音を愛す君へ   作:tanuu

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第百三十九音 解答

「聞きたいことが、あるんです」

 

 黄前さんは真剣な目で我々に問うた。そこに込められている感情、そして聞きたいことの内容に気付かないほど、我々は無頓着ではないし、察しが悪いわけでも無い。ここは一度先生に預けることにする。オーディション関連では、選んだ本人にしか説明できないこともあるだろうから。

 

「オーディションの事ですか?」

「……はい、そうです。チューバの人数を、どうして四人にしたんでしょうか」

「関西大会に出場するにあたり、低音が弱いと考えたからです。全国出場を狙うのであれば、音量の強弱の幅を広げる必要があります。高音ばかりうるさくなっては意味がない。そうならないためにチューバを増やしました」

「それは、本当に滝先生の作りたい音楽なんですか」

 

 先生の目が大きく見開かれた。私も唖然とした顔で黄前さんを見る。なるほど、これは普通の部員では出てこない視点だろう。彼女は普通の部員よりも進んだ視点から物事を見れるようになっているのかもしれない。自分と向き合う過程で、多くのモノを直視して、色々な事を考えたのだろう。だからこそ、こういう視点に至ったのではないだろうか。

 

 先生は動揺を隠すように手で口元を覆う。これまでは、こういう問いを投げるのは決まって私だった。けれど今、その役目は黄前さんが行っている。先生にとってもこれは意外であり、同時に歓迎するべき事態であるだろう。いつまでも自分が絶対的である空間など健全ではないと、先生だって理解しているのだろうから。

 

「流石部長ですね。非常に答えにくい質問ですが、尋ねてくれたこと自体は嬉しく思います」

「あの、それは答えになってないと思います」

 

 黄前さんが困ったような、そして少し怒ったような口調で言う。けれどすぐ迷うような目の色になった。滝先生はただ、全国大会金賞を獲らせるための方策しか考えてないだろう。それが正しいとは言えないだろうし、部活ではそれ以外の指導だって必要になって来る。それでも、一応目指している場所は同じなのだ。部員たちの求めに従い、その夢を叶えるための力を与えようとしている。

 

 一見すると、ここでそんな先生に問いを投げるのは傲慢なのかもしれない。けれどそれは間違いだ。なにせその夢を最初に見せた張本人が誰だったのか。それを考えれば、いくらでも問いかけるべきだろう。最初にその夢を見せたのは滝先生本人だ。ただ毎年を何となく過ごすだけだった空間に、鮮烈すぎる夢と呪いを齎した。夢を見せておいて、叶えるための力をあまりにも意地が悪い。

 

 だから、疑問に思ったならば聞くべきだし、疑いがあるならぶつかっていくべきなのだ。先生は大人であり、教師でもある。ならば、生徒からの信頼を待つのではなく得るべく努力をして行かないといけない。それは背中だけ見せて指導の実績で、というだけでは残念ながら足りないのだろう。言葉を尽くしていくことも、必要な事なのだ。

 

「コンクールに特化した音楽のために、今の編成になっているんですか」

「それはよく耳にする言葉ですが、本当にそんなものが存在するのか、私は怪しいと思っています。確かに、私は一般的な吹奏楽部顧問よりも結果を出すのが得意なのかもしれません。それには多大な幸運に恵まれたという要因も、少なからず存在していますが……」

 

 先生の目がチラリとこちらを見る。私は小さく肩をすくめて話の続きをするように促した。

 

「コンクールに迎合していると言われたらそれまでかもしれませんが、私はそうした方向に音楽の照準を合わせる能力がありますし、皆さんにも私が求める基準を満たすだけの力がある。だからこそ、その力を最大限に引き出すために今必要な事は何か。府大会から変更を加えて、どのようにして良くしていくのか。その上で最終的に結果が付いて来るようにするにはどのようにするべきか。今考えているのはそれだけです」

「すみません、失礼な事を言いました」

 

 彼女は俯きながら頭を下げた。

 

「失礼だとは感じていませんよ。むしろ、良い兆候だと思います。学生の内はどうしても他者の評価に固執しがちですが、黄前さんは音楽の本質に向き合おうとしています。私が求める音楽がどのようなモノかを探ろうと試み、良い音楽とは何かを自分の頭で考えている。それは本当に素晴らしいことだと思います」

