音を愛す君へ   作:tanuu

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第百四十音 ミカンシャーベット Viewpoint from 希美

「ふんふんふーん」

 

 自転車を漕ぎながら私はよく分からないフレーズを奏でていた。夏の夕暮れはまだまだ暑い。日差しは日中よりも弱くなっているとはいえ、それでも十分気温も湿度も高かった。茜に染まりつつある空の向こうに、大きな入道雲が天に向かって伸びている。

 

 何だろうこのフレーズはと考えて、よく行くスーパーで流れている音楽だという事に気が付いた。何となく特徴的なフレーズだったので、無意識のうちに覚えてしまっていたらしい。でも仕方ないと思う。あそこは野菜が安いし、ポイントが結構貯まる。家からの距離もそこまで遠くないし、自転車で十分に通える距離だった。

 

 私が凛音の家に引っ越してから半年近く経過した。付き合う前も後も、何回だって来ていた家だったけれど、自分も住むとなるとまた話が変わって来る。二階が無いという小さなことから、凄く巨大な面積まで、色々と戸惑うこともあったけれど今では自分では結構馴染めているのかなと思っていた。田舎にいるおじいちゃんおばあちゃんの家みたいな和風の感じは、結構好きだった。夏は暑いけど、景色は凄く良い。夜が暗いのはちょっと……怖い時もあるけれど。

 

 私がこのまま人生を歩んでいけば、この後何十年も同じ家に住んでいくことになるのだと思う。二十代にもなってないのに終の住処なんてちょっと想像もできない。でも、悪くないなぁと思っている自分がいる。確かに古いし、色々不便な事が無いわけではないけれど、それでも凛音と一緒に過ごせるならばきっと大丈夫だろうという確信があった。大学の友達からは若奥様じゃーんと言われてしまった。まだそんなんじゃないよ、と否定しながら、にやけてしまう口元を抑えるのが大変だったのを思い出す。

 

「桜地希美、かぁ……」

 

 信号待ちをしている時に呟いて、周りに誰もいないことにホッとした。凄く痛い妄想をしている自覚はある。でも馴染みが凄くあるような気がする。私は自分の名前が好きだったし、桜地っていう名字も綺麗だと思う。私はいつ、この名前を書くことになるのだろう。傘木で無くなる日はそんなに遠い未来ではないような気もする。将来について考えているのは私も凛音も同じだろうけれど、私だって女子なので、プロポーズはして欲しいなぁ、なんてちょっと考えていたりする。

 

 ペダルを漕ぐ足に力を入れて、湿った風を浴びる。帰ったら冷房で涼もうと決めた。桜地邸は住宅街のど真ん中に忽然と姿を現す家だった。航空写真で見たら、そこの部分だけ異質な感じになっていた。後付けのガレージは家の裏側に存在している。そこに自転車を停めるので、正門前は通らないでその大分手前の角で曲がるのだ。そこで曲がろうとしたら、家の正門前に誰か立っているのが見えた。宅配便の人か、何かウチに用のある人なのかなと思って、曲がらずに真っ直ぐ進む。

 

 近づくのにつれて、その人影がハッキリ見えてきた。長い黒髪、すらっとした立ち姿、着ているのは懐かしい夏服。

 

「高坂さん……?」

 

 一瞬なんで彼女が家の前に立っているのだろうかと考えたけれど、何となく想像が出来た。もし用事があるなら、普通にインターホンを鳴らせばいい。ソロコンの時は家で練習していたんだし、何も知らない家じゃないと思う。けれどそうはしなかった。それはきっと、彼女の中に迷いがあったから。つまり、招かれて来たわけではない。凛音から話を聞いて、何となくこういう感じになるんじゃないかと思っていた。私の勘は捨てたものじゃないらしい。

 

 涼音ちゃんは割と高坂さんに対して限界まで我慢していたように見えていた。それは相当なレベルだった。どうにかした方が良いかなぁとも思ったけれど、多分変に介入しない方が良いと考えてやめていた。涼音ちゃんは色々我慢する性質がある。基本的に凄く優秀な子で、大体のことは何でも華麗にこなせてしまう。だからこそ、本当に限界になった時は通常の人の許容値を大幅にオーバーしていることが多い。それをもうちょっと頑張れなんて、そんな鬼みたいなことは私には言えない。

 

