ごめんで済んだら警察はいらないとは、よく言われる言葉だ。簡単に謝ってそれで終わりじゃないでしょうという意味でつかわれることが多い。そして、割と正確な言葉でもあると思う。それは謝ったからと言って全部が全部元通りと言うわけではないという事。
高坂先輩たちの謝罪会見は終了し、部内は一定の落ち着きと団結を見せている。小さな波は残っているけれど、大体は問題なく処理できるレベルのモノになっていた。その唯一の例外とも言うべきなのが久石さんの存在だろう。彼女はまだ許していない。部長失格などと言い放った、高坂先輩の存在を。部長はそれを理解している。だから私を敢えて全体の前で持ち上げた。その理由は、変革のきっかけになった私の存在を政権側に近付けて、反対勢力にならないようにするためにだろう。同時に久石さんが私を取り込んで大規模な反高坂先輩キャンペーンをやるのを防止する目的もあるのかもしれない。
久石さんは良くも悪くも二年生の中心に位置する存在だ。学年リーダーの私、中心にいる久石さん、私たちの間にいる剣崎さんが二学年の中心的存在と言えるかもしれない。私の背後には学年問わず旧南中出身者がいる。久石さんの背後にはそれ以外の様々な層の生徒がいる。比較的積極的な生徒が多いかもしれない。剣崎さんは温厚な部員から一定数の指示を得ていた。多分、この三人から次期幹部が出るんだと思う。部長に合っているのは調停者の剣崎さんだろう。私か久石さんでは偏りが出てしまう。人間が百人弱いれば政治も生まれる。当たり前と言えば当たり前だが、面倒な話でもあった。
それはともかく、怪気炎をあげている久石さんを宥めないことには、円滑な運営は出来ない。不満分子は潰さないまでも、懐柔はしないといけないのだ。夕日の差し込む学校の校舎を歩きながら、私は久石さんを探している。しかし見当たらない。どこに行ったのかと思って廊下から窓を見れば、校庭に面する藤棚に小さな人影があった。そこにいたのかと思いながら、私は外に出た。
真夏の西日に照らされながら、坂道を上る。この藤棚は兄さんが希美先輩に告白した場所らしい。ある意味では聖地なのかもしれない。去年の夏、夕日に照らされる中、風に吹かれるこの場所から、あの二人の恋人としての物語は始まったのだと思うと、感慨深いモノがあった。二人には幸せになって欲しいと思っている。心の底から、真摯に。私は全国大会前のホテルなので、ロマンティックさで言えば二人に負けている。とは言え、後悔はしていなかった。
私の足音がしたのか、俯いていた久石さんは顔を上げた。そして私の姿を視界に入れると、露骨にがっかりした顔をする。
「……あなたですか」
「失礼な人ですね、わざわざここに来たというのに」
「別に、来て欲しいとは頼んでいませんけど」
「おやまぁ。あぁ、部長の方が良かったですかね?」
「……」
私の言葉は図星だったのだろう。久石さんは顔を逸らした。私は久石さんの隣に腰を下ろす。拒まれるかと思ったけれど、彼女は何も言わない。しばらく、どれくらいの時間かは分からないけれど私たちは西日に照らされる校庭と校舎を眺めていた。遠くからは風に乗って自主練をする音が聞こえてくる。
「許せませんか、高坂先輩は」
「……」
私の言葉に、久石さんは答えない。ただ、その手を堅く握りしめた。唇も真一文字に結ばれている。それが何よりの答えだった。彼女は許せないでいるのだろう。自分の尊敬する存在に、敬愛する存在に、事実無根の暴言を言い放った高坂先輩が。もし他の生徒だったら、こんな風にはなっていないのかもしれない。けれどドラムメジャーという職は副部長と並んで部長を支えないといけない職のはずだった。対立するなと言うわけではないけれど、意見を戦わせるにしてもやり方がある。その点、高坂先輩は明らかに悪手を打っていた。
「気持ちは分かりますよ」
