朝の生徒指導室の空気は決して良いモノとは言えなかった。この空間には現在、高坂先輩と私と兄さんがいる。昨日、大勢の前で高坂先輩を非難した身としては、昨日の今日でこうして顔を突き合わせることに気まずさを感じないと言えば噓になってしまう。自分があまり悪い事をしたとは思っていないけれど、それとこれとはまた別問題でもある。
一方の高坂先輩もどこか居心地の悪そうな顔をしていた。向こうも多分、同じような事を考えているのだと思う。昨日の通常練習が終わった後、一目散にどこかへと去ってしまった彼女がその後どうしたのかはよく分からない。普通に家に帰ったのか、どこかへ行ったのか。その辺は全く不明だった。
ただ、何となくウチに来たんじゃないかと思っている。さしたる根拠はないけれど、昨日冷蔵庫を覗いたらミカンシャーベットが二つ消えていた。希美先輩は自分が二個食べちゃったと言っていたけれど、そういうタイプじゃないのは知っている。それとこれを繋げるのは些か飛躍しすぎかもしれないけれど、何となく自分の考えが真実からそう遠くはない気がしていた。
兄さんは表情から感情が良く読めない。若干疲れている気がするのは、多分昨日もあれから色々指導をしていたからだろう。高坂先輩だけがパブリックエネミーとなってしまわないように、方々に手を回していたと聞いている。その一環と言うべきか、パートリーダーたちも割と厳しめに指摘されたらしい。二年生の剣崎さんはともかく、三年生で同期なんだから高坂先輩一人に責任を全部押し付けたりしないようにと言われたと、沙里先輩が言っていた。私の行動が招いた結果なので、その尻ぬぐいをしてくれていることには感謝しかない。
二年生の中でも顔が広い面子には私から話をしている。久石さんは高坂先輩絶対許さないモードになっているので何を言っても効果が無いだろうから除外しているが、それ以外には葉加瀬さんなど影響力のある子には色々と説得した。吹部での影響力には演奏力が大きく関わって来るため、元南中組が多かったのも幸いしたと言えるかもしれない。私としてはとにかく、これを機に高坂先輩の悪口が蔓延するとかは勘弁してほしい。そういう状況を作りたくてあそこで立ち上がったわけではないのだから。
今のところ、私の知る限り昨日の一件は部長の言葉もあって触れない方向性で空気が醸造されつつある。しかし、滝先生の説明により一気に方向性が固まった感じがあった。北宇治高校吹奏楽部がやっとひとまとまりになりつつあるのだ。後は高坂先輩から何かしら言葉があり、部長や私との和解を演出できれば最後のピースがハマるだろう。結局、高坂先輩はどこまで行っても部内のトップエースであり、北宇治には欠かせない存在なのだ。
「さて」
兄さんが重苦しい声音で口を開いた。高坂先輩は部長失格発言が知られていることをまだ知らない。それでもポジティブな状況ではないためか、顔は暗く、兄さんの声にもビクッとした反応を見せている。
「部長失格と、そう言ったと」
「……」
「事実?」
「……はい」
「そう」
一応部長から手出し無用とは言われているけれど、流石にノータッチではいられなかったらしい。声はあまり感情を感じさせない冷たい声になっている。普段は何か注意する時でももう少し優しい声音で話しているので、余程腹に据えかねているのだろうとは思った。部長の前では一応取り繕ったけれど、今はそうする必要もない。
「君、黄前さんに感謝しなさい」
はぁ、と呆れたような声を出した後、兄さんはおもむろにそう告げた。高坂先輩の困惑した顔が私の視界に映る。
「彼女はこの件は自分たちでどうにかするから黙っていてくれと私に告げた。なので、この件に関してはあまり口を出さないつもりでいる。もしそうじゃ無かったら今こんな優雅に話してない。だから黄前さんに感謝することだ。彼女がいなかったら、君には未来永劫欧州の土を踏めないことを覚悟してもらうことも視野に入っていた」
「……ッ」
