音を愛す君へ   作:tanuu

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前半部分の裏で部長失格橋があります。


第ⅩⅩⅨ音 手術

 「音楽ってもっと自由」。揚羽のその言葉は私の中で渦巻いていた。音楽は本来、楽しくて、喜ばしくて、もっとやりたくてやるモノなのだろう。本格的に仕事としていて、それで生計を立てている兄さんのようなプロでも、思うところは色々あるかもしれないが、音楽そのものが嫌いであるとは思っていない。プロですら、音楽を好意的に捉えている。

 

 翻って、私たちはどうだろうか。私たち吹奏楽部はどうだろうか。楽しさ、喜ばしさ、そして自由。そう言った本質的な部分を、私たちは持っているのだろうか。経験しているのだろうか。答えは考えるまでも無く否だった。北宇治の吹部の全てがダメだとは言わない。去年のアンコンは競いつつもそれなりに皆楽しくやっていた。けれど少なくとも、今の状況をプラスに捉えている部員はいないと思う。

 

 色々な考え方があるし、現状に対する捉え方は大同小異あるだろう。けれど楽しいとか嬉しいと思っている部員はほとんどいないのではないか。思想思考とは関係なく、今の北宇治の状態は間違いなく最も自由からは対極に、楽しさの対岸にある。けれど、まだ決定的な破却はしていない。私と高坂先輩がどうなろうと、部自体は大丈夫のはずだ。精神的支柱にいる部長はまだ、ギリギリで踏みとどまっている。部長が大丈夫の間は、部も壊れない。

 

「自由、か……」

 

 私に急に降って与えられたモノ。それが自由だ。それまでは決められた道を歩めばよかったし、それ以外のことはあまり考えないで良かった。勿論どの学校に行くとか、どの部活に入るかくらいの自由はあったけれど、それは将来定められた場所に向かう途中にある小さな分岐点に過ぎない。けれど、その定められた場所は急に消滅した。私の将来は今完全な自由になっている。

 

 自由は苦手だ。決まっている人生から急に放り出されても、どうすればいいのかもよく分からなくなっている。自分のやりたいことをする、という風に一応方針を作ってはいる。なので、一応私も自由に適応できつつあるのかもしれないが、イマイチ実感はなかった。私はやりたくて、今の仕事をしているはずだ。けれど、時々それが正しいのか不安になることがある。不安を無視して突っ走れるほど、私は能天気じゃなかった。

 

「真由先輩、お待たせしました」

「ううん、大丈夫だよ」

「それは良かったです。本日からお願いします」

 

 真由先輩には今地盤が少ない。この後どういう展開になるのかは分からないけれど、何かあった時のために真由先輩の地盤はあった方が良い。普段は別に表に出す必要なんかないのだ。いざという時に有効に機能してくれればそれでいい。沙里先輩がフルートをまとめてくれるなら、沙里先輩が梯子を外さない限り私は万全に戦える。こんな政治を考えないといけない時点で、自由とも音楽とも程遠い場所にいる気がしたが、現実問題目を背けられないので無理矢理諦める。

 

「お忙しい中申し訳ないです。高坂先輩はどうも()()()お忙しいようですので、私がしばらくの間B編成の居残り組を見ることにしましたが、如何せん人数が多いですから。金管は本職では無いですから、手伝って頂けるだけで大変ありがたく思っています」

「役に立てるかは分からないけどね」

「いえいえ、そんな謙遜なさらずに。私も勉強させてもらうつもりでいます」

 

 居残り組がいる教室の戸を開ける。多くの瞳が私に向けられる。そこに込められている感情がどういうモノなのかは人によるだろう。あちらこちらで噴出する問題は、部内の空気を確実に悪くしている。大多数の一年生はその渦の中で窮屈な思いをしていた。一番立場の弱い一年生がどういう表情をしているかで、部の状態は分かる。私はかつて兄さんにそう言った。その言葉に則れば、今の一年生の表情は決してよろしくないだろう。

 