「慰めはいりません。それとも説得ですか? 私が高坂先輩に協力するように。別に敵対しようなんて思ってません。クーデターとか、そういう事も考えてないです。久美子先輩が許して、言うべきことは言って、全体が拍手して、それで丸く収まるならそれでもいいと思います。ただ、私個人が許せるかどうかはまた別問題じゃないですか? そして、それは内心の自由のはずです」
「私もそう思いますよ。言われたのはあなたではないけれど、許すかどうかはあなたの自由です。例え部長が許せたとしても、あなたが許せないという事だってあるでしょう。それはおかしい話ではないと思います。それに私だってあなたに共感するところがあります。もし、希美先輩が言われていたのだとしたら、私は絶対に相手を許せなかったでしょう。許せるのは強さとか言いますけど、そんなの許せない存在がいない人の寝言ですね。寝言は寝て言えという話です」
私の語気の強い言葉に、久石さんは意外そうな顔をする。私だって許せない存在はいる。希美先輩を排斥した、昔の北宇治の吹奏楽部員。両親を撥ね飛ばした、飲酒運転をしていた馬鹿な大学生。義井さんに嫌がらせをしていた、中学二年生の時の先輩。そんな存在は普通にいる。別におかしな話でもないだろう。私だって普通の人間だ。私にとっての彼らが、久石さんにとっての高坂先輩だっただけの事。
「私にだって許せない人はいます」
「少し……」
「意外でしたか。まぁそうかもしれませんね。でも私も普通の女子高生ですから。あなたがそう言ったんでしょう?」
「……そうでしたね」
「許せないなら、戦えばいい。普通の考えです。むしろあなたは理性的ですよ。内心はどうあれ、それを抑えようと試みている」
「そんなことは……」
「そうですか? 私は、あなたが自分の中にある激情を整理して、冷静な自分を取り戻すためにここに来ているのだと思っていましたが」
彼女は感情的な行動をすることもあるけれど、決して馬鹿ではないし愚かでもない。しっかりと考えることが出来るし、自分を客観視することのできる人間だ。一晩経過して少し時間を経て、自分の中で高坂先輩のことについて整理したのだろう。自分が怒り続ける正当性が低いことも、彼女は気付いたはずだ。それでもなお納得できない自分がいて、同時に抑えないといけないと考える自分もいて。その背反に彼女は苦しんでいる。だから、ここに来て一人で考えることにした。じっとりとした汗が滲む。彼女はこのサウナのような場所に、どれほどいたのだろうか。
「私は逆に、なんで久美子先輩が高坂先輩を許せるのかが分かりません。あの人は、これまでの久美子先輩の努力とか、苦しみとか、そういうものを一番傍で見てきたはずです。それなのに、その全部を踏みにじるようなことを言ったんですよ!? それは言ってしまえば、部長としての久美子先輩の全てを否定したのに等しいじゃないですか。私情を押し殺して、誰かのために動いて、嘘がどんどん上手くなって……。それを見てきたはずなのに、自分だけ苦しいみたいな顔をして、その実みんなが自分の信じているモノを信じてくれないからごねているだけ。そんな存在をどうやって許せと?」
「あなたは……徹頭徹尾部長のために怒っているのですね。多少は、自分のこともあるのかと思っていましたが。自分や、同じB編成の仲間のことも、あるのかと」
「そういう側面があるのも否定はしません。感情の理由なんて複合的なモノです。確かに私自身やB編成の中に存在していた不安や諦めのような感情を努力不足を棚に上げた言い訳と仰ったことへの憤りもあります。そんな風に切り捨てられるのは、私個人としても納得できません。けれどそれ以上に、どうしても久美子先輩のことに関しては許せなかった」
