音を愛す君へ   作:tanuu

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第ⅩⅩⅩⅢ音 関西大会

 あれから数日。全てが丸く収まったわけではないけれど、反高坂先輩の最先鋒だった久石さんが矛を収めたことにより、部内は真の意味での安定を取り戻しつつあった。一方で全て元通りというわけにはいかない。高坂先輩の権勢は弱りを見せて、代わりに二年生の影響力が増大しつつある。元々最大人数であるのもその後押しになっているのだろう。その証拠として、私がパートリーダー会議、事実上の部運営会議に参加する権利を得た。

 

 二年生並びに一年生の代表者として、剣崎さんと共に参加できるようになったのは、部内の大きな変化だろう。今後は一年生の学年リーダーの参加も検討されている。部の運営に三年生以外も参加させることが、開かれた運営をするために求められている。兄さんも先生も、その変化を許容した。特に問題がないならば、拒む理由も無かったのだろう。生徒の自主性を重んじる先生らしい判断だった。

 

 練習も大詰めを迎え、一層熱が入っている。元々実力はあるので、同じ方向を向くことが出来たのであれば、その真価を発揮できる集団だった。部長の演説と高坂先輩の謝罪により部内がまとまり、練習での険しい空気感はやや薄れ、健全に切磋琢磨する状態が築けている。願わくば、このまま何とか関西大会を突破したい。それが部内の共通の願いだった。

 

「今のところ、もう一度。第二楽章の閉幕部分、ここは大事です。コントラバスの響き以外に一切の音が無いように。沈黙もまた音楽です。沈黙を使いこなすことで、ここの表現はさらに良くなる。そしてそこから受け渡されるトランペットは月光の如く行きましょう。あなたにとっては二年ぶりの月光ですね、高坂さん。あの頃より何倍も上手く表現できるでしょう。ここの対話は悲壮感を込めて、孤独を持って。黒江さんはそれに寄り添うように。あなたの調整力の活かしどころです。高坂さんとの息の合わせ方、かなり様になってきました。引き続き上手くまとめるように」

「「「はい!」」」

 

 プラスマイナスのない交ぜになった記憶の詩。そういう風に兄さんは表現していた。その理解に沿った指導が、現在進行形で兄さんの口から放たれている。幸か不幸か、或いは不幸中の幸いと言うべきか、これまでの一連の騒動はプラスマイナスない交ぜになった記憶、という難しいオーダーを実感を持ってこなすのに役立っているようだ。事実、指導の素人でしかない私が聞いても表現力は上がっている。自分自身としても、それは実感できるようになった。想像よりも、記憶の方がダイレクトにイメージを構築できる。

 

「最後に微調整を加えていきます。まず、ホルンのユニゾン」

 

 滝先生の指導もどんどんと細部を詰めていくようになった。関西大会はもう明日に迫っている。こういうところで最後の仕上げを行っていかないと、秀塔大や龍聖には勝てないだろう。彼らはあんな時間のロスを経験しないで一直線にやって来るはずだ。迎え撃つためには、こちらはそれ相応の実力で以て挑まないといけない。揉めに揉めたあの時間が無駄だったなどという事の無いように、誰しもが必死になっている。それはもちろん、私も。

 

 

 

 

 

 

 

 当日の朝は存外あっさりと目が覚めた。目覚まし時計が珍しく仕事をする前に起き上がれたことは、私にとっては滅多にない経験だと思う。ベッドの上に座り、頭が覚醒するまで少しだけ待っていたら、携帯が鳴りだす。そう言えば、純一さんにモーニングコールを頼んでいたんだった。枕元に手を伸ばすと、肩がコキっと音を鳴らす。

 

「おはようございます」

『お、今日はちゃんと起きてる。俺の目覚まし、いらなかったかな』

「いえ、そんな事無いですよ。今ので頭が起きました。朝早いのにありがとうございます」

『気にしなくて良いって。どうせさやかを起こさないといけないし。それにこの前まで色々あった時全然役に建てなかったからなぁ。アイツも言ってくれればいいのに。吉川も俺も加部も、事後報告でビックリしたんだぜ』

「それは……すみません」

 

