェンガのようだと言っている生徒もいた。その表現は言い得て妙だと思う。そういう極めて精緻なバランスを要求される曲である以上、ムラがあってはいけない。常に一定に。そしてそれは当然高水準で。求められていることは要するにそういう事だ。
「良いと思うよ。自分の演奏を聴くのは、鏡を見るのと同じだからね。勢いで誤魔化してるところのある第二楽章とか、一番その辺がダイレクトに伝わるんじゃないかな」
「口で言っても伝わりにくいところの気付きになりますからね。百聞は一見に如かずでは無いですけど、気にするべきところとしては私も賛成です」
橋本先生と新山先生は賛同している。滝先生もそれを聞いて頷いた。私だって指導を二年間ぶっ続けでほぼ毎日やっていたのだ。そして今年は他校でも指導をしている。これくらいの事はさしたることでもない。
「そしてもう一つ。表現力です。ある程度形にはなってきましたが、まだ全体として非常にフワフワしている。何を表したいのか、どういう曲にしたいのか。先生サイドからの呼びかけでも構いませんし、部員サイドからの提案でも構いませんが、何もないのではただ楽譜をなぞるだけになってしまう。昨年ほどとは言わないにしても、メッセージ性を持たせることは関西大会突破の鍵であると考えますが」
「なるほど」
「一昨年の三日月は割とシンプルな曲でした。それ故に表現も難しくない。楽譜通りにやればいいだけでした。昨年のリズは相当表現に偏った曲でしたが、あれはあれで一つの完成形を示せたと思っています」
部員には特に伝えていないけれど、北宇治の指導陣、特に編曲した私に向けて作曲者からのメッセージが来ていた。コンクールでは時々吹かれる曲だが、大体同じ編曲になっている。しかし北宇治は作曲側のメッセージを押し出してくれた。感謝するという旨の言葉が書かれていた。なので、リズと青い鳥は完成形を示せたと考えているのだ。あれ以上良くなりようがない。
「しかし今回の曲は難しい。そもそも、情報が全く出てこないですからね。私に情報が入ってこないくらいなのですから、よっぽどです。まったく、困ったモノですね。欧州の曲で情報が入らないことなど無いので油断していました。日本のネットワークを増やさないといけないですね」
「あれ、滝クンから聞いてないの?」
「何がです? 何も聞いていませんが」
「滝クン、それは良くないよぉ」
橋本先生は困ったような顔で滝先生を見ている。先生はバツの悪そうな顔をしていた。新山先生も少しあきれ顔をしている。どうやら、三人は何かしら情報を知っているようだ。
「この戸川さんが僕たちの先輩なのは知ってる?」
「えぇ。みぞれや希美の先輩でもありますから」
「そうそう。で、この戸川さんは新進気鋭の作曲家で、曲自体は色んなところで結構評価を得てるんだけど、世界レベルのコンクールとかには出てこないからなぁ。だから知らなかったのも無理はないね。それで、この曲は滝クンのために作った曲なんだよ」
「……はい?」
「この曲はその先輩、つまりは戸川さんだけど、そのお父さんが亡くなった時に一緒に過ごしてきた一年間を振り返って作った曲なんだ。だから壮大さだけじゃなくて儚さや美しさみたいなものが根底にある」
なるほどと合点がいった。一年の詩、と銘打たれた曲の中にある消えそうな儚さに、どこかしら共振のようなものを感じていたけれど、それは死の儚さなのだろう。そう考えれば、私の中である程度イメージが作られて来た。死のイメージ、死の儚さや惨さ。そういうモノは、経験者にしかわからない。私も、作曲者も、そして滝先生もそういう意味では同類だった。
「いつかこれを滝クンの生徒が吹いたらすごいなぁ、そうなってくれたらなぁみたいな話をいつかの酔いの席でして、今に至るって言うわけ。だからまぁ、厳密には滝クンのための曲ではないのかもしれないけど、そういう経緯があるってわけだね」
「そうでしたか……なるほど……。そういうことなら教えて頂いても良かったのでは?」
「特段、話すようなことではないと思っていましたので。それに今彼も言いましたが、私のためというのも少し語弊がありますし」
