音を愛す君へ   作:tanuu

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第十七音 祭り

 放課後の音楽室にメロディーが流れる。指揮棒を振りながら、全体の様子を確認する。音程が合っているかどうかなどは耳で確認しつつ、目では各奏者の指の動きや表情、目の動きを追っている。失敗していたり、苦しんでいたりする箇所を確認するためだ。自分の力で改善したり、先輩にアドバイスをもらい改善することもあるけれど、そうでない場合はテコ入れをしないといけない。

 

 演奏して、修正し、また演奏する。フィードバックを繰り返しながら何回も演奏して、より質の高いものを目指していく。音楽は割と地道な作業だ。それでいて本番一回に全部集約されてしまう。練習でどれだけ出来ていても、本番で失敗すれば終わりだ。そういう意味では非常にコストパフォーマンスは悪いかもしれない。

 

 尤も、音楽をコスパで考え始めたら終わりだと思うが。

 

「前にもお話したように、この課題曲は二つの要素で構成されています。則ち、スペインとフランス。おんなじようなもんだろうと思っているかもしれませんが、これは全く違う国です。文化も言語も。ですので、曲調にも表れていますが表現を変えないといけないわけです」 

 

 前半のスペイン部分はフラメンコの様式を取り込んだスパニッシュなテイストになっている。一方で後半のプロヴァンスは甘美な香りを漂わせている。この違いはメイン使われている楽器などでも表されているし、当然メロディーにも表現されていた。

 

「特に今の部分はフランスのリュベロン地域にあるラベンダー畑をイメージして書かれています。と言っても正直微妙だと思いますので、取り敢えず写真を送ります」

 

 携帯を取り出して、部全体のグループに何枚か送り付ける。

 

「確認してみてください」

 

 各々ポケットなどに入っている携帯を取り出して確認していた。アルバムの下の方に眠っていたのを昨日の夜思い出したのだ。昔旅行した時に撮ったものである。こんな時に役に立つとは思わなかった。何事も経験だ。

 

「私はカメラマンじゃないのでそんなに上手ではないですが、大学の……確か二回生の時に撮ったものです。スペインと南フランス。ラベンダー畑もありますね。運よく持っていたのでこれを参考にして情景を思い浮かべられるように、優雅さを持って演奏すること。よろしいですか?」

「「「はい!」」」

「それでは携帯をしまって頂いて。それからもう一度やります。あと三十分ほどしたら解散となりますので、それまで気を抜かないように」

 

 課題曲は当然だが他と被っている。それはつまり比較されるということ。元々存在しているプロの演奏との比較だけではなく、実際に会場で演奏する団体同士の比較も行われている。とは言えその評価基準などに関しては議論が絶えない部分である。だとしてもやるしかない。一番上手ければ問題ないというのが極論だ。

 

 全体練習をしているのだが、今日はやはりどこか浮ついている演奏だ。まぁこればっかりは仕方ないところがあるのも事実。それは指揮役が先生に代わっても大して変わりはしなかった。先生はどうやら職員会議があったらしい。祭りの見回りに関してだろう。

 

 直すべきところを指摘しながら進めていけば、あっという間に時間はやって来る。時計の針はくるりと周り、時間は終了時刻になる。それに気付いた部員の顔はどこかソワソワしていた。先生もそれは分かっているのだろう。キリの良いところで手を下ろした。

 

「Jのトロンボーンはもっと歯切れよく。ここはしっかり一音一音を見せてください」 

「「「はい!」」」

 

 先生は元トロンボーン奏者だったらしい。それもあってか、やはり専門の所は見る目が厳しくなる。反対に、我々二人はどっちも金管を歩んできた。木管専門の指導員やパーカッションの指導員が欲しいところだ。出来ているとはいえ、コンバスという数少ない弦楽器の指導者も。

 

「よろしいでしょう。今日はここまでとします。何かありますか?」

「Hの8小節目のトランペット。ここで演奏は終わりですが、クラリネットにバトンタッチする場所です。この部分の終わり方に注意してください。休符などもそうですが、終わりの部分で変に跳ねたりしないように」

「「「はい!」」」

「以上です」

「ありがとうございました。それでは解散です。お祭りだからと言って羽目を外し過ぎないように」

「「「ありがとうございました!」」」

 