 高坂先輩と私の間にあった色々な事、その結果部長や高坂先輩がどういう風に行動して、どういう結末になったのか。私や兄さんと親しい先輩方でも事後報告としてしか伝えていなかった。自分で解決できることはなるべく自分でどうにかしたい、というのが私の想いだった。兄さんは私が相談しないので黙っていることにしたらしい。OBを巻き込むべきかどうかは慎重にしたいようだ。

 

 けれど、今になって思えばもう少し相談しても良かったのかもしれない。希美先輩も言っていたけれど、相談されない方が苦しい事だってある。一緒に痛みを分かち合いたいと思ってくれる人がいるなら、それに素直に甘えることも、時には必要なのだろう。兄さんはかつてそれが出来なくて希美先輩に怒られ、私は今こうして純一さんを驚かせてしまっている。信頼していないなんてことは断じてない。だからこそ、言うべきだったのだと今は分かる。似た者兄妹と言われてしまうのも拒めないだろう。

 

『ま、涼音ちゃんが上手く折り合いつけられたならそれでいいけどさ。頼ってくれて構わないから、いつでも。愚痴くらいしか聞けないけど、黙ってため込むよりはよっぽどいいだろ』

「はい、次からはお願いします。でも、長いかもしれませんよ?」

『お、おう任せといて。さやかので慣れてる……と思うから』

 

 電話口の向こうから、普段より数段低いさやかさんの抗議の声が聞こえてくる。慣れているのか、純一さんはあまり気にしていないようだった。兄というものは抗議してくる妹の扱いに慣れているのかもしれない。自分も妹、という属性は同じだからか何となくさやかさんの気持ちが分かるような気がした。

 

『今日は家族で聞きに行くから。頑張って……じゃないな。これ以上ないくらいには頑張ってるだろうし、ここは負けるな、か。自分にも他の誰にも負けないで、しっかり』

「はい、ありがとうございます。純一さん、ビデオに出来ますか?」

『え? あぁ、出来るけど……ちょっと待ってな。見えてる?』

「はい、見えてますよ」

 

 ちょっと寝癖が付いてる。きっと私のために少し早めに起きてくれたのだろう。さやかさんのためもあるかもしれないけれど、だったら寝間着のままでも良いはずだ。でも今は普通の格好をしている。それはつまり、私が起きるよりも早くに起きて着替えてくれたという事。そういうちょっぴり見栄っ張りなところも、好きなところだった。

 

「頑張ってきます」

 

 私が向こうの目を見て話しているのに、目を逸らして来る。

 

「なんで目を逸らすんですか。すっぴんなのは確かに滅多に見せないですけど……」

『いやあの、そうじゃなくて……』

「なんです?」

『色々ゆるゆるで見えそうだから、その……』

 

 確かに夏なのでゆるめの服で寝ていたけれど、そのせいか肩が大分はみ出している。

 

「もう、別に逸らさなくても良いじゃないですか」

『いや、そういうわけにもいかないからなぁ……。それじゃあ、頑張って! 応援してるから!』

「あ、ちょっ」

 

 純一さんは慌てたように通話を切ってしまう。別に見ていても構いはしないのに。他に見せる相手もいないのだし、見せたい相手もいない。あなただけの前でしか、こんなはしたないことはしませんよと念を送っておく。紳士的、というほどではないけれど、私を守ろうとしてくれているのは伝わる。その境界線をどうやって踏み越えてもらうかが今後の課題になって来るのだろう。純一さんには申し訳ないけれど、課題を設定してそれをクリアしていくのは、私の得意技だった。

 

 今の会話で少し緊張はほぐれたし、目はしっかり覚めている。ベッドの上から立ち上がって、クローゼットを開けた。この真夏にはあまり着たくない冬服だけれど、今日は例外。これを着ることが出来るのは、北宇治の部員の半分くらいだけ。その中の一人であることの証だった。

 

 リビングでは兄さんと希美先輩がソファーで並んでテレビを見ている。天気予報では、会場のある和歌山県は快晴だった。

 

「おはようございます」

「おはよ~。大丈夫、体調は?」

「はい。すこぶる健康です」

 

 希美先輩も今日は余所行きの格好をしている。大会ということで、しっかりお洒落している。夏場なので動きやすく涼しい格好だけれど、その服も似合っている。どんな服でも多分様になるだろうということはよく分かった。兄さんと二人で、車で会場まで行くと聞いている。雫さんは来たがっていたけれど、東京で外せない仕事が入ってしまったそうで、今日はお休みだ。全国は絶対に行くと息巻いているので、何としても全国大会に進まないといけない。