それでも言って欲しかった部分ではあるのだが。何も知らないよりは知っている方が作戦も立てられる。
「ボクはこれもみんなに知らせるべきだと思ってるんだけどね。それを受けてどう思うかは自由だけど、曲は楽譜に書かれていることが全てじゃない。それは、ここにいる全員が、それはボクたち指導陣だけじゃなく生徒でも共通して理解できることだと思う。背景を考えられる人間になって欲しいんだよね、ボクは」
「なるほど。アイデアとしては悪くないとは思います。ただ……」
引っかかる所があるが、言語化するのにもう少し時間がかかりそうだった。考え込んでいる私に、新山先生が話を振る。
「そう言えば、秀塔大附属の曲はそちらの作曲だと聞いています。どういう風に背景を説明しましたか?」
「あの曲が全部で五つの楽章で構成されているのはご存知だと思います。全部演奏していてはとてもじゃないですが終わりません。一楽章やるだけでコンクールの持ち時間が終わってしまいます。ですので、今回は第五楽章の部分だけを抽出しました。一から四は全部脇に置いています」
大阪府大会は全員忙しくて参加できていない。そのため、実際に秀塔大の演奏を知っているのはこの場で私だけだった。初めて聞いたその編曲に、全員が目を丸くしている。
「それは、大分思い切ったね」
「えぇ、自分でもそう思います。第五楽章は『思い出』です。私の大学時代の思い出を謳いました。そういう説明は生徒にもしています。しかし、それは知ってもらいつつ、全部無視するようにも伝えています」
リリーがよく演奏していたフレーズが入っていたり、そういうエッセンスは幾つもあるのだが、そこは全部伝えていない。そんなの知っていても、秀塔大の子には実感も親近感も湧かないだろうからだ。それに、私の思い出は伝えるには重すぎるし、そんな演奏をする必要はない。私の曲はあくまでも道具だ。彼らが全国へ行くために使う武器でしかない。武器が扱いずらいようでは、刀鍛冶失格だ。
「私の思い出なんて何の共感性も無いですからね。身近でも無ければ、自分のモノでもない思い出を演奏しても意味が無い。ですので、行ったことの無い街の知らない景色を演奏するよりも、身近な自分にとっての第二の故郷に想いを馳せながら演奏してもらうことにしています。より身近で、より共感できるそれぞれの思い出。それを結集させ、演奏とする。私はそういう手法を取りました。大会で演奏する曲は、あくまでも生徒たちのためのモノですから。彼らにとって有益であるべきですので。そう考えて、編曲も秀塔大附属専用カスタムになっています」
「つまり、あなたの考えとしては今回の『一年の詩』もそういう風にするべきだと?」
話している間に考えがまとまった。橋本先生の言った背景を伝えること自体には反対しない。だが、それを伝えたところで滝先生への不信感が芽生えつつある空間では意味を為さないだろう。逆に、今だからこそ、空気の死ぬほど悪いこの瞬間だからこそ伝えられることがあるはずだ。
「まとめればそうです。橋本先生の仰ったことも大事ですので、背景を伝えること自体は否定しません。しかし、それは知らないよりはいいでしょうけれど、生徒にとって『だから?』という程度のモノでしかないかもしれません。ですので、より身近な部分にこの曲を下ろして来るのです」
「策はありますか?」
「無ければ言いません」
「分かりました。では、明日表現に関する指導をお願いしたく思います」
「お任せください」
先生の要請に頷く。既に方策は大体今の間にまとまった。後は話運びの段取りをするだけだろう。北宇治にとっては必要な話になるはずだ。特に、三年生には。そういう有益な話に出来るように努めるのも、私の仕事である。そこからは細かい部分を詰めていく作業が続く。結局解放されたのは、世界が新しい日を迎えてからだった。
「明日はパートリーダー会議だから、よろしく」
「はいは~い。私、これ戻してきちゃうね」
「ありがとう」