彼女の言うことはもっともだった。切り捨てられた意見にだって、ちゃんとした理由がある。それを言った人の人生や経験や感情があって、それを否定することは出来ないのだろう。もし、これがオーケストラだったら、指揮者のいう事に従うのは当然なのかもしれない。それをしなくて良いのは、一部の超上級の実力者だけ。いわゆるその人目当てで客を呼べるドル箱。つまりは兄さんのような存在だけだ。それがプロの在り方だろう。けれどここはプロじゃない。想いも経歴も実力も千差万別の部活動だ。切り捨ててしまうことは、その理念と反している。
高坂先輩は一人一人の顔を見ていたのだろうか。不安を口にする生徒の、不満を述べる生徒の、その目と顔をしっかりと見て、一人一人と向き合っていたのだろうか。否だからこそ、あんな言葉が出る。部長は少なくとも見ようとしていたし、一部は見ていたのだろう。だから、あそこで高坂先輩に同調できなかった。部長は真の意味で部のために動こうとしていた。組織を守る事よりも、中にいる個人個人を守ろうとした。それが結果として組織を守ることに繋がると信じて。
「だからね、正直スカッとしたんです。あなたが高坂先輩を追い詰めている時、良いぞもっとやれと思った自分がいました。自分でもろくでもない考えだとは分かっています。あなたなら、高坂先輩を庇うと思っていましたから、あなたが声を挙げたのは私としては意外ではありましたので。貧乏くじをもう一回引きに来るとは思っていませんでしたし」
「貧乏くじ、ですか」
「そうでしょう? 高坂先輩がどうなるにしろ、あそこで声を挙げるのは貧乏くじ以外の何物でもない。あなたはどう頑張っても来年の部活運営の責任に携わる事から逃げられなくなった。三年生もそういう目で見ている。あなたはただの部員には戻れません。多くの部員が北宇治を栄光に導いた桜地先輩の二世として、あなたを定義している。ただの部員とは段階の隔絶した、一つ二つ上の存在に据えられるのももう間もなくでしょうね」
「……かもしれませんね」
彼女の言っている未来予想には、私がそれを望む望まないはともかくとして、説得力があった。そういう未来が訪れても、特に違和感はない。責任からは逃げられない。それは、高坂先輩の補佐を引き受けた時に覚悟している事だった。全国金を獲りたいというのは、私の願望でもある。その願望を叶えるために、私は自分に出来る最大限の活動を行うことを決意した。それを望んだ。そして高坂先輩の補佐として名乗り出た。不幸なすれ違いを経て、こんなことになってしまったけれど、結局は高坂先輩との間に方針の違いがあっただけで、求めているところは変わらない。
「それでも私は、自分の信じるモノを曲げられませんでした。頑固だとは思っています。意固地な女ですね。でも、自分を曲げるくらいなら、死んだほうがましだとすら思っている自分がいます。死んだような目をして生きていくのなんて、私は望まない」
そんな私を好きだと言ってくれる人がいる。私に帰る場所をくれる人がいる。それなら、十分に自分を貫くことが出来る。私は恵まれているのだろう。周りに恵まれているからこそ、私は自分のやりたいことを貫徹できるのだろうから。
「私が自分を曲げられないように、あなたも自分を曲げる必要はないと思います。あなたが高坂先輩を許せないなら、それでも構わないでしょう。私はそう思っています。あなたはそれで高坂先輩を妨害したりはしないでしょうしね。それをしてしまったら、部長の部活運営を妨害する事にもなって、結果として部長の不利益になってしまいますし」
「……」
「ただ、それを隠してください。あなたがどう思うと、あなたを神輿に担いでしまう存在がいないとは限らない。それは部長の望むところではないと思います。自分の影響力は理解しているでしょうし、ご納得いただけると思いますが」
「……」
「あなたが部長を慕っているのは周知の事実です。あなたの怒りようも。であればこそ、あなたが高坂先輩を表面上は許したように見えることで、あなたの株も挙がる事でしょう。部長が許したからこそ、あなたも我慢して高坂先輩を許した。あなたは許せる強さのある人だ、と。内心はあなたの自由です。それでも部のためを、部長のためを思えば、ここが鉾のおさめどころだと思いますが、如何ですか?」