 凛音から聞いた話、涼音ちゃんの様子。そういうモノを考えればきっと近い将来、涼音ちゃんと高坂さんがぶつかるんじゃないかなんて、簡単に想像できる。部長経験者だから、というか経験者じゃなくてもある程度想像できる話だった。でも、これは必要なぶつかり合いだと思う。高坂さんにとっても、涼音ちゃんにとっても。

 

「高坂さん」

 

 俯いて、そして踵を返して帰ろうとした高坂さんに、私は声をかけた。

 

「希美、先輩……」

「どうしたの、こんなところで」

「……」

「うわ、凄い汗。どれくらい待ってたの? ごめんね、凛音はまだ学校だよ。凛音に用事なら、学校に行った方がいいけど」

「学校だと、その、お話ししづらいので。ご迷惑かと思いましたが、ここで待とうと思っていました」

「この真夏に? 熱中症警報出てるよ」

「……すみません、帰ります」

「あぁ、待って待って。別に追い返そうとは思ってないから。取り敢えず上がってよ。このまま返したら熱中症で倒れちゃいそうだからさ」

「いえ、それは……」

「良いから良いから。ここ、今は私の家でもあるんだし」

 

 高坂さんの手を引いて、無理矢理自転車の後ろに乗せる。取り敢えず買ってきたモノを冷蔵庫に入れたいし、自転車はガレージに戻さないといけない。正面からではないけれど、この際仕方ない。帰りは遅くなる可能性もあるし、凛音に車で送ってもらうのが良いだろう。それまでの間、私が出来ることをしようと思っている。それに、彼女に言わないといけないこともあった。

 

「うーん、取り敢えず……お風呂入ってきた方が良いね。そんな汗びっしょりじゃ、冷房の下にいたら風邪引いちゃうしね」

「え」

「いいから、行ってきなさーい。制服は洗っておくから。服はまぁ、適当にそれっぽいのを用意しておくよ」

 

 お急ぎモードでお湯を張って、戸惑っている高坂さんをお風呂場に放り込んだ。服は取り敢えず私のものを置いておく。多分胸元が苦しいと思うけれど、それくらいは我慢して欲しい。その間に洗濯機に彼女の服を放り込んで、さっさと回してしまう。

 

 高坂さんと私の関係性は、言葉にすると難しいと思う。私たちは多分、本来あまり交わる事のない関係だった。そこを繋いだのは凛音の存在だろう。私は恋人として、彼女は教え子として、それぞれ凛音と他の人よりも近い関係性を持っている。逆に言えばそれだけでもある。吉沢さんの方がまだ関係性としては分かりやすい。彼女はライバルだ。多分、私が気を抜くと取られる。

 

 高坂さんが私をどう思っているのかはハッキリとは分からない。多分、高坂さんはみぞれの方を尊敬しているのだと思う。多分、同じ奏者としての道を歩んでいるから。私は凛音の邪魔をする存在なのかもしれない。一度部を辞めている出戻りなのも、彼女に微妙に舐められている原因だろう。その辺は別に気にも留めていないけれど。

 

 私から見た高坂さんは、凄く複雑な相手だ。私は凛音の人生のパートナーにはなれるかもしれないけれど、音楽面での孤独を解消することは出来ない。彼の孤独な玉座に挑んで、そこから解放できるのは高坂さんだけなのだろう。少なくとも、凛音はそう思っている。それは凄く悔しいこともある。彼女として、自分の恋人が自分以外の女の子について悩んでいたり頭を使っていたり、話をしていたりするのはあまり好ましい状況ではない。高坂さんに凛音に対する恋愛感情は無いのはよくよく分かっているし、凛音もそういう対象としては見ていないのも分かってる。でも、分かってるのと納得できるのは別問題だった。

 

 多分、高坂さんは海外に留学をするのだろう。凛音の背中を追いかけている彼女ならあり得る話というか、そうならない方がおかしいようにも思える。多分同じ国に行くのだろう。凛音はあの性格なので、高坂さんの面倒を見るんだろう。色々と言っているけれど、凛音は高坂さんのことを信頼しているし、期待しているし、見捨てたりしない。だからきっと面倒を見る。直接二人に文句を言うつもりはさらさらないけど、でも私だって嫉妬くらいするんだって、気付いて欲しさもあった。そう考えると、私も面倒なカノジョかもしれない。

 