三日目の朝。私の眼前では昨日のことなどまるでなかったかのように、そして彼女の言葉通り普段通りに振る舞う吉沢さんの姿があった。そこにはあの負の感情に満ちていた様子は見受けられない。少なとも、そこを取り繕うだけの余裕はあるというべきなのか、どうなのか。しかし高坂さんも余裕綽々ではないはずだ。果たして、この後高坂さんの方が普段通りに振る舞えるのだろうか。もし何か掛け違いが起こると、取り返しがつかない。そんな予感がする。
「……」
「……」
「あの、昨日の夜は……」
「君の仕事は生徒指導じゃないね。それは理解してる? 思うにね、本来生徒が生徒を指導するなんておかしな話というか、非常に危うい話なんだ」
「でも、桜地先生は」
「同期はたまーに忘れてるけれど、私は大卒だよ。つまりは、滝先生と学歴的には同じ。教員免許は持っていないけれど、君より資格はあるでしょ。それに、今回の件はそこまで騒ぐことじゃない」
「……私はそうは思いません」
「……」
少し強い口調での反論が返って来た。そこに籠っている感情は、滝先生への恋情だけではない。アイデンティティが崩壊するのを必死に防ごうとしている姿に思えた。それはかつて、理想化した希美を私が否定した時に妹が見せた表情に、どこか似ていた。
「滝先生は、何も悪くないじゃないですか」
「いや、悪い。滝先生が全部悪い」
「おかしいですよ、そんなの!」
「それが責任者であり、指導者だ。部内で起きたことも、部員が先生を信じられないことも、部内で何か問題があった時も、それは全て責任者のところへ行く。どれほど先生に非が無くとも、最後は先生の責任になる。それが教師で、それが大人の仕事だ。私も滝先生も、その覚悟は既にしている。そうでもないのに、他人の人生の時間を預かれない」
「そんなの……間違ってます」
「確かにそうかもしれない。それでも社会はそうやって動いている。それが嫌なら、社会に抵抗するか社会から隔絶されて生きなさい。立場だけ欲しいけど責任を背負いたくないなんて甘えは許されないんだよ。君は自分を子供と思っているのか大人と思っているのかは分からないけれど、大人とはそれを理解して、責任を背負える人のことだと私は思っている。そして私は、それをするつもりでいる」
滝先生は滝先生の信念に従って仕事をした。それは私も理解している。けれど、その結果として部員との間にすれ違いが生まれかけているのも事実だ。ならばその責は先生に帰結する。教師はそういうモノだ。学校生活とそれに属する活動の中で起こった問題について責任を負う。それが仕事である。
「でも……」
「話を少し変えるけれど高坂さんはさ」
「はい」
高坂さんの言葉を遮って私は言葉を紡いだ。
「吉沢さんのこと、どう思ってるの?」
「どうって言われましても……友達で、ライバルです。私にとっては特別な存在です。それが、どうかしましたか?」
「……」
「桜地先生?」
「君はさ……何と言ったらいいのかな、吉沢さんに甘えてない?」
「私が、ですか?」
「そう、君が。彼女はずっと自分を追いかけてくれる。自分のライバルでいてくれて、自分を助けてくれる。言わなくてもきっと理解してくれる。そんな風に思ってない?」
「そんなことは、無い、と思いますけど……」
「その割には随分と言葉に自信が無いね」
「……」
私の言葉に、彼女も多少なりとも自覚があったようだ。それ故に、歯切れが悪くなっている。彼女は猪突猛進だけれどバカではない。だからこそ、自分が今元々広くなかった視野がさらに狭まっていることに何となく気付いているのだろう。そうでなければ、こんなに歯切れの悪い回答はしない。
「君たちの関係性は君たちが決めることだ。アドバイスも手助けもするけれど、最終的には二人にしか決められない。それを踏まえたうえで敢えて言うけれど、あまり余所見ばかりしていると、目の前にいる存在の姿を捉えられなくなるよ」
「それ、は……」
「本当なら、進路の話について一度しっかり話を聞こうと思っていたのだけれど、今の状態で話しても意味が無いだろうからやらないことにした。まず、君は自分が見るべきモノをしっかり見つめなさい」
