多くの人の混乱と禍根を残したまま、不安定なガラスの台の上に乗りつつ、不透明な未来への不安感を抱えて合宿は終了した。去年までの空気を知っている身としては、どうしてもこのギスギスとした空気には違和感を感じてしまう。これは緊張感とは違う、もっと良くない何かだ。そして、この堅苦しいを通り過ぎた、いわば行き過ぎた鈍重さを良く知っている。まるで地球の重力が何倍にもなってしまったかのような重さ。それはかつて、私が率いていた頃の南中そのままだった。
部長の悩みはまだ晴れないようだ。それも仕方のない事だと思う。自分の感情に折り合いを付けろなんて、中々大人でも難しいのだ。それを十八の高校生にやれ、というのは兄さんも随分と酷な事を言うモノだと思う。それでも必要だと思ったから、そういう方向にフォローをしたのだろう。
兄さんは多分、私が部長と真由先輩なら後者の側に立つことを知っている。そして、その上でそれを咎めはしなかった。私の選択を、少なくとも間違いとは思っていないのだろう。とは言え、部長の苦しみを理解はしてくれと釘を刺されている。部の運営に関しては、部長の敵になるつもりは毛頭ない。そもそも、部長は先代の優子先輩たちが選んだ存在だ。その中には当然、兄さんや希美先輩も含まれている。先輩方の意見に意を唱えるつもりも、その必要性も特にない。
部長は不完全な存在だ。しかし、それは私も同じこと。少なくとも彼女はそのまま停滞していることを良しとはしていない。それだけで、資質としては十分だろう。やれることを、藻掻きながら、心の中に大きな波を抱えつつも行おうとしている。それはよくよく理解していた。問題は多分、高坂先輩の方だ。
「あぁ……疲れた……」
合宿期間後のすぐ翌日から普通に練習がある。今は個人練習の最中だけれど、あまり暑い外で練習する気にもならず、フルートパートは与えられた教室のクーラーをガンガンに動かしながら練習を続けていた。その扉をヘロヘロとした顔で開きながら、疲労を口にしつつ沙里先輩が帰って来る。パートリーダー会議が終わった後なのだろう。
あの合宿で、私は沙里先輩にソリの座を奪われた。それは別にもう構わないと思っている。沙里先輩は正々堂々と勝負して、私が負けた。それだけだ。だから私たち二人の間には特に禍根も無く普通に過ごせていると思う。悔しさは家で希美先輩に慰めて貰ったし、特に問題ない。沙里先輩は兄さんにアドバイスを貰ったことを引け目に感じているようだけれど、指導者に頼るなんて言うのはごくごく当たり前のことだ。それに引け目を感じる必要なんて、全くない。
「どうしたの、随分とお疲れみたいだけど」
「え? あぁ……もうちょっと色々あって……」
芽衣子先輩の問いかけに、ぐったりしたような顔で席に着いた。沙里先輩がパートリーダー関連の諸々でここまで疲弊しているのは見たことが無い。基本的にフルートパートはそこまで人数が多いわけではない上に、比較的上手くまとまっている方だと思う。内部でもギスギスしている低音や、人数が多すぎてパートリーダーの手に余る状態になりつつあるサックス等に比べれば相当上澄みにいるだろう。
「ごめん、あんまり良くないんだけどさ、これだけは愚痴らせて。どうやってモチベーション維持していくのかって話をしてる時に、やらない子は放置とか言わないでよ……。まったく建設的な議論にならないんだけど」
誰がそれを言っているのか、想像するのはあまりに簡単だった。私自身の気持ちとしては沙里先輩と同じ部分が大きい。やらない子は放置、というのはあまりにも短絡的かつ近視的な見方だろう。その「やらない子」もいずれは三年生になって、部を率いるメンバーに加わっていく。そういう時に、大きな分断を生む可能性がある。来年以降の事を全く何一つ考えず、今年だけ良ければそれでいいというのなら、高坂先輩の考え方もアリだとは思う。しかし、それは組織人として、何よりそのトップにいる幹部として絶対にしてはいけない思考だ。
困ったことに、高坂先輩の利益だけを純粋に考えると、今年だけ良ければそれでいい、という考えも間違いではなくなってしまう。なにせ、高坂先輩は今年で卒業。自分が栄光を残して去れれば万々歳とも言える。嫌な考え方かもしれないが、今回全国金を獲って、それが空前絶後の記録、つまりは来年以降獲れなかった場合高坂先輩は伝説の代となるだろう。必然的にそれを率いていた一人で、音楽業界に残るであろう高坂先輩の名誉も……ということだ。まぁ多分そこまで考えてなどいないだろうけれど。