「やりたくは無いけれども、やりたくないと出来ないはまた別の話。こんなのでも一応は業界の重鎮ポジションにいる。私は別に直接的にどうこう言ったりはしない。ただ、私はあの子が好きじゃないと言う。それだけで、楽団は君を取らない。例え大学での成績が一番でも。まぁ、そんな事はしないし、しないからこそ信頼を得られている部分もあるから私にとっても諸刃の剣なんだけど」
どの指導教員につくかで人生が決まってしまうこともあると聞いた。そういう縁故も大事になって来る社会の中で、兄さんは一番上の階層に位置しているのだろう。普段は努めて大人しくしているんだと思う。だからこそ、ここぞという時に使う権勢だったりが有効に機能する。アメリカにまで通用するのかは分からないけれど、ヨーロッパで兄さんが首を横に振ったら、少なくともトランペット界隈ではやっていけないだろう。
「言って良い事と悪いことがある。もう十八でしょう、それくらいは分かってくれていると思っていた。言い方には気を付けろって、二年前にも話したはずなんだけど?」
「……はい」
「何が『はい』なの? 言葉で頷いて肯定するだけなら誰でもできる。ちゃんと行動で示してくれないと困る。黄前さんが全部正しいとは思わないし、彼女にだって間違っている部分はあった。それでも、君の言葉は言い過ぎ」
「はい」
「ホントに分かってる? 不安だ、全く……。大体、先生にだって間違えることはある。先生も完璧な存在じゃない。ごく普通の、迷ったり悩んだりしながら生きている普通の人間だ。君より付き合いの短い黄前さんの方が、その辺余程理解していると思う。我々からしてみれば、君みたいに妄信気味の信頼を寄せられる方が怖いよ。自分に何の過ちも許されないっていうのは、自分で覚悟しているのとそういう状況に追い込まれているのとでは全然感情的に違う」
「私は、先生があんな風に考えていらっしゃるとは、その、知らなくて……」
「知ろうとしなかっただけじゃなくて?」
「そう、かもしれません」
ふぅ、と兄さんはため息を吐いた。ここでハッキリと自分がしていなかったことを認めたので、兄さん的には希望が見えたのかもしれない。頑なだった部分がどういうわけか大分ほぐれているように思える。一日でこんな簡単に普通は柔らかくならない。自分で自問自答しているだけでは、多分こうならないだろう。私に言われたことだけでも、こうはならないと思う。氷を解かせる太陽があるとすれば、それはきっと多分、私の想像通りの人のはず。
「大人になると、痛みを隠すのが上手くなる。そして、大人は子どもの前じゃ泣けない」
「私は、子供だったってことですか。だから、滝先生は私に何も見せてくれなかった」
「そういう事になる。弱い部分を見せられるというのは信頼の証でもあるし、同時に対等性の顕示でもあると思う。あなたの事を信じていて、信頼していて、対等だと思っているからこそ、弱い部分を見せられますと、そういう事なんじゃない?」
多分、兄さんも高坂先輩には弱い部分を見せていなかったんじゃないかと思う。兄さんの弱い部分をちゃんと全部知っているのは希美先輩くらいだろう。私は兄さんにしてみればどこまで行っても妹で、どこまで行っても庇護対象だ。それは高坂先輩も同じ。教え子であり、後輩というのは対等になりようがない。
「そして先生なんて言われると、間違えられなくなってしまう。間違えた時に自分だけ傷つくなら良いんだけれど、生徒を傷つけてしまうことも大いにあるから。けれど君たちは違う。弱さを隠す必要はないし、痛かったら痛いと言ってもいいし、間違えたってかまわない。大事なのは、そこからどうするかでしょう」
「はい」
「で、じゃあどうするの?」
「私は……私はちゃんと全体に向けて話をしようと思います」
「そう。どんな話を?」
「私の間違っていたことについて、そして、部を混乱させてしまったことについてです」
「なるほど。どう思う?」
兄さんはここで私に話を振って来た。このために多分私は呼ばれている。全員の前で高坂先輩を糾弾した張本人が私だ。ここで私がうんと言わないと先には進まないだろう。
