音を愛す君へ   作:tanuu

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第百三十八音 ボール

 吹奏楽部の中にどんよりとした空気が存在しているのは、私も大いに感じ取る所だった。去年を和気藹々と評するのであれば、多分今年はその対極にいるのだろう。緊張と重たい空気感が場を支配する、そんな環境。閉塞感にも似たそれは、もしかしたらかつて強豪から滑り落ちていく途中の北宇治に存在していたものなのかもしれない。

 

 波瀾万丈としか表現できない合宿を終え、私は何とか自宅にたどり着いていた。妹を乗せたバスは学校へ向かう。同時に運搬されている各種楽器を音楽室に戻すためだ。その作業があるので、今日はもう練習はない。私は家に帰ることが出来るのだ。

 

 考えなければならないことに反比例するように、出来ることは少ない。大鉈を振るって全てを伐採したとしてもそれは来年以降に繋がらない。私はいつでもいられるわけではないのだ。今のように深くかかわることも難しいかもしれない。なにせ、今の三年生と二年生以下の間には私に対する認識に差異が存在しているのだから。そういう環境において、指導者が全部解決してしまうことは望ましくないのだと思う。苦しみながらでも、自力で出来る範囲を探してもらうのが正しい教育なのかもしれない。

 

 しかし一方で思うのだ。手を差し伸べることは苦しみを取り除くことでもあると。教育の観点から見れば自分で立ち上がれる範囲まで自分で頑張ってもらった方が良いのかもしれないが、手助けして苦しみを取り除いてあげたいと思うのは、人として当然ではないかとも。どちらが正しいのかなんてきっと状況や立場によって変わって来るのだろう。どんな問題もそうであるように。

 

「このまま見守る、か」

 

 その結果どうなるのかは何となく予想は付いている。もうすぐ不満は噴出するだろう。悶々としたものを抱えながらも耐え続けられるような精神構造をしている生徒ばかりではない。また、自分で答えを出せる子ばかりでもない。湧き出してきたモノに対して誰がどう対処するのかも何となく未来が見えている。

 

 黄前さんは個別に対処しようとするだろう。けれどきっと、もうその段階はとうに過ぎた。今、空気という大きく不定形で酷く曖昧な代物は、個人の力ではどうにもならない方向に動いている。高坂さんは押さえつけようとするだろう。けれどそれはもう意味がないはずだ。見ないフリをしても、臭い物に蓋をしても、存在すること自体は変わりがない。

 

 そしてウチの妹は、それを看過しない。部長だろうと先輩だろうと意見をしないという選択肢は無いと思う。うっすらと見え隠れしていた高坂麗奈対桜地涼音の対立軸が表面化するのはほぼ既定路線だった。そして、私にそれをどうこうする力はない。こればっかりは個人の相性の問題も絡んでくる。言って収まるなら、最初から問題にならない。

 

 この場合、高坂さんは負ける。まず間違いないだろう。それは別に構わない。彼女も一回くらい自分の思った通りに運ばない展開に遭遇する方が良いはずだ。吉沢さんの件もあるし、どちらにしても彼女は一度全てと向き合う必要がある。獅子は我が子を千尋の谷に突き落とす、ではないけれどそれくらいの気持ちでいないとダメなのだと思う。特に高坂さんに関しては。

 

 ガレージに車を停めて、シャッターを下ろす。エンジンを切った車の冷気が急速に失われていくのを感じながら、私はため息を吐いた。気持ちを切り替えないといけないけれど、頭の中にはいろいろな人の様々な表情が浮かんでは消えて行く。

 

 手を洗ってダイニングへ向かうと、希美がテーブルに頬杖をつきながら寝ていた。手元にはレシートが貼ってあるノートのようなものがある。冷蔵庫からお茶を取り出して、なんだろうと思って覗き込んだタイミングで彼女は目を覚ました。

 

「ただいま」

「? ……あ、お帰り」

「寝ぼけてたでしょ、今」

「ごめん、一瞬あれ今日だっけとか思ってた」

「帰ってこない方が良かった?」

「まさか」

 

 彼女は薄着のシャツで思いっきり腕を伸ばした。コキコキという軽い音が彼女の首から鳴っている。少し丈の短いシャツのせいで、服の下にある白いお腹が見え隠れしていた。疲れた目には多少の癒し効果があったけれど、余所ではやらないで欲しいと思う。

 

「それ、何?」

「あぁこれ? 一応家計簿」

「もしかして、お金足りなかった? もっと振り込んだ方が良い?」

 