個人的な感情としては、放置などと言われると腹立たしい。あなたが楽しく兄さんの教えを乞うている間、私は必死にB編成組の指導を行っているのですけどね、と思ってしまった。そこでひらめく。ここは逆にこの状況を利用できるかもしれない。現在B編成は放置気味になっている。高坂先輩も秋子先輩も自分のことで手一杯だろうし、部長も余裕がない。他のパートリーダーも同様だ。居残りするB編成組はその空気感をよく理解している。そこで真由先輩を投入すれば、B編成組を地盤にすることが出来るかもしれない。
「秋子ちゃんも今日は高坂さんを止めないし……どうしちゃったのかな、色々。……はい、ごめんね、愚痴タイムは終わります! 練習練習。関西大会まであとちょっとしかないからね~」
「「「は~い」」」
沙里先輩の言葉に導かれて、皆各々の楽譜に向かい合う。私も自分の楽譜に視線を落とした。ソリのところが目に入ってしまう。どうやって吹けばいいのか、分からないなりに試行錯誤していた時期の迷いが、ペンの跡から読み取れる。今はもう必要のない言葉たちが書かれた楽譜を私は少しの間見つめていた。
「涼音ちゃん」
「はい、なんでしょう」
いつの間にか横に来ていた沙里先輩が私に話しかけている。教室の中は各自の出す音とエアコンの音のせいで私たちの周りの音しか聞こえない。多分、ここでの会話は他人に聞かれていないだろうし、聞こえていたとしてもごく一部だけだと思う。
「今ね、この部活って多分、凄く危うい均衡の上に成り立ってると思うんだよね」
「……ですね」
「色んな考え方とかがごちゃごちゃになってて、誰がどういう考えを持ってるのかもよく分からない。色んな対立軸があるしね。今日のパーリー会議でも、意見は割れたし。塚本君とかは、高坂さんには反対してた。でも、オーディションの結果そのものとか、そもそもオーディションを三回やること自体には……どうなんだろうね。よく分からないかな。部長も高坂さんも色々ごちゃ混ぜになってるんだと思う」
「はい」
「私の勝手な想像だけど、さっき私の話を聞いてた時の涼音ちゃんの顔から察すると、高坂さんには反対なんだよね?」
「そう、ですね。やらない子は放置するっていうのは簡単ですけど、それはあまりにも短絡的だと思います。そういう子をどうやってモチベーション維持してもらうか、の方が建設的なのに。会社とかならやらない人は放置でも良いと思いますけど、そうでもないのにまるでやることが当たり前かのようにするのはおかしいと思います。部活は労働じゃないですし、そんな状態で自分の感情のコントロールなんて、中々出来ないですよ。そもそも高坂先輩だって出来てないんですし」
「それで、オーディション三回制には?」
「その制度自体に罪はないと思います。運用方法と決め方に問題があった上に、実行する側に覚悟が足りなかっただけで。三回制を導入しておいて、自分だけ安全なゾーンにいるなんてことは不可能ですし」
私はちゃんと聞いた。誰もが自分の未来を心配する中で、私はちゃんと聞いたはずだ。運用していく際の覚悟はあるのかと。この制度は幹部が勝手に考えた制度だ。そうである以上、誰かに責任転嫁することは出来ない。絶対に問題は起こるだろうし、その当事者が部長ではないという確証などどこにもない。そういう部分をもっと明け透けに説明しておくべきだったのだろうか。けれどあそこでは真由先輩のフォローもしないといけなかった。そこでそんな事を言ってしまえば、部長と真由先輩の対立軸を私が作り出したことになってしまう。
「なるほど。そっか……うん、分かった。これから高坂さんと涼音ちゃんはどっかでぶつかると思う」
「……あまり好ましくない未来予想ですね」
「うん、ホントはね。でも今更面と向かって、一対一で話しても解決しないだろうし、そもそもそういう事が出来てたらここまで来てないと思うし」
「……」
「パートリーダーとして、三年生として、本当は止めた方が良いんだろうなぁとは思う。けど、多分それで止まるなら楽だけどそうはならないよね。だから、その時は思いっきりぶつかってきて」