 

「兄さんも」

「あぁ、うん。おはよう。ご飯、軽くで良いんでしょ? そこ、置いておいたから」

「そう、ありがと」

 

 ダイニングの上には冷スープとサンドイッチが置いてある。あんまり食べてもバスで気持ち悪くなってしまうし、変なところで体調を崩したくない。本番の直前はこれくらいの量で十分だった。

 

「涼音ちゃん」

「はい」

「前だけ向いて、真っ直ぐね。自分の心に従えば、きっと楽器は応えてくれるから」

 

 希美先輩の言葉に力強く頷く。兄さんは後ろの方でウンウンと頷いていた。楽器が応えてくれる。兄さんが楽器に名前を付けているのはそういう部分からなのかもしれない。アニミズムではないけれど、楽器に魂があるのなら、人格があるのなら、私たち奏者の心が上手くそれと合致することで最大限に魅力を引き出せるのだろう。兄さんは、楽器に選ばれたと言っていた。私のフルートの名前はエリザベス。イングランドの黄金期を築いた名君より、その名を頂戴した。その異名はグロリアーナ、つまりは栄光ある女性。全国大会を賭けた勝負の舞台に、これ以上相応しい名前の相棒はいないだろう。

 

 緊張はあるし、不安が無いわけじゃない。けれど今私の頭の中にあるのは、あの銀色の輝きをスポットライトの下でより一層輝かせて、会場中を唸らせる演奏をする。その未来予想図だけだった。

 

 

 

 

 

 

「よーし私の曲使っておいて、ここで負けんじゃねぇぞ!」

「「「オーッ!」」」

 

 バスが止まってる駐車場の向こうから、そんな声が聞こえてくる。制服の色からして秀塔大附属の子たちだった。慣れない音頭を執っているのはどうやら兄さんのようで、少し唖然とする。あの体育会系というか、ストイックな感じは合っていたのだろう。部長や高坂先輩もちょっとビックリしている。兄さんは疲れたという顔でこちらへやってきた。

 

「随分気合入ってるね」

「まぁ、あぁいう風に発破かけた方が、あそこは多分良い演奏するから」

「なるほど……」

 

 部活ごとに色があって、どういう部活なのかは全く違う。兄さんもそれに合わせて指導を変えているのだろう。基本的に北宇治での指導しか見たことがないからこそ、今見た景色は結構新鮮だった。秀塔大で指示を出していた部長さんと思われる人が、ウチの部長に頭を下げている。こっちの部長はそれに少し慌てながら返した。向こうは北宇治の事を多分ガッチガチに意識しているのだろう。それでも気にしていませんという風に取り繕えるだけ、余裕があるという事でもある。こちらもあまり意識はしていられない。大事なのは、自分達の演奏なのだから。

 

「そう言えば希美先輩は?」

「今お茶買いに行ってる」

「あ、そうなんだ」

「駐車場がちょっと遠くて……。和歌山城に停める羽目になった。前泊するべきだったかな……。あ、それと高坂さん」

「は、はい」

 

 無関係だと思っていたらいきなり話しかけられた高坂先輩はビックリしている。

 

「君さ、進路どうするのか早く決めなさい。アメリカに行くのか、私のいるヨーロッパに来るのか。ハッキリさせてね。アメリカに行くなら別に好きにすればいいんだけど、ヨーロッパに来るならこっちも打ち合わせしたいし」

「もうすぐ、父が一回帰って来るので、その際に話そうと思っています」

「早めに頼むよ」

 

 大会が進みつつも同時に先輩たちの進路関係も進んで行く。高坂先輩は分かりやすいけれど、部長や他の先輩はどうするんだろうか。目の前のことだけ見ていればいい時代の終わりが、ひしひしと近付いていた。

 

 

 

 

 

「では、チューニング室に移動します」

 

 先生の声かけで私たちは楽器を伴って歩き出す。

 

「涼音ちゃん」

「あぁ、真由先輩。大丈夫ですか、調子の方は」

「うん、全然問題ないよ」

 