「例えそれがどのような心持ちから生まれたものであろうとも、ですね」

「その通りです」

 

 私が追加した言葉に、先生は頷く。どんな理由でも構わない。どんな想いからでも構わない。今ここで大事なのは、少なからず藻掻く過程で彼女が一歩ずつ進み始めているという事だろう。

 

「桜地先輩も同じように考えているんですか?」

「これまた難しい問いですね。私は今年の編成には携わっていないので、どうにも言いにくいことはあります。ただ音楽とは何か、という点については私なりの考えを持っているつもりですね」

「それは……?」

「私はコンクールの道を歩んできた人間です。だからこそ、私にはコンクールに勝ち、観客の求める演奏をすることこそが良い音楽そのものであり、自分の存在意義でした」

 

 ジュニアのピアノコンクールで優勝したところから、私の大会人生が開幕した。それからずっと、色んな大会に出てきた。作曲系はまだしも、演奏系で負けたのは大学一回生のあの時ただ一度。それ以外、ずっと勝ち続けてきた。それこそが私の音楽人生だった。

 

「私は結局、吹奏楽系の人間ではありませんので、どうしても吹奏楽のコンクールに関してはまだまだ分からないことがあります。いけたと思った時に限って、どうにもあと一歩及ばなかったり。ただ、自分の専門に限って言えば、コンクールの勝ち方は存在します。ただ、それに誰も気付いていないから、世界は私を見上げ続け、私の背中を追い続けているんですが」

「あるんですか、勝ち方」

「ありますよ。そしてそれは、音楽とは何かと繋がる、本質的な部分です」

 

 黄前さんはビックリした顔をしている。まさか世界一になるための必勝法があるとは思っていなかった顔だ。あの大会にはキチンと勝ち方がある。それは、大学一回生だった頃の私が気付けなかったことであり、逆にあそこで負けたからこそ気付けたことであると思う。あの敗北には意味があった。私の人生において、最初の大敗は確実に意義ある事だったのだ。だからこそ感謝もしている。あそこで負けていなければきっと、私はもっとろくでもない人間になっていただろう。今が素晴らしいなどと、毛頭思ってはいないけれど。

 

「勝ち方は簡単です。自分が音楽を愛し、そしてその上で観客に届ける演奏をすること。以上です」

「……それだけですか?」

「えぇ、それだけですよ」

「あの、こんな事言ったらよくないと思うんですけど、それって誰でも出来るんじゃ……」

「そうですね。基本、やろうと思えば誰にでも簡単にできる凄く単純な答えだと思います。しかしね、考えても見てください。世界の中の頂点を決める会場で、周りにいるのは超一流の奏者ばかり。そしてここ数回に限って言えば、倒さないと一位になれない私がずっといる。そんな中で自分の演奏を心から貫ける人はほとんどいません。それこそ、一番上のコンクールであっても」

 

 それを初出場でやってのけたからこそ、彼女は一番だった。私を二位に押し込んだ少女は、周りの奏者も審査員すらも見ていなかった。彼女はただ観客席だけを見つめて、評価など何も気にしていないように、自由に堂々と演奏しきったのだ。無論、技術は求められるし、全ての前提だ。表現力だって、議論する余地もないほど必要要件の中に入っている。全ての基礎応用が出来た末に、必勝法は存在している。

 

 私がこの必勝法を完全に実行しているのかと聞かれれば微妙なところもある。どうしても毎回初回出場の時の記憶が蘇るからだ。それでもきっと、彼女ならばこうしただろうと思って舞台に立っている。一緒に戦っている、などというつもりはない。きっと観客席の暗がりのどこかで、彼女は見ているだろうとそう思っていた。だから、結局観客に届けることに変わりはないのだろう。舞台上に神はなく、ただ自分一人だけ。彼女はよくそうやって呟いてから演奏していた。

 