「それは、秋子のことですか?」
「それも自分で考えなさい」
近すぎるがゆえに、自分の輝きに気付いていない吉沢さんと同じように、高坂さんも近すぎるがゆえに彼女の輝きに気付いていない。長い人生の中で非常に得難い出会いをしているというのに、その存在をおざなりにして、甘えている。高坂さんにとっての吉沢さんは、黒江さんが求めてやまない一生モノの友達そのものだというのに。それに気付いていないのだ。このままではすべて失うことになる。だから、私はヒントは出した。けれどここからは自分で考えないといけないだろう。そうでなければ、吉沢さんがあまりにも報われない。
「いいね?」
「……はい」
あまりよく分からないので不満です、と顔に書いているけれど無視して私は立ち上がった。トレーの上のお皿が少し音を立てる。その不協和音は今の二人を象徴しているようにも聞こえた。
三日目の練習は凄まじい速度で進んでいく。撤収時間も決まっているため、残された時間は多くない。時間は高校生にとっては味方ではないのだ。第二楽章と第四楽章は合宿の中では比較的少なめに取り扱われていたので、今この時間を使って一気に詰めている。そうすることで全体のレベルの均一化に少し近付くのだ。ムラの解消は今後関西大会までの期間を使って続けていくことになるだろう。
練習が終わるころには、部員の大勢が疲れ切った顔をしている。川島さんや黒江さんのような普段は疲弊の色を見せない部員も、僅かに疲れが浮かんでいる。それほどまでに集中力を消費するのがこの練習時間だった。
「いや~、何とか終わって良かった。ボク、今回の合宿で全部終わらせるのはちょっと無理かもって思ってたからね、時間的に」
「ねじ込んだ甲斐がありました」
滝先生は汗を拭っている。ずっと指揮をしないといけない先生も、かなり体力を消耗する。何度も何度も繰り返し演奏するその練度は、曲によってはプロを上回るとも評されるのだ。
「取り敢えず、大体は何とかなった。ここからはどこまでクオリティーを上げて行けるかが勝負の分かれ目だね。関西大会本番まであと二週間くらい、明工とか龍聖を相手にするには相当気合を入れて行かないと」
「今年は明静工科高校の自由曲が『ダフニスとクロエ』、龍聖学園高等部が『滅びゆく島の幻想曲』でしたっけ。被らなくて良かったですね」
新山先生が微笑む。東照は『眠るヴィシュヌの木』だ。ヴィシュヌはヒンドゥー教の神の名前である。秀塔は私の曲。強豪は大体どこも被りが無い。調整したわけではないのだろうが、随分とバリエーションに富んだ自由曲のラインナップになりそうだった。
「皆さん、練習は終わる予定ですが、桜地先生からこの曲の表現に関して大事な話があるので、聞いてください。では、お願いします」
「分かりました」
私は先生と交代し、指揮台に立つ。五十五人の視線が私に向けられた。そこにあるのが敵意ではないことが、これまでの努力の成果なのかもしれない。
「これまでの練習お疲れさまでした。まだまだ足りない所はありますが、確実に上達していると思います。それは皆さん自身もある程度実感しているところだと思います。しかしながら、それは技術面だけの話。表現の面では進化が少ない。橋本先生が昨日お話しされた通り、ピリピリとしているだけの無感動な曲に仕上がっています。ハッキリ言ってつまらない!」
私の言葉に、そこまで言うの? という顔もチラホラ見える。実際問題、つまらないのだからこれ以外に形容のしようが無いというのも本音だった。ただし、大多数はこの後にどういう言葉を紡ぐのかを待っている。その気持ちに応えるべく、私は話を続けた。
「この曲はどういうタイトルですか? はい、そこ」
「『一年の詩 ~吹奏楽のための』です」
「そうです。どうもありがとう」
面倒なのでこういう時はいつも妹を指していた。大体スッと応えてくれるので助かっている。