 ウチの家の口座は学費用と各種公共料金支払い用と生活用等いくつかに分けられている。学費は妹の学校関連費用がそこから引き落とされていく。生活用はそのままで、食費や交際費などが主な使用用途になっていた。

 

 我が家で食材を買ってきてくれるのは一番手が空いている希美だ。それ故に彼女のクレカは二枚あって、一枚は自分の個人口座に紐づけられたバイト先からのお給料などが振り込まれるモノ、もう一枚は食費等生活費用の口座で、私は毎月そこに必要と思われる額を振り込んでいた。

 

「別に全然そんな事無いんだけど、一応ね。自分で働いたお金じゃないし、どういう風に使ったのかは説明する義務があるでしょ? それに、無駄に高いモノとか買ってないか考えないといけないから」

「あんまり気にしてないんだけど。それに、多少は高くてもどうにかなるよ。毎日高級食品とかだと破産するからしないでほしいけれども。そこら辺は全面的に信頼してるし」

「うーん、そうかもしれないけどね。これは私の気持ちの問題だから。信頼してくれてるのは分かってるし、嬉しいけど、その信頼には甘えたくないのです」

 

 彼女は柔らかくも凛とした声でそう言った。チラリと見た限りでは、全部家に必要なモノのレシートだけで構成されていた。別に服とか買っても全然構わないのだが、そういう類の出費は全部自分のバイト代で賄っているらしい。基本的に大体普通の大学生が欲しいくらいの品物ならば手に入る環境ではあると思うけれど、それでもそうしているのは彼女の信念なのだろう。それならそれで別に構わないと思う。足りない場合だけ心配だったのだ。それに、私は彼女のこういうところが好きだった。

 

 金銭的な部分に寄って来る人は多い。それは私だけでは無くて、親戚一同大体そうだ。それも大事なところではあるけれど、どうしてもいわゆる金目当ての相手と生涯を共にする気にはなれない。

 

「後まぁ、単純に不正利用されてないかのチェックにもなるしね」

「あぁ、そういうのもあるのか」

「この前テレビでやってたよ、クレジットカードの不正利用って。最近増えてるみたいだし、凛音も気を付けてよ」

「はい、仰る通りです」

 

 ゆらゆらと彼女の髪はエアコンの風の余波で揺れていた。向かい合いながらこうして話していると、高校時代を思い出す。学校がある日は、お昼休みにこうして机を挟んで話していた。昼ご飯と一緒に、何でもない会話をしながら。本当に幸せな時間とは、あぁいう時を言うのかもしれない。何か名前を付けられる時間ではないかもしれないけれど、あの時間こそ、人生に許された贅沢と言える気がする。そして今は、その舞台が家の中に変わった。

 

 南中に転校したばかりの私に、君は自分の隣の席の子と数年後に同棲してるよと言っても気が狂ったと思われるだろう。疲れて帰って来ても彼女がいるなら、きっとどんな困難でも乗り越えられるような気がした。全国のお父さんはそういう気持ちで働いているのだろうか。

 

「どこ見てるのかな~」

 

 パチンと私の額に軽く衝撃が走る。二ッと笑いながら、彼女はデコピンをした綺麗な細い指を私の目の前でくるくる回している。

 

「大分お疲れみたいだね」

「まぁ、それなりには」

「オーディション、やっぱり大波乱だった? 涼音ちゃんからちょっとだけ聞いてるけど」

 

 彼女の問いに、私は頷くしか出来なかった。大波乱という言葉以外に、あの状況を示せるものはないと思う。

 

「メンバーそれ自体は大きく変わってない。ただ、ソリが大分、色々と」

「久美子ちゃん、落ちちゃったんでしょ。そういう風に聞いてるけど」

「結果としては、そうなる」

「そっか……。久美子ちゃんは、大丈夫?」

「……分からない。中々自分の感情を処理するのが難しいみたいではあった。黒江さんとも上手くやり取りできてない部分もあったし。ただ、全く希望が無いわけじゃないとも思ってる。自分がオーディションに参加するように求め続けたのだから、自分が一番祝福しないといけないんだって、そう言ってたよ。それが出来ないから、分かってるけど出来ないから苦しいって」

 