 二年生も数少ない席を奪いあう都合上、決して良い空気とは言えない。もう諦めムードに入っている人もいた。高坂先輩も部長も色々とてんやわんやになっている。秋子先輩などが様子を見てくれることもあるとはいえ、決して多くはない。見捨てられているのではないか、という疑惑を抱える部員がいる事も事実だった。或いは、自分が三年間B編成で終わってしまうのではないかという懸念を持っている二年生もいる。それを否定できるほど、北宇治の環境は優しくなかった。

 

「それでは早速居残り練習を始めていきましょうか。折角皆さんこうしてわざわざ貴重な時間を使って残っているのですから、少しでも有益な時間にして欲しいと思っています。そのために、本日からしばらく真由先輩にもお手伝いして頂くことになりました。金管を主に見て頂きます。これまで培われた技術や精神性をしっかり学ぶつもりでやっていきましょう」

 

 何とも言えない視線が私に刺さっている。この微妙な空気感にある感情はある程度分かった。ここで練習しても意味があるのか、無駄じゃないのか、どうして高坂先輩が来ないのか。そういう色んな感情が混ざっている。居残り組にいる面々は様々だ。今回のオーディションで落ちた人もいる。その筆頭の久石さんは今日は用事があるらしく欠席だが、これから顔を出すのかは不明である。彼女の場合、もうなりふり構わず真由先輩に教えを請うた方が得策だとは思うのだが、人間そう簡単に動きはしないだろう。

 

「あのさ」

「はい、なんでしょうか深町さん」

「桜地先輩は……来てくれないの?」

「兄さんは明日以降は来てくれるようです。今日は高校時代の友人と会う用事があるようですので。久しぶりに会った同期ですので、すみませんがそれくらいはさせてあげてください」

「じゃあ、高坂先輩は?」

「さぁ? 連絡しても返信が来ないので」

「……そっか」

 

 一応連絡はしたのだが、全然既読にならない。先に帰っているのは知っているのだが、何かしら返事くらい返してくれても構わないと思うのだが。一応普段はもっと早く返信が来たり、何らかのアプローチがあるのだが、今日は何もなかった。何かしらトラブルがあったのか、単純にタイミングの問題で見ていないだけなのか。

 

「高坂先輩がいなくとも、問題ありません。私も指導の経験は少ないですがありますし、これでも二年連続で全国に出た身ですし」

「そこは疑ってないんだけどさ……これ以上頑張っても、何かあるのかなって」

 

 深町さんはそう言って視線を落とす。

 

「どうせ、オーディションは大体固定メンバーでしょ? それに、そのオーディションやったって空気悪いし。どうなっても誰も完全に納得なんかしないあんなオーディション受けて、自分がもし受かっても喜べる気がしないよ。モチベーションなんかもたない」

 

 彼女の言葉は、この場にいる多くの部員の意見を代弁しているようだった。頑張れば切符を得られるはずだった、いわば努力の報酬であったはずのオーディションは今や合格が罰ゲームのような状態になっている。誰かが受かって、誰かが泣く。誰かが落ちて、誰かが怒る。今のギスギスした有り様を見て頑張ろうと思える方がおかしいのかもしれない。

 

 温度差は存在するのだ。真由先輩以外の三年生は大なり小なり全国金を求めている人が多い。けれど、二年生以下にはそういうモチベーションを抱けない人も多いのも事実。優子先輩なら上手く操縦して上向きの空気を作るのかもしれない。かつての私だったら、ガチガチに縛った統治で上を向かざるを得ない環境にしていた。けれど今はそのどちらも無い。どこを向いて歩んだらいいのか分からないと、彼女たちの顔は告げていた。

 

 同時に内心の私は「ほら見ろ!」と高坂先輩に怒鳴っている。放置するとこうなるんだバカヤローと言いたい。今割とギリギリのタイミングだったのかもしれなかった。ここで介入できたのは僥倖だと思った方が良いだろう。真由先輩はジッとこちらを見ている。私がどういう風に告げるのかを、確かめるように。

 

「私は、誰もが完全に納得するオーディションなんて存在しないと思っています。誰かが受かれば、誰かが落ちる。それは、避けようのない事実です。オーディションを止めるならばその限りでは無いと思いますが……その代わりに北宇治は強豪の地位を完全に失うでしょう」

「……」

「私はそれでも構わないと思っています」

 