「ともあれ、私は音楽とはそういうモノだと思っています。技術や基礎の上に成り立っているモノではありますが、逆に言えばそこが出来ていたならば、誰かに届けることが出来る演奏をしている人がより優れているとされる。或いは、それすらなくても良いのかもしれません。技術はあるけれど空疎な演奏よりも、小さな子供が頑張って演奏している方が心を打つこともあるのはそういう事が理由ではないでしょうか。黄前さんは、誰に届けたいですか。どんな想いで、演奏していますか。それが分かった時、あなたは自分の演奏に迷うことはないでしょう。私は皆さんに対し、誰かに届けられるための力と技術を得ることが出来るように教えているつもりです。どこであろうとも、誰に対してであろうとも」

 

 私は彼女を見据える。どういう感情で私の話を聞いているのかは、何となくしか分からない。きっと本人にもよく分かっていないのだろう。しかし、今日ここで先生に問いかけたことで私は確信した。彼女は探すことのできる人間だ。探すべきモノを教えたところで、探そうとしない人間は沢山いる。そんな中で彼女はしっかり探すべく模索を繰り返して、自問自答をして、その末に答えを出そうとしている。それが分かっただけでも十分だ。あやふやな信頼ではなく、根拠に基づいた信頼と言える。

 

 私は今の北宇治はこのままでは遠からず崩壊すると感じている。とは言え、誰かしらその前には動き出すだろうとも思っている。その嚆矢は必ずしも黄前さんではないかもしれないけれど、どちらにしても何かしら動き出すだろう。このままで良いという選択肢は無い。この部活は今、自分の演奏に集中できていない。それ以外の多くの要素に目を向けすぎている。誰かへの評価、誰かからの評価。そういうモノに目が行き過ぎて、肝心なところを見ていない。

 

 このままでは負けるだろう。見つめるべき場所を分かっている集団は強い。迷えるのはある意味で強者の特権なのかもしれないが、迷いすぎてもどうしようもなくなってしまう。秀塔大附属はその点強いだろう。迷ってる場合じゃないので突っ走る。それは、一昨年の北宇治には存在したエネルギーであり、今は失われつつあるモノでもあった。

 

「多少は、何かしらのヒントになりましたか」

「はい」

「それは良かった」

「あの、お二人ともありがとうございました」

「もう、よろしいのですか?」

 

 本当は聞きたいことがあるんじゃないのか。そういう口調で、先生は聞いた。黄前さんは一瞬だけ迷ったようだけれど、すぐに首を横に振る。今この場で何を聞いても、きっとそれが外に漏れることはない。そして当然、我々がそれに対して怒ったりすることも無い。だから聞きたいならば聞けばいいのだ。けれど、彼女はそれを選ばなかった。

 

「大丈夫です。その答えは、自分で出します」

「そうですか」

「でも……もしかしたら、また、色んな理由を話していただくことになってしまうかもしれません。今度は、皆の前で」

「構いませんよ。それもまた、私の仕事の一つだと思っています」

「ありがとう、ございます」

 

 彼女のかたい声を聴いて、先生は少し考えた後机の引き出しを開いた。

 

「黄前さん。手を出してください」

「手、ですか?」

「はい」

 

 おずおずと差し出された彼女の手に、先生はキャンディーを置く。

 

「以前に教頭先生からいただいたものです。他の部員には、内緒でお願いします」

 

 先生の眼差しが柔らかくなる。分かりにくいながらも、これが先生なりの激励なのだろう。

 

「立場が人を育てる、か」

 

 黄前さんが職員室から出て行ったあと、彼女が閉めた扉を見つめながら私は呟いた。

 

「それは?」

「去年の幹部会で、希美が言った言葉です。『立場に囚われるか、立場が人を作るかは、周りの環境次第』ってね。彼女は周りがもっと黄前さんを支えてくれることを想定していたようですが、現実はもっと彼女にとって厳しかった。応援してくれる人はいても、支えてくれる人は、もしかしたら存外少ないのかもしれませんね。それでも彼女は育った。まさに立場が人を育てたのかもしれません。まぁ本人からしてみればたまったモノではないかもしれませんが」

 

 本当に支えるべき存在は今機能不全に陥っている高坂さんのはずだったのだが。そのためにドラムメジャーを置いたのだ。部長の職務から音楽技術向上のための指導を切り離して、より負担を軽くするために。そして、部長を支える存在をしっかりと明確な立場で副部長以外に用意するために。塚本君と高坂さんががっちりと部長をバックアップすれば、大体のことはどうにかなると思っていた。諫言役は本人が望んでいるかはともかくウチの妹がいる。それで万全だと想定していたのだが……現実はどうも上手く行かない事ばかりだ。他の三年が思ったよりも高坂さんに対して強く出れないことも原因かもしれない。