 終わった途端、弾けるように声が音楽室中に満ちる。今日何時に集合する? 神輿見る? どっかで花火しよっか。浴衣着る? などなど。流れてくる声は愉快そうだ。逆に言えば、普段溜まっている鬱屈とした練習への疲れを無理にでもここで晴らしてしまおうとしているようにも見える。

 

 まぁどのようにこのイベントを過ごすかは個人の自由に委ねられている。公序良俗に反しなければ。私は先約があるので、友人の誘いは断ってきている。その先約相手に今日の予定を聞くために、私はトランペットパートの席へ向かった。

 

「今日、何時にどこ集合がいい? 私は五時半以降ならいつでも空いてるけど」

「えっと……じゃあ六時に宇治駅前でどうですか? 京阪の」

「大丈夫だよ」

「それじゃあ、そこでお願いします」

 

 去年のあがた祭りは正直そんなに記憶にない。確かクラスの男子数人で適当に歩いていた気がする。七時くらいからバイトだったので、そのまま途中で抜けた思い出しかない。そのせいで微妙に印象が薄いのだ。

 

 子供の頃は何回も行っていた。夏休みにやっている花火大会もそうだが、お祭り系にうちの家はよく顔を出していた。その理由を知るのはもう少し後になってからである。まぁ普通に協賛企業に入っているのと、宇治に居を構えて長いからだ。

 

 そんな祭りなのだが、どういう風の吹き回しか今年は後輩と二人である。別に嫌ではないし向こうがそれでいいなら全然構わないが、一年生同士で行けば良いのにと思わないでもない。

 

「え、そこ二人で行くの?」

「そうだけど。そういう君は中世古先輩にフラれたんだろ?」

「フラれたわけじゃないから!」

 

 吉川はリボンをトサカのように逆立てて威嚇してくる。どうやらあんまり触れて欲しくない部分に触れたらしい。けれどこれは結構いつものこと。吉川が先輩にフラれるのは何回も見る光景だ。どうやら先輩の中の優先度は同学年>吉川らしい。

 

「あんたならまぁ大丈夫だと思うけど、後輩に変なことしたらぶっ飛ばすから!」

「そんなことしないから」

「何かされたら言うのよ?」

「はーい!」

「信用無いなぁ」

 

 フラれたと言ったことへの意趣返しだろう。本気で言っていないことはよくわかっている。それくらいの関係値はあるはずだ。何だかんだ、周囲がどう言おうと吉川は一貫して私への支持を取り下げていない。女子のコミュニティで自分の意見を貫く難しさは私の想像の域を出ないけれど、それは決して容易いことではないはずだ。

 

 安易に流されないというのが彼女の良さなのだろう。ただ、それは時々裏目に出て面倒なことにもなるのだが。そんな吉川は加部と(本人にとってすれば甚だ不本意であろうが)中川と一緒に行くらしい。犬猿の仲と言いつつ、吉川と中川の両名にはそこしか通じ得ない何かがあるようにも思える。

 

 そんなことを思っていると横からジトっとした視線が飛んでくる。そんな視線を送って来るパートメンバーはただ一人。滝野だ。

 

「で、どうしたんだ」

「なんでお前は女子と行けるんだよ」

「君も誘えばいいだろ、クラスにしろ部活にしろ」

「……」

「あぁ……ごめん」

「謝るな!」

「前言ってたちょっといい感じのクラスの子はどうした」

「普通に彼氏いるって……」

「……ドンマイ」

「なぁ、付いて行ってもいいかぁ」

「君に恥という物は無いの?」

「あるけど背に腹は代えられねぇ! 十メートルくらい後ろからついて行くだけでも良いからさぁ。頼むよ、吉沢もな? 頼むから」

「え~」

「でもそれストーカーみたいだな」

「あ、確かに。じゃあダメです」

「うわぁぁ……」

 

 泣き真似をしながらどこかへ行ってしまった。吉沢さんもだんだん滝野の扱い方が上手くなってきたのかもしれない。真剣に捉えようとすると困惑することばかりなので、適当に流すくらいがちょうどいいのだ。なお、彼は高坂さんには同じような対応をしようとしない。そういう変なところでチキンな部分が彼の彼たる所以だが、そんなに恐れなくても良いと思う。

 

 情けないとも言えるけれど気のいいとも言える彼の背中を見ながら、私と吉沢さんは顔を見合わせて笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 お祭りに集まった人の熱気が町を満たしている。両親が健在だったころから懇意にしている商店街や神社関連者への挨拶を行って商工会議所を出た時にはもうそう感じるほどだった。提灯が並び、屋台がその灯りを放っている。