 その言葉に、教室内の空気がざわついた。真由先輩も目を丸くして私を見ている。

 

「確かに、私個人の感情としては全国金を獲りたい。全国金を獲って、現役時代にそれを為せなかった先代の先輩や、兄さんに見せたい。そういう想いはあります。そのためにこれまで頑張ってきましたし、皆さんの指導をしてきたのも廻りまわって目的のために有益だと考えたからです。それが私のやりたい事でした。ですが、私個人の感情のために、皆さんの幸福を踏みにじるつもりはありません。同じ部にいる以上、技術の優劣は関係ありません。上手い人の願いも、そうでない人の望みも、いずれも同じ一つの願望として優劣はないのです。ですから、皆さんの大多数がオーディションなんか望まないというのであれば、それでも構いません。その際は黙って従うだけです。無論、その前に意見は言いますけど」

 

 願いの重さや大きさに本来優劣なんていない。どんな尊い願いでも、大事な誓いでも、一つの願いは一つの願いでしかない。

 

「私が努力するのは、自分がやりたいからです。その後ろにいるのは、先代の先輩方に誇れる成果が欲しい、彼らの夢を私が叶えたいという想いがあります。その先に何があるのかなんてさっぱり分かりません。というより、誰も分かってないでしょう。けれど、歩き出さない限り何も生まれません。その先に待っているモノがどんなモノかは分かりませんが、良いにしろ悪いにしろ、その正体を知りたいと私は思っています」

 

 自由に迷いながら、私は進んでいる。それでも止まろうとは思わないのは、そういう理由だった。この精神的なストレスの多い仕事なんて、疲れ果てた夜に辞めたいと思う時もあった。けれどすぐにその感情が消えたのは、私にはやりたいことがあったからだろう。

 

「皆さんがモチベーションを維持できないという意見は受け取りました。そのような感情を抱かせてしまったのは私たちの責任です。申し訳ありません。ですが、一つだけここで断言するのは、少なくともどのような結果になろうとも、私は皆さんを守ります。喜べるかどうかは分かりませんが、不利益を被ることが可能な限り少ないように、全力を尽くす所存です。それだけは信じて頂きたいと思います。ですから、どうか諦めないで欲しいのです。まだ何も、終わっていないのですから」

 

 私は真っ直ぐに目の前の部員を見つめる。目を背けてはいけない。彼らの不安や不満や、諦観から目を背けてはいけないのだ。それがどんなに小さな役職でも、やると言った人間の責務だろうから。

 

「私はね」

 

 そこで真由先輩が口を開く。ここで何かを話すとは思っていなかったので、私の方がちょっとビックリしてしまった。

 

「努力は必ず報われるとは思うよ。ただ、自分が望んだ通りの形とは限らないけど。私は自分が楽しく過ごすために演奏してるし、練習もしてるけど、それが自分の思った通りに働いてくれないこともある。でも、きっと最後はハッピーエンドで終われるように、いつも願ってる」

 

 真由先輩が自分の動機とか行動理由を話すのは珍しい。そんな気がした。私の仕事を手伝ってくれているのかもしれない。そのために、普段はやらないことをわざわざしてくれたのだとしたら、感謝しかなかった。

 

「大丈夫、なんて楽観的なことは言えないけど、涼音ちゃんの事は信じても良いんじゃないかな。少なくとも涼音ちゃんは、皆が楽しく部活を過ごせるように、考えてくれてるよ。私はそうだって信じてる」 

 

 私はあなたの味方ですと告げたけれど、それを真由先輩がどういう風に捉えたのかは分からなかった。それでもこういう風に思ってくれたのなら、これ以上ない幸福だろう。自分の想いが相手にしっかり伝わることは、多分伝わらない事と比べれば圧倒的に多い。だからこそ、真由先輩が受け取ってくれたことは喜ばしい事だった。

 

「この状況は必ずどうにかします。どんな痛みを伴おうと、私は必ず解決するべく動きます。ですから、今はもう少し待ってください。今練習したことを、後悔しない環境を作るべく最大限の努力をすると誓いましょう。今までの苦労を無駄にしたくないと思うなら。貴重な青春に、何かを成し遂げたという証明が欲しいなら。私を信じてください」