 

「なるほど、傘木さんらしいかもしれませんね。彼女が一年生の時にその力を上手く発揮できなかったのは、周囲に恵まれなかったからかもしれません。だからこそ、三年生の時には素晴らしい奏者になれた」

「そういう事だと思います。部長経験者の言葉は重みが違いますね」

「えぇ。桜地さんもそうですが、見えている景色が少し変わってくるのでしょう。私は学生時代から今に至るまで、長という立場とは無縁だったもので、よく分からない部分もありますが……」

 

 部長経験者であり、一流の奏者だった。みぞれが超級だっただけであって、それは別に希美の格を落とす事には繋がらない。どうも吹部はその狭いコミュニティの中だけでヒエラルキーを作るので、視野が狭くなりがちのようだ。視点をもっとマクロにすれば、去年のソロ二人はどちらも国内有数だろう。だからこそ、全国大会にも行けたわけで。希美の演奏は確かに届いていた。それこそ、直接戦った相手にも、しっかりと。

 

 そんな存在がずっと一貫して優子を支持し続け、時には仕事を引き受けていたりもしたからこそ、上手く回っていた側面もあるだろう。ウチの妹は支える、というのには些か口うるさいかもしれないが、黄前さんを支持しているという点では一貫している。ただし、やはりどうしても批判をしたり意見を言うと支持していないと思われがちだ。その辺はもう少し上手くやればいいのだろうけれど、難しい部分もあるのだろう。

 

「立場が人を育てる。流石傘木さん、と言うべきでしょうか」

「でしょう? 流石私の彼女です」

「あなたが誇ってどうするんです。お元気ですか?」

「はい。ウチで元気に過ごしてますよ。彼女がいるおかげで、色々と助かっています。妹のメンタルが基本安定しているのも、彼女のおかげでしょうし。まぁそれはともかく、黄前さんに関してはこのまま見守って行けばよいでしょう。とは言え、良かったんですか? この前のオーディション結果に対して説明するとなれば、異論を許すことになりかねないですよ。そうなれば、二年前の二の舞です」

「……確かにそうかもしれません。ですが、説明するだけで必ずしも二年前のようになるとも限らないはずです。部の状態を鑑みて、部長が必要だと判断したのならば、私は顧問としてそれに応える義務がありますから」

「分かりました。では、そのように」

 

 私は先生の言葉に頷く。黄前さんは成長している。黒江さんに対して自分が抱いている感情に名前を付けることも、もうすぐ出来るだろう。そうすることが出来れば、きっと彼女はもっと前に進んで行けるはずだ。

 

 問題はもう一人、停滞している方である。つまりは高坂さんであるが、彼女を何とかしない事にはどうにもならないだろう。一回どこかで上手く行かない経験をした方が良いとは思っていたが、大学時代で良いかとも思っていた自分がいた。しかし、色々な巡り合わせの末に今がまさにその上手く行かない状況になっていた。

 

 彼女の人生は割と順風満帆だ。少なくとも私よりは。失敗や挫折はあったけど、自分のやり方そのものが間違っていたという種類の挫折をしたことがなかった。だからこそ、今彼女は不安定になっている。希美は彼女に伝えないといけないことがある、と言っていたがそれが何なのか私には分からない。ただ分かるのは、放置していても碌な事にはならないだろうという未来予測だけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「先生、お願いします」 

「分かりました」

 

 音楽室で、黄前さんが先生に頭を下げている。先ほどまで行われていた音楽室内のごたごたで、こういう結論になったらしい。我々指導陣がいては出る意見も出ないだろうと思い一度職員室に引っこんだのだが、その後割とすぐに駆け込んできた黄前さんによって、私たちは引っ張り出されていた。

 

 結論として、黄前さんは部長の職責で以て先生に説明してもらうようにお願いすることとなったようだ。それ自体は特に問題ないと思う。この状況を生み出したのは先生であるのだし、オーディションの審査をする側のとしての説明責任は存在している。

 