 

 食べ物の匂いがそこらかしこに充満し、話し声が数多く折り重なりながら薄暗くなった夕空に消えていく。この中にきっと吹部のメンバーもそれなりにいることだろう。人混みをかき分けながら集合場所へ向かう。それだけでも結構時間がかかった。着いたころにはもう丁度いい時間になっている。

 

 挨拶回りのせいで私は制服のままだ。私服に着替える時間も無かったのはちょっと残念である。折角高校に入ってから初めてのしっかりしたお祭り参加なのに。時計を見て時間を確認し、間に合っていることに安堵した。待ち合わせに遅刻するのは人として良くない。

 

「お待たせしました」

 

 声をかけられ振り返ると、浴衣姿の後輩。この時間で着替えてきたらしい。黄色い生地に赤い帯。髪には小さく髪留めがしてある。足元は紅い鼻緒の下駄をしている。見事なまでにお祭りセットという出で立ちだった。割とスピーディーに着替えてきたらしい。もう少し余裕を持った時間設定にしておけば良かったかもしれないと思った。

 

「大丈夫、今来たばっかりだから。浴衣、似合ってる。私もなんか着替えてくれば良かった。ごめんね、折角可愛くしてくれたのに」

「い、いえ、そんな……」

「じゃ、ぼちぼち行こうか。あんまり遅いと混むし。もう既に結構人混みだから」

「はい」

 

 奇妙な組み合わせのまま連れ立って歩きだす。後輩が服を着替えてきたのだから、一応それに対する言及はしたのだけれどこれで合っているのだろうか。一応後輩女子と行くと言ったら妹が目の色変えて色々言ってきたのを思い出す。半分も覚えていないが。

 

 縁日は混みあっているが、動けないほどではない。提灯の灯り、色んなものの焼ける匂い、雑多な声。更け行く初夏の夜は不思議な生命感に溢れていた。カランコロンと下駄の音を鳴らしながら、彼女は私の目の前を楽しそうに進んでいく。それをのんびり追いかけながら、喧騒の中を歩いた。

 

「何食べようかなぁ」

 

 あ、そんな話もしてたと思いながらこっそり財布の中身を確認する。野口が五枚と樋口が一枚。まぁ何とかなるだろう、これだけあれば。しばらく節制生活になりそうだが、後輩にあんまり格好悪い姿は見せられない。

 

「取り敢えず……綿あめですかねぇ」

「はいはい。了解です」

「え、ホントに買ってくれるんですか?」

「ちょっとだけならね」

「わーい」

 

 嬉々として屋台の店主に注文している姿を見ていると、昔を思い出す。妹と来た頃、こんなような会話をしたような気がする。あの時あの子は何を選んだのだったか。全国一律500円の謎には触れないようにしながら綿あめを渡す。財布は軽くなるけれど、まぁこれで彼女が気分転換になるなら良いだろう。

 

 気分転換と言えば、もう一人の後輩のことも若干心配である。黄前さんと上手くやれているのだろうか。黄前さんの言っていたあんまり悔しかったのか分からない中学時代の府大会と、高坂さんの言っていた「本気で全国行けると思ってたの?」という発言をした同期の話を組み合わせると、多分その台詞を言ったのは黄前さんだ。

 

 なんなら思想的には180度違うような気もするけれど、まぁ黄前さんもずっと熱心に取り組んでいるから考え方も変わっているかもしれない。ただ、悔しさという感情とはまだ無縁のように思えた。多分彼女はオーディションに受かる。田中先輩には勝てないけれど、それをあまり悔しいとは思わないタイプだろう。先輩後輩の経験の差があるからだ。

 

「次は焼きそばで!」

「はいはいちょっと待ってね」

 

 別の後輩の事を考えていたら、目の前の後輩がドンドン手を引っ張りながら先に進んでいく。その度に何か食べているのだが、体重的にその辺は気にしないのだろうか。今度太りましたと相談されたらどうしようかと、一瞬本気で悩んでしまった。

 

 お祭りの途中には知り合いともすれ違うことが何度かあった。中世古先輩たちや吉川たちともすれ違う。後藤と長瀬のカップルも見つけたが、見なかったことにした。というより何と言うか、世界が完結していたので割り込めなかったのである。