 真由先輩も今は気を引き締めた表情をしている。大会にかける想いは部長や高坂先輩とは違うけれど、その演奏はいつだって真剣だった。だからこそ、私は真由先輩を支持したし、真由先輩がオーディションで選ばれた時におかしいとは思わなかった。その演奏をしっかり聞けば、本来文句なんて出てこないはずなのだ。その演奏はどこまでも真っ直ぐで、真剣で、その裏に多くの努力があったことなんて容易に想像できるのだから。

 

「私、頑張るね」

 

 真由先輩は私の方を見ない。敢えて私も彼女の方を見ないで、横に並んで歩いた。

 

「色んなことがあったけど、それでも嬉しかったんだ。涼音ちゃんが最初だったんだよ、私と一緒に演奏したいって言ってくれたの。だから、何度も辞退したいと思ったけど、それでもここまでやって来れた。私には少なくとも一人は、どんな時でも一緒に演奏してくれる人がいるって知ってたから」

 

 私からすれば、当たり前の事を言っただけのつもりだった。それでも、そんな言葉でも真由先輩の支えになれたのなら、私からすればそれ以上に嬉しいことはない。確かにちゃんと届けることが出来ていたのだ。私の言葉は、想いは、彼女の心の中に。

 

「負けたくないね」

「はい。負けたくありません」

「全国大会、行きたいね」

「行きたいじゃないですよ」

 

 そこで私は初めて真由先輩の顔を見た。いつになく、張り詰めた表情だった。やっぱりちょっと無理してる。そう直感的に思う。もっと本当は色んな感情がぐちゃぐちゃになっているのだろう。それでも、こうして舞台に立ってくれている。彼女を取り巻く環境は決して良くない。けれどそれも今日までだろう。ここで全国に行ければ、彼女の評価には誰もケチを付けられなくなるのだから。その緊張を少しでも解せるように、私は言う。

 

「行くんです。必ず、全員で」

「そうだったね」

 

 真由先輩は小さく微笑んだ。笑えるなら、きっと大丈夫。その調整力と清良で鍛えた腕前を遺憾なく発揮して、勝利に貢献してくれる。そう信じられる笑顔だった。

 

 移動した後は十数分の時間がある。本番の舞台に立つまでに、この時間で最後の調整を行うのだ。ここは顧問の先生の独壇場になっている。兄さんも一応様子を見ているけれど、今年は後ろの方で問題が無いか確認する係を担っているようだった。

 

「すみません、もう一度冒頭部分をお願いします」

 

 先生が指揮棒を振り上げる。ギリギリまで時間を使うのは珍しかった。普段はもう少し時間に余裕を持っている。最終調整を最後まで拘るのは、緊張の表れでもあるのだろう。指揮棒に合わせて奏でられる出だしは完璧だ。冒頭こそ曲の全てを決める。そういう信念を基にして兄さんと先生の築き上げてきた北宇治の能力は、冒頭部分の完成度だった。各強豪校にはそれぞれの強みがある。音量と音質のバランスだったり、表現力の高さだったり、手数の多彩さだったり。その中で北宇治は、徹底的な基礎に裏付けされた再現力が強みになっている。そこには練習こそ悲観的にという兄さんの教えも、大分反映されていると思う。トライアンドエラーを繰り返しながら修正されていく音楽は、さながら緻密な機械細工のようでもあった。

 

「素晴らしいです」

 

 先生は演奏が終わると共に、そう言った。

 

「私は北宇治の音楽が、皆さんの演奏が素晴らしいモノであると信じています。もちろん、結果は気になるでしょうが、それよりもまず、自分達の納得のいく演奏にすることを考えましょう。コンクールはあくまでも本番の一つに過ぎません。背伸びをせず、いつも通りの演奏をしましょう」

「「「はい!」」」

「では、桜地君、お願いします」

「えぇ、私ですか? 今日は無いと思ってたんですけどね」

 

 困った顔をしながら、兄さんが前に立った。三年生の人が、それに少しだけ笑顔を見せる。三年生からしてみれば、先生である以前に慣れ親しんだ先輩なのだろう。だからこそ、そういう人が目の前にいてこうして応援してくれているというのは安心感があるはずだ。去年一昨年と一緒に歩んできた間柄だからこその関係性が、そこにはある。

 