「最初に、全員の前で糾弾するような形になってしまったことは申し訳ないと思っています。兄さんや他の先輩方が協力してくださらなければ、今頃もっと大変なことになっていたと思います。特に久石さんは大激怒していますので……」
「あぁ、それね。私のところにも来たよ。あの子、多分私の事あんまり得意じゃないと思うんだけど、それを気にしないくらいの勢いで。あのドラムメジャーをどうにかしろ、お前の弟子だろ、解任するなりしてくれないと承知しかねると言って散々猛抗議して、四十分くらいずっとまくしたてられた。何とか納得して帰ってくれたけど、取り敢えず謝るまで絶対に許さないらしい。まぁあれだ、俗っぽい言い方をすればガチギレだ」
久石さんが部長派の筆頭格なのは言うまでもない。今回その敬愛する部長を失格呼ばわりされて大変ご立腹なのは知っていたが、そこまでとは思っていなかった。とは言え、希美先輩が同じように言われたら私もやっていたかもしれないので、心情的には同情できる部分も多い。
「それも含めてですが、幕引きは簡単な事ではないと思います。最低でも、高坂先輩には全体の前で頭を下げて頂く必要があるかと。部長と、そして全体に対して。全部が間違っていたというつもりは毛頭ありません。私だって今回の滝先生の判断を支持している人間です。ですが、殊にオーディション三回制の導入過程と合宿前後の部内での対応に関してはそちらに非があると私は思っています。その点、いかがですか」
私は一切歯に衣着せぬ言い方で告げた。最初にドラムメジャー補佐を引き受けた時に既に告げている。私は手加減しないで自分が正しいと思ったことを貫くがそれでもいいかと。それが嫌ならあの時にそう言えばよかったのだ。けれどしっかり申告した私を、それでも受け入れたのは高坂先輩の方。私は自分の行動にもう少し上手いやりようがあったとは思うけれど、行動理由に関しては間違っているとは思っていない。
イエスマンなんていらないと言っていた彼女が一番欲していたのが、自分の意見に共感してくれる人だったというのは何とも皮肉な話だろう。
「どう思ってる、高坂さん。話をするのは構わないけれど、この期に及んで自分の正当性を主張しても多分誰も同意してくれない。部長失格発言が無ければ、もう少しやりようはあったかもしれないけれど、アレのせいで君を大っぴらに支持するのは難しい空気だ。それこそ、二年前より状況が悪い。今の君は加害者だ」
「それは……理解しているつもりです。桜地さんの言う通り、頭を下げないといけないと思っています。それで何かが解決するのかは分からないですけど、何もしないよりは多分良いと思うので」
「そう、その考えに至れたならまぁ良いか」
兄さんは頷いた。やはり、高坂先輩の中で何か大きな変化があったのだろう。兄さんは何も言わないけれど、多分希美先輩の説得か何かを受けて、その結果でこうなっているんだと思う。当然、兄さんはその顛末を知っている。けれど敢えてここでは言わない選択をした。なら、私も変に口を出すことではないと判断する。
「それで大半は収まると思います。元より、高坂先輩の最近の行動に関してはともかく、これまでの実績は揺らぎようがない。幸い、二年には部長と秋子先輩が睨みを利かせています。そう簡単に揺らぐことはないでしょう、少なくともこの件では。真由先輩も一年生を上手く誘導してくれていますし、方々の協力でどうにかなるかと。問題は怪気炎を上げている久石さんですが……まぁこれは私と部長でどうにかします」
「桜地さん、私は……」
「別に何も仰らなくて結構です。兄さんとの間でどうにか話がまとまり、その上で部長や副部長、ひいては部内全体と上手く調整がとれたならば、それ以上言うことはありません。私もいらぬ事を言ってしまいましたし、お互いの落ち度ということでここはひとつ相殺という事にしましょう。前にも申し上げた通り、私は私のやりたい事、そうなって欲しいという願いのために行動しています。それは部がまとまっていないと成し遂げられない。結局、私とあなたの目指す場所は同じですし。そこへの辿り着き方が異なっていただけのことです。ですので、あなたが通常通りの実力を発揮し、部内がしっかりと結束した状態で大会に挑めるならば問題ありません。全ては、吹奏楽部のためです。言っておきますけど、辞めないでくださいね。今辞めるのは一番無責任ですので」