 

「あ、秋子ちゃんだ!」

 

 人の声が満ちる環境でも見知った声はよく聞こえる。吉沢さんの名を呼ぶその声の主は、ホルン隊の一年生である瞳さん。黄色いリボンとツインテールがトレードマークの子である。後ろには同じ一年生の森本さんもいる。森本さんは経験者なので、ちょくちょく瞳さんに教えてくれるよう最初の面談で頼んでいた。

 

「ちょっとララ、迷惑だよ」 

「え? あ、桜地先輩」

「こんばんは。二人だけ?」

「この後ホルンの先輩と合流するんです」

 

 森本さんが諫めるまで私に気付かなかったらしい。浴衣姿の同期には気付くのに、毎日全体練習で前に立っている制服のままの私には気付かないのかと、ちょっとガックリする。とは言え男子の先輩に対する興味なんてまぁそんなものだろう。

 

「秋子ちゃん、それどうしたの?」

「買ってもらっちゃった」

「えぇ~いいなぁ~」

 

 瞳さんはりんご飴を見ながら羨ましそうにしている。私もそこまで詳しくなかったが、吉沢さんとはそこそこ仲が良いらしい。一年生同士、パートを超えて交流があるのは良いことだ。吉沢さんが立派に人間関係を築いているのに、高坂さんは黄前さんと吉沢さんだけ。ちょっと悩ましいが、無理強いするわけにもいかないので気長に見守るしかないだろう。

 

「せんぱ~い、私も食べたいなぁ」

「ララ! すみません先輩……」

「別に気にしてないから全然いいですよ。今は部活中でもないですし」

「ほら、先輩もこう言ってるし」

「そういう問題じゃないと思うけど……」

「ダメですかぁ?」

「しょうがないなぁ」

 

 袖すり合うも他生の縁という。ちょっと使い方が違うかもしれないが、ここで会ったのも何かの縁だろう。情報屋と名高い彼女に悪印象を持たれるよりはよっぽどいいだろう。

 

「りんご飴とみかん飴、どっちがいいですか?」

「りんごが良いです!」

「元気でよろしい。森本さんは?」

「えっと、じゃあ、みかんを」

「了解。りんごとみかん一つずつ」

 

 どんどん軽くなっていく財布に内心冷や汗を流しながら、屋台にお金を払った。最近のりんご飴とみかん飴は切ってくれるらしい。その方が食べやすいから、むしろなんで今までそうしなかったのか不思議なレベルだ。

 

「はい、どうぞ」

「「ありがとうございます!」」

「楽しんでくださいね。後、先輩に会ったら優しい桜地先輩が買ってくれました! って宣伝しておいてください」

 

 最後のは冗談としても、後輩の楽しんでいる姿が見たかったというのは間違いではない。勿論一年生からの好印象は確保しておきたいという打算も多少は入っているけれど。走っていく後輩を手を振りながら見送った。

 

「……先輩は後輩に優しいですね」

「後輩というより、年下かな。私も昔そうしてもらったから、その分っていう感じ。そういうのは巡り巡って自分に返って来ると思ってるから」

 

 その言葉を言った時、吉沢さんが一瞬だけ見せた翳ったような表情の意味を考える間もなく、次のお店へと彼女は進んでいく。子供のようにはしゃぐ姿はさっき見た顔がまるで嘘のように思えた。提灯か屋台の光加減のせいなんじゃないかと思うことにして、私もその後に続いた。

 

 

 

 

 

 

 夜はすっかり暮れて九時くらいになる。結構歩いて疲れた。元気そうな彼女だけれど、少し足が痛そうにしていたので、そろそろお開きにしようかと提案する。明日も普通に部活はあるのだし、無理しない方が良い。

 

 お祭り自体は一晩中続く。このお祭りの神事は明かりのない暗闇の中で、梵天渡御と呼ばれる儀式をすることにある。この神輿の通過する時は沿道の家も明かりを落としてそれを迎えるため「暗闇の奇祭」として有名だ。似たようなもので東京都府中市の大國魂神社の例祭などがある。けれど我々は未成年。青少年なんちゃら条例のために帰宅しないといけない。

 

「今日はありがとうございました。結局沢山ごちそうになっちゃって」

「別に気にしなくて良いよ。好きでやってることだし」

 