「皆さん、今日まで色々な事があったと思います。その中には決して幸せな記憶とは言えないモノもあるでしょう。しかし私は、合宿の最終日に言いました。それを含めて、吹奏楽部での一年間の記憶にして、演奏するようにと。これまでの練習で、その要素は大いに出せていると思います。痛みや苦しみを乗り越えて、或いはまだその最中にありながらも、皆さんはここまでやって来た。それは誇ってよいと思います。しかし、苦しいだけの記憶ではいけないと、私は同時に話しました」

 

 兄さんはそこで少し言葉を区切る。そして全体を見渡して、話を続けた。

 

「皆さんは、何故吹奏楽部に来ましたか。何故、音楽を始めましたか。その理由は千差万別でしょうし、ハッキリとしたきっかけなどは無いのかもしれません。しかしどこかで、音楽が好きだったからこそ、ここへ来て、今こうして大会に臨んでいる。昔の、どこかで音楽に関わる道を歩き始めた過去の皆さんに、その道は間違いじゃないと、音楽を好きになって良かったんだよと、そう肯定できるような、そんな演奏をしてきてください。今の皆さんならば出来ると信じています。最後になりますが、いつもの如く本番は……」

「「「楽観的に!」」」

「よろしい。以上です。では、部長にバトンタッチしましょうか」

 

 その言葉に、部長は頷いて前に出る。

 

「私は、二年前の春に北宇治に入りました。今の一年生には想像も出来ないかもしれませんが、その頃の北宇治の演奏は、お世辞にも上手いとは言えない演奏でした。でもそこから滝先生が来て、桜地先輩が来て、そして北宇治は少しずつ変わっていきました。その中で、多くのことがありました。誰かの夢が壊れたことも、私たち自身が壊したこともありました。そうして、今私たちはここにいます」

 

 部長は前を見据えて、ゆるぎない言葉で話す。その瞳は誰を追いかけてきたのだろうか。前で揺るがず堂々と話す優子先輩、或いは迷いなく言葉を紡ぐ兄さん。もしくはそれ以外の誰か。全部なのかもしれない。色々な人の影響を受けて、部長は今こうして話している。彼女の良いところは、変われるところなのだろう。誰かの影響を受けて、変化することが出来る。だからこそ、それが良い影響であればあるほど、彼女は磨かれていく。

 

「二年前の名古屋で、私たちは金賞の壁の高さを思い知りました。去年の名古屋で、私たちはもう一度、それを思い知らされました。あの時の悔しさ、苦しさは今でも忘れていません。あんなに努力しても、ダメだった。そういう想いが無かったと言えば嘘になります。諦めたい心が、私の中にはありました。それでも私は諦めるという選択肢を取りませんでした。それは、私の心の中に、諦めたくないという火が灯っていたからです。きっと、多くの二三年生がそうなんだと思います。だからこそ、ここまでやってきました」 

 

 どれほどやっても報われないことはある。去年はまさに、そういう年だった。それでも部長はそこから部を引っ張って来た。もう一度、名古屋に立つために。彼女にとっては三度目の正直を、つかみ取るために。

 

「私は、北宇治が好きです。だからこそ、皆にもそう思ってもらえるような部活にするという理想を持っていました。そしてその上で、少しでもそこで頑張る自分を好きになれるような部活にしたいと思っています。その想いは、今も変わっていません。私は、この北宇治で頑張る事を知りました。悔しさを知りました。今を必死に生きる事を知りました。私はそんな北宇治で、全国に行きたい。他の上手い人達とではなく、この北宇治で! ワガママかもしれない、でもここにいるメンバーで、戸惑いも不安も吹き飛ばす、最高の演奏をして全国に行きたいんです! 一年間、皆を見ていて思いました。こんなに練習しているのに上手くならないはずない、こんなに真剣に向き合っているのに響かないはずない! 私たちに出来るのは今までやってきたことを信じて、前に進むことだけです。努力したって、何が変わるかなんて分かりません。でも、努力しなければ、何かが変わることはなかったはずです。未来は不透明で、少し先の未来ですら、私には分かりません。でも、数時間先の未来だけなら、私にも分かります。それは、全国大会への切符を持って、笑っている景色です。どうか、それを掴みとりに行きましょう。私一人では出来ないけれど、皆となら出来ると信じています。あなたの力を、私に貸してください!」