 彼女にも目指している姿があって、それに近づこうとして。それでも今の姿を見つめ直した時に、きっと理想のそれとは違っていて。だからこそ、彼女は動揺している部分があったのではないだろうか。その理想が誰なのかは分からない。優子なのかもしれないし、田中先輩や小笠原先輩や香織先輩なのかもしれない。或いは私なのかも。きっと彼女は彼女なりに理想があって、そしてそれに手を伸ばそうとしている。今は少しへこんでいるけれど、きっと立ち上がれるはずだ。大した根拠はないけれど、私はそう思っている。

 

「偉いね、久美子ちゃんは。凄く頑張ってると思う。勿論、その黒江さんにとっては全然喜ばしい状況なんかじゃないし、本当はもっとやらないといけないことは沢山あるんだろうね。でもさ、私ならそんな風に思えなかったと思う。どうして、なんで、ってずっと思いながらモヤモヤしたままだったかも。行動に移せてなくっても、心で分かってるだけで大分違うんじゃないかな」

「それは……そうだね。でも」

「『私は希美はそんな風になったりするって思わない』かな? でも、私は嫉妬でどうしようもなくなったことあるしね。あんまり綺麗なところばっかりじゃないから」

 

 去年の夏を思い出す。どろりとするような何かを吐き出すような顔で、彼女は私に内心の告白をした。あのプールの、灼熱の下で。

 

「あの時間は正しかったとは思わないけど、私は間違いだったとも思いたくない。みぞれには悪いことしたけど、それでもあの時間は絶対に必要だったと思ってる。だからね、きっと久美子ちゃんも向き合える。私に出来たんだから、きっと大丈夫だと思うよ。久美子ちゃんには助けてくれる人だっている。私よりもきっと賢いし、きっともっと強い」

「随分……彼女を信じてるね。希美と黄前さんってそんなに凄く仲が良いイメージでも無いけど」

「そうかもね。でも、私は信じてるよ。だってあの子は、それまで何も知らなかった私のために、動こうとしてくれた。それは、信じるには十分すぎる理由だと思わない?」

 

 二年生の夏。黄前さんは希美に手を差し伸べた。それは諸々の理由で上手く行ったとは言い難いし、その根底にあったのは好奇心だったのかもしれない。けれど香織先輩が言ったように、大事なのは相手の受け取り方だ。自分が悪行だと思ったことが、誰かを救うかもしれない。自分が善行と思った行為が、誰かの人生を破壊してしまうかもしれない。だから結局は、相手がどう思うかなのだ。その点において、黄前さんは間違いなく希美に手を差し伸べた。

 

「凛音は久美子ちゃんのフォローはしたんでしょ」

「まぁ、一応は」

「そっか。なら後は信じて待つだけだね」

「え?」

「書いてあるよ、顔に。この後どうしたら良いのか、ってさ」

 

 彼女は私の瞳を真っ直ぐに見つめながら言った。

 

「それくらいは分かっちゃうんだなぁ。私たちの付き合いくらいになると、これくらいはね。春はちょっと離れてたけど、距離が遠くても心が近ければ問題ないし。好きな人が悩んでることに気付くくらい、ちょちょいのちょい」

「隠し事、出来ないね」

「してるの?」

「そんなわけ」

「良かった」

 

 これっぽっちも私を疑っていなそうな屈託のない笑顔で彼女は笑っている。隣にいるだけで少し前向きな気持ちになって来る。話しているだけで、顔を上げようという気分になって来る。笑ってくれるだけで、きっと大丈夫だろうと思える。私はきっと彼女に助けてもらっているのだろう。甘えているのは、もしかしなくても私の方なのかもしれない。

 

「涼音ちゃんも高坂さんのことで色々思うところはあるみたいだけど、必要ならちゃんと話してくれると思うから。凛音の役目は、待ってることだね。ボールはしっかり投げたんだから、後は投げ返してくれるのを待ってないと」

「辛い役割だよ、まったく」

「待ってる方の気持ちも、ちょっとは分からないとね。今回のことでも、それ以外でも」

「……はい」

「まぁさ、それ以外に高坂さんについても色々あったんだろうけど……」

「ホントに! あの子は! 思ってることも考えてることも言わないで……だからあんなに色々拗れるって言うのにまったく」

「凄い勢い。びっくりしちゃった」

「全然言う事聞かないし、いつも困らされてばっかりだ。元々いきなりやって来る非常識だし、結構生意気だし、私を尊敬してるんだかして無いんだか分かんないし」

「よく似た師弟だと思うけどな」

「どこが」

「色々。私もあんまり言えた義理じゃないけど、思ってること言わないトコとか、凄い頑固なトコとか。結構似た者同士だと思うよ。それに「はい先生!」って言って無条件に何でもいう事聞いてるような弟子は嫌なんでしょ」