「あの、ありがとうございました」

 

 高坂さんがおずおずとダイニングの扉を開けて入って来る。まだ少しだけ濡れた髪は濡れ烏という言葉を思い出す。そして私の服は彼女のスタイルのせいで虐待を受けていた。適当に引っ張り出した組み合わせだけど、顔とスタイルのせいで似合っているように見える。やっぱり顔が良いのは強いなぁと思う。

 

「どういたしまして。取り敢えず、お茶で良いかな」

「はい」

 

 椅子に座った彼女の前に、冷たいお茶を出す。彼女は一気にそれを飲んだ。あっという間にコップが空になる。余程喉が渇いていたのだろう。もしかしたらお風呂の前に水分補給だったかもしれないと反省した。彼女の肌が艶を取り戻している。何のスキンケアもしていないのにトゥルンとしていて少しため息が出た。身長があまり変わらないので余計にガックリくる。つくづく、彼女が凛音に恋愛感情を持っていなくて良かった。持っていたら勝てない。

 

「ありがとうございました、色々……。服も、後で洗って返します」

「気にしないで。あそこで高坂さんを返したら、私が気分悪いからね。そんなに気にしなくてもいいから。ちょっとは落ち着いたかな? アイス食べる?」

「いえ、大丈夫です」

「ミカンシャーベットあるよ?」

「……大丈夫です」

 

 今ちょっと悩んだなと分かって、思わず笑ってしまった。あんまり話したことが無かったけれど、可愛いところとか抜けているところも結構あるんだろう。真面目一辺倒ではないからこそ、人を惹きつけるという事もある。部活のエースとしての高坂さん以外の姿を私はほとんど見たことがない。知識として知っていることも、凛音や優子からの伝聞だ。自分の目で見たエースとしての高坂さんと、凛音や優子から聞くそれなりに生意気だけど可愛い後輩の姿との間には乖離があったけれど、今それがちょっと埋まった気もする。

 

 高坂さんがお風呂にいる間、一応凛音に連絡しておいた。今日はB編成の居残り練習監督や吉沢さんの個人練習指導をしているらしいので、帰るのは遅くなりそうだ。涼音ちゃんも同じような理由で遅くなると聞いている。多分ここで凛音がいるとまた話が拗れるし、涼音ちゃんに会わせると絶対どう考えても碌な事にはならない。だからこの状況はかなり好ましかった。雫さんも仕事中は部屋にいるし、そこまで気にしなくて大丈夫。話をするのには丁度良い環境だ。

 

「それで、さ」

「……はい」

「うーん、どう話したらいいのかなぁ。難しいね。あ、最初に言っておくと、別にお説教したいわけじゃないからね。私にそんな権利もないし、上手に出来ないから。だからちょっとお話ししたいだけ。で、高坂さんはさ、凛音に怒ってもらいに来たのかな?」

「それは、どういう……」

「そのままの意味だよ、別にそこまで難しい話でもなくって、そのまんま。ここからは私の勝手な想像というか推測だけど、高坂さんは涼音ちゃんと揉めた。それで、多分涼音ちゃんの方の要求というか言い分が通ったのかな。そして高坂さんは自分の正しさとかいろんなものを見失っちゃって、ここへ来た。凛音に怒ってもらって、次のステップに進みたいからとか、正しさに縋りたい自分を壊して欲しいからとか、そんな感じの理由で」

「……」

 

 この子の沈黙は図星なんだろうなと、何となく分かるようになった。もしかしたら上手く反論できないだけなのかもしれないけれど、高坂さんのように口が回って頭の良い子が上手に反論できない時点で図星とさほど変わらない。

 

「でも、お説教されるって逃げだと思うんだよね、個人的には」

「どうして、ですか?」

「お説教されるとさ、苦しいじゃん? 相手が間違ってて理不尽な事言われてるならあんまり気にしない事も出来るけど、相手がド正論突き付けてくるのは凄くこう、堪えるよね。相手が正しいって分かってても、何となく素直にそれを認めたくなくなる。それで、自分を正当化するようになる。そんなに言わなくてもいいじゃんって。言い方がメッチャ悪いけど、自分の中で自分を被害者ポジションに立たせられる。でもそれじゃ何の解決にもならない。だから私が呼んだら来てくれるかもしれないけど、私は凛音を呼ばない」

 