彼女は少しの間沈黙した。僅かにその瞳が泳ぐ。彼女は迷っているのだろう。私の言うことが正しく見えるのは理解しているはずだ。それでも感情的には納得できない部分がある。その葛藤を強いている私は、酷い存在だ。全体のために個人の感情を抑えろと、彼女に言っている。彼女がそうしないといけない立場ではないと知りながら。それでも自分の願いのために、彼女が暴発する危険性を抱え続けているのを放置は出来ない。
「良いでしょう。分かりました。今回はそちらのいう事を聞いてあげますよ、桜地さん」
「それは何よりです。部長も安堵するでしょう。部長にはご自分で諸々告げてください。多分、その方が良いでしょうから」
「分かってます」
やはりというべきか、彼女と話していると楽で助かる。何を考えているのかは分からない時があるが、基本的には理論が通じる相手なので、こういう議論をした時にこちらの論理を理解してくれる。その点は高坂先輩や部長よりも相手しやすいと言える。時々行動理由が謎な時があるので、それだけはよく分からないが。大体は部長のために動いたり発言していることが多いとはいえ、私と相対している時だけどうもその理由が良く読めない時がある。
「一つ、聞いても?」
「何です」
「どうしてあなたは私と部長が話している時に割り込んだんですか?」
「……」
「確かに部長を助けるためというのは尤もだとは思います。しかしそれなら後で助言するのでも良かった。しかしあなたはわざわざ会話に割り込んで、私の退部届を破り捨てて、そして去って行った。その行動理由を知りたいと思いました。答えたくないというのなら構いませんが……」
「あなたをぶん殴れるようになってくれと、そう言われましたので」
「誰に?」
「黙秘します」
自分の想定していた答えとは全然違うモノがやってきて、私は少し困惑した。
「それに、私自身の感情もありましたので。あなたのお高くとまったお嬢様然とした顔を引っぺがしたかったという感情がありました。今になって思えば、それがどうしてなのかもよく分かりませんね。あなたの正体を知りたかった、というのが一番近いかもしれません」
「はぁ……」
「何ですか、その呆れたような顔は。あなたが言うからこうして答えたのに」
「いえ、随分とよく分からない理由だなぁと思いまして」
「自覚はあります」
「無いと困ります」
正直よく分からない理由ではあった。結局、彼女の中の私は何なのだろう。観察対象なのか、保護対象なのか、敵なのか味方なのか、さっぱり分からない。私が彼女をどう思っているのかもハッキリとは言えない。ただ、別に嫌いな相手では無かった。大好き、などとは口が裂けても言えないけれど、嫌いな相手ではないし貶めたいとも思っていない。対立する意見を述べることも多いけれど、それに不快感を感じたことはなかった。高坂先輩に信頼されてないなと思った時はムッとしたけれど、そういう感情も無い。かと言って興味がないわけでも無かった。
「結局、私たちは仲良しこよしとはいかないわけですよ。お互いに全くもって色々と合わないわけですので」
「そうですか? 全くもって違うタイプの存在同士でも、友人関係になることは出来ると思いますが」
私と揚羽は全く全然タイプの違う存在だ。考え方も、これまでの人生も、何もかも違う。それでもお互いに仲良くすることが出来ている。別に似た者同士でなくても関係を深めることは不可能ではないだろう。どんな人であれ、別人であれば共通点も差異もある。兄さんと希美先輩だってタイプは違う存在だろうし、同じようなタイプではないからこそ却って上手く行くという事もあるはずなのだ。
「どうしますか? お友達にでもなりますか、私たち」
「……お友達、という感じでもないでしょう、私たちは」