「皆さん、私は今、部長からの要望を受けてここに立っています。これから行うことは先日行ったオーディションの結果に関する説明です。しかしながら、それはオーディションの結果を変更することとイコールではありません。あくまでも私は、関西大会には今のメンバーで臨もうと考えています。ですが、皆さんの中に、納得できないという意見が存在していることは、事実として認知しました。本来ならば、もっと早く説明するべきであったと思っています。申し訳ありません」

 

 先生が頭を下げている。部内には困惑の雰囲気が広がっていた。これまで顧問が謝るなんてことはほとんどない事だったからだろう。特に下級生からしてみれば、普段は厳しい先生が頭を下げているなんて想像もできない姿だと思う。

 

 とは言え先生の説明は決して珍しいモノでも特別なモノでもない。ごく普通の選考理由であり、それは私の解釈とほぼほぼ同じであった。つまりは、上手い奏者ならば辿り着くであろう解釈なのだ。ただしそれでも影響はある。結局のところ、誰が言うのかが大事なのだ。選んだ本人が語る理由と、そうでは無い人間が語る理由。たとえそれが同じ内容であったとしても、信憑性や信頼度にはどうしても差が出る。当たり前のことではあるけれど、選んだ本人が言っている言葉の方が重みが出るのだ。

 

 私は選んだ本人ではないので、横で事態の推移を見守りながら先生に視線を送る部員たちを観察している。感情面で納得しているのかは人それぞれだろうけれど、理性面で理解はしてくれている部員が多いように思えた。彼らも結局、答えが欲しかったのだろう。困惑と不安の中で、今自分たちが歩いている道がどういう経緯のもとで、或いはどういう理由に基づいて作られたものであるのかを知りたかった。根本にあるのは、そんな小さなことであるのかもしれない。

 

 その不安を取り除けたのならば、この説明会にも多少の意味があったと言えるだろう。

 

「……私が説明できるのはここまでです。皆さんが納得しているのかは分かりませんが、私は皆さんが目標とした全国大会出場を叶えるために、一番最適な方法を模索しています。決して簡単に正解が出せるわけではありませんが、それでもこれが最善だと信じています。以上です」

「ありがとうございました」

 

 黄前さんは立ち上がり、先生に頭を下げている。部内にあった重苦しい空気は少しだけ軽くなったような気がする。ブラックボックスだった部分が多少なりとも明らかにされただけでも、部員たちからしてみれば随分と大きな差だったのだろう。それなりに時間は使ったが、問題になっているユーフォやチューバだけではなく、フルートやトランペットなどなど全部のパートの選考理由をキチンと説明していた。

 

 そこまでしろとは黄前さんも要求していないのだが、これを機に全部話してしまった方が良いと先生も判断したのだろう。実際、どういう方向性で努力をすればいいのか分かりやすくなったのは意味のある事だと思う。

 

「今、私たちは先生に説明してもらいました。これが正しい事なのか、私にはよく分かりません。もしかしたら、わざわざこんな事をして頂かないといけないのは、私たちの弱さが原因なのかもしれません。他の学校がどうしているのかも、私たちは全く知りません。ですが、これで少なくとも、答えは出たはずです。皆の心の中に、この前のオーディションの件で色々な感情があったことは、しっかりと受け取りました。そしてそれを幹部が上手く汲み取れなかったこと、自分達のことだけに掛かりきりになって本当に見ないといけないことに目を配れていなかったことも。でも、私たちは今、少なくとも全員がどこかで疑問に思っていたことの答えを得ることが出来たはずです。それが自分の納得できるものだったかは分かりません。ですが、答えっていつでも自分が納得できるものというわけではないと思います」

 

 彼女の言っていることは正しい。生きている中で、何度も答えに遭遇することはあるだろう。けれど、その答えが自分の望んでいるものではないという事も、往々にしてあることだ。そこでそれを見ないフリをしていては、ただ目を背けているだけでは、何も解決しない。御神籤ではないのだから、望んだ結果になるまで何回やり直しても同じ答えしか出てこないのだ。

 