「この曲は、滝先生の先輩が作成された曲だそうです。その方のお父さんが亡くなる前の一年を描いたモノだそうで。それを滝先生の生徒が演奏したらいいなと、そういう話があったという背景があって、今皆さんが演奏しているそうです。それは良いお話だと思いますし、皆さんも知っていて損はないでしょう。でも、こう思った人もいるんじゃないですか? それでどうすればいいの? と。それを知っても表現に活かせないよ、と。安心してください。ここからが本題です。今言った通り、この一年は作曲者にとっては亡き父親との一年ですが、そんなの皆さんにははっきり言って関係ない!」
作曲者の想いは知っておくべきだとは思う。ただし、それをそのまま演奏するなんて難しいことはしなくて良い。プロは演奏にどんな感情でも乗せられる必要がある。悲しい曲なら悲しみを、嬉しい曲なら嬉しさを観客に届ける必要があるからだ。別に演奏者まで喜怒哀楽を覚えなくても良いが、届けられるようにはしないといけない。ある意味では感情のコントロールだ。
けれど学生は違う。真っ直ぐに、自分の気持ちを乗せた方が学生の音楽は響く。不安と希望の間に揺れ動くこの時期だからこそ奏でられる演奏を届けることが、観客の心を打つ最善だと私は思っていた。
「ですから、この一年を皆さんの一年と置き換えてください。副題に吹奏楽のための、とありますが、皆さんにとって吹奏楽はほぼイコールで吹奏楽部での日々だったはずです。要するに、この曲に皆さんが乗せるべき感情は、皆さんがここで、或いはこれまでで過ごした吹奏楽部での日々の記憶です。長短はありますが、それでも必ず記憶はあるでしょう? それを乗せて演奏してください」
春夏秋冬を描いたこの曲には、幾つもの山や谷がある。それは感情の喜怒哀楽とも結びつけることが出来るはずだ。曲の中に込められた儚さや脆さは、これまで部員の経験してきた悲しみや辛さで置き換えることが出来るだろう。
「特に三年生、中核となるあなた達が演奏を引っ張ってください。去年の演奏を知っているあなた達なら、出来るはずです。それでももし、皆さんの演奏がさして変わらないなら、私は皆さんに伏して謝罪をしないといけない! なぜならば、それはそんな無感動な日々しか皆さんに提供できなかった指導陣の問題だからです。ですが、私がそれをする必要が無いと、私自身が良く知っています。なぜならば、私も去年まで皆さんとともに日々を過ごしていたから。無感動とは程遠い時間であったと、身を以て知っているからです」
学年の全員がメンバーになっている三年生は、様々な喜怒哀楽を経験してきたはずだ。それは黒江さんとって同じことだと思っている。北宇治の記憶は短くとも、そこでも感情の動きは幾つもあったはずだ。それに、清良でも無感動な日々などではなかっただろう。
「それは何も楽しい記憶だけに限った話ではありません。これまでの部活生活の中で、辛い事も苦しい事もあったでしょう。思い出すのも苦しいような出来事が沢山あったはずです。叶わないと絶望して枕を濡らした日も、悔しいと夜の街を走ったことも、もうダメだと諦めそうになったことも、追いつけない相手の背中を見続けることに血反吐を吐くような感情になったことも、相手と自分を比較して嫉妬に狂いそうになったことも、責任に押しつぶされそうになったことも、去り行く友の背中を見送るしか出来なかったことも、上手く振る舞えない自分に苛立ったことも、何よりそんな自分が一番嫌だったことも! それを全部出しなさい。自分の愚かさや痛みと向き合うのは苦しいでしょうね。それでもそのマイナスな記憶も、全部吐き出してぶちまけて、曲に乗せるのです。その記憶だって、今のあなたを形作っているものだからです」
一年の詩。一年とは決して楽しい事ばかりではない。私だってそうだ。嫌だと思うことはよくあるし、苦しかったり虚しかったりする日もある。そういうモノだ。そこから目を背けてはいけない。
「綺麗な記憶だけ語るのは簡単です。でもこの曲は一年の詩だ。皆さんの一年は、そういうマイナスな感情も沢山存在して、その上に成り立っているはずです。うわべだけ取り繕って、綺麗なモノだけ見せるよりも、汚くとも醜くとも足掻いた軌跡を見せる事の方がずっと心に刺さるはずだと、私は信じています」