 

 とりあえずどうにかなった。場の空気や部員の目の中にある感情、表情などからそう感じ取って安堵する。

 

「では、時間が惜しいです。木管は私が、金管は真由先輩が見てくださいますので、指示に従ってください。お願いします」

 

 指示を出せば、素直に従ってくれている。やはりひとまず空気を入れ替えることには成功したと見て良いだろう。しかし油断は出来ない。これも一過性の鎮痛剤に過ぎないと判断する。根本的な病巣を取り除かないと、やがてまた痛みは再発する。やはりやるしかないのだ。病巣を取り除き、部を正常な方向へ向かわせる手術を。伴う痛みもきっと、今の北宇治に必要だろうから。

 

 そして、その運命の日は私の想定よりもずっと早くやって来た。

 

 

 

 

 

 

 

 翌日の練習もどこか重苦しい空気に包まれたまま始まった。殺伐とした、と言い換えてもいいかもしれない。皆胸や腹に何かしらを抱えたまま、というのが適切にも思える。大きくて重たい鎖が私たちを縛っているようだった。それでも演奏だけは上手くなっているのは何ともままならない現実を示しているようにも思える。この鈍重な空気感が皮肉にもマイナス面の表現を付けることに役立ってしまい、増した陰影がこれまでの演奏とは違う上手さを持った演奏を作り出していた。

 

 ただ、それは兄さんの言うところのマイナス部分の話だけ。そこからプラスの方向に持っていくことが、現状難しいのがこの空気感だった。実力者の多くは口を閉ざしている。川島先輩など、一部の実力者が持っている影響力を行使すれば状況が変わる可能性もあったが、結局動いている人はいない。それはある意味で慎重であり、ある意味で鈍重すぎた。だからこそ、火蓋は切られたのかもしれない。

 

「はい、ではコンクールメンバーはこのまま合奏練習です」

 

 高坂先輩はいつもよりやや覇気のない声でそう言った。本当に微妙な変化だけれど、高坂先輩も随分と苦悩の渦中にあるらしい。彼女が一番恐れることが何かは分からないけれど、恐れている事の一つに兄さんに見捨てられることがあるだろう。怒るを通り越して見捨てるフェーズに入ってしまう兄さんがまだ見捨てていないという事は、高坂先輩にはまだいくらでもやりようがあるという事でもある。或いは、それだけ期待されているという事か。たった三年の付き合いの相手に、どうして。そういう想いが存在しないと言えばウソになる。

 

「あの、これからも練習、ずっとこの形で続くんですか?」

 

 それは唐突と言えば唐突だった。声の主はトロンボーンの赤松先輩だった。元は中学時代にフルート奏者だったそうで、フルートパートとはそれなりに交流もある。続いてパーカッションの堺先輩も声をあげる。

 

「オーディションの度に合奏のメンバーが変わるって……」

「それって、本当に演奏が良くなるのかなって」

 

 堺先輩の濁した言葉を受け継いだ赤松先輩の言葉に、高坂先輩の目はキッと厳しくなる。それを見た部長が慌てたように立ち上がった。

 

「今練習中だから、取り敢えず後にしよう? 話は聞くから」

 

 けれど、多分もうそういう段階は終わっている。そういう相談で済む意見なら、わざわざ全員が、それもB編成含めた全部員がいる前で言ったりしない。パートリーダーも務めている赤松先輩なら、部長や幹部に直接言う事だって出来たはずだ。それをしなかったのは、ここで全員を巻き込む必要があると判断したから。或いは、一対一では高坂先輩に勝てないと判断したから。

 

「だよね……」

 

 赤松先輩は取り敢えずそれで引き下がろうとするが、それで済んだらどれだけ楽だっただろう。最前列に座っているフルートパートからは、高坂先輩の顔が良く見える。その顔は、もしかしたら他の部員には怒っているように見えるのかもしれない。実際それはそうなのだろうけれど、私には怯えているようにも思えた。自分の世界が、アイデンティティが破壊されるのを恐れる、そんな臆病な姿に。そしてその恐慌とも言える姿を、私はよく知っている。