 見栄も張れない人生なんてごめんだと思っている。それも後輩の女子相手に。今の時代にそんな事言うと叩かれそうだけれど、内心で思ってるだけなら別にいいだろう。大事な後輩でもあるのだし。

 

「足、大丈夫?」

「まだまだ平気ですよ」

「それは良かった。けどもし辛かったら言ってね。運ぶから。それと、家は木幡の辺りだっけ?」

「はい、その辺です」

「分かった。送ってくよ」

「良いんですか?」

「女の子一人で返したら、妹に殺されちゃうからね」

 

 それじゃあお言葉に甘えて、という彼女と一緒にのんびりと戻っていく。木幡駅は京阪で宇治駅からは割とすぐだ。数駅離れるとあのお祭り独特の熱気は無く、静かで閑静な住宅街が広がっている。

 

 その中を二人で歩いた。道中には同じように帰りがけであろう人がチラホラ。それも完全に住宅街の中に入るといなくなる。頼りない光を放つ街灯がポツリポツリと灯っている。提灯とは違い、随分と心細いに無機質な光だった。

 

 道中は吉沢さんの話を聞いていた。彼女はパート内だと別におしゃべりという訳ではない。そもそもウチのパートはそこまでうるさいわけじゃないから、標準的なのかもしれない。一番言葉が多いのが滝野か吉川という感じである。なのでここまでよく話してくれるのは珍しく感じた。

 

 それは信頼されているのか、或いはお祭りで少しハイになっているのか。髪飾りを隠さないように狐のお面を付けたまま彼女は歩いている。

 

「着きました」

 

 ある家の前で彼女は立ち止まる。表札には吉沢と書いてあった。一軒家の窓からは小さな明かりが見えている。

 

「今日は楽しかったです。付き合ってもらってありがとうございました」

「私もいい経験になったし、お礼なんていいよ。むしろ、こっちが付き合ってもらったみたいなものだから」

「いえ、誘ったのは私ですし、こっちがお礼を言うのは当然ですよ。それにお財布厳しいのに甘えちゃいましたし」

「それはこっちが好きでやってることだから」

「そういう先輩はカッコいいですけど、私は別にカッコ悪くても良いと思いますよ。それじゃあ、また明日から練習よろしくお願いします! おやすみなさい!」

「うん、お休み」

 

 家の中に入っていく彼女を見送り、その扉が閉まったのを確認してからくるりと反転して家への道を歩き始める。

 

「ふぅ……」

 

 小さく息を吐いた。後輩だとは言え、女子相手は気を遣うので疲れる。中々なれないことをしたせいで疲労感があった。けれどそれはこれまで部活で感じたどんよりしたものよりは幾分かスッキリとしたものである。空は晴れているけれど、街灯のせいか家の灯りのせいか星は見えない。人影のない住宅街に私の足音だけが響いている。

 

 カッコ悪くてもいい、か。それはどういう意味なのだろうか。もうちょっと弱みを見せても良いという意味なのかもしれない。一年生の、もっと言えば部員の前で弱みを見せることを私は避けてきた。極端なまでに。それは部の運営に差し障るという観点が大きい。

 

 例えば先生の弱みは分かりやすい。先生は人間関係に関する配慮が下手くそだ。それは大なり小なり皆分かっているだろう。恐らく田中先輩などの敏い人はもうとっくに気付いている。私にだって当然ダメな部分も弱い部分も存在する。けれどそれを見せるわけには行かない。運営に差し障るのもそうだし、それを理由にしょうがないなどと妥協された目で見られるのは私のプライドが許さない。

 

 私は完璧に近い存在でないといけない。そうあるように努力しないといけない。瑕疵があってはいけないし、出来ないことなど無いかのようにしないといけないのだ。それが求められている姿であり、もっともやりやすい姿でもある。私が嘆いたり弱音を吐くことを誰も求めてはいないし、許しはしないだろう。

 

 私は彼らの時間を一つに使うように仕向けた。その過程で多くの良くない方法を使っている。それの代償がそれなら安いものではないか。高坂さんの尊敬する私はきっと、そういう存在なのだろう。

 

 だから私は優しい後輩の言葉に背いて、これからも同じように振る舞うのだろう。想いを無下にしながら。だけれどあの言葉に何も感じないわけじゃない。嬉しかったのは事実だ。

 

 

 

 

 

 