なぜならば、審査員も観客も、かつてはそういう日々があっただろうから。青春時代という遠い記憶の中で美化できなかった黒い思い出。それを掘り起こされるのは苦痛かもしれないが、それでもやるのだ。必ず、相手の心に届けるために。彼らが観客に届ける苦難や悲嘆は、かつて観客が歩んだ道でもある。
「しかし苦しみだけで終わってもいけない。最後には、希望を謳わなくては。不安と期待がない交ぜになった春。痛みに押しつぶされそうだった夏。それでも上を向いた秋。そして歩き出した冬。その先に春がまたやって来る。その先にはまた新しい試練が待っているのかもしれない。それでも行く。そういう風に、最後のソロは奏でられるのです。それを皆さんなら出来ると思っています。何故なら、皆さんは苦しみを知りながらそれでも諦めなかった。まだまだだと立ち上がり、諦められないと顔を上げ、もう一回と足を踏み出して、涙を拭いながら走り出した。そんな皆さんだからこそ、奏でられる一年の物語があるはずです」
苦しみを見せられた観客に届けられるのは、泥の中にある輝き。泥まみれの王冠の放つ、確かな光だ。それは涙に濡れているかもしれない。それでも、パンドラの箱に残った最後の希望のように、光ながら輝いている事だろう。闇の中から見える灯り。それを見せつければ、北宇治の勝利は固い。
そしてそれが出来るはずなのだ。今の三年生は北宇治の成長に伴って発生した痛みを一番よく知っている世代である。だからこそ、奏でられると思っている。この部そのものが、暗闇の中でも前に進み続けてきたのだから。何が正しいのか、今この瞬間であっても、誰も分かりはしないだろう。けれど彼らは、迷いながら、まだ諦めてはいない。不満も不安もあるけれど、歩くのをやめようとはしていなかった。
「そのプラスマイナス全部混ざった記憶を、一年を、全てこの曲に込めて放ってください。それぞれの記憶や想いで構いません。向いている方向が同じなら、目指す頂が一致しているなら、それは必ず一つの音になるのですから。特に三年生! あなた達の三年間を全てぶつけなさい。これが私たちの一年、いや青春だ、吹奏楽だ! と見せつけるのです。皆さんの魅せる暗闇と光、そして皆さん自身の音楽を、吹奏楽を楽しみにしています。以上、長々と失礼しました」
私の話は一応部員には届いているようではある。理解はしやすいだろうし、一定数の方向性は示せたはずだ。どうしても楽しい音楽、嬉しい音楽を奏でたくなるし、綺麗な部分だけを見せたいというのも納得できる。それ故に、多くの学校もそういう演奏にするだろう。実際、秀塔大でもそうした。しかし、北宇治は他の学校とは違う経験をしてきた三年生が中核をなしている。ならば、独自のアプローチがあっても良いと思うのだ。
どうせ空気は暗い。マイナスな感情なら、よくよく身に染みて理解できる事だろう。
「という事で、時間はギリギリですが、最後に一回だけ通します。今言ったことを意識してください。先生、すみませんがお願いできますか?」
「分かりました。準備してください」
部員たちが楽器を構える。それぞれの中でイメージを固めてくれることを期待して、私は先生が指揮棒を振り下ろすのを見た。
演奏が終わり、先生はこちらを見つめる。部員の目線も、私に集中していた。まだまだ粗削りな表現だ。マイナスな感情も乗せろと言ったが、マイナスだけで良いわけじゃない。プラスな部分も出せてはいるが、バランスが悪いのでもっと欲しい。そこはこれから鍛えていけばいいだろう。逆にマイナスな部分は凄く真に迫っていた。絶望や悲嘆がダイレクトに伝わって来る。
部員たちはどこか気まずそうな感じはある。こんなドロッとした感情に塗れた演奏は初めてだろう。奏者自身がそう感じるくらいには効果はあった。何より、先ほどまでの無味乾燥な演奏よりは、どす黒い方がずっと良い。私はそれを確信して、口角を上げる。
「良い演奏になったじゃないですか」
私のそんな言葉と共に、三日間の合宿は終わった。消せない痛みと、消えない火種を抱えながら。