 

 目の前にいるのは、鏡映しの自分。だからこそこれは、同族嫌悪なのかもしれない。醜い自分を直視させられているような、そんな不快感。

 

「自分の不満をオーディションのせいにしないでください。分かったうえで進めている事でしょう」

「別に、私は不満なんか……」

「滝先生が大会ごとにオーディションするって決めたわけだし……」

 

 声を挙げた先輩方は、滝先生を批判するつもりはそこまで無いようだ。オーディションに不満が無いというのは嘘になるだろうけれど、久石さんとはまた違った観点の思考を持っている。だからこそやりづらい。

 

「決めたのは、滝先生じゃありません」

「そうなの?」

「提案したのは幹部。まぁ、最終的に判断したのは滝先生だけど」

 

 ここで副部長からオーディション三回制の決定プロセスが発表される。私は前からずっとこういう流れなんじゃないかと思っていた。パートリーダーに全くの相談が無い突然の決定。一方的な通知。絶対こんな事だろうと思っていたが、案の定だった。

 

「じゃあ、私たちが前の形に戻したいって言えば……!」

「今更できるわけないでしょう」

「ぶ、部内のそういう声は幹部も理解しています。ただ、今年はこの形で進めると決めたので、来年以降に……」

「それって、今年は諦めるってこと?」

 

 諦める、という言葉には何を、の部分が足りていない。それが全国大会なのか、部活の空気清浄なのか、それ以外の何か或いは全部なのか。その対象をハッキリさせない話し方は良くないと思う。

 

「誰もそんな事言ってない。この方法がベストだと滝先生が判断して、私たちはそれを信じて演奏してきた」

「だけどさ……部の空気、何とかしてよ。合宿からずっと、悪いままだよ。部長だってそうでしょ? ソリ、急に変更になって……そういうのとか、なんていうか……」

 

 歯切れの悪い言葉がそこで止まる。もう決壊してしまった堰は止められない。始めるしかないのだろう、北宇治の大手術を。これまでずっと誤魔化し続けていた部分が今、二人の先輩によって決壊した。きっかけを作ってくれたことには感謝するけれど、二人の物言いにも言いたいことはある。部長は何かを言おうとして言葉を選んでいる。その間に立ち上がろうとしたその瞬間、扉が開いた。部員の目が一斉にそちらに注がれる。そこには先生と兄さんが立っていた。先生は事態の把握に一瞬手間取り、その間に兄さんは大体把握したように見えた。

 

「先生、一回職員室に戻りましょう」

「ですが……」

「いや、一回ここで一度全部自分たちでやってしまった方が良いでしょう。なぁなぁにして隠しても仕方ない。まずは自己解決を促してみないと。押さえつけて臭い物に蓋をしたって、何も解決しないんですから。さ、行きましょう」

 

 兄さんはやや強引に滝先生を連れ戻す。その際に私の方をチラッと見て、そのまま先生を引っ張って行った。再び閉められた扉。それはつまり、ここで話し合えという意思を示している。兄さんがどういう意図を持って私を見たのかは分からない。けれど、私はやるべきと信じたことをするだけだ。

 

「失礼、よろしいでしょうか」

 

 そう言いながらも、誰からの許可も貰う前に私は勝手に立ちあがる。隣に座っている沙里先輩が覚悟を決めたような息を漏らした。高坂先輩の顔はよく見えない。私をどう思っているのだろう。自分の弁護をしてくれると思っているのならば、申し訳ないがそれは見当違いだ。

 

「先ほどのご発言は一意見として大いに取り上げるべきとは思います。しかし、後半は看過できません。失礼を承知で申し上げますが、部長のオーディションの結果がどうであれ、それは部長個人の問題であり、私たちが関わるべきではないのではありませんか? その上で言えば、先ほどの文脈で部長のオーディション結果について述べるというのは、どういう意図なのでしょう。合格した真由先輩が落ちればよかった、部の空気が悪いのはお前のせいだ、或いはそもそもお前なんか転校してこなければ、とそういう事でしょうか?」

「ち、ちがっ! そういう意味じゃ……」

「そうでしたか。私にはそう聞こえましたが?」

 