「それでも、ごめんなさい。私はあなたを、しっかり頼るべきだった。そして、もっと話を聞くべきだった」
「……私の方も、不躾な物言いをしました。申し訳ありません」
先輩が謝っているのに、こちらが頭を下げないというのも些か気分が悪い。それに、もう少しお互いに上手くコミュニケーションを取れていればよかった話だというのもその通りだ。だから、高坂先輩に応じるように頭を下げた。
「取り敢えずここで話がまとまったならそれでいい。後は今日の朝のミーティングでどうにかすること。その前に黄前さんにはキチンと言うべき事を言っておきなさい」
「はい」
「後はそう、私を追いかけるのは止めなさい。私と君は違う。同じような仕事が出来るわけがない。なにせ、違う人間なのだし。出来ること、向いている事は全く違う。それに君は奏者を兼任していて、私はそうでは無かった。同じ仕事量で回せるはずがない。私を追いかけたとて、君のやりたいことは出来ないだろう。それでは凡百の奏者と同じだ。私の背を追い続けるだけの人生を過ごしたい? 他の人と同じように」
「いえ」
「なら、自分をしっかり確立させなさい。私ばっかり見ていても、届けるべき場所に、君の音は届かない。合宿でも言ったけれど、君は自分を見てくれる人をもっとしっかり見なさい。君が私を見上げていたように、君を見上げている子もきっといるはずだ。以上、行ってよし」
「お手数をおかけしました」
「何を今更。君を含めて、問題児の相手は慣れてる」
高坂先輩は兄さんにもう一度深く頭を下げて生徒指導室を後にした。疲れたという顔をしながら、兄さんはソファーに深く腰掛ける。しかしその目や息とは反対に、口元には微かに笑みがある。なんだかんだ、兄さんは高坂先輩の事を気にかけているし、かなり大事に思っている。だからこそ今回いい方向に軌道修正できたことに安堵しているのだろう。
「嬉しそうだね」
「そう?」
「そう」
「まぁ、生徒が成長しているのは嬉しい事だよ。どういう経緯を経たにしろ、まだやり直せる場所にいる。傷は浅いうちに対処してしまった方が良い。今あの手の痛みに触れられたのは高坂さんにとっても良い事だろうし。人生何でもかんでも上手く行くわけじゃないし、自分のやり方が間違っている事なんて無限にある。たまたま彼女のこれまでの人生には存在していなかっただけで」
「ふーん」
「そう邪険にしないで。久石さん関連、どうにか出来そう?」
「大丈夫。高坂先輩を糾弾したのは私だし、その辺は責任をもって対処するから。それくらいは別に大したことじゃないし」
「そう。困ったらすぐに言ってくれ。部活の関係性以前に、私たちは兄妹なんだし」
「分かってる」
頼ったらきっとすぐに助けてくれる。それが分かってるからこそ、中々言いづらい。素直になるのは難しい事だと、他ならぬ自分が一番よく知っている事だった。それでもこうしてボールを投げかけ続けてくれるから、どうにか今までやって来れている自分がいる。高坂先輩に対してもそうだし、部長や他の部員に対してもそうだけれど、ちゃんと気にかけているのが分かる。それは時に厳しいけれど、優しさでもあるのだろう。
希美先輩は兄さんのどこが好きかと聞いたとき「優しくない優しさ」と言っていた。一見すると矛盾しているその意味が、何となく分かるような気がした。
朝のミーティングを前にした音楽室の空気はどこか落ち着かなかった。ソワソワとした空気は不安感を伴って、ひそひそとした話し声を生んでいる。私をチラチラ見る視線もあるし、久石さんをチラチラと見る視線もある。三年生の先輩はそれにあまり良い顔をしていないが、こうなるまでに至らせてしまったという負い目があるためか、何も言わないままだった。部長からは既に話があると全体に向けて通知が来ている。だからこそ、どういう話があるのかを全員が考えているのだろう。