 

 部長は真っ直ぐに私たちに指を指した。その先にいるのは、私たち一人一人なのだろう。全員で団結することを求めつつ、一人一人に呼びかける。それは兄さんが使う事のある手法だった。その兄さんは、部長の事を優しい眼差しで見ている。高坂先輩と秋子先輩だけがクローズアップされがちだけれど、部長だって兄さんの教え子なのだ。それは、他の三年生たちも。

 

 そして、部長はその指を拳にかえて、構える。それだけで、私たちにはその意図が伝わった。

 

「それでは、ご唱和ください。北宇治ファイト―!」

「「「オー!」」」

 

 天に幾つもの拳が上がる。その声は今までで聞いた中で一番大きく、そして一番揃っていた。きっと勝てる。全国に行ける。そんな根拠のない予感が、私の中に渦巻く。そんな日科学的なモノ、普段は信じたりはしないのだけれど、今だけは信じられる気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 空間には緊張が満ちている。演奏は無事に終了し、問題なく結果発表の時を迎えていた。私の目の前には、壇上に並ぶ各校の代表者がいる。私たちはそれを固唾をのんで見守っていた。まず金賞は固いと思うけれど、全国大会に行けるのかどうかは、ここにいる誰にもわからない。それを知っているのは、結果発表を行う関係者だけ。

 

 演奏終了後、関西三強の演奏を聴いた。どれも素晴らしい演奏だったけれど、明静と同じくらい、或いはそれ以上に秀塔大附属が仕上げてきている。兄さんの楽曲を使いながらも、秀塔大仕様にアレンジされたそのメロディーは、彼らの持つサウンドの魅力を最大限に引き出し、第五楽章しか使わない大胆な編曲は会場のざわめきを生みつつも、その圧倒的な演奏力で全てを包み込んでいた。感嘆しつつも冷や汗を流したのは、きっと私だけではないだろう。

 

「十三番、京都府代表、北宇治高等学校。ゴールド金賞!」

 

 まずは問題なく突破した。ここが最初の関門であったけれど、問題なく金賞を獲れている。強豪と呼ばれている学校はどこも金賞を獲得していた。それはもちろん、兄さんの指導していた秀塔大附属高等学校も。もう北宇治もここでの金賞では動じない。見ている場所は、全国大会への切符を掴めるかどうか、それだけだった。

 

『続きまして、来る十月に行われます全国大会に出場する、三団体を発表します』

 

 午前午後に関係なく、金賞を獲得した全学校が緊張の面持ちで眼前を見据える。呼吸音はおろか、心臓の音すら聞こえてきそうな沈黙が満ちた空間。自分の鼓動の音がうるさかった。一昨年壇上でこの時間を過ごしていた時、私は自己嫌悪にさいなまれるだけだった。それでも去年からは期待と祈りを込めた感情で、ここにいられるようになった。神様なんて信じていない。けれど、都合のいい祈りかもしれないけれど、今だけは信じたい気分だった。

 

 あんなにも揉めて、あんなにもぐちゃぐちゃになって、それでも歩んできた。それでも、前を見て進んできた。あの痛みも苦しみも、正しさの証明にはならないし、勝利できる理由にもならない。そんなことは分かっている。分かっているけれど、苦しみへの対価が、痛みへの報酬があっても良いのではないかと思ってしまう。

 

『一校目。九番、京都府代表、龍聖学園高等部』

 

 月永源一郎先生によって率いられる龍聖の歓声が響き渡った。二年連続で全国大会に進出できたその要因に、新しく赴任した特別顧問の存在があるのは疑いようがない。吹奏楽部において、指導者の果たす役割を実感させられる。一方で立華はこれで全国行きを逃したことになる。元々彼らはマーチングに重点を置いているけれど、どういう心境なのかはうかがい知れなかった。

 

 それよりも問題なのは北宇治がどうなのか。私たちは十三番、東照が十五番、秀塔大が十八番、明静が二十一番。十五が呼ばれた瞬間に、私たちの夢は終わる。心臓が口から飛び出しそうなほどうるさく鼓動していた。

 

『二校目。十三番、京都府代表、北宇治高等学校』

 