「嫌だよそんな人形みたいな教え子」

「じゃあピッタリじゃん」

「……」

 

 何も言い返せなくなって、私の口は少しの間池の鯉みたいにパクパクしていた。似た者同士とはそこまで思わないけれど、よく考えたら彼女の指導を引き受けようと思ったのは昔の自分と重ねたからだという理由もある。どちらかというと、彼女は昔の自分に似ている。だからこそ、私がしている指導は昔の自分に言いたかったことでもあるのかもしれない。

 

「今はちょっと色々心の中が落ち着かないだけだから、きっと立ち上がってくれる。そういう子だから、これまでずっと教えてきたんでしょ?」

「それは……そうだけど」

「まぁホントはあと一個くらい言わないといけないこともあると思うけど……まぁそれはいっか。涼音ちゃんがあの感じだと多分近い将来あぁなるから……うん、多分そこで言えるね」

「言わないといけない事って?」

「うーん、大丈夫だと思うよ。私から伝えられるだろうし」

「それは、どういう根拠に基づいてるの?」

「そうだなぁ……」

 

 彼女は少しだけ考えた後、曖昧な笑顔を浮かべる。

 

「元部長の勘、かな」

 

 こてんと首をかしげてそういう彼女の言葉に一切の論理性はないけれど、その言葉には説得力と相手を信じさせる力があるような気がした。

 

「元部長の勘、か。それならきっとそうなるんだろうね。……ならなかったら凄く恥ずかしいけど」

「あぁ、気付かないようにしてたのにもう。折角カッコよく決まると思ったんだけどなぁ。慣れないことはしない方が良いね。ちょっとはすっきりした?」

「ありがとうございました」

「うん、それなら良かった。じゃあ、ちょっと買い物付き合って欲しいかな。お米を買っちゃいたいから」

「荷物持ち、ってことね」

「そういう事です。お願いしまーす」

「了解」

 

 彼女に導かれるままに、私は家の外に出る。夏の夕暮れが世界を茜色に染めていた。その中を私たちはのんびりと歩いている。私の顔色を見て、色々と話してくれたりこうして連れ出してくれている。彼女はきっと、私の心の中にあるモノに気付いてくれたのだろう。その優しさはとても嬉しく、心地よく、だからこそ甘えすぎてはいけない。口に出さなくても伝わる環境は理想だけれど、それはどこまで行っても理想で、現実では甘えでしかない。だからこそ、ちゃんと伝えないといけないのだ。

 

「帰りにアイス食べる?」 

「いいね!」

 

 二人でパピコを分けながら、歩いて帰る道。高校時代と比べて格好は随分と所帯じみている気もするけれど、きっとそれも幸せな景色だ。時間が止まってくれたら、いつか思い出になるこの若くて青い日々を閉じ込めておけるのに。そう思ってしまう。でもきっと希美はそれを望まないだろう。だからこそ、私たちは歩いていくのだ。私たちの望む未来まで。

 

 

 

 

 

 

 

「すみませんね、昨日は。高校時代の友人たちと日程が合うのがそこしかなくて」

「いえ、構いませんよ。あなたの人間関係ももちろん大事な事ですから」

「ありがとうございます」

 

 オーディションから戻った二日後の朝、私は職員室で滝先生と相対していた。昨日は用事があって先に帰ってしまったので、申し訳ないと思っている。妹からもB編成の面倒を見てくれないかとお願いされていたので、その意味でも申し訳無い事をした。今日からそちらの方も取り組んでいく予定だ。

 

 滝先生はコーヒーカップを置きながら、パソコンと向き合っている。この時間は本来の業務をしたり、或いは他の学校の研究をしたりする時間になっていた。そしてそこに私がやって来て、朝の打ち合わせをする。基本的には学生時代から変わらない毎朝の景色だ。違う点があるとすれば、学生時代は私は基本立っていたのに対し、今は隣の先生の席を借りて座っている。目線が同じになったことが、数少ない差異だった。

 

「私の人間関係よりも問題が大きそうなものを放置している気がして、少し罪悪感を覚えていました」 

「それは……」

「言わずもがな、だと思います。このまま誰も何もしないでいると、そう遠くないうちに吹奏楽部は崩壊してしまうでしょう。幾つにも分かれた派閥闘争の結果で。例えその神輿たちが望んでいなかったとしても、担ぎ手は勝手に自らの思惑で好きな方向へ進んでしまいますから」