「では、同僚?」
「会社じゃないですよ、ここ」
「なら……共犯者?」
「犯罪者じゃないです」
「それならば、腐れ縁?」
「優雅ではありませんが、まぁそういう事になるのでは」
そう言って、久石さんは小さく笑った。腐れ縁。なるほど、私たちの関係性を言い表しているように思う。同僚というほど遠くもないし、親友とか友人と言えるような感じでもない。仲良しこよしではないし、共犯者と言えるほど一蓮托生でもないだろう。結局腐れ縁というのが一番合っているような気がした。
「良いですね、自分で言っておいてアレですが、私たちらしいかもしれません」
「不本意ではありますがね」
「お互い様ですよ、そんなの」
私も小さく口角を上げる。お互いに親愛の笑みではないけれど、敵対の笑みでもない。そんな表情だった。私たちはこれからも平気で対立したり言い合ったりするのだろう。それでも何となくまたこうして話しているのかもしれない。或いはそうならないかもしれない。どちらにしても、それがきっと私たちらしい関係性だと思える。無理に定義に当てはめる必要も無いのだろう。
「さぁ、戻りましょうか。こんなところに長くいると、紫外線で肌が焼けてしまいそうです」
「どうせ日焼け止めを塗ってるんでしょう、お嬢様。もっと若さに胡坐をかいたらいかがですか」
「そっくりそのままお返ししておきますよ、スキンケア上手。あなたが合宿の時に色々塗りたくっていたのはよく知っていますので。可愛く見せるのに余念が無いですね、好きな人でもいるんですか?」
「なんですか、彼氏持ちマウントですか?」
「やりませんよ、そんなあなたが負けるだけのマウント合戦」
「ぐぬぅ……」
「ともかく帰りましょう、これから自主練がありますし。あなたも全国大会前のオーディションでは受かる事が出来るようにしないといけませんし、私も関西大会に向けて練習しないといけません。兄さんがいてくれる日も残り少ない事ですし、日々を無駄にするわけにはいかないですね」
彼女は藤棚のベンチから立ち上がって、軽くスカートをはたく。それに合わせて私も立ち上がって身なりを正し、それからどちらからともなく校舎に向かって歩き出す。
「はいはい、分かってますよ。それと、あなたのその正論パンチ、ずっとやってると嫌われますよ」
「残念、今のところ何とかなってます」
「うわぁ、嫌な人」
「なんですか、猫かぶり」
「どうしましたか、頑固者」
「……」
「……」
多分私たちはこんな感じだろう。放っておくとずっとこのままだ。だからこそ、剣崎さんが間に入ってくれないと延々と口喧嘩している。争いは同レベルの間にしか発生しないと、兄さんは私たちを見ながらケラケラ笑って言っていた。一緒にしないでくれとあの時は膨れたけれど、今になって思えば兄さんのいう事もそこまで間違いではないのかもしれない。彼女も普通の女子高生で、私も彼女に言わせればそういう存在だった。
「全国大会が終わったら、またお願いしても良いですか」
「何を……あぁ、またですか」
「他に頼める人がいないもので。剣崎さんと一緒にお願いします」
「仕方ないですねぇ、今度は何を? この前は何とか不格好なカップケーキくらいは作れるようになりましたからね。多少はレベルアップしても良いと思いますけど」
「バレンタインの仕込みをしたいので……」
「秋から始めても数ヶ月あるのに……?」
「既製品ばかりというのは私のプライドが許せませんので、良い感じにどうにかしたいですし」
私の最悪な料理スキルは、剣崎さんと彼女の奮闘により大分マシになっている。小学生の家庭科の教科書レベルならどうにか仕上げられるようになった。けれど兄さんや希美先輩の領域には程遠いし、実家がケーキ屋の剣崎さんはともかく久石さんレベルのお菓子作成は出来ないままでいる。とは言え、兄さんも前よりずいぶんよくなったと言っていたし、自分でもそう思えるようになってきた。包丁が苦手だったのも何度も使って行くというシンプルな荒療治でどうにか改善されつつある。