「今日、この場限りで終わりにしましょう。オーディションに関して、何か言うのは。どうしても言いたいことがあるなら、私か先生に言ってください。それ以外の場所では、どんなことであれ、決して言わないようにしてください。それは独り言だろうと、友達同士であろうと、周りに人がいるいないに関係なくです。納得できなくても、理解できる回答を貰いました。なら、次に私たちがやるべきことは、あと数えるほどしかない時間を大事に過ごして、その先にある関西大会に挑むことだけのはずです。そこに向かって練習するだけのはずです。そして関西大会を突破して、もう一回チャンスを作りましょう。悔しい想いをした人が、それを晴らせるかもしれない機会をもう一回作りましょう!」

「「「はい!」」」

 

 大きな声で返事が返って来る。パシッと何かが切り替わった音がした。部内の中に存在していた空気が大きく動こうとしている。ブラックボックスが解明されて、ぼんやりとした疑問や不安に答えが与えられた。そしてもう一度、エンジンが回り始めたのだ。元々大なり小なり全国大会に行きたいという想いは一致している。それならば、見る方向が同じになれば後はどうにでもなるだろう。

 

 空気。それは不定形であり、目には見えないもの。だからこそそれは容易に集団を支配する。容易に形成されてしまう。そのくせ、解消するのも変更するのも動かすのも非常に難しい。けれど黄前さんは先生の協力があったとはいえ、今確かに空気を動かした。多少無理矢理ではあるけれど、少なくとも前向きな方向へと変換したのだ。これは中々出来ることではないと思う。

 

 しかし問題があるとすれば……と視線を向ける。小さく俯いたまま自席に座ったままの高坂さんは何を考えているのか読み取れない。ツンとした空気を出している妹と何かしら論戦をする羽目になったのは容易に想像できるが、その結果多分負けたのだろう。だからあんな風になっているのだと思う。しかし、ただ負けただけならともかく、一体何を言われたのか。後でちょっと事情聴取をしないといけないだろう。誰かしら聞けば、多分応えてくれるはずだ。

 

「では、練習を始めます。よろしいですね、皆さん」

「「「はい!」」」

 

 軋みながらも動き始めて前を向いた部活とは対照的に、高坂さんの表情はずっと暗いままだった。それでも演奏に支障を出していないのは、彼女なりのプライドと言えるだろう。或いは、これまで培った技術がそれを許さないのか。

 

「高坂さん、これから少し……」

「……すみません」

 

 全体練習の終わりに声を掛けても、高坂さんは小さな声でそう言うと走って行ってしまった。心配そうに見つめているトランペットの後輩たち。追いかけようかどうするべきか一瞬逡巡している私を吉沢さんが引き留めた。

 

「先輩。多分、今は行かない方が良いと思います」

「どうして?」

「麗奈ちゃん、さっき割と涼音ちゃんにボコボコに言われてました。結構キッツイこと言われたので、かなり堪えてるんだと思います」

「だったら、猶の事フォローしてあげた方が良いと思うけど」

「本当ならそうなんですけどね。でも、麗奈ちゃんに限ってはそうじゃないと思うんです。涼音ちゃんの言ってることはかなり厳しいですけど、別に間違ってると言うわけじゃないですし。先輩が行ったら、上手く解決しちゃいそうじゃないですか。それだとダメだと思います。それじゃあ、麗奈ちゃんの中には傷ついたけど、先輩のおかげで何か解決したって言うモノしか残らない。本当に麗奈ちゃんのためを考えるなら、一回考えてもらうべきです。自分で、グルグルグルグル悩みながら。自分が正しくないかもしれない時にどうするのか。それは、麗奈ちゃんが導き出さないといけない事です。だれにも頼るな、って言うほど私も酷じゃないですけど、さっさと答えをあげちゃいそうな先輩だけは取り敢えずダメです」

「……分かった」

 

 彼女の真剣な言葉に私は頷くしか出来なかった。今は助けてはいけない。吉沢さんはそう言った。彼女は、私が思った以上に高坂さんのことをよく見ていて、よく理解している。合宿で見せたような、凄く複雑な感情を抱えてはいるけれど、それはそれとして高坂さんの事を友達として大事に思っているのだろう。だからこそ、安易な選択肢では無くて、高坂さんが苦しむことになるけれど彼女にとって必要と思う選択肢を選んだ。

 

 真夏の廊下は熱光に照らされている。けれど、彼女の走り去った廊下の角は、光が当たらず暗くなっているままだった。

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