ガラガラと音楽室の扉が開く。小さな声が自然と消えて行った。全員の視線は部長たちの方を向く。幹部の中でどういう話し合いが行われたのか、どういう会話があったのか、私には分からない。とは言え、部長たちの顔はそこまで固くなっていないので、取り敢えず何とかなりはしたのだろう。そこは部長と副部長が大人だったというべきかもしれない。ここで変に拗れないで済んでいるのは、どう考えても二人のおかげで高坂先輩は素直に指導に復帰できる。
「おはようございます」
「「「おはようございます!」」」
挨拶の後、前に立った部長は全員の顔を見回した。そして小さく息を吐いて、その上で前を向いて口を開く。
「今日は、既に連絡している通り、話したいことがあります。それは、これまでの部活運営に関することです。私は、みんなが北宇治を、そして自分を好きになれる部活を作る事を目標に、理想にしてこれまで部長として活動してきました。何故なら、私は学年も経歴も関係なくみんなが一つの目標に向かって進んで行く北宇治が好きだからです。だからこそ、この想いをみんなが共有できるような環境を作ることを目指してきました。三年生の皆は知っている通り、元々全国大会金賞を本当の意味で目指すという目標は、私たちが自分たちで作った目標じゃありませんでした。滝先生と、桜地先輩が見せてくれた夢でした。それでも私たちは全国大会の会場に足を運ぶことが出来た。それも二回も。そこに至るまで、本当に色々な事がありました。私の知っている事だけではなくて、多分もっと知らないところで沢山の出来事があったんだと思います。それでも、最後には皆同じ場所を見て、同じ夢を目指していました。例えきっかけは違っても、想いは違っても、同じ舞台で同じ夢を見れる。それが北宇治の、吹奏楽の良いところだと私は思っています」
どこか浮ついていた空気はすっかり消え去った。誰もが前方に視線を向けている。真剣に、部長の言葉に耳を傾けている。そうさせる力がその言葉には、雰囲気には存在していた。そう言えば、と思い出す。一つのカリスマだった優子先輩が選んだのが部長だ。あの時、優子先輩は今こうして話している部長の姿を思い描いていたのだろうか。
「そんな北宇治で金賞を獲りたい。最初に全国大会に出場することが決まった時から、それはこの部の目標でした。最初は手の届かない銅賞でした。去年はあと一歩のところで銀賞でした。どうやっても金には届かなかった。滝先生という良い指導者に恵まれて、桜地先輩という世界有数の奏者が付きっきりでいてくれる環境にいて。そういう他校が羨み妬むような状態にいて、なお結果が伴わなかったことは、私たちの間に暗い影を落としていました。だからこそ、何かを変えないといけない。そういう想いが私たちの間にありました。そして幹部で話し合って、今年のオーディションの形式を選びました。その想いや選んだオーディション三回制という選出方法が間違っていたとは思いません。より北宇治らしいやり方だとも思います。ですが、それを導入する過程で私たち三人の独りよがりとも言える行動があったことは事実です。桜地さんが指摘してくれたように、もっとパートリーダーや経験者、色々な人に相談して、意見を聞いて、皆で決めるべきでした。こうした独断での決定で、戸惑いや混乱を皆さんに与えてしまったことは、私たち三人の責任です。部長として、この場で謝らせてください。すみませんでした!」
大きな声で部長は謝罪を口にした。そして深く頭を下げる。それに続くように、高坂先輩と副部長も頭を下げた。私の後ろの方から、幾つもの戸惑うような感情が感じられた。部長がこんなにも深く頭を下げて謝っているのは滅多にない事だろう。綸言汗の如しという言葉がある。簡単に言えば上に立つ立場の人は言葉を選ぼうという趣旨の意味になる。まさにその通りというべきか、上に立つ存在は簡単に謝ってはいけない。けれど、それは謝らなくて良いという意味ではない。本当に謝罪しないといけない場所で頭を下げられるか。それも、資格の一つだと思う。そういう意味では、部長は部長たる資格があると言えるだろう。