「あぁ! 奏たちいたぁ。部長が探してたよぉ」
校舎の方からやって来る剣崎さんが手を振りながら言った。真夏なのに着ているカーディガンがそのパステルカラーを放っている。特徴的な見た目はよく目立っていた。緩くのんびりとした声が響く。聞く人に安心感を与える声だ。しかし油断するなかれ、私たち進学クラスを差し置いて数学学年一位を持って行った才媛でもある。自身の愛嬌と魅力に対する自信があり、相手の懐に潜り込むまでの距離感の計測を絶えず行っているのを私は何となくで感じ取っていた。したたかではあるが、そのしたたかさは友好的に使われている。だからこそ、信頼を得ている。
真面目な子はお涼を信奉しちゃうから良い感じに緩かったり自我が強い方が良い、とは揚羽の意見だ。私にはイマイチ分からないけれど、彼女の分析が正しいなら剣崎さんとの相性は悪くないという事になる。私のしょうもない調理技術の向上を手伝ってくれているので、彼女に関しては恩人だった。私と久石さんが血みどろのバトルにならない程度のところで止めてくれる調停人でもある。
「あれ、なんか仲良くなってる?」
「梨々花、よく見てよ」
「剣崎さん、お勧めの眼科を紹介しましょうか」
「あぁ、やっぱり仲良くなってるじゃ~ん。何があったの? 夕日の下で殴り合い?」
「なんでそうなるんですか……」
「えー桜地先輩がそうなんじゃないかって言ってたからぁ」
兄さんは私と久石さんをどうしたいのだろう。私を殴れるようにと言ったのが誰なのか、何となく分かって来た。兄さんめ、余計な事をという想いもある。同時に、久石さんが効果的に動いてくれなければ状況が悪くなっていた可能性もあると思い直す。真由先輩への態度は悪いが、それ以外は基本優秀な存在なのだ。そこは兄さんもよくよく理解しているのだろう。剣崎さんと絡めた時に相性がいいというのも、お見通しということだろうか。
「何の話してたの?」
「こちらのお料理の出来ないお嬢様をどのようにお助けしましょうか、というお話」
「あぁ……うん……」
何とも言えない顔で私から視線を逸らす。私には反論の余地がなかった。そういう顔をされるだけの心当たりはある。夏休みが終わった秋には家庭科の調理実習があるのだけれど大丈夫だろうか。家庭科の先生は私の終末みたいな料理技術を知らない。むしろ、輝いていた兄さんの記憶があるせいで同じくらいできると思われている可能性がある。端より重いモノを持ったことの無い箱入り娘を演じるべきかと真剣に検討していた。
「さ、最初はだれでもあんな感じだから、ね。次は上手く行く! ……多分」
「すみません、よろしくお願いします」
「私たちばっかり教えていて、何もメリットが無いですねぇ?」
「何が欲しいんですか。お菓子なら沢山ありますけど。それともお茶でも教えましょうか? 一応、教える資格は持っていますし」
教える資格が仕事をした事無いけれど、出来ないわけではない。助けてもらっているのだから、こちらの持てる技術で応じるのは当然の話だった。お菓子は希美先輩が消費しきれないくらい祖母が送ってきているのがあるので、むしろ二人にはどんどん消費してもらった方が良いだろう。
「良いんですかぁ? 私たちに教えていると、大好きな桜地先輩と一緒にいられる時間が無くなっちゃいますよ」
「んなっ!」
「前々から桜地先輩が妹を大事にしているとは思っていました。その上で高坂先輩に啖呵を切った時も思いましたけど、あなたも大概ブラコンじゃないですか? もっと可愛げを出せば、桜地先輩もお喜びになるでしょうに」
「残念ながら、兄さんはあなたのような作り物の可愛さは求めていないんです」
「作り物だなんて、まあ酷い。梨々花聞いた? いじめだよいじめ。言葉による暴力はいじめだよ」