「……」

 

 滝先生も認識はしているようだった。部内の空気に問題がある。それをどの程度感じ取っていたのかは正確には分からない。私よりも楽観的に捉えていた可能性もある。先生自身の迷いは、間違いなく存在する。それ故に、確たる解答を持って生徒の前に立つのが難しかったのかもしれない。或いは、自分から進んで行くのは違うと思っていたのか。どちらにしても、もしくはどちらでも無いとしても、そろそろ限界が近いと私はそういう風に感じている。

 

「先生は、北宇治に強豪校でい続けて欲しいですか?」

「難しい質問ですね。無論、生徒の努力が報われる環境でい続けてほしいとは願っていますし、そのために行動したいとも思っています。それが強豪校であり続けることなのかどうかは不明ですが……」

「だったら、少しの間待つ必要があるでしょうね」

「あなたがこのまま何もしないと崩壊する、とつい今言ったはずですが」

「誰も、何もしないとです。しかし、誰も動かないなんてことはあり得ない。私はちゃんと幾つかの場所にボールを投げました。特に黄前さんには。ウチの妹はボールが無くても勝手に動くでしょう。あの子は自分の信念を曲げられない。そうするぐらいなら、その場を去る事を選びます」

 

 ある意味で頑固で、ある意味で高潔。だからこそ、地盤の少ない黒江さんを守るために動こうとしている。昨日のB編成の居残りレッスンには黒江さんも参加していたらしい。私と彼女を結びつけることで、私の持っている権威性などを利用して彼女の立場を少しでも良くしようとしているのだろう。B編成に巻き込んだのも、そこを彼女の地盤にするためだ。現在軋んだ音を立てている幹部陣の行動具合を鑑みて行動に出たのだろう。私でも似たようなことをするから、何となく分かった。

 

「自慢では無いですが、今迄は私たちが部を引っ張ってきました。目の前の課題をこなしていくしかなかった一昨年。足りない人数の中で精一杯の努力をした去年。いずれも、まだまだ過渡期にある部活の中で、最大限のパフォーマンスを発揮できるように、時には私たちが強権を振るうこともありました。特に一昨年は。ですが、もうそれも終わりにしないといけないのでしょう。吹部は顧問が九割と言われていますが、本来それは望ましくない姿であるように思います。顧問が変わっただけで、一昨年以前のような、あんな姿になってしまうのは不健全としか言いようがない。もしかしたら、以前の北宇治は実力はあっても精神性は強豪校では無かったのかもしれませんね。だからこそ、本当の意味で彼らが強豪校になるためには、今ここでこれまでの流されるような動きの中で見ないフリをしてきた膿を治療する必要がある。私はそう思っています」

「その治療方法はぶつかり合うという事でしょうか」

「その通りです。百人近い人が所属していて、全員が同じ方向を見ていることはあっても、全く同じ心持ちというのはあり得ない。それはもう、人間の集団ではないでしょう。人間であるならば、違う事を考えることだってあるはずです。それぞれの正義があって、信念があって、想いがあって。誰かの意見と違うものであったときに、どちらかがどちらかを抑えるのではなく、対等にぶつかり合える環境。それが多分理想なんだと思っています」

 

 思えば、奇妙な関係性かも知れない。二年前、一昨年は私が理想論を生きることの難しさを語っていた。香織先輩の再オーディション関連で諸々トラブルが発生していた時に、私を切り捨てながら進むようにと伝えて。それを拒否して、合理性や常識を守る事を拒否した。理想論を貫き通した。その結果が正しかったのか、今になっても分からない。けれどきっと、あそこで先生が理想を貫かなければ今の私はいないだろう。

 

 あの時、理想を否定した私が今はこうして理想論を唱えている。その過程で多くの痛みや苦しみや懊悩が生まれることは理解しているけれど、それでもこうして進ませようとしている。これはもしかしたら悪魔のような行いなのかもしれない。けれど、必要な事であると信じていた。

 

「理解はしているつもりです。ただ……理想と現実は思ったよりも狭間が大きい。私は皆さんを指導できるほど、大人なのかと自問自答する日々です。もしかしたら私も、理想と現実のはざまで悩み続ける一人の子供なのかもしれませんね」

「そうかもしれません。そういう意味では、大人はなんて誰も存在しないのかも。キリスト教的には、人は迷える子羊なわけですし。ただ、彼らには無くて私たちにはあるモノもあります」