「……え?」
「涼音ちゃんは、自分の考えと信じる正義に従って。高坂さんとぶつかることが、涼音ちゃんの正義ならそうすればいい。それが部のためになるって考えてるなら、それでも構わない。桜地先輩は多分、こういう時の治め方を知ってるよね。問題を解決する方法も知ってる。だから桜地先輩を頼るのが一番手っ取り早いとは思うけど、それじゃあ来年以降に繋がらない。私たちは私たち自身の手で、問題を解決して行かないといけないんだ。桜地先輩や滝先生が魔法みたいに夢を見せてくれる時間は終わったんだと思う。十二時の鐘が鳴ったら、魔法はもうおしまいでしょ?」
その言葉は、三年生としてあまりにも意外だった。私と沙里先輩の関係性は良好だと思っているけれど、普通は同期の方を優先するモノだからだ。しかも相手はただの同期ではなく、カリスマ性を持った同期でもあり、先輩を追い落としてソロになった北宇治躍進の象徴ともいえる存在。それでも私を優先してくれたというのは、驚くには十分な理由だった。
「色んなことに納得できる人と、そうじゃない人がいる。その溝の埋め方を、私は知らない。私たち三年生は、オーディション三回制を経験した人はいるけど、運営した人がいないんだよ。だから、運営した人の知見は絶対必要になる。高坂さんはもっと涼音ちゃんを運営に参加させるべきだった。パートリーダー会議にも呼んでさ」
「私は、二年生ですから」
「桜地先輩だって二年生の時に指導者やってたよ? 今の北宇治で、一回でも全国金を獲らせた部長は涼音ちゃんしかいない。それを活かせないなら宝の持ち腐れだと思ってる。という事で、まとめるとね、涼音ちゃんはその知見とか、考えとか、信じるモノに従って高坂さんとぶつかってもOKってことが言いたかったんだ。せめてフルートパートだけは、涼音ちゃん徹底支持でまとめるから。他の三年生とかパートのことは気にしなくて良い。何を言われても、何をされてもここは絶対に味方だし、帰る場所でい続けるよ。桜地先輩にとってのトランペットパートみたいにね」
「ありがとう、ございます」
自己主張の強い人があまりいないクラリネット、二年生の剣崎さんがパートリーダーだからか発言権が弱いダブルリードと比べれば、フルートの発言権と影響力は大きい。何となくある木管と金管の意識の差みたいなところを考えれば、クラリネットとダブルリードも緩やかな支持母体に出来るかもしれない。少なくとも、自分を絶対的に指示してくれる地盤があるだけで本当にありがたい事だ。
高坂先輩とぶつかるとしても、どうしても年功序列の壁は立ち塞がる。それをどうにか出来る可能性があるとすれば、それは兄さんのように地盤を作る事。そう出来れば、土台がしっかりした状態で戦える。秋子先輩が不鮮明な態度になっているせいで地盤が揺らいでいる高坂先輩や、地盤がガタガタの部長に比べれば有利な条件とすら言えるかもしれない。
「ごめんね、本当には私が戦ってあげられたら良かったんだけど、全部涼音ちゃんに任せちゃってる。見えているモノも、出来ることも少ないし。後輩に全部丸投げしちゃう弱いパートリーダーでごめん。だからせめて、居場所になりたいんだ」
「いえ、十分です。自分に帰る場所がある。それだけで、十分です」
沙里先輩は一瞬だけ、ほんの少し悲しそうな笑顔を浮かべた。そこに込められた感情を読み取る前にその表情は元通りに戻ってしまう。どうしてそんな顔をしたのか。私には推察できるほど、読心術に長けていない。高坂先輩との戦いを後輩に投げてしまうことへの罪悪感や後悔? 自分への不甲斐なさ? それとも……。その答えはよく分からないままだ。もしかしたら、先輩本人も無意識だったのかもしれない。
「じゃあ、練習しよっか」
「はい」
沙里先輩がこういう話をしてくるという事は、多分Xdayは近いんだと思う。ダムは決壊寸前でどうにかギリギリを保っている。修復者であった部長は今稼働率が悪い。出来るはずの兄さんは、現役生に任せている。私にこの巨大な溢れそうになってるダムを直すことは出来ない。出来るとすれば、まだマシな壊し方をすることくらいだろう。それでも出来ることをやっていく。自分に対して向けられている信頼に応えるために。