「うんうん、そうだね」
適当に相槌を打っている剣崎さんは、多分半分くらい聞いていない。不揃いな三人の影が校庭に伸びている。凸凹したその形は、全くもって統一感が無い。影ではない本体の方も、全員全く違う思想や思考を持っていて、行動原理を持っていて、交友関係を持っている。容姿も声音も違う。バラバラという言葉がぴったりだろう。けれどそんなバラバラな三人がどういうわけか同じ年に生まれて同じ部活に入り、同じ時間を過ごしている。友人とも寛やんには言えないような関係性で。
でも音楽とは、吹奏楽部とはそういうモノなのかもしれない。様々な存在が集まって、色々な想いはあるけれど一つの音楽を形作る。そうやって奏でられていく作品。それが音楽なのではないか。兄さんは、そういう事を合宿で言いたかったのではないか。一つの答えが出たような気がした。今なら、沙里先輩にも勝てる演奏が出来るかもしれない。
不揃いで、バラバラで、デコボコで。それでも同じ方向を向いて歩いている。まさしく、北宇治と同じ姿だった。
ジトっとした雨が、視界を覆っている。遠くを見つめて、窓枠についた手に、ジットリと汗がにじむ。こんな夏の梅雨を浴びると、昔の事を思い出した。あの日もそう、雨が降る日で。あの日も、こんな風に熱気の滲む日で。怒声とは怒鳴り声だけではないと知ったあの日。自分が無様に立ちすくんでいたのを、今でもよく覚えていた。
「では、行きましょうか」
凛とした声が遠くで響いている。視界の端に捉えたその姿は、去年から何度も見たものだった。すらりと伸びた身長は美玲よりもやや低いくらい。切れ長の目と繊細なまつ毛の中心に、黒い黒曜石のような瞳が煌めている。細長い腕と脚、そしてくびれた腰と制服を押し上げる豊かな双丘。長く青みがかった黒髪を持ったその立ち姿は、怜悧な刃物のようでもあり、動かぬ伝統工芸品の人形のようでもあった。昔、校外学習で見た日本人形を思い出す。不気味がる同級生もいる中、そう言えばそれが随分と美しく感じたものだと、誰に向けたとも分からない述懐を呟いた。
後輩に囲まれ、同期に尊敬され、先輩に信頼される。その姿は実に模範的で、実に優等生で、そして実に薄氷の上にあるガラス細工のようだと、そう思った。あの湛えた微笑のどこまでが本当なのだろうか。あのお嬢様の仮面を引っぺがし、己のために自己本位的な行動を取らせてみたい。美しい彫刻も一枚向けば醜さがあると、そう知らしめたかった。
何のために?
自問に応えは無い。そうすることで、自分が安心できるからかもしれないと、そう考えた。どんな人間にも凡愚で矮小な部分があると思えば、きっと安心できるから。自分で思うのも哀しいことに、自分は自己分析がそれなりに得意なつもりだった。
「あの子を頼みます」と言われたのはいつだったのか。彼女と仲の良い派手な女子でもなく、同じパートの先輩や同期でもなく、それを言われたのは自分だった。多分、彼女が心から慕った先輩と同じ言葉を、自分は言われているのだと、今になれば思う。偉大な奏者。栄光の立役者。栄達の功労者。自分に冷たい目を向け、その愚かさを糾弾した指導者。そういう存在が自分にかけた言葉は、予想よりも随分と矮小で、随分と人間味のあるものだった。
あの人が苦手だった、と回想する。初めての面談であった時から苦手だった。自分の演技も、振る舞いも、本性も、思考も何もかも読まれているようで、苦手だった。その優しさも、その鼓舞も、どこまで本音か分からない。冷静さと知性の中に覗く狂気を、彼の恋人は知っていて愛したのだろうか。厳しく叱り飛ばされたことも、出て行けと丁寧ながらも反論を許さぬ口調で言われたこともよく覚えている。それを不当とは思わなかった。彼が自分を見てくれているのは確かだった。それ故に、ああいう言葉を投げかけられた。彼は彼なりに、私を信頼してくれていたのだと思う。自分を追いかけてきた先輩たちがそう言うように。