 一瞬の静寂の後に爆音の歓声が響き渡った。私は胸をなでおろす。何とか繋がった。ここまで二年連続で繋いできたバトンを切らすことなく次に渡すことが出来る。比較的平穏だった去年とは違って、今年は色々な事があった。正直、あのまま揉めていたらきっと関西で終わっていただろう。

 これでもう一回オーディションが行える。それを希望に努力を続けてきた部員にとっては、何としても全国に行くしかなかった。それは秋子先輩もそうだし、私もそう。

 

 逆に真由先輩からしてみれば、ここで終わらなかったことで自分のせいと言われるのを避けることが出来た。もう真由先輩をとやかく言う人はいないだろう。結果が全てであるのならば、この結果を掴みとれたのは結果論だとしても真由先輩と高坂先輩のコンビであったのだから。涙を流している三年生、無邪気に喜ぶ一年生、次のオーディションに思いを向ける二年生。いずれも顔は明るく、笑顔を浮かべている部員が多い。部長もホッとしている事だろう。

 

 沙里先輩が号泣しながら突っ伏している。その背中をさすりながら、去年もこんなことがあったと既視感を感じた。こんなにも贅沢な既視感は早々ないだろうと思いながら、最後の学校の名前に耳を傾ける。大阪三強と呼ばれた三校のうち、二校が落ちることが確定している。生きた心地がしないであろう彼らの明暗を分ける言葉が放たれた。

 

『三校目。十八番、大阪府代表、秀塔大学附属高等学校』

 

 爆発するような涙声の大歓声が秀塔大の座っているスペースから鳴り響く。彼らを率いる三年生は二年前、ちょうどこの関西大会で全国行きを逃した。そこから二年間、どのような思いで過ごしてきたのだろうか。その悔しさの一端を、私は中学時代の経験から知っている。何かを変えないといけない。その焦燥の末に、秀塔大の部長は兄さんを招聘するという手に打って出た。それはきっと、彼らにとっても大きな賭けだったと思う。けれど、どうやら秀塔大の部長は賭けに強いらしい。見事に最後の一枠を奪い取った。

 

 東照のスペースからは嗚咽の声が聞こえる。明静のスペースに視線を向ければ、呆然とした顔で前を見つめている部員たちの姿があった。北宇治が躍進し、龍聖が後に続いた一昨年、去年。三強が相次いで蹴落とされる中、それでも全国大会に出続けていたのが明静だった。だからこその自負や自信があったのだろう。そして今それは完膚なきまでに打ち砕かれた。あの表情を、私たち南中組は知っている。それは、中学一年生の時に希美先輩たちが見せていた顔。こんなところで終わりなの? という現実を受け止めきれない顔だ。

 

「北宇治強すぎない?」

「いやでも今年は結構危なかったでしょ、ギリギリな感じあったよ、少なくとも去年よりは」

「それより秀塔でしょ、どうなってんの……?」

「見なよ明静。お通夜になってる」

「そりゃそうでしょ、まさか明静が関西止まりって、数年前ならあり得ない話だったし」

「秀塔大、桜地凛音引っ張って来たんだって。北宇治と言い、来年はあの人呼べたところが勝つんじゃない?」

「金賞請け負い人って感じかな?」

 

 あちらこちらで囁く他校の声がする。金賞で無かった学校からすれば、ここはそういううわさ話をする場所だった。色々な声がする。その中には共感できるモノも、そうでは無いモノもある。しかし、一つ共通していることがあるとすれば、この結果は多くの学校に驚愕を持って受け入れられていた。それは勝者であろうとも、またそうでなくとも変わらない。明静の結末、北宇治と龍聖の進撃、秀塔大附属の逆襲。それらは数年前ならあり得ない景色だった。

 

 返り咲いた全国の舞台に、秀塔大の部長が壇上で泣き崩れそうになっている。その近くで明静の部長が微かに震えていた。同じスポットライトの下で、勝者と敗者が残酷にも照らし出される。そこから目を逸らすことは、許されないのだろう。ここで夢を終えた人たちの分まで、私たちに負けたことを納得できる演奏を全国でしないといけないのだから。そして、まだ最後のオーディションが残っている。私と沙里先輩の、秋子先輩と高坂先輩の、そして部長と真由先輩の最後の勝負。その舞台が、すぐそこにまで迫っていた。

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