 あの文脈で発せられたならば、どう考えても真由先輩を批判しているようにしか思えない。これは私が穿った見方をしているとかではないはずだ。確かに私が俗っぽい言い方をすれば真由先輩を支持しているのは事実だ。けれど、それは明らかに情勢が真由先輩に不利であるからに他ならない。まさに、こういう風に。

 

「部長の結果に思うところがあることは内心の自由です。真由先輩をどう思うかも。しかしそれで誰かを攻撃して、責任を押し付けて良いはずがありません。責任があるとすれば、この事態、ここまで悪化した空気、その全ての原因は滝先生にあります。そして幹部のお三方にも」

 

 カツカツと私の足音が音楽室に響く。全体の前に立てば、同じく立ったままこちらを見ている部長と真っ直ぐに目が合った。私は彼女と話したい。同じ職にいたことのある人間として、この状況をどうにかしようとする意思が一番ある相手として、そしてオーディション三回制で苦しんでいる存在として。突き付ける言葉は厳しいかもしれないけれど、私は別に部長に悪感情を抱いているわけじゃない。

 

「最初に旗幟を明確にしましょう。私は、今回のオーディションの結果には納得しています。真偽はどうあれ、私の中で自分の結果も含め、納得する結論を導き出しました。オーディション三回制度そのものにも反対はしません。これは運用次第では優秀なシステムです。私が問題視するのはその決定プロセスです。私は最初に申し上げました。部長、あなたに。覚えていらっしゃいますか? 私は覚悟があるのかと問いかけました。その問いは正確ではありませんでしたね。それは謝罪いたしましょう。正確には、あなたがトラブルの当事者となる覚悟があるか、でした」

 

 誰も言葉を発さない。部長の目を見つめながら、私は続ける。

 

「自分たちだけで勝手に決めたシステムで、自分だけトラブルの外にいられるなんて、そんな都合の良い話が合って良いはずないでしょう。誰にも相談しませんでしたよね、決定の時に。パートリーダーや各セクションの実力者にも。そして運用経験者でもある元南中出身者にも。誰にも聞かないで独断で決めたシステムに盲従するほど、人間は簡単な生き物では無いと思います。この部はたった三人だけの意見で動いていた。おかしいとは思いませんか?」

 

 部長の目には後悔の色が浮かんでいる。私の指摘が間違っているとは思わない。パートリーダーを一切通さないで勝手に決定した制度だ。実際に苦労するのはパートリーダーなのに。しかもトランペットやトロンボーンは比較的人数が少なく、固定メンバーになりがちだ。揉めたりする要素も少ない。高坂先輩と秋子先輩が取り合ってるくらいだ。そんな状態なら好き放題言えるだろう。苦労しているクラリネットやサックスを無視して。

 

「私は部長を辞めろとか、そういうことを言うつもりはありません。部長そのものは支持していますし、これからも頑張って欲しいと思っています。しかし、部長の職にある事を支持している事とその政策を支持しているかは別物です。例え正しい行いでも、手段を誤れば正しさは消えてしまう。勝手に決めた制度でこの有り様です。そこはお三方、認めて頂きたいですね。まぁそれは後でもいいでしょう。つるし上げなどしても建設的ではありませんので。これからの事を考えれば、私は今回のオーディション結果はこのままで行くべきだと考えています。最初に申し上げた通り、この制度は一回始めると、少なくとも今年度は中止できません。途中で止めると、それまで恩恵を受けた人とこれから恩恵を受けられたかもしれない人との間で確実に対立が発生しますし、不公平になってしまうからです。まぁ全会一致で変更するというのなら可能ではありますが」

 

 部内には今のままで良いじゃないかという勢力も存在する。今回のオーディションで利益を得た人は特にそうだろう。出来ればこのままいきたいと考えるのは不自然じゃない。

 

「部長、現在大なり小なりの部員が滝先生への信頼を失いつつあります。このままでは集団が上手くまとまらなくなってしまう。その前に手を打つ必要があるでしょう。私は、部長を通して先生に先ほどのオーディションの選考における基準や意図を説明してもらうことを提案します。感情的な納得は出来ずとも、理性的な理解は、少なからず出来るでしょうから、不満や不信は和らぐと考えます。選考プロセスの不透明性や顧問団との間にある距離感こそが今回の要因になっているとも思われますし、壁は取り払うべきかと」