吹奏楽部のため、とうそぶいた彼を糾弾したのはいつだったのか。もう忘れてしまった。ただ、夏の残滓がまだ残る日だったような気がする。たまたま音楽準備室の椅子に座りながら舟を漕いでいた彼と会話をし、その中で何故か問いかけたのだ。何のために、と。何についての質問なのかの補足が全くない。しかも、普段だったらそんな質問は絶対にしない。けれど、自分が苦手な相手なのにも拘わらず、なぜか問うてしまった。何のために働くのかと。
吹奏楽部のため。その答えを嘘だと言った。嘘は言い過ぎでも、全部本当ではないと。そういう自分の目を彼はジッと見つめた。その奥に有る全てを見通そうとするように。その目も、あまり得意では無かった。
「最初はそれが全部でした。けれど、今は……確かに違うかもしれませんね。自分のためでもあり、大事な人のためでもあり……究極的にはあの子のためのなのかもしれません」
「あの」という代名詞の行き先は、聞かずとも分かった。友人でも、仲間でも恋人でもない。彼が指したのは、たった一人。なんとも俗物的だ。凡人性など超越したような人が気にするのは、血を分けた肉親だなんて! けれど、その時初めて苦手だったその瞳が揺れているのに気付いた。掴めなかった何かが掴めた気がした。同時に、彼の周りにいる人が、何故そうしているのかも理解した気がした。特別な人間はいる。自分はきっとそうではないし、周りの多くもそうではないのだろう。そして彼は特別な存在だ。けれど、全部がそうではない。それが分かった瞬間に、抱えていた蟠りのような何かが薄れていくのを感じた。人は知らないモノを恐れるという。結局、そういう事なのかもしれない。
「あの子を頼みます」
脈絡なく、彼はそう言った。
「あの子を慕う子も、あの子を守ろうとする子も、あの子を崇める子も、あの子を尊敬する子も多くいる。けれど、あの子を殴れる子はいません。それはきっと、必要な存在だと思うのです」
殴る、が暴力を振るうという意味ではないことくらいはすぐに察しがついた。その言わんとしていることは理解した。そうする義務は、どこにもなかった。けれど、それを言われた相手はきっと自分だけなのだろうとも理解していた。馬が合わない相手であり、会えば憎まれ口を叩いている。ただ、嫌いかと言われればそうではなかった。要請に何と返答したのかは、もう忘れてしまった。ただ事実としてあるのは、その答えを聞いた彼は小さく笑ったという記憶だけ。
わざわざ頼みごとを聞いてあげる筋合いなんてものはない。けれど、と自分に言い訳をする。動く理由を探してしまうのは、自分の弱さか愚鈍さか。どちらにしろ、探して見つければ動けるなら、するに越したことはない。一応世話にはなったのだ。怒られたことは覚えている。正直、苦手な相手ではあるし、怖さもある。それでも、自分を排斥することはなく、義務感であろうと、自己本位であろうと、職務を全うしていた。燻っていた自分を舞台に立たせた立役者の一人であることも、間違いない。その恩義くらいは返さないといけないのだろう。そう自分に言い聞かせた。
あの夕暮れの音楽準備室で、カリスマの素顔を垣間見た。その妹の素顔はどんなモノなのだろう。好奇心と、依頼を果たそうという義務感と。そして友情とも言い切れない、小さな感情。それを持って、彼女に接していた。いつの日か、きっと何か大きな出来事がある。そしてその時どうするかで、我々の生涯に渡る関係性は決まるのだろう。その日までは、見ていよう。
何のために? 答えを得るそのために。
何の答え? 自分が知りたいと思った、相手の。
窓の奥の雨粒は大きくなる。廊下の角を曲がった彼女の姿はもう見えない。きっと、いつも通り後輩相手にそのカリスマ性をまき散らしているのだろう。いざとなったらアレを「殴る」なんて、なんとも無茶な注文だと苦笑した。窓に反射したその顔は、自分でも驚くくらいには笑っていた。