頭を上げた部長と交代するように、高坂先輩が前に出た。
「私も、部長と同じように今年こそ金賞を獲ると決意して、これまでずっと指導に当たってきました。その中で、少なくとも音楽に関する指導での指摘で間違いがあったとは思いません。けれど、私は音楽以外の指導で、決して正しくない行動を取ってきました。部長を否定するような発言をした事も、付いてこれない子は放置するという発言をした事も、全て事実です。オーディション関連で出てくる意見を押さえつけようとしたことも、事実です。今更過去に戻ることは出来ませんが、発言は全て撤回した上で、先ほどの部長と同じようにここで謝罪したいと思います。誠に、申し訳ありませんでした」
部長とは違い静かに、そして厳かに高坂先輩は頭を下げた。多分高坂先輩にとって、こんな風に全体に向けて頭を下げるというのは初めての経験なのだろう。それでもそうする必要があるから頭を下げた。謝ることは負けだと、昔の高坂先輩なら言うのかもしれない。けれど今ならきっとそんな事は言わないだろう。先輩にとって、謝る事は、自分の間違いを認めることは敗北とはイコールでは無くなったのだろうから。
「傷ついた人を弱さと言い換えて、疑問や意見を我儘とレッテルを貼ってきた行いを許して欲しいとは言えません。先輩からも厳しいお叱りを受けましたし、桜地先生からも破門も考えたとの言葉を貰っています。ここでドラムメジャーを辞めて、桜地さんに譲り渡した方が良いとも考えました。しかし、それは一番無責任な事だとも思い知らされました。桜地さんの言う通り、部活の仲間を切り捨てようとした私が切り捨てられるのは、仕方ない事だとも思っています。ですがもしもう一度機会を与えてくれるなら、全力で挑みたいと思っています。これまでとは、違う方法で」
音楽室内の空気は固い。どうすればいいのか、分からないという空気が漂っていた。多分久石さんだけはどういう結果でも認めないと思っているのだろう。とは言えそれ以外の多くはそこまで強烈なエネルギーがあるわけじゃない。部長との間にあった何かしらが解決したのは何となく雰囲気で分かる。それならばあとはこちら側が許せるかどうかだけ。しかし、これまで部内で君臨してきた高坂先輩を許す云々の話に急に対応できるような状態ではないのだと思う。
その状況を見て、バトンタッチするように部長がもう一度前に出た。副部長ももう少し何か言っても良いとは思うのだが、敢えてここは部長と高坂先輩という渦中の人たちに任せているのだろう。その方がスムーズに話を進められると理解しているからだ。その判断はあまり間違ってもいないように思う。そもそも、副部長に関してはあまり落ち度らしい落ち度はない。精々、オーディション制度に関することくらいだ。
「私たちは決してスムーズに良い運営が出来たと、胸を張って言うことは出来ません。多分、私よりももっと良い部長になれる人はちゃんといるんだと思います」
部長がチラリとこちらに視線を向けた。私は多分、部長にはなれないと思う。ここは南中じゃないし、昔のようになりたいとは思えない。
「今考えれば、私には、覚悟が足りませんでした。オーディションの制度を導入する時も、覚悟が足りなかったからこそ、迷走してしまうことになりました。あの時覚悟があるのかと問うてくれたことを、もっと真剣に考えるべきだったと、今になれば分かります。この部活は、この部活の皆は、そんな私には勿体ないほど素晴らしい存在です。私は、そんな空間の中にいられることを、メンバーでいられることを、誇りに思います。だからこそ私が部長で良いのかとも考えました。でも、私はまだ諦めたくありません。まだ私たちにでも出来ることがあると思います。なので、部長であることを諦めて、誰かに譲り渡したくないと思っています。これは私たちのワガママかもしれません。今更そんな事を言われてもという気持ちがあっても仕方ないと思います。もし嫌だという声が大きいなら、身を引くことも覚悟しています。ですが、どうか私たち三人にもう一度チャンスをください。お願いします!」