「それ、は……確かに有効的な手段だとは思います。このまま何もしないよりは、確かにその方が、良いと私も」

「待って」

 

 高坂先輩の鋭い声は横から差し込まれた。むしろこれまでよく黙ってくれていたと思う。

 

「滝先生に聞くことが有効だと私は思わない」

 

 高坂先輩は冷静じゃない。だからこそ、言わなくていい本音までぽろぽろと零れ落ちてくると踏んでいた。全員の前で、一回この人を引きずり下ろす。一般部員と変わらない、ただの高坂麗奈にしないといけない。そうでないと、まともにこの人と話が出来ない。私も、他の三年生たちも。特別な椅子に座っている人と、対等に話そうなんて難しい話だ。それを秋子先輩は気付いているのだろう。私の思惑も、高坂先輩がこれからどうなるのかも。それでも何も言わない。私はそれをゴーサインだと受け取った。

 

「さっきも言ったけど、それは自分の不満をオーディションのせいにしているだけでしょう。自分の努力不足を棚に上げて、思い通りにならないからってそんな言い訳を並べてるだけ」

「では、私が抗議しているのも全て努力不足の不満分子の戯言であると、そう仰りたいのですね?」

「……」

「違うんですか?」

「それ、は」

 

 そうだと断言できない。何故ならそれをすれば、彼女は自分自身の目を節穴だと認めることになる。自分が引き入れたドラムメジャー補佐は、努力不足の不満分子でした、などと彼女は認められないだろう。分かっていて私は話を進めている。

 

「何か言ったらどうなんですか。先生への疑問を述べただけの私の同期を呼び出して、何をしようとしていたんです? 同じことをここでしたらいいじゃないですか。あなたが奏者として先生の判断が正しい事を信じたいのはよく分かりました。自分が選ばれたのがもしかしたら実力だけじゃないかもしれないなんて思いたくないですものね。でもそれはあなたの仕事じゃないでしょう。あなたの仕事は部員の演奏技術向上であって、滝先生の信者にすることじゃない。ご理解いただけてないようですので何回でも言いますが、私は今回のオーディション判断には賛同しています。その上で、多くの疑問や不満が存在していることを理解して、その解決方法として提案しているんです。私個人の感情ではなく、部全体の利益と安寧のために。ですから、私個人が滝先生への不満があるわけではありません。少なくともこの件では」

 

 私は別にこの判断が間違っているとは思っていないし、先ほども言ったように真由先輩寄りの発言をしている。これで私がユーフォのソリに関してはどちら側なのかは理解できた人が多いだろう。正確には、選ばれた方の味方であるが。部長が選ばれたなら何もしなかっただろう。する必要もないのだし。けれど選ばれたのは真由先輩で、このままではどうなるか分からなかった。だから私は真由先輩の手を取った。

 

「部長、いかがでしょうか」

「部長の仕事は、先生に頼って、説明して欲しいって頼むことなの!?」

「あなたには話してない!」

 

 私の怒声が音楽室に響いた。高坂先輩は唖然とした顔で見ている。私が大きな声を出す事なんて想定していなかったという顔だ。

 

「部長、全て自己解決をする必要はありません。先生に頼る事だって、立派な部長の職責です。私だってかつてはハッキリ言って正しい部長ではありませんでした。多くの皆さんに助けられて、その職務をどうにか全う出来た身です。だからこそ、あなたが先生を頼るというのなら、その判断を肯定したいと思います。滝先生へは不信感を抱いても、あなたが部長を降りるべきだなんて思っている人はいません。少なくとも私は、あなたがこうすると腹を括って決めたなら、それについていくつもりです」

「……分かった。納得してもらえるかは分からないけど、先生に相談してみるよ」

「ありがとうございます」

 

 これで事態が少しは前に進んだと思う。取り敢えず部長が先生に相談してくれれば、後は先生が何かしらの説明をしてくれるだろう。少しは沈静化出来るはずだ。けれど、根本的な問題は部長と真由先輩の間に存在している。これに関するヒントは既に兄さんも告げているだろうし、部長なら助けてくれる人も大勢いるはずだ。