 多分、高坂さんが今家に来ていて、凛音と話がしたいと思ってると告げれば彼は帰って来るだろう。私がお願いすればさらに確率アップだ。それくらいには大事にされていると思っているし、高坂さんのことも目にかけている。分かっているからこそ、敢えてしない。それが私の選択だった。

 

 高坂さんには申し訳ないけれど、将来的にずっと高坂さんの傍にいてもらっても困るのだ。だから、高坂さんには凛音がいなくてもどうにかしてもらう経験を積んでくれないと、と思っている。

 

「まぁその代わりに話くらいは聞くよ。高坂さんは私の事、別にそんなに好きじゃないと思うけど、誰かに話すだけで楽になる事ってあると思うし」

「私は……間違ってますか」

「うーん、何において?」

「色々です、本当に、色々……。関西大会前のオーディションをしたんです」

「合宿の時だよね」

「はい。それから、色々おかしくなってるんです。全員で、全国大会金賞を獲るって決めました。そのために私も先生もやってきました。でも、先生を信じられないっていう人がいっぱい出て来て、挙句の果てに久美子も、先生を完全には信じられないって」

「そっか」

「おかしいじゃないですか。先生を疑っていたら、何も始まらない。顧問を信頼するのって全国大会金賞を獲るための前提のはずなんです。厳しい指導だって、当たり前にしていかないと、関西だって突破できるか分からない。桜地先生も秀塔大附属の指導をしてるんです。それも含めてきっと、他校は去年よりも上手くなってくる。それに勝って、北宇治を一番にするためには、こんなところで立ち止まってるわけにはいかないんです! 付いてこれないだけならまだしも、ついて来る気のない子に気を取られて金賞を獲れなかったら……何も報われないじゃないですか。ずっと真面目にやってる子の努力に報いるには、余計な事を気にしないで金を目指すのが正しいはずなんです! 先生の苦労とか、痛みなんか知らないくせに、それを知らないくせに自分の弱さを覆い隠す道具にしてるのが許せなかった。でも、一番許せないのは、そんな不信感を少しでも抱いて、ちょっとでも動揺してしまった自分です。自分の弱さです」

「高坂さんは、滝先生を信じられなかったの?」

「信じているつもりです。でも、久美子や桜地さんがソリに落ちて、どうしても動揺している自分がいました。なんでだろうと、一瞬でも思ってしまいました。それから、どうしても前みたいに信じることが出来ないんです」

 

 椅子に座りながら、拳を握りしめて、身を震わせながら彼女は告げる。その姿は強くて勢いのある彼女のエースとしての姿とは程遠い、自分の世界を守ろうとしている普通の女の子に見えた。久美子ちゃんもそうだし、涼音ちゃんの事も高坂さんには大きな事だったのはちょっと意外だったけれど、考えてみればおかしくないと思う。涼音ちゃんは高坂さんが招いて自分の補佐にした。自分が才能を認めた子の落選は、自分の価値観を壊してしまう原因になったのだと思う。もしかしたら、高坂さんは今回の結果も涼音ちゃんがソロだと思っていたのかも入れない。

 

「そっか。高坂さんは、怖かったんだね」

「怖かった……?」

「うん。高坂さんは滝先生のことが好きで、ずっと昔から知ってる。凛音や他の子よりもずっと前から。だからこそ、滝先生を信じてきた。だからこれまで何を言われても、信じて頑張ってこれたんでしょ?」

「はい」

「つまりさ、高坂さんにとって滝先生はアイデンティティみたいなものだったんだと思う。でもそれが壊れそうになっちゃった。だから、高坂さんはそれが怖かった。そして、そんなに必死になってる。壊れそうな世界を守りたいから」

 

 それは別に悪い事ではないと思う。自分の世界を守りたいなんて、誰だって持っている普通の願いだ。私だって持っていたし、涼音ちゃんや凛音だってあるだろう。守りたいからこそ、攻撃的になってしまう。守りたいからこそ、都合の悪い事から目を背けてしまう。分かりやすい「正しさ」に飛びついてしまう。そして、自分が普通であることは彼女にとって許せない事なんだろう。だから、この事実に気付きたくなくて悪循環に陥る。それが今回の件の大きな原因になっていた。

 

 そしてそれは、小さな変化を許せなくなる。だってその変化が全てを壊してしまうかもしれないし、変化は世界の変革を意味するから。

 

「だから久美子ちゃんとも喧嘩したのかな?」

「どうして、それを……?」

「だってもし久美子ちゃんと何もないんだったら、ここには来ないかなぁと思って。普通に久美子ちゃんに相談して終わってそうだしね。ここにわざわざ来たってことは、久美子ちゃんを頼れない状況なんじゃないかな」

「部長失格と、そう言いました」

「そうなんだ。高坂さんは、それを後悔してる?」

「……」

 

 彼女はまた沈黙した。表情を見る限り、何も思って無いわけじゃないようには見えた。

 

「なるほどね。今言ったみたいなことをぜーんぶ涼音ちゃんにグサっと言われたんだね?」

「……はい。私が一番先生を信じられないみたいに見えると。オーディション三回制の導入方法に関して、間違っていたと。そして、希美先輩や桜地さんが私のせいで奪われた桜地先生との時間を返して欲しい、と」

 

 涼音ちゃんは涼音ちゃんで、高坂さんには複雑な感情を抱えていたのは知っていた。それが今回爆発して、その複雑な感情が言語化されたのが、高坂さんに告げられた内容だったのだろう。

 

「それで高坂さんは自分が間違っているのか、それとも実は正しいのか分からなくなったんだね」

「はい」

「そっか。うーん、私はね、高坂さんにお説教したいわけじゃないんだけど、これだけはどうしても言っておかないといけないなってことがある」

「なんですか」

「ごめんなさいって、言える?」

「……は?」

「気を悪くしたならごめんね。煽ってるわけじゃないんだけど、高坂さんって謝ったことある?」

「一応、ありますけど……」

「自分とか行動の方が大きめに間違ってた経験も?」

「……」

 

 高坂さんの弱点は、多分謝ったことが少ない事だと思う。勿論、日常の小さな謝罪や感謝はごく普通にあるだろう。ただ、大きい謝罪なんてしたことがほとんどないんじゃないだろうか。聞いた話でしかないけど再オーディションの時に生意気な事を言ったと優子に謝ったことはあるらしい。ただ、当事者ではないとはいえ、これに関しては優子が悪い部分が大きいので、高坂さんは別に罪悪感とかは無かったはず。今回のケースみたいに、割合にすると自分の方が分の悪い場合に謝ったことがあまりないのだろう。

 

「やっぱり私が全部悪かったってことですか」

「ゼロか百かで考えるの止めなさいって凛音にも言われなかったかな? 私が思うに、高坂さんがどう考えても悪いこと一つ目はオーディション三回制の導入じゃないかな。それに関しては本当に謝るべきだと思うよ。勝手に導入するのは良くないからさ、普通に。ちゃんと相談はしないとね」

「それは……はい」

「そこは認められるんだね?」

「はい。これは、本当に幹部の落ち度だったと思います。もっと、相談するべきでした。経験者は何人もいるのに……。北中じゃなくてもっと強い中学に行くべきだった、と桜地先生に言われたのを思い出します。もしそうしていたら、私も桜地さんみたいな経験を得られたのかもしれないのに……」

 

 それは多分、最初に弟子入りを一度断った時に凛音が言ったんだろう。言いそうだなぁと思った。自分の望む進路を得るために、最大効率を歩んでいく。それが彼の本来の人生設計だ。だから留学したのだろうし。北宇治という、彼の人生設計的には大きな寄り道と言える選択をしてくれたのは、凄い幸運だったのだと思う。

 

「他のことに関しても、ほとんどのことについて私は正しいとも間違ってるとも言えない。でも、間違っている部分が少しでもあると思うなら、謝った方が良いんじゃないのかな」

「自分が悪くないのにですか?」

「高坂さんは真っ直ぐだね。それは凄く良いところだと思うし、曲げて欲しいとは思わないよ。でも、悪くないなら正しいのかって言うと、そう言うわけじゃないでしょ? 正しい事だけ言ってて正解なら、私は退部してないしさ。私は今でも、自分のやろうとしたことのきっかけとか想いは間違ってないと思ってる。でも、やり方は正しくなかったんだろうね。だから上手く行かなかった。それに、自分の正しさって、他の人も正しいと思ってくれないとただの独りよがりだし。高坂さんは幹部だよね。幹部は、自分の事も大事だけどそれ以上に周りについて考えないといけない。それは高坂さんの苦手な事かもしれないけど、苦手なのってやらなくていい理由になるわけじゃないよ」

 

 時には自分を曲げて頭を下げないといけないこともあるんだと思う。そうしないと上手く行かないこともある。いつだって自分が正しくて、それをみんなが共有してくれて動いてくれるなら苦労しないだろう。凛音だってそのはずだ。部活を改革しようとする凛音や滝先生は正しくても、それが必ずしも最初からうまく行っていたわけでも無い。下げなくてもいい頭を下げて、凛音は三年生をまとめていた。それが必要な事だったから。自分の正しさを通すにも、手段は考えないといけないし、時間もかかる。私は直接体験したわけじゃないけれど、後で聞いてそう思った。

 

「それに、高坂さんは久美子ちゃんにも謝らないといけないかもね」

「……」

「確かに、高坂さんから見れば、先生を信じられない部長なんてありえないかもしれない。でもさ、部長って、私も経験してたから分かるけど正しければ良いってわけでもないし、いろんな意見を聞かないといけないんだ。押さえつけて上手く行くことなんてほとんどない。それが出来るのは、一部の本当に才能のある人だけ。それこそ、涼音ちゃんみたいにね」

 

 涼音ちゃんの中三の時のように。あの時は顧問の先生が大問題だったけれど、もしこれで普通の先生だったら、或いはもっと良い先生だったら、あのまま回っていたんじゃないだろうか。大きな波乱も無く結果を出していたと思う。それくらいにあの統治はすさまじかった。

 

 でも久美子ちゃんはそういう子じゃない。凛音が聞いた久美子ちゃんの理想は「皆が北宇治を好きになってくれるような部活にしたい」だそうだ。そのためには、誰も取りこぼしたくないと願っている。それは甘っちょろい夢なのかもしれないし、厳しい現実に立ち向かうにはあまりにも弱い夢なのかもしれない。でも、その夢を私は綺麗だと思ったし、素晴らしいと思った。もし、私が部員なら彼女を支持するだろう。

 

 その理想を掲げているからこそ、久美子ちゃんは高坂さんに迎合できなかった。彼女の譲れぬ信念が、高坂さんを突き放すことを選んだ。

 

「久美子ちゃんは、誰も取りこぼさない部活を、北宇治を好きになってもらえる部活を作ることを目指してる。それは多分、ずっとブレないであるんじゃないかな。高坂さんがそれについてどう思うかは分からない。でも、高坂さんがドラムメジャーである以上、幹部として部長の下にいる以上、その理想を最後には目指さないといけないんじゃないかな。私はそう思うし、凛音はそうしていたと思う。そしてその理想のために今回、高坂さんにとっては許せない意見でも受け入れようとしてる久美子ちゃんは、部長失格ではないと思うよ。これが高坂さんが悪いんじゃないかなと思う事二つ目。高坂さんの信念がどうであれね。これについては、どう思う?」

「……はい。その通りだと、思います」

 

 それが、涼音ちゃんがどうしても高坂さんを許せなかったポイントなんじゃないかと思う。部長である優子を立て続けた凛音を見ていたのに、自分は部長失格なんて言う高坂さんを、涼音ちゃんは許せなかった。凛音の後継者として、絶対に認められない言葉だった。

 

 涼音ちゃん本人は久美子ちゃんのことが好きとかではないと思う。でも、部長として認めてはいたし、最後には指示に従うつもりだと言っていた。

 

「私は、ずっとこのままなんでしょうか。部活に関してはどうにかなると、楽観的かもしれないですけど、思ってます。でも久美子は……」

「どうだろうね。そのまま喧嘩別れってこともあるとは思うよ。でも、そうならないための方法もあると思う」

「それは……?」

「さっき言ったよ。ごめんなさいって言える? って。高坂さんが知ってるのかは分からないけど、私の退部関連で、私と凛音は一回喧嘩別れしてる。でももう一回関係性をスタート出来たのは、偶然とか運とか周りの協力とかもあったけど、ちゃんと謝れたからだと個人的には考えてる」

 

 ぐちゃぐちゃな会話だった。今思い出しても支離滅裂な事を話していた気がする。でも、大事な部分だけはちゃんとしていた。あそこで最初に謝れたからこそ、全てはもう一度始まり出したんだと思っている。その根底には、ずっと存在していた謝らないといけないという感情があった。

 

「もし高坂さんがこれからも久美子ちゃんと関係性を作りたいと思っていて、ちゃんと自分の悪かった部分を見つめられるなら、大丈夫。少なくとも、私は大丈夫だった」

 

 まさかそこから結婚が見えてくる関係性にまでなるとは思ってなかったけど。

 

「まずはさ、一回ちゃんと謝ってみたらいいんじゃないかな。自分を見つめ直して、何が悪かったのか考えて、その上で。謝ることは負けじゃないよ。むしろ、素直になれないで頑ななままでいる方がよっぽど負けだと思う。過ちてなんとかって偉い人も言ってるわけだし」

「……」

「まずは自分と向き合ってみないとね。それは怖い事だし、自分の嫌な部分とかも見えてくるから気分もあんまり良くないと思うけど、でも絶対に必要な事だし、高坂さんがこれから生きていくうえで無駄にはならないと思う」

 

 私も去年、自分の弱い部分とか嫌な部分と向き合うことになった。今思い出しても気持ちのいい体験では無かったけど、あれは無駄ではなかったし絶対に必要な事だと思っている。弱い部分を知ることは逃げでも負けでもない。むしろ、勝ちに行くために必要な事だ。今の私ならば、自身を持ってそう言える。

 

 不思議な事に、これまでの人生の失敗とか経験とか、そういう色んなものがここで高坂さんと相対する時の糧になっているように思える。もし、私のあまり順風満帆とも言えなかったこれまでの日々が誰かの助けになるのなら、あの時の苦しみとかにも意味がある気がする。

 

「ごめんね、なんかお説教っぽくなっちゃった」

「いえ、そんなことは。とても、ありがたかったです。失礼ですけど、なんで桜地先生が希美先輩を好きになったのか、分かる気がしました」

「そう?」

「はい」

「まぁ、なら良かったけどね。私はどう頑張っても部外者だし、出来ることなんて大したことじゃないから、結局は高坂さん自身に頑張ってもらうしかないんだけど。あぁ、そうだ、最後に大事な事。涼音ちゃんは高坂さんが奪ったって思ってるかもしれないけど、私は別にそうは思ってない。まぁ確かに? もうちょっと私の方を見てくれるといいなぁと思わないでもないけど? でも、高坂さんの先生をしてる凛音のことも、私は好きだから。それも含めて、というかそれも納得して付き合ってるし。だから高坂さんは気にしないで、自分の夢を追いかけて。そのために、わざわざ凛音の教え子になったんでしょ?」

 

 嫉妬する自分がいない訳じゃない。でも、好きな人の好きな姿であるのも事実。多分最後の最後にひっかかっていたのはそこだったのだろう。高坂さんにとって、最大のウィークポイントだった部分がこの話だった。だからこそ、涼音ちゃんの言葉が一番突き刺さった。私が言った言葉の影響か、少し顔色は良くなっている。

 

 彼女は色々ぐちゃぐちゃになっていたのだろう。誰にも相談できないまま、自分でずっと抱え込んで袋小路に入って。それは去年の私の姿に似ていた。だから放っておけなかったし、こうしてアドバイスもどきをしている。凛音みたいに上手くできたのかは分からないけれど、少しくらいは何かしらいい影響をあげられたなら良かった。

 

「じゃあ、お話は終わりにしようか。そろそろ脱水も終わっただろうし、服回収しないとね」

「ありがとう、ございました」

「はーい。そうだ、私が洗濯物やってる間にミカンシャーベット、食べる?」

「……いただきます」

「うん、そうこないとね」

 

 私は少しスッキリした彼女の顔を見て小さく頷くと、立ち上がって冷凍庫を開けた。きっと彼女は大丈夫だろう。元々強い子だった。今は少し、自分を見失っていただけで。自分を見失っている時の感覚はよく知っている。だからこそ、手助けしたいと思った。謝れない頑なさは昔の自分を見ているみたいで、だからこそ手遅れになる前に言わないといけないと思った。

 

 ヘドロのような感情に囲まれて動けなくなっていた私を綺麗だと言ってくれた彼のように、手を差し伸べてくれたあの時の姿のように、今の私もなれているのだろうか。そんな風になれていたら良いなぁと思いながら、食器棚からスプーンを取り出す。窓の外は、あの日みたいな夏空だった。

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