夕暮れの廊下に、軽快な音が流れている。吹奏楽部の演奏ではない音楽がこの学校で聞こえている時、その発生源は大体一つだ。それはすなわち軽音楽部。彼らが使っている空き教室の近くを通れば、大体演奏の音が聞こえてくる。ギターやドラムのサウンドは、吹奏楽には存在しないものだ。
吹奏楽部と軽音楽部の交流は微妙というのが正直なところ。同じ音楽系の部活ではあるが、特段仲が良いわけでも無いのだ。部員の数では前者が圧倒的に多いし、方向性も全く異なっている。その辺があまり交流が無い結果に繋がっているのかもしれない。今日も今日とて、楽しげな音色が教室から漏れていた。
「お涼、何してんの?」
「いえ、ちょっと通りかかったので……」
後ろからかけられた声の主は、振り向くまでもなくすぐに分かる。私の事をこう呼ぶのは揚羽ただ一人だ。既に全体練習は終わり、居残りの時間になっている。今日は真由先輩も参加してくれるという事で、その手配等々を済ませて私も向かおうとしている最中だった。部長や高坂先輩は先に帰ってしまっているので、私が今日もメインで指導担当を担うことになるだろう。兄さんも来てくれるようだが、打ち合わせで少し遅れると言っていた。その時に軽音部の教室の前を通り、なぜかそのサウンドから耳を逸らせなくなっていたのだ。
「あ、さてはウチらの軽音に入部希望? それなら大歓迎!」
「それは今は特に」
「え~、つまんないの。てか、吹部の夏休み予定ぎちぎち過ぎじゃない? 全然会えないじゃん」
「その台詞は部長か滝先生に言ってください。私だって休めるなら休みたいですけど……」
「それ、大丈夫なん? 今話題のブラック部活とかになってない?」
「……否定はしづらいところですね」
「ほらぁ」
何を以てブラック部活というのかは分からないけれど、今の状態がホワイトなのかと聞かれた時にイエスと言えるほど私は厚顔無恥でもお花畑でもないつもりだ。
「だからお涼もそんな疲れ果てた顔してるんでしょ?」
「そんなに疲れ果ててますか?」
「う~ん、傍から見てると普通に見えるんじゃない? でも漏れ出てるオーラとか声がね。ウチらの長い付き合いならこれくらい読めるって」
「長いと言ってもまだ一年半ですが」
「それだけあれば十分だって」
そういうモノなのだろうか。私にはよく分からない。彼女が他人の内面を見る能力に優れているのか、或いは私たちの相性が良かっただけなのか。どちらにしても、私は随分と疲労しているらしい。昔から自分が疲れているのかどうかはよく分からないことが多かった。痛みに無頓着であるつもりはないけれど、痛くても進んでいけてしまう性質。誰かがそんな風に言っていたのを思い出す。
「吹部、揉めてんの?」
「……」
「まぁまぁ、話してみな」
「色々ありまして、まぁ、その色々と……」
彼女の促すままに乗せられて、何となく全部ボロボロと話してしまう。部内の人には言えない話だ。部外の人相手だからこそ、自分の考えや意見も含めて全てを話すことが出来る。部長と真由先輩の件、オーディションにおける諸々、吹部内に蔓延り始めた滝先生への不信感。そういう抱えた問題を洗いざらい私は告げてしまった。私の言葉が終わった後、揚羽は少しの間沈黙した。その賢さを多弁に回している彼女にしては珍しい沈黙だった。
「随分こんがらがってんね」
「はい。色々な考えの人がいるので当然ではあるんですが。派閥分けみたいな簡単な話でもありませんし」
「だね。ウチの勝手な推測だけど、吹部には今二つ問題がある。おっきな、根底部分の問題ね。一つ目は全国金賞を獲るための手段が今のままで正しいのかって言う問題。二つ目は、そもそも全国金を獲るっていう目標がそれで良いのかっていう問題」
「なるほど?」
「要するにアレっしょ、手段と目的の話。例えたら、ユニバ行くのに電車で行きますか、車で行きますか、バスで行きますかって話が一つ目で、二つ目はそもそもユニバじゃなくてディズニーの方じゃなくて良いん? みたいな話よ」
「あぁ、そういう……」
「二つ目の方が重要かもね。だって、二つ目ががっしりしてるからこそ、方法論の議論が出来るわけじゃん。目的地がハッキリしてるから、じゃあこの電車で行った方が早いとか、車の方が安いとか、直行のバスがあるからそっちに乗った方が楽とか、そういう話が出来るんでしょ? でも目的地がそもそも間違ってたら、方法論の議論なんかしてもなーんもならないじゃん」