 

「麗奈、私は……何が正しいのかは分からないけど、このまま何もしないことが正しいとはどうしても思えない。麗奈はまた私を部長失格って言うかもしれないけど、それでも私は自分のするべきだと思ったことをするよ」

 

 部長はそう言うと、楽器を置いて音楽室から走って職員室へ駆けていく。副部長の目つきからすると、その行動には賛成してくれているようだ。問題は一人取り残された高坂先輩の方だろう。部長は「また」と言った。という事は、一回は「部長失格」と言われたことになる。信じられないセリフだった。部長には確かに欠点も落ち度もある。それは事実だ。でも失格なんかではない。必死に藻掻いていたし、事実今こうして行動している。藻掻いたことは正しい証明にはならないけれど、資格の証明くらいにはなるはずだ。何もしないで停滞する道を選んだ人にだけは、失格などという資格はない。

 

「あなた、そんな事言ったんですか。あなたの仕事は、部長を支えていくことでしょう? あなたの仕事は、兄さんから受け継いだモノのはずです。兄さんは確かに指導をしていました。けれど、一貫して部長を支持して、助けていた。意見がぶつかっても、最終的には優子先輩に譲っていました。それが組織というものじゃないんですか。あなたは一体、兄さんから何を学んできたんですか? この三年間、何をしていたんですか」

 

 私は自分が冷静じゃないのを自覚していた。今まで溜まっていた不満が一気に爆発した感覚。まるでガソリンに火をつけたようだ。相談してくれない事ばかりで、私は所詮兄さんの投影に過ぎなかったのかもしれない。それを我慢していたけれど、満足していたわけでも許容していたわけでも無い。高坂先輩の苦手な事だからと甘く見ていた。けれどそれはきっと良くなかったのだろう。苦手な事はやらなくていい理由にはならない。

 

「挙句の果てにはやらない子は放置で良い、ですか。不満や不安が生まれた原因は、オーディション三回制の勝手な導入を始めとして、あなたにもあるというのに。不安の解消を馴れ合いと言って、不満をワガママに言い換えて、そして放置しようとするなんて、何を考えていたんですか。あなたには分からないでしょうね。やっても何も変わらないかもしれないという想いも、頑張ってオーディションに受かってもこんな状態じゃ喜べないと言う人の声も! 少なくとも私は知っています。目を逸らしたあなたと違って! 懇切丁寧に説明することも、相手を納得させる努力もしないで、信じられないなら、やらないなら放置する。どうしてあなたはそんなに頑ななんですか? 本当に信じているのならば、そういう振る舞いをすればいい。あなたの行いはまるで、自分が一番滝先生を信じられていないかのように見えます」

 

 私はガンと彼女を見つめる。誰も声を発しない空間の中で、私たちだけが火花を散らしていた。

 

「兄さんは、そんなあなたにするために長い時間を使ったわけじゃないはずです。返してくださいよ。希美先輩や私たち家族が、あなたのせいで奪われた兄さんとの時間を返してください。自分の感情で部を滅茶苦茶にしないでください。あなたが滝先生を信じたいのも、信じられないのも勝手にしてください。ただ周りを巻き込まないで。あなたに、その資格なんてないでしょう。だってあなたは、仲間を切り捨てようとしたんだから」

 

 私は冷たく言い放つ。高坂先輩を支持する派閥から、私は大きな反感を買っただろう。ここで堂々と敵対宣言をしたわけだ。この宣戦布告を以て、私たちの仲は完全に決別したと思って良いと思う。もっと上手いやり方があったんじゃないかと後悔する気持ちもある。けれど、納得できないことが私にだってあった。どうしても我慢できない不満くらい私にもある。

 

 かくして、軋む音を盛大に奏でながら、北宇治高校吹奏楽部の歯車はまた動き出した。それが良い方向に作用するのか、悪い方向に作用するのかは分からない。ただ一つ言えることがあるとするならば、仮に進む先が地獄だとしても、停滞した地獄よりは余程良いだろうという事だけだった。

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