「それは?」

「責任と、それを背負う覚悟ですかね」

「……なるほど」

 

 先生もまた、彼らの苦しみと向き合おうとしている。去年は、私も行けると思ったのだ。調整に調整を重ねたベストコンディションで挑んだ舞台だった。みぞれと希美の二人は、どの学校のどの奏者にも劣らない完璧な最終兵器だった。それでも、結果はなおも微笑まなかった。何が足りないのか。苦しい、傷つきたくない。多くの生徒が負った傷を、先生もまた目の当たりにしている。

 

 そう言えば、先生も三年目なのかと、ふとそんな事を思った。その点では、黄前さんや高坂さん達と何ら変わりはない。北宇治という環境で、同じ年数を過ごしてきた面々。それに対する想いは、これまでよりもずっと大きいだろう。

 

「私たちに出来るのは、投げられたボールをしっかり受け取る事だけだと、私はそう思います」

「失礼します」

 

 私の言葉にかぶせるように、ボールを投げた相手の声がする。扉を開けて入って来たのは黄前さんだった。その横に、普段いる高坂さんの姿はない。たまたまいないだけなのか、いやそれは無いだろう。高坂さんが滝先生に会える機会を逃すとは思えない。では何かしらの事情があったのだろう。風邪を引いた等の連絡は入っていないので、そうでは無いとするならば多分喧嘩でもしたのだろう。

 

「黄前さんが一番乗りです。今日は、高坂さんと一緒では無いんですね」

「いつも一緒というわけでは無いです」

 

 先生の声に、やや困ったような声で彼女は応じた。黄前さんは先生から鍵を受け取っている。

 

「黄前さん」

「はい」

「あなたは、高坂さんのことが好きですか?」

「どうしたんですか、いきなり」

「少し、気になったモノで」

「……嫌い、じゃないです。好きか嫌いかなら、好きです」

「そうですか。なら大丈夫そうですね」

「え?」

 

 私は黄前さんにだけではなく、その変化の原因を気にしているであろう先生に向けても言う。黄前さんと高坂さんの仲が良いのは先生でも把握しているようなことだ。その二人が一緒にいないことに、流石の先生も違和感を覚えたのだろう。だからこそ、探ろうとした。上手く躱されてしまったけれど。

 

「どんなに好きな相手とでも、いつも一緒と言うわけではありませんからね。何かしらの事情ですれ違うこともあれば、たまたま予定が合わないこともあります。家族だろうと、恋人だろうと、そして親友だろうとね」

 

 私はその全部とすれ違ったことがあるのかもしれない。妹とすれ違い、まだ付き合ってなかったし恋愛感情も無かった頃とは言え希美と仲違いし、かつての友とも何回も喧嘩したことがある。それでも最終的にはどうにかなって来た。希美に関しては割と運に助けられた部分もあったけれど、それでも大事なのはどういう結果になったのかだろう。お互いが嫌いあってしまったなら関係修復は難しいかもしれないけれど、そうじゃないならいくらでも希望は見いだせる。

 

「そう思いませんか、黄前さん」

「……ですね」

「きっと誰しも全部が正しい事なんて無くて、少しずつ間違いながら前に進んで行くんです。だから最後にはどちらもごめんなさいと言って終わりに出来ることもあると思いますよ。個人的な経験からくる話ですけれど」

 

 そうなる前に破局してしまうこともあるだろう。それはもちろん理解はしている。けれど、この二人ならきっと大丈夫じゃないかと、私はそう思っていた。黄前さんは高坂さんとどうなろうとも前を向こうと藻掻いている。後は、もう片方の目線を強制的に上に向けるだけだ。その役目は多分妹が担ってくれるだろう。あくまでも起点は、だけれど。その後どういうアプローチをするかは、結局出たトコ勝負になってしまう。彼女がどういう感情を抱いてどういう行動や口ぶりをしているかで色々変化すると思っていた。

 

「あの、滝先生。あと、桜地先輩も」

「何でしょうか?」

「聞きたいことが、あるんです」

 

 彼女は滝先生の問いに、真剣な目をしながら答えた。彼女は探しているのだろう。自分の納得できる答えを。そして、自分の感情につけるべき名前を。そのために彼女は今日、ここにいる。それがどういう結末を招くのか完全には分からないけれど、言えることがあるすれば、彼女は一歩目を踏み出した。一番重く、一番苦しい、答え探しの一歩目を。

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