「今の吹部は、方法論だけではなく目的地まで揺らいでいると?」
「あくまでウチの意見だけどね」
高坂先輩が締め付けようとしているのは、全国金を獲るための方法としてだ。高坂先輩は目的地は何も揺らいでいると思っていない。だからずっと方法論ベースで話している。けれど、パートリーダー会議の中には目的地に疑義を呈する声も僅かだが存在しているようだ。無論、本人がそれを意識しているのかは分からないけれど、意見を詳しく掘り下げていくとそこにたどり着くものもあるはず。
締め付けて、これくらい当たり前にしないと全国金を獲れない。それは正しい主張なのかもしれない。尤も、その正しさは目的地が正しいからこそ担保される方法論の話だ。全員で決めた全国金。しかし今年に限ってはそうでは無い。真由先輩はあの時いなかった。つまり、真の意味で全員ではない。それに、全員で決めたからと言って変えてはいけないなんて理由はどこにもない。会社で決めた目標だって、状況に応じて変更することだってある。それは敗北でも逃亡でもないはずだ。
「高坂センパイはあれだね。滝先生が電車で行くって言ってるから電車にしてるんじゃない? 本人はもしかしたらバスとかの方が良いと思ってるかもしれないけど」
「どうでしょうね。高坂先輩が滝先生の思考に疑問を覚えるとは、あまり思えませんけど」
「そう? ウチはむしろ逆に思えるけどな」
「どうしてです?」
「だって近くに桜地センパイいるんでしょ? てことは、桜地センパイが滝先生と違う事言ってた経験だってあるんじゃない? その影響を一番受けてるのは高坂センパイっしょ。ウチの想像だけど、滝先生の事一番信じらんなくなってるのって、実は高坂センパイなんじゃない?」
「そんなことは……」
無い、とは言えないだろう。兄さんからも、滝先生関連で二年生を指導しようとしたという報告を受けている。二年生の代表が私だから話を通してくれたらしい。それはともかく、滝先生の方針を疑った生徒を指導しようとしたのは、自分が信じたいから。今はまだ葉加瀬さんとかの声の大きい人の意見かも知れないけれど、それが一般論になった時、自分では説得もねじ伏せることも出来ないくらいのド正論を突き付けられる可能性もある。
そうなった時に、高坂先輩の心中はどうなってしまうのか。これまで滝先生を信じてきた。滝先生の決定が、高坂先輩の活動の支えになっていた。滝先生を信じ、その判断を信じてきたからこそ村八分みたいになりかけた再オーディションの時も毅然とした態度でいられた。そこにはきっと色んな感情があるのだろう。その中には多分、恋情も。だからこそ、自分のアイデンティティのようなものが崩れるのを防ぎたい。その防衛本能があの過剰さなのかもしれない。まるでハリネズミのように。
では、彼女も頑張っているのだから、苦しんでいるのだから他の生徒への指導を見逃せるか? と聞かれればイエスになるはずがない。苦しんだことも、迷ったことも悩んだことも、彼女が正しい事の証明にはならない。
「滝先生を信じるって、簡単だし美しい答えだよねぇ。思考放棄って楽だし、実際悪くはないと思うよ、ウチはね。滝先生が正しいんだから全部それに従っておけばいい。なんならちょっと疑問はあるし、おかしくねって思うこともあるけどそれは周りとか自分が間違ってる。そうやって無理矢理どうにかすれば、細かい事考えなくっていいし、迷わないしね。まぁそれはただの宗教じゃんって話だけど。そのうち十字軍とかやらないと良いんだけどな。あぁでも異端審問は始まってるか……」
「高坂先輩は、考えてないってことでしょうか」
「まぁ一応考えてはいるんだと思うけど。考えた末にたどり着いたのがこれじゃどうしようもないけどさ。高坂センパイは考えた末の結論でも、他の子にとってはそうじゃないこともあるでしょ? お涼はその点一番ちゃんと考えて滝先生の
揚羽は随分と口が悪い。そんな事を聞きながら思った。それでもまだ大分オブラートに包んでくれている方なのかもしれない。これが全開放フルバーストで放たれたら並みの人なら泣いてしまうかもしれない。何より見た目がまず強そうなのに加えて、その見た目からは裏腹の凄くしっかりした分析に基づく確かな指摘が飛んでくるのだ。彼女は実家を継ぎたくないと言っているけれど、才能はあると思う。
「自分の正義が相手の正義とは違う事もあるって、普通はもっと早く気付くんだけど。何してたんだろうね、昔の高坂センパイ」
「そこまで言いますか……?」
「ウチの友達が悩む原因になってる人なんだから、仕方ないじゃん。それにウチは高坂センパイの事別に好きでも何でもないし」
「そ、そうですか」
「そうだ、暗い話はこれくらいにしてさ、ちょっと寄ってかない? ウチらの演奏聞いてよ」
「ですが、いきなり部外者がお邪魔するのは……」
「いいのいいの、吹部と違ってゆるゆるだし」
「……でしたらそうですね、お言葉に甘えて、少しだけ」
約束の時間まではまだ少しあったし、軽音部の実態は全く知らなかったのでちょっと興味があった。彼女の誘いに乗って、教室の中に足を踏み入れる。中には三人の女子が各々の楽器を持って話している。顔と名前は知っているメンバーだった。同じクラスの人はいないけれど、揚羽の友達なので一応把握はしている。多分向こうも同じ状態だろう。
「あれ、桜地さん?」
「お、ホントだ」
「七組のプリンセスじゃん」
「こんにちは、お邪魔します」
プリンセスって何? と思いながら私は頭を下げる。私は確かに歴史のある家の生まれたけれど、王女だったことは一度も無い。私にもしそれっぽい称号を使うならViscountだと思う。もう既に華族令は廃止されて久しいけれど。
「お涼が廊下で黄昏てたから誘っちゃった。ちょっと演奏聞いてもらおうと思って」
「お、いいね」
「吹部の子に見せてやるか、私たちの演奏」
「そうそう。音楽室全然貸してくれない吹部の子をちょっとくらいビックリさせたいよね」
バンドリーダーは揚羽らしい。彼女の号令で三人は一斉に動き出して楽器を構える。私は用意された椅子に一人座った。見方によっては凄く贅沢な状況なのかもしれない。なにせ、私一人のために演奏してくれるというのだから。
「1、2、1234!」
ドラムスティックがリズムを刻み、そして演奏が始まる。軽快なメロディーと跳ね回る音符。そして紡がれる歌。吹奏楽とはまた違った音楽が奏でられていた。ドラムはやや走りがちだし、ベースも大分アレンジが多い。ギター兼ボーカルの揚羽も割と好き勝手やっているように見える。キーボードは比較的楽譜通りに思えるけれど、要所要所に拘りが見えた。こんな好き放題の演奏をした日には、滝先生に呆れられてしまうだろう。
けれど、今この場にある演奏は自由なようでいてどこか一体感があった。バラバラという印象は全く受けない。むしろ、団結しているようにすら思える。楽器も音楽も違うけれど、多分絶対的な完成度とか楽器の上手さで言えば吹部に軍配が上がるだろう。でも楽しさとか、お客さんの満足度で考えた時に吹部は本当にこの演奏に勝てるのだろうか。
何よりも、演奏している四人の顔はとても楽しそうだった。真夏の教室で、冷房は付いているけれどそれを遥かに越す熱量で、彼女たちは演奏している。額には汗が滲んでいるけれど、全くそれを気にすることはない。自由に、楽しそうに、自分達の音を奏でている。彼女たちは勝ちたいから音楽をしているわけではないのかもしれない。彼女たちは好きだから、音楽を愛しているからやっているのだ。音楽を愛しているからこそ、音楽は彼女たちを愛してくれる。その相互性の末に、今の四人の姿はある。
目を離せない。耳をふさげない。私たちには無い何かが、確かにこの空間の中にはあった。私たちが失ってしまったモノ、あるいは失いそうになっているモノ。その答えは、ここにあるんじゃないだろうか。音を楽しむと書いて音楽。橋本先生はそう言っていた。色々な事があっても、最後は前を向いて歩いていく。その苦しみや悲しみとその果てにある希望。兄さんはそう言っていた。その全部はここにある。毎日必死に食らいついている吹部よりも、緩くやっている軽音の方がよほど音を楽しんでいる。音楽をしている。翻って私たちは何なんだと、少し虚しさすら感じてしまった。
演奏は終わる。熱狂と興奮は教室の中に渦巻いているようだった。私は大きく手を叩く。その音はきっと彼女たちの演奏に捧げるには小さく弱すぎるけれど、精一杯の大きさで。少し荒い息をしながら、揚羽の視線が私を射抜く。そしてその口角を上げながら、私に告げた。
「音楽って、もっと自由だぜ」