 ピロンとメッセージが来た音がする。彼女といる間は携帯はほとんど使わなかった。せいぜい何枚か写真を撮る程度。おかげで充電は90%近い。メッセージの相手は塚本君だった。明日相談したいことがあるらしい。最近は結構相談が来ることも増えた。信用されているのなら嬉しいけれど、疲れないかと言えば話は別になる。

 

 了解と返す。黄前さんは高坂さんと一緒のはずだし、本命に告ってフラれたとかではないだろう。では恐らく逆のパターン。つまりは告られたという事である。さてこればっかりは私もほとんど経験がない。とは言えこれは想像。一応聞いてみることにした。

 

「金と恋愛どっち?」というメッセージには、すぐ返信が来る。「恋愛です……」という文字は幾分か力がないように見えた。その後に追加で続きが来た。「告られたんですけど振っちゃって」という事らしい。ほら、私の思った通りだ。

 

 しかし問題はやっぱり私の経験値が少し不足しているという事。そういう時は有識者に聞けばいいのだろう。吉川にどうしたらいいのか聞いてみることにした。「女子 振ったと相談 どうすればいい」と送ると、割とすぐに吉川の既読が付いた。数秒後けたたましく着信音が鳴る。

 

「ちょっとアンタ、どういう事!?」

 

 人混みの中なのだろうけれど、彼女のキンキンとした声は電話口でもよく響く。

 

「いや、後輩の話」

「秋子ちゃん振ったんじゃないでしょうね!」

「本人に聞いてみればわかると思うけど全然違う。と言うか、そういう目的で出かけたわけじゃないし」

「……嘘吐いてたら絞めて消す」

「何を」

「首を、そして社会的立場を」

「怖っ!」

 

 本気で恐怖を覚えて携帯から少し耳を離した。吉川と話していてここまで恐怖を覚えたのは初めてだった。

 

「で、実際どうすればいいんだ。相談を受けようにも経験値が足りない。君、一年の時に沢山振ってたでしょ、先輩後輩拘わらず。何かアドバイスをくれ」

「そんなの知らないわよ、ケースバイケースなんだし。大体人をGoogle検索みたいに使わないでよ」

「同期の女子 宥め方」

「はっ倒すわよ!」

 

 電話の向こうで良いぞもっとやれ~と中川の声がする。どうやらまだ一緒にいるらしい。なんだかんだ仲が良いようだ。

 

「まぁ真面目な話をすると、相手と今後どういう関係になりたいかによるんじゃない? お互いに。まだ未練があるならそういう反応になるだろうし、意外と告白されて意識するってこともあると思うし。逆に気まずいからもう関係ごとカットっていう事もあるだろうけど」 

「君は意識したことあったの?」

「ないわよ。私は香織先輩一筋だし~」

「だろうね」

 

 聞いた私がバカだったかもしれない。確かに彼女が男子に靡いている姿はあんまり想像できない。彼女を好きになった男は中世古先輩を超えないといけないのだろう。それはちょっと無理があるのではないだろうか。かぐや姫もドン引きの課題である。

 

「なんか参考になった」

「勿論。それっぽい感じに言えそうだ」

「別にアンタだって経験ないわけじゃないくせに」

「同学年に興味はあんまりないから。今は恋愛なんてしてる暇ないし」

「ま、それでいいなら好きにしたらいいと思うけど。じゃ、夏紀がうるさいからそろそろ切るわよ」

「あぁ、ありがとう。中川と末永く仲良くな」

「はぁ!? アンタ目腐ってんの? アイツと私は別になか……」

 

 長くなりそうだったのでブチっと切った。その直後に鬼のようにメッセージが飛んでくる。これは虎の尾を踏んでしまったのかもしれない。大人しく通知音をオフにして、携帯をしまった。

 

 後輩の恋愛相談なんて適当にすればいいという考えもあるだろう。けれどそれがまわりまわってどんな影響を及ぼすかなんてわからない。ならこれだって吹奏楽部の為に必要なことのはずだ。それに、自分のことを少なくとも多少は尊敬してくれている後輩の相談なら乗ってあげるのが先輩というものだろう。

 

 少なくとも、正直終わっている先輩を何人も去年見てきた身としては、あれを反面教師にしていきたいと思うのだ。初夏の夜に風が吹き抜ける。生暖かい昼とは違い、六月でもほんのり肌寒い。少し汗ばんだ肌に吹き付けるそれは、幾分心地よかった。

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