部長がもう一度頭を下げる。それに合わせるように、副部長と高坂先輩も頭を下げた。少しばかりの戸惑いがあった。その数瞬の後、手を叩く音がする。
「いいぞー!」
チューバの加藤先輩が大きな声で良いながら手を叩いている。それに釣られるように、川島先輩も手を叩いた。それに続くように三年生から幾人も手を叩き始める。その輪が少しずつ広まって、徐々にその音が大きくなっていく。三年生から二年生に、二年生から一年生に。手を叩く音が音楽室を満たした。視界の端にいる久石さんは凄く不満そうな顔をしているが、ここで手を叩かないと部長も認めないことになっている。久石さんにも手を叩かせるために、部長は敢えて三人という形にしたのだろう。そうすることで、まとめて承認することになり、久石さんにも同意させられる。それを理解しているからこそ、久石さんも不満そうな顔なのだと思う。
私も手を叩いた。私は間違っていた事を認めて欲しかっただけ。辞めて欲しいわけじゃないというのは最初から言っている。
「ありがとうございます。この信頼を裏切ることが無いように精一杯努めていきます。だからどうか、皆も諦めないでください。これまで辛いことや悔しいことも沢山あったと思います。でも、それも私たちの一年のはずです。吹奏楽部のはずです。辛い事は分かち合って、楽しいことは喜び合って、そうやってこの部活を彩っていきましょう。それがきっと、大会に挑むうえで一番大事な事だと思います。綺麗なモノだけ見せるよりも、汚くとも醜くとも足掻いた軌跡を見せていきましょう!」
「「「はい!」」」
部長は少し潤んだ目で全体を見渡した後、私の方へ近づいて来る。大体やるべきことは終わったのに何事かと思って戸惑った。
「私は、折角桜地さんが経験者として投げかけてくれた問を活かませんでした。中高の違いはあるけれど、全国大会金賞という、私たちが求めている場所にたどり着かせたその経験と手腕を、もっとしっかり頼るべきでした。それなのにもかかわらず、昨日全体の場で声を挙げてくれたこと、ありがとう。どうか、これからもドラムメジャーの補佐として、そして
部長が私に頭を下げる。これは多分、本心なのだろう。同時に多分に政治的な意味も含んでいる。ここで部長が私に頭を下げてくれたことで、私は先輩に抗議した問題児になることなく、声を挙げた正義の存在として部内にいる事が出来る。同時に、否が応でも私の支持基盤になっている実力者揃いの南中派閥を、私のせいで関係性が微妙だった高坂先輩の下に入れることが出来る。幹部の足元を安定させられて、分派を抑えられる。これをスッと出来るのが部長が部長たる所以だろう。それに異論はない。
「こちらこそ、寛大なお言葉ありがとうございます。非才の身ではありますが、粉骨砕身致します。なんなりとお任せくださいませ」
私も静かに頭を下げる。多分、これで大体のことは丸く収まっただろう。小さな火種はあるのかもしれないし、まだ収まらない部分もあるのかもしれないが、ここからは部長や副部長で十分対処可能なレベルになると思う。こういう風に場を収めることが出来るのも、部長の実力なのかもしれない。
後は不満ですという雰囲気の久石さんを私と部長で宥めて、南中出身組を上手く説き伏せて、二年生の中に蔓延っている良くない空気を払しょくできるように二学年の学年リーダーとして働いていくことが求められている。けれどそれらも大して難しいタスクではないはずだ。何しろ、部の空気は確実に前向きになっている。
ただし、残っている問題もある。視界の端にいた真由先輩は曖昧な顔をしていた。彼女にはまだ、部長の言葉は響いていない。部内全体ではなく、彼女に向けた言葉ではないと届かないのだろう。部長と真由先輩が向き合っていくことが、この後の課題になるはず。けれどそれも、関西大会を突破できないと出来ない。全てはそこに集約されるのだ。大体のことはどうにかなった。後はただひたすら、前を向いて走るだけだろう。元々北宇治には、それが一番